慈悲無き雪にまみれて(前編)

撫で付けるように凍土を擦った低い風が、凍り付いていない雪を巻き上げる。

その地吹雪を切り裂いて疾走する細身の狐は、目の前で火を噴いた銃口にも怯む事無く、左斜め下から片刃の直剣を振り上

げた。

弾丸が頬のすぐ脇を駆け抜けるほど最小限に止めた動きにより、回避と攻撃を同時におこなった狐の前で、脇腹から首筋ま

で斜めに斬り上げられた兵士が天を仰ぐようにして大の字に倒れ伏す。

「かまわず進め!まともにやり合うな!」

デカルドの怒号が響き渡るが、モービルを駆り、単身で側面からしかけられた狐の強襲によって雪上車を一台横転させられ

た部隊は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。

何人かはデカルドの指示に従って先に逃げ去ったが、雪上車に押し込められていた者達は足を失っており、不慣れなはずの

雪中戦闘でも猛威を奮う狐から逃れる事ができない。

おまけに、直属の部下達ではない第一小隊の面々は、デカルドの指示に従わずに仲間を救うべく戦闘を試み、結果ヘイムダ

ルの剣に大量の血を吸わせていた。

壊乱状態となった部隊は脆く、的確に頭数を減らしてゆくヘイムダルの前に、もはや抗う術も無い。

先ほどからスコルがヘイムダルの気を逸らそうと散発的な攻撃を仕掛けてはいるが、彼とて殺されないように立ち回るのが

精一杯で、狐に傷を負わせるどころか、満足に足止めすらできない状態である。

リミッターカットが可能なエインフェリアですらそんな有様なのだから、生身のデカルドが介入するのは難しい。

ヘイムダルにとっては機動力を十分に発揮できる屋外戦闘だが、竜人にとっては仲間の真っ直中に敵が居るという、うかつ

に手出しすらできない、歓迎しかねる状況である。

部下を指揮して火力による集団戦闘を得意とするデカルドは、単騎にかき回される乱戦に対しては、そのポテンシャルを十

分に発揮できなかった。

「スコル!深追いするな!逃げられる者は自身の生存を最優先に撤退せよ!こちらからの戦闘は禁ずる!狐にかまうな!」

竜人は喉も裂けよと声を張り上げる。ヘイムダルが乗ってきた最新式モービルは、彼が降りた所を見計らい、デカルドがス

ティンガーで爆破した。

ここで乗り手を失ったモービルを奪われたとしても、性能はこちらと同じ物。この場で振り切れば逃げおおせる事も十分に

可能である。

一方ヘイムダルは、戦闘を楽しむ事より一人でも多く仕留める事を優先しながら、若干不満であった。

ベースで相手を一度取り逃がしている。ヘルは責めなかったが、それでももう失敗したくはないので、個人的な感情を満た

すのは後回しにし、任務達成を最優先に剣を振るっている。

グレイブの兵士達はそれなりに鍛えられているものの、狐にとってはまるで歯応えがない相手であった。

気が乗らないままに楽な相手から屠ってゆくヘイムダルは、やがて雪上に立ちつくしている少年に目を向ける。

モービルを止めてヘイムダルに挑んだ兵士にここまで乗せられてきたミオは、仲間が次々と殺されてゆく惨劇を目の当たり

にして、恐怖により完全に固まっていた。

(…確か、アイツも優先すべき抹殺対象だったよな?餌にされてたヤツ。…運がねーな、お前よぉ…)

胸の内で呟きながら、ヘイムダルは雪を巻き上げて疾走を開始した。

「あ…、あ…!」

ガタガタと震えながら動けずにいるミオに、スコルの声が飛ぶ。

「馬鹿!ぼーっとしてんじゃねえよ!」

雪を蹴ったスコルは、しかし確信する。自分のスピードでは助けに入るのは間に合わないと。

アレが死んでも困らない。だがハティは彼の事を気にかけている。複雑な思いがせめぎ合うが、スコルの足は間に合わない

と悟りながらも、結局は止まらない。

鋭い眼光に射竦められて動けないアメリカンショートヘアを見据え、凍土を駆ける狐は、

(…ヘイムダル…)

出し抜けに頭の中に声ともイメージともつかない物が侵入し、雪を巻き上げて唐突に急停止した。

それは、彼の主からのメッセージであった。

(追撃は中断よ。今から言う座標に向かって、グリモアを回収してちょうだい)

「んなっ!?」

ヘイムダルが素っ頓狂な声を上げ、硬直していたミオがびくりと身を震わせる。

狐の様子がおかしい事に気付いたスコルも、それが何らかのフェイントかと疑い、一瞬迷ったが、

「スコル!」

デカルドの声を受け、そのままミオ目指して直進した。

(どういうこったい!?グリモアを回収しろって…、まさか!?)

(ええ、ちょっとヘマをしちゃったわぁ。じゃあ、そういう事だから回収と保管をよろしく)

ヘルと念話で交信しているヘイムダルは、棒立ちのミオをスコルがかっさらってゆく様子を眺めながら、血塗れの剣を一払

いした。

「…残念、ここまでか…」

呟いた狐からは、それまでに繰り広げた殺戮が嘘だったかのように殺気が消えていた。

ミオをさらって雪の上に放り投げ、背後に庇うようにして身構えたスコルと、味方と離れたその隙を狙って凍結チェックを

行いながらグレネードを構えたデカルドは、しかしヘイムダルの態度の急変を受けて困惑した。

もはや彼らから興味を失ったように、狐は雪を踏みしめ、最も近くにあるモービルへ真っ直ぐに向かっている。

モービルに飛び乗ったヘイムダルが一瞥もせずにマシンをスタートさせると、デカルドとスコルは視線を交わす。

スライドリードを発動させているスコルの目には、ヘイムダルの頭部周辺に生じた微弱な思念波の揺らぎが視えていたが、

しかしそれがヘルとの念話の影響だという事までは判らない。

想定外の突然の撤退に、二人とも強い戸惑いを覚えていた。

が、相手の真意は判らずとも、今の状況では選択肢は決まっている。

「ゆくぞ!動ける者は負傷者を乗せろ!急いで先行した皆に追いつく!」

デカルドの号令を受け、半数以上を失った部隊は、逃走劇を再開した。



軍服に身を包んだ女性は、潜水艦内の通路をこつこつと踏み鳴らして進む。

ソバージュをかけた灰色の髪をふわふわと揺らすその後ろには、高級将校の軍服を纏った初老の男…、潜水艦の艦長が付き

従っていた。

「なるべく急いでくれるかしら?失敗はないと思うけれど、監督者不在は不味いのよねぇ」

「最善を尽くします。が、ここからの所要日数を考えると…」

「判っているわよぉ。着く頃には、趨勢は決しているでしょうねぇ」

ヘルはそう応じながら、僅かに目を細くした。

「…ハティ・ガルム…。あれほどとは思わなかったわねぇ…。第三世代とはいっても、まだ調整中のヘイムダルでは歯が立た

ないかもしれないわぁ…。惜しいわねぇ、あれで記憶にさえ問題が無ければ、ラグナロクの貴重な戦力になるのに…」

灰髪の魔女はそう呟くと、気を取り直すようにかぶりを振った。

「もっとも、ウルとベヒーモスも居る事だし、何とでもなるでしょうけどねぇ」



ヘイムダルの突然の撤退から一時間半ほど後、予めハティから伝えられていたランデブーポイントの一つに留まっていたグ

レイブの残党達は、そこでエンリケ率いるベース駐屯部隊の生き残りと合流した。

「大尉は?」

合流するなり発せられたデカルドの問いに、エンリケは首を横に振る。

「ヘルを足止めすると言い残して、お一人で止まりました…。以後、呼びかけに応答がありません…」

デカルドの表情が曇る。

いかにハティとはいえ、中枢の一角とサシでやりあえるものか、彼の実力を知る竜人でも楽観的な考えは持てない。

むしろ、既に殺されてしまっている可能性の方が高いとすら思えてしまう。

だが、デカルドやスコル達の暗鬱な気分は、程なく払拭された。

三十分後、単機でランデブーポイントに接近して来るスノーモービルを確認するなり彼らが抱いた緊張は、程無く期待に変

わり、大歓声が上がる。

「大尉ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」

スマートなデザインのモービルには不釣り合いな程に大きく太い搭乗者の巨体を確認するなり、真っ先に声を上げて飛び出

したのはアメリカンショートヘアの少年であった。

速度を緩めるモービルに駆け寄ると、程なく止まったマシンから降りたグレートピレニーズへ、ミオは駆け込んだ勢いその

ままに飛びついた。

腰にタックルを仕掛けるような、体全部を預ける出迎えをよろめきもせずに受け止めると、ハティは少年の頭に左手を置く。

「無事で何よりだ。ミオ」

「大尉こそっ…!大尉こそよくご無事でっ!良かった!本当に良かった大尉っ!」

ようやく追いついたハティは、しかし酷い有様であった。

ただでさえハティ用に機動性を重視し、出来る限り保温繊維が薄くされた衣類は、あちこちがずたずたで、所により焼け焦

げ、防寒着の役目を果たせなくなっている。

ヘルとの戦闘で断ち割られて応急処置を施した右肩は、出血で赤く染まったまま上に薄氷を纏っていた。

それでもハティは、その巨体に充満する疲労と気だるさを微塵も見せない。

指揮官たる者、何時如何なる時も兵の模範として振る舞うべし。兵をいたずらに不安がらせるような態度や言動は極力慎み、

たとえ虚勢であっても背筋を伸ばす事…。

かつてゲルヒルデから学んだ士官の心得が、その巨体を雪山のように静かに、堂々と立たせていた。

やがてハティは涙目になってしがみついているミオから視線を離すと、居並ぶ兵士達の顔を見回した。

一列に並び、背筋を伸ばして敬礼する兵士達。

その数々の瞳には、英雄を前にしているような、厳かな畏怖と敬意が満ちていた。

ハティが彼らに向き直って敬礼すると、我に返ってやっと離れたミオも、白い巨犬の顔を見上げて敬礼のポーズを取る。

「済まない諸君。遅くなった」

ハティのその言葉で、ベース脱出直後の半分にまで減ってしまった兵士達は、やっと表情を緩める事ができた。

これからどうするのか、どうなるのか、誰にも判りはしなかったが、それでも一行はスタートラインに立った。

これから始まる逃走の為の集合を、今ようやく遂げたのである。



「痛くないんですか?」

「痛い。が、問題ない」

心配そうに顔を覗き込んで尋ねるミオに応じ、ハティは右肩に目を遣った。

辛くも激戦を生き抜いた白い巨犬は、雪上車の中で傷の手当てを受けている。

上半身裸になり、右肩の深い傷を外気にさらした白犬の横で傷の縫合をおこなっているのはスコルであった。

何処にも手が足りない。衛生兵も倒れた今、専門でなくともそこそこの知識と技術を持つ者が代役で当たるしかない状況な

のである。

ハティ自身も傷の単純縫合程度はできるのだが、いかんせん自分の肩を片手で縫うのは難しい。

麻酔はかけていない。痛覚が麻痺している間に気付かぬまま凍傷になっても困るし、何より追撃が来る可能性が極めて高い

今、感覚が鈍るのは歓迎できないとのハティの要望から、傷の縫合は麻酔抜きで進められている。

己の肉体を破れた衣類のように縫い合わされる感覚は当然きついが、ハティはその鉄の精神力をもって顔色一つ変えない。

一方で、治療に集中したいスコルには、その傍でうろうろしながら様子を窺っているミオが目障りで仕方がなかった。

ハティの傷の縫合を行う間だけ、彼らは移動を止めている。

専門ではないスコルは、揺れ動く雪上車の中で傷を縫合する自信など当然無い。指揮官にして最大戦力でもあるハティに可

能な限りの治療を施すためにも必要な小休止ではあったが、いつ追っ手が来るか判らないこの状況は、スコルの神経をチクチ

クと刺激していた。

そこへ、ぺちゃくちゃと一人で喋っているミオの声が追い打ちをかけている。

「見逃してくれませんかね?ぼくらの事…」

ハティの前を落ち着きなく行ったり来たりしながら、ミオは嘆息する。

「ベースも追い出されて…、寒い中、仲間から逃げて…、大尉、ぼくらこれからどうなっちゃうんですか?」

「なるようになる。…と言いたいところだが、運任せでは先は見えている。難関と難問が山積しているが、成せる所までは最

善を尽くすしかない」

麻酔抜きで傷を縫合されている痛みをおくびにも出さず、ハティは淡々と応じる。

ミオにしてみれば不安と恐怖続きの脱出劇を乗り越え、ようやく信頼できる上官と再会できたので、溜め込んでいた心細さ

を打ち明けるように口を動かしているのだが、スコルにはそれが腹立たしい。

不安なのは皆一緒で、先行きが判らないのはハティとて同様なのである。そんな中、ミオが発したある呟きがだめ押しとな

り、ついにスコルの中で堤防が決壊した。

「何でぼくら、こんな目に遭わなくちゃいけないんでしょう…」

丁度傷の縫合を終え、三角巾を白犬の首に回していたスコルは、ハティに声をかけようとした口を閉ざし、キッとミオを睨

んだ。

「…誰のせいだよ…」

低い、凄みのあるその声に、俯いてうろうろしていたミオが顔を上げる。

「…え…?」

「何でこんな目に…だと…?誰のせいだよ、ええっ!?」

見返したスコルの瞳が憤怒と憎悪で爛々と輝いている事に気付き、気が弱いミオはたじろいだ。

「お前が…!お前があのチップを持ち込まなけりゃ、こんな事にはならなかったんだよ!」

「よせスコル」

ハティの制止も、しかしポメラニアンの声を止められなかった。

「お前さえ来なけりゃ、俺たちは今頃まだあったかいベースの中で寝てられたんだ!仲間に追われて逃げる事だってなかった!

仲間同士で殺し合う事だってなかった!隊長だって…死なずに済んだ!」

叩き付けるようなその怒声で、ミオの細い体が震える。

恐怖から涙を一杯にためたその目を睨み、スコルは感情の発露を抑えきれずに怒鳴った。

「お前のせいだろ…。お前が全部の元凶だろ!?ただの役立たずならいざしらず…、とんだ疫病神だぜっ!」

ビクリと大きく身を震わせたミオは、反論もできず、しかしふるふると首を横に振る。

違う、と言いたい。だがミオは声が出せなくなっていた。

知らなかった。粛清に来たという偉い幹部の話は勿論聞いていたが、彼女が口にしたデータという物が、自分が知らずに持

ち込んだチップに入っていたという事までは考えが回らなかった。

ハティは言う暇も無かったし、機会があったとしても言うつもりもなかった事である。だが激情に任せたスコルの言葉で、

少年は不意打ちに近い形で真実を知ってしまった。

自分がベースに破滅を持ち込んだのだという、真実を…。

「う…、うううっ…!」

目に涙を溜めたまま、少年は喉の奥から呻くような声を漏らし、身を翻した。

「ミオ」

呼び止めるハティの声にも答えず、少年は雪上車の後部ハッチを開けて飛び出して行く。

すぐさま腰を上げたハティは、右腕を包帯で吊ったままでも不自由さを感じさせず、ぼろぼろの防寒着をさっと、肩にかけ

る格好で裸体に羽織る。

その横で、スコルは両拳をきつく握り、苦虫をかみつぶしたような顔をしながら俯いていた。

彼にも判っていた。ミオを責めたところで何の解決にもならない事など、判りきっていた。

知らずに運び屋にされていた彼自身も、皆と何ら変わらない犠牲者なのだから。

しかしハティは、そんなスコルを責めるでもなかった。

無言のままポメラニアンの肩をポンと軽く叩き、そのまま外へ、ミオを追って出て行く。

一体どんな精神構造をしていれば、この状況でこれだけ泰然と構えていられるのだろう?

スコルは小揺るぎもしないハティの態度に己を重ね、自己嫌悪する。

腹立たしかった。自分達を取り巻く理不尽な状況が。それに翻弄されている自分自身が。そして、ミオに八つ当たりしてし

まった事が。

それなりに腕には自信があったにもかかわらず、今はただ逃げる事しかできない。

無力さという点では、今の状況では自分達もミオも五十歩百歩。その中で例外と言えるのはハティただ一人である。

自分もまたこの粛正劇の元凶の一部である事をうすうす察しながら、ミオに当たってしまった…。激情が収まると、その事

が腹の奥まで重苦しくさせた。

「…くそっ…!」

何に対して、あるいは誰に対して吐いたのかスコル自身にも判らない悪態は、雪上車の壁に反響しながら消えた。



夜明けが近付き、明るさを増して行く白の中で、ミオはすすり泣いていた。

フードを被って顔を覆い、モービルの横に座り込んで。

役立たずなだけでなく、疫病神。

スコルに投げつけられた言葉で自覚し、ミオは自分を詰った。

横殴りの風雪はいくらか落ち着いたものの、それでも身を切るような寒さである。被ったフードの下で鼻は冷え、涙と鼻水

は被毛を固めて凍り付く。

肩を震わせているミオは、程なく横合いで鳴った、雪を踏み固めるぎゅむっという音に反応して耳を動かした。

「座り込んでいると、体を冷やすぞ」

今では耳慣れた、低く落ち着いた声。

誰に声をかけられるよりも嬉しく、安心できるはずのその声を耳にしても、今のミオは心を軽くする事はできなかった。

膝を抱えて小さくなっているミオのすぐ横で、氷点下の凍える空気の中、肩にジャケットを引っかけただけという非常識な

格好のハティは足を止めた。

「スコルが言った事は、半分は事実だが、半分は異なる」

白い巨犬は白い息と共に、一層低めた声を吐いた。

「きっかけ…粛正についての表向きの口実は、確かに君が知らずに持ち込んだあのデータにあるだろうが、そもそもの原因は

私が素体の記憶を持っている事に由来する。…それと、どうやらゲルヒルデ隊長も、ヘルからすれば邪魔な相手だったらしい」

淡々と語りながら、ハティは斜めに降る雪を透かし、北原の景色を眺めていた。

しかしその瞳は景色を映しながら、実際にはどこも見ていない。

今は亡き上官の事に、そして仕留めたはずの魔女の事に思いを馳せ、回想の景色を眼前に展開させている。

「たまたま左遷のタイミングが合った君が運び屋に選ばれただけだ。もし君が利用されなくとも、いずれ別の口実が用意され、

この状況は引き起こされただろう。スコルにも、本当は君を責めるべきではないと判っているはずだ」

無言のまま耳を傾けていたミオは、大きくすすり上げ、震える声を発した。

「ぼくは…、何処に行っても要らない存在なんです…。やっぱり、ここでもそうなんだ…。役立たずどころか疫病神で…!皆

の足ばかり引っ張って…!生きている意味が…、生まれた意味が無い…!誰からも不要な…」

「そんな事は無い」

ミオの自虐的な言葉を、ハティは静かに遮る。

「少なくとも、私にとっては不要な存在ではない。君は…」

静かに身を屈め、ハティはミオの隣に腰を下ろした。そして言葉を選ぶようにゆっくりとした口調で続ける。

「私に生きる理由をくれた。目的をくれた」

剛力を誇る大きく強靱な左手が、これ以上ないというほどの優しさで、少年の華奢な肩に軽く乗せられた。

「不要だなどと言ってくれるな、ミオ。私まで哀しくなる」

ミオはフードの下でしゃっくりし、弱々しく頷く。

気は晴れなかった。だが、これ以上泣き言を口にするのは止めようと思った。

まだ自分を責め足りなかったが、ハティを困らせたくはなかったから。

ゆるやかになりつつある風に吹かれ、モービルの脇で寄り添う二人を、離れた位置に立ったポメラニアンが眺めていた。

「ちっ…!」

声をかけそびれたスコルは、小さく舌打ちしつつそっと踵を返し、雪上車の方へ戻って行った。



十数分後、一台の大型雪上車と十七機のモービルから成る逃亡部隊は、それなりに天候に恵まれ、小雪になった北原をひた

すら西進していた。

ハティが考えた逃走経路は、他組織や国家直属の機関が発掘競争を繰り広げているエリアを突っ切るという物であった。

当然接触すれば面白くない事になる。他組織ならばともかく、装備が充実したハンターの大規模集団や、リッターのような

国家直属の軍勢とでも出くわしてしまったなら、まともにぶつかれば全滅は免れない。

例外であるデカルドやエンリケ以下数名はともかく、合成生物の類であるコピー兵士達には国籍どころか人権もない。

公式な存在ではない彼らの戦場での扱いは、軍用犬以下である。

例え捕らえられても捕虜扱いすらされず、辛酸極まる拷問の末に必要な情報を引き出された後は、ほぼ間違いなく殺処分さ

れてしまう。

その点についてはハティやスコルも同様で、エインフェリアの存在を知る国家から見ればこちらは兵器扱い。どちらにせよ

人道的な扱いをされる事はまず無い。

接触し、逃げ損ねれば全滅。それほどまでに危険な選択をしたハティだったが、たったの一人も異議を唱えはしなかった。

なぜなら、そんな危険なエリアならば、追っ手も派手には動けない事は明白だからである。

接触を嫌って萎縮し、追撃の手が弛むか、足取りが重くなる程度の事が期待できる。

何よりも強大な敵が後ろから迫っているこの状況では、眼前の脅威はまだ優しい。

危険なエリアではあるが、今の状況から言えば、入ってしまえば一安心とすら言えた。

「虎穴に入らずんば虎児を得ず。…とは少し違うな、毒を食らわば皿までと言った方が近いか」

「ラグナロクの追撃と比べれば、大概の勢力と鉢合わせする状況でもまだマシだと言える」

スプーンでつつき崩したコンビーフを挟んだ堅焼きパンを頬張りながら竜人が呟き、ハティが頷く。

走行中の雪上車内で、ハティを含む第一小隊数名と、デカルド以下の第二小隊数名は、食事の最中であった。

スコル曰くVIP車であるところの士官専用車両は奪取できなかったため、一般兵士用雪上車の、バスの中を思わせる座席

が大量に並んだ控え兼休憩室での事である。それなりに広々としたその四人がけボックスの一つは、現在三名が占拠していた。

負傷者の手当てのために一時休みはしたものの、止まって休息する時間は惜しい。ここからは食事も休憩も移動しながら、

交代で行うようになる。

そんな休憩中の兵士達の中で、ハティは口を休める暇もなく、せわしなく動かし続けていた。

デカルドと打ち合わせ、行動の再確認をしている事だけがその理由ではない。他者の数倍にも上る量の食事を胃袋に詰め込

んでいるせいである。

ラグナロク内でも傑作といえる完成度を備えた被造物…ハティの体は、傷の修復速度が異様に早い。

縫合された傷は早くも細胞が手を繋ぎ始め、薄皮が張って出血は止まっている。しかし、その高速修復に伴うカロリーの消

費は甚大である。

ベースからここまでの力の連続使用に伴う消耗もあり、さしものハティもエネルギーが枯渇しかけ、体脂肪を強引に燃焼さ

せてここまで賄ってきた。

なによりも、思念波を振り絞り、オーバードライブまで駆使せざるを得なかったヘルとの戦闘による消耗は大きい。

本来ならば数日間飲まず食わずで活動できるだけの備蓄エネルギーはほぼ尽きており、オーバードライブの負荷で断裂した

各所の筋肉の修復に体力の補充、さらには酷使した脳への栄養供給と、多岐に渡る不足分を大量の食事で一気に賄わなければ

ならなかった。

一気呵成に食事を片付けてゆくハティの傍らには、対照的にもそもそのろのろとパンを租借するミオの姿。

かなり酷い具合の落ち込みはまだ尾を引いており、環境による緊張もあって、食事がなかなか喉を通って行かない。

様子を気にしたハティが水筒を勧めたりもするが、ミオは黙って首を横に振るばかりで、返事もしなかった。

デカルドは僅かに首を傾げる。

元々引っ込み思案で他の兵にも馴染んでいないアメリカンショートヘアだが、この「おとなしさ」は、竜人も感じていた常

のそれとは違うように思えて。

デカルドとハティの視線が注がれる中、俯いたままコンビーフを手に取ったミオは、おぼつかない手つきで鍵型の開封器具

をはめて、キリキリと回して封を巻き取ってゆく。

だがその最中、パチンと音を立て、巻き取っていた金属帯が突如切れてしまった。

「…あ…」

三分の一も開いていない状態で失敗してしまったミオは、途方に暮れて缶詰と開封器具を交互に見る。

「ミオ」

見かねたハティが手を差し出し、貸してみろと言いかけたその時、少し離れた席から「はぁ〜…」と、いささか大仰な、そ

してわざとらしいため息が聞こえて来た。

ハティとミオの顔が揃ってそちらを向けば、面倒くさそうに席を立つスコルの姿。

「…ったく…。コンビーフ一つまともに開けられねえのかよ?お前は…」

「あ、ご、ごめ………なさ…い…」

先ほど怒声を浴びせられた事もあり、萎縮して項垂れるミオ。

そんな少年の傍へつかつかと歩み寄った黒いポメラニアンは、ポケットから何かを掴み出し、ずいっとミオに突き出す。

スコルが手にしたそれは、十徳ナイフにも似た多目的ツールであった。

各種ドライバー、ペーパーナイフにコルク抜きまで備えており、当然のように缶切りもついている。

戸惑いの表情を浮かべてツールと自分の顔を交互に見るミオの手に、スコルは舌打ちしながらそれを押しつけた。

「ほら、使えよ」

「あ、…ありがとう…ございます…」

両手でツールを持ち、おずおずとお辞儀したミオに、スコルはくるりと背中を向ける。

「くれてやる。…取り柄が無いんだったら無いなりに、誤魔化しでも間に合わせでも「手持ち」を増やせよな」

不機嫌そうにそう言い残して足早に戻ってゆくスコル。

その背を眺めているミオに、ハティが囁いた。

「彼なりの仲直り要求といった所だ。…言い過ぎたと思ったのだろう。許してやりなさい」

ミオは手の中のツールを暖めるように両手で包み、もじもじと体を揺らす。

「許すも何も…、えっと…、ぼ、ぼくが悪かったんですし…。スコルさんは、正しいと思いますし…。…仲直りって…、ぼく

の事、許して…くれたんですかね?スコルさんは…」

ハティが頷くと、黙っていたデカルドが「ふむ…」と納得顔で頷いた。

「自分の知らぬところで何やら諍いがあったようだが…、もう気にしない事だ。あいつはあいつで雰囲気の緩和を望んでいる

のは明らかだ。あの離れた席からこちらを窺っていたのだろう。声をかけるタイミングをはかりながらな。スコルはあの通り、

少々ひねくれているからな、なかなか素直には口を動かさない。…まぁ、そこが可愛い所なのだが…」

最後の一言を聞き咎めたハティとミオが同時に視線を向けると、竜人は緑の顔にやや朱味を浮かべて咳払いする。

「まあとにかく、もう気にしないでいい」

ミオは「は、はい…」と小さく頷いて、手の中のツールを見つめた。

そして感触を確かめるようにして一度きゅっと握ると、さっそく缶切りを引き起こし、缶に当てる。

キコキコと慎重な手つきで缶を開けてゆくミオを横目に、ハティは僅かに口元を緩めた。

(もはや我々は一蓮托生、運命共同体なのだ。仲間内での不和は無いに限るし、何よりミオにはもう少し皆と打ち解けて欲し

い。大変なのはこれからなのだから…)



「さっ…むぅ〜い!」

ミオがモービルの後部で声を上げ、ハティは「そうだろうな」と、普段通りに素っ気なく頷く。

暖かい雪上車内での休息を終え、モービル組と交代で外に出たハティ達は、夜明けの寒気を切って雪原を駆けている。

右腕が本調子ではないとはいえ、前々から興味があった新型モービルに跨ったハティは、外からは相変わらず覗えないもの

の、実は密かに少し機嫌が良い。巧みに足場を選び、現地慣れしたドライビングテクニックを披露している。

一方、白犬の太過ぎる腰に手が回らないため、ベルトを掴んでその広い背中に密着しているミオは、正面からの風はハティ

の巨体で遮られているものの、回り込む寒風と染み入るような寒さで大弱りであった。

次の交代は三時間後。雪上車に乗れる人数は限られているため、半数近い兵士はモービルに二人乗りしなければならない。

その強行軍による兵の体力消費も心配ではあったが、ハティにはもう一つ懸念材料があった。

彼が先んじて用意していた物資は、その約半分がヘイムダルの妨害によって搬出に失敗している上に、途中での再襲撃によっ

てさらに減らされてしまった。

生き延びた兵が予定より大幅に少ないとはいえ、それでも全員の消耗を十分に賄うには足りない。北原を抜ける前に物資が

底をつくのは目に見えていた。

(個人的に略奪という手は避けたいが、背に腹は代えられない。いざとなればやむを得ないか…。何処かに遺棄されたベース

でもあれば良いのだが、多数の勢力がひしめく真っ直中で、この人数を数日支えられるだけの物資が放置されているとも思え

ない。期待はできないな。いざとなれば私が絶食して、三人分程度の食料を確保するか…)

乏しい物資事情についてはデカルドやエンリケなど、一部の将校にしか話しておらず、他の兵も数名しか知らない。

いたずらに不安を与えないよう配慮しての措置だが、それとていつまでも隠しておけるような事ではない。

あれこれと考えを巡らせるハティだが、この状況ではその全てが確率論に行き着く。

追っ手、障害との接触、そして物資の入手可能なポイントを見つけられるか否か…、どれを取っても楽天的に考えられる事

は一つもなかった。

そんな時、思慮にふけるハティの後ろでミオが声を上げ、ぺしぺしと背中を叩く。

「…あれ?大尉、後ろに何か見えます!」

最後尾を走るモービルの後部、つまり列で最も後ろに居るミオの言葉を受け、ハティは首を巡らせた。

「…何だミオ?私には見えないが、何処だ?」

「え?あれ?…おかしいな…、きらっと光ったみたいに見えたんですけど…」

ハティの言う通り、何かが見えたと思ったミオの目にも、今は変わった物が何も見えていない。

「気のせいかもです…。済みませんでした、大尉」

ミオが謝るが、しかしハティは真後ろを向いたままじっと遙か後方を窺っている。

音は聞こえない。だが、ミオの言葉を目の迷いとして簡単に片付ける気にはなれなかった。

他の誰かであったなら「気のせい」で済ませたはずのそれにハティが固執したのは、ひとえに経験則からである。

ミオはハティの指揮下で加わったこれまでの探索任務において、目標物を見落とした事が一度も無い。

臆病さが良い方向に働いて鋭敏になっている少年の注意力は、ハティも認める所であった。

(今回は何を見つけたのか…)

その能力により進行方向の地形を確認し、真後ろを向いたまま運転しつつ、注意深く目を凝らすハティは、

「…しまった…」

ぼそりと、風にかき消されそうなほど小さく呟いた。

「音が全く無いので、追跡部隊との距離はまだあると思っていたが…」

すぅっと細められたハティの目は、まだ米粒以下の大きさの、追跡部隊の機影を捉えていた。

ベースの格納庫に残った物までかき集めて改修したのか、その数は四十にものぼる。

それらが先行部隊で、後方には主力を乗せた雪上車が控えているだろう事は容易に察せられた。

ハティが他の何よりも鋭く捉えられる音を重視し、聴覚に頼っていたのは、その能力と性能を鑑みれば妥当と言えたが、し

かし追っ手は全く音を出さずに距離を詰めている。

その理解不能な現象を目の当たりにし、ハティは低く唸った。

理解はすんなりできた。何故ならば、自分と同じ能力を持つ者が追跡部隊の中に居るはずなのだから。

(…ウルか…。まさかあれだけのモービルの音を完全に中和させながら追跡して来るとは…)

音とは振動である。重ね合わせて衝撃波を作り出せるほど振動波発信に長けたハティだが、相手が使用したのはその上を行

く超高等技術であった。

飛び交う無数の音を同じ波長の波で相殺し、自分の周囲…それも広範囲に渡って無音状態を作り上げ、音を出さない行軍を

可能としている。

発想としては解る。ハティもまた音への干渉により、障害物さえなければ対象者との遠話を可能としているのだから。

だが、己の声を増幅する事と今回見せつけられた現象とでは、ベクトルも規模も大幅に違う。

どれほどの研鑽を積めばこれほどの妙技が可能となるのか?ハティは自分が胴震いした事に気付き、己の緊張の強まりを自

覚した。

知っている能力だからこそ、近しい存在だからこそ、相手のでたらめ具合が良く解った。

(常に前線に身を置き、身も技も磨いてきたつもりだったが…。ウルはこの数年でさらに力を付けたようだ。…果たして、今

でも彼と私は互角と言えるだろうか…)