慈悲無き雪にまみれて(中編)
『対象視認!繰り返す、対象視認!』
イヤホン越しに耳元に響く声を聞きながら、黒髪の少年は目を細める。
しかし、彼の目にはまだ粛正対象である逃亡中の部隊は見えていない。
白い地平線から朝日が顔を出す夜明けを駆ける彼は、まだ追撃の本部隊と離れており、単機であった。
通信を聞きつつモービルを駆り、少年は考える。
自分が認める強者、ウルと同質の力を宿す白い巨犬の事を。
刃を交えて実感できたが、戦闘技術、基礎身体能力、そして実戦経験、全てにおいて自分を遙かに上回る相手であった。
戦士として一歩も二歩も先をゆくあの男と再戦した場合、自分はどのように戦えば良いか?少年は頭の中で何度もシミュレー
トしつつ、雪原を突き進む。
勝てるビジョンは今の所見えて来ない。だが、それでも相見えたならば剣を抜き、再び挑む。
勝てる勝てないは問題ではない。ただ「やる」だけである。
自分の命についてすら、戦況を構成する一つの要因としか考えていない少年は、怖れとは無縁であった。そういった意味に
おいては、彼もまたドレッドノートと呼べる。
『ベヒーモス』
飛び交う通信を顔色一つ変えずに聞きつつ、じっと考え込んでいた少年は、その中に混じるように放り込まれた直通の音声
には返事をした。
「何だ?ウル」
『こちらは間もなく連中と交戦するだろう。その前に一つだけ伝えておく』
少年はハンドルをさばいて目前の段差を回避しつつ、黙して相手の言葉を待つ。
『ベース内では様子を見るためにあえて手出ししなかったが、結論から言うと、今の君がハティを倒すのは難しい。彼は私が
引き受ける。君は他の兵士の掃討を優先すべきだ』
「了解した」
応じる少年は、力不足を指摘された事に対し、悔しさはおろか恥も感じてはいない。
彼もまた、ハティやウルなど同様に感情が乏しいのである。
そこそこ交流があるウルですら知らなかったが、少年は初期型ガルムに非常に近い精神形態を有して生み出されていた。
状況を判断する際に不要なバイアスをもたらすファクターとして、感情を極力廃されている。
ただし彼は、再生戦士でもなければコピー兵士でもない。全く別種の技術で作成された人造人間…、試作型レリックヒュー
マンである。
開発コードである「ベヒーモス・ワン」をそのままコードネームに転用された彼は、しかしこの作戦が終了した後も知る事
はなかった。
この掃討戦の「理由付け」に利用されたデータが、自分達を生み出す際に用いられた設計図の一部分であったという事まで
は…。
「わわっ!?」
悲鳴を上げたミオの尻がシートから浮き上がり、前方へ引っ張られる。
首からかけていた三角帯を引き千切り、後ろに回した右手で少年の後ろ襟を取ったハティは、その剛力で軽々と運び、自分
の前へぼすっと下ろして座らせた。
走行中のスノーモービルの上でそんな真似をされたミオは心臓が口から飛び出すかと思うほど仰天したが、ハティは今、少
年を多少驚かす程度の事には目を瞑らねばならない状況に置かれているのだと理解している。
敵は後方。後ろに乗せたままではミオが狙撃される恐れがある。流石にライフル弾などの直撃を受ければハティもただでは
済まないが、背中側にショックフィールドを発生させれば軌道を変える事はできる。
小柄なアメリカンショートヘアとはいえ、抱える形で前に座らせたミオは少々運転の邪魔になるのだが、それでも先ほどの
状態より遙かに安全であった。
『全速逃走。…で、宜しいですか大尉?』
雪上車内で休憩していたエンリケがよこした通信に、ハティは「無論」と即答した。
「が、足はあちらの方が上だ。どうにかして鈍らせなければならないだろうな」
白犬はそう続けると、脱出組全員で合わせ直した周波数で号令を発した。
「総員散開。任意のルートでランデブーポイントD22へ集合。待機時間は明朝六時から二時間後まで、その後は誰が欠けて
いても出発とする。また、追撃部隊との交戦はこれを禁ずる。ただし、仲間を救う為の戦闘と身を守るための反撃はこれに含
まない」
その通信を聞いた全員が、早くも怖れていた事態が起こったと認識し、唾を飲み込んだ。
それは、先ほど食事をしながらハティとデカルドが最終打ち合わせをし、固められた方針であった。
追撃が確認され、そしてそれを振り切る事が不可能だと判断した際には下すと、白犬が前もって全員に伝えていた指令…。
それはすなわち、分散逃走からの再集結である。
敵地の真っ直中といえるこのエリアでそれを行う危険性は、ハティも重々承知している。
それでもなおこの指令が発せられたという事で、全員が嫌でも理解できた。自分達が今、瀬戸際に追い込まれているという
事を。
もしも誰かが捕らえられ、ランデブーポイントの位置を吐いてしまえば、合流地点で襲撃され、簡単に殲滅されてしまう。
一人一人を信用しての措置ではあったが、ハティにしては珍しく、この指示は賭けの要素を多分に含んでいた。
「では諸君、健闘を祈る。一人でも多く生き残り、合流できる事を祈る」
ハティの通信が終わると同時にモービルは散開し、逃走を始める。
だが、乗員過多の雪上車だけは極めて鈍足で、追撃部隊の足を考えれば、程なく追いつかれるのは目に見えていた。
「犠牲を覚悟で、てんでにバラけて逃走か…。果断と言える」
スノーモービルを駆るウルが呟く。散って逃走してゆく粛正対象を遠く眺めながら。
「しかし物資は雪上車に積まれているだろう。失っては逃亡の距離は稼げない。流石のハティもついに策が尽きたか」
周囲を疾走するモービル部隊から一切の音を消し去りながら、狼はひとりごちる。
シビアでデリケートなその消音処置を施しながら、それでもウルはモービルを操り、別の事に意識を向けている。
驚嘆に値するその処理能力は、ショックフィールドを発生させ続けながら別の行動を取れるハティのソレをも遥かに上回っ
ていた。
だがしかし、能力の制御面で大きく水を空けられていても、決して総合力で劣っている訳では無い事を、間を置かずハティ
は証明して見せた。
「…ミオ」
「は、はい?」
モービルのハンドルをさばきながら、白い巨犬は自分の前に座る少年に呼びかけた。
座ると言っても、ミオが跨っているそこはほとんどスペースが無い座席先端。ハティの太鼓腹を背もたれ代わりにして小さ
くなっており、一見すると不安定そうであった。
が、太い両腕が顔の両脇で風を防ぎ、背もたれ代わりの巨漢の体はどっしりと安定しており、後部座席に居た時よりも収ま
りが良くなっている。
「これから少し危険な真似をしなければならない。もしかしたら相当怖い目に遭うかもしれない」
「え?こ、怖い目…?」
不安がるミオに頷いたハティは、「大丈夫だ」と先を続けた。
「危険ではあっても君だけは必ず守る。少しの辛抱だ」
言い終えるが早いか、ハティはハンドルを切り、旋回を始めた。
真っ直ぐ走る雪上車のルートから大きく逸れた、進路を90度変えての逃走…。徐々に距離を詰める追撃部隊からはそう見
えたが、しかし彼らはすぐさま目を疑った。
ハティが駆るモービルは、90度どころか120度以上も角度を変え、追撃部隊から見て右手側に進路を取っている。
ただの逃走としては不自然極まりない、距離をあえて詰めさせるようなその動きを観察し、
(なるほど…)
僅かに目を細めてハティの姿を望みながら、ウルは納得した。
(雪上車を見捨てる考えなど無かったのだな。自分を囮にし、仲間を逃がすつもりでいたのか)
ゲルヒルデ、スコル、ハティの三名は、ヘルからの指示によれば優先抹殺対象である。
特に肉体そのものがラグナロクの秘匿技術の塊でもあるエインフェリアは、機密保持の為にも逃走させられない。
追撃部隊は優先目標であるハティにつられ、進路を変える。
(向かった追っ手があの数ならば、上手く行けばエンリケ達なら切り抜けられるだろう)
雪上車に向かったモービルが僅か数機である事を確認し、ハティは狙い通りに事が運ぶ事を歓迎した。
一方で、追っ手側は全く気付かなかった。
ハティが選んだ進路が、単に囮役をこなすための際どいラインというだけでなく、もう一つ、別の意図を潜ませて選ばれた
物だという事にまでは。
「た、大尉っ!距離が…!」
ハティの図体の陰から苦労して後方を覗き見たミオが、慌てた声を上げる。
やや折り返す形になった事もあり、彼我の距離は先程よりも大幅に縮んでいた。
「ど、どどどうしましょうっ!?荷物を捨てて少しでも軽くしますか!?」
「捨てるのはまずい。手持ちの品だけで明日の朝まで踏ん張らなければならないからな」
「け、けれど…、ひゃんっ!?」
モービルが段差で跳ね、着地の衝撃で後ろ向きだったミオがバランスを崩してモービルの横へ落ちそうになり、ハティはそ
の首根っこを素早く掴んで軽々と捕まえる。
「後ろ向きは危ないぞミオ。私に任せて大人しくしていなさい」
少年を前向きに座り直させると、白犬は前方を見据えて続けた。
「引き離しにかかって、万が一にも諦められては困るのだ。目標地点まできちんとついて来て貰う為には、この程度の距離が
丁度良い」
「丁度良い?目標地点?…って、大尉…、まさか…」
ミオは首だけ捻って上官の顔を窺い、確信した。
ただの囮ではない。ハティは相手をどこかへ誘導したいのだ。少年はそう察して前を向き、眼を凝らした。
まだ何も見えないが、ハティには何か作戦があるらしいとミオは考える。
(けれど…、いくら大尉でも、行ってもいない場所に何か仕込むなんていう真似ができるはずないよ…。じゃあ何?大尉は一
体何を狙って、どこへ向かっているんだろう…?)
狙いが何なのか当然気にはなるが、ハティの判断を疑ってはいない。この巨漢なら必ず何とかしてくれると、ミオは全面的
に信じている。
「勝手に策として使われる側は、良い迷惑だろうが…」
ぼそりと呟いたハティは、追っ手との距離を保ったまま、まだ遠いそこを目指してマシンを駆る。
ミオだけは何としてでも守る。だが、自分が囮を務めなければならない以上、今は不本意ながら付き合わせる他ない。
(ジレンマだな。ミオを守るため、先を見据えれば必要な行為でも、こうして危険に晒さねばならないとは…)
追っ手との距離をキープしたまま、ハティはしばし走行を続けた。
あるいは、ウルが指揮を執っているのならばこうまで上手く事は運ばなかったかもしれない…。ハティはそう考えている。
指揮官がウルならば、部隊に雪上車を追わせ、単身で自分を追って来たかもしれない。
しかし借りてこられた身のウルは、現在いわゆる「お客さん」であり、指揮する権限も無ければ、隊員も彼の言葉に従う義
務を負っていない。
よって、指揮を執るのは本来の部隊長なのだが、こちらは隊の大半をハティに向け、雪上車には僅かに追っ手をかけただけ
であった。
こうなれば、ウルがその性格から本隊と行動を共にする事はハティには読めている。
周囲に興味を示さない狼だが、昔から任務達成の「形」にはいささか固執する傾向があった。
被害を最小限に抑え、最大限の効果を上げる…。それは、言葉にこそしないがウルの美学であり、ささやかな拘りでもある。
よって、自分抜きの部隊がハティと交戦し、被害を出すのは好まない。
そうと意識してかしないでか、スマートさに拘る傾向がある狼は、そのように行動を読まれていた。
ミオにしてみれば気が休まる事のない一時間半の逃走劇は、唐突に、劇的な形で終わりを迎えた。
「大尉…、あれは…?」
モービルの速度を上げたハティに、ミオが緊張気味の声で訊ねる。
大きく見開かれたその目には、大型雪上車五台と七十台近いモービルからなる、白ずくめの集団が映っていた。
足下の分厚い氷を割って、下に埋まっている何かを掘り出しているらしいその集団は、見張り役がハティ達の姿を捉えてい
るらしく、発掘場所を囲むように布陣を整えつつある。
「あ、あああああれって!あれってまさかっ!」
彼らの衣類に見覚えがあったミオは、自分の顔から血の気が引いていくサーッという音を聞いたような気がした。
「リッターだ」
素っ気ない程に短いハティの答えは、ミオの推測を肯定していた。
「りっ…!リッターって大尉!?もしかしてこのままあそこに突っ込むつもりですか!?」
「彼らには迷惑をかける事になるが、他に手も思いつかないのでな」
相手側からは停止警告が発せられているが、ハティはこれをあえて無視する。
進路はリッター達の真正面、布陣中央の採掘ポイント脇を抜ける格好である。
ハティの行為をあからさまな敵対行動と受け取ったリッター達は、速やかに迎撃に移った。
何せ彼らには、ハティ達を追う粛正部隊の様子が、先頭のモービルに率いられている高機動強襲部隊という構図に見えてい
る。同タイプの防寒着を着ている以上、これは仕方のない認識ミスであった。
前方に右手を突き出し、ライフルの斉射をショックフィールドで防ぐハティは、ぐっと上体を前へ倒して極端に姿勢を低く
する。
「むぎゅっ!」
後ろから覆い被さられる格好になったミオは、ハティのむっちりした胸と腹によってマシンに押しつけられ、庇われる格好
で固定された。
防御しているとはいえ、ショックフィールドの出力はせいぜい9ミリ弾を弾く程度。真っ向からメタルジャケットを弾くの
は不可能である。
その為ハティは弾丸の軌道を逸らす事に主眼を置き、モービル前方で三角錐となるように衝撃波を連続発生させている。
予想通りの手荒い歓迎だが、この程度は想定内の出来事。北原で所属不明の部隊と出会ったなら、まず攻撃を仕掛けるのは
当然の対処である。非合法組織は勿論、暗躍している国家直属の部隊ですら、この鉄則は共通している。
エインフェリアのハティとコピー兵士であるミオは、所属を明かす事は勿論できない。
しかし所属を明らかにできないのは追撃部隊も同様で、ハティの狙い通り、リッターの攻撃の矛先は弁明できない彼らにも
向けられた。
(自ら囮となっての逃走には違いなかったが、これも狙いの内か、ハティよ。ドイツの秘匿部隊と鉢合わせさせ、衝突を狙う
とはなかなかえげつない。戦技レベルならばともかく、戦術レベル以上の駆け引きとなると、少々分が悪いな…)
ハティの真の狙いに気付き、素直に負けを認めるウル。しかし、認めた敗北はこの局面に限っての物であり、抹殺を諦めた
訳では当然無い。
(いささか面倒な事にはなったが、攻撃を受けるのは向こうも同じ…。ここは混戦に乗じて首を取りにゆくか)
目を細めたウルの視線は、跨られているスノーモービルが辛そうに見えるほど大きな白犬の背に注がれていた。
一方、注視されているハティはすっと目を細め、胸の内で呟く。
(あんな物まで搭載されているのか…)
ハティの目に映るのは、大型雪上車の上部が割れて、そこからせり出してきた物。
砲身が二分割されていたそれは、接続されているアームの動きに導かれて合体し、勇壮な姿を朝の雪原に晒す。
「な、何ですかあのスンゴイのっ!?」
「88ミリ砲だ」
悲鳴に近い声で問うミオに、ハティがぼそりと答える。
「八十…、はちじゅうはちっ!?」
指で88ミリというサイズを確かめ、ミオは顔色を無くす。
拳銃の弾程度なら問題にしないハティとて、88ミリ砲弾は流石にストライクゾーンから逸脱している。その質量と推進力
は、ショックフィールドで軌道を逸らす事すら不可能である。
しかもリッターが用いているのは、大戦中に猛威を奮った名器そのものでは無い。
輝かしい数々の戦果を上げた巨砲に敬意を表し、形状と使用砲弾はそのままに、しかし最新技術と秘匿技術によって中身を
そっくりバージョンアップさせた代物である。
(話には聞いていたが、直に見るのは始めてだな。あれが…、近年実用化されたというレールガン、「アハトアハト」か…)
ハティは思考を中断し、モービルが大きく姿勢を崩すのも構わず、ハンドルを切った。
「わわぁーっ!?」
ミオの悲鳴を横に流しながら、スノーモービルはスピンしながら横に滑る。
電子合成で奏でられる、特徴的な、そして独特な射撃音が北原に鳴り響いた時には、88ミリ砲弾はハティ達の遥か後方に
到達し、運悪く軌道上に居た追撃部隊の兵士達が五名、モービルごと木っ端微塵になり、交じり合った濁った霧となって寒風
に散っていた。
弾丸の軌道をなぞる様に激しく巻き上げられる雪をスピン中のモービル上から見遣り、ハティは首後ろの毛をざわりと逆立
てる。
その破壊力と、それを実現させる独国暗部に秘められた技術力に、ちょっとやそっとの事では小揺るぎもしないこの白犬で
すら、驚嘆を禁じ得ない。
(以前目を通した報告書の書き手に表現力が無かったのか、それとも私の読解力が不足していたのか、ここまでの代物とは思っ
てもいなかった。レールガンというより、レールカノンだな。…しかし、わざわざ発射音まで合成で再現する事はないだろう
に…)
この場にゲルヒルデが居たなら「美学」と賞賛するであろうリッター達の姿勢と心意気に、残念ながら理解を示せないハティ
はドライに気持ちを切り替え、スピンを続けているモービルの制御を取り戻した。
(能力の制御技術に差はあっても、出力そのものは私とそれほど差があるとも思えない。あのレールカノンの威力を目に焼き
付けられた以上、ウルも出方を変えて来るだろう…)
ハティの分析通り、ウルは考え始めていた。
自分の能力で防御できるレベルの破壊力ではない。甚大な被害が出るのも構わずに単独で突っ込むという手もあるが、ここ
は追撃の一時中止を申し出るべきではないか?と。
しかし、ヘルに心酔している追撃部隊は、ウルの思慮を他所に怯まず前進を続ける。
中枢の一角たる灰髪の魔女直属の部隊という自負が、彼らから超兵器への恐怖を払拭した。
(薄ら寒くなる程の忠誠心だな…。正直、あの女性にそこまでして尽くしたいという気持ちは理解できないが…)
存在意義を兵器たる自分に見出しているウルは、ラグナロクへの忠誠心よりも純粋に使命感の方が強い。
そんな彼には玉砕も恐れぬ追撃部隊の心中を理解する事など到底できなかったが、それでも行動を共にする。
彼が主である若い女から授かった今回の使命は、ヘルの部隊に「協力して」作戦を遂行する事。口出しできる立場になくと
も、彼らを放っておく訳にはいかなかった。
(こうなると、一人の方が何かと楽ではあったな…)
自嘲でも皮肉でもなく胸の内でそう呟き、ウルは状況を好転させる手立てを考える。
そして、その案はすぐさま思い浮かんだ。
(仕方あるまい。邪魔になるリッター達を蹴散らしてハティを仕留めるとしよう。あまり派手な事はしたくなかったが、その
方が手っ取り早い)
かくして、黄昏の楽士ウル・ガルムは方針を固めた。大隊規模のリッター達を、壊滅させるという方向で…。
一方リッター達は、単機で迫るモービルを駆る巨漢の姿をはっきり確認すると、にわかに動揺を示した。
『ディッケ・ハティ!』
誰からともなく上がった複数の声が、間もなく大隊全てに連呼されて行き渡る。
先の接触で戦力差を跳ね返し、まんまと逃げおおせた小勢の指揮官の名は、今やリッター達全体に、北原の怪談もかくやと
いうレベルで伝わっている。
そんな中、雪上車近くで待機していた赤い髪の少年兵は、かつて剣を交えた巨漢の姿をスコープで確認するなり、瞳に闘志
を湛え、腰に下げた剣の柄に手を置いた。
「ディッケ・ハティ…!今度こそ遅れは取らないぞ…!」
「無事に逃げられるかねえ…、他の連中…」
モービル後部に跨った小柄なポメラニアンは、大柄な竜人の背にしがみ付きながらぼそぼそと呟いた。
「ん?何か言ったか?」
スコルの呟きは風に吹き散らされてほとんど耳に届かず、デカルドは首を捻って聞き返した。
「いや、独り言です。他の連中がヘマしなきゃいいんだけどなぁー…とかそういう事考えてただけで」
「無事を祈っている。我々の事も含めて」
「んじゃおれも祈っときますか、祈るだけなら元手はゼロですし」
「祈るだけでは救ってくれぬのが、この北原とその神、レディスノウだがな」
「おや?中尉も信じてらっしゃるんで?レディスノウの事。…先住民の言い伝えでしたっけ?」
「あの言い伝えによって信じているというよりは…、八人のオールドミスの伝承の方で、いくらかは事実だろうと思っている」
「ふむ?南の女王やら夜の女神やら破壊の女帝やらですか?」
「明らかに我々の文明の産物では無いレリックや危険生物が現存するのだ。まるっきり御伽話とも思えなくてな…。特に雪の
女王にまつわる数々の逸話は、なかなかリアリティがあって信じたくもなる。子供に聞かせればしつけになるだろう。…いや、
少々刺激が強いか…」
北原の怪談とでもいうべきか、古くから伝わるいくつもの話には、その多くにレディスノウと呼ばれる魔女が登場するか、
あるいは関連付けられている。
曰く、とある国が派遣した観測隊全員が、生活していたその姿のまま氷の彫像と化していた…。
曰く、誰も居ない雪原で、どこからともなく奇妙な歌声が聞こえて来た…。
曰く、氷のように青白い薄手のドレスを纏った女が、猛吹雪の中をしずしずと歩いていた…。
人工物…少なくとも現在の技術で合成された訳ではない危険生物すらうろついている秘匿区域たる北原、そんな身も心も魂
も凍てつく雪の領域にて、その手の怪談はいくつも語り継がれている。人外魔境の怪異譚として。
「つくづく思う、怖い土地だとな」
「わざわざ問題起こしてグレイブに来た事、後悔してるんじゃないですか?そもそもラグナロクに入らなければ、雪女の怪談
にも、元仲間が変じた追っ手にも、脅かされずに済んだでしょうよ」
皮肉めいたスコルの言葉に、デカルドは「ふん…」と鼻を鳴らした。
「そこにお前が居たのだから、仕方あるまい」
珍しくストレートな物言いに面食らったスコルは、少し身を離すなり目の前にある竜人の背中をまじまじと見つめ、やがて
ぼそっと呟いた。
「そいつは…どぉも…」
呆気にとられているスコルの言葉に、デカルドは再び鼻を鳴らした。
「…吹雪いて…きましたね…」
「そうだな」
先程は確かに望めていた朝日は、いつの間にか冷たく白い雲に隠され、風が強くなって来ていた。
デカルドとスコルは気分が重くなる。北原に長く駐屯している二人には、これが好ましくない天候の変化である事が敏感に
察せられている。
それは、気まぐれな北原が一際荒れる兆候であった。
その極めて低い気温もあって、北原の風はただの風ではない。吹かれれば体温が吹き飛ばされてゆく。
当然体感温度も著しく下がり、寒さを通り越して痛みを感じ、やがては感覚そのものが無くなる。
北原に不慣れな者の中には、寒さで感覚が鈍った事で辛さが緩和され、我慢できると勘違いし、気付いた時には重度の凍傷
を負ってしまう者も居る。
しかしそれで済めばまだ御の字で、時折、そのまま我慢し過ぎて致命的なほど体温を低下させてしまい、眠るように凍って
しまう者すらある。
そして今に限っては、二人の懸念はその寒さの他にもあった。吹雪による足止めも心配だったのである。
ただでさえ手持ちの物資が少ない以上、数日荒れた天気が続いて移動できなければ、逃走部隊は参ってしまう。
それ以前に、現在目指しているランデブーポイントに辿り着くのが遅れてしまうかもしれない。
次のランデブーポイントでは、時間厳守の出発となる。自分達が遅れても待っていては貰えないし、誰かが遅れても待って
いてやれない。
追っ手がかかる中、一体何名が辿り着けるだろうかと心配されている中で感じられた猛吹雪の兆候は、あまり有り難くない
物であった。
(けどこいつは、考えようによってはプラスになるかも…)
デカルドの背にピタリと身を寄せ、スコルは考える。
(確かによく訓練されてはいるものの、連中はおれらと比べて北原に不慣れだ。吹雪の中で多少なりとも無理がきくのは、こっ
ちには数少ない強みの一つだよな…)
もしかしたら追撃部隊は、吹雪が酷くなる前に行軍を止めてくれるかもしれない。あわよくば、吹雪で被害を受けてくれる
かもしれない。
そんな淡い期待を胸に抱いたスコルは、急にモービルの速度が落ちた事に気付き、思考を中断させる。
「どうかしましたか中尉?」
声をかけたスコルは、モービルが停車寸前まで速度を落とす中、デカルドの肩越しに前方を見遣り、目を見開いた。
「…な…!?嘘だろ?何で…」
二人の行く手で隆起するように斜めに起きた、巨大な氷柱。
その陰から進み出たのは、モービルに跨る細身の少年。
黒髪をメットの中に隠した少年は、アイドリングするモービルの上で二人を見つめ、右手にぶら下げた抜き身の剣を一振り
する。
片刃の直刀から雪面に散ったのは、鮮やかな赤い滴。
スコルは気付く。
少年の背後、氷柱に半ば隠れるようにして、二機のモービルが横転している事に。
そしてその傍らに、見知った背格好の男二人が倒れ伏している事に。
「五人目…、そして六人目だな」
現役最年少のエージェント、ベヒーモスは、愛剣を眼前に翳し、感情が読めない冷めた目で二人を見据え、静かに呟いた。
「…大尉の話では、アレも「まっとうな生き物」ではないらしい…。避けて通れる相手ではないぞ、スコル…」
「まーたエージェントですか…。あの狐よりはあっさり目の相手だと良いんですけど…ねっとぉ!」
警告も無く、デカルドの左肩を台に利用して素早く撃たれたスコルの拳銃の弾丸が、その戦いの嚆矢となった。
不意打ちの弾丸は僅かに傾けられた少年の頭部の脇をすり抜け、吹雪き始めた白い景色に消える。
涼やかを通り越し、冷たいまでに感情を窺わせない少年の黒瞳が、淡く紫紺の光を帯びた。
「これより、任務を遂行する」