慈悲無き雪にまみれて(後編)
スコル・ガルムはエインフェリアである。
獣人の中でも人口が多く、データが揃っており、研究が比較的容易だという事から、素体を犬科の獣人だけに絞って生産さ
れたシリーズの後期生産型成功例、「ガルム」の九体目であった。
賢しい彼はその初動テスト中には気付いていた。「…ああ、おれヤバいなぁ…」と。
基礎情報しかインストールされていないはずの、精製ケースから出されたその時点で、自分に存在しないはずの「昔」が思
い出せる。
冷静に考えておかしい。どう贔屓目に見てもイレギュラーだ。そう客観的に自己分析した彼は、他者の状況を観察し、その
驚異的な柔軟性で自分の異質さを他に揃えて目立たなくさせてしまった。
軍人であった素体の記憶を受け継いでいるという希有な存在でもあるが、同時に自分は失敗作とも呼べる代物なのだと、ス
コルは把握した。
記憶を持つエインフェリアなど、開発者側から見ればイレギュラーでしかない。
彼と同じガルムシリーズの初期型であるハティは、ほぼ丸々素体の記憶を受け継ぎながらも、素体となった男を、その行動
を、その精神を忌み、「不殺」という対極の行動方針を固めた。
だが、スコルは違う。
彼の素体となった軍人は、偶然にも人工人格であるスコルと非常に近い価値観と思想、性質を有する男であったため、嫌悪
感など沸いて来なかった。
おまけに、彼の記憶はハティのように全体を引き継いだ訳でなく、素体の家族構成や交友関係はおろか、生い立ちの記憶も
無く、それらはデータ上の情報でしか知らない。
彼が素体から引き継いだ記憶は、兵士として過ごした時間だけが抜き出された物であった。
しかし悪い事ばかりでもない。
初期にインストールされたデータ以上の知識を記憶と言う形で得ていた彼は、初動テストから実務に至るまで、同時期に生
産された他の「ガルム」を知識と技能面で大きく引き離した。
そして、記憶を受け継いでいるなどとは全く判らなかった試験官や記録係は、記憶を活かしたスコルの対応力を彼の個体ポ
テンシャルと勘違いし、明晰な頭脳と応用力、器用さとしてそれらを評価した。
身体能力こそエインフェリアの水準ギリギリで、後に失敗作とされた者も含めた全ガルム中最低レベルであったスコルだが、
素体から引き継いだ特異な能力が再生に伴って強化されていた事もあり、結果的には成功例としてファーストネームも得る事
ができた。
名前を貰った後も、自身の秘密…記憶の事については口にしなかった。
処分対象になると誰かから聞いたわけでは無いが、それでも記憶を保持しているという事が危険である事は重々承知してい
たので、他者には決して打ち明けなかった。
同じガルムシリーズであり一時期教官として自分を指導した白い巨犬にも、同期生産の成功例であったシベリアンハスキー
にも、気を許してはいたが記憶の事までは話さなかった。
その、本来受け継がれるべきでなかった記憶によれば、彼の素体は米国の優秀な軍人であった。
フレデリック・キャラハンというその若者は、ラグナロクが軍内部に送り込んでいたスパイが密かにおこなっていた査察に、
運悪く引っかかった。
フレッドの愛称で呼ばれていた若き兵士は、先天的に思念波感知能力を有しており、手首に政府製の能力者追跡用リングを
付けていた。
フレッドの能力は実戦レベルではあまり役に立たない、微弱かつ正確さに欠ける感知能力で、傍から見れば「時々勘が良い」
「たまに相手の出方を読める」と認識される程度の物であり、一般社会においても不自然さが表立たない物だった。
が、これが開発の素材としては悪くないと、ラグナロクに判断されたのである。
思念波は、思考に連動する観測可能となった意志力。
発散される思念波を即座に感知できれば、そこから相手の出方を正確に予知する事も可能…。
俗に「達人」と呼ばれる者達は、この思考と肉体の連動があまりにも速過ぎたり、あるいは思考せずとも染み付いた動きに
なぞらせて肉体を駆動させたりできるため、彼らに対しては完全な先読みと対処など不可能だが、そうでない者には圧倒的な
アドバンテージを持って相対する事ができる。
そしてそれは、相手が多数であっても活用できる。
例えば相手が部隊であった場合、大規模になればなるほど、その全員が達人である事はまずありえない。
誰かの思念波を読み取れれば、即座に部隊の意図を分析、把握できる。フレッドのささやかな力は、そんな能力の開発に土
台としてうってつけだったのである。
かくして、ラグナロクは二人の工作員を送り込んだ。
一人は赤い髪の戦乙女、ゲルヒルデ・メメントモーリ。
いま一人は巨漢の灰馬、スレイプニル・デスペレート。
エインフェリアの素体として標的となったフレッドは、しかし肉体的には一般の兵士と変わらないポテンシャルしか持ち合
わせていないにも関わらず、二人の追跡と追撃から長時間逃れ続けた。
だが、彼のささやかな能力は、最高傑作のエインフェリアに名を挙げられる灰馬と、百戦錬磨の工作員の追跡から自身を守
るには、いささか力不足であった。
基地を脱出し、数日間逃走を続けた健闘も虚しく、フレッドは倒れる。
原因不明で発動する時としない時がある。その能力のムラが致命的な場面で彼を裏切った結果であった。
冷たい雨に打たれながら路面に横たわり、目前で屈み込んだ灰馬に敬意を表されながら抱き上げられたのが、フレッドから
受け継いだ記憶の終焉…。
しかし、絶命するその時までの記憶を受け継ぎながら、スコルにはラグナロクへの反感や憎悪は無い。
殺されたのは自分ではなく、自分の材料になった誰か…。最初からそう割り切れていた。
だからこそラグナロクの方針に賛同でき、下される命令に疑問も抱かず、口ではぼやきや皮肉を吐きながらも、スコルは大
人しく従って来た。己という存在に疑問を抱く事もなく。
ただ一つ引っかかっていたのは、引き継いだ記憶の中でフレッドと親しくしていた男性の事。
兵卒のフレッドから見て上官にあたるその人物は、米国の陸軍中尉で、現在では数も減って希少になっている竜人であった。
ただの上官と部下という関係ならばスコルもさほど気にしなかったのだろうが、彼らの関係はそれだけに留まらなかった。
同性愛者。共に男性でありながら、フレッドとその上官は恋人として肉体関係をもっていたのである。
米国では同性愛者は軍人になれない。もしもばれれば強制除隊処分となる。
当然その事は二人も承知していたが、それでも人目を忍んで秘め事を繰り返していた。
エインフェリアであるスコルは、偏った倫理観から基本的な道徳まで、一般的な社会通念をほとんど習得しておらず、ラグ
ナロク内のルールと常識しか持ち合わせていない。故に世間の常識に感化されないままであり、ある意味純粋であった。
だからこそ引き継いだ記憶にある二人の行為に嫌悪感などを抱く事もなかったが、職を失うリスクまで背負いながら、何と
も愚かな真似をしていた物だとは考えた。
しかしスコルは、その記憶を掘り起こす毎に、自分がそれにじりじりと惹きつけられて行く事に、やがて気が付いた。
スコルが引き継いだ記憶には、フレッドの交友関係や家族は含まれない。軍での生活が全てである。
その、繋がりといえば軍関係者だけという、いわゆる「仕事イコール生活」という断片的な記憶の中で、その竜人との思い
出は一際鮮やかで、生き生きとしていた。
いつしかスコルの中で、フレッドがその竜人と過ごした記憶は特別な物になってゆく。
かつては愚かしい真似と思えていた二人の関係は、やがて職を失う事よりも優先される強い繋がりの結果なのだと、認識が
改められた。
誰にも言えず、誰にも言わず、胸の奥に潜められたその記憶は、いつしかスコルの中で宝物のようになる。
そして危険ながらも単調な日々の繰り返しの中、スコルは夢想するようになった。
フレッドではなく自分自身が、その竜人と親密に過ごす日々を。
記憶の中にある風景やシチュエーションと重ねて自分と竜人が過ごす日々は、毎晩彼の心を満たした。
戦闘と任務以外に刺激のなかった彼にとって、夢想の一時はかけがえのない大切な時間となり、これ以上ない癒しと娯楽と
なった。
そしてそれは、グレイブという過酷な部隊に配属された後も変わらずに彼を癒し続けた。
だがある日、彼の状況は一変した。
瞼の裏に焼き付いた竜人の顔が、自分の数メートル前に実際に存在するという事態が起こったのである。
整列する第三小隊の同僚達の中、激しく動揺しながらも、しかし驚きが強過ぎて表情が凍り付いているスコルの前で、竜人
は口を開き、名乗った。
デカルド・ディスケンス。それが竜人の名。
引き継いだ記憶の中にも残る、フレッドにとって誰よりも特別だった竜人の名。
順番に回ってきた挨拶も、淡泊で無難な物にするのが精一杯だったスコルは、しかしこの就任挨拶中、竜人の視線が、まる
で直視を避けるように自分から逸らされていた事が気になった。
そしてその数時間後、スコルは就任したばかりの新たな小隊長の部屋へ呼び出された。
予感はあった。
何せ自分の外見は生前のフレデリック・キャラハンそのものなのだから、ノーリアクションでやり過ごされる方がおかしい。
入室し、促されるままに応接用ソファーに腰を下ろしたスコルは、向き合って座る竜人から部隊の事について色々と聞かれ
た後、他愛ない世間話をされた。
外見の事を問いただされるのではないかと心の中で構えていたスコルは、竜人がベースボールの話などするものだから拍子
抜けしてしまった。
が、肩すかしを食らったような気分になって注意が緩んだそこにつけ込まれ、スコルはボロを出してしまう。
夢想した中で何度も繰り返した事の中に、竜人の癖のような仕草があった。
紅茶にミルクを入れて欲しい時に見せる、揃えた人差し指と中指でテーブルをトントンと叩くというその仕草に、ベースボー
ルの話に注意が向いていたスコルは見事に引っかかってしまったのである。
殆ど意識せず、体に染み付いた動作として、空になったカップに紅茶と極々少量のミルクを注いだスコルは、
「やはり…、覚えているのだな?フレッド」
身を乗り出して来た竜人に、カップを持つ手を強く掴まれた。
ミルクは香り付けの為に少ししか入れないという竜人の好みに合わせて作られたミルクティーが、カップの縁から零れて手
を濡らし、テーブルにパタパタと落ちる。
だがその熱さすらも、当の二人の気を逸らせない。
「…探したぞ…、フレッド…!」
じっと見つめて来る竜人の瞳に懐古と親愛の色を見て取りながら、スコルは観念した。
誤魔化し切れると思っていたが、相手の方が一枚上手であったと認めながら。
「…どうせなら、思念波読んでおくんだった…」
苦々しい表情で呟いたスコルに、デカルドは勝ち誇ったように口の端を上げて見せた。
そしてその夜、二人は長い事語り合った。
スコルにしてみればデカルドは恋人の亡霊を追って来たに過ぎず、自分に会いに来た訳ではない。出会えた事はそのまま喜
びとはならず、複雑な心境であった。
しかしデカルドから見ると、スコルはかつての恋人、フレッドの生まれ変わりのような物なのである。
スコルは自嘲と皮肉を交え、自分がどういう存在なのかをデカルドに語った。
確かに自分の体はフレデリック・キャラハンの死体を元にしてあるが、今の自分は補助脳であるチップの影響で形成された
人工人格に過ぎず、全くの別物なのだと。
だがデカルドはこれを認めず、逆にこう言った。
「フレッドの記憶と人格が影響を与えて、今のような人格が構築されたとは考えられないか?」
この言葉が、それまでのスコルの考え方を一変させた。
自分は確かに人工人格だが、それは完全にチップによって生み出された物ではなく、フレッドの記憶が大きく影響している
のではないか?
フレッドとしての要素が残っているのなら、自分にもデカルドと共に生きる資格があるのではないか?
その新たな考え方が、スコルの未来を決めた。スコルにデカルドを受け入れさせた。
かくして、フレッドを喪ってから米軍を退役し、巨漢の灰馬という僅かな手掛かりを元に裏の世界へ足を踏み入れ、情報を
ちらつかせてラグナロクをおびき寄せてその一員となり、あげく、スコルの存在を知るなりわざと重大な命令違反を犯して左
遷されたデカルドは、長い長い遍歴の末に、ようやく求めた者を取り戻した。
生活を捨て、母国を裏切り、陽の当たる場所に背を向け、何もかも投げ打って辿り着いた墓場で、しかし微塵も後悔してい
ないデカルドに対し、スコルは密かに誓った。
毎夜想像の中で自分を慰め続け、そしてわざわざ会いに来てくれたこの男に、自分の素体となった男と変わらない、生涯の
忠誠と親愛を…。
(…ああ、おれヤバいなぁ…)
真っ白に染まった視界が、一瞬後に暗転する。
顔から新雪に突っ込んだスコルは、ほぼ倒立状態となっていた。
突き刺さっている。という表現がしっくり来るその体勢から、両脚を揃えて体をくの字に曲げ、バネ仕掛けのような動きで
脱出する。
その直後にスコルが埋まっていたポイントは突如黒い球体に飲み込まれ、すり鉢上に消失した。
「…っぶねぇ、ちくしょうっ…!」
怖気を覚えながら柔らかな雪に着地したスコルは、しかし気が休まる暇も無く、漆黒の狩人の急襲を受けた。
それはまるで、雪の中を駆ける一陣の黒い突風。
エージェントの少年…ベヒーモスは、深雪に慣れているスコルに地の利を譲りながらも圧倒している。
人間の姿こそしているものの、その身体能力はデカルドのみならず、エインフェリアであるスコルすら軽く凌駕するレベル
であった。
滑るように高速接近した少年が、片刃の剣を左斜め下から掬い上げるように振るう。
黒いポメラニアンはククリを胸の前で交差させてそれを受けたが、激しくも甲高い金属音と同時に跳ね飛ばされた。
その細身のどこにこれほどの膂力が宿っているのだろうかと、驚愕に顔を歪めながらバランスを取り、宙で体勢を整えるス
コル。
少年は長身だが痩躯で、身長の低いスコルと体重は変わらない。にも関わらず、スコルは少年の一撃を受ける度に、巨獣に
弄ばれるが如く吹き飛ばされる。
「くっそ!」
雪の上に降りようとしているスコルめがけ、追撃を緩めない少年が疾走する。
着地と同時に一撃繰り出されるタイミングだが、その不安定な姿勢を突かれる以上にまずい事があると、スコルは気付いた。
左手に握ったククリが、先の一撃で根本付近から折れていた。
分厚い刃を備えたチタン合金製の山刀なのだが、ベヒーモスの得物は強度でそれを上回っている。
隠密行動時に闇に溶け込めるよう黒く電解着色されたその剣は、エネルギーを溜め込む性質を有する精霊銀とジルコニウム
の合金製。この少年専用に拵えられた、強靱さと切れ味を高いレベルで兼ね備えた逸品である。
ベヒーモスペインと名付けられたその剣は、材料の一つである精霊銀のエネルギー蓄積という特質により思念波を溜め込ん
でおり、消耗の大きい空間干渉能力の補助も行っている。
この事が、少年をスコルの天敵たらしめていた。
少年から発散される余剰思念波を、手にした剣が常に吸収、蓄積しているため、彼の周囲では思念波が正常な動きを見せず、
常に剣に向かってなびいている。
そのため、思念波の揺らぎを視認して相手の動きを先読みするスライドリードが通用しない。
(薙ぎ払いか!?それとも斬り上げ!?えぇい!何が来る!?)
焦るスコルと詰め寄る少年の距離が瞬く間に消失してゆく最中、唐突に響いた銃声が少年の動きを止めた。
急停止して腕を翳した少年は、自分目掛けて殺到した無数の散弾が、笠状に展開させた薄暗闇に吸い込まれて消えると、目
を細めて敵の姿を見据える。
「中尉!」
雪の上に降り立ったスコルが、咎めるような声を上げた。
横殴りの雪の中、左腕一本でショットガンを放った竜人は、体の半面を真っ赤に染めて立っている。
その右肩は防寒着ごと深々と切り裂かれており、泡状に凝固する止血スプレーをふったものの、その下からドクドクと出血
が続いていた。
少年の能力、空間の断層を太刀筋に乗せて放つという常識はずれの遠隔攻撃で先手を取られた結果である。
最初の一撃で重傷を負ったデカルドを守るべく、以降スコルは今回の優先抹殺対象であると自認する己自身を囮にし、単身
で交戦しつつ少年を引き離したのだが、竜人は、そのまま黙って甘えていてくれるほど物分りの良い上官ではなかった。
「まだ生きているな?スコル…!」
息を乱しながら問いかけた竜人に、スコルは諦めたような顔で肩を竦めた。
「死に難いのと賢いのと腕が立つのとラブリィな顔立ちがチャームポイントですからね」
余裕ぶってそんな軽口を叩いたポメラニアンは、次いでニヤリと顔を歪める。
「それに、心残りがあるからそう簡単には死ねませんよ。…死ぬ前にもう一回、中尉のまたぐらのスリット、横にグニーっと
開いて中と収納されてるモノをしっかり味わわないと…。でなきゃ死んでも死に切れません」
露骨に顔を顰めたデカルドは、不機嫌そうに「ふん!」と鼻を鳴らす。
「…必死になって雪を掻き分け加勢に来てみれば…」
「ま〜たまたあ!好きなくせにいっ!」
竜人が不機嫌そうなのもお構いなしに、スコルはニヤニヤしながら目を細めた。が、
「ま、好きだがな」
デカルドが即座にそう切り返すと、意表を突かれてきょとんとする。
ポカンと口を開けているスコルの様子を見て、一矢報いたとばかりに口の端を少し上げたデカルドは、しかしすぐさま表情
を引き締めた。
しばし思案していた少年の視線が、スコルから完全に離れ、次なる標的を見定めにかかる。
近接戦闘を行うスコルより、銃を手にしたデカルドの方が面倒だと判断したのか、ベヒーモスは竜人に体ごと向き直った。
「ちいっ!お前の相手はおれだろがっ!」
鼻面に皺を寄せて吼えるスコルの顔には、しかし憤り以上に濃い焦りの色が浮いていた。デカルドは本調子でないどころか、
すぐにも的確な止血措置が必要なほどの重傷なのである。少年の相手をさせるのはまずい。
片足にのみ残ったヴァルキリーレッグではバランスを取れないにも構わず、スコルは足から思念波を噴射させ、雪を舞い上
げて雪面すれすれを弾丸の如く飛んだ。
が、横を向いていたベヒーモスは、視線すら向けずにスコルめがけて水平に剣を振るう。
「しまっ…!」
誘いだったと気付いた時には既に遅く、もはや回避不能な間合いにまで飛び込んでしまったスコルは、見開いた目に薄暗い
斬撃の軌跡を映す。
飛翔するスコルを真正面から迎え撃った空間の断裂は、ゾンッと音を立てて、その胸元から腹部までを切り裂いた。
間一髪、無意識におこなった反射的動作で足を横へ向けたスコルは、強引に軌道を変えてきりきりとスピンしながら雪面に
墜落する。
バウンドするなり雪の白と鮮血の赤を撒き散らし、表面が凍った雪の上を激しく転げたスコルは、デカルドとベヒーモスの
ほぼ中間で静止した。
際どい所だったが、致命傷は免れた。
真っ直ぐ突っ込んでいれば、顔から足先まで上下真っ二つにされていた所である。
追撃に備えてすぐさま起き上がろうとしたスコルだが、しかし回転で平衡感覚を失っている上に激痛が動きを妨げ、うつ伏
せに突っ伏したまま上体を起こす事すらできない。
何とかダメージを軽減したものの、左肩と胸の間から始まる裂傷は鎖骨にまで及んでおり、左腕が全く動かなかった。
「フレッドぉっ!」
悲鳴のような声を上げながら竜人が突進し、ベヒーモスは再び空間の断層を作るべく剣を振り上げる。
スコルは今、追撃をかわせる状態にない。
何とか相手の動きを妨げねばならないと判断したデカルドは、ここで切り札を使う事を決意した。
竜人はショットガンを投げ捨て、動かぬ右腕を左手で掴み、ベヒーモスに向ける。
その直後、血に染まった右手の袖口から手首を囲むように、四本の四角い筒がジャコンと音を立てて前方へ迫り出した。
右腕の前腕部に、衣服の下に隠して篭手のように装着されたそれは、グレイブ隊で開発された秘密兵器…小型の携行用ミサ
イルポットである。
拳を守るように右手前方まで20センチほどせり出している四角い筒は、四門の誘導式マイクロミサイル発射口であった。
隠密性を高めると同時に、北原の冷気でも凍結などの誤作動を起こさないよう防寒着の下に装着できるように作られており、
軽量かつ小型なのだが、いかんせんそのサイズ故に装填は一度に1セットずつとなる単発式である。
デカルドの思念波を感知し、超小型ミサイルポットは、衝撃で誤爆しないよう分断されている起爆剤と追尾式弾頭、そして
信管を合体させて発射準備を整え、竜人が定めた敵…ベヒーモスをロックオンする。
「当たれっ!」
竜人が短い唸りと同時に心で引き金を絞ると、血塗れの右手から突き出た四本の発射口から、同時にミサイルが飛び出した。
射出直後に再加速し、スコルを飛び越して少年めがけて殺到したミサイルは、しかしベヒーモスが展開した空間の歪みに飲
み込まれて消滅する。
「…くそっ…!何なんだよあの力…!弾丸もミサイルも通用しねえのか…!」
視線が定まりつつあるスコルが、攻撃を無効化された事を悟って呻く。
ベヒーモスが再び剣を振り被る。
しかし自分はまだろくに動けない。
デカルドもまた間に合う距離に居ない。
死を覚悟したポメラニアンは、次の瞬間、眼球が零れ落ちんばかりに大きく目を見開き、次いで反射的に硬く瞑った。
上空から垂直に高速落下した、銀色の細長い物体の軌跡がスコルの目に焼き付く。
それが雪面に接触すると同時に咲いたオレンジ色の爆炎が、雪を散らして凍土を砕き、少年を飲み込んだ。
爆風で煽られた小柄なスコルは雪面を二転三転し、駆け込んで来たデカルドに抱き止められる。
「な、な、なななっ!?」
何が起こった?そう問おうとしているのだが舌がもつれて上手く問えないスコルに、デカルドは雪を溶かして燃え盛る炎を
見つめながら応じる。
「一発だけ放物線を描いて上から狙うよう指示していた。まともに撃っても防がれる公算が大きかったのでな…。立てるか?」
「よ、よくもまぁ咄嗟にそこまで…」
「必死だったからな。だからこそ冷静さを失わないよう務めたのだが、その結果、真っ向勝負は避けるべきだと…」
スコルを引き起こしつつ、デカルドは言葉を切って顔を顰める。
大量の出血で体がだるく、傷も激しく痛むが、それも今は生きている証拠と受け止める事ができた。
スコルに縫って貰わなくてはいけないし、しばらく右腕は使い物にならないだろうが、それすらもどうという事はないと思
える。
生きてさえいればどんな困難でも乗り越えられる。
デカルドはそう信じ、そして前進し、スコルと巡り会えたのだから。
「酷い傷ですよ中尉…。さ、肩を貸して下さい」
「いい、一人で歩ける。お前も似たような物だろうが?」
「つれないなあ…。今なら怪しまれずに公然とくっつけるじゃないですか?」
「はぁ…。お前という奴は本当に…。もっとも、怪しまれるも何も、今は誰も見ていないがな」
「ひひひっ!じゃあキスぐらいまでならセーフ?」
「こら、図に乗るな」
笑うスコルにつられてデカルドも笑みを作ったその時、二人はシャッという風切り音にも似たものを耳にし、動きを止めた。
戸惑いの表情が浮いた顔を見合わせる二人の視線が、不意にずれる。
デカルドの体が斜めに傾いてゆき、スコルの前で横倒しになった。
「ちゅ…!」
口を開きかけたスコルは、デカルドが倒れ込んだ足元を見て絶句した。
太い竜人の脚が、ごろりと雪の上に転がっていた。左腿の半ばより上の部分で、すっぱりと切断されて。
「…あ…ぐ…!ぐがぁ…!」
苦悶の表情を浮かべ、切断された脚を抱えて転げ回るデカルド。
その様子を紫紺に輝く瞳に映しながら、屈強な脚をあっさりと切断する空間の断裂を引き起こした男は、ゆらりと炎の中か
ら歩み出る。
まるで触れる事を恐れているかのように炎が左右に割れる中、融解し切っていない雪と氷を踏み締めて進み出た少年の姿を
目にし、デカルドと、その傍らに屈み込んだスコルは、驚愕の余り思考すら停止してしまった。
見た限りは、本人にも傷一つ、衣類にも焦げ目一つ、ついていない。
無傷の少年は、二人の目には絶望が人の姿を取った存在のように映った。
いち早く我に返ったスコルは、ククリを握って立ち上がりかけたが、その動きを制するように少年が剣を振るう。
「…あ?」
右脇腹に衝撃を受け、中腰の姿勢から尻餅をついたスコルは、呆けたような顔で手を動かし、ぬとっと、湿った感触を指先
に覚えた。
ぱっくりと口を開けた脇腹の傷からは、溢れた血に続き、腸がどろりとはみ出してくる。
飛来した空間の断層は、スコルの右脇腹を断ち割っていた。
二人を見つめる少年の瞳は炎を照り返してもなお冷たい紫紺に輝いていたが、しかしその中には一抹の感情の色が浮かんで
いる。
敬意。それは、そう呼ぶ事ができる類の色であった。
長く苦しませる必要は無い。そう判断し、少年は居合いにも似た姿勢で剣を構える。
横薙ぎの一閃。その一刀で二人まとめてとどめを刺す心積もりである。
「…スコル…」
左足を根本近くから失った激痛を堪え、デカルドは食い縛った歯の隙間から呼びかけた。
「…もう一度…、ブーツで飛べるか…?」
防寒着の懐に左腕を突っ込んでいる竜人を、へたりこんだまま首を巡らせて見遣ったスコルは、その顔を微苦笑で染める。
「無理です…」
そしてポメラニアンは、竜人が懐から掴み出した物を眺めながら続けた。
「中尉が何考えてるか…、判っちまったもん…」
リング状に纏められていた、数珠繋ぎになった小型爆薬群を引っ張り出したデカルドは、安全ピンを纏めて引き抜きながら
笑みを浮べた。
「…今度こそ…、離れ離れにはならんで済むかなぁ…?」
「ええ…、離れませんよ、絶対に…」
力無く雪面に垂らされたデカルドの右手に、スコルはそっと手を重ね、ニカッと笑った。
「御供します、地獄の果てまでも…」
「放しはせんよ、地獄の底までも…」
笑みを返したデカルドが最後の一撃となる武器を放ると、素早く反応した少年は狙いを変え、数珠繋ぎの爆薬目掛けて一閃
を飛ばす。
連鎖爆発した無数の爆薬が発するマイクロミサイルの物を越える爆風と熱が、デカルドとスコルからそう離れていない場所
で咲いた。
手を重ねあったまま身を寄せ合い、共に炎に飲み込まれる二人の姿を見届けた少年は、剣を握った右手を下ろし、左手を胸
に当て、軽く目を閉じた。
「任務完了。戦士に敬意を…」
彫像のように整ったその精悍な顔を、激しい炎がオレンジに染める。
しばし黙祷を捧げた後、ベヒーモスは炎を迂回してスノーモービルへと向かった。
赤々と燃える紅蓮の炎は北原の朝空を焦がし、いつまでも、いつまでも、風に抗い燃えていた。