互いに立場は違えども(後編)
「遅いなぁ、何処行ったんだろ?」
キャベツを千切りにしていたユウトは、キッチンの壁時計を見遣って呟く。
一言も相談無く事務所を臨時休業にして何処かへ行ってしまった相棒は、一向に帰らず、携帯も繋がらない。
現在時刻は午後八時。夕食の支度中なのだが、もうコロッケを揚げてしまうべきかどうか迷っていた。
タケシは仕事中に携帯の電源を切る事もある。対象を尾行している時や潜入中などがそうで、携帯が繋がらないのは仕事中
のためである可能性が高い。
「急な仕事でも入ったのかなぁ?」
置き手紙なども無いので見当もつかず、首を傾げたユウトは、
「あ…、ああああああへ…、あへへへへ…!」
ぼよんと出た腹が盛大にぐぎゅ〜…と鳴り、空腹感によって脱力した声を漏らす。
「お腹と背中がくっつくぞ〜…」
この場に居ない相棒へのぼやきのように口ずさむと、空腹に堪えかねたユウトはコロッケを揚げ始めた。
一方その頃、タケシは地下に潜っていた。
「待たせたな」
アームチェアに腰掛け、薄いコーヒーを啜り、数時間待っていたタケシに声をかけたのは、フードですっぽりと頭部を覆っ
た人物。
男なのか女なのか、若いのか年寄りなのかも判らないその人物の声は、電子合成音のようでもある。
「件の組織が動かしている関係車両全てのナンバーと、行動記録だ」
情報屋ユミルからデータチップを受け取ると、調停者の物とは別に用意した携帯のスロットにそれを差し込み、タケシは腰
を上げる。
「位置情報についてはリアルタイムでサポートをくれるのだな?」
念を押すタケシに頷くと、ユミルは小さく肩を竦めた。
「報酬を貰った以上文句は無いが…、さして重要とも思えないこの件にここまでの金を動かすのが理解不能だ」
「重要だ。俺にとってはな」
タケシはユミルに換金すれば多額になる危険生物由来の素材を前払いで渡し、情報を得た上で、サポートの約束まで取り付
けた。取るに足りない事件だろうに、何故そこまでするのかがユミルには判らない。
それは、常識に疎い青年なりに考えた、馴染みのゲンゴロウへの感謝と配慮からの義理立てである。
空になったカップを机に置き、ネイビーブルーの薄いジャケットに袖を通したタケシは、
「頭を叩くのと、足を捕まえて刻みながら上るのと、どちらが効率的だろうな?」
そんな事をユミルに訊ねる。
「好きにすればいいだろう」
この青年が一人で兵士百人にも匹敵する事を知っているユミルは、どうでも良い、しかも面倒くさい事を問いかけられたよ
うに、ひどく投げやりな調子で応じた。
その夜、遠く離れた土地で寮生活している高校生の息子と、長電話で語り合っていたケンノスケは、
「…という決まりは無いんだよ。自白を取るために特別カツ丼を振る舞う訳じゃない。そもそも取り調べ=カツ丼という図式
自体がどこから来たのか…。うちの署は近くの弁当屋かラーメン屋から出前を取るから、せいぜい唐揚げ弁当か中華蕎麦だよ」
妙な事が気になっている我が子にそんな事を言う。
『じゃあ、あれって演出が先にあったものなの?』
「もしかしたら、何処かの署で取り調べを受けて実際にカツ丼を出されたひとが、ドラマの脚本家なんかに体験談として語っ
たかどうかしたのかもしれないね。それを真似て取調室にカツ丼っていう組み合わせが広まって、半ば常識的に語られるよう
になったのかもしれない。笑い話だけれど、取り調べを受けている容疑者が「カツ丼苦手なんですが」なんて言った事がある。
弁当屋のメニューを見せて安心させてあげたけれどね」
『あはは!本当の事だと思ってたのに、イメージ先行だったんだぁ』
「そうだね、先行し過ぎもいい所だ」
ソファーにかけてくつろぎつつ、まだ親子関係の浅い息子との遠距離会話をデレ顔で弾ませるケンノスケは、何処からどう
見ても子煩悩な父で、刑事にはちょっと見えない。
『あ、ちょっと待ってお父さん。…何?…っちゃん…。え?う〜ん…、……ペペロ……ーノ……いい…。…あ、ごめんなさい。
もう大丈夫』
「…夜食かい?」
一時電話口から遠のいていた息子の声が戻ると、胡乱げな顔をしたケンノスケは時計を見遣る。「こんな時間に?」と。
『そう。ダイエット上手く行って随分絞れたからって、最近またモリモリ食べてるの』
「で、キイチも付き合って食べるんだ?」
『うん。…まぁ、僕を気遣ってくれてるのもあるんだけどね。慣れないマネージャー仕事で大変だろうからって』
「夏休みに帰って来るまでに、ぷっくりしていたりして」
『だったら困るなぁ。…って言うかね、本当に体重維持できてるのか怪しいよサツキ君。最近体重計避けてるし…、疑ってか
かるべき?』
「ははは!まぁ、その辺りの匙加減は当事者に任せるよ」
軽い笑い声を立てたケンノスケは、しばしあってから長電話を終え、呆れ顔の妻が淹れてくれたコーヒーを啜る。
そうして息子から聞いた話を妻にもしてやりながら、
(…はて?どうしたんだろう?)
ケンノスケは急に落ち着かなくなって来て、眉根を寄せる。
息子との会話中はそんな事はなかったのだが、思い出しながら妻に聞かせてやっている内に、何かがひっかかり始めた。
急に表情が引き締めて黙り込んでしまった夫を、妻は気遣う。
「あなた?もしかして、ちょっと疲れてるんじゃないですか?」
「…いや、ちょっと今、思いついた事が…」
まるで指の隙間から水が零れていくように逃れて行こうとする、弱々しく僅かな引っかかりを、必死に捉えようとして眉間
を揉むケンノスケ。
その耳元で、先程聞いた息子の声が響く。
「…イメージ先行…」
呟いたケンノスケは、さーっと、血の気が顔から失せて行く音を聞いたような気がした。
自分はとんでもない思い違いをしていたのではないか?そんな疑いが胸の中で急激に膨れ上がる。
「ちょっと出て来る」
血相を変えて立ち上がったケンノスケは、足早にリビングを出て行った。
「タケシ!あんだだら連絡もよごさねで何処で何すてんだっけもぉっ!」
牛乳をパックから直にがぶがぶ飲んでいた湯上がりのユウトは、スパッツ風の肌着一枚という女性にあるまじき格好で床に
あぐらを掻き、電話相手に文句を垂れる。一向に連絡が無かったので結局タケシの分までコロッケを平らげたが、腹の虫は収
まっておらず、叱責の言葉は郷訛りが全開である。
「まったく〜…!一言ぐらい留守電か書き置きか残すようにしてよ!何?急な仕事でも入ったの?」
頬を膨らませたユウトだったが、抗議を無視して本題に入ったタケシの言葉を聞く内に、その表情を硬くしてゆく。
「…嘘…!?こうしちゃいられない!」
声を上げたユウトはタケシの話を聞きながら、ドスドスと自室に向かった。
車を止めたケンノスケは、夜も更けたせいで人の出入りも絶えた、喪に服す民家を眺める。
看過できない疑惑が生じたものの、しかし証拠は無い。
ここまで来たのは良いが、ここからどう動くべきかは考え中である。
しかし、ケンノスケのそんな迷いはすぐさま吹き飛ばされる。
外の空気を吸おうとして僅かに開けた車窓から、怒鳴り声が飛び込んできたせいで。
何だ?と疑問を感じる前に、ケンノスケはドアを開けて飛び出していた。
そして、おそらくは声の出所と思われる家の側面へ回り込み、大きな荷物を二つ運び出し、ワゴンに積み込もうとしている
二人の男を見つける。
その荷物は袋で、大人ほどもあり、しかも長くて、まるで人が入った寝袋のようであった。それも、芋虫のようにもぞもぞ
と動いている。
「待て!何をしている!」
声を上げたケンノスケに気付き、男の一人は引き摺っていた袋から片手を離して懐に入れた。が、
「警察だ!動くな!」
続いた声でハッとなり、拳銃を抜きかけた手を戻す。
せっかく目的を果たしたのだから、警察機関とトラブルは起こしたくない…。本音を言えばそんなところである。
迅速な拉致を成功させた男達は、ケンノスケが駆け寄るよりも早くワゴンに乗り込んだ。
急発進するワゴンをそのまま追う事は諦め、ケンノスケはエンジンをかけたままの車へ駆け戻る。
乗り込むなりサイドブレーキを外し、アクセルを噴かして急発進させたケンノスケは、かなり距離が空いたものの、運良く
直線だった為に見失わずに済んだワゴンを追う。
まるで自分が駆けるように前傾姿勢になり、眼を凝らして夜道とワゴンを睨むケンノスケの目は、しかし数秒後にまん丸に
なった。
先行するワゴンの前、ライトの光に浮かび上がったのは、遠目にも存在がはっきり判る巨体…。金色の被毛を纏う大熊の姿。
行く手を塞ぐようにワゴンの前に飛び出したユウトの体が、ライトとは別の光源によって淡く光っている事には、離れてい
る事もあってケンノスケは気付けない。
「危ない!」
ケンノスケが思わずそう声を上げたのと、ユウトがワゴンと衝突したのは、ほぼ同時であった。
重い、そして鈍い衝撃音と、甲高いタイヤのスリップ音は、車内まで届いた。
次の瞬間、ワゴンの左側に大きな熊が転がる。
「クマシロ君!」
悲鳴に近い声を上げたケンノスケは、走り去るワゴンの後方でユウトが素早く身を起こすと、ぽかんと口を開けた。
憮然とした顔つきで立ち上がった金熊が鷲掴みにしているのは、切れた配線をぶら下げてごっそりと抜けた、左側のフロン
トライト。
すれ違い様に燐光を灯した左腕を振るい、車体に手を引っ掛けて助手席側にしがみ付き、窓を破って侵入、制圧するつもり
だったユウトは、しかしワゴンのライト周りの脆さと二百キロ近い自分の体重が仇となり、惜しくも取り逃してしまった。
ユウトがモロにはねられたとばかり思ったケンノスケは、何事も無かったようにすっくと立ち上がった金熊を見て唖然とし
ながら、ブレーキを踏んで彼女に車を寄せた。
「く、クマシロ君!?大丈夫なのかい!?」
「無傷です。機動隊にも回ってない最新の技術で作られた特別素材なんですよ?この服」
服のおかげで無事だと主張するユウト。当然嘘である。
確かに防弾防刃ベストを羽織っているものの、他の部位を覆っているのは普通の衣類。ユウトが無傷なのは、瞬間的に発生
させた力場で衝撃を緩和したからに過ぎない。
自分がエナジーコート能力者である事をケンノスケに話すと後々面倒を招きかねないので、ユウトはとりあえずこの場は嘘
で誤魔化す事にした。「表」の警察官であるこの中年を、自分達の領域へあまり深入りさせたくはなかったのである。
「イヌイ警部!詳しい経緯は後でお話ししますけど、あいつら、あの家のお父さんが連続殺人犯だって断定して動き出したみ
たいです!」
「ちょっと待ってくれ!「あいつら」って何だい?連中は何者なんだ!?何故あの家の…おそらくは世帯主と血縁者の誰かを
拉致する!?」
「これまで因縁がはっきりしてなかったんですけど…、連中、復讐が目的だったらしいんです!殺して落とし前付けるつもり
ですよ!」
「何!?何でそんな…!?い、いやそれより今は…!は、早く乗って!」
物騒な話に面食らったケンノスケが、それでも大慌てでロックを外すと、ユウトは後部座席のドアを開けて窮屈そうに体を
捻じ込んだ。
「ボクが出来る程度の推理は、状況の情報さえ揃えば連中だってやってのける…。小規模組織だと思って侮ってた…!」
車を大きく揺らして後部座席へ尻を据えたユウトは、すぐさま走り出した車の中で運転席と助手席の間から前方へ腕を突き
出し、その太い人差し指で先を示した。
「四つ目の角を右折しました!追いかけましょう!ボクらが離されちゃったら、拉致されたおじさん達殺されちゃいます!け
ど、こっちが追っている間は向こうも下手には…!」
いずれ殺すつもりにせよ、追跡が確認できる間はそんな余裕は無い。
逆に言えば、追っている自分達の姿が相手からも確認できる間は、囚われた二人がとりあえず無事である可能性は高い。
ユウトの意図を察したケンノスケは、すぐさまアクセルを踏み込み、速度を上げる。
帰宅後だった以上仕方無いとはいえ、この状況で頼るべき足がサイレンの無い自家用車である事は悔やまれた。
「聞かせてくれ!あいつらは何者で、あの一家とどういう関わりが!?」
目まぐるしくハンドルを切り、必死にワゴンを追いながら、ケンノスケは声を上げる。
「イヌイ警部はおっしゃってましたよね?最初に引っかかりを覚えたのは、次男が亡くなったこの間の交通事故だったって…」
「ああ、言った。それが?」
「その事故で巻き添えを食って亡くなった中に、連中の関係者が居たんです。あの事故が仕組まれた物だって気付いて、落と
し前をつけようというんですよ!」
「事故に巻き込まれた中に、連中の関係者…?何者なんだい?暴力団?」
「それは…、秘匿事項に絡んで来るから詳しくは言えないんですけど…、まぁ暴力団みたいな物だと思って貰っていいかも」
曖昧に誤魔化したユウトは、猛スピードでこちらを振り切りにかかるワゴンのテールランプを睨みながら続けた。
「そういった事情で話せなかったんですが、元々ボクは連中の動向を監視してたんです。連中は今、他の組織とちょっともめ
てるもんで…。けどここ数日、連中は抗争そっちのけで一般人の調査をしてた。そこでボクも彼らの調査対象について調べ始
めて…」
「なるほど…、その調査途中で同じ事を嗅ぎまわっていた私の存在に気付き、こうして一緒に行動する事に?」
合点が行って頷いたケンノスケに、ユウトは耳を倒して詫びる。
「黙ってて済みません…」
「いや、そこはいいよ。話せる事と話せない事があるのは、私も承知していたつもりだから」
巧みにハンドルを操り、後輪にけたたましい嘶きを上げさせて急カーブを曲がり切ったケンノスケは、後部座席中央に踏ん
張るユウトに尋ねる。
「復讐って言ったね?あの事故で巻き添えを食った誰かが、連中の仲間だったと…」
「仲間っていうか、今のお頭の息子です。つまり跡取り…」
「なるほど、それで復讐ねぇ…。それと、これだけは教えて欲しいんだが…、連中のヤバさは?暴力団クラス?」
「人数はそうでもないですけど、武力の面で言うと立派な極道さん達と同等です」
「…そうかい…。それで、君はどうしてあの場所に?今夜連中が動くことが判っていたのかい?」
「いいえ、さっき連絡があったんですけど、ボクの相棒が連中のアジトに踏み込んでいて、制圧後に聞き出した拉致計画につ
いて教えてくれたんです。それから大急ぎでこっちに向かったおかげでギリチョン間に合いました。…いや、間に合わなかっ
たのかな…」
「なるほど。しかしお互い凄いタイミングだ…。私の方は虫の知らせみたいな物があってね、さっき来た所だったんだ。…と
ころで、君の相棒達が制圧したっていうアジトから、連中を止める事はできないのかな?」
まさかユウトの言う相棒がたった一人で事を成し遂げたとは想像もせず、ケンノスケは特殊部隊のような整列した十数名の
男達を思い浮かべながら訊ねる。
「一応、連中のお頭から中止命令を出させようとしたんですけど、作戦行動中は携帯切ってるらしくて、拉致は計画通りに進
んじゃってるみたいです…」
「と、言う事は…」
「ええ、こっちで本人達を直接止めなきゃいけません」
そう言うユウトは胸の前で左の拳を右手にバチンと打ち付け、大きく鼻息を漏らした。
しばしのカーチェイスの後、ケンノスケはワゴンを取り逃がした。
元々少なくなっていた自家用車のガソリンが底をついたせいである。
「情けない…!」
走りながら零したケンノスケの先では、ユウトが携帯で何か話しながら駆けている。
太っているユウトは足を踏み出すたびに豊満な腹や各所の贅肉が大きく弾んで波打つが、ペースそのものはかなり速い上に、
電話しながら走っていても息一つ切らさない。
ケンノスケはついていくのがやっとだが、これでも中年刑事に配慮してペースを抑えている。
「連中のワゴン、ここから少し先で止まったみたいです。雑居ビルに入って行ったって!」
タケシがユミルから得ているリアルタイムの監視情報を、ユウトはケンノスケに告げた。
もっとも、ユウトはタケシが親玉から位置情報などを聞き出していると思い込んでおり、ケンノスケは調停者独自の監視シ
ステムか何かを用いて得た情報だと勘違いしている。
程なく乗り込んだ雑居ビルは、営業しているバーが二つだけで、残る8部屋は空き店舗という五階建て。
鼻をスンスン鳴らして匂いを嗅ぎながら、ユウトは階段を駆け上る。
三階のロビーに上るなり、金色の熊は掃除も満足にされていない汚れた床を見下ろし、痕跡を目で追った。
空色の瞳は奥のドアへ続く極めて薄い足跡を見逃さない。
目で合図し、自分が先行する形で前に出たユウトは、足跡が消えた先…おそらくは飲み屋の看板が剥がされたのだろう変色
が見て取れるドアに、そっと身を寄せる。
次の瞬間、いきなり開いたドアの隙間から、銃声と弾丸が飛び出した。
スコープで確認しての不意打ちだったが、しかしユウトはこれを予期していた。追跡に無警戒な逃亡者など居ない。まして
や非合法組織、反撃できる所では反撃して来るのが当然である。
鳩尾に命中するはずだった弾丸は先に展開されていた力場に弾かれ、弾頭をひしゃげさせて床に落ち、ユウトに傷を負わせ
られなかった。
即座に反撃に転じたユウトは、薄く開けられたドアに手をかけ、その怪力を持って張られたチェーンすら物ともせずに引き
開ける。そして、ドアの内側に立っていた男が、驚きながらも銃を顔に向け直す一瞬の間に、素早く手首を捉えていた。
腕を捻り上げられて悲鳴を上げた男の手から拳銃が落ち、がらんとした室内に潜んでいたもう一人の男が銃を構える。
「調停者だ!抵抗は止めて。君達の親玉はさっき捕らえられた。投降を勧告するよ」
捕らえた男を捻り上げて悲鳴を上げさせ、仲間の男を牽制しつつ言い放ったユウトは、しかしすぐさま表情を険しくした。
「…居ない!一人足りないし、さらわれたはずの人達も居ない!」
「何だって!?」
驚きの声を上げたケンノスケは、ユウトの巨体と入り口の隙間から中を覗くが、カウンターやテーブルも撤去された元飲み
屋に、隠れられそうな場所は見あたらない。
トイレは別室になっているものの広いトイレはドアが開けっ放しで中が丸見えになっており、誰も居ない事はすぐに判った。
「…上か!」
埃の溜まった床に残る足跡を追ってここに入ったが、もしかしたら一度そのまま階段を昇って、人質は別の部屋に監禁した
のかもしれない。
ケンノスケは即座にそう判断し、「済まない、任せる!」と言い残し、踵を返して駆けだした。
「ちょ、ちょっとイヌイ警部!?」
相手は銃を持っている。丸腰のケンノスケが一人で立ち向かうのは危険であった。
しかしユウトが目を離した隙に、仲間が捕らえられたせいで躊躇っていた男が、金熊の頭に銃口を向け、狙いを定めてトリ
ガーを引き絞る。
「くっ!」
力場を展開して弾丸を弾いたものの、ユウトの頭部が着弾の衝撃で僅かに揺れる。
そして、金熊はぱっと散った赤に腕を染め、目を見開いた。
捕らえていた男の首筋と肩の境界線から、血が噴き出している。
「…あ…!」
発砲した男が青ざめる。ユウトを狙った弾丸は、弾かれた上で壁から跳弾し、仲間の首筋に命中していた。
当たった位置が悪い。ぐったりと力が抜けた男を床に下ろしつつ、ユウトは歯ぎしりした。
生殺与奪の権限を与えられてはいるものの、なるべくなら不要な殺しをしたくないユウトは、例え相手が犯罪者でもそうそ
う非情になれない。母の仇である組織を相手取った場合や、心底怒り狂っている時は別だが、二流三流の軽犯罪者は、極力殺
さないで済ませようとする。
止血用発泡スプレーを懐から取り出した金熊は、しかし中身が少なく噴射がすぐに止んでしまい、焦りの声を上げた。
「止血できる物は無いの!?包帯でも何でもいいから!」
仲間を傷つけたショックで立ち竦んでいた若い駆け出し犯罪者は、「うう…!」と呻いた後、結局銃を下ろして同僚に駆け
寄った。
「済まん!済まんヒラツカさん!」
既に意識がない同僚に詫びながら、男はハンカチと小さな救急パックを取り出した。
(この連中は確か三人組み…。ぐぅ…!イヌイ警部も放っておけないけど、見捨てても行けないし…。えぇい!急いで応急処
置して追いかけなきゃ!)
焦りながらもユウトの手は男からパックをひったくり、テキパキと止血を始めた。
階段を駆け上ったケンノスケは、二つ見えるドアを交互に見遣り、まず手近なドアに駆け寄ると、「警察だ!」と叫び、反
応を窺った。
先程はいきなり銃撃があった。普通の相手ではないとさっしているケンノスケは、声を上げながらドア脇の壁に埋め込んで
ある消火器を手に取ったが、中で何かが動くような気配は無い。
令状を取って早朝からがさ入れに入る事もある刑事ならではの感覚は、その家屋や部屋の中で動きがあれば、かなりの感度
でそれを察知できる。
息を潜めているのではなく、居ないのではないか?そう考えたケンノスケがもう一方のドアへ視線を向けると同時に、そち
らから言い争うような罵声に続き、悲鳴が聞こえた。
弾かれたように駆けだしたケンノスケがドア脇に身を寄せると、悲鳴は尾を引いて遠ざかり、そして途切れる。
危険だとしてもぼやぼやしていられない。そう判断した中年刑事は、果敢にもドアを引き開け、脇の壁に身を寄せつつ声を
張り上げた。
「警察だ!全員動くな!」
覚悟していた銃撃は、しかし来なかった。
呼吸を整え、慎重に中を覗いたケンノスケは、その部屋が倉庫のようになっていた事に気付く。
長テーブルやソファーが乱雑に置かれ、ダーツや少し古い型のカラオケ機材が、埃を被って放置されていた。
それらの隙間から覗けた突き当たりに見える、下の階の部屋と同じ作りの、おそらくはトイレであろう空間に、若い男が一
人ぽつんと立っている。
その男があの家の長男である事を確認したケンノスケは、世帯主であるその父親と、ユウトの話ではもう一人居るはずの拉
致犯の姿が見えず、軽く困惑した。
「…君は…」
「ああ…、刑事さん…ですか?」
蒼白な顔で向き直った若者は、ケンノスケを見つめて横へ退いた。
半ば彼の陰に隠れていた窓が開いていた事を、その時にケンノスケは確認する。
「父が…、落ちて…」
はっとして部屋に駆け込み、窓から首を出して下を見たケンノスケは、暗い路面に微かに見える、人影らしき物を認めた。
間に合わなかった。
痛恨の思いで歯を噛みしめたケンノスケは、青白い顔の若者を見遣った。
「窓から逃げようとしたんです。けれど、伝っていくにも手をかける所がなくて…、それでも父は諦めなくて…」
俯き加減でそう言うと青年はへたり込んだ。
その、気力が尽きたような、力なく座る青年を見下ろし、ケンノスケは確信した。
イメージ先行。ヒントとなった、息子が口にした言葉が耳元で響く。
「詳しく聞かせてくれないかな…?」
「はい…。父は、窓から壁伝いに別の建物に…」
その言葉を遮り、ケンノスケは真っ直ぐに若者の目を見つめ、口を開いた。
「君は…、何故これまで家族を殺し続けて来たんだ?」
青年の目にさっと走った動揺を、中年刑事は見逃さなかった。
「そ、そんな…、何故僕がそんな事を…」
同情を引くように、そして非難するように、弱々しく眉根を寄せて呟く若者に、ケンノスケは言った。
「君の態度は不自然だ。得体の知れない連中に身に覚えもないのに連れ去られたら、普通は助けを求めるだろう。なのに君は、
まず「父が誤って死んだ」事を私に伝えて来た。それだけならば、よほど家族思いなのだなぁと見る事もできるがね…」
一息にそう告げたケンノスケは、一拍置いてから続けた。
「窓から転落する前に、助けを呼ぶのが普通だ。連中にばれないように脱出するなら静かにやらなければならないだろうが…、
脱出を試みたというのは嘘だろう?私も見たが、あの数センチのとっかかりも無いような壁を伝って逃げるなど、何の道具も
持たずに考えたりはしない」
「…酷いですよ刑事さん…。追いつめられていたんですよ、俺達は…。怖くて怖くて仕方なくて…」
「あの壁面を伝って逃げようと考えるほど追いつめられているなら、窓が開いた時点で助けを求めて叫ぶんじゃないかな?」
若者の反論をぴしゃりと遮り、ケンノスケはじっとその目を覗き込む。
「窓から逃げられないかと提案したのは君だね?そして、身を乗り出して外を確認したお父さんを…、無理矢理押し出して落
とした」
中年刑事は窓を見遣る。うっかり落ちてしまうには狭い、どうとでも手がかけられる窓の縁には、積もっていた埃がくっき
りと指の形に無くなっている部分がある。
「以前家が焼けたあの火事の時もそうだったんだ。今と同じように、君は一見被害者で…。それ故にイメージ先行で除外して
しまっていたんだ。…次々と亡くなる家族の中で、残った二人…。余計な情報を省いて見れば、犯人はどちらか一人…、ある
いは二人とも共犯か…」
ケンノスケは視線を若者に戻した。
「あの火事は君が起こした。確実に殺すために薬剤まで調合してね。あの火事で使われていたのは、中学生レベルの元素記号
の知識と、きちんと理解して応用する能力、そして行動力とお小遣いがあれば子供でも作れる薬剤だった…。違うかい?」
ユウトから聞かされた薬剤についての推測を思い出し、ケンノスケがそう述べると、若者は観念したように目を伏せた。
「…あれは、俺にとっても失敗だった…。母さんを死なせてしまった…」
呟いた若者は、握った拳を震わせる。
「許せなかったんですよ…。父を…!なのにアイツは、殺そうとする度に運良く生きながらえて…!」
若者は父から虐待を受けていた。
しかも若者だけではない。母親も、弟もである。
母親は心労から体調を崩し、弟は父親の顔色を神経質に窺う習性がついていた。
しつけと称して過度な暴力が振るわれている事は、外には一切漏れなかった。
だが、若者が中学生になっても暴力は止まず、我慢が限界に達した彼は、ついにある事を計画する。
危機の排除。授業で習った様々な動物達が外敵や危機に立ち向かう様を思い浮かべ、彼はその行為を自分の中で正当化した。
比喩ではない、父殺しという行為を…。
だが、彼の計画は失敗した。
薬剤を作ったまでは良いが塗布した際に見積もりを誤り、着火後に階段が炎で塞がり、母を助けに行けなくなってしまった。
その上、帰宅していたとばかり思っていた父親は、職場に呼び出されてすぐに出て行ってしまっていた。
もしも誰も死なず、ただ家が焼けただけだったなら、懲りて止めたかもしれない。
だが、失敗して母を死なせてしまった事で後に引けなくなった。
母の死すらも父親のせいにし、若者は殺害計画を練り直した。
そして思いついたのが、ベランダを滑落させるという手段である。
だが、結果から言えばこれも失敗に終わる。
屋根の上に張り出したベランダの支えに細工し、本体を錆びさせていったが、祖父がその支えに気付き、疑問に思って弄っ
てしまい、結果、補強の支えを失ったベランダごと転落し、亡くなった。
そして、悔やみながら挑んだ三度目、父が遠出する際に、あまりあてにせず運転席の床に空き缶を転がした。
死んでくれればラッキーという考えだったが、これが最悪の結果をもたらした。
運転手を命じられた弟が、父親を下ろした後に空き缶のせいでブレーキを踏み損ね、事故死したのである。
三度の失敗で家族を喪って来た若者は、その全てを父のせいにして、憎悪を増幅させていった。
犠牲を出したせいで、立ち止まれなくなった事もあって…。
「はっきり言って、わけわかんなかったですよ、今日は…。葬儀屋の関係者を装って裏口に回ったあの連中が、突然スタンガ
ンですから…。縛られて、袋に押し込まれて…、混乱はしたけど、でもどさくさ紛れに殺すチャンスだと思いました…」
若者は薄く笑う。
「傑作だった。「何でこんな事を!?」なんて言うんですよ?あの馬鹿親父…。判ってなかったんだ、自分が憎まれてる事…。
おめでたいですよね…」
とうとうと語る若者を、ケンノスケは痛ましげに見つめる。
彼が家族を殺しているのではないかと、それまでとは発想を間逆にできたのは、息子との会話がきっかけであった。
キーワードだけではない。ケンノスケが養子に迎えた息子は、不運にも生みの親を両方喪っている。しかも錯乱した母親の
手で殺されかけ、その結果重傷を負い、生死の境を彷徨った。
そんな息子が長らく悩んでいたのは、反射だったとはいえ、自分が母親を刺した事である。結果的に彼の本当の母親は自刃
して亡くなったのだが、それでも、大好きだった母親に刃を向けた自分が許せなかったらしい。
親友に支えられ、ようやく立ち直って歩き出せた息子との会話で、親を亡くす辛さはこの子も知っているよなぁ、などと考
えたケンノスケは、そこから心の一部を刺激されたのである。
その僅かな刺激が、妻に息子との会話について話して聞かせてやっている内に増幅され、疑惑が芽生えた。
もしも同じ話を他の誰かとしても気付けなかったかもしれない。他でもないあの息子との会話だったからこそ、ケンノスケ
に閃きがもたらされたのであった。
「逮捕…ですか…?」
「普通なら。だが今回はどうなるのか…」
力無く呟く若者に歯切れ悪く応じたケンノスケには、ある予感があった。
ユウトが出張って来たのは、恐らく彼女自身が言った事の他に、ケンノスケが知り過ぎないように、監視役としての役目も
あっての事だろうと察しがついている。
知ってはいけない存在と間接的に関係しているこの件は、おそらく通常の事件としては扱われず、表沙汰にならず、真相究
明もされないまま闇に葬られるのだろう。
とにかく、署に連絡して応援を呼ぶか、餅は餅屋でユウトに相談するか、ここからどう動くべきか決めなければいけないと
頭を巡らせ始めたケンノスケは、
「…!?」
今回限定の相棒である金色の大熊の事を思い浮かべ、何気なくドアを振り返った所で硬直した。
黒光りする拳銃を握った男が、出入り口で仁王立ちになっていた。
一時その存在を忘れていた三人目。彼が席を外している間にこの階に上ってきたケンノスケは、銃を構えたその男と動揺の
視線を交わすなり、反射的に横へ身を投げ、叫んだ。
「伏せろ!」
ケンノスケが若者を押し倒すのと、警告を発する前に向き直られ、目が合ってしまった事で動揺した男が思わず引き金を引
いてしまったのは、ほぼ同時であった。
覆い被さるようにして若者の上に倒れ込んだケンノスケの口から、「ぐあっ!」と苦鳴が上がる。
元々狙いが正確では無かった弾丸は、そもそも動かなければケンノスケには当たらなかった。ところが若者を庇おうとした
せいで、大腿に被弾している。
体の芯に硬い衝撃と痺れが走り、それは銃弾が大腿骨に命中したからだと悟る。
大腿の太い静脈が破れ、骨が粉砕されたケンノスケの足からは夥しい血が溢れて、瞬く間にズボンと床を染めて行った。
「な、何で…!」
自分が庇われたと知った若者は、歯を食いしばって震えている中年刑事を、信じられないような物を目にしたような顔付き
をしながら見つめた。
「殺人犯なのに、何で庇うんですか…?」
「これでも…、公務員の端くれなものでね…!」
苦痛を堪えて呻いたケンノスケは、
「イヌイ警部っ!?」
悲鳴混じりの声を聞き、目だけ動かして出入り口を見遣る。
ちょうど、立っていた男が横合いから伸びたごつい大きな拳骨に殴り倒され、四角い空間から姿を消す所であった。
代わりに入り口に現れたのは、見上げるような金色の巨体。
「撃たれたんですか!?」
声を上げつつ、体の大きい自分には邪魔になる物品を乱暴になぎ倒し、ユウトはケンノスケに駆け寄る。
「幸い…、生きているようだけれどね…」
無理矢理口を笑みの形にしようとしたケンノスケは、失敗して顔を歪める。
屈み込むなり傷の程度が深刻である事を見抜いたユウトは、その顔を硬い表情で彩る。
「まず止血を!…う…!もう包帯すら無いんだった…!」
即座に携帯を取り出し、ユウトは調停者用の専用回線でその筋の病院へ緊急コールを入れた。
「気をしっかり持って下さいイヌイ警部!すぐ救急車が来ますから!」
自分が庇われた事が信じられず、呆然としている青年に、ケンノスケは痛みを堪えて顔を向けた。
「彼も確保を…」
「え?」
「父親の…殺害容疑だ…」
状況が飲み込めずに目を丸くしたユウトは、一緒に拉致されたはずの、青年の父親らしき人物の姿が無い事に気付く。
呻くように言って懐に手を入れたケンノスケは、自宅から直行したため、手帳も手錠も持って来ていない事を思い出し、苦
笑いした。
普通なら意識を失ったり、錯乱したりしてもおかしく無いほどの重傷を負いながらも職務を全うしようとするケンノスケの
姿に、ユウトはぐっと声を詰まらせた。
「…応援を頼みますから。後は任せましょう」
成人男性…しかも身長のあるケンノスケを軽々と抱え上げたユウトは、青年を一瞥して告げる。
「妙な真似はしないでね?」
「…逃げませんよ。逃げも、誤魔化しもしません…」
観念したのか、それとも目的を達したから大人しいのか、神妙な顔で頷いた青年から視線を外し、ユウトは急ぎ足で、しか
しケンノスケに負担をかけないよう慎重に歩き始めた。
そして、事件から一夜が明けた、翌日の夕刻…。
「…キイチには、黙っておいてくれないか?私の怪我の事は…」
足を吊られたケンノスケは、病室の個室…ベッドの上でそう呟いていた。
「え?でも言っておいた方が…」
躊躇う妻の言葉に、ケンノスケは静かに首を横に振った。
「さっちゃんと一緒だから不自由はしていないし、不安もないだろうけれど…、それでも親元を離れた寮生活なんだ。心配は
かけたくない」
「…そう…?黙っていても、あまり良くは無いような気もしますけどね…」
言葉を切った妻がドアの方を振り返ると同時に、ケンノスケもノックに反応して顔を動かす。
「お邪魔しま〜す。具合どうですか?」
ドアを遠慮がちに開けて覗いて来たのは、大きな金色の熊の顔。
本当はもっと早く足を運びたかったのだが、他県まで出張したタケシが、小規模とはいえ組織を単身で壊滅させたので査定
の規模が大きくなり、ユウトは事務所の番を一人でこなさなければならなかったのである。
…もっとも、待っていても客はなく、いつも通りに閑古鳥が鳴いていたのだが。
「やあクマシロ君。見ての通り、ちょっと情けない事になっているよ」
ケンノスケは苦笑いしながらそう言うと、妻に目配せし、席を外してくれるよう促した。
同時にユウトも半開きのドアからあちらを振り返り、「大丈夫そうです」と何者かに声をかける。
席を立った妻がドアに向かうのと、ユウトが扉を大きく開けたのは同時であった。
「よう。思ったより元気そうで、安心したよ」
ケンノスケは目を大きくし、その妻は立ち止まり、ユウトの後ろにのそっと立つ大熊を見つめた。
『あっ!?』
犬夫婦が見知った顔を凝視しながら揃って声を上げると、ゲンゴロウは苦笑いして鼻の頭をコリコリ掻いた。
「…なるほど。親戚筋…ですか」
ユウトとゲンゴロウの説明で、ケンノスケは納得した。
極めて大柄な二人がベッドサイドの小さな椅子に窮屈そうに腰を据えているせいで、個室が一気に狭くなったように錯覚し
ながら。
件の連続殺人事件は、秘匿技術に関わる組織が関係して来るという事でおおっぴらにはならず、刑事事件という扱いにはな
らなかった。
つまり、公的にはあの事件は無かった事になり、同時にケンノスケが銃撃された事も無かった事にされている。当然、彼が
昨夜救急搬送されて入院した事はまだ職場程度でしか知られておらず、部外者のゲンゴロウが知っているはずはなかった。
にも関わらず彼が現れ、しかもユウトに同行して来た事から、軽い混乱をきたしていたケンノスケの頭は、彼らの説明を受
けてようやく理解できた。
「つっても今回は特別だ。たまたまあんたと同じ事聞きたがったユウトちゃんに話をしてやっただけで、俺ぁそっち側の件に
は関わっちゃいませんよ」
自分はあくまでも一般人。今回はたまたま馴染み二人が関係しそうだったので話をつけただけだと主張するゲンゴロウ。
こうして見舞いに来たのは、他でもない馴染みのケンノスケが重傷だと聞いて居ても立ってもいられなくなったからである。
今回に限ってはユウトに食い付いて無理矢理案内を承諾させたが、負傷したのが他の誰かだったならば、ユウトの立場を尊
重し、こんな無理は通さない。
やがて顔を見て安心したらしいゲンゴロウは席を外し、室外でケンノスケの妻と話し込み始め、個室内ではユウトがここま
でに決まった事件関係者達の処遇について細かく説明を始めた。
ケンノスケの予想通り、あの青年は調停法に基づく保護と収監を受けるらしい。
裏と関わった者は、基本的に裏のルールによって裁かれる。また、彼自身にも、自分達と関わった者が何なのか伝えないら
しい。
「本当は自首するつもりだったそうです。お父さんを殺害さえできれば、後はどうでも良かったから…。でも、失敗で巻き添
えを出してからは、怖くなって、いつの間にか誤魔化す事を考えていたって…」
ユウトの口から若者の供述を一部聞かされ、ケンノスケは項垂れる。
彼自身の子供は若くして逝ったが、息子の気性が荒いこともあり、親子喧嘩は何度かした。もっとも、喧嘩レベル以上にエ
スカレートする事は無かったが…。
(ケントとは頻繁だったな、服装だったり、喧嘩の事だったり、私も口うるさかったから…。だが、お互いを本気で憎み合う
までには至らなかったな、流石に…)
束の間黙り込んでそんな事を考えたケンノスケは、思い出したようにユウトを見遣る。
「良いのかい?私にそんな事まで話して…。午前中にあのタネジマという警官が見舞いに来たけれど、詳しい事情は話せない
と告げて行ったよ?」
「ま、本当は駄目なんですけどね。あれこれ隠されたままじゃイヌイ警部がすっきりしないでしょ?それじゃあ大怪我までし
た甲斐が無いし」
ユウトは耳を伏せてペロッと舌を出す。
大柄な体格のせいで時々忘れ、少年か青年のように思ってしまうが、やっぱりこの子は女性なのだと、ケンノスケは急に感
じた。
ユウトが浮かべた表情は、まるでちょっとした悪戯がばれた年頃の若い女の子その物で、危険な世界に身を置く調停者には
見えなくなっている。
「あ、でもボクがバラしたって事は伏せて、知らないふりしてて下さいよね?でないと叱られちゃうから」
両手を合わせて拝むようにしたユウトに、ケンノスケは笑って頷いた。
例え立場は違えども、同じく街を守る者同士…。両者には奇妙な連帯感が生まれている。
もっとも、ケンノスケはケンノスケ、ユウトはユウト、基本的に管轄すべき場所は違い、そこに接点はまず生まれない。今
回は例外中の例外である。
事実、ユウトとケンノスケの仕事内容が一部でも被ったのは、この件が最初で最後であった。
ややあって、怪我人に無理をさせるのも悪いからと腰を上げたユウトは、部屋を出る寸前、ドアノブに手をかけたままで動
きを止めた。
作りつけの棚にコップなどと一緒に置かれた写真立てを目にし、金熊は小首を傾げている。
その視線に気付いたケンノスケは、「ああ…」と破顔する。
「息子なんだ」
写真立ての中には、スキー場と思われる真っ白な雪景色が広がっている。
その中で身を寄せ合っているスキーウェアを着込んだ三人は、ケンノスケとその妻、そして…。
「養子なんだよ。だから見た目は違う」
ユウトの疑問を察し、ケンノスケは写真の真ん中で微笑むクリーム色の猫獣人を見つめながらそう告げた。
頷きながらユウトは考える。勘違いでなければ、ゲンゴロウの倅の友人だったはずだ、と。
「可愛い息子さんですね」
「そうだろう?」
ユウトに頷いたケンノスケは、昨夜彼女が見た職務に燃える男の凛々しい表情はしておらず、正視を躊躇う程デレデレに緩
んだ顔をしていた。