殺戮の雪原(前編)

「た、たたた大尉ぃいいいいいいっ!むむむ無理です無理無理無理うひゃあああっ!」

白い巨犬の太い胴とモービルの間に伏せる格好で挟まれたミオは、甲高い悲鳴を上げる。

響き渡る銃声に、無数に飛び交う弾丸。時にライフル弾がスノーモービルを掠めて火花を散らす。

生きた心地のしない後方と前方からの銃撃の中間地点を、ハティが駆るマシンは巧みなライディングを見せて雪面の凹凸を

乗り越え、前方に展開する部隊…白きリッター達に迫ってゆく。

激しい銃撃の中、本来なら瞬く間にスクラップと死体に変えられてしまうだろうモービルとハティとミオは、しかしドレッ

ドノートの展開方式の一つ…ショックフィールドに守られているおかげで、際どい所で直撃を避け続けていた。

連続発生させる衝撃波からなる障壁を三角錐状にマシン前方へ、そして同じ形状で後方へと展開させたまま、見える範囲の

銃口を全て確認し、軌道を変えられそうにない種の銃からの射撃はモービルを操って避ける…。

いかに脳を電子的に補強してあるエインフェリアといえども、これだけの真似をすれば負荷が如実なダメージとして現れる。

にもかかわらず、ハティはその類い希な完成レベルにある感覚機能と反応速度、そして特別製の異常な脳によって、その処理

を完璧にこなしていた。

彼の能力を知らないリッターから見れば、迫って来る相手が銃撃を物ともしないようにしか見えていない。

ある者は、かつて出会った「ディッケ・ハティ」がやはり化け物であった事を再確認して萎縮し、またある者は、遭遇した

仲間から聞かされていた「ディッケ・ハティ」が予想以上の化け物であった事を確認して驚愕する。

その、浮き足立つ様子を見せた前列へ、白い巨犬と小柄な猫少年を乗せたモービルが唸りを上げて突入する。

彼らが密集陣形を取っていない事は、ハティにとっては有り難かった。僅かに空いた隙間を縫って、モービルはリッター達

の陣中央目指して疾走する。

しかし当然黙って通しては貰えない。

至近距離から銃を向ける者もあれば、果敢にも全長3メートルの対車両用超長剣を用いて進路に入り、直接攻撃を試みる者

もあった。その各々が同士討ちにならないよう気を配りながら、猛スピードで移動するハティの動きを止めるべく、適切な対

応を取る。

だが、放たれた銃弾は至近距離からでも何故か当たらず、直接攻撃を試みた数名は、その得物をトンファーから放たれた思

念波の弾丸で弾かれ、あるいは破壊される。

リッター達は決して弱くない。ラグナロクの精鋭にも負けない程の戦技水準を持つ、世界屈指の精強な部隊である。

だからこそハティを脅威と感じた。かつて自分達の仲間を退け、そして今また自分達の猛攻を涼風程にも思っていない、白

い巨漢の底知れぬ力を感じ取って。

中心部を掠める進路で戦列を貫いてゆくモービルの上で、やがてハティは目を細めた。

(…あの少年は…)

丁度中心部にさしかかり、発掘現場を右手に見る進路で疾走するモービル。その正面に躍り出た一際小柄なリッターは、右

手には高速振動する直剣を、左手には屈んだ大人がすっぽり身を隠せる大型タワーシールドを携えていた。

バイザーとヘルメットを着用して顔の大部分を隠していても、ハティには判る。

その少年騎士が、かつて戦技と言葉を交わした相手であるという事が。

(ギュンター騎士少尉候補生か…。勇敢だな)

赤毛の少年騎士は、仲間達が退け続けられている様を見ながらもなお、微塵も恐れる事無く進路へ割り入り、マシンの正面

に立ちはだかる。ハティは少年騎士のその度胸と、もう一つ別な物を評価した。

「ななな何ですあの子!?自殺志願者!?ぶぶっ、ぶつかっちゃうぅううっ!」

騒ぐミオの上に被さっていたハティは、僅かに身を起こして攻撃に備える。

対して、盾の下方を雪に刺して跪き、正面衝突に備えるギュンター。

「た、大尉っ!?大尉ぶつかっちゃいますよ!?」

ミオの声に、しかしハティは応えない。何かを見定めようとするような視線を、行く手の盾にじっと注いでいる。

ここに至るまで一人も傷つけていないハティだが、まさかあの若いリッターを挽き潰すつもりなのだろうか?ミオはそんな

事を考えて身震いする。

ハティには、誰かを殺して欲しくない。ミオはそう思っている。

それは単に少年自身が人死にを嫌うからというだけでなく、ハティ自身の事を考えての事でもある。

「恐れ知らず」のハティが最も恐れる事は、自分の素体となった「笛吹き男」ブライアン・ハーディーの影響を受け、自分

もまた殺人鬼となってしまう事…。

ハティから素体の秘密を打ち明けられているミオには、本人が気付いていなかった、殺しを忌避する心理がよく理解できて

いる。

それなのに少年騎士めがけて速度を上げるのは、一体どういう事なのか?ミオは困惑し、恐怖した。

一方、周りのリッター達も気が気でない。

「よせ坊主!」

「下がれギュンター!」

若輩者の蛮勇を諫めようと、仲間達が悲鳴に近い制止の声を上げるが、少年騎士は動かない。

盾の上から顔を出し、ハティを睨む少年の唇が、繰り返し繰り返し、同じ言葉を何度も小さく吐き出す。

「…い…。来い…。来い…!そのまま来いっ!」

間合いが狭まり、盾の陰にギュンターの体が沈み、完全に隠れた。

正面から迫るモービルを、いかに頑丈とはいえ盾一枚でどうこうしようというのか?

そう、誰もが愚行だと感じる中、しかしギュンター本人ともう一人だけは、その行為の真の意味を理解している。

ハティ側から見て盾の陰に完全に隠れたギュンター。

じっとその盾を見据えるハティは、無意識のうちにぐっと身を沈めていた。

それはミオの安全を確保したいという、思考と別次元の欲求からの行為ではあったが、分厚い肉に上からぎゅうっと圧迫さ

れたミオは、

「た、大尉キツいですっ!…あ、でもそれがまた良い…」

状況を忘れかけて妙な事を口走る。

しかしハティはその言葉にも応じない。より正確には、応じるという行為に僅かにでも神経を割く事を無意識に避けている。

(どちらだ?どちらで来る…?)

一点に意識を集中させているハティは、モービルと盾の間が10メートルを切った所で、進路を盾の左側へ変えた。

これ以上距離が狭まると、加速がついた雪上車の機動力では盾を避けられない、そんなぎりぎりのラインで。

そのタイミングを待っていたように、ギュンターは盾を蹴り飛ばした。正に、ハティが進路を変えた方向へ。

重量のある盾は蹴られただけでそう勢いは無いが、しかしその質量に加え、モービル自体の勢いがあるために、接触時の衝

撃は相当な物になる。

ハティはこの盾を、右手で引き抜いたトンファーから射出した思念波の弾丸で弾く。

鐘を突いたような鈍い金属音と共に盾が雪面へ転がったその時には、盾を蹴飛ばすなり立ち上がったギュンターが、高速振

動する剣を手にしてモービルの進路脇へ滑り込んでいた。

モービルはどう動いても剣と接触する間合いにあり、思念波弾を射出したトンファーは掴んだ腕ごと跳ね上がって、ハティ

の右脇腹は無防備にさらけ出された状態にある。

身を捻り、剣を両手で水平に構えたギュンターとモービルが接触するまで、時間にしてコンマ数秒。

ギュンターの行為に隠された真の意図を悟ったリッター達が、驚愕と感心の入り混じった顔で声を上げる中、少年騎士は剣

を素早く振るい、ハティの体を薙ぎにかかった。

が、どういう訳かギィィィイイイイイイインと、耳障りな甲高い金属的な音が響き渡り、ハティに接触する寸前で騎士の剣

が、鍔と柄、刃部分の三つに砕け散る。

武器を分解されたギュンターは驚愕の表情を浮かべながら、弾かれたように後方へ倒れ込んだ。

「良い奇策だったが、生憎、振動は私の専門分野だ」

尻餅をついた若き騎士を肩越しに振り返りつつ呟いたハティは、体の下…ミオの上を通して右側へ出し、少年騎士の剣へ向

けていた左手を、素早くハンドルに戻す。

本人も言うように、音から衝撃まで、気体から固体まで、振動させる事に関してハティやウルは専門家である。

シンプル故に工夫ができる彼らの現象制御型能力は、振動を読み取る事も、束にして破壊力を生み出す事も、振動に干渉す

る事も可能という、極めて高い応用力を持つ。

今回見せた現象は、既に発生している振動に対する干渉であった。

ギュンターの剣を一度間近で見て、リッター達の得物が持つ振動パターンを把握していたハティは、今回はその振動を後押

しし、増幅した。剣自体の耐振能力を上回る程に。

衝撃砲やヴァルキリーウイングで盾ごと攻撃するのは簡単だったが、殺したくない巨犬はあえて手間のかかる方法を選んだ。

その甲斐あって繊細な受け流しを成功させ、ギュンターを無傷で退け、ハティはミオの無事を確認しつつ先を急ぐ。

ようやく中央地点。抜かなければならないリッターはまだ半分居る。

「くそっ…!」

ハティの後ろ姿を見送り、悔しげに顔を歪ませて立ち上がったギュンターは、しかし駆け寄った仲間共々、弾かれたように

振り返る。

ハティを追って傾れ込んだ追撃部隊が、勢いを弱められつつも中央付近まで侵入していた。

「迎撃するぞ!」

分隊規模でまとまり、組織だった攻撃を始めるギュンター達数人の騎士。

追撃部隊はハティと違い、きちんと攻撃して来るきちんとした敵である。

先に良いようにあしらわれてしまった事もあり、リッター達は闘志を胸に奮起した。先頭の一機はギュンターの機転で追い

払ったものの、連中はまだ中心地であるここの発掘現場を狙っている…。リッター達は未だにそう思い込んでいる。

手を出さなければハティを追って行くだけの追撃部隊は、こうして熾烈な攻撃を浴びる事になった。

ここまでは、おおよそハティの計算通りに事が進んだ。

多勢に無勢は目に明らか、被害が大きくなる前に追撃部隊は退くだろう…。そう、考えていた。

だが、ここから彼の計算は狂う。

ハティは見誤っていた。追撃部隊が胸に抱くヘルに対する忠誠心を。

彼らのそれが、自分がゲルヒルデに抱く物と同等だという事に気付けたならば他のやり方を考えたのかもしれないが、ハティ

はここで、人生初の、致命的な読み違いを犯した。

追撃部隊は退かない。ヘルの命令を遂行するため、いかなる敵を前にしても前進あるのみ。例え損害が大きくなろうと、僅

かでも抜け、ハティを止められればそれで良い。

半壊すらも視野に入れた不退転の決意は、追撃部隊とリッターの衝突を、小競り合いで済まないレベルまで引き上げた。

犠牲を出しながらもリッター達の内側へ食い込んだ追撃部隊は、数の差もあって包囲される。

突撃の勢いも弱められ、やがて完全に止まり、押し潰されるのも時間の問題となったその時、白い世界に派手な赤が舞った。

銃撃すらも弱まり、怪訝に周囲を見回すリッターと追撃部隊は、周囲を吹き抜ける風に混じった赤い物を目で追う。

それは、赤い霧とも、赤混じりの雪ともつかない、奇妙な光景であった。

寒さのあまり臭気は感じられないが、しかしそれが血である事は、その場に居る全員に理解できる。

「例えばだ。牧場で育った牛が居る…」

唐突なその声は、それほど大きくないにもかかわらず、どういう訳か北原の強風にも負けずに全員の耳に届いた。

「生まれてから一度も飢える事なく、毎日たらふく飯を食い、広い牧場で伸び伸びと運動し、兄弟達とゆったり散歩する日々

を送る。雨が降れば牧舎に入り、風が強ければ壁に守られる…」

雪を踏み締める音を耳にし、追撃部隊を後方から射撃していたリッターが、ロングピストルを構えたまま振り返り、「あ」

とも「お」ともつかない声と同時に雪面に崩れ落ちる。

漂う霧がさらに濃くなり、雪面に転がった兵士の残骸から滲み出る赤が雪を染める。

その周囲で、ぼそっ、ぼそっ、と音が鳴り、雪に塊が沈んでは周囲を朱に彩ってゆく。

そんな中、戦列突入直後にモービルを降り、ゆったりと歩いて来た狼は呟き続ける。

「それが一般的な野生動物と比して満たされた生活だったとして、彼らは幸せと言えるだろうか?安全だと言えるだろうか?

いずれ確実に、解体されて食用肉になるとしても」

質問しているようで誰にも問いかけてはいない。どこか投げやりで億劫そうな口調で話している狼に、最も近くに居たリッ

ターが銃を向ける。

憎悪の声と共にトリガーが引かれたが、しかしリッターが手にしたマシンガンは火を噴かない。

そして、空薬莢が排出される代わりに、似たような形状の、厚い布に覆われた肉がポタポタと雪に落ちた。

それが自分の指である事を彼が認識するまで、コンマ数秒かかった。

「思うに、幸福であり、また不幸でもあるのだろう。一定期間の安全を保証されながら、決して天寿を全うできないのだから」

ウルはそう言いながら、自分に銃を向け、そして指を失ってマシンガンを取り落とした兵士に向かって、真っ直ぐに手を伸

ばした。

その指が、まるで見えないタクトでも振るうようにすっと動くと、指を切り落とされた事をようやく理解したばかりのリッ

ターの体が、瞬時にばらけて雪面に落ちる。

その肉体は他の同僚達と同じく、まるで加工されたパイナップルのように、細かな輪切りになって、ぼそっ、ぼそっ、と雪

に落ち、沈む。

「…では、完全な野生動物ならば幸せか?これについても諸説あるが…」

何事も無かったように続けながら、ウルは足を進める。

その背後には、彼の行く手を阻んだリッター達が、バラバラに切断されて雪面に散らばっていた。

血と肉片の道を造りながら、ウルの歩みは全く淀まず、止まらない。

「その生死を自身の力量と判断に委ねられている代わりに、基本的に保護者を持たず、いかなる庇護も受けられない。種によっ

ては人の手によって大がかりな駆除をされたりもする。では彼らは不幸なのか?」

リッターを分解しながら前進するウルに、リッターは勿論、追撃部隊の面々ですら、恐怖の視線を貼り付けている。

何が起こっているのか、ウル以外の誰にも判らなかった。

ただ、狼の周辺…直径30メートルにも達する範囲で、リッター達だけが、近いも遠いも関係なく、突然バラバラになって

一人ずつ死んでゆく。

順番は判らず、ランダムにも見える、突然の死…。

原理不明の惨殺攻撃をおこなっているのが本当にその狼なのかどうかも確信できないまま、リッター達は浮き足立った。

ハティはその力を垣間見せる事で、精強なるリッターに畏怖された。

だがウルは、静かな殺意を見せ付ける事で、リッターを恐怖させた。

同質の力と同スペックの身体能力、同レベルの改良と同レベルの思考チップを搭載した彼らは、仕様上は何処までも近い存

在でありながら、その中身は決定的に異なっている。

ハティと異なり、ウルは殺人を忌避しない。だが殺人を良く思っている訳でもない。

一言で表現するならば、「どうでもよいこと」なのである。

殺害が任務であれば当然殺す。

また、任務上必要であれば殺す。

必要無いなら見逃しても良い。

しかし邪魔なら躊躇無く殺す。

彼にとって他者を殺すという行為は、歩くのに邪魔な物を脇へ除ける事と何ら変わりがない。

抹殺対象となったスコルと相対したその時も、彼は躊躇せず殺しにかかった。

そして今、同シリーズで同時期生産、同ラボ出身の、兄弟とも言える存在であるハティを殺すべく動きながら、彼は全く忌

避心を抱かない。

死はそこら中に転がっており、世界に充ち満ちている。自分もいずれ機能を停止するだろうが、それについてどうこう思う

訳でもない。

石も土も岩も風も水も空も生きてはいない。生きている者より、生きていない物の方が世界には多い。

生こそ不自然な状況であり、死によって自然な状態に還る…。ウルは漠然と、世界をそういう物だと捉えている。

彼の素体となった男は、英国で生まれた。

表向きは有名なバンドのボーカルであった彼が、ハンターとして二足の草鞋を履いていた事は、勿論表の社会には知られて

いない。

なげやりに世界を憂い、どうでもよさそうな態度で命を慈しみ、欠落を抱えて戸惑う若者の心情を歌で代弁した、ぞんざい

で優しくがさつで繊細だった彼から、しかしウルへは生命賛歌の精神が全く受け継がれず、人工人格は造物主の理想通りに構

築された。

理想的な下僕にして理想的な兵士たる存在…。

ラグナロクを第一に考え、命令に決して逆らわない存在…。

味方の損害は軽く、敵への損害は重く、あらゆる利益と不利益を一切の私情を挟まず天秤にかけ、効率的かつ確実に使命を

全うする、的確な判断力と無情な思考、強靱な肉体と高い戦闘力を持ち合わせる存在…。

その、素体のポテンシャルと能力をそのままに、ガルムシリーズに求められた根源的な要求を完全に満たした唯一の男が、

最初のガルムにして最強のガルム…ウル・ガルムである。

「自由であるという事が生命の保証より価値があるとすれば、彼らもまぁ幸せではあると言えない事もない。このように、主

観によって幸福の形などいくらでも変わる。…まぁ、「だから何の話だ?」と言われると…」

ウルは周囲を見回し、感情のこもらない目でリッター達を眺める。

そして、ひょいっと肩を竦めた。

その動作と同時に、数名のリッターが首から上を寸刻みに分解される。

「君達にとってはどうでもいい話なのだろうがね。「こうあるべき」と定められて作られた私とは違う、「真なる家畜」でな

い君達には」



「この辺りで良いだろう…」

スノーモービルを止めているハティは、身を捻って後方を振り返り、じっと彼方を眺めながら呟いた。

崩れ始めていた天候は急激に荒れ模様となり、分厚い吹雪のヴェールが視界を遮って、もはやリッターの陣容は見えない。

リッターの布陣を真っ直ぐに貫いてから二十分以上走ったおかげで、遠くの山の見えている面が変わっているのがはっきり

判る。

突破は滞りなく果たしたが、ウルが居る以上、追撃部隊も確実に抜けて来る。

(彼らが迂回しなかったのは計算外だった。…失策だな。あれでは双方に多くの死者が出る…)

この期に及んでも不殺の理念を貫こうとするハティは、己の策で双方に被害が出る事を憂いた。そして顔を前に戻すと、

「ミオ」

モービルに逆さに座り、自分の豊満な腹部に手を回してきつく抱きつき、ガタガタ震えているアメリカンショートヘアを見

下ろす。

猛吹雪の中、ハティのように分厚い脂肪と豊かな被毛を纏っていない上に、そこらの少年以下の筋肉しか無いミオは、防寒

着越しに容赦なく体温を奪われて弱り切っていた。

温もりを得ようと、そして不安から逃れようと、必死になって自分にすがりつく猫を、白犬は目を細めて見つめる。

これから告げねばならない言葉…。それを口にする事をハティに躊躇わせる程、ミオは弱々しかった。

「ミオ。君はここで少し待っていなさい」

ハティが苦労して口を開くと、ミオは困惑した表情を浮かべて上官の顔を見上げ、次いで抱きつく腕に力を込めた。

「な、何です大尉?何するつもりで…」

「一度戻る。自分の尻は自分でぬぐうべきだ」

宣言するなり、ハティはミオを引き剥がし、共にモービルから降りた。

そして、詳しい説明を求めるミオを無視して手早く雪面に穴を掘り、断熱シートと保温材からなる簡易雪壕を拵え、有無を

言わさずミオと荷物を押し込んだ。

無口であっても、求めさえすればいつでも説明をくれたハティにしては珍しく、一方的で乱暴で強引なやり方に、ミオは怖

がるのも忘れて唖然とした。

守ると決めたか弱い少年を雪の中に閉じ込め、その入り口を埋めてカモフラージュしようとしながら、ハティは告げる。

「私が戻るまではここで待機だ。きちんと休んでおくように。…だが、もしも一時間経って私が戻らなければ、君は単独でも

予定のランデブーポイントを目指す事。良いな?」

それを聞いたミオの顔に、さっと怯えの色が浮かんだ。

「い、嫌です大尉!」

「ミオ、聞きなさい」

「大尉と一緒じゃなきゃ、絶対に嫌です!」

「ミオ…」

「ぼくも連れてって下さい!離れるのなんて嫌です!」

「ミオ。これは命令だ」

ハティが声に少し力を込めると、ミオは口をつぐんだ。

今にも泣き出しそうな少年の顔を見つめながら、ハティは胸の内で自嘲する。

(何でも命令で押さえつけるような、部下を納得させられないような上官には決してなるなと、ゲルヒルデ隊長に散々言われ

て来たが…、今の私が正にそれだな…)

心でミオに詫びながら、ハティは続ける。

「ここで一時間待機。それまでに私が戻らなければ、単独でランデブーポイントを目指す」

「………」

「命令だ、ミオ。復唱せよ」

いつしか保護者として少年と接するようになっていたハティは、軍人としての口調に戻り、ミオを叱咤する。

「い…一時間待機…、その後…、大尉殿が戻られなければ…、単独…で…、ランデ…ブー…ポイント…」

ミオの目から涙が零れ始め、雪壕入り口から舞い込む寒気と雪でたちまち白くなる。

鼻声になったミオの復唱は、終わり際には聞き取れない程弱々しくなっていたが、ハティはそれでも大きく頷いた。

「宜しい」

優しい言葉の一つもかけてやりたくなったが、しかしここで甘やかす事が正しいかどうか判断できず、ハティは束の間沈黙

する。

だが、やがて…。

「…ミオ…」

大きな手が少年の頬に当てられ、伝って凍った涙を親指で払い落とす。

「そこのポーチにマスカットグミが二袋入っている。次の休憩の時、一緒に食おう」

大きな白犬が目を細めると、少年はきつく目を瞑り、うんうんと小刻みに、何度も頷いた。

「やく…そ……!」

「ああ、約束しよう」

深く頷いたハティは、ミオを下がらせると、手早く雪壕の入り口を閉ざす。

中腰で入念にカモフラージュの具合を確認したハティは、腰を上げてモービルに向かって数歩進み、それから肩越しに振り

返った。

「……………」

無言のまま数秒間、雪の中に埋まっているミオの姿を見透かすように目を細めていたハティは、やがて首を巡らせ、再び歩

き出す。

ミオは雪の中に造られた空間に横たわり、膝を抱えてカタカタと震えていた。

モービルが走り去る振動も音も吹雪の声で聞こえなかったが、止めどなく涙を流す少年の耳は、その気配を追うように角度

を変えて行き、やがてぺたっと伏せられる。

「…た…、大…尉ぃ…」

すすり泣く声は聞く者も無く、彼のために拵えられた雪壕の壁に吸い込まれて消えた。



「例えば、保護を呼びかけられている生き物が居る。…パンダなどがそうだったか」

ウルはそう呟きながら周囲を見回す。

追撃部隊は既に包囲を突破し、ハティの去った方角へと向かった。残っているのはウルだけで、周りは死体と敵だけである。

安全確保の為にもできれば自分から離れて欲しくなかったが、任務が追撃である上に命令権も持たない以上、先走る彼らを

止める事はできなかった。

彼らが急ぎこの場を離れたのには、単純にウルを恐れたという側面もあるのだが、しかし狼にはそれが理解できていない。

味方である自分を恐れるという、理屈からではなく本能から来る心理を、ウルは察する事ができないのである。

「あれらは、増えてくれば保護が解除される訳か?もしも数万頭、数十万頭と増え、保護しなくとも勝手に増える土台が出来

れば、狩猟が認められるようになるのか?…それならば、数が増えない方が幸せと見る事もできるのでは?少なくとも、人類

が表立って敵に回る事は無いのだから」

相変わらず自問自答するように呟き続けながら、ウルはちらりと行く手に視線を走らせた。

リッター達は、この驚異的な襲撃者の歩みで陣を踏みにじられ、大半が潰走している。

輪切りにされた死体と血で汚された白いキャンパスには、それでも意地を張って残る数名の騎士と、ウルの姿があるのみ。

「また、増えすぎて生態系を崩すとして駆除される生物に、なぜ人類は含まれないのだろうか?知能があるから?つまり頭が

良いからか?ならば、種としての総意からすれば頭の悪い者は生存と生殖について優先権が低くなるという事なのだろうか?

公にせよ暗にせよ」

喋り続けながら自分に視線を据えたウルに、赤毛の少年騎士は焼け付くような激しい闘志を込めた眼差しを返す。

その背後には、発掘現場から出土した品が収められた雪上車。

何が出たのかも知らず、その重要性についても皆目見当もつかないが、任務上守らなければならないと、ギュンターは使命

感で両脚を支えている。

ウルの攻撃に巻き込まれ、右の二の腕を浅く切られた手負いの彼は、先程ハティに分解された剣に代わり、今は戦死した仲

間の死体から剣を借りて構えている。

怯えはあるが、しかしそれに絡め取られて竦んで動けなくなる程ではない。

気を抜けば崩れ落ちるかもしれないが、しかし今のところは使命感と闘志で己を支えられている。

「…ふむ。君はなかなかだ」

ずっと喋り続けていながらも、ウルがこの殲滅戦において、一個人に声をかけたのは初めてであった。

答えを求めない一方的な囁きではなく、評価として意図的に相手になげかけた言葉。

歳若く、未熟さと生気を全身から発散させるその騎士は、この戦闘においてたった一人だけ、ウルの目に止まった。

何故ならば、半分以上偶然に支えられたとはいえ、彼の技から逃れたこの場で唯一の敵なのだから。

ウルは少年を見つめながら考える。そろそろ潮時だろう、と。

これ以上の殺戮は無意味。しかしつっかかって来るので迎撃して殺さなければならない。

後半はそんな惰性によって続けられていた殺戮は、今ようやく、収めどころに落ち着こうとしていた。

「お互いにとって幸運な事に、私はその雪上車や君達の発掘物について興味はない。ここらでお開きと行こうか」

「何…?」

少年の顔に朱が射し、目がギラギラと獰猛に輝く。

一方的な殺戮に、一方的な終了宣言。単純で血の気が多い少年は、ウルの態度で頭に血が上った。

一泡吹かせなければ殺された仲間に顔向けできない。そんな意識もあるにはあったが、何よりも彼を突き動かす強い原動力

となったのは、単純な怒りであった。

誇りを踏みにじられた怒り。それを理解できないウルには、少年が何故怒るのか今ひとつ良く判らない。

ギュンターは強く歯を噛みしめながら挑む。

自分が向き合っている相手が、認識している以上の化け物である事には気付かぬままに…。