殺戮の雪原(中編)

「シィッ!」

気合いの息を吐くと同時に、少年の足下から剣先が振り上げられ、体の右脇で真っ直ぐ天を突く。

愚直にも剣を立てて駆け出し、真っ直ぐ向かって来る少年を眺めながら、ウルはため息をついた。

歳から言ってもなかなかなの腕、しかしまだ自分の敵には成り得ない。故に引き下がるならば見逃そうと思ったのだが、突っ

かかって来られるのは面倒くさい。やはり殺してしまおう…。

しっかりした思考ではなかったが、しかし漠然とそう考え、そして意志決定した狼が、ゆっくりと手を上げる。

その指先に煌めく物を、ギュンターは見逃さなかった。

「そこだ!」

切っ先が天を突く形に振りかぶっていた剣を、お辞儀するように上体を曲げながら振り下ろしたギュンターは、そのまま剣

の柄から手を離している。

全身を使った投擲によって回転しつつ飛んだ剣は、しかしウルの前で何かに当たったようにゆるやかに軌道を変えて逸れ、

やがて細かな鉄片となって雪面に散った。

「ほう…」

ウルが感嘆の声を漏らし、周囲のリッター達が目を見張る。

それは糸であった。それも、ごくごく細い、透明で強靱な糸。

両手に填めたグローブとリストバンド、そしてブーツから伸びるそれこそが、ウルの得物であった。

それらによって知らぬ間に絡め取られたリッター達は、からみつき、次いで張られるなり高速振動する糸によって輪切りに

されていたのである。

ウルの思念波を感知して自在に動き、手足の延長となるその糸は、本来であればスコルのような察知能力でも持っていなけ

れば、正体を看破するのは難しい。

ギュンターがウルの技の正体に見当を付けたのは、たまたま強い風が吹いた時に、血風によってそのシルエットが微かに浮

かび上がったせいであった。

解体されたリッター達は勿論、行動を共にしていたヘルお抱えの部隊すらも、彼の武器が何なのか、ここまでに把握できて

いなかった。

それどころか、多くの場合その解体は彼の能力による物と思い込まれ、武器を使っている事を看破できた者など殆ど居なかっ

たのである。

それを見抜いたギュンターの観察眼に、ウルは素直に感心した。

飛んだ剣を寸断させる事で、結界とでも呼ぶべき解体領域に僅かな隙を作り出したギュンターは、剣を投げたその体勢のま

ま、飛び込むようにして雪面に前転、そして雪の中に埋まっていたある武器を掴む。

一回転して身を起こしたギュンターの手には、全長3メートルの超長剣。対超大型危険生物用のツヴァイハンダーであった。

彼らの標準装備である騎士剣と同じ機能を有しながら、震動の出力、強度共に大きく上回る化け物長剣は、少年とほぼ同等

の重さがあり、高さでは倍近い。

成長途中の体格では明らかに持て余すその剣を、ギュンターは野球のスイングのように水平に振った。

間合いはまだ剣の外だが、構うことは無い。今回も投擲がその目的なのだから。

この強度と質量はさすがに手に余るのか、ウルは垂直に飛び、水平回転しながら飛んできた剣を跳び越える。

「貰った!」

その、宙に浮いたウルの胸めがけ、少年は腰の後ろから引き抜いたロングピストルから弾丸を放つ。

が、その弾丸はウルの体に届く事なく、軌道を逸らされてどこかへ飛び去った。

ショックフィールド。ハティのそれと同じ技術だが、ウルがそれを使用できる事と、その正体を知らなかったギュンターは、

この時点で打つべき手を失った。

まだ宙にあるウルの冷たい瞳が少年に固定され、伸ばした左腕から伸ばされた糸が、ギュンターの右腕を絡め取る。

その防寒防刃防弾服が、まるでハムのように段を生じさせ、ぴぴっと、幾筋かの切れ目が入ったその時、

「…ぐっ!?」

ウルの体、その衣類から毛先までもが激しく振動した。

さらには飛来した赤い三日月形の何かが、ギュンターの腕とウルの間を横切り、強靱な糸を容易く切断する。

その直後、まるで見えない力を叩き付けられたようにして、狼は宙のその位置からはじき飛ばされた。

皮膚が裂け、浮き上がった血で鼻先や額を染めながらも、ウルは四つん這いで着地し、鋭い視線をその男に据える。

「…相変わらず裏をかくのが上手い。戻って来るとは思わなかったが、この奇襲も最初から狙っていた物か?」

何が起こったか判らぬまま、ギュンターはウルを呆然と見つめていたが、すぐさま気付いた。

すぐ近くから聞こえる、モービルのエンジン音に。

はっとして振り向いたその時には、ギュンターは横合いから滑り込んできた何者かの太い腕で胴を抱えられ、真横に急激な

移動を強いられている。

Gでひん曲がった首を無理矢理戻して確認すれば、モービルを駆って自分をかっさらった相手は、つい先程剣を交えた白犬

であった。

「オーバードライブ…、セルブリザード!」

「オーバードライブ…、ホワイトアウト!」

ウルとハティは同時にオーバードライブ状態に突入し、全く同時に口を開く。

そこへ瞬時に吸い込まれ、体内で圧縮、振動波を与えられた大気が、両者の口から聞く者に死と破壊をもたらす咆吼となっ

て迸る。

この瞬間までお互いに知らなかったが、二人はそのたゆまぬ技の研鑽の末に、全く同じ技を編み出していた。

指向性の強い振動波による攻撃は威力も全くの五分で、重なり合って完全に消滅する。

両者とも驚くでもなく、当然の帰結とも言える技の相殺を冷静に観察しながら、互いの動静を見極める。

しかし二人が視線を交わしていた時間は、ほんの一瞬。

ウルは即座に前傾姿勢を取るなり、雪を舞い上げ、オーバードライブ状態ならではの高速移動でモービルに迫る。

パワーとスピードの基礎出力が互角である両者だが、分厚い脂肪が無い分、機動性ではウルが一歩先を行く。同じオーバー

ドライブ状態にあっても、駆け比べならばハティに勝ち目は無い。短距離であればモービルでも逃げられるかどうかは際どい。

距離を詰める狼に対し、ハティは握りしめたトンファーを水平に振るった。

思念波をエネルギー変換、トンファー脇から赤い翼を展開するなり放たれた扇状の断裂波は、ウルの足を止めるに足る物で

あった。

巻き上げた雪だけを先に進ませる急停止に次いで、後方への跳躍。その鼻先で一瞬だけ形成された断裂領域が消失する。

超高速疾走からの急制動と緊急離脱。生身の生物であれば体の構造上耐えられないほどの出力と負荷も、ハティ同様の頑強

さを持つウルの体にはさほどの負担にならない。

初めて見る攻撃に警戒し、ウルは足を止める。その隙に懐に手を入れたハティは、太い指で挟み込むようにして三本の筒を

抜き出した。

バックスイングで腕を振り抜き投擲したそれらは、ウルの周囲で糸に絡め取られ、すぐさまバラバラにされる。

が、それもハティの計算の内であった。

グレイブ特製の発煙閃光筒は、寸断されても煙をまき散らした。流石にバッテリーが破壊されて発光機能は損なわれている

が、高く保たれていた内圧によって煙が吹き出すという対破壊措置が施されているおかげである。

雪面に落ちた断片からこんこんと絶え間なく沸き上がる煙幕は、吹雪にもその全てを流される事はなく、目を細めた狼の視

界を閉ざす。

ウルの姿が瞬く間に煙に包まれるなり、ハティは大きく口を開いて声を上げた。

「退け!無駄死にしたくなければその男とは戦うな!」

白犬が上げた退避勧告は極々短いものではあったが、呪縛されたように動けなくなっていたリッター達の体を震わせるに十

分な音量であった。そしてその声は、敵対関係にあるはずの彼らですら命令に従わせるだけの威厳を備えてもいる。

リッター達が各々逃走に移った事を横目に見ながら、ハティはモービルの方向を定めてエンジンをふかす。

が、離脱する前に煙の中から飛来した何かがモービル側面に当たり、装甲を破壊して深々と突き刺さった。

モービルに突き刺さったそれは、硬く凍った氷塊であった。

低い音を立てて震動している、氷柱のように鋭く尖ったソレを横目で確認しながら、ハティは脇に抱えていたギュンターを

体の前に下ろし、モービルに跨らせる。

「な、何故…?」

何故助けた?ギュンターは戸惑いながらもそう問いかけようとしたが、ハティの言葉がそれを遮る。

「舌を噛むといけない。話は後にしよう」

(この状況で舌を噛むも何も無いだろうが…)

と思ったギュンターだが、離脱以外の事に神経を裂いている場合ではない事も確かである。大人しく口をつぐみ、牽制のた

めに予備の銃を取り出す。

「ルガーP08か。良い銃だ」

「舌を噛むといけないんじゃなかったのか?」

目ざとく銃を確認して口を開いたハティに、ギュンターは不満げに噛みつく。

しかし今は状況が状況な上に、理由はともかくこの白犬が自分を救ってくれた事は確かなので、一時協力する事で行動方針

を固めた。

ハンドルを操るハティの腕の下から、徐々に後方へと位置を変えてゆく煙幕の塊に銃口を据え、いつでも射撃できるよう身

構える少年騎士。

一方、さらなる攻撃を警戒しながらも、拾い上げた少年の安全を第一に考えるハティ。

奇妙な縁でモービルに相乗りする事になった両者の緊張は、しかし煙幕の向こうに潜むウルが動きを見せない事で、距離が

十分に離れた後に解けた。

吹雪のヴェールに遮られた彼方へハティ達が去ると、ようやく薄れた煙幕の中で、一見棒立ちのまま佇んでいたウルは、周

囲を固めていた糸の結界を解いた。

自分が知らない攻撃…トンファーからの遠距離広範囲攻撃を警戒しての措置である。

煙幕を盾に再び仕掛けられては回避もおぼつかないため、糸を張り巡らせ、切断させる事で攻撃の飛来を感知しようとして

いた。

この対応もまた、ハティの期待通りである。

先に無音進軍によって距離を詰められ、先手を取られはしたものの、それ以降、白い巨犬は狼に対して常に有利に立ち続け

ている。

その恐るべき洞察力と先読みは、たった今見せたように、戦術レベルのみならず、戦技レベルの読み合いですら類い希な鋭

さを発揮していた。

「敵に回してこれほど面倒な相手もそうは居ないな…。ハティを下っ端将校に甘んじさせていたのは、上層部の判断ミスと言

えるだろう」

まさかハティが素体の記憶を丸々受け継いでいるなどとは思ってもいないウルは、私情を挟まない損得勘定で彼を評価した。

だが、それで追撃の手が緩む訳ではない。評価はしても、殺す相手である事に変わりはない。

「…さて、モービルを回収するか…。本隊に追いつかなかれば…」

踵を返し、切り刻まれた遺体を顔色一つ変えずに踏み越えながら、ウルはモービルから降りた地点まで引き返しにかかった。



「…困った」

モービルの脇に屈み込み、破損の状態を確認しながら呟いた白犬の手元を、銃を構えて追っ手を警戒していたギュンターが

覗き込む。

ウルが手で放った氷塊は弾丸以上の破壊力を発揮し、ラグナロク製の新型モービルに致命的なダメージを与えていた。

装甲板がひしゃげ、それがエンジンルームを圧迫しており、制御用の電子機器類や配線が火花を散らしている。

「動きそうにないのか?」

「ここまで保ったのは奇跡と言える。乗り心地が良くて気に入っていたのだが…、残念だ」

残念どころの騒ぎではない。逃走の足を失ったというのに、この落ち着きようは何なのか?戸惑いと驚きでギュンターは言

葉に詰まる。

あの狼はもちろんの事、先程突破してこちら側へ進んだはずの敵部隊も脅威。敵だらけの状況で何故ここまで落ち着いてい

られるのか、理解に苦しんでいる。

最初こそハティと追撃部隊を同一の所属であると誤認したリッターだったが、ギュンターはここに来るまでに状況を分析し、

情報を整理し、ハティとあの部隊が敵対関係にあるという事は察している。

「徒歩で行くしかないな。…君の友軍は何処だ?」

素直に答えかけたギュンターは、しかし一度口をつぐんだ。

ここまでの全てが大がかりな芝居で、この巨漢はやはりあの部隊と仲間で、自分から本隊の位置を聞き出し、別働隊に急襲

させるというシナリオが進行しているのでは?

そんな疑念を抱いたギュンターの心境を見透かし、ハティは続ける。

「正確な位置まで言う必要はない。徒歩での到達が容易かどうか、それだけ知りたい」

「…知ってどうするつもりだ?」

警戒を緩めず訊ねたギュンターに、白犬は即答する。

「近くまで君を送って行く」

「…は…?」

眉根を寄せた少年騎士に、ハティは続けた。

「他に手はなかったが、私には君達を無用な戦闘行為に駆り立て、被害を出した責任がある。私にも他にすべき事があるので

そう長くは付き合えないが、可能なら途中まで同行したい。勿論、嫌ならば無理強いはしない」

ギュンターは何度か瞬きし、さらにはどう動いて良いか判らなくなったように睫毛の上の雪を指先で拭い、最後にもう一度

瞬きした。

「あー…、ディッケ・ハティ?一つ質問したいのですが、宜しいでしょうか?」

「私に答えられる範囲の事なら何なりと」

急に言葉遣いが丁寧になった少年騎士の態度を訝りながら、ハティは頷く。

「自分は、貴官もまた危機的状況に置かれていると認識しておりますが、如何か?」

「いかにも。遺憾ながら危機的状況にある事は否めないな」

「それなのに貴官は自分を手助けする、と?」

「あくまでも自己満足の尻ぬぐいではあるが、概ねその通り」

モービルの配線を弄りながら淡々と応じるハティの態度を観察し、ギュンターは考えた。

(参ったなぁ…、このでぶっちょ、本気でそう思っているらしいぞ?大物なのか、それとも大馬鹿なのか…)

やがて少年騎士はため息をつき、肩を竦めて結論を出した。

(たぶん両方だ…。大物で大馬鹿なんだこの大男は…。嘘をついているようでもない)

「自分を慮って頂いたご提案には感謝致します。が、付き添いは結構です。自分は一人でも本隊と合流できます。そう離れて

もいないので」

「そうか。ならば私は本来のルートで退散させて貰おう」

残念がるでもなく淡々と応じたハティは、ついにモービルの修理を諦め、腰を上げる。

その態度でギュンターは確信した。やはりこの男は、自分を騙して本隊の位置を探るつもりなどなかったのだと。

「辞退はさせて頂きましたが、そのお心遣いには感謝しております」

ギュンターは自軍の上官達と向き合う時同様に、背筋を伸ばして敬礼する。

「感謝は不要だ、ギュンター騎士少尉候補生。巻き込んだのは私の方なのだから」

応じたハティは時間を確認し、これならばモービル無しでもぎりぎり約束に間に合うと判断すると、置いてきたミオの事を

考える。

(なるべく急いで戻ってやろう。一人きりで不安がっているだろうからな…)

この時、ベース脱出以降、そうと見えていなくとも常々周囲に神経を張りつめていたハティは、若干気が緩んでいた。

僅かな油断が命取りになる危機的状況の連続が一旦途切れ、僅かな気の緩みを生じさせた白犬は、状況が致命的に悪化する

まで気付けなかった。

一生の不覚。文字通り、その生涯においてハティが油断から失策を犯したのは、この時が最初で最後であった。

銃声無しの風切り音。

風に散る鮮血の霧。

耳にして目にしたハティは、超人的な反応でギュンターを雪面に押し倒した。

「ぐぁ…う…!」

ハティによって雪面に押し倒されたギュンターは、左肩を押さえながら、幼さが抜けきっていない顔を歪めて呻いている。

肩に当てた右手の隙間から、グローブを染めて赤い液体が溢れる。

(ライフル弾か。掠っただけだが、角度が悪かった)

たまたま着弾の瞬間を捉えていたハティには、何が起こったのか把握できていた。

狙撃されたギュンターの左肩は、防寒着ごと肉をごっそり抉られ、華のように肉を開かせた傷を生じさせている。

致命傷ではないが浅傷でもない。死にはしないがまともに動けない。

自分のような人工生物ならばともかく、体すら完全に出来上がってはいない少年騎士がこのダメージで元気に動き回れるは

ずもない…。そう判断したハティは、自分が詰んでいる事を自覚した。

風切り音は続いている。その発砲位置は、ハティ達を円形に囲んだ二十数カ所。

しかも同士討ちにならないよう、その布陣はハティを挟んだ対角線を避けている上に、各々が高い位置を選んで位置につき、

撃ち下ろす角度を確保している。

ウルの殺戮によって壊乱状態に陥ったリッターを突破し、先に進んでいた追撃部隊は、ほんの数分前、探索の網でハティを

捉えていた。

もしもモービルが無事ならば引っかからなかったところだが、全てのタイミングが悪い方向で噛み合っていた。

飛び交う銃弾が命中しないのはショックフィールドで軌道を変えているからだが、しかしそれも永久にそのままという訳に

は行かない。

ただでさえ夜明けからずっと能力を使用し続けた上に、回復し切っていない状態でまともな戦闘をしたくなかったが故に、

ウルへの牽制で無理にヴァルキリーウイングを使用している。

(思念波を消費し過ぎた。数分持続させるのがせいぜいだな)

どれだけ保たせられるか計算したハティは、静かに考える。

手負いの少年騎士を連れて徒歩で逃げるのはまず不可能。だが、自分一人であれば脱出も可能。

しかし、少年を見捨てて逃げるという選択肢を、ハティはどうしても取る事ができなかった。

(…困ったな。これはどう考えても詰みだ)

呻く少年を庇うようにして雪に伏せたまま、ハティは思う。

ミオは許してくれるだろうか?

それとも、仲間でもない他人を庇った大馬鹿者だと罵るだろうか?

もしかしたら、自分らしいやり方を貫いたと、少しは褒めてくれるかもしれない。

「…済まない…。ミオ…」

小さく呟いたハティは、呻く少年の顔を覗き込む。

「ギュンター騎士少尉候補生。歩く程度の元気はまだあるかね?」

「舐めて貰っては…困りますね、ディッケ・ハティ…!」

問われたギュンターはこみ上げて来る呻き声を噛み殺し、血の気が引いた顔に無理矢理不敵な笑みを浮かべた。そしてポケッ

トからスプレーを取り出すと、

「我らがぁああああっ!リッターのぉおおおお!根性はぁああああ!世界一ぃいいいいいいいいっ!」

激痛に耐え、気合を込めた声を上げて自らを鼓舞し、傷口に発泡止血剤を噴射する。

「それでこそ名高きドイツ騎士団員。では…」

無表情で褒めたハティは、ゆっくりと身を起こす。

「これから包囲が解かれる。君は本隊へ帰りなさい」

「はい!…え?」

交戦の準備をしろ。そう言われるものだとばかり思っていたギュンターは、ハティの言葉を一度聞き違え、後にぐっと眉根

を寄せる。

「ど、どういう事ですか?ディッケ・ハティ…」

「彼らが殺したいのはあくまでも私だ。連中が君達リッターと事を構えたのは成り行きに過ぎない。そもそも、そんな面倒な

事を本心から望んではいないのだ。白旗をあげて大人しく降れば、君は見逃して貰えるだろう」

「なっ!?」

絶句したギュンターが、しかしすぐさま表情を厳しい物に変えて反論しかけると、ハティは小さくかぶりを振ってそれを制

した。

「元々これはこちら側の問題なのだ。君は巻き込まれただけの被害者…。身勝手で都合の良い言い方になるが、これ以上関わ

る必要はない」

言い終えたハティは、ベルトのバックルに指を当ててカチリと音を鳴らし、中からしゅるしゅると包帯を引き出す。

白旗などというものはラグナロクに存在しない。故にハティは包帯をその代用品として選んだ。

(何かにつけて「準備が良い」と言われて来たが、肝心な時に有り合わせとはな…)

微苦笑したハティは、そんな表情を自分が浮かべている事に少々驚いた。

(本当に笑えるようになったらしいな、私は…。ミオのおかげか)

笑みを浮かべるハティを、ギュンターは肩の痛みすら一時忘れ、じっと見つめていた。

(死を前にしてもなお笑う事ができる…。何て剛毅で、何て勇敢なひとなんだろう…?オレはどうだ?オレは、このひとと同

じように笑えるのか?)

ギュンターは闘志の中にも怯えを抱え、自分だけ助かるかも知れないと聞いて一瞬でも、僅かでも安堵してしまった自分を

恥じた。

歳が歳なので今の階級に甘んじているが、成績も戦果も上々で、周囲の同期生と比べれば一歩抜き出ているという自負が、

これまではあった。
実際の戦闘では正式な騎士少尉達にも負けない自信があったし、彼ら以上の指揮を見せて、彼ら以上の

戦果を上げる事も容易いと思っていた。
端的に言えば、自分を大きく評価し、やや天狗にもなっていたのである。

だが、力、技術、指揮、そして精神面…、あらゆる要素で自分を、そして知っている多くの騎士を凌駕するこの大きな男に

触れて、自分がいかに未熟であったか、自分がいかに小さかったかを思い知り、心の底から恥じ入った。

「ディッケ・ハティ。お言葉ですが、自分はその提案に甘える事はできません」

一度は血の気が失せた顔を興奮と闘志で紅潮させ、ギュンターは白犬に告げる。

「貴官が尊敬に値する人物である事は間違いありませんが、自分はリッター、貴方の部下ではありません。よって、隊とはぐ

れ単独となった際のマニュアルに基づいた行動を取らせて頂きます」

「マニュアルに基づいた行動…とは?」

トンファーに包帯を三角に張って白旗を作成していたハティは、勇ましく言い放った少年騎士をちらりと見遣った。

「「各員の裁量に委ねた、騎士としての品位を損なわぬ対応」です!独断ですが、救難信号は既に発信中。あとは…」

ギュンターは血まみれのグローブでルガーを掴み、鼻息も荒く宣言した。

「騎士として恥じる事のないよう、命の恩人に報います!」

手を止めたハティは、まじまじとギュンターの顔を見つめた後、

「…何度も言っているのだが…、私は命の恩人ではなく、命の危機に陥らせた原因なのだと、理解しては貰えないのか…」

この巨漢にしては珍しく、やや呆れているような声で呟いた。

「承知の上で言っています!…ぐっ!?」

大男に突然押し倒されたギュンターは、肩に激痛が走って呻いたが、風切音を間近で聞き、痛みを堪えて耳を澄ます。

原理は不明だが、この白い巨漢が持つ何らかの力によって阻まれ、当たる気配が全く無かった弾丸が、いつの間にか傍を通

過するようになっている。

「もう保たないか…。済まないがギュンター騎士少尉候補生、議論の余地はもはや無い」

ギュンターを片腕で雪面に押さえつけ、ハティはトンファーを骨組みに使ったいびつな白旗を見遣る。

(命を一つ、延ばす事ができる…。こんな死に方は、私としてはそう悪くもないのではないかな…)

ハティは先程待機を命じた部下…アメリカンショートヘアの事を思い出す。

弱々しく繊細で泣き虫なミオの事だけが、心残りであった。

戦う理由を、生きる理由をやっと見つけたばかりだというのに、結局彼に未来をあてがってやれなかった。

「…済まない、ミオ…」

もう一度繰り返したハティは、いよいよしぼんできた衝撃の壁の中、掴んだ白旗を掲げようと掴み直したが、

「…妙だ…、一箇所減っている…」

傍を通過するようになり始めた弾丸が、ある方向からだけ飛んで来ない事に、不意に気が付いた。

少し待って再確認するが、違和感は正しかった。最初に把握した方向の内、ある方向からだけ弾丸が飛ばない。

射手の位置が変わったのではない。射撃そのものが途絶えている事が、飛び交う弾丸の数すら把握できるハティには察知で

きている。

「…いや違う。二箇所…か?」

白犬が感じ取る弾道の消滅は、しかしギュンターには把握できていない。

無数に飛び交う弾丸の軌道からほんの一二本減ったところで、普通ならば気付けない。

何故?そう疑問を感じながらも、ハティは答えを求めるのは後にした。

「唐突だが、ギュンター騎士少尉候補生。一か八かだが、解囲を試みてみるかね?」

ギュンターは少し目を見開き、白犬もやっと戦う気になってくれたかと、大きく頷いた。

「手短に説明する。理由は解らないが、射手二名からの狙撃が止んだ。何らかの誘いかとも一度は思ったが、改めて考えてみ

れば、封殺が成功しかけている今、わざわざ罠を用意してそこへ誘うメリットも殆ど無い。つまり、連中に何らかのアクシデ

ントが起こった可能性が高い。そしておそらく…」

ギュンターは目を輝かせ、不敵に口の端を吊り上げた。

「おそらく、包囲している連中も射手が狙撃を止めた理由を把握できていない?ひょっとしたら何か起こったらしいとは思っ

ているかもしれないものの、何が起こったか正確には判っていない…、と?」

「君は察しが良いな。実に素晴らしい」

頷いたハティの様子がどことなく満足げに見えて、ギュンターは教師に褒められた生徒のように高揚する。

「射撃タイミングにズレが生じている。連絡を取り合うか何かして、それが上手く行かずに動揺しているのだろう。なにせこ

こは北原…、凶暴な危険生物が徘徊し、組織に国家、有象無象の勢力が入り乱れ、脅威はそこら中に転がっている。…そして

何よりこの近くには…」

ハティはギュンターの目を真っ直ぐ見つめて続けた。

「名高きヴァイスリッターが駐屯中だ」

その言葉を受けて誇らしげに胸を張ったギュンターは、しかし首を傾げる。

「…救援が来たにしては、通信が入らないし静か過ぎるような…」

「君の仲間が来てくれたのでなくとも構わない。大事なのは、私達を囲んでいる連中が、輪の外に向けた背中をリッターに見

られているかもしれないと思い込む事だ」

思わず「あ!」と声を上げたギュンターに、ハティは大きく頷く。

「真の原因が何であれ構わない。向こうが何に怯えようと構わない。脅威が迫っていると感じ、恐れ、萎縮し、浮き足立って

くれれば御の字だ。何せこちらはもはや窮鼠…」

白犬はぐっと身を起こし、突進すべき方向を見定めた。

「恐れる物など、何もない」

身を起こして頷いたギュンターは、勇ましい気分になりながら不敵に笑う。

「手強くてデカい鼠も居たものです。向こうにとっては不幸な事に…」

傷の痛みは激しいだろうが、それでも元気を殆ど損なっていないギュンターを頼もしく思いながら、ハティは告げる。

「突撃する。輪の外にさえ出れば、射程の長いライフルは、この吹雪では同士討ちの危険性が高まるので使い辛くなる。有効

射撃数は一気に減り、逃走成功率は一気に高まるだろう…。なるべく私から離れないように。そう長く保たないが、弾丸の直

撃だけは避けられる」

「はい!…気にはなりますが原理は訊きません」

冗談めかしたギュンターは、

「それは助かる。企業秘密なのでね」

まさかハティも冗談で返すとは思ってもみなかったので、面食らってぽかんとし、それから苦笑いした。

(参ったなぁ…。オレ、この大尉殿の事がすっかり好きになったらしい。こういう上官とだったら、どんな戦場でも戦り抜け

るような気さえする…)

「行くぞギュンター騎士少尉候補生。少しの辛抱だ」

「はっ!」

駆け足で進むハティに声を張り上げて応じ、ギュンターは勇ましく後に続いた。