殺戮の雪原(後編)

ライフルの狙撃が続く中、衝撃の障壁で弾道をねじ曲げつつ、ハティは走る。

包囲からの銃撃が途絶えた一角…、突破口となるかもしれないポイントを目指して。

しかしハティの体力や精神力も無限ではない。グレートピレニーズの消耗が進むにつれてショックフィールドの有効範囲は

狭まり、衝撃の障壁は今やハティを中心に2メートル強の位置。あと少し狭まればライフル弾への防御機能は失われる。

というのも、拳銃などの弾丸と威力が違うライフル弾は極めて軌道を曲げ辛く、ショックフィールドでは僅かに逸らすのが

限界で、完全に防ぎ止める事ができないのである。

自身に近い位置で弾丸の軌道を多少変えても被弾は免れない。現在の障壁規模が、直撃を何とか防げるギリギリの大きさで

あった。

さらにはギュンターをも守らねばならないため、歩みの遅い彼から離れられない。

距離を開けてショックフィールドの有効範囲外へ出してしまえば、少年騎士には身を守る手段が無いのである。

ハティ一人ならばもっと速く駆けられるが、いかんせんギュンターは生身の人間であり、その上負傷している。雪に足を飲

まれながら進むギュンターに合わせ、もどかしいほど遅い駆け足で進むハティは、やがて前方に異物を見つけた。

それは、銃を保持したまま俯せに倒れ、吹き付ける雪で白く化粧を施されている、ラグナロク兵であった。

「リッターじゃない!仲間達が来てくれたなら、もっと派手に足跡が残っているはずですから」

遺体の状況を確認しながら脇を駆け抜けつつ、ハティはギュンターの言葉に頷く。

横目で確認した彼には、ライフルを構えたまま顔を雪面に埋めて事切れている兵士の、首の横から大量に出血しているその

死に様が判別できていた。

(喉仏から左側へ、刃物で乱暴に捌いたようだ。抵抗の跡すら見られない。敵の接近に気付くことができないまま殺された…

という事か?)

分析しながら、ハティは寒気を覚えてゆく。

不確定要素が乱立するこの状況で、この殺しを成し遂げる条件に合致する人物に心当たりがあった。

それがすぐさま確信に変わらなかったのは、「まさか」という想いが強かったからである。

(そんなはずは…、そんなはずはない…)

ハティは思った。「できない」のではなく、「やれる訳がない」と。何故ならば、ハティが知るその人物は…。

(殺せる訳が無い。来られる訳がない。彼は臆病で、気弱で、そして…)

ギュンターを引き連れて包囲の輪を抜けたハティは、そう離れていない所で上がった断末魔の悲鳴により思考を中断させた。

「ディッケ・ハティ!聞こえましたか!?」

ギュンターもそれに気付いて押し殺した声を上げ、二人は揃って急停止する。

とにかく全てを後回しにし、尻に帆かけて逃げ出したいのは山々なものの、包囲していた連中に何が起こっているのか確認

できる機会は、見逃してしまうにはあまりに惜しい。

ハティとギュンターは身を低くしながら、悲鳴が上がった方向を目指して駆け、そして足を止めた。

人が、倒れていた。

ライフルを構えた男が、胸を真っ赤に染め、仰向けに。

胸元を押さえて転げ回ったのか、軽く圧雪された雪面には、夥しい量の血が帯を引いている。

だが、立ち尽くすハティは、狙撃手の死体に目を向けてはいなかった。

死体の脇にもう一人、真っ白な雪中迷彩が施されている防寒着を被った小柄な少年が、二人に背を向けてぺたりと座り込ん

でいる。

肩で息をしながら、全身をブルブルと震わせ、歯をガチガチと鳴らして。

震える華奢な両手が握りしめているのは、血にまみれて真っ赤に染まったサバイバルナイフ。

小刻みに動いて焦点が定まらない目は、眼前の死体を映している。

そしてその唇は、歯が鳴る音と一緒に、震える呟きを零していた。

「…………きゃ…。……ろさなきゃ…。…ころさなきゃ…。守るんだ…。今度はぼくが…、大尉を…」

ブツブツと呟きながらミオは立ち上がる。腰が抜けかけ、膝は笑っており、まともに立つ事も難しい有様ではあったが。

「…ごめんなさい…。ごめんなさい…。死んで下さい…。許して…。死んで下さい…。ごめん…」

焦点の合わない目からこぼれ落ちた涙は、猛烈な吹雪でたちまち凍結し、目から顔の脇までが雪を付着させて凍り付く。

ハティが名付けたミオの能力、ノンオブザーブとは、簡単に言えばステルス能力である。

以前白犬が任務で接触した能力者の物と全く同じその能力は、極めて希少な力に分類される。

かつてハティが出会ったこの力の使い手は、公衆の面前で演説する政治家を刺し殺してのけた。

姿を消し、数百人の聴衆の前で、誰にも気付かれないまま…。

狙撃に集中していたスナイパーは、戦闘技術は素人に毛が生えた程度に過ぎないミオでも殺害できる相手であった。覚悟さ

え決められれば。

ミオが何者なのか知らず、しかし幽鬼のように立ち尽くすその様子に、北原の冷気とは異質な薄ら寒さを覚え、ギュンター

は突っ立ったまま口を開く事もできない。

そして、言葉を発せられないのはハティも同様であった。

(何という事だ…。何という事をしてしまったのだ…)

ブツブツと呟き続けるミオの後ろ姿を眺めながら、白犬は愕然としていた。

(何と…、何と取り返しの付かない事をしてしまったのだ…、私は…!)

らしくもなく、状況を忘れてミオの姿に見入りながら、ハティは胸の内で唸る。

いずれ来るはずの平和な未来。それを引き寄せる為に戦うという目的を、生きる理由をくれた、か弱く、場違いで、臆病で

大人しくて優しい少年…。

その少年が、平和の象徴のように捉えていた少年が、今、人を殺めて放心している。

否。ミオが殺めたのではない。自分が殺めさせてしまったのだと、ハティは牙を噛みしめる。ギリリと擦れる音すら立てて。

憤怒と悲嘆。対照的でありながら、しかし見事に解け合った自らの感情を、ハティは初めて胸に抱き、感じ取った。

そして、ミオの行動を見て、ミオの心境を推し量り、激しく自分を責め、後悔し、己を恥じた。

自分が立てた作戦のせいで、自分が上手く立ち回れなかったせいで、ミオはその手を汚してしまった。

他でも無い自分が汚させた。優しくも弱々しい汚れを知らない手を、自分が汚させてしまった。

何よりも赦せなかったのは、ミオがこうまでして救いに来てくれたというのに、自らが一度死を選ぼうとした事…。

ギュンターを守るためとはいえ、一度は自ら死を選ぼうとした事が、何とも身勝手に思えた。

踏ん張り様はまだあったはずなのに、安易な方向へ解決策を求めてしまった事が、恥ずかしく、そして申し訳なかった。

(ついこの間まで惰性で生きてきた私だ、生きる事に執着していない。だから死ぬ覚悟を固める事など容易い。だが、ミオが

誰かを殺める覚悟を固めるのはどうだ?この人一倍臆病で優しい少年がそれだけの覚悟を固めるのは、どれほど難しく、そし

てどれほど辛い事だった?私は…、ある意味先程ミオを見捨ててしまったのだ…。それなのに彼は何も知らないまま、危険を

冒して、恐怖をねじ伏せて、駆けつけてくれた…)

ミオの命令違反を咎める気は、当然無かった。むしろ、咎められるべきは自分だとすら思える。

ハティは少年にゆっくりと歩み寄る。

足音に気付いたミオが弾かれるように振り向き、そこで初めてハティ達の存在に気付いた。

「大…尉…?」

無事ですか?そう続けようとした言葉が、繋がらずに喉の奥へ引っ込む。

安堵を覚えると同時に、凍てつかせて何とか保たせていた心が、ひび割れた。

「…う…、うう…!うううううっ!」

ナイフを取り落とし、雪の上に跪いたミオは、両手で自分の体をかき抱く。

ひとを殺めた。その強烈な罪悪感と嫌悪感が急激に、強烈に圧し掛かり、脆弱な少年の精神は押し潰されそうになる。

胸騒ぎを覚え、命令違反で叱られる事も覚悟して雪壕を飛び出したミオは、当てずっぽうで足を運んだここで、ハティを包

囲しているスナイパーの姿を認めた。

何か情報が得られるかも知れないと、能力を用い、勇気を振り絞って接近したミオは、無線でやりとりしながら狙撃を続け

るスナイパーの声から、ハティが今まさに包囲狙撃されている事を知った。

ハティを助けたいが故に、ミオは太股にホールドしていたナイフを引き抜き…。

「殺した…!殺してしまった…!ぼ、ぼくは…!ぼくは…!さ、三人もっ!三人も殺したっ!」

ひとを殺してしまった事実に怯え、悔恨よ恐怖から、ミオは涙を流す。

自分の体を自らの腕で抱き、俯いて激しく震えているミオの前に跪き、ハティはそのか細い、頼りない体を、ぎこちなく抱

き締める。

「済まなかった、ミオ…。君は悪くない。決して悪くない。悪いのは、私だ…」

太い腕に抱き締められ、受け止めてくれるしっかりとした支えを感じ取り、ミオは鼻をすすり上げ、顔をぐしゃぐしゃに歪

ませた。

「大尉…!大尉ぃ…!ぼ、ぼく…!ぼくは…!殺してしまった…!仕方なかったんです!仕方が…!仕方がっ…!え、えうっ!

ご、ごめ…!ごめ…なさいぃ…!ごめ…!」

どれほど辛い思いをしたのか?させてしまったのか?むせび泣くミオを無言のまま一層強く抱き締め、ハティは心の底から

詫びた。

「…済まない…!」

事情を良く知らないギュンターは、ミオがハティの仲間である事だけは悟りながら、軽く混乱していた。

彼の目には、ミオは兵士として映っていない。

民間人か、あるいは研究者か、それとも技術者か…。とにかく、直接的に戦闘に加わるような人種には、雰囲気からして思

えなかった。

(どういう事だ?ディッケ・ハティは間違いなく軍人だろうが…、この猫はどうだ?迷彩服と武装こそ兵士のソレだが、明ら

かに兵士じゃないぞ?何が何だか…、不思議だらけだなぁこのひとの周りは…)

肩の痛みも忘れ、子供のように泣きじゃくるミオを優しく抱き締めるハティの背を、ギュンターは短い間、所在無く立ち尽

くしながら見つめていた。

十秒ほど後、自分達はここから急いで離脱する必要がある事を思い出すまで。



掘り返した雪面からぼろぼろの軍服を拾いあげ、手早く雪を払った狐は、周囲から隠すように持っていた何かをその中にく

るみ、大事そうに小脇に抱えた。

(ヘル。通じてるかい?グリモアは回収できたぞ)

心の中で呼びかけたヘイムダルは、すぐさまその頭蓋の内で、音無く響く答えを聞いた。

(ご苦労様、後で受け取るわ。ハティ・ガルムが欲を出して持って行ってくれれば、リアルタイムで位置を特定できたのだけ

れど…。欲が無いのか用心深いのか、期待をことごとく裏切ってくれるわね)

(何も無いならこのまま追撃に戻るけど、どうする?首を取って来ようか?)

(いいえ、貴方はベースに戻って待機して頂戴。追撃は他に任せて良いわ)

(了解。…消化不良なんだけどなぁ…)

ややがっかりしたように返答したヘイムダルは、モービルに戻りながらひとりごちる。

「歯応えあるヤツとやりたかったけどなぁ〜…。ま、今回は仕方ねーか…」



雪面に置かれた死体袋に収納される三人目の兵士の亡骸を見下ろし、狼は目を細めて熟考した。

刃物で喉と胸をそれぞれ刺されて絶命している兵士達。その死に様から様々な事が推測できる。

「死体袋に入った亡骸とソーセージは、良く似ている。どちらも皮に包まれた肉であるという点において。また、元々は生き

ていたという点においても」

不謹慎に自説を語るウルに、ヘル配下の追撃部隊から敵意すら篭った冷たい視線が集中する。

「優れた兵士も死んでしまえば肉の塊に過ぎない。…が、貴重は情報を与えてくれた」

突き刺さるような視線もお構い無しに続けたウルは、手を顔の横に翳して激しい風雪を遮りながら、「殺したのはハティで

はない」と呟く。

何を言い出すのかと、周囲の兵から送られる眼差しに疑問が生じた事を確認しながら、狼は淡々と続けた。

「傷口を見るに、殺害者は殺しに不慣れ過ぎる。殺しを嫌うハティではあるが、ここまで雑で未熟な殺し方はしない。そもそ

も彼ならば間合いに入った時点で殺さずに無力化する。刃物を用いたりはせずに」

ウルは一度言葉を切ると、何か思い出すように視線をやや上に向けた。

「ハティがモービルに乗せていた、アメリカンショートヘアタイプのコピー兵士…。おそらく彼が殺害者だ」

兵士達はウルの言葉を聞き、一様に疑わしげな表情を浮かべた。しかし彼らから疑問の声が上がるより早く、狼は断定する。

「稀に見る不出来な失敗作…と、資料にはあった。事実、取るに足りないと思ってもいた。…だが…。稀に見る失敗作、その

イレギュラー性を鑑みれば、別のイレギュラーにも目を向けるべきだったのかもしれない。我々も、上層部も…」

もったいぶるような、あるいは考えを整理するような、やや遠まわしなウルの言葉で、しかし優秀な兵士達は思い至った。

「偶発的な能力獲得者…?」

誰かから漏れたその言葉に、ウルは深く頷いた。

「可能性は高い。ただしそれは高い戦闘力や殺傷力を発揮するタイプではないらしい。この拙い殺し方を見るに、相手の隙を

つくか、隙を作るかする力なのかもしれない。…そう、マーナのタンブルウィードのように…」

その言葉の後半は小さくなり、ウル自身の耳にさえ届かなかった。

「能力者であるにせよないにせよ、はっきりしている事はある。それは、その兵士本人の技術は極めて未熟だという事だ。胸

を刺した刃物が肋骨を掠めて角度を修正され、たまたま心臓を一突きにしていた事…。喉を捌いた一撃が、実に効率の悪い手

際で掻き切るようになっていた事…。腹を刺された兵士が、長らく苦しんで絶命している事…。それらから推測すれば間違え

ようも無い。たまたま助けが入った形になり、たまたま包囲を脱されてしまったが、ハティがお荷物を抱えている事は再確認

できた。侮るわけにはいかないが、こちらにとって有利な要素になり得ると考えて良いだろう」

仲間を喪って士気がいささか下がっていた兵士達は、ウルの言葉で闘志を昂ぶらせた。

慰めるつもりなど毛頭無いが、士気を昂ぶらせる手段は心得ている。

自身の感情こそ乏しいものの、ウルもまたハティと同じく、知識として持つひとの心理を分析し、有効に活用する術を持っ

ている。ただしそこに共感などは一切無いが。

出発の準備に移った兵士達を見遣りながら、ウルは襟元に軽く触れ、声を潜めて呼び出しに応じる。

「どうした?ベヒーモス」



「こちらに来た逃亡者の殲滅は完了した。ただしあの白犬達は見つからない。そちらはどうだ?」

モービルに跨る青年は、通信機越しにウルへ確認を取っていた。

その傍には、背を深く切られてうつ伏せに倒れた髭面の男の姿。

さらに彼らの周囲には斬られ、あるいは頭部を何処かへ消し飛ばされて息絶えた、グレイブとベースからの逃亡者達数名…。

『ハティ・ガルムは包囲を抜けて逃げた。が、そちらへ向かったかどうかは定かでは無い。これより追撃するつもりだ』

「そうか。…では、俺は俺で索敵しておく」

『無理はするなよベヒーモス。お前に何かあっては我が主が良い顔をなさらない』

珍しく気遣いめいた物を含むウルの発言は、この青年が相手であればこその物である。

『おそらくこれから、今以上に吹雪き出すだろう。この環境に慣れている相手側も、そうそう身動きが取れなくなる。慌てる

事はない』

「だと良いが」

そっけなく応じる青年は、ウルの魂胆を見抜いていた。

天候が荒れても、ウル単身ならば問題なく索敵を継続できる。それを自分にまで強要しないのは、彼にとっては青年が主の

身内に近い存在だからに他ならない。

「気遣いは無用だ。自分の面倒は自分で見る」

『君ならばそう言うだろうと思っていた。誤解の無いように言っておくが、心配はしていない。世辞抜きに、君は極めて優秀

なエージェントだからな』

「さて、果たしてそれもどうだかな」

通信を終えた青年は、周囲を一瞥してからモービルをスタートさせた。

その姿が遠ざかり、駆動音が遠くなり、やがてそのどちらもが吹雪の彼方に消え去ると、倒れ伏していた男はピクリと、そ

の指先を動かした。

容赦なく降り積もる雪が、背の深い傷も埋め、赤を凍らせ白く染めてゆく中、かろうじて息があったエンリケは、雪に塗れ

た顔を苦悶に歪めながら上げる。

「た…、大尉…!知らせない…と…!」

今にも吹き消されそうな命の灯火を、あらん限りの力で燃え盛らせて、エンリケはじりじりと前進する。

十数メートル先、横転して壊れたモービルの脇に落ちている、通信機に向かって…。



吹きすさぶ風雪に逆らうように進む大きな背中を、少年騎士は目を細めて眺める。

居るだけで風よけになるハティが先頭に立ち、そのすぐ後ろを小柄な猫が歩み、最後尾をギュンターが固めていた。

ショックを受けている猫からは、一言もない。

ハティもまた言葉を忘れたように寡黙で、一行は重苦しい沈黙に包まれていた。

喋るのも苦労する吹雪の中に居る事が、いっそ救いに感じられる…。それほどに空気が重い。

脱出困難な死地を…あのライフルの包囲を何とか抜けたと言うのに気は晴れなかった。

(ディッケ・ハティは、思った以上に謎の男だな)

疼く肩の痛みは徐々に激しくなっていたが、ピークを過ぎて以降はそれほどでも無い。少しずつ感覚が麻痺しているせいで。

それは体が冷えてきている証拠で、良くない兆候であった。

だが、自分の体の状況は自分で良く判る。

厳しい訓練を潜り抜けてリッターとなった少年は、痛みに惑わされる事なく、冷静に自分の体調を観察していた。

故に、取り返しのつかない状態に至るまではまだ余裕があると、私情を挟まず正確に把握できている。

(休みましょう。なんて提案できる状況じゃないしな、根性出して行くか。いつ追っ手の気配が背中を撫でても不思議じゃな

いわけだし…)

そんな事を考えつつ、自分を叱咤していたギュンターは、

「ミオ、ギュンター騎士少尉候補生、まだ頑張れるか?それともそろそろ少し休憩を入れたいかね?」

先頭のハティが足を止めて振り返り、そう訊ねて来た事で、危うく歓声を上げそうになった。

だが、そこはぐっと我慢する。

逼迫した状況である事はハティにも間違いなく判っている。それでもなお自分達に小休止を入れるかどうか尋ねて来たのは、

本当にギリギリの範囲でしか残っていない余裕を若者二人のために使っても良いと言う、彼の気遣いなのである。

だからこそ、まだ頑張れる今、ギュンターはその提案に甘える事はできなかった。

「自分は平気であります!」

勇ましく、元気よく背筋を伸ばして返答したギュンターに「ふむ」と応じ、ハティは手前のミオの視線を向けた。

「ミオはどうだ?まだ歩けるか?」

小柄な猫は無言のまま小さく頷く。

「よろしい。ではもう少し進もう。せめてこの吹雪が、相手の足も止めてくれるほど強くなるまでは…」

当然ながらハティは、徒歩で逃げる不利を実感していない訳ではない。

ほどなく天候はますます荒れ、モービルでも立ち往生を余儀なくされる事を見越している。

そうなれば、どんな悪環境であろうと活動できるハティならば徒歩でも有利。

いざとなればミオとギュンターを纏めて背負うか、荷袋を利用した簡易ソリに乗せて牽引するかして、連中が足止めされて

いる間に距離を稼ぐ事も可能である。

思い描いてみると、少年達二人を乗せた荷袋のソリを引いて雪の中を進む自分の姿は、なかなか様になっているようにも思

えた。

(こうなれば仕方あるまい。ギュンター騎士少尉候補生も、安全と判断できる所まで保護して行こう。元はと言えば、私の策

に巻き込んでしまったが故に、この状況になっているのだからな…)

安全と思われるリッター活動区域まで迂回し、ギュンターを送り届けるだけの時間的余裕はない。

最悪の場合はランデブーポイントまで連れてゆく事になるかもしれない。

そんな事を考えながら続く二人のペースに気を配っていたハティは、首輪に内蔵された通信機の反応に気付き、歩みながら

応答する。

『大…尉…。ハティ大尉…、聞こえ……か…?』

通信を始める前から嫌な予感はした。よほどの非常事態でもない限り、通信はしないよう申し合わせていたのだから。

その予感が正しかった事を、電波越しの乱れた声が証明した。

『聞こえて…いますか…?大尉…』

「どうしたエンリケ?状況は?」

問いかけるハティの声は、しかし向こうに届いていないらしく、雑音混じりの通信は一方的に続く。

『全滅…です…!少年兵が…、我々も…、雪上車も…、……尉達…けが…、まだ始末できて…いないと…』

苦しげなエンリケの声は、通信機が故障しているのか、酷いノイズとあいまって聞き取り辛かった。

それでも、ハティに状況を推測させるには十分な情報が、頼り無い音声に乗って飛んで来る。

『逃げて……さい…!…もう、生き残………大尉達だけ……』

「エンリケ、そこは何処だ?私の声は聞こえないのか?エンリケ…」

ハティの呼びかけに答えないまま、命を振り絞るエンリケの声は続く。

『ランデブー……ントには…、誰も…行けな………、そちらだけでも………、逃げ……』

「エンリケ!そこは何処だ!」

白犬が珍しく声を荒げた瞬間、遠い通信越しに『ああ…』と、安堵したような声が聞こえた。

『無事ですか…、大尉…。今、声が少しだけ…』

「エンリケ、場所を言え。すぐに迎えに行く」

『いかれて……うですなぁ、この通信機…。はは…!だがまぁ、大尉が生きてい……判った…だけで…』

「エンリケ…?また聞こえていないのか?」

足を止めて立ち尽くすハティの背を、立ち止まったミオとギュンターが見つめる。

ギュンターは通信の内容が判らなかったが、ミオははっとして首輪に手を当て、骨導式で感知できるその内容に集中した。

『いいで…か…?逃げて下さ……。もう、こちらには構わ………』

「エンリケ…」

『…っちゃ…何ですが…。大尉…一緒の…部隊は…、楽しいと…言え………』

「………」

『大尉…生き延び…。…貴方は…、簡単に死んで良いひとじゃな……』

「……………」

『…申し訳……りま…せ……。お先に……』

途切れ途切れの声が、感謝すら込めて別れを告げる。

「エンリケ?エンリケ、応答しろ!エンリケ!」

首輪に触れたまま、ハティは押し殺した声で呼びかける。

だが、ボソッと、何かに埋まったような音を立てたきり、ノイズだらけの通信はエンリケの声を伝えなくなった。それでも

ハティは諦めきれずに呼びかける。

「エンリケ?エンリケ!答えろエンリケっ!」

信頼に足るかつての部下の、戦友と呼べる今の仲間の、応えはしかし返ってこない。

信じられなかった。信じたくなかった。それでも事態は、彼に立ち止まる事を許さなかった。

全滅。

自分達を除いた全ての仲間達が倒れた。

エンリケが命を賭して伝えたその事実は、ハティ達を取巻く状況を様変わりさせる。

もはやランデブーポイントを目指す必要は無く、雪上車に積み込んであったなけなしの物資による補給も見込めなくなった。

万事休す。

自らの生命に頓着しないこれまでのハティならば、拘る事なく諦めていたかもしれない。

だが今、彼の背には若者が二人従っている。

一人は前途明るい、見所も未来もある若者。

いま一人は彼にとって平穏な世の象徴でありながら、手を汚させてしまった若者。

投げ出す事は、まだできなかった。

(有り難うエンリケ…。最後の最後まで、君は優秀な男だった…。最後の通信を無駄にしないよう、私ももう少し踏ん張って

みよう…)

ハティは前を見据え、少年達に「往こう」と短く告げると、雪を蹴散らし歩き出す。

エンリケとの永久の別れによる喪失感で、胸の奥に不慣れな鈍痛が残っていようとも、感傷で歩みを止める余裕など無い。

まだ立ち止まれない。諦めるわけにはいかない。

護るべき者が後ろに居る今、身も心も、まだ折れる事は許されないのだから…。