朝日を拝むまで(前編)

雪の中を、三つの人影が徒歩で行く。

先頭は極めて大柄で真っ白い巨体が特徴的なグレートピレニーズ。

次いで行くのは、厚い防寒着を纏ってもなお華奢な体付きが判る、小柄なアメリカンショートヘア。

最後尾は肩を押さえて歩む、赤い毛髪がフードとゴーグルの隙間から漏れた、手負いの少年騎士。

足を取る雪を踏み締め、迫る追っ手の気配を背中で探り、少し先もほとんど見えない吹雪の中を、三人は黙々と進む。

エンリケから最後の通信を受けたハティの足取りは、心なしか以前より重い。

自らも首輪で通信を聞いていたミオは勿論の事、事情を何となく察したらしいギュンターの表情まで暗かった。

少年騎士は、あれからハティに従って歩いている間に、彼について考えてきた。

そしていくつかその正体の候補を上げては、当てはまるかどうか頭を回転させていたのだが…。

(ディッケ・ハティは、ひょっとしてどこかの相当大規模な組織の機密を握って、逃亡中なんじゃないだろうか?それこそ国

家レベルの規模の…。…だとすれば、うちの本隊と接触したら…)

リッターから見れば、他国の機関の情報だろうと組織の情報だろうと、秘匿物に関する情報が欲しい事には変わりない。こ

のまま本隊と合流すればハティを捕らえようとするだろう事は想像に難くなかった。もっともハティは、所属している少年の

目から見てもなお、リッターに容易く捕まるような相手では無いが…。

ギュンター自身にとっては信じられる相手でも、リッター達から見ればハティは依然敵である。恩人と仲間が戦うところな

ど見たくはなかった。

(離れるべきだろうか?確かに手負いの今、一人で動くのは危険だし、ディッケ・ハティと一緒に居た方がいくらかでも安全

だろうけど…)

ギュンターは自嘲気味に口の端を歪めた。依然として正体不明のハティに気を許すどころか、いつの間にか頼りにさえして

いる自分が滑稽に、そして情けなく思えて。

(命を助けてもらった。最初に会った時と、二度目の衝突の時に殺されなかった事も加えれば、都合三度も命を拾った事にな

る。これ以上の一方的な甘えは、誇り高き騎士として如何な物かなぁ…)

考え事に没頭していたギュンターは、先頭のハティが足を止めた事に気付き、自らも立ち止まる。

「ギュンター騎士少尉候補生。通信が入っているのではないかな?」

言われて一瞬きょとんとしたギュンターは、肌をくすぐる振動に気付いて腕を上げた。

確認してみれば、手首に巻いた腕時計兼非常用通信ツールが微かに震えている。

寒さで感覚が鈍磨して本人もなかなか気付かなかったのだが、警戒前進中のハティはその能力の応用によって自分達の周囲

にソナーによる探索領域を展開していた。そのおかげで、ギュンターよりも早くその震動に気付いたのである。

腕を上げて口元に寄せ、背を丸めて風雪の音から通信機を守るギュンターを、戻って来たハティが己の巨体を壁にして風を

遮り、サポートしてやる。

『白騎士第一大隊よりギュンター騎士少尉候補生へ。繰り返す。白騎士第一大隊よりギュンター騎士少尉候補生へ。応答願う』

通信機から漏れたのは、涼やかに響く女性の声であった。

「こちらギュンター騎士少尉候補生。繰り返す。こちらギュンター騎士少尉候補生。通信感度は良好」

仲間からの通信でほっとしたギュンターは、すぐさま状況と怪我の有無を確認され、テキパキと答える。

どうやら発掘現場から逃げ散った仲間達の中では、ギュンターだけが今まで連絡が付かずにいたらしい。

先程救難信号を捉えて呼びかけを開始したとの事であったが、彼だけここまで連絡が付かなかったのは、ハティを封殺に出

た追撃部隊のジャマー範囲内に居たせいである。

戦死者は多いものの、とりあえず逃げた皆は無事に本隊と合流したらしい事が通信相手からの情報で判り、ギュンターは少

しばかり安堵する。

『大佐は見た目の上ではいつも通りですが、きっと心配しておられましたよ。無事で何よりですギュンター君』

「大佐が心配するのは「自分だから」ではありません。部下だからです。それと、…せめて任務中は君付けを止めて下さい」

『あら済みません…。とにかく、移動せずその場でしばし待機を。今探索分隊が救助に向かっておりますから』

不機嫌そうに口を尖らせたギュンターは、ふと何かに思い至ったように表情を強張らせて言葉に詰まり、風避けになってく

れているハティの顔を見上げた。

騎士少尉候補生が何を案じているのか悟ったハティは、静かに頷く。

「…了解。しばらくここで待機します」

通信を終えたギュンターは顔を上げると、見下ろすハティと見つめ合う。

「これで無事に帰れるな。ギュンター騎士少尉候補生」

「はい」

頷いたギュンターに、ハティは続ける。

「では、道連れもここまでだ。達者でな、若き騎士よ」

ギュンターに言われるまでもなく理解していたハティは、少年に別れを告げる。

リッターに保護を求める事などできはしない。彼自身はエインフェリアであり、ミオはクローン生物。権利については動植

物以下の兵器扱いである。

法的な基本的人権も認められていない彼らは、国際法に謳われるいかなる権利も有していないという、いわば非公式な生物

であった。

「お世話になりました。ディッケ・ハティ…」

心苦しさを覚えながら深々と頭を下げたギュンターは、もう一人の道連れを見遣り、まだ名乗っていなかった事に思い至る。

「自分はギュンター。ミオ…と言ったか?道中気をつけて」

無言で元気無く頷いたミオに、ギュンターは同情するような眼差しを向けた。

「貴方がどういうひとなのかは、自分は知らない。ただ、殺しに不慣れな事だけは判る。…気休めにしかならないかもしれな

いが…」

少年騎士は一度言葉を切ると、

「あんたの行為は評価されるべきものだ。あんたの勇敢さで、オレとディッケ・ハティは救われたんだ。オレは、恩人の顔は

決して忘れない。あんたの事も、ディッケ・ハティの事も、受けた恩を含めて絶対に忘れない!」

そう、堅苦しい言葉遣いが崩れて出て来た、彼本来の口調で一息に述べた。

ハティは黙してギュンターを見つめた後、振り返ってミオを見遣る。

俯き加減で目を合わせようとしないミオは、口を微かに動かしただけだったが、

(「アリガトウ」、か…)

白犬は風音にかき消された微かな声を、しっかり捉えていた。

「それでは、さらばだギュンター騎士少尉候補生。貴官に輝ける武運のあらん事を…」

「有り難うございますディッケ・ハティ。貴官の行く手にレディスノウの慈悲を乞います」

敬礼したハティに敬礼を返したギュンターは、踵を返して歩き出した白犬と、それに付き従う小柄な猫の背を見据える。

背筋を伸ばし、上官を見送るかのように直立不動となったギュンターは、彼らの姿が横殴りの雪に滲み、白いヴェールの向

こうに消えてもなお、いつまでも姿勢を崩さずに見送り続けた。

そして、ギュンターが一人その場に残ってから十数分後、危険をおして吹雪の中を駆けて来たモービルの一団が、彼の元へ

と滑り込んだ。

「ご無事ですか!?坊ちゃん!」

捜索分隊を率いていた体格の良い屈強な中年猪は、停めたモービルから慌しく降りると、口元を覆っていたマスクを剥がし、

ギュンターに呼びかける。

駆けつけた面々はどうやら騎士ではないらしく、剣は帯びておらず、代わりにホルスターに収めた50センチ程の棍棒を腰

に吊るしていた。

「坊ちゃんはよしてくれ、ミューラー曹長…」

不満げに応じたギュンターの姿をゴーグル越しに見つめると、猪は「ぶほっ!」と鼻と口を鳴らす。

「ぼぼぼぼ坊ちゃんがお怪我をーっ!?衛生兵っ!何をぼさっとしとる!さっさと仕事せんかコラァッ!」

「は、はい只今っ!」

「あああああ、おいたわしや坊ちゃん…!こんな事ならワシも上に掛け合って発掘現場の防衛に送って貰うんでした…!」

どやされた若手の衛生兵が慌てて駆けて来る間にも、中年猪はギュンターの前で両手を広げ、触れて良いものかどうか悩ん

でいるように宙を彷徨わせる。

「大体にして大佐はご自分の弟君にまで厳し過ぎます!栄えあるエアハルト家の坊ちゃんが、寒空の下で延々と続く発掘現場

の見張りなど…」

「そういう風に特別扱いされるのが嫌いな事は、よく知っているだろう曹長?」

衛生兵の手で負傷した肩にプロテクターを付けられ、厚い外套を羽織らされながら、ギュンターは露骨に顔を顰めた。

「そういえば、また「でぶっちょハティ」とやらが出たとかなんとか!まったく!災厄の象徴のような男ですな!ワシが居っ

たらちょちょいのちょいと叩きのめしてやるというのに…、む?ど、どうかなさいましたか坊ちゃん?そのように怖い顔など

なされて…」

猪をきつく睨んでたじろがせると、ギュンターは気を取り直したようにある方向を見遣る。

(災厄…か…。せめてオレは、災厄がディッケ・ハティとミオ少年を避けて通る事を祈ろう…。…レディスノウ…、どうか勇

敢なる彼らにご慈悲を…)



激しい風の唸りに、雪を踏む音が飛ばされてゆく。

ギュンターと別れてから四時間も歩いただろうか、常人離れした集中力でソナーの結界を維持し、周囲を警戒しながら進む

ハティは、その足取りをかなり緩めていた。

後に続くミオの疲労は色濃く、歩調はペースを落とし続けている。

気丈にも弱音を吐かないものの、ベースを追われて以降ろくな休憩も取れずに逃げ通しているため、ひ弱な少年は気力も体

力も尽きかけている。

「ミオ。小休止を取ろうか。休んだほうが良い」

呼吸の乱れが看過するにはやや大きな物になり始めると、ハティは足を止めて少年を振り返った。

「いいえ…。まだ平気です…」

とても平気とは思えないほど弱々しく、消え入りそうにか細い声が、風に煽られ飛ばされてゆく。

「ダメだ、小休止を入れる。少し休みなさい」

言い含めるように繰り返したハティに、しかしミオは食らいつく。

「大丈夫ですから。…それに…、追っ手が居るんだから…、こっちは歩きなんだから…、休んでる時間も…」

一理ある言い分ではあったが、ハティはそれについても忘れた訳ではない。

不慣れな北原でこの悪天候では、さすがに追撃部隊の脚も鈍ると踏んでの事である。

しかしまるっきりミオの意見を無視するわけにも行かない。少年を無理に急きたてている原因の一つは、他でもなく追っ手

の存在なのだから。

「ではこうしよう。移動は続ける。だが君は休め」

上官が発した妙な言葉で、一度考え込むように目を細めたミオは、次いで大きく眼を開く。

ミオの前まで寄って背を向け、屈み込んだハティは、肩越しに振り返った。

「乗りなさい、ミオ」

「え?の、乗るって…」

「私がおぶって行く。少しは休めるだろう」

戸惑うミオに、ハティは事も無く言う。

負傷している訳でもないのに上官に背負われて逃げる兵士など聞いた事もない。固辞しようとしたミオだったが、ハティは

腰を上げようとせず、「早くしなさい」と急かすばかり。

結局折れたミオは、「失礼します…」とぼそぼそ呟き、恐縮しながらハティの背にくっついた。

軽い少年の体重を物ともせずにすっくと立ち上がると、白犬はペースを上げて歩き出す。

(大尉の背中…、広い…、どっしりしてる…)

触れ合う事で安堵したのか、申し訳ないと思いつつも、ミオは規則正しい揺れによって心地良い眠気を感じ始めた。

「ミオ。念の為に言っておくが、寝てはいけないぞ?」

「は、はい…!」

言われて気を引き締めるものの、蓄積した疲労で鉛のように重い体と、泥が詰まったようになった頭では、眠気をどこかへ

押しやる事も難しい。

程無くミオはうつらうつらしてははっと目覚め、船を漕いではビクッと起きるなど、限界が近い様子を頻繁に見せ始めた。

(これはまずいな…。予想以上に疲れていたようだ)

ハティはさらにペースを速めつつ、小休止できる場所を探す。

しかし運悪く周囲は平坦で、コクコクと強まる風と雪を避けられそうな場所は無い。

眠らせるにしても気温はマイナス30℃以下。しかるべき場所を確保して防寒対策をきちんと取らなければ、眠ったミオは

二度と目覚めなくなってしまう。

やがてミオは意識を失うように眠ってしまい、ぐったりとして動かなくなった。

ハティは背負った少年に呼びかけながらも、猛吹雪の中で目を凝らし、ソナーで周囲の地形を探り、雪がうず高く積もって

いる氷塊を見つけ出す。

距離がいまひとつ掴めないが、相当大きいものだとは察しが付いた。

「よし、ひとまずあの陰に雪濠を拵えて休もう…。ミオ、もう少しの辛抱だ」

ハティは背負った少年に呼びかけながら、半ば駆け足になった。



雪が積もった氷塊に見えた物は、近付いてよく見れば一戸建ての家にも匹敵する大きさであった。

しかも積もった雪の中身は氷塊ではない。

その家屋ほどもある塊は、遺棄されて雪に埋もれた、大型の雪上貨物車の成れの果てであった。

一体何年そのままだったのか、割れて崩れた雪の裂け目から覗いたコンテナ部分は、あちこち凹んで焼け焦げており、何者

かの襲撃にあって遺棄された事を雄弁に物語っている。

降り積もった雪でできあがった氷塊に囚われていたその車両は、先日の晴れ間で溶け崩れたおかげで、ハティに姿の一部を

見せていた。

天の助け。そんな言葉がハティの脳裏を過ぎる。ミオが弱っている今、風雪を凌げる場所の存在は有り難い。

もしやと期待して近付いたハティは、部分的に露出している後部ハッチを認める。

(この手の車両は壁が分厚く、熱が外に漏れない。もしも内部まで埋まっていなければ、中を暖め、ミオに暖を取らせる事も、

ゆっくり休ませる事もできるが…)

かぶりを振ったハティは、背負っていたミオを降ろしてそっと雪の上に横たえると、ハッチに手を伸ばす。

「良い事もあろうと期待しつつ、常に最悪に備えよ…」

呟きつつ触れた手の平から微弱な震動を流すと、震えによって継ぎ目に入り込んでいた氷が砕け落ちた。

(まずは中を確認するか。安全なら良いのだが…)

何度か蹴りつけ、分解された氷と雪を落とし、腕力に物を言わせてハッチをこじ開けたハティは、コンテナ内部を慎重に観

察する。

幸いにも1立方メートルはある木箱が十数個放置されているが、それでも余裕があり、内部は閑散としていた。内部は霜が

張って冷凍庫の中のように凍て付いているが、風がない分だけ外よりはましである。

踏み入って確認してみれば、どうやら積荷は持ち出されたようで、木箱はいずれも空になっていた。

(吹雪をやり過ごすには好都合だ。危険さえなければだが…)

雪が崩れて埋もれる事は怖くない。ハティの能力をもってすれば、小型爆弾並の破壊力で雪も氷も吹き飛ばせるし、ヴァル

キリーウィングでコンテナを内側から切り開く事もできる。むしろ警戒しなければいけないのは、この遺棄車両に何らかのト

ラップが残されていないかと言う点であった。

コンテナ部分から運転席側に繋がっているドアを見遣ると、ハティは一つ頷き、歩み寄る。

警戒しながら覗いてみた運転席は、砕けたフロントガラスから侵入した雪と氷で半ば埋まっていた。

運転席側は横の窓からも入り込んだ雪と氷に固められ、ハンドルと計器類は完全に埋没して見えない。期待していた訳では

ないが、例えエンジンやバッテリーが生きていたとしても運転など不可能な有様である。

罠が無くとも死体でもあればミオが怖がるかもしれないと心配していたハティは、とりあえず亡骸が無い事で満足した。

助手席には凍ったシートに張り付く形でマグライトが放り出されている。

とりあえず剥がして手に取り、スイッチを入れてみたが反応は無い。尻のキャップを外して確認すると、電池が液漏れして

白く粉をふいており、とても使用できる状態ではなかった。

他にも何か無いかと注意深く観察してみたが、使えそうな物は見あたらない。

(型が相当古い車だ。おそらく五年や六年程度ではない昔に乗り捨てられ、ずっと埋もれていたのだろう)

ひとまず安心して利用できると判断した白犬は、足早に引き返して車外に降り、ミオを抱き上げて軽く揺すって雪を落とし、

コンテナ内に運び込む。

さらにもう一度外に出たハティは、その大きな手で雪を掬って握り固め、いくつか雪の塊を作って中に持ち込んだ。

最後にハッチ入り口で周囲の状況を窺ったハティは、車体の上に積もった柔らかな新雪に震動波を送った。

崩れる寸前に閉められたハッチは、降りかかった雪で上まで埋まり、侵入の痕跡はハッチごと消える。

擬装を終えるなりハッチが閉ざされたせいで、コンテナ内は暗闇に支配された。

そんな中、首輪に触れて作動させた小さなライトの薄明かりを頼りに、ハティは作業を始める。

まずは小さく畳み込んでポーチに収納していたシートを広げ、凍り付いた床に敷く。

このシート自体は薄いが、断熱効果が極めて高い上に撥水性が高く、温度差による結露で濡れる事もない。雪壕などに長時

間潜む折には重宝する一品である。

そこへぐったりしているミオを寝かせると、次いでシートと同じくラグナロク製の小型トーチを取り出して手早く分解し、

ヒーター型に組み直す。

出力を調節して光量と熱量の配分を弄れば、トーチは簡易赤外線ヒーターとなる。そう温度を上げられる物でもない上に熱

源感知される恐れがあるため、屋外ではあまり使えないが、こういった閉鎖空間内であれば熱量は十分。おまけにこのコンテ

ナ内ならば熱は外に漏れず、感知される心配もない。

少しでも熱が籠もるようにトーチとシートを囲む形に木箱を移動させたハティは、アルミ皿を用意して固形燃料を乗せ、細

い金属の棒からなる三脚を配置し、その上にケトルを置いて火を付ける。

青い火がケトルの底を暖め始めると、先程握り固めた雪の塊をケトルの蓋を開けて放り込む。雪を持ち込んだのは、溶かし

て湯を作るためであった。

それらの動作はてきぱきとして淀みなく、手慣れた様子が窺える。

一通りの作業を終え、湯が沸くのを待ちながら、白犬はミオの容態をチェックし始めた。

雪が入り込んでぐっしょりと濡れた袖口やズボンの裾、そして襟元は、体に触れていると体温を奪ってしまうため、防寒着

を脱がせてトーチの熱を受けられるよう寝かせ直し、手首や足首にタオルを巻いてやる。

意識のないミオを甲斐甲斐しく世話すると、次いでハティは上着を脱ぎ、上半身裸になる。

ヘルとの戦闘で負った肩の傷は、負傷からたったの十二時間程度で完全に塞がっており、ピンク色の肉が薄皮を押し上げ、

蚯蚓腫れのように盛り上がっていた。

まっとうな生物の範疇から逸脱したレベルの回復力は、代謝速度を意図的に操作する事で実現している。

もはや糸も必要ないと判断し、ハティは小さなカッターを巧みに利用して自らの手で抜糸していった。

そんな作業を続けながらも、ハティは自分を責め、悔やみ続けていた。

(私達以外の全員が倒れた…。生き残ったミオにも、私のせいで手を汚させてしまった…)

今回は開戦時の不利に加え、圧倒的戦力差もあった。

客観的に見れば、万全の状況でも迎え撃つのは難しい部隊を相手取り、ここまでよくやったと言える。

だがハティは自問する。自分は本当に間違わずに皆を導けたのか?と。

そして首を横に振る。もっと上手くやれる指揮官であれば、皆を無事に逃がせただろう、と。

実際には相手の編成が良すぎて、例えゲルヒルデが健在のままベースを脱出していても不利は否めなかったのだが、そんな

事で気を軽くできるほどハティは器用では無かったし、己に厳し過ぎた。

(…済まない…)

何度も何度も心の中で皆に詫びる。己の力不足を責める。

恐れも知らなければ他の感情も知らない…。そんなかつてのドレットノートは、もうどこにも居ない。

迷い、悩み、心を痛めるハティは、もはや心を持たない旧式の兵器などではなかった。

ミオと出会い、感情豊かな彼に刺激された事で心の痛みも安らぎも知った今の白犬は、ひとと比べて遜色ない程度の感情を

持ち得るに至った。

あるいはその変化により、弱くなったと言えるのかもしれない。

ハティ自身も努めて考えないようにしており、当然口にも出さないが、ミオによって変えられた彼は、それまで以上に殺し

を忌避するようになっている。戦闘においてその行動と理念は命取りになりかねない。

だが、聡いハティもまだ気付いてはいなかった。

一見弱体化にも見えるその変化こそが、今まさに彼を、次のステージへ押し上げようとしている事には…。



耳元で異音が響く。

唸るような音が、延々と。

苦しげに眉間に皺を寄せ、いやいやをするように首を振ったミオは、やがて細く目を開け、ハッと見開く。

自分が仰向けに寝ており、薄暗い視界を塞ぐ金属の壁が天井である事に気付くまで、しばらくかかった。

早鐘のように心臓が胸を打ち、息がはかはかと乱れる。

体はだるくて口の中がねっとりとしている。

意識の覚醒に伴ってそういった感覚がはっきりして来るにつれ、次第に胸が悪くなった。

状況が飲み込めずに混乱し、不安が煽られるが、

「目が覚めたかね?ミオ」

程なく、白くて大きな犬の顔が自分を覗き込むと、途端に安心したミオは体の力を抜く。

「うなされていたようだが、どこか痛む所は?」

ミオが目覚めるまでに、ハティは体の具合を確かめていた。

その能力故に超音波スキャンにも似た芸当が可能なので、レントゲンなどに頼らずとも骨折などの有無を確認できる。

負傷は無いはずだが体調不良はあるかもしれない。そう考えての上官の問い掛けに、身を起こしたミオはゆっくり首を振る。

嫌な夢を見たような気もするので、だるさはそのせいだろうと考えて。

「大尉…ここは…?」

「運良く見つけたのだが、雪に埋もれて遺棄されていた雪上車の中だ」

吹雪は一層強さを増し、伸ばした手の先も見えないような状況だと、ハティは説明する。

ミオに進むのは無理だと納得させるために話はやや誇張してあるが、実際に普通の兵士では前方を探りながら前進などでき

ない状況。ハティの能力を動員しても進める距離は限られる上に、このような休息向きの場所が見つけられるとは限らない。

どうやら状況が理解できたらしいミオに、ハティは湯気が立つカップと缶詰を勧めた。

湧かした湯で溶いたチキンコンソメ味の粉末スープに、コンビーフである。

自分が眠ってしまっている間に、上官に何から何までやらせてしまった…。ミオは居心地悪そうに目を伏せた。

それでも礼を言って受け取ると、白犬がカップスープだけを啜っている事に気付き、怪訝そうな顔をする。

「大尉は食べないんですか?」

「私は先に済ませた。むしろ乏しい中からスープ一杯分だけ余計に摂取しているが、まぁこの体だ、多めに見て欲しい」

真顔で冗談めかし、太鼓腹をポンと叩いてミオを微笑させたハティだが、これはどちらも嘘である。

スティック状に袋詰めされた粉末スープはまだいくらかあるが、先行きが不透明なこの状況で余分に使う気にはなれず、今

飲んでいる一杯しか手をつけていないし、缶詰についてもミオに渡した物が最後の一個で、ハティの分は無い。

仲間達と雪上車を失った今、手持ちの荷物が彼らの全てである。

他の物資もそうだが、食料は特に貴重。スープを除けば手元にはグミとクッキー類しか残っていない。

しかしここで消費するのはやむを得なかった。少年の疲労と消耗は深刻で、逃走を続けるにも影響は無視できないのである。

先程のようにおぶって移動する手もあるが、そんな状況でもしも奇襲にあえば、立ち上がりでの不利は大きい。

それにハティはいざとなれば脂肪を分解してエネルギーにできるし、身動きしない状況であれば新陳代謝を遅らせて飢えと

渇きを抑える事もできる。故に最後のコンビーフはミオに与えるべきだと判断し、空腹は無視した。

「きちんと食べて休みなさい。吹雪がおさまればまた歩き通しになる。ゆっくりできるのは今の内だけだ」

ハティが父親のように、あるいは兄のように、または教師のように、優しく諭すような口調で言い聞かせると、ミオはおず

おずとスープを一口すすってからカップを脇に置き、缶詰に付属している鍵のような器具を取ってコンビーフを開け始めた。

本音を言うと、コンビーフの脂っこくてしょっぱい、粗野に感じられる味わいを、ミオは好かなかった。だが…。

「…おいしい…」

ハティに諭され、無理矢理にでも胃に収めようとしてかぶりついた肉と脂の塊は、不思議な事に、初めて美味に感じられた。

追いつめられた状況でやっと一息つけたからなのか、消耗した肉体が求めるからなのか、理由は解らなかったが。

だが、どうやら食べる程度の元気は出たらしいと、ハティがほっとしたのも束の間の事で、ミオは二口食べた所で動きを止

める。

「ミオ?」

訝るように声をかけて来たハティに答える事が、少年にはできなかった。

口元を片手で塞ぎ、肩を震わせるミオの目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

「どうした?ミオ…」

なるべく穏やかな口調を心がけて訊ねたハティは、少年の目に色濃く浮かんだ怯えに気付いた。

コンビーフの缶。その切り口から漂う金属の匂いが、ミオに思い出させていた。

初めてひとを殺めたその場で、凍り付きそうな寒さの中でも鼻の奥に染み入って来た、血の香りを…。

喉に突き立てたナイフを必死になって横に引き、切り裂いた肉と気管から発せられた異音を…。

防寒着の合わせ目から突き込んだナイフが、皮膚を食い破り、脂肪と筋肉を貫き、硬い何かに当たりながら深く食い込んで

いった感触を…。

ミオの震えは次第に強くなり、やがて歯の根が合わずにガチガチと鳴り出す。

気を失うような深い眠りを経て忘れていたが、少年は思い出してしまった。

自分が、ひとを殺めたという事を…。

「う…!ううっ…!ううううううううううううっ…!」

ミオは口元を押さえたまま俯き、体を丸める。

手から落ちたコンビーフの缶が、冷たい床に落ちてやけに大きな音を立て、コンテナ内に反響させる。

「ミオ?どうした?」

様子の変化に気付いたハティは、声をかけてから気がついた。

ミオの手足が、部分的に透けている事に。

特に口に当てていない方の手などは、手首から先が消えている。

能力の暴走…。素養に気付いたハティにトレーニングを施され、何とか自分の意思で制御できるようになった能力は、使い

手の未熟な精神が激しくぶれた事で勝手に発動していた。

消えてしまいたい。そんなミオの心に反応して…。

ハティは沈痛な光を瞳に湛え、ミオを見つめる。

制御が未熟だからこそ精神の乱れが直結し、簡単に不調に陥ってしまうその能力が、今はミオの心の傷の深さについて、雄

弁に物語っていた。

「ミオ…。済まない…」

心の痛みが表れたが故の能力発動を目の当たりにしながら、呟いたハティはきつく拳を握り混む。

己の過ちを突きつけられているようで、分厚い胸を憤りが満たした。

(私はどうすれば…、どう償えばいい…?取り返しのつかない真似をさせてしまったミオに…、どう償い、どう報いればいい

のだ…)