赤銅の守護者(後編)
倒れていた二人の調停者の傍らに、赤銅色の巨熊が屈み込みます。
ピクリとも動かないので、最初はすでに事切れているのかとも思いましたが、どうやら瀕死の重傷を負いながらも、まだ息
はあるようです。
二人のうち、片方は脇腹を深く抉られていて、白い肋骨が覗いている程の凄惨な傷を負っています。
もう一方は、ジャケットの右肩が破れて傷を負っている以外に外傷は見えません。出血も既に止まっているようです。
比較的軽傷かと思ったそちらの調停者の様子を確認した途端、ユウヒさんの表情が一変しました。
「こちらは…、もしやアレの尾を受けたのでは?」
顔を上げて尋ねたユウヒさんに、無事だった二人の一方、三十代前半ほどの調停者が、青ざめた顔で頷きます。
先程目にした次元が違うレベルの戦闘で、すっかり呑まれてしまったようです。
ユウヒさんは倒れている調停者の肩の傷に視線を戻すと、喉の奥で唸りました。
「急ぎ医師の手配を!一刻を争う!」
そう告げたユウヒさんは、その調停者をぐっと抱き起こしてジャケットとシャツを引き千切り、上半身の様子をあらわにし
ました。
「うっ…!?」
口元を押さえて呻いたのは、若い方の調停者でした。かく言う私も、背中の毛を逆立ててしまっています。
肩についた傷。出血が止まった小さなその傷から、周囲へと放射線状に、濃い紫色の痣が浮き出ていました。
まるで植物の根を思わせるその痣は、肩の傷を中心に、先は肘の下、胸の中心、首の半ばまで広がっています。
「…これは…、かなり巡っておる…」
呟いたユウヒさんは、その調停者の腰に固定されている、小振りなナイフに目を止めました。
そして「御免…」と一言断り、プラスチックの鞘からナイフを引き抜くと、その青白い刀身を見て目を細めました。
「やはり遺物か…。まぁ、正しい使い方は判らずとも、刃物には変わりあるまい…」
…ん?私には少し刃紋が綺麗なだけで、何の変哲も無いナイフのように見えますが、どうやらレリックらしいです。
ユウヒさんはナイフの刃を負傷者の肌にそっと当てたかと思うと、素早く動かしました。
まるでメスのような切れ味…。ナイフが負傷者の胸の中央を縦に、首の横を水平に浅く切ると、やや黒っぽい血が流れ出ます。
…これは…、毒に汚されている…!?
おそらく、毒の巡りをいくらかでも抑える処置なのでしょうが、表面を切っただけでは…。
そんな事を考えている内に、ユウヒさんはその方の右肩に鼻先を近づけ、ガブっと噛み付きました。
…いえ、噛んだのではなく、傷口を吸っている…?
負傷者の傷から毒の混じった血を吸い出し、地面に吐き捨てるユウヒさん。
三度ほど繰り返した後、ユウヒさんは若い方の調停者に、その後の処置を任せました。
「…なるほど厄介な…。神崎家の御庭番に犠牲が出たのにも合点がゆく…」
ユウヒさんが顔を顰めてそう呟いた直後、遠くからサイレンの音が聞こえ始めました。
その後、ユウヒさんは彼らに同行して最寄りの交番を訪れ、彼らの担当である監査官に面会し、事情をご説明なさいました。
私はというと、普通の猫のふりをしてユウヒさんに付き従い、ちゃっかり同席させて頂いております。
訝しげな視線は向けられたものの、注意はすぐにユウヒさんの巨躯に向くので、気楽なものです。
ユウヒさんの「愛猫なのだ」との説明で、監査官すら引き下がりました。
その交番の地下の一室で、ユウヒさんがその監査官へ事の顛末の説明を始めてしばらくすると、先に連絡を受けていたタネ
ジマさんが、調停者を一人伴って、部屋に入って来られました。
「非番でお休みのところ、申し訳ない」
「いやいや、ぼやいていられる状況でもありませんからね」
会釈したユウヒさんに、腫れぼったい充血した目を向けて笑みを浮かべると、タネジマさんも話に加わりました。お酒がま
だ残っているのか、普段よりも顔が赤いです。
「…伝説の存在…、ですか…」
「いかにも。昨今の技術で生み出された生きた兵器とは、成り立ちからして異なる」
ユウヒさんの説明に、二人の監査官は、纏めていた資料に視線を落としながら唸ります。
タネジマさんから、カトウさんと呼ばれていた三十代半ば程の監査官は、興味深そうにあれこれと、ユウヒさんに質問して
います。
アレの外見や力、その行動などについて。
気になるのは無理もありません。身体能力のみならず、恐らくは重力制御による飛行能力に、天候兵器としての機能。さら
には力場をも分解するあの力…。私達が知るどの危険生物をも、遙かに凌駕する力を備えています。
「アレは某が何とかしよう。出会うてしまったならば、とにかく避ける事だ」
そうおっしゃったユウヒさんを、タネジマさんに同行して来た調停者は、黙ってじっと見つめていました。
「あれは、鵺という」
交番を出たユウヒさんは、帰り道でそうおっしゃいました。
…ヌエ…?聞き覚えのある名です。確か、古い伝承にある、京で帝の御所を騒がせた怪物…だったでしょうか?
「いかにも。俺もこの目で直に見るのは初めてだが…」
ユウヒさんは言葉を切ると、目を細め、口の端を下向きにしました。
「…一方の調停者は、結局救ってやれなんだ…」
…ユウヒさん…。貴方に責任などは…。
負傷していた二名の内、脇腹を抉られていた調停者は、大量出血が原因で、運ばれた先の病院で息を引き取りました…。
ユウヒさんが毒を吸い出した方は、とりあえずは生きていますが、予断を許さない危険な状態です…。
あの毒は体内に入り込むと、血液に反応して変質し、神経を蝕むとか…。
ユウヒさんは犠牲者の肌を切開して毒の巡りを断ち、汚染された血液を吸い出して、それ以上の侵食を防ぐ応急処置を施し
ておられましたが、既に変色してしまった部位は神経がやられてしまっているそうです。片腕と上半身の半分には、ほぼ確実
に後遺症が残るとか…。
あの方はおそらく、調停者として現場に立つ事は、二度とできないでしょう…。
少しの間口をつぐんでいたユウヒさんは、私を見下ろして呟きました。
「君も、危険な目に遭わせ、怖い思いをさせてしまった…。俺が傍におりながら…、まったくもって面目ない…」
耳をやや倒し、目を細めて口元を引き結ぶユウヒさんに、私は首を横に振りました。
こうして生きています。ユウヒさんは、私も、調停者達も、しっかり護ってくれたではありませんか…。
…それよりも、ヌエとは、いったいどのようなモノなのでしょうか?
先程は他者の目もあってお尋ねできませんでしたが、ただの危険生物では無いとおっしゃっておられましたね?
アレが何者によって産み出されたのか、どこから来たのか、お心当たりはありませんか?
私の問いに、ユウヒさんは「ふむ…」と、少し困っているような顔で耳を倒しました。
厳めしいお顔をしていらっしゃる割に、私と会話する時には、結構色々な表情を見せてくれます。
「助力頂いておる事だ…。話すのが礼儀か…。…マユミさん、ここからの話は内密に願う。おそらくはネネ嬢も、ダウド殿辺
りにしか話してはおらぬはずだ」
ユウヒさんはそう前置きすると、静かに話し始めました。
「…アレは今現在ひとの手にある技で生み出せるような代物ではない。大きな声では言えぬが、遺物と同様にな」
ユウヒさんの言葉を聞き、私は驚きのあまり歩みを止めました。
…レリックと…、同様の存在…?つまりあれは、私達とは違う文明が生み出したモノ…?
「さよう。アレは我々に知られておらぬ民が生み出したモノであろうな…」
私のような裏の住人、そして調停者が聞けば目が飛び出しそうな驚愕の情報を、ユウヒさんはさらりと口にされました。
つまりその…、あのヌエという生物は、私達の文明が生まれる前から存在していた?
「そこまでは判らぬ。子を作る事ができるのであれば、頻繁に見られても良さそうなものだが…、俺が知る限りでは、近代で
は戦後と此度、そして二年前の騒動が起こった直後の首都、この三度だけしか姿を見せておらぬ」
その前は、どうだったのでしょうか?
「まだ神将という役目が存在していなかった頃、京の都を騒がせたというのが、確かな話の内では最も古いか…」
…えぇと…、帝の御所を騒がせたという、あの有名な逸話でしょうか?
「いかにも。おかしな声で鳴く奇妙な獣として、話が伝わっておるな…」
帝をお守りする高貴な武者がヌエを射落とし、その従者が落ちたヌエを追い、太刀にてとどめを刺した…。
確かその従者は、神将家の一つ、神原(かんばら)家の祖に当たるはず…。
「首都に現れた際は、御柱の出現後であった。そして此度も…。実は、君も知っているヌエの話だが、そのたった数日後にも
御柱が出現していたらしい」
…つまり、ヌエはバベルの出現に前後して現れる、と?
「稀なる現象と稀なる存在…。たまたまにしては奇妙な一致と思わぬかね?もっとも確証は無く、御柱とアレがどう関係する
のかも、とんと判らぬのだが…」
…そう、バベルと言えば、先ほどユウヒさんは、調停者の持ち物のナイフがレリックである事を見抜いておられましたね?
私には普通のナイフにしか見えなかったのですが…。
「ああ、あれは…。…むぅ…?どう説明すれば良いやら…」
ユウヒさんが困り顔で説明してくれた所によれば、どうやら神将の血を引く方々は、レリックの存在を気配というか波長と
いうか…、とにかく、特殊な反応として察知する事ができるとか…。
強力な物であればかなり遠くからでも存在を感じ取る事ができるそうですが、弱いものはそれ相応の微弱な気配しか掴めな
いそうです。
もっとも、弱いものでも数多く集まっていれば、気配を掴み易くなるらしいのですが。
それと、作動中にはその気配が強くなる傾向があるので、より正確な位置を特定しやすくなるとの事でした。
「個人差はあるが、この感覚はユウトも持っておる。俺が知る内で最も正確に気配を掴めるのは、やはり神崎家のお歴々…」
ユウヒさんは唐突に言葉を切ると、後ろを振り返りました。やや遅れて気付いた私も、それに倣います。
私達の後を、誰かが足早に追って来ていました。
それは、先程タネジマさんに同行していた調停者でした。
長身痩躯。年の頃は三十を越えたか越えないか。肩から長いバッグをかけています。
確か、ナガセさんという方です。
「如何なさったかな?」
歩み寄って一礼した調停者は、用件をお尋ねになったユウヒさんの顔を見上げます。
「特解中位調停者の、長瀬冬也(ながせとうや)と言います。家路につかれた最中で恐縮ですが…、どうか、話を聞いて頂き
たく…」
ユウヒさんは訝しげに眼を細めて、ナガセさんの顔を見ておられました。
「お願いします…!アレを討つ役目を譲ってください…!」
事務所のリビングで、平伏して訴えたナガセさんを、ユウヒさんは訝しげに細めた目で見つめます。
「どういう事だろうか…?」
「どうしても、この手で仕留めたいのです…!」
顔を上げたナガセさんは、真摯な眼差しで訴えかけました。
「…私は、あいつに仲間を殺されました…!この街を護る事を誇りにしていた、立派な調停者です…!大変な時期だからこそ、
力を合わせて頑張って行こうと、誓い合ったばかりだったのに…!」
悲哀、そして憎悪、憤怒に悔恨。強いいくつもの感情を宿すその目は、赤銅色の巨熊の姿を映します。
「私が…討たなければいけないのです…!お願いします…!」
テーブルに頭をつける程、深々と頭を下げて懇願するナガセさんに、
「残念だが…、某も手を引く訳にはゆかぬ」
そう、ユウヒさんは低い声でおっしゃいました。
「アレは帝に仇なすモノ…、すなわち神将の敵。見過ごす事はできぬ」
厳粛に告げたユウヒさんは、
「しかしながら…、助力の申し出を拒む理由は無い。必ずやこの手で仕留めねばならぬ理由もまた無く、某としてはアレが排
除さえされればそれで良い訳で…」
と、片方の眉を上げて口元を緩め、とぼけた様子で付け加えられました。
協同作戦についての打ち合わせを終えたナガセさんが、何度も何度も、丁寧にお礼を言って帰って行った後、私はユウヒさ
んに、思い至った可能性についてお話ししてみました。
「…ふむ、有り得ない話では無い…。いや、よくぞ気付いてくれた。君の聡明さには感服する…!」
感心したようにうんうんと何度も頷いたユウヒさんに、そう誉めて頂き、私は喜ばしさとこそばゆさを同時に覚えました。
「では、夜が明け次第、さっそく監査官殿に確認を取り、助力を乞うてみよう…」
頷きながらそうおっしゃると、ユウヒさんは窓に歩み寄り、カーテンを開け放ちます。
空はもう白み始めて、日が昇る時刻が近付いていました。
「早いものだな、じき夜も明けるか…。マユミさんは休まれよ。睡眠不足は美容の敵と聞く」
ユウヒさんはお休みになられないのですか?
「いや…、休むつもりだが、少しばかり動いたせいか小腹が減って…」
ユウヒさんは半眼になって耳を寝せ、なにやら切なそうに、大きなお腹をさすりました。
ユウヒさんは、ハムを丸ごと、切りもせずに二つペロリと平らげると、結局ろくに睡眠も取らずに一日を始めました。
朝食を用意したり、アルに預かり物を渡したり、十時のおやつを用意したり、タネジマさんに色々と問い合わせて協力を要
請したり、昼食を用意したり、作戦の準備をしたり、事務所内を掃除したり、ナガセさんと連絡を取り合ったり、三時のおや
つを用意したりして、お忙しく過ごされました。
実に精力的です。びっくりする程働き者です。仮眠を取った上に手伝えない自分が恥かしいです…。
家事に熟達しておられる辺り、なにやらユウトさんを思い出します。神代家の方々は、皆家事がお好きなのでしょうか?
預かり物を受け取ったアルは、慣らしという事で、地下のトレーニングルームで軽く運動したり、事務所周りを散歩したり
して過ごしています。
明日からはユウヒさんがトレーニングに付き合うそうですが、さすがに今日はそこまでの時間的余裕がありません。
アケミちゃんが学校から帰ってくる時間になったら、二人で遊びに行って来ると良いだろうと提案するおつもりのようです。
「事情を知れば、おそらく手伝うと申し出てくれるだろうからな…」
ユウヒさんは苦笑いしながらそうおっしゃいました。
私も同意見です。病み上がりで無理はさせたくないので、今回の件は伏せておく事になりました。
夕刻になり、アルを送り出した後、タネジマさんやナガセさんとの最終確認を電話で終えたユウヒさんは、さすがにお疲れ
になったのか、リビングの床に腰を下ろして、ぐぅっと伸びをします。
「…さて、何かと慌ただしかったが、これで夜までは時間ができたな」
そうですね。少しお休みになった方が…。何せ今夜は大仕事ですから。
「うむ。マユミさんも休まれよ。…また夜更かしをさせる事になって申し訳ないが…」
心得た旨を伝えた私は、とりあえずは猫としての日課、なわばり巡回をしようかと考えました。
頭の中身はどうあれ、世間一般で言えば、私の身分は野良猫です。
…自分で言っておいてなんですが…、ヘコみますね、この言い方…。
とにかく、食事を用意してくれたり、声をかけてくれる方々へ、心配をかけない為の挨拶回りはかかせないのです。
玄関を出ようとした私は、ユウヒさんに帰りの予定時刻をお伝えし忘れた事に気付き、リビングへ引き返しました。
ドアから顔を覗かせた私は、声を発しようと口を開き、そして慌てて口を閉じました。
私の低い視点からは、大きく広げて投げ出された太い脚と、その向こうで上下している、こんもりとした山のようなお腹が
見えています。
…やはり、お疲れだったのでしょう…。
先程言葉を交わしてからさほど経っていませんが、ユウヒさんは床の上に仰向けになり、眠っておられました。
作務衣の前を大きくはだけて、逞しいながらも皮下脂肪で丸みを帯びた胸をあらわにし、そこに左手を突っ込み、右手と両
脚は投げ出した格好…。
常の厳格な立ち振る舞いからは意外な、なんとも無防備で開けっ広げなその寝姿に、私は思わず見入りました。
そこからではお腹で顔が見えないので、足音を殺して近付き、右手側へ回り込んだ私は、目と口を閉じ、鼻から規則正しい
寝息を漏らしている顔を眺めました。
眠りながらも、傍に何かが居る気配は感じ取っているのでしょう。耳が時折小さく動き、私の方を向きます。
ユウヒさんのお顔は、眠って表情が消えていると、常よりもずっと優しげに見えました。
呼吸で上下する、ぽっこりした大きなお腹が、何とも微笑ましいです。
その寝顔を見つめながら、私は自覚します。
…私は…、やはり、この方の事を…。
…奥様が居て、もうじきお子様もお生まれになる、家庭を持つ殿方…。
いけない事と重々承知しながらも、少しずつ惹かれてゆくこの心は、一体どうすれば良いのでしょう…?
この気持ちも、表に出せばきっと、ユウヒさんに気付かれてしまう…。
私はしばし迷った末、静かに部屋を出て、外へ向かいました。
風に当たって、気持ちを鎮める為に…。
時刻は午後七時といった所でしょうか?暗くなった空の下、私は事務所に戻りました。
見上げた窓に灯りがついていない事から、ユウヒさんはまだお休み中である事が察せられます。
階段を軽快に駆け上った私は、ドアノブに飛びついて開けようと、跳躍の為にお尻を落として…、気配に気付いて素早く振
り向き、階段下へ視線を向けました。
間もなく足音が聞こえ、階段下に見覚えのある人物が現れます。カトウと呼ばれていた、あの監査官です。
カトウ監査官は階段を登って来ると、ドアの脇にちょこんと座った私を一瞥し、チャイムに手を伸ばしました。
「…某に手を引けと、そうおっしゃられるのか?」
腕組みをして言葉を発したユウヒさんに、向かい合って座るカトウ監査官は頷きます。
ここはカトウ監査官がつめている、昨夜訪れたあの交番です。
先程事務所にやって来たカトウ監査官は、ご相談したい事があると言い、ユウヒさんをここへ案内しました。
それで切り出された話というのが、あろう事か、ヌエに手を出すなという内容でした。
しかもその理由たるや…、
「アレは貴重です。現在の技術水準で生産する事は不可能なレベルの生物…!アレを解析すれば、様々な技術に応用できる可
能性も…!」
との事だったのです…。
あろう事か、カトウ監査官はアレを生け捕りにし、研究材料とすべきだと主張し始めました。
様々な理屈を並べ立てる彼の、その欲望にギラついた目に、ユウヒさんは気付いていらっしゃるでしょうか?
現在の技術で生み出される危険生物を遙かに凌駕する生物、それも、レリックと同源の存在を捕獲したとなれば、作戦を指
揮した監査官は、大きく評価される事でしょう。
カトウ監査官は、欲に目がくらんでしまったとしか思えません。
遭遇した調停者が何人も、為す術もなく倒れました。おそらく、ユウトさんやタケシさんでも手こずる相手…。
私の見立てでは、上位調停者ですら、数人がかりで何とか対等といった所でしょう。
それを生け捕りにするとなれば、一体どれほどの犠牲が出るでしょう?信じ難い…!この人は…!
「作戦準備は既に完了しています。あとはこちらに任せて頂ければ…」
監査官といえどもひとです。皆が皆、使命感に燃える善良な警官ばかりではありません。
調停者の一部がまた、職業的な守護者である事と同様に…。
それでも、多くの監査官は表の社会に裏の存在を入れない砦として、危険も顧みず、調停者達と共に一般人を守護します。
こんな人ばかりではないと、判ってはいるのですが…。
私が元々裏の住人だからなのでしょうか?カトウ監査官の身勝手な欲に、激しい怒りを覚えました…。
まったくもって下らない!ただでさえ予定時刻が迫っているというのに、こんな戯言を聞かされ、足止めをされるはめにな
るなんて…!ユウヒさん、構わず参りましょう!?
ユウヒさんはしばらく黙り込んでおられましたが、おもむろに口を開くと、低い声を発しました。
「…貴殿は、仲間を喪った事はお有りか?」
カトウ監査官は、一瞬何を訊かれたのか判らなかったようで、目を丸くしていました。
「共に死地へ赴いた者や、死線を潜り抜けた親しき仲間を喪った事は、お有りか?」
「いいえ、幸いにも同じ職場で殉職した者はおりません」
答えを聞いたユウヒさんは、目を閉じて「なるほど…」と、低い声で呟きました。
「…貴殿の話は良く判った…。某の答えは…」
ゆっくりと立ち上がった赤銅色の巨熊は、強い光を湛えた瞳で、座ったままの監査官を見下ろしました。
「否だ。断じてな」
「な!?ま、待って下さい!」
慌てて立ち上がったカトウ監査官に、ユウヒさんは鋭い一瞥をくれます。
「貴殿が担当していた勇敢なる調停者が、昨夜亡くなられた。にも関わらず、貴殿は仲間を喪った事はないと言われる…」
厳しい眼差しと低い声音に縛り付けられたように、カトウ監査官は立ったまま二の句がつげなくなっています。
「なるほど納得…。であればアレと直接相対する調停者の被害を顧みず、生け捕りなども考えような」
「お、お待ち下さい神代様!」
「欲はひとを成長させる。得たいと願う心は強き力となる。…が、過ぎたる欲は身を滅ぼす。肝に銘じておかれよ」
「ど、どうか、もう一度お考え下さい!これはこの国にとっても貴重な…」
忠告されてもなお、机を回り込んで食い下がろうとしたカトウ監査官を、ユウヒさんはギロリと睨み付けました。
「てめぇのよぐでながまぁ使い捨てるよぐたがりに、手ぇ貸してやるぎりすべぁねぇ!」
(訳・自分の欲で仲間を使い捨てる欲張りに、手を貸してやる義理は無い)
お郷訛りを丸出しで一喝し、監査官を硬直させると、ユウヒさんは踵を返してドアに向かいました。
通路に出ると、おそらくはカトウ監査官の作戦の為に集められたのでしょう十数名の調停者達が、びしっと整列していました。
「こ、この方をお止めしろ!絶対に行かせるな!」
ドアに駆け寄ったカトウ監査官は、無礼にもユウヒさんを指さし、裏返った声を上げました。
戸惑いながら顔を見合わせ、それからユウヒさんへと視線を向ける調停者達…。
「は、早くしろ!力ずくでも構わん!命令に従わないなら、査定でマイナスをつけるぞ!」
カトウ監査官が耳障りな甲高い声で喚くと、調停者達は慌てた様子で身構え、ユウヒさんを取り囲みました。
何という事でしょう!時間が押しているというのに、こんな事で足止めをされるなど!
焦る私とは対照的に、ユウヒさんは落ち着き払ったご様子で、軽く目を閉じます。
「調停者の方々、どうか道を空けて頂きたい」
静かに口を開いたユウヒさんに、しかし調停者達はじりじりと詰め寄ります。
「貴殿らにとって、この監査官殿は、命を預けるに相応しい相手であろうか?そうでなければ某に任せて頂きたい。監査官殿
が何を主張なさろうと、某が決して悪いようにはせぬと約束する。…それでもなお、我が行く手を阻むおつもりならば…」
ゆっくりと目を開けたユウヒさんは、低い声でおっしゃいます。
「神代勇羆…。力ずくで押し通る…」
鋭い眼光と、その赤銅色の巨躯から滲み出す、息が詰まる程の不可視の圧力に気圧され、ユウヒさんを取り囲んでいた調停
者達がビクッと動きを止めました。
一方では、強烈なプレッシャーに当てられて目を大きく見開き、ガタガタと震えながら絶句しているカトウ監査官。
そんな彼に一瞥をくれる事も無く、ユウヒさんは前を向いたまま、調停者達に軽く頭を下げました。
「かたじけない」
一歩踏み出す巨熊の前には、左右に分かれた調停者達が空けた道。
堂々たる歩みを進めるユウヒさんに、調停者達は萎縮しながらも、敬意と畏怖を滲ませた視線を向けています。
まさに、無人の野を往くが如く…。
その堂々たる振る舞いとお姿に、一瞬ぼぅっと見入ってしまった私は、我に返って慌てて後を追いました。
そしてユウヒさんの横に並び、速度を揃えて歩きます。
本当に不思議な方です…。傍に居るだけで、こんなにも誇らしい気持ちになれるとは…。
足早に交番を出たユウヒさんの顔を見上げ、私は一声鳴きました。
誤解しないで頂きたいのです。あのような監査官もごく稀に居ますが、多くは善良な…。
「ご心配召されるな。重々承知しておるよ」
ユウヒさんは私を見下ろすと、何故か少し面白がっているようなお顔をされます。
「つくづく思う。君は、裏の住人であったとは思えぬほど、極めて護人寄りだな」
…はて?そうなのでしょうか?
ガス漏れ事故の偽情報により、一般人の立ち入りが禁止され、警官隊によって封鎖された、復興中のビル街。
昨夜ユウヒさんと私がヌエと遭遇した場所の、すぐ近くに建つ高いビルの屋上。
そこに立った太めの警官は、大きなコンテナに背を向けて立ち、黒々とした雲が低く垂れ込める空を見上げていました。
ヘリで屋上に降ろした貨物コンテナには、大量のレリックが詰め込まれています。
…そう。ヌエをおびき出す為に…。
私の目論み通り、ヌエはまんまと現れました。拳銃のホルスターに手を遣り、宙を睨み据えるタネジマさんの視線の先には、
狸の胴に虎の四肢を備え、猿の顔をした獣…。
ユウヒさんに折られた腕は、驚くべき事に、たった一日で元に戻っています。
タネジマさんの頭上、15メートル程の位置に浮遊しているヌエは、爛々と輝く瞳で警官を見つめていましたが、やがて、
ひょぉぉおおう!と、あの声を上げました。
顔を顰め、身を竦ませながらも拳銃を抜き放つタネジマさん。
調停者達ですら身を竦ませるあの咆哮を受けてなお、意思の力で身体の呪縛を振り払う…。驚嘆に値する精神力です。
が、獣人ですらない普通の人間であるタネジマさんが、小口径の拳銃を握ったところで、ヌエに敵うはずもありません。
その事は重々判っているのでしょうに、タネジマさんはヌエに銃口を向けて一歩も退きません。
付近に被害が出ないよう、我が身を盾にして、一秒でも、一瞬でも長く引き止めるつもりなのでしょう。
これです…!監査官とは、こういう気概を持ったひとでなければいけません!
そして、こんな監査官こそ、簡単に死んではいけないのです!
宙で身を屈め、真下に向かって飛びかかろうとしたヌエは、しかし寸前でソレに気付き、動きを止めました。
耳元で風がゴウゴウと鳴る中、私は瞳の拡大機能を解除し、通常視覚に戻します。
ドシンッと音をたてて素足で床を踏み締め、タネジマさんのすぐ横、ビルの屋上に着地した赤銅色の巨熊は、軽く頭を下げ
ました。
「面目ない…。野暮用で遅れてしまった…」
時間ギリギリでした…。あの交番を出た後、ユウヒさんは人気の無い路地に走り込みました。
そして手近なビルの壁面を文字通り駆け上り、そのままビルの上を飛び移り、時にはあの技、空歩で宙を駆け、最短距離で
ここまでやって来たのです。
一般人に見られはしないかとひやひやしましたが、要らぬ心配だったとすぐに気付きました。
禁圧解除したユウヒさんの速度では、道行く人々が夜空を見上げたところで、何が過ぎったか判らないでしょうから。
「問題ありません。しっかり間に合ってますよ」
安堵の表情を浮かべるタネジマさんに下がっているよう告げると、ユウヒさんは懐に入れていた私を床に降ろします。
…不謹慎ながら、またしてもちょっとドキドキしてしまいました…。
ユウヒさんは右腕を袖の中に引っ込めながら、宙のヌエを見据えます。
「さて…。今宵は逃すつもりは無い。覚悟はよいか?」
低く、よく通る声でそうおっしゃったユウヒさんは、襟元から腕を出し、片肌脱ぎました。
身を切るような高所の寒風もなんのその。逞しい上半身が半分あらわになり、肩からむき出しにした右腕をぐるりと回し、
ユウヒさんはゆっくりと息を吸い込みます。
ごおぉぉぉおおおおおおおおおおうっ!
凄まじい音量の、獣そのものの咆哮が、ユウヒさんが大きくあけた口から迸りました。
体がビリビリと震え、お腹の底に響くその咆哮は、向けられたヌエにはどのように聞こえたのでしょう?
お株を奪われたかのように、ぞわっと全身の毛を逆立たせ、硬直しています。
ヌエが固まったのは、一瞬にも満たない刹那の事でしたが、ユウヒさんにはそれだけで十分でした。
ガンッと音を立てて床にヒビをいれ、凄まじい速度で跳躍したユウヒさんは、ヌエが動けるようになったその時にはすでに、
固めた右拳を大きく振り上げた状態で眼前に到達しています。
ゲンコツでした。特大の。
ガツン!という物凄い音が夜空に響き渡り、頭頂部を熊のゲンコツでぶたれたヌエは、宙から叩き落され、縦回転しながら
床に激突します。
ヌエが身を起こそうとしたその時には、ユウヒさんは宙で力場を爆ぜさせ、急降下しています。
気配を察したのか、転げるように横へ逃れたヌエの胴体があった場所へ、ユウヒさんが凄まじい勢いで突っ込みました。
その飛び蹴りの一発で、床が広範囲に渡って崩落し、ビル全体が揺れます。
床の崩落は不思議なことに、タネジマさんと、傍に居る私の方へは広がってきません。
まるで、破壊範囲までコントロールされているかのように…。
床に埋没するような格好になったユウヒさんでしたが、崩れる床の中から瓦礫と粉塵を纏って飛び出すと、その勢いのまま
に宙を踏み締めているヌエに突っ込みます。
ひょおおおおおおおおう!
ヌエは咆哮を上げながら全身に青白い稲光を纏い、両腕を振り上げてユウヒさんを迎え撃ちます。
虎の両前足で繰り出される、左右から挟み込まれるような一撃を、しかしユウヒさんは左右に掲げた両手で防ぎます。
両者は宙で互いの腕を噛み合わせ、静止しました。…でも、あの稲光には力場を分解する力が…!
ヌエの両爪を受け止めた、ユウヒさんの太い両腕を覆う力場が、光の粉になって宙へ散ってゆきます。…が、
「この密度になると、さしものお主でも分解はできぬようだな…」
私が、そしてヌエが、目を剥きました。
ユウヒさんの両腕はいつもの燐光を宿してはいません。
…いいえ、力場そのものは纏っています。しかし、両腕の、肘から先を覆う力場だけが赤味がかって…?これは一体?
ユウヒさんの被毛と近い色、赤銅色の光に変色した力場は、青い雷に触れても分解されませんでした。
原理は判りませんが、ユウヒさんは密度がどうのとおっしゃいました。つまりあれは、密度を高めた力場…?
力場の分解が不可能と察したか、ヌエは両腕を引きつつ、後方へ宙返りします。
その後を追うように、下から細長い何かがヒュンっと空を裂きました。同時に、ユウヒさんが素早く腕を動かします。
ひょぉぉぉおおおおおおう!
着地するなり転げ回り始めたヌエの口から、凄まじい絶叫が迸りました。
瓦礫を踏み締めたユウヒさんは、右手の手刀で切り落として左手に掴み取ったソレをちらりと見遣り、足元に放り出しました。
それはヌエの尾。ヌラヌラと光る黒い鱗に覆われたその尾は、先端が割れており、内側には黒光りする棘が並んでいます。
…まるで口のよう…。私の目には、尾自体が目の無いヘビのようにも見えました。
尾を失ったヌエは、瓦礫の上で苦しげにのたうっていましたが、やがて跳ね起きると、
ひゅるるるるるおおおおおおおぅ!
嚇怒の咆哮を上げて、ユウヒさんに踊りかかりました。
振り上げられた右前足が、袈裟懸けに振るわれます。
ユウヒさんは沈み込むように体勢を低くし、その一撃を避けました。
が、ヌエは後脚で立ち上がるような格好で、続け様に左前足を繰り出します。
その下を、ユウヒさんの巨躯が素早くかいくぐりました。
低い姿勢から身を捻ってヌエに背を向け、太い両足で瓦礫を力強く踏み締めたユウヒさんは、
「崩山衝(ほうざんしょう)!」
背面全て。肩や背中全体とお尻で、立ち上がったヌエの胴に体当たりをしました。
直後。赤銅色の閃光が放射状に爆ぜて、ヌエの巨体が周囲の瓦礫諸共に弾き飛ばされます。
凄まじい衝撃の余波で、飛ばされた瓦礫が宙で砕け散って塵となり、ビル全体が激しく揺れます。
背中全体に超高密度の力場を纏い、爆砕させたのでしょうか?
とんでもない破壊力…。神将の力とは、これほどの物なのですね…。
今度こそ仕留めたかと思い、安堵して目を細め、粉塵の向こうを見透かした私は、
「…しまった…!」
ユウヒさんの、めずらしく焦りの混じった声を耳にし、目を見開きました。
「お、おいおい…。うそだろう…!?」
まともに全身血だらけになり、顔の半分を吹き飛ばされながらも、宙を踏み締めて唸り声を漏らしているヌエの姿を目にし、
タネジマさんが掠れた声で呟きました。
あ、あれをまともに浴びて…、まだ生きている…?
ヌエは憎悪に染まった目でユウヒさんを睨みながら、宙でじりじりと後ずさります。
頭上で黒雲がゴロゴロと唸り、表面を稲光が走って…、まずい!ヌエは逃げるつもりのようです!
ギリリと歯を食い縛ったユウヒさんは、大きな声を上げました。
「ナガセ殿!急がれよ!」
…あ!
私がその調停者の事を思い出した途端、キュンッという音が、微かに聞こえました。
直後、ヌエの体が揺れて、右脇腹と、反対側から血が吹きます。
ヌエが苦鳴を上げると、集中が解けたのか、頭上の稲光が唐突に収まりました。
再びキュンッと音がすると、今度はヌエの右耳が砕け飛びます。
ヌエは一声唸ると、あの青白い稲妻を体表に走らせました。
次いでまたキュンッという音。しかし今度はほぼ同時にギンっという金属を打ち合わせるような音がして、ヌエの背中で火
花が散りました。
そしてまたキュンッ、ガィンっという音…。力場と似た力なのか、蒼い雷は謎の攻撃を防ぎ止めているようです。
しかし、数度それが続いた後、ヌエの右前足の指が何本か纏めて飛びました。
ダメージを負い過ぎたか、それとも力が尽きたのか、雷はもう纏えないらしく、ヌエの体のあちこちから鮮血が吹き出します。
逃げようというのか、ヌエは身を翻して宙を駆け上り始めました。しかし謎の攻撃はまだ止みません。
ひょぉおおおおおおおおおおおおう!
ヌエの苦しげな叫びに重なるようにして、小さな音はなおも続きます。
キュンッ、キュンッ、キュンッ、キュ、キュ、キュ、キュキュキュキュキュ…
音が鳴るたびにヌエの体のあちこちに穴があき、抉れ、血がしぶきます。
「…そうか…。トウヤがバックアップに回っていたのか…!」
タネジマさんがそう呟いた直後、体のあちこちに穴をあけられたヌエは、
ひょぉぉおおおおおう…
力無い断末魔をあげ、落下しました。
地響きを立てて瓦礫に墜落したヌエは、しばしヒクヒクと痙攣していましたが、やがて、その動きを永久に止めました。
ヌエの絶命を見届けたユウヒさんは、首を巡らせ、軽く手を上げました。
視線の先を目で追えば、かなり離れたビルの上、手すりの外側に立ち、ライフルを掲げている人影。
ズームして見ると…、ナガセさんです!
ユウヒさんは腕を下ろすと、「ふぅ〜…」と、安堵したようにため息をつきました。
「やれやれ…、肝を冷やした…」
そうですね…。まさかあれだけの攻撃に耐え得るなんて…、驚いたどころの騒ぎではありません…。
「加減をしくじり、仕留めてしまったかと…」
…はい…?
「まぁ、少々痛めつけ過ぎたやも知れぬが、仇討ちは成った。ナガセ殿には勘弁して貰おう」
目を丸くしている私には気付かないまま、ひとりごちていたユウヒさんは、衣類の乱れを直し始めました。
…あ…、あぁ〜…。「しまった」って、そういう意味だったんですか…。
バベルが出現する前後に、ヌエは現れる。
そして、今回の出現で襲われたのは調停者。しかも、犠牲者はレリックを所持していた。
それらの事から私が考えたのは、ヌエが、ユウヒさん達神将と同じく、レリックの気配を察知する力を持っているのではな
いかという事…。
バベルの出現に前後して現れるのは、きっと、それ自体が強力なレリックであるバベルに反応しての事。
そして、バベルが消えてしまった後も、ヌエはその残り香のようなものを察知し、現れたのでしょう。
二年前の首都と、今回の東護、どちらも出現してすぐにバベルは消えました。そのせいで、ヌエは目標を見失ったのでは?
作戦中の調停者を襲ったのは、きっと、作動中で強まっていたレリックの気配にひかれたから…。
私は、ユウヒさんからお聞きした、ヌエがレリックと同源の存在かもしれないという話から、バベルや他のレリックにひか
れる習性があるのかもしれないと推測したのです。
私がその推測を話したところ、ユウヒさんは同意してくれました。
そして、タネジマさんにお願いして、ヌエをおびき寄せる為に、囮とするレリックを集めて貰ったのです。
「重ねて詫びさせて頂きたい…。某が遅れたせいで危うい目に遭わせてしまった…。真に申し訳ない…」
「よしてくださいよご当主…!ちゃんと間に合ったじゃありませんか…」
耳を伏せて眉を八の字にし、深々と頭を下げるユウヒさんに、タネジマさんは困ったような苦笑いを浮かべました。
「それに、必ず来て頂けると、信じていましたから。大して怖い思いはしていません」
「…過分な信頼、痛み入る…」
ユウヒさんはなおも済まなそうにお辞儀すると、崩落した穴から、ビルの最上階にあたるフロアを見下ろして、
「…やり過ぎたな、弁償せねば…。…やれやれ、またシバユキに小言を貰うはめになりそうだ…」
鼻の頭を掻きながら、困り顔でそうおっしゃいました。
「ご協力、感謝致します…!」
ユウヒさんとテーブルを挟んで向き合ったナガセさんは、深々と頭を下げて、声を震わせました。
私とユウヒさんが事務所に戻って間も無く、ナガセさんはいらっしゃったのです。
「何とお礼を言えば良いのか、言葉が見つかりません…。これであいつも浮かばれます…。そして、私もようやく…」
首を起こしたナガセさんは、首にかけた二枚の認識票の一方を、指でそっと撫でました。
それは、ヌエに殺された、彼の仲間の調停者の認識票…。ナガセさんのフィアンセの物だった、傷だらけの認識票…。
「なに。某も助力を頂いて楽をさせて貰った。礼などと、とんでもない…」
ユウヒさんは首を横に振りながらそう呟くと、しんみりした空気を払うかのように、少し明るい口調で話し出しました。
「それにしても、見事なお手前、感服した。魔弾の射手とはまさにアレだな」
「いえ。実はあの力、制約が多くて…。クマシロ様にああして止めておいて貰えなければ、捉えるどころでは無かったのです。
私一人では、かなり困難でした…。このお礼は、必ずや…!」
奇妙な狙撃で四方八方から攻撃を仕掛け、見事にヌエにとどめをさしたナガセさんは、驕るでもなく恐縮した様子で答えます。
その後も、どうあっても借りを返すと言って聞かないナガセさんを、困り顔で見つめていたユウヒさんは、何か名案を思い
ついたように、ポンと手を打ちました。
「どうしてもというのであれば、一つ聞いて頂きたい事が有る」
「はい!何なりと!」
嬉しそうに身を乗り出したナガセさんを前に、ユウヒさんは顔を斜め上に向けました。つまり、上の階の寝室の方へ。
「実は…、某はあと数日でこの街を離れねばならぬ。その後、この事務所に短期間ながら滞在し、貴殿らに協力する事になる
調停者がおるのだが…」
視線をナガセさんに戻したユウヒさんは、口元に微かな笑みを浮かべて続けました。
「まだ若く、そして負傷が癒えたばかりなのでな。貴殿のような腕の立つ調停者と共に行動できれば、某も安心できるのだが…」
どうやら、ご自分が屋敷へお戻りになった後、こちらに残って調停に従事するアルのサポートをお願いするようです。
そうですね。そうなれば、私も少しは安心です…。
ナガセさんが帰った後、ユウヒさんは大あくびをして、「む…、失礼…」と、私に苦笑いを向けられました。
ヌエの騒ぎも一件落着。昨夜からあまり休んでおられないのですから、さぞお疲れでしょう?ゆっくりお休みになって下さい。
「お気遣い痛み入る。…早々に一風呂浴びて休むとしようか。…それはそうと、鵺の事だが…」
はい?まだ何か、気になる事が?
「ふむ…。貴女はこう言われたな?アレは、遥か古代から生きているのか?と…」
ええ。確かにそうお訊き致しましたが…。
「そのように永き時を越えてゆくモノなのか、普通の生き物のように、子を為して増えるモノなのかは今でも判らぬが…。残っ
ておるのは、此度の一体だけではないのやもしれぬ」
え!?
「古都に残る、鵺に関わる墓や塚。いくつかは落ちた場所や、切り分けられた部位毎の塚とも聞くが…、それにしても、有名
無名をあわせれば、あの数は尋常ではない。…あるいは鵺とは、以前はかなり残っていたモノなのかもしれぬな…」
…そんな…。あんな生物が…、まだ他にも…?
「まぁ、次に出会うたら出会うたで、その時はその時だ。また何とかしよう」
そう呟いたユウヒさんは欠伸を噛み殺して立ち上がり、…あれ…?何故か廊下ではなく、キッチンへ向かいます。
「いや…、今に始まった事ではないのだが、俺の体は燃費が悪くてな…」
冷蔵庫からソーセージやベーコンを引っ張り出しながら、ユウヒさんは決まり悪そうにボソボソとそうおっしゃいました。
二時間は経ったでしょうか?
リビングにある、以前ユウトさんが作ってくれた、バスケットにクッションを入れたベッドで眠っていた私は、微かな物音
を耳にして目を覚ましました。モーター音のような…、何でしょうこの音?
見れば、リビングから廊下に続くドアが薄く開いています。どこかの音が漏れ聞こえて来ていたようです。
ベッドから出て伸びと欠伸をした私は、廊下に出て音源を目指しました。
浴室に通じる脱衣場のドアの隙間から、光が細く漏れて来ています。換気扇も回ったままのようです。
お休みになる前にユウヒさんが使ったはずですが…、よほどお疲れだったのでしょうね…。
消しておこうと思い、ドアを引いて脱衣場に入り込んだ私は、棚に置いてある物に気付き、首を捻りました。
浴衣?ユウヒさんがお休みになる時のお召し物です。何故置きっ放しに…?
…え?あ、あれ?もしかして…?…にゅ、入浴中だったのですか!?二時間近くも!?
もしかしたら、お風呂の中で寝てしまったのでは…?
そんな事を考えた直後、浴室の曇りガラスの向こうでビシャっと足音がして、赤銅色の影が現れました。
いけない!急いで出てゆかなければ!
しかし、焦る私が行動を起こす前に、曇りガラスが嵌められた引き戸がガララっとスライドしました。
駆け出そうとした格好のまま硬直して、見上げる私…。
引き戸を開けた姿勢のまま、私を見下ろすユウヒさん…。
湯に濡れて湯気を上げる、赤銅色の長い被毛に覆われた巨体…。
丸太のような両腕に、その巨躯を支える太く逞しい両脚。
搭載している筋肉の量はともかく、皮下脂肪で丸みを帯び、かなり豊満なボディライン…。
筋肉の上に乗った脂肪でたっぷりした胸と、ぼよんと突き出たお腹。段がついたその下には、…え?…あ…、え…?
…短…?太…。丸…。厚皮…。被って…?…ドリルのような…?
「………〜っ!」
ユウヒさんは顔色を失い、ガララピシャっと戸を閉めて、浴室に戻って行かれました。
ゆ、ゆゆゆゆゆユウヒさん!?済みません、覗くつもりなど無かったのです!
見てません!あまり良く見えませんでしたからっ!そんなじっくりとか見たりしてませんホントに!
だからお気になさらないで下さいっ!ちょ、ちょっと!?ユウヒさぁああああああんっ!?
私は曇りガラスを引っかきながら、ニャーニャー鳴いて訴えましたが、ユウヒさんは結局、私が立ち去るまで、浴室に閉じ
こもっておられました…。
曇りガラス越しに見える赤銅色の後姿、その肩が、ずっと小刻みに震えていたように見えたのは気のせいでしょうか…。
神代家のご当主は、様々な面で、私の予想の外の存在でした。
…気にする事、無いと思いますよユウヒさん…?
…確かに強烈な意外性はありましたが…、あれはあれでかわいいと思うんですけれど…。