ハティ・ガルム(前編)

ギュウッ…と、低い音が聞こえた。

雪を踏む音…にしてはいささか妙な上に、発生位置がそれほど低くない。

一瞬考えた私は、足を止めて振り向いた。

同時にすぐ後ろで立ち止まったアメリカンショートヘアは、私の顔を見上げて訝しげな表情を浮かべる。

「どうかしたんですか?大尉」

あどけない表情で訊ねて来たミオに、私は訊き返す。

「ミオ。そろそろ腹が減っているな?」

途端にミオは目を大きくし、耳を伏せ、「えーっ!?」と声を上げながらグローブを填めた手で顔を覆った。

「き、聞こえてたんですかっ!?うわぁー、恥ずかしぃ〜っ!」

「振動感知は能力の内だ。微かな音でも振動である以上例外ではないよ」

応じた私は、横殴りの風に小雪が混じった薄いヴェールの向こうに雪原の景色を見透かし、様子を探る。

見渡す限りあちこちで氷が隆起し、平坦な場所が少なく、極めて見通しが悪い。モービルでの走破は困難だ。

当初の予定ルートを変更し、新たな逃走経路として選んだこの近辺は、機動力を有した追っ手には障害になり、徒歩の私達

には好都合な地形となっている。

「もう三時間は歩いたな。そろそろ小休止にする。あそこで休もう」

私が指さしたのは斜めに生えた三角錐の氷柱。根本は風のポケットになっており、雪がくぼんでいる。あそこならいくらか

風が防げるだろう。

「だ、大丈夫ですよ!もうちょっとは!」

「だが、後になって休息に適した場所が見つかる保証は無いぞ?」

私は意地を張るミオをやんわり諭す。

意識の変化があったのか、この数日でミオは少し逞しくなった。弱音は一言も吐かず、ペース自体も上がっている。

一日に歩ける距離が増えた事は単純に喜ばしいが…、それ以上に、ミオの成長が感じられる事が私には嬉しい。

この悪環境に、悪状況に、膝を折らないだけの気骨が少年の中で育まれている。

何があっても力の限り守るつもりだが、私に頼らずとも生きて行ける逞しさを、この少年には身に付けて欲しい。

もっとも、まるっきり頼られなくなるのも少々寂しい気がするのだが…、これは身勝手か…。こんな事を考える辺り、私も

いくらか変わったのかもしれない。

雪が凍り付いたくぼみに身を潜め、腰を下ろすと、ミオは私にぴったりと寄り添って来た。

体を重ねたあの夜以降、この少年は休む時には片時も離れず私にくっついている。

あの日、あの時、あの行為に及んだ事が正しいのか、間違っているのか、私は未だに判断できずにいる。

体力の温存という点では間違いなく避けるべきだった。初体験だったが、まさかあそこまで疲労するとは思わなかった…。

この状況でのアレは体力の浪費に他ならない。

…だが、それ以降ミオが精神的な変化を見せた事を鑑みれば、完全に間違っていたとも断じられない。なにより、ミオが遠

慮せず身を寄せて来るようになったのは、私にとって不快ではない変化だ。

…だが、そんな所など間違っても他者には見せられないな…。

「はい大尉っ!あーん!」

グミを摘んだミオが、考え事に没頭していた私の顔前に手を翳す。

少々照れくさいが、断るとミオがむくれるので大人しく口で受け取る。

…こんな所など間違っても他者には見せられないな…。

自分もグミを口に含み、ミオはむぐむぐと咀嚼し始めた。

ベース脱出から今日で七日目。

少年騎士と別れた後も、追撃部隊との戦闘は二度あったが、どちらも死者を出さない撃退に成功している。

乏しい物資は撃退した際に彼らから強奪して賄っている。

もっとも、補充できたのも充分な量では無い。携帯食料は既に尽き、手元に残っているのは乏しいクッキーとグミだけ。

「追っ手、もう三日も来ませんねぇ。また食料持って来てくれればいいのにっ」

同じく食料について考えていたのだろう。ふてぶてしい冗談を言うミオに、私は笑いかけた。

「はい!大尉あーん!」

「いや、私はもう良い」

再びグミを勧めて来たミオは、今度は断った私に怪訝そうな顔を向ける。

「え?一個だけ?」

「今は良い。後で大休止する時に食おう。ミオはもう少し食べておきなさい」

私の体は飲まず食わずでも多少保つようにできているが、ミオは違う。

同じく人の手が入った被造物とはいえ、私達エインフェリアとは違い、内臓にも筋肉にも人工物を使っていない…。つまり、

肉体の機能的には普通の生物と変わりないのだ。飲み食いできなければ普通に衰弱し、普通に倒れてしまう。

「ダメですよ大尉!一昨日ぐらいからぼくにばっかりよこして、ちっとも食べないじゃないですか!体が大きいんだから、ぼ

くより食べないと!」

気遣うミオに、私は首を横に振った。

「前にも言ったが、私は脂肪を燃焼させてエネルギーにする事もできる。これまでは機会が無かったが、良いダイエットにな

るかもしれない」

「え?痩せたいんですか大尉?」

ミオは眉根を寄せつつ少し身を離し、私の体をまじまじと眺め回した。

「意外…。そういう事を気にするようなひとに見えませんでした…」

「半分冗談だが、痩せた方が良いかもしれない」

「え〜?」

どういう訳か、ミオは不満げだ。

「ミオもその方が良いだろう?」

パートナー面してそう冗談めかしてみたら、ミオはぷるぷるっと首を横に素早く振った。

「今のままがいいです!大尉はやっぱりふくよかで太ましくないと!痩せちゃったら何か変!」

…変とな…。

気付けば私は苦笑いしていた。

我が事ながら、ここ数日でよく笑うようになった物だ。仲間を喪い、胸の痛みという物を学習してもなお、ミオが私を笑わ

せてくれる。

…きっと、ミオは私を笑わせようと、明るく振る舞う努力をしているのだろう…。

ようやく笑えるようになった私は、昨夜ふと気が付いた。笑みというのは意図して浮かべようとしなくとも、勝手に浮かん

でしまう物なのだという事を。

もっと早くに笑えるようになっていれば、マーナやスコル、デカルド中尉、そして隊長にも笑いかける事ができた。

もしもそうできていたなら、彼らはどんな顔をしただろうか?…今となってはもう考えても仕方がないのに…、どうしてか

気になった…。

そんな風に、ミオにつられて一時考えが逸れていた私だが、意識して目の前の問題に頭を戻す。

食料についてはほぼ全てミオに回せる。当面は、だが…。

今は雪を食って渇きを抑え、粉末スープでミネラルとナトリウムを補給し、何とかなっているが、当然いずれ限界は来る。

そうなったらいよいよ、文字通り身を削って生存期間を長引かせるしかない。

今はまだ死ねないのだ。ミオを守る為に…。

だがそれだけで全ては解決しない。私はともかくミオの食糧問題は先延ばしにできないのだ。

いざとなれば野生の危険生物を狩り、与えるしかないな。…運良く食えるような物と遭遇できればの話だが…。

「大尉。ちょっと風、弱くなりましたね?」

身を寄せたミオは、私の腕に縋りながら囁いた。

「そうだな。良い傾向だ」

ミオは未だに私の事を階級で呼ぶものの、私とミオの関係は、もはや上官と部下のそれではない。

脱走兵となり、部隊ですらない今となっては階級も無意味だし、何よりも心情的に…。

風が弱まったと言いながらも、ミオは一層強く私の腕を掴み、より体を密着させて来た。

気丈に振る舞ってはいるが、ミオは不安なのだ。

いつ命を絶たれるか判らないこの状況だ、まともな神経を持ち合わせていれば当然の事…。

私はミオに縋られている腕を抜き、その華奢な肩に巡らせて抱き寄せた。

抵抗せずに身を任せ、しなだれかかる格好になったミオは、私の顔を一度見上げた後、耳を倒して微笑み、胸に頬を寄せて

身を預けて来る。

こうしてやるとミオが喜び、リラックスするらしい事を、私はこの数日間で学んだ。

彼曰く、防寒着越しでも感じられる脂肪と被毛の柔らかさが心地よいらしい。

「ミオ。昨日途中まで話したが…」

私はブライアンの記憶と刷り込まれた知識を手繰りながら、ミオに話しかける。

「映画館ではポップコーンが売っている。飲み物もだ。飲み食いしながら映画観賞できる」

「へぇ…?」

ミオは小さく声を漏らしながら首を傾げた。見た事のない設備について、あれこれ想像しているのだろう。

私はここ数日、ミオの不安を和らげ、世界への希望を膨らませてやるために、休憩の度に社会の娯楽について色々と話して

いる。

私と違い、戦線で消耗される使い捨ての兵士として作られたミオは、一般的な社会知識が部分的に抜けている。

生産力を上げるため、コピー兵士は製造にかかる手間が極力はぶかれており、必要の無い知識がインストールされないのだ。

社会に潜入させる予定で作られたので無ければ、この少年のように、娯楽設備などを知らない事が多い。

私はミオに一般的な映画館について細かに聞かせてやりながら、彼と一緒にそこに居る自分を想像してみる。

ブライアンはファンの子供を映画館や遊園地に連れて行ったりもした。喜ばせるには良い手に思えるのだが、ミオは喜んで

くれるだろうか?

…もっとも、ブライアンはその後に相手を犯して殺して喰らっていたのだが…、そんな事までミオに教える必要はないので、

これら雑学が素体由来の知識でもある事は当然黙っておく。

話し続けながら、私はこの先の事について考える。

北原を脱出すると一口に言っても、追っ手の事を抜きにして、それは簡単な事ではない。

秘匿されたこの最果ての地は、一般人には良く知られていない。レリックと危険生物の宝庫だからだ。

故に先進国以外は調査や探索に着手しておらず、探検家も国際的な許可が必要になる。つまり、秘匿技術に触れて良いと判

断された者しか立ち入れない。

一般的には北極圏と呼ばれているこの北原一帯は、多くの者には大半の情報が伏せられたままだ。せいぜい動物や気温、当

たり障りのない風景に触れられる程度で、他に何が生息しているのか、ここにどのような品がどれだけ埋まっているのか、一

般人は全く知らないのだ。

そんな区域だからこそ脱出にも困難が伴う。陸路は各国の検問があり、そう簡単には抜けられない。

ラグナロクは移動に海路を利用するが、それも充分な設備を持った潜水艇などでの事、泳いで出るなど到底できない。距離

以前にそもそも水温が問題だ。私はともかくミオの凍死は免れない。

現状で選べる手段としては、検問の強引な突破程度しか無いのだが…、モービルでも欲しい所だな。できれば私の体重を物

ともせずに働いてくれるタフなタイプが。

追っ手からスノーモービルを奪えれば良かったのだが、私達によってベースに待機していた物を盗まれてから対策を練った

らしく、それは不可能になっていた。

実際に一度奪ってみたのだが、搭乗者の生体反応を感知する何らかのセンサー類が追加されたらしく、私が跨ったところ、

けたたましい警報音が鳴った上にどれだけ弄ってもエンジンがかからなかったのだ。

ミオはあの警報音について重量オーバー説を唱えたが、エレベーターでもあるまいし、それは無いだろう。たぶん。

モービルが欲しかったのは、楽をしたかったからという理由だけではない。距離的な問題もあったからだ。

ここから北原外まで徒歩で数週間はかかる。先述した食料と物資の事もあり、道のりの長さ自体も深刻な問題だ。より正確

に述べるならば、概ねミオの事を考えると問題だらけ…と言える。

このように私達の行く手にはいくつもの困難と苦難が横たわるものの、しかし先の事を考えるのは楽しい。

…そう、不謹慎にも私はこの状況で楽しんでいた。ミオと共に歩む未来の事を思い描いて。

無事に脱出できたなら、その後の生活の事も考えなければならない。

私だけなら人気の無い所にでも隠れ住み、どうにでも生きていけるが、あまり過酷な環境ではミオは大変だろう。

ミオを養うなら、金を稼いできちんとした生活をさせてやらなければ。

私のように素性を明かせない者は、まずまっとうな仕事にはありつけないだろうが…、それでも稼ぐ手立てはある。

この知識を活かし、裏稼業でもすれば生活費は確保できる。

非合法だが相場は高い。あまり世間の害にならないような弱小組織にでも顧問として雇われ、知識を売り込む。数年稼げば

その実入りで長期間働かずに過ごせるだろう。

そうだな…、ミオには多少の贅沢はさせてやりたい。一般人と同じように、だ。

味に敏感でない私はどうでも良いが、ミオには美味い物をたくさん食わせてやりたい。

体も小さいし、何より線が細過ぎる。流石に私のように肥えられては困るが、たくさん食べて大きくなり、立派な、丈夫な、

健やかな青年に育ってほしい。

快適な生活もさせてやりたい。寒さに震える事もなく、暑さに参る事もない、エアコンつきの部屋を与えてやりたい。

テレビは勿論、いつでも映画などが見られるように再生機も…。くつろげるように柔らかな布張りのソファーをテレビの正

面に据えて、その前には適度な大きさのローテーブル。余裕があれば観葉植物などを置くのも良いか。

快適な部屋でテレビを眺め、暖かい飲み物を片手にくつろぐミオの姿を想像した私は、その隣に大きくあいた空間に戸惑う。

…まただ。どういう訳かミオの将来像を思い描く時、私はその時も傍らに居るだろう自分の姿を掴み損ねる。

ソファーに座るミオの横に無理矢理自分の姿を浮かべてみるが、曖昧にぼやけてくっきりしない。

しばらく努力してみた後、諦めた。

私には鏡を見る習慣は無い。もしかしたら私は、自分の姿を他人の物ほどはっきりと認識できていないのかもしれないな。



北原の日没を横目に、私達は雪を踏み締め前へ進む。

最前の小休止から三時間半、そろそろまたミオに休息を取らせてやらなければ…。

今夜もミオは求めて来るだろうが、それは断らなければならない。

あの夜から毎晩せびられているのだが、風雪を防げるような場所で休息を取れない今、応じてやる訳にはいかないのだ。

そう、天候が落ち着いている今、私は休息中も脳を完全な睡眠状態にはせず、常に周囲を警戒している。

追っ手の接近をいち早く察知するには、雪壕に潜る訳には行かない。何よりも出来る限り痕跡を残したくない。何度も追い

散らせるとは限らないのだ。

特に…、もしもウルと遭遇してしまったら、モービルが無い今、彼の「戦闘領域」及び「捕捉領域」から無事に離脱するの

は至難の業…。出くわさない事を切に祈りつつ、警戒には細心の注意を払う。

ミオは追っ手の荷物から失敬したシートと布きれ、壊れた防寒衣などで作った寝袋にくるまり、静かな寝息を立てている。

愛くるしい寝顔が目の周りしか見えないのは残念だが、あまり露出させても寒いだろう。

その傍らで、私は寝ずの番を決め込む。

…把握できている警戒区域内の状況に変化が無いからなのか、それとも同じ事に集中していたせいで勝手に思考が逸れたく

なったのか、私はふと、ある事を思い出した。

あれは…、エージェント選抜の為に、私達が集められた日の事だ…。



「ゼンリャク。オヒケーナスッテ!拙者ニッポンコクベリベリ好キデゴザソーロー。ニンニンデゴザル。カシコ」

シベリアンハスキーが妙な言語を口から発信し、「どうだ!」と言わんばかりに胸を張る。

「拙者のニッポン語も、練習した甲斐あって上達しただろう!どうだスコル?」

彼の前でソファーに腰を沈める黒いポメラニアンは、コーヒーを啜りながら目も向けずに応じた。

「あー…。まぁ良いんじゃねーの?壊滅的で…」

「な!?何処が駄目なのだ!?」

「全部駄目だけど、何処が駄目なのか判ってねー辺りが特に駄目かな…」

目を剥いたマーナに、スコルは興味無さそうに応じている。

あの時、別のソファーにかけて、彼らの様子を時折横目で眺めていた私は、向き合って座るウルと、選抜テストの内容につ

いて話していた。

選抜結果待ちの間私達が入れられていたあの部屋は、豪勢な調度が揃えられた快適な部屋だった。

スコルなどは感心と呆れが半々に、エージェントとなれば待遇もかなり変わるのかと、あれこれ考えているようだった。

長い待ち時間が半分ほど過ぎた頃だろうか?ノックも無しに開かれたドアから二人の獣人と一人の子供が姿を現したのは…。

獣人の一方は良く知っている顔だった。

私と変わらない背丈の大柄なマスタングで、灰色の体躯は筋肉が隆々としている。

その骨太で頑強な野生馬とは、ハティ・ガルムとして会うのは初めてだったが、ブライアンの記憶に姿が残っている。

スレイプニル・デスペレート。最初のエインフェリアにして最強のエインフェリア。ブライアンを素体として欲したラグナ

ロクが、彼を確実に確保する為に派遣したエージェントだ。

彼に殺害された記憶は生々しく残っているが、私には彼に対する恨みも憎しみもない。そもそも、そんな物を抱く理由がな

いと言うべきか。
ブライアンは殺されて当然の男だった上に、スレイプニルが彼を殺害していなければ、今の私は存在しな

いのだから。

覚えている事を悟られないよう、言動に注意するよう気を配るつもりになっていたが、幸いにもこの時は彼と会話をする事

がなかった。

そういえば、彼とゲルヒルデ隊長が古馴染みで親しい間柄だったと知ったのは、グレイブに回された後の事だったな…。

もう一方の獣人は、顔だけはよく知っている。

ラグナロク中枢の一人にして、実質的には旗印でもある偉丈夫。燃えるような色の赤い虎…。

「そう畏まらないでくれたまえ」

彼の姿を見た途端に直立不動になり、敬礼を取っていた私達は、赤い虎からそう声をかけられた。

達人は達人を知る。…そう言ってしまえば自画自賛になるだろうが、とにかく私には判った。

目の前に現れたその男が、単に一流と表現するのも生温い、超戦士であるという事が…。

反射的に戦力分析を試みてしまうのは職業病なのだが、私は赤虎の力を測り損ねた。

底が知れない。余りにも巨大な建造物を見上げた際に、その正確な大きさを掴み損ねてしまうのにも似ていた。

私だけでなく、スコルも、マーナも、ウルですらも緊張していた。

力量差や立場の違いによる萎縮ではない。赤い体躯から滲み出るその威厳に本能が打たれ、体が勝手に畏まっていた。

盟主スルトは私達一人一人に視線を向け、つっくりと眺め回していた。表情こそ変えなかったが、赤虎はやがて満足げに頷

いた。

「なるほど…。お前の言うとおり、この四人は他の候補者とは一味違うようだ」

「そうでしょう?彼らが名前付きの「ガルム」から抜擢された候補者です」

赤虎の声に応じたのは、灰色の髪をした小さな男の子。

この時の私は彼が何者なのか知らなかったが、彼もまた中枢の一人だった。

名はロキ。今でも詳しくは知らないが、最古参メンバーの一人らしい。

「これならば期待できる。シャモンの護衛として…」

小さく呟いた盟主スルトの声は、おそらく私とウルにしか聞こえていなかっただろう。おそらく本人も独り言のつもりだっ

たに違いない。その声はあまりにも小さかった。

盟主スルトは、なおも私達を見定めるような視線で撫で回した後、やや長い沈黙の後に口を開いた。

「かつて、ジークフリートという男が居た」

あの静かな声には僅かな感情の揺れがあったようにも思えたが、あまりにも微細で掴み損ねてしまった。だから今も、あの

時赤虎が何を思っていたのか、私の考えは及ばない。

「この上なく強く、この上なく危険な男だった彼は、誰よりも殺す事に長けていながら、誰よりもターゲットの守護を得意と

した。彼に守られている間に掠り傷一つでも負った者は居ない。彼は献身的にターゲットを守った。例え気にくわない相手だ

ろうと、気に入った相手だろうと、自分の寝食すら二の次にして…」

一度言葉を切ると、赤虎は私達の目を順番に見て確認しながら続ける。

「ラグナロクの前身となった組織では、彼のような守護者を「ヴィジランテ」と呼んでいた」

「ヴィジランテ…?」

マーナが眉根を寄せつつ小声で呟くと、盟主は顎を引いて頷いた。

「「寝ずの番」、眠りもせずに守る者という意味が込められている」

その言葉を反芻する私達に、盟主スルトは続ける。

「諸君らの何れかには、レヴィアタンのエージェントとして、手となり足となりその命令に従って貰う事になるが…、同時に

彼女のヴィジランテとして、その身を守って貰いたい」

再び敬礼した私達に背を向け、盟主は二人を連れて出て行った。

盟主スルトから直に声をかけられたのは、あの一度きりだったな…。



…どうやら、あの時一度聞いただけの言葉は、私の中では忘れ去られてはいなかったようだ。

レヴィアタンのエージェントにはなり損ねたが…、私は今、ミオのヴィジランテになった。

もしもあの時選ばれていたなら、私はミオを抹殺する側に立っていた訳か。

私は傍らのミオを見遣り、安堵する。そうならなくて良かったと、心の底からほっとして…。

風で捲れかかったフードを静かに引き下ろし、雪を払ってやると、ミオは微かに身じろぎし、口元を動かした。

「大尉…。今日も…頑張りましょうね…」

口元を僅かに緩め、私は少年の寝言に頷いた。

そうだな、頑張ろうミオ。

頑張って頑張って、そうして上手く逃げ延びる事が出来たら、皆の分まで精一杯生きよう。

いや、私がミオに、皆が得られたはずの良い事と釣り合うだけの幸せを与えてやらなくては。

…外へ連れて行けなかった皆にしてやれなかった分までミオに尽くす。もう他に埋め合わせの手段も考えつかない私には、

ただ一人残ったミオこそが、守るべき、導くべき、そして尽くすべき対象なのだ。

舞い落ちる雪が少しずつ大きくなって来た空を見上げ、私は小さく息を吐き出した。

守り抜いて見せる。何に代えても。…この少年だけは、必ず…。



「おはようございます、大尉!」

一瞬だけ寝ぼけ眼を私に向けたミオは、すぐさま笑顔になった。

昇りかけた太陽の光で薄明るい空の下、私は少年に頷く。

「食事を摂ったら出発する。念の為に哨戒して来るが、その間に準備を…」

毎朝と同じように指示を出しかけた私は、ある物を感じて言葉を切り、素早く振り向く。

休まず展開していたソナーに僅かながら引っかかる反応…。これは…!?

「どうしたんですか?大…むぎゅ!」

私の様子を見て訝しげに問いかけて来たミオの口を右手で押さえ、左手の人差し指を立てて口元に当てる。

…微かだが確かに感じる。この震動は…。

私は凍った地面を蹴り、全速力で駆け出した。

そして氷柱の間を20メートル程駆け抜け、加速をつけて凍土に積もる半ば凍結した雪に腕を突き込んだ。

よし、捕らえた。

しっかり掴んで引っ張り出した腕には、青みを帯びる美しい銀色の鱗に覆われた、全長30センチ強の潜水艇のような形状

をした生物。

「た、大尉…?それは…」

追いかけてきたミオが、私の手の中で身をくねらせてビチビチともがく生物を見つめ、目を丸くした。

これはアイスサーディン。氷の中を自在に掘り進む、北原の「魚」だ。

この過酷な環境でも生き延びられるよう北原に適応して進化してきたこの魚は、鱗は硬いが氷点下でも凍結しないよう特殊

な油分を有しており、寒冷地で生きる為に必要な栄養素を全て備えている。しかもその身は極めて美味で生臭さも無く、切り

身にしてそのまま食す事もできる。

本来は群れで障害物の少ない平地を移動する生き物なのだが…、気紛れにやって来る吹雪ではぐれたのだろうか?こんな所

で見つけられたのは幸運だった。

「ミオ。今朝はご馳走だ」

私はミオにアイスサーディンを見せながら、口元を綻ばせる。

…本当に、よく笑うようになったものだな、私は…。