ハティ・ガルム(中編)
雪原を駆ける風が、また変わったような気がした。
今度は追い風に近い。真っ向から吹き付けるよりは随分と楽な上に、後方からの反応も拾いやすくなる。私にとっては好都
合だ。
「追っ手、来なくなりましたね?」
歩調を早め、私の斜め後ろに近付いたミオが言う。
確かに…、と頷きながら、私は追撃部隊の事に考えを巡らせた。
追っ手の姿が見えなくなってから数日。これまでで最長だ。
上手く振り切った…という事ならば良いのだが、あまりにもあっけない。
「諦めたんでしょうか?」
「どうだろうな。これほど簡単に諦めてくれるとは思っていなかったが…」
「二人だけだから、もうどうでも良くなったとか?」
おそらくそれは無い。…と確信しているが、そう言った所でミオを不安がらせるだけだ。期待しているようなので黙ってお
こう。心配など私だけがしていればいい。
見逃される事がないだろうという確信は、つまり「私が私であるが故」だ。
エインフェリアである私の体は、ラグナロクのある一定分野での技術の結晶と言える。いわば歩く機密事項なのだ。
エインフェリアが死ねば、脳内のチップや特殊構造の人工神経、人工筋肉などは溶解するようになっている。だが万が一、
生きたままいずれかの国家や組織の手に渡り、解剖でもされて構造を解析されるような事になれば、ラグナロクは世界に対し
て優位に立つ手段を大きく損ねる。
しかも、私は曲がりなりにも将校クラスだ。機密保持の観点から言えば一般兵の脱走とは訳が違う。おまけに素体の記憶を
持っているため、ヘルからはより危険視されていた。
逃走の過程でヘルを殺害したが、命令が撤回された様子も無く、作戦は続行されている。この事からも今現在部隊に指令を
出している彼女の副官かそれに類する者は、生前の彼女から私に関する情報を受け取っていたと見るべきだ。
おそらくは独立部隊としてヘルの指揮と権限下に置かれている彼らが、他所からの要請で別の事を優先するとも思えない。
主君の弔い合戦として血眼になって私達を追っているはず。
そもそも、あそこまでの殲滅戦を慣行したのだ。こんな半端なところで諦めるにはよほどの理由が要るだろう。それこそ、
私達の事などどうでも良くなるような大きな理由が。
よって見逃される可能性など無いに等しいのだが…。
…いや、この事で私はある可能性について目を瞑っている。目を背けようとしている。
今部隊に指令を出しているのは、本当に「副官に類する誰か」なのか?
あの時、私は本当に「ヘル本人」を倒したのか?
一度考えたように、あれは影武者か何かだったのではないのか?
あれだけの技量を持つ影武者が存在するというのも驚きだが、ヘルが存命している可能性は、直感的にだがゼロではないと
捉えている。
良い事もあると思いながら、常に最悪に備えよ…。
私の本能がいつものようにそう警告する。楽な見方をしようとする私を戒める。
「…あの…、大尉?」
ミオに遠慮がちな声をかけられ、私は歩きながら首を曲げて彼を見遣った。少年は窺うような、そして不安そうな目で私を
見上げていた。
「もしかして、本当はまずい状況なんですか?追っ手が見えないのは、何か理由があって…」
「いや、特に厳しい状況にあるという推測はできていない。「よく判らない」というのがより正確かも知れないな。情報が少
な過ぎ、良い状況にあるのか悪い状況にあるのか判断がつかない。…もっとも…」
私は口の端を少し緩め、ミオの顔から前方へと視線を戻す。
「元味方に裏切り者扱いされて逃亡中である我々は、そんな事で悩む以前に「最悪の状況」にあると言い切っても差し支えな
いだろうがね」
「…違いないです」
ミオが小さく笑った気配が私の背中に届いた。これで笑えるのだから、本当にタフになったものだ。
「でも…、最悪の状況でも、全く良い事が無い訳でもないですよ」
そんな言葉を受けて再び振り返った私に、ミオははにかんだような笑みを向けて来る。
「「今は最悪でも、きっと良い事もあるさって考えろ」です!」
「ふむ?」
私の基本スタンスを並べ替えたような言葉を口にして、少年は笑みを深くした。少し照れ臭そうに。
「大尉がこうして一緒に居てくれますから、逃亡中でも、悪い事ばかりじゃないですよ、ぼくは!」
「ふむ…」
曖昧に頷いた私は、視線をまた前に戻した。
確かに、悪い事ばかりでもないか…。こう言われるのはまんざらでもない。
ミオが居る。そして私もまだ生きている。本当の最悪…全滅だけは免れて、二人で逃げ続けているのだから。
上手く逃げ切れば、そこから先にはきっと良い事も…。
…!
私は立ち止まり、それに倣ったミオが「どうしたんですか?」と声をかけて来た。
それに答えもせず全神経を集中させる。一瞬だけ微かに、しかし確実に捉えた、感知区域内の異物に…。
気のせいなどでは断じてない。雪が崩れた物でもない。感じたのは様々な要素がからまって複雑化した、明らかに生物特有
のソレだった。
そして、一瞬で消失したその反応は異質だった。「消失した」というその事自体が。
何者かが探知範囲内に入って来れば判る。私のソナーはそういう物だ。
先の反応は範囲の外から入ってきた訳ではない。そして出て行った訳でもない。範囲内に突然生まれ、そして瞬時に消えた。
それはつまり…。
「ミオ。私から離れて身を隠しなさい。ただちに」
私は後方に体ごと向き直りつつミオを背後に押しやった。そしてトンファーを抜き放ち、周囲に警戒の視線を走らせる。
意味が判らないながらも危機を察したのか、ミオは私の指示に従って少し離れた氷柱に駆け寄り、後方から見て陰になる位
置に入りながら能力を発動し、姿を消す。
範囲内に踏み込んできた者が私の予想した通りの相手ならば、姿を消したミオでも感知されてしまうだろうが…、丸見えよ
りはマシだろう。
私の探知範囲内に現れ、消える…。この奇妙な反応が示す答えは、現状から導き出せる中では一つしかない。
こんな事ができるとは思わなかったが、音を消失させる事すら可能なのだ、想定して然るべきだった。
私が発する振動波を読み取り、周囲の雪原にソナーが当たった際と全く同じ振動波を放つ事で、あたかも何もないように見
せかけて探知範囲に侵入する…。先ほどは振動波が乱れた一瞬だけその存在を感知できたが、そうでなければ実際に姿を見る
まで接近に気付けなかっただろう。
あまりにも距離が近過ぎる。先に感じた位置を鑑みればミオを連れて逃げ切るにはもう遅い。
これは私の過失だ。ソナーを過信し過ぎていた。
「ソーセージやハンバーグなどの食べ物について、こう考えた事はあるか?」
聞き馴染みの声が風に乗り、私の耳朶を打った。同時に誤魔化されていたソナーが、相手の存在をはっきりと私に伝えて来
る。…もっとも、ここまで接近されてはソナーに頼る必要も無いが。
もはや隠れようともしていないその男は、足音を私に聞かせながら近付いて来る。林立する氷塊の間を縫い、そう早くもな
い歩調で。
「あれは肉を材料に作られる。動物の肉で。…さて、その動物は解体されて肉になる際に死んでいる訳だが、その肉が整形さ
れて作られたソーセージやハンバーグは、製造された時点で「誕生した」と捉えてよいのだろうか?」
以前のように語りかけて来ながら、その男は一際太い氷の柱を回り込んで来た。
「だとするなら、食される際にソーセージやハンバーグは死に、材料となった動物としては二度目の死を迎えるのだろうか?」
均整が取れた体つきの、背の高い狼が氷の柱の横に姿を現し、ゆっくりと私を見る。
「…なかなか興味深い観念を前提にした疑問だが、私が思うに、ソーセージもハンバーグも既に物体であり、材料となった動
物が息絶えた時点で生命は終わっている」
応じた私の目を見つめ、ウルは深く頷いた。
「どうやら同意見のようだ。そしてわたしはこうも考える…」
一度言葉を切ったウルは、その手を胸元に上げ、指を軽く開閉させた。
「エインフェリアも加工される前に生命は失われている。我々はおそらく、広義的にはソーセージやハンバーグと変わらない
のだ」
「面白い理論だ。…が、そんな話をしに来ただけではないのだろう?ウル」
私に頷いたウルは、「考えていた」と、ポツリと漏らした。
「わたしと相対した際、スコルは不満げだった。殺される事に納得がいかないと、そんな様子でね。だから、どういう風に話
せばわたしの考え方を理解して貰えるか、ずっと考えていた」
「つまり、「既に死んでいるのだから諦めろ」と?」
「いいや、少し違う」
ウルはゆっくりと足を踏み出し、私は僅かに腰を落とす。
「「これは殺害ではなく解体だ」…そう、理解して欲しかった」
「理解した。が、了解はできない」
応じる言葉が終わるや否や、私達の中間で何かが煌めいた。
糸。ウルのグローブから伸びる極細ワイヤーだ。
彼の意志と能力を受けて自在に動き高速振動するワイヤーは、絡み付いたが最後、鋭利な刃となって獲物に食い込みバラバ
ラに解体する。
不意打ちではあったが、ウルが話をしながらワイヤーを伸ばしていただろう事は予測していた私は、トンファーを振るって
出力を絞った翼刃を射出し、これを切断する。
が、このワイヤーはグローブ内で次々生成されるため、ワイヤー部分だけ切断しても機能を損なわない。さらに体積当たり
の強靱さと展性は鉄以上でありながら、細く透明なために蜘蛛の糸のように視認が難しい。
彼の能力を活かす武装として、彼の為だけに開発された疑似レリックウェポン…。それがウルのグローブ「ラプンツェル」
と、ブーツの「アリアドネ」だ。
ウルの四肢の延長として死を振りまくこれらは、低出力の振動で効率良く殺戮する為に生み出された、いわば殺戮に特化し
た兵器。
単純な破壊力については以前私が推測したレベルを遙かに超えていたらしく、同じくラグナロク製であったスコルの疑似レ
リックウェポンが瞬時に解体されたとの報告を受けた。
あれらはウル自身の能力の強大さも手伝い、同じカテゴリーにありながら我々の武装を越えると見て間違いない。下手に絡
み付かれたら、このヴァルキリーウィングもただでは済まないだろう…。
ワイヤーを切断すると同時に素早く二歩後退した私の眼前で、雪の結晶がひとひらスパッと両断された。
鼻先で起こったその破壊行為には風圧すら感じない。続いて破壊されてゆく足下も断裂する予兆が全く無い。これならば死
を認識させずに相手を殺害できるだろう。
両手の指から伸びる十本のワイヤーが、それぞれ独立して私を牽制し、囲い込もうとし、不意を突いて切り込んで来る。
思念操作する類のレリックウェポンは扱いが難しいと聞くが…、恐るべき練度だ。正確にして迅速、隙が無い。
ワイヤーに背後まで回られ彼の殺戮領域に完全に取り込まれたなら、劣勢などという生易しい表現では済まない事態になる。
「やはり一筋縄では行かないな。その技量を流石と言うべきか、それとも苦しまずに終われない事に同情すべきなのかは判ら
ないが」
「まるで既に勝ったかのような口ぶりだな」
ウルの呟きに応じつつもさらに後退した私は、距離があいて僅かな余裕が生まれたと同時に右脚を大きく上げ、力任せに地
面に踏み下ろす。
直後、雪中に埋まっていた氷塊が爆砕し、凍った雪を貫いて地表へ突き出して来た。
逃走中もずっと、ソナーで足の下まで探っていた。その位置その位置で、適宜利用できそうな物を確認しながら。
私の振動波で破砕され、簡易地雷と化した鋭い氷塊がウルを足下から急襲する。
しかし彼は慌てる事もなく防御の為にワイヤーを引き戻してこれを切断、分解、破壊しつつ直撃を避ける。
無数の氷塊が吹き上がる一瞬の奇襲を目くらましにし、舞い上がった白い雪に紛れて私は切り込んだ。
殺戮領域に飛び込む事になるが、そうでもしなければウルを沈黙させられない。
それに、下手に逃げ回って攻撃範囲を広げられたならば、隠れているミオにまで危険が及ぶ。距離を詰めて一気に勝負をか
けなければならない。
舞い上がる雪を裂いて肉薄したその時には、既に動きを読んでいたのだろうウルは、私の顔を真っ直ぐに見つめていた。
ワイヤーは防御のために広げられている。密度の薄いここを突けば、破壊しながらウル自身に一撃加える事もできる。
殺す事はない。動けないようにするか、追跡が難しい程度の負傷さえ与えられればそれでいい。
頭部を狙って横殴りに繰り出したトンファーは、素早く首を縮めて軽く膝を折ったウルの頭上を抜けた。
引き戻しながら斜め下に振り下ろすが、これも体を前掲させる事で回避される。
流石に速い。マーナ以上の反応速度だな。このパターンで仕掛けられたなら、私ならば回避を諦めて受けに回る所だ。
だが、本命は元から左腕ではない。狙うは鳩尾だ。
既に大きく引いていた右腕を、抉り込むように回転させながら突き出す。
反応良くそこへ絡み付くように動いてきたワイヤーは、腕から四方へ飛ばした衝撃波ではじき、あるいは動きを阻害した。
ワイヤーを操作しつつも、ウルの手が直接防御の為に動く。
予想より少し速い。このままでは攻撃を阻まれるが…、単純な腕力とウェイトでは私の方が上回っている。ガードごと殴り
飛ばし、体勢が崩れた所を追撃で仕留める。
体の前で交差されたウルの腕を、私はトンファーの先端を突き込む形で力任せに殴った。
少々古いデータになるが、彼と私の体重差は約81キロ。単純な筋力比較では2割弱の差がある。よってまともにぶつかり
合えば私に分がある。
…はずだったのだが…。
「「想定外」…という顔をしているな?」
トンファーの先端が筋肉と骨を叩いた、ミシッという感触が手に伝わって来る。
僅かに足が後方へ滑っただけで私の一撃を受け止めたウルは、至近距離から顔を見つめた。
ウルの体はやけに重く、殴り飛ばすには至らなかった。
いや、重いわけではない。手応えが妙だった。まるで硬い壁にでも背を預けているような…。
この現象の正体を悟った私は、失策に気付いた。
私もやっている事だ。衝撃波を生成し、自らが纏う衝撃波とぶつけ合わせる事で生じる反発力。これを利用して機動力を得
る事ができるが、ウルがやったのはまさにそれだ。
おそらくは背面にショックフィールドを展開し、そこへ別個生み出して纏った衝撃波を浴びせ、私の攻撃によって吹き飛ば
されないように自らを固定したのだ。
「そしてわたしも想定外だ。「しまった」…という顔をしているな?君がそんな表情までできるようになっていたとは、意外
だった」
ウルのそんな言葉と共に、私は危機を察知した。
殴り飛ばせなかった。つまり距離を離せず、体勢を崩させる事にも失敗した私は、まんまと彼の殺戮領域に囚われてしまっ
たのだ。
四方八方から感じるおぼろげな反応…。展開されたワイヤーは、私を後方180度から纏めて襲う準備を整えている。
かくなる上は…、ウル諸共ワイヤーを吹き飛ばす。
即座に全包囲へ衝撃波を放射した私は、衝撃に晒されて足下から立ち昇る雪の中、無数に煌めく糸を認める。
際どいタイミングだったが何とか弾く事ができた。さてここからは攻めに切り替えるか、それとも一旦離脱して仕切り直す
か…。
そんな一瞬の思考と、糸に意識が向いた一瞬の事だった。腹部に強烈な衝撃を感じたのは。
舞い上がる雪の中から腕が伸び、その拳が私の腹に、手首以上まで埋没している。
ショックフィールドで諸共に吹き飛ばしたつもりになっていたウルは、何故か私の前に立ったままだった。
その姿を認めた直後、深々と腹に食い込んだ拳から走った衝撃が、私の全身を痺れさせた。
手足が付け根からもぎ飛ぶような、各関節が結合を失って全身がバラバラになるような、凄まじい衝撃。
脳もその例外ではなく、頭の芯まで痺れて手足が言うことをきかなくなる。
まるで雷に打たれたように、私の体は棒立ちのまま動かなくなった。
これは…、体内に直接衝撃波を…?いや、何か違う。これは私が知る単純な攻撃とは異質だ。
そもそも何故ウルは吹き飛ばなかったのだ?…まさか…。
「「ショックフィールドを中和したのか?」と、思っているな?ご明察だ。衝撃波とて波形を合わせて相殺すればこういう事
も可能になる。自分がどうやって接近されたか、失念していたのかな?」
…馬鹿な…!振動を送り込んだ糸を操作し、なおかつ自らもそこまで精密な衝撃波を発生させるだと…?移動に集中してい
る間ならともかく、戦闘中にそんな真似が…、
「「戦闘中にそんな真似ができるはずがない」と思っているようだが…。ハティ。もしや君はわたしを見くびっていたのでは
ないかな?」
私の思考を読み取るように、ウルは言葉を紡ぐ。その拳が腹から離れ、今度は肩にポンと乗った。
直後、先ほどに倍する凄まじい苦痛が全身を駆け巡り、私の体はビクンと痙攣した。
「技術の研鑽は、一日たりとも怠ってはいない。君と同様に…。そして、我々には同質の力がありながら、決定的な差もまた
ある」
ウルの手が移動し、私の右腕に触れる。ボディチェックするようなその接触は、軽く触れただけだというのに私の体に強烈
な苦痛をもたらした。
しかも触れられる度に苦痛は強まる。殴られた初めの一撃の方がまだましに感じられた。
「君の方が、ロールアウトが四ヶ月遅かった。同じように研鑽を続けても、君は常に我が後を歩んでいる…」
ウルの手が首筋に触れる。
頭が揺すられ、鼻からどっと血液が溢れ出た。
「判るかね?「君が今居るそこ」は、わたしが「四ヶ月前に居た位置」だ」
…判って来た。この強烈な苦痛と、体の自由を奪う呪縛の正体が…。
衝撃まで行かない。振動なのだ。
ウルは私の体に特殊な波長の振動を送り込んでいる。それは、血管や神経、そして関節にこそ有効に働く、固有振動だ。
例えば地震の際、建物の特定の周波の揺れが起きた場合、その影響を受けやすい材質の建物だけが大きな被害を被る。
強度で劣るはずの木造建築物は被害が少なく、コンクリート製の建造物だけ被害が甚大になるという地震は、この固有振動
の影響…キラーパルスによるものだ。
ウルのこれはおそらく、キラーパルスの原理で弱い箇所を直接攻める技術なのだろう。
ウィークポイントである部位の組成物質と共通するキラーパルスが肉体を貫通してダメージを与える。神経系を直接刺激さ
れている為に苦痛は耐え難く、そして体の自由も奪われてしまう。
「どうやら理解したようだな。モータルタッチと呼ばれたこの技こそが、我が素体が怖れられた理由。ラグナロクが欲した技
巧の極み。すなわち、「ハウル・ダスティワーカーの高み」だ。対象物質の最も苦手とする周波数での崩壊攻撃…とでも言う
べきか。エインフェリアでも古種でもない生身の獣人がよくぞここまでの高みに至れたものだと、素直に感心する」
…ハウル・ダスティワーカー…。ウルの素体になった男であり、私とウルの能力の源流…。
素体となった男を嫌悪している私と違い、ウルは己の素体である彼に一種の尊敬の念すら持っていたようだが…。本来何事
にも淡白なウルが技術の研鑽に費やす、おおよそ彼らしくない拘りには、その心情が影響していたのかもしれない。
「さらに言うと、君はもしかしたら勘違いしているかもしれないが、我々の能力は「同一の物」では決してない」
ウルは私の頬に触れ、脳を揺さぶって来ながら話し続ける。
「君の能力は我が素体の能力を研究して脳を弄り、付加された物だ。ほぼオリジナル同然の我が能力「ダスティワーク」と、
そのコピーである君の「ドレッドノート」は、僅かだが差がある。その僅かにして決定的でもある差とスタートラインの違い
が、そのまま我々の能力差なのだよ」
共鳴現象による物か、強まる苦痛に加えて毛細血管があちこちで破裂し、鼻孔のみならず眼窩からも血が溢れ、耳朶からも
血が滴る。
「…予想以上に頑丈だな。まさかここまで耐えられるとは思わなかった。同時に申し訳なくも思う。なるべくならあまり苦痛
を与えたくはなかったのだが…」
ウルは私の目を間近から覗き込み、胸に触れて臓器にキラーパルスを加えてきた。肺を圧迫された私は息を絞り出すように
喉を鳴らし、喀血する。
「済まないなハティ。なるべく早く終わらせるから、もう少しだけ我慢してくれたまえ」
まずい。このままではなぶり殺しにされる。…しかし脱出手段が思いつかない。せめて一瞬でも自由になれれば…。
八方塞がりになった私は、しかし望んだ直後にその好機が訪れ、意識を集中させた。
どういう訳か、私の額に手を伸ばしたウルは、触れる直前で一瞬迷い、結局その手を引き、衝撃波を生み出すべく集中させ
たのだ。
この機を逃せば後が無い。一息に私の頭部を粉砕するつもりだったのか、ウルが掌に衝撃塊を生成したその瞬間、私は自分
とウルの間で衝撃波を弾けさせた。
「ぐっ!?」
至近距離で防御もせずに衝撃爆砕を行うとは思っていなかったのか、それともまだ動けるとは思っていなかったのか、ウル
はまともに衝撃波を浴び、私と反対方向にはじけ飛ぶ。
刹那、彼の手から放たれた衝撃波が私の側頭部の傍を通り過ぎ、後方で地面に炸裂し、凄まじい爆発を引き起こした。
後方から吹き付ける雪にまみれながら、まだ体の自由が利かない私は雪面を無様に転げてゆく。
運が良かった。あのまま慎重に責め続けられたら為す術がなかったのだが…。ウルにしては珍しいが、私が予想以上にしぶ
とかったせいで短気を起こしたのか?
喉や肺、鼻孔に溜まった血を噎せ返るようにして排出しつつ、徐々に体の自由が戻って来た私は、苦痛を堪えて身を起こす。
体が重い。ダメージ自体も相当な物だが、神経系の異常が堪える。修復は機能を優先しなけれ…ば…。
私はその瞬間、全身に冷水を浴びせられた気分になった。
私と同様に膝立ちで身を起こしたウルの視線…。その向く先が私から僅かに逸れており、向こう側を見ていた事で。
…私の…後ろには…。
居ても立ってもいられず、ウルと相対しているにも関わらずに、私は振り向いた。
そして見た。
一度吹き上げられ、視界を覆いながら舞い落ちる雪の中、半ば雪に埋もれて仰向けに倒れている、小さな少年の姿を。
「…ミ………オ……?」
しゃがれた声が、私の喉からせり上がる。
まるで白いシーツをかけられたように、手にしていたのだろう銃を傍に転がし、万歳するような格好で横たわる少年の姿は、
現実の物とは思えなかった。
「…おかしい。何故動けるのだ?ハティ」
ウルの訝るような声が後頭部にぶつかるが、私は応じる事もできなかった。
わなわなと手が震え、握ったままのトンファーと手が擦れ、ギュヂッと音を立てる。
噛みしめた牙が擦れ、不快にギリギリと音を漏らす。
喉が鳴り、呻きなのか嗚咽なのか判らない音が零れ出る。
固まっていたのも一瞬の事、私は戦闘を放棄し、ミオに向かって地面を蹴った。
体の反応が鈍く、一足がまどろっこしい程遅い。
背後から飛んできたワイヤーが軽く背を薙ぎ、肉と毛皮を衣服ごと切り裂くが、それすら気にならない。
仰向けに倒れているミオは、まるでびっくりしているように目を丸くし、口を少し開けていた。
滑り込んでミオを抱き上げ、そのまま疾走し、ウルから離す。
だが、少年はぴくりとも動かず、四肢はだらりと垂れて僅かにも意志を感じさせず、揺れるに任せていた。
…心音が…、…感じられない…。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
ミオを抱いて駆ける私は、鼓膜を揺さぶるその叫びが自分の口から出ている事に、しばし気付けなかった。