ハティ・ガルム(後編)

物言わぬミオの体を抱え、私は咆哮しつつ雪を蹴った。

ウルに背を向ける危険すら…否、ウルと相対していた事すら一時忘れ、無防備な事に彼へ完全に背を向けて。

目に浮かぶようだった。

私の言いつけをやぶって飛び出したミオは、その銃をウルに向けたのだろう。

自分を認識させる為に、あえてノンオブザーブを解除して…。

ウルがどういう存在なのかは道中話して来た。銃が効かない相手だと判っていたはずだ。自分がどうこうできる相手ではな

いと理解できていたはずだ。姿を消したところで不意打ちが成立しない相手だと知っていたはずだ。

…だから…、だからミオは、あえて能力を解除したのだ…。物陰から出てわざわざ姿を晒したのは、ウルの気を引く為…、

私を助ける為…。

「逃すつもりはないぞ、ハティ」

ウルの声に次いで背に衝撃波を受け、私は無様に転倒する。

防寒衣が裂け、露出した背中から被毛と皮膚が毟り取られたが、今はダメージを気にする事もできない。ミオを守るために

体を丸めて抱え込み、傷をつけないように転がった。

三回転して起き上がった私は、転げた勢いそのままに、つんのめるようにして再び走り出す。

体の頑丈さでは私の方が上。まともに衝撃炸裂を浴びたのはウル同様だが、彼とは違ってすぐさまある程度の疾走が可能だっ

た。このアドバンテージを無駄にはできない。今は一刻を争うのだ。

距離を充分に空けていないが、私は少し走った後、氷塊の陰に飛び込んだ。

そしてミオをしっかりと抱き締め、その背中に掌を当てる。

心臓の位置を確認し、慎重に出力を調整する。

ミオにこの蘇生方法を施すのは二度目だが、今回は前と勝手が違う。

五体満足なので直撃ではないと察しは付くが、ウルの衝撃波によって心肺停止しているのだ。外傷は見えないが本当に無事

かは判らない。

そして今は仔細に損傷を確認している余裕もない。ただちにショック蘇生を行わなければ…。

「ミオ…!頼む、目を覚ましてくれ…!」

祈るような気持ちで、華奢な少年の体に直接衝撃を送り込む。

深度、位置共に完璧だ。衝撃波を送り込まれ、心臓を刺激されて無理矢理動かされ、血流が生じたミオの体がビクンッと跳

ねる。

…まだだ。自発鼓動が確認できない…!

焦る気持ちを鎮め、慎重にもう一度繰り返す。

が、反応は同じ。ミオの体は一度跳ねたきり、再び沈黙した。

ミオ!ミオ!ミオっ!行くな!戻って来い!

まだだ!まだ君は世界を知らない!見るべきものが、聞くべき事が、まだ山ほどあるだろう!?君の前には、未来が…無限

の可能性が広がっているのだぞ!?

祈りながら何度も蘇生を試みる。

…が、何度繰り返しても同じだった。

何度試しても、ミオの心臓は自力で動こうとしない…。

ミオの顔は表情を変えず、その目は私を見ようとしない…。

ミオの喉は息を漏らさず、その口は私の呼びかけに答えてくれない…。

まだ暖かいミオの体を抱いたまま、私は物も言わず、固めた拳を氷塊に叩き付けた。

震える拳をそのまま地面につき、私は体を折って項垂れる。

ガクンと、やや仰け反る格好になったミオの頭が、背中側へ垂れた。

…あっけない…。

あまりにもあっけなさ過ぎる…。

こんなにも簡単に失われてしまう物なのか?命は…!

静かに雪面に横たわらせたミオの目を、覗き込むようにしてじっと見下ろす。

その瞼を閉じてやりながら、胸の中で滾る憎悪を噛みしめる。

憎い…!

ミオが死んだ。

殺された。

こんなにもあっけなく…!

殺したのは私だ。

私のせいでミオが死んだ。

私が弱いからミオが死んだのだ…!

憎い…!自分の無力さが憎い…!

何が「守ってやらなければ」だ!

結局ミオに守られたのは私の方だった!

他でもない、私を守るためにミオは死んだのだ!

「…ミオ…、私のせいで…!」

顔を片手で覆い、私は牙を噛みしめる。

どうすればいい?私は、どうしたらいいのだ?

せっかく見つけた「生きる理由」は、私の手の中で消えてしまった。私が自ら消してしまった。力無き故に守れなかった…!

悔やんでも悔やみきれず、絶望というものを味わう私は、

「…ぇ…ふっ…」

小さな、しかし聞き間違えようもないその咳き込む声を聞き、ハッとして手を顔から外す。

さきほどまで驚いたように固まっていたミオの顔が、今は苦痛に歪んでいた。

何だ?何が起きた?ミオは繰り返し小さく噎せ、確かに息を吹き返している。確かに…生きている…!

ふと見れば、私はミオの胸の上に手を置いていた。

今の今まで「そうしている」という意識は無かったが、私は置いた手から一定のリズムで微弱な振動を送っている。こうし

ている今も。

それは、鼓動のリズムだった。

…無意識に蘇生を試み続けていたのか?私は…。

いや、この蘇生方法は今までおこなって来た物とは違う。本当に無自覚に、考えもせずに、私はこんな事をしていたのか?

この土壇場で…。

偶然?…いや、それでもいい。こうしてミオが息を吹き返してくれたのだから…!

安堵と歓喜を噛み締める私の前で、蘇生したミオの口が、意識を取り戻さないまま動く。

「…大尉…。今…助け…ます…」

…ミオ…。

乱れた浅い呼吸を繰り返すミオの横で、その襟元を立てて寒風が吹き込まないように整えてやり、私は立ち上がる。

「すぐに戻る。待っていてくれ、ミオ…」

偶然に与えられたこのチャンスを逃してなるものか。この幸運を手放してなるものか。

ウルを退け、私は進む。ミオを連れて!

なるべく傷つけたくないなどという戯言は、結局私の我が儘に他ならない。

躊躇うが故に攻め手から決定力が失われる。その結果がこれだ…。

もはや迷いは捨てた。守る為に叩く。失わぬ為に戦う。

結果、この手で兄弟を殺める事になったとしても…。

氷塊に寄せて寝かせたミオから離れ、私はウルが追って来るだろう方向へと歩き出した。

ダメージは決して軽くはなく、神経系の回復も万全ではないが、戦えない程ではない。

互角と思い込んでいたウルと予想以上の実力差がついている今、取るべき手段は限られて来る。

なりふり構っていられない。オーバードライブで叩き潰す!



一陣の風が、雪を巻き上げて視界を一瞬遮る。

それが収まった時、開けた位置を選んで待ち受けていた私の目に、その男の姿が飛び込んできた。

近距離で衝撃炸裂に巻き込んだものの、そのダメージはさしたる物ではないらしい。足取りにも呼吸にも鼓動にも、乱れは

一切無い。

ウル・ガルム。最初のガルムにして最強のガルム。それに異論を挟む事は私にもできない。

…だが…。それでも私は進む。越えねばならないというならば、彼を越えて進む。ミオを連れて、明日へ進む。

どうあっても勝たねばならない。この戦いに敗北は許されない。例えその結果…。

「殺す事になっても仕方がない。…と、思っているな?」

私の意志を読み取ったように、ウルは歩きながら口を開いた。

「覚悟…とでも言えば良いのか。先ほどまでの「ぶれ」が感じられない。精神的にも肉体的にも強靱であるはずの君に弱点が

あるとすれば、正にそこだったのだが…。どうやらこれは骨が折れそうだ」

「私の精神は決して強靱ではないよ。単に鈍感だっただけだ」

応じつつトンファーを握る手を少し上げ、腰を落とし、臨戦態勢に移る。

焦るでもないウルのゆったりとした歩みは、確実に距離を詰めて来る。彼の殺戮領域はもう目と鼻の先だ。

この広場で待ち受けながら考えたが、遠距離戦という選択肢は消えた。

ドレッドハウルが同質の技で相殺される事は経験済み、あれが無効化される以上、それ以下の技での狙撃は意味がない。

ヴァルキリーウイングの最大射出という手もあるが、あれは連発が利かない上に負担も大きい。しかもウルには既に一度見

られている。不意打ちや混戦で使うならともかく、素直に単発で使うには博打要素が大き過ぎるだろう。

よって、結局は肉弾戦に持ち込むしか手が無いという結論に至った。

ウルが足を止め、同時に殺戮範囲も私の目の前で進行を止める。

「あの少年兵がそんなに大切なのかね?先ほど確認したあの能力が貴重である事は認めるが…、本当に大切なのかという点で

は理解に苦しむ。君一人ならばもっと効率良く逃げられたと思うが…」

「ウル。君にはまだ判るまい…。ひとが言う「大切さ」とは、何も自分の身が一番とは限らない」

訝るようなウルの言葉に応じながらも、私は準備をほぼ終えていた。

「自分にとって何が大切か判ったからこそ、大切な物を見つけられたからこそ、私は今、ラグナロクの将校ではなく、ヴィジ

ランテとしてミオの傍に立っている。兵器ではなくひとりの男として、彼と共に歩んでいる。その「生き方」は、死ぬまで曲

げる事はない」

「まるで自分が生きているかのような発言だな。ハティ」

「生きているとも。肉体的にどうあれ、法律的にどうあれ、私は生きている。私の心は、魂は、今こうして生きている!」

体温が急激に上昇し、脈が速くなる。

全身に漲った力が、私を今だけ一つ上のステージへ押し上げた。

耳鳴りと鼓動に阻害されて聴覚が鈍るが、研ぎ澄まされたエコーロケーションがそれをカバーし、より精密に周囲の状況を

「聞かせて」くれる。

「オーバードライブ…、ホワイトアウト!」

吠えると同時に私は前に出た。

迎え撃つように、ウルの意志に導かれた無数の光刃が網の目のように広がり、私に覆い被さる。

しかし、赤い翼刃を具現化させたトンファーでそれらを必要なだけ切断し、通り抜ける穴を空けた。

高速化した事に伴う激しい視界の動きは、しかし順応した脳が速やかに処理し、動きに支障をきたす事はない。

第一陣を潜り抜けた私の前で、ウルは素早く腕を横に振った。

五本の糸が水平に走る。屈伸するように足を開き、雪面を滑る形でその下をかいくぐった私は、すかさずトンファーを振り

上げた。

牽制に射出した赤い刃がウルの肩と首の間、動脈を断つ位置に襲いかかるが、しかし彼は素早く身を捻り、防寒衣の肩を浅

く裂かれるだけで回避する。

反撃に一層の広範囲衝撃波が放射されたが、これには同等の衝撃波をぶつけて破砕した。

詰まった間合いは、しかし浅い。直接打撃を加えるにはあと3メートル以上詰めなくてはならない。

接近すればする程、ウルの糸は密度を増し、攻撃は激しくなる。

筋肉が悲鳴を上げ、関節が熱を帯びるほど腕を動かし、間断なく襲いかかる糸の刃を迎撃する。

僅かだが、私が押している。

絶え間ない攻撃は確かに凄まじいが、オーバードライブ状態にある私の迎撃速度はそれを上回った。

糸を繰るウルと、それを迎撃しながら前進する私の距離が少しずつ詰まる。

糸を断ち切れ、衝撃波が相殺し、思念の刃が砕ける音が、私達の間で神経を刺激するような音楽を奏でる。

ガギギギギギギギッと、金属塊を叩き合わせ、擦り合わせるような凄まじいメロディを。

「見事だなハティ。これほどとは…」

感嘆したようにウルが呟く。

お褒め頂き光栄だが、この状態はそう長く続かない。限界が来る前に何とか突破し、決着をつけなければ…。

努めて冷静に、落ち着くよう自分を戒めながら、急ぎ、しかし着実に前進する。

一刻も早く終わらせなければならないが、その前に衝動に飲まれてしまっては元も子もない。それがもどかしい。

程なく私は糸の結界をこじ開け、半歩退いたウルの眼前を右のトンファーで薙ぐ。

強風に砕き散らされた雪と寒気を挟み、上体を後ろに流す格好のウルとトンファーを振り切った私は、刹那睨み合う。

…やっと辿り着いた。私が最も得意とするレンジに。

処理しきれなかった糸で細かな裂傷をいくつか負ったが、動作にはさほど支障は無い。

先ほどの攻撃で帯びた痺れにも似た感覚も、もはや気にならない程になっていた。

行ける。ここで決める。

振り切ったトンファーを戻すその瞬間に、ウルは糸を束ねて紐状にしてトンファーに絡ませ、一端を地面に打ち込み固着し、

攻撃を止める。

糸は植物のように地面深くに根を張ったのか、止められて急激な負荷がかかった私の腕はぎしっと軋んだ。

紐の上端は私達の頭上で大気に溶け込むように消えているが、そこから先は四方八方に散って、周囲の氷柱等に巻き付き固

定されているのだろう。

天と地に根を張り、糸が紐となったこの強靱さ…、より合わされた事で切断こそなくなったが、そう簡単には切れそうにな

ければ抜けそうにもない。

その、紐がトンファーを防ぎ、私の動きが止まった一瞬で、ウルもまた己の状態を切り替えた。

「オーバードライブ…セルブリザード」

まるで映像を早送りしたように、ウルの動きが急激に加速する。

後方に流れていた上体が引き戻され、腰を据えた殴り合いに備えて瞬時に体勢が整えられた。

予め準備を終えて待ち受けていた私は、オーバードライブスタートの遅れを利用してウルとの距離を詰めたが、条件はこれ

で五分五分だ。

それでも、まともに近接戦闘をやらせて貰えれば、互角以上に戦える自信がある。

ウルの手が伸び、開かれた五指が握りこまれる。

見切って傾げさせた首の脇と肩を掠め、打ち出されて交差した糸が衣類の一部を巻き込みつつ寒気を裁断した。

生まれたのは貴重な一手分の猶予。地面を蹴って跳ね上げた右脚で彼の腰を狙う。

だが、ウルは私の足に手を当てて自分の体を少し跳ねさせ、腿の付け根で蹴りを受ける。

ポイントをずらされ、重心の下を蹴る形になったが、そのせいでウルは側転するように横回転する。

そしてそのまま回転して足を乗り越え、逆さまの状態から私の頭頂部を狙って蹴りを放った。

まるで軽業師。オーバーヘッドキックの要領で振り下ろされた爪先を、私は頭上で水平に寝せた自らの腕と左のトンファー

で受け止めた。

そのトンファーと左腕に、ウルのブーツから伸びた糸が絡む。

…間に合わないな…。

私は即座に見切りを付け、トンファーを手放した。

トンファーが突っ張りになっている僅かな一瞬で、螺旋状に囲みに来た糸から左腕を抜く。その直後、トンファーは糸に絡

め取られていた。

頑強なシャフトに振動する糸が食い込み、トンファーの片割れは火花を散らしながらバラバラに寸断され、無数の断片となっ

て飛び散る。

…申し訳ない。ゲルヒルデ隊長…。

胸の内で詫びつつ、私は縦糸で止められていたトンファーに思念波を送り込む。

濃く、鋭く、硬く顕現させた赤い刃が、糸が束ねられた強靱な紐を何とか噛み切った。

紐を切断し、そのまま逆さまのウルめがけて腕を振るう。

狙いは脇の下…、右胸部だ。

肘を直角に曲げ、フックの要領でトンファー先端を叩き込む。

反射的に張られた衝撃の障壁は、先読みして纏わせた衝撃波で相殺した。

腕に伝わる、最初は硬く、鈍く、後に柔らかくなる、破壊の感触…。

あばら骨を折り、内臓に重大な損傷を与えた事を確信しつつ、私は腕を振り抜いた。

踏ん張った足、落として回した腰、踏み込みの速度、上体の捻り、肩の入れ込み具合、腕の角度…、全てが申し分ない一撃

だった。

回転して来た方向とは逆からの一撃は、ウルの強靱な肉体をバネ仕掛けの人形のように吹き飛ばした。

声もなく吹き飛んで氷柱に激突し、それをへし折ってもなお勢い衰えず雪面に叩き付けられたウルは、激しい雪煙を上げな

がら滑って行く。

その、充分な破壊を為した手応えを噛みしめた私は、やや後れて気が付いた。

自分が、吹き飛んだウルを追撃すべく雪を蹴っていた事に。

「ごおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

雄叫びすら上げながら、私は駆ける。ウルが巻き上げた雪を裂いて。

まずい。早くも衝動に引き摺られている。頭では理解しているのに体が勝手に追撃を…。

ダメージを負っている今、クールダウンを挟んで運用しなければならない体が、限界ギリギリのまま酷使され悲鳴を上げる。

猛る心を、衝動を、体を御しきれず、私は滑って行きながら徐々に減速するウルに追いついた。

滑りながらも反転し、尻餅をつく格好で身を起こしたウルの脇に、私は滑り込む。左腕を大きく引き、腰から上を大きく捻っ

た姿勢で。

直後、体は捻転から解き放たれた。繰り出したのは掬い上げるように弧を描いたアッパースイング。

ウルの顔面を私の左拳が捉え、被毛と皮膚と肉と骨が一緒くたに潰れる感触が、拳を伝って骨身に染み込む。

あり得ないほど仰け反ったウルの首が、ゴキンと、嫌な音を立てた。

いい。もう充分だ。

そう思うのに私の体は言うことを聞かない。

エビ反りになりながら顔面から雪に突っ込み、回転しつつバウンドしたウルに、私は再度肉薄する。

そして、無防備な腹めがけて、トンファーをしっかり握った右拳を振り下ろした。

エビ反りだった体がくの字に折れ、腰から雪面に埋まるウル。

やっと止まった彼の胸に、しかし今度は私の右脚が飛んだ。

まるでサッカーボールでも蹴るように、容赦なく蹴り込まれた爪先が胸骨を粉砕して足の甲まで突き刺さり、喀血したウル

の体が宙に跳ね上がる。

もういい。もう止めろ。

そう考えている私は、大きく息を吸い込んでいる。

顔が歪む。破壊の喜びに、私の顔は笑っていた。

…違う。ミオが教えてくれた笑みとは、このような物では…。

一杯に吸い込まれた息で胸が膨れ、体内で収束された振動波が必殺の一撃を組み上げて行く。

止める事は、できなかった。

大きく開けた口から咆吼が迸り、不可視の衝撃砲ドレッドハウルが、無防備に宙を舞うウルに迫る。

が、不意にウルの体が慣性を無視して動いた。

弾かれるように急激に横へ逸れ、ドレッドハウルは雪混じりの寒風を突き抜ける。

何が起こったのかはすぐに把握できた。

驚くべき事に、ウルはあの状態でも意識を保ち、衝撃波を纏い、さらに別の衝撃波を発し、相殺させる事で自分の体をはじ

き飛ばして、ドレッドハウルの軌道から逃れたのだ。

不完全ながらも受け身を取って雪面に落ちたウルを見つめ、ほっとすると同時に感嘆した。

そして私は自分に呆れる。

覚悟を決めたはずが、まだ未練があったらしい。ウルを殺さずに済んだ事に安堵するとは…。

これ以上衝動に引き摺られたまま、制御して行く自信は無かった。オーバードライブを解除し、私は足を踏み出す。

跪いた格好で私を見据えるウルの顔からは、しかし怯えの色も焦りの色も窺えない。顔面をまともに痛打され、鼻孔から夥

しい量の血を溢れさせながらも…。

大した胆力だ。もっとも、我々は元々恐怖や怯えからは縁遠い存在だが。

「終わりにしよう、ウル。もうまともに動く事もできまい」

私の降伏勧告に、狼はしばし黙った後、ゆっくりと頷いた。

「ああ、確かにそろそろ、まともに動けなくなりそうだな。終わりにしよう」

勧告を受け入れて貰えた事に、ほんの少し喜びを覚えた。

命令を至上の物と捉えるウルの事だ、徹底抗戦するつもりかもしれないと思っていたが…。

「ここに置いて行っても大丈夫か?追撃部隊と連絡はつくのか?」

安堵しながらも少しばかり訝しく思った私がそう尋ねると、ウルは目を細めて囁きかける。

「ハティ。もしや勘違いしてはいないか?」

…?勘違い?何を…。

問いかけようとした私は、しかし声を発せられなかった。

ドクンと、胸が高鳴る。心臓が苦痛を訴え、目の前で星が舞った。

直後、全身を激痛が駆け巡り、膝が折れる。

視界が揺れる。いや、回っている。

立っていられずに雪面に突っ伏した私の視界で、地面についた両手がぐるぐると回って見えた。

全身の皮膚が切り付けられたように裂け、勢いよく血が吹き出す。

未経験の体調不良だが、これはオーバードライブの副作用か?…いや違う。急激に悪化していくこれは、酷使した肉体に起

こる反動とはかなり違う。

これは何だ?私の体に何が起こっている?

眼窩と鼻孔から血が滴り、吐き気を覚えて咽せれば、喉から大量に血が溢れてきた。

酷い耳鳴りの中、ウルの声が鼓膜を揺らす。

「ようやく効いて来たようだ。わたしと同じだと思っていたのだが…、どうやら君の体に使われた人工筋肉などは、少々構成

が異なっていたらしい。その違いのせいでタイムラグが生じてしまった」

身を起こし、立ち上がったウルは、あれだけのダメージを負ったにもかかわらず、しっかりとした口調をしていた。…耐久力は…、私の予想以上だったか…!

「モータルタッチの効果はまだ消えていない。例え即死させられなくとも、既に打ち込まれた残響が君の体内で反射、増幅し、

効果を高め、やがて破壊を完璧な物にする…。ハウル・ダスティワーカーが完成させたこの技術は、まさに理想的な破壊を成

し遂げる。…恐ろしい物だな、サーの称号を与えられた存在という物は」

ウルの足が進んで来るのが、激しくぶれる視界でも判った。

痺れが走って指一本動かせない体は、しかし絶え間ない強烈な苦痛に苛まれている。神経を直接磨り潰すような苦痛に…。

痛みを信号として捉える事ができる私だからまだ保っているが、普通ならば激痛で発狂しているだろう。

やがてウルの足が私の目前で止まった。何とか顔を起こすと、屈み込んだ狼と視線があう。

私は知った。

絶望という物が、どういう物なのかという事を。

「本当に大した物だよハティ。わたしの肉体の強度がもう少し低ければ、間違いなく致命的な破壊を受けていた所だ。君に敬

意を。そして…」

ウルの手が、私の肩にそっと添えられた。

どうしようもない。なのにまだ諦めきれない。私は…、私はまだ…。

「別れを告げよう」

ウルの声に続き、血が沸騰して骨肉がバラバラに弾け飛ぶような苦痛が、肩から全身に広がった。

赤く染まった視界が、直後に暗転する。

遠退く意識の中、私の頭はただ一つの事で埋められていた。

…ミオ…。



白い。

そう思った私は、ふと自分が置かれている状況について気になった。

私はいつからこうしていただろう?いや、それ以前にここは何処だ?

見回しても辺りは真っ白だった。

外なのか、屋内なのか、広いのか、狭いのか、それすらも判らない。

私が居る何処だか判らないここは、どこまでも白く、何もなかった。

立っている意識はある。が、足の裏に感触は無く、空中に浮いているような気もする。何せ重力を感じないのだから、立っ

ているという感覚すら何が根拠になっているのか不明だ。

首を傾げながら、何気なく手を胸の前に持って来る。

目が疲れているのか、両手は輪郭が滲み、少しぼやけて見えた。より遠い足元などは、ブーツと白い背景の境界が曖昧になっ

ている。

直前までどうしていたのかが、思い出せない。

私はどうやってここに来て、いつからここに居るのだろう?大事な何かを忘れているような、落ち着かない気分だ。

これは夢だろうか?眠っているのか?私は…。

はて?だとすれば私は何処で眠っているのだろうか?思い出せない。現実の私はどこで何をしていた?私は一体…。

「変わった匂いね」

出し抜けに聞こえ、物思いを中断させたその声は、私のすぐ耳元から響いていた。

首を巡らせれば女性の顔。ただし、逆さまだったが。

…いや、逆さまなのは私の方なのか?どちらが上でどちらが下なのか、何もない白い空間では判らない。そもそもここには

上下の概念すら無いのかも知れないが…。

どうやったのかは自分でも判らないが、私は何の感触も無い空間で振り向き、逆さまの女性を真っ直ぐに見つめる。

奇妙な…そしてどこか神々しい雰囲気の女性だった。薄絹のような白い、ゆったりとした衣を纏っている。

雪のように白い肌と、どこかで見た事があるような、神秘的な深い紫紺の瞳…。

眉や頭髪までも白だが、老女ではない。整った顔立ちをした成人女性だ。20代と言われても30代と言われても納得でき

る…そんな年頃に見える。

子細に観察して記憶を手繰ってみたが見覚えのない顔だ。そう、そのはずなのだが…、どういう訳か初めて見た気がしない。

いや、ここで初めて会ったのは確かだろう。だが…、誰かに似ているような…?

それは女性も同じなのか、私の顔を、姿を、視線をゆっくり動かしながら確認している。

やがて小さく頷き、白い髪の女性は呟く。

「…匂いと体型は似ているけれど、彼の血縁という訳でもないようね…」

「…似ている?血縁?一体何の…」

尋ねかけた私の言葉を遮り、首を傾げた女性は声を発した。

「貴方、人工生命体ね?ニーベルンゲン?いいえ、アェインヘリャルかしら?…いや違う?ん…、あの連中が造ったタイプの

ようね…。けれど不思議、歪んだ命特有のザラついた刺々しい感覚がしないわ…。ジークの匂いがするのは…、ああなるほど、

彼の因子を組み込まれたから、か…。既にジークを参考にパーツを作れるようになっていたのね、彼らは」

「待ってくれ、貴方は一体何者だ?ここは何処だ?」

意味不明な言葉の羅列に堪りかねて口を挟むと、女性は私の目を覗き込み、「ああ…」と小さく声を発した。

「「何処」と言われても…ここは何処でもあって何処でもないのよ。強いて言うなら有無の狭間。彼方と此方の境界。虚無に還る物が一時身を置く場所…」

理解不能な説明をした女性は、私の目を覗き込み、「それと…」と、悪戯っぽい表情で続ける。

「誰か?と問うなら、まず貴方から名乗るべきではないかしら?」

「…失礼した。私はハティ。ハティ・ガル…ム…?」

名乗った途端に、私は思い出した。

ウルと戦闘を繰り広げていた事。ミオと共に逃げていた事。そして…。

「あら?凄いわね貴方…」

女性は興味深そうに私の目を見つめる。まるで、心の内まで見透かすような眼差しで。

「ここに至って自己を記憶し、認識できる存在は希なの。ちょっと意地悪するつもりだったのに、まさか本当に名乗れるなん

て…驚いちゃった」

少し笑った彼女の顔は、私の記憶の中のある人物と重なって見えた。

…ゲルヒルデ隊長?いや、別人だ。だが確かに少し似ている…。顔の造形が所々…。

戸惑う私の前で、女性はくるっと上下反転し、私と同じ向きになる。

そうして改めて見ると、やはりどことなくゲルヒルデ隊長に似て見えた。

「さて、私が何者か…だったわね。かつては「ワールドセーバー」とも呼ぶ事ができていたけれど、今では世界は管理なんて

されていないし、不適切ね。「降り積もる今を見続ける者」あるいは、「起きつつある事を見据える者」…とでも言うべきか

しら」

「…ふむ…?」

「う〜ん、これではちょっと解りにくいのかしら?」

女性は目を細めて少し間を置き、やがて「ああ。そうね、そうだわ」と、ポンと手を打った。

「貴方達の言葉で言うなら…「ノルニルの一柱」、または「古の魔女」、…これでも駄目かしら?えぇとそれなら…、「七人

のオールドミスの一人」、あるいは「レディ・スノウ」…」

「レディ・スノウ?」

反射的に聞き返した私は、しかし驚きながらも半ば納得してしまった。

この奇妙な雰囲気の女性は、確かに、言われてみれば雪の化身のようでもあり…。

告げられた衝撃的な言葉の内容を吟味する私の前で、女性は「もっとも…」と、軽く肩を竦めた。

「それらは便宜的な呼び名であって、私の本来の名前では無いけれど…」

「本来の名…?」

深く考えもせず、オウム返しに口にした私に、女性はゆっくりと頷いた。

「「ヴェルヅァンディ」。それが私の名前」