ナハトイェーガー(前編)

 サラサラと舞い降りる乾いた雪が、肩を撫でて胸を擦り、落ちて行った。

 赤レンガ造りの古めかしい建物が背を寄せ合う裏路地に、雪は積もる事なく降っては砕け、細かくなってどこへともなく吹

き流されてゆく。

 身を切るような寒さの中、細身のアメリカンショートヘアーは粉のように砕けた雪を見送って下へ視線を向け、血溜まりの

中に溶けて消える様を見届けた。

 湯気が上がる、赤い水溜り。

 ただしそれはアメリカンショートヘアーの物ではない。彼の眼前で冷たく湿った血染めの石畳に倒れ伏して呻く、厚手の衣

類と拳銃で身を固めた男達が流した物だった。

 指がグシャグシャに折れて骨の破片を飛び出させ、そこに引っかかった拳銃のトリガーガードを外す事もできない者。

 鼻っ柱を叩き割られ、おびただしい鼻血で顔面を真っ赤に染めている者。

 押さえた腹部から血を流し、ピクリとも動かない者。

 その数、十一。目を覆わんばかりの惨状だが、しかし死体は一つも無い。深い刺傷を負わされた者すらも、手当てすれば助

かるように命ぎりぎりで加減されていた。

「降伏勧告です。三度目の」

 顔を上げ、涼やかな声で告げた青灰色の猫は、まだ若い、青年と言える年頃だった。

 身長は170ほどで、体躯は細い。顔付き自体は愛らしいと言えるが、感情を窺わせないその双眸は、一種冷たい光で奥底

まで満たされている。

 漆黒のロングコートを襟元までぴっちり締めて体を覆い隠し、頑丈なゴツいブーツで足下を固めているおかげで、シルエッ

ト自体は幾分水増しされて見えるが、それでも華奢な体格は外套越しにもはっきり判った。

 青みがかったグレーの被毛はほんのり光沢を帯び、きめ細かく滑らかで、その毛先を冷たい微風に撫でられ、細やかに震わ

されている。

 その右手には、逆手に握ったロングダガー。形状こそオーソドックスな諸刃だが、刃渡りは30センチにも及び、刀身もグ

リップも隠密行動向きの艶消しブラック一色。両面に血抜き溝が彫ってある。

 左手には鈍い黒鉄色に輝く、ごつくて大振りなトンファーバトンを引っ提げている。一見すると武骨で飾り気のないそれは、

しかしよくよく見れば、先端部やグリップ外側などに僅かな凹凸が確認できた。

 構えるでもなく、ただそこに佇むように棒立ちのまま男達を睥睨する猫。誰一人として体格で劣る者は無く、全員が拳銃を

保持しているにもかかわらず、この青年にたった十数秒で制圧されてしまった。

 まだ意識がある男達のひとりが、観念したように拳銃をゴトリと足下に置き、両手を頭の後ろで組む。

 すると、それに続いて次々と、男達は武装を解除し始めた。

 ふぅ、と息を吐いた青年は、冷たいまでの無表情だった顔を若干弛め、瞳の奥に安堵の色を浮かべつつ、どうしてもっと早

くに降伏してくれないのかと、頭の隅で考えた。

 一度目の降伏勧告は、戦闘開始前。男達を捕捉した直後に行なった。

 これに従わないのはまぁ仕方がないなぁという気もするのだが、ひとり叩きのめした後の、二度目の勧告に従ってくれなかっ

たのは遺憾だった。おかげで騒ぎが大きくならないよう、加えて逃がさないよう、速やかに全員を無力化する過程で負傷させ

なければならなくなった。

 力の差が判らなかったのか、それとも見た目で判断されたのか、たぶん後者だろうなぁと青年は結論付ける。見た目で侮ら

れるのは慣れっこだったので。

(あのひとなら、向き合うだけで相手を萎縮させてたのになぁ…)

 白い巨躯と、頼もしいその背中を思い出し、青年は寂しげに目を暗くする。

 ミオ・アイアンハート。それが青年の名前。

 国籍はドイツだが生まれは異なる帰化人。…という事になっており、表向きの身分は独国陸軍所属の少尉である。

 ダガーを腰の横に固定した鞘に納め、トンファーを腰後ろのホルスターにぶら下げたミオが、動ける者に手錠をかけて拘束

を始めると、程なく…、

「少尉ぃ〜っ!」

 ドカドカと重々しい音を立て、突き出た腹を弾ませながら、ずんぐりした影が路地裏へ走り込んできた。

 ミオと同じデザインの黒いロングコートを着込んだその男は、恰幅の良い中年猪。

 サイズがあっていないのか、骨太で肉付きの良い体躯にはコートが少し窮屈そうで、腹や胸などは丸みを帯びて布地が引っ

張られ、ムチムチしている。

 猪の後に続くのは地元の警官五名。裏路地にこもる血臭と惨憺たるその状況に一瞬顔を顰めたが、程なくその顔は驚きの色

に染まった。理解しがたい状況だったが、細身の青年がこれだけの人数を単身で制圧したのだと察して。

 目標を捕捉して単身で突出したミオに一旦振り切られてから追いつくまで、およそ五分程度。その間に状況は終了していた。

「ふぅ…!ひぃ…!ご無事ですかっ!?ぜはっ!おっ、御怪我はっ!?」

 長距離を全力疾走して来た猪は、喉をぜぇひゅう鳴らして汗だくになっており、警官達も真っ白な息を激しく吐き出してい

る。それなのに、同じだけの距離を倍以上の速度で駆け抜け、大立ち回りを演じたミオは、息一つ切らせていない。

「問題ありません。ただ…、やむを得なくて、数人に深手を負わせてしまいました。尋問前にひとまず治療を…」

 警官達は困惑した。

 上から「協力しろ」と言われてはいるものの、猫の青年と猪の中年については、正確な素性も立場も知らされてはいない。

質問する事さえ許されなかった。

 そこへきて、この惨状をひとりで造り出した得体の知れない青年は、自分に銃を向けたのだろう男達の容体を気遣っている。

 どう捉えて良いか判らない、掴み辛い青年を前に戸惑う警官達は、

「ほら!手伝って下さらんか!」

 手を貸して当然と考えている猪に野太い声でせっつかれ、被疑者であり負傷者でもある男達を拘束し始めた。



 その、デンマークの首都コペンハーゲン、ウォーターフロントの大通りからさして離れない、少し入っただけの路地裏で起

きた事件は、発砲音もあって無かった事にはできなかった。

 とりあえずは「旅行客を狙った強盗事件」として対外的に処理されたが、

(まるっきり嘘でもないよね。あっちもぼくも地元民じゃないし、ぼくが彼らから情報を取ろうとしてた訳だし…)

 ミルクと砂糖がたっぷり入った甘いコーヒーを啜りつつ、ミオはそのように妙な感想を抱く。

 青年が居るのは地元警察署地下にある応接室。調度品も控えめで、丈夫そうなソファーとテーブルだけが目を引くそこで、

ミオはひとり、コンビを組む猪と現地の監査官が、連中を尋問している間に休憩を取っていた。

 尋問に同席したかったが、男たちがミオを恐れ、気味悪がっている事もあり、顔を出すのは諦めた。

 恐れで饒舌になった相手が、助かりたい一心でこちらの機嫌を窺い、ある事ない事口にする…。そんな状況は幾度も見たし、

所属する機関の総司令官であるヴァイスリッター、エアハルト騎士大佐からもやんわり示唆されている。

(ミューラー特曹にお任せしよう…)

 中身が半分ほどに減ったコーヒーカップをソーサーに戻したミオは、どっしりしたソファーの背もたれに体重を預けて首を

反らし、天井を見上げて呟いた。

「それにしても…。どこに居るんだろう?サラマンダー…」

 サラマンダー。現在のミオが請け負っている任務は、そう呼称される危険生物の個体確保、あるいは殺処分だった。

 休暇中に足を伸ばした北原でサラマンダーが盗み出された事を知らされてから、二週間が過ぎた。

 これが本国内ならばどうとでも手の打ちようがあったのだが、なにぶんサラマンダーが盗み出されたのは、合同軍事演習の

為に赴いた陸軍がノルウェーにある出先機関へ持ち込んだ直後の出来事。

 しかも手続き上の不備であちらにサラマンダーの存在を伝えるのが遅れており、「聞いていない」と憤慨されて、軍事協力

契約が白紙撤回される寸前まで話がこじれている。なお、話し合いは現在も進行中だが、ドイツ側が大幅な譲歩や保証を引き

出されるのは目に見えている。

 それはまぁ立派に国際問題級の不手際をやらかした陸軍が悪いから仕方がない、とミオは考えている。もっとも、同行者の

猪はそれに加えて、陸軍の尻拭いでミオの休暇が中断されたと腹を立てているが。

 そんな経緯で、密やかに速やかに奪還せよ、と命じられて北原からオスロへ直行し、足取りを追って国境を越え、はるばる

デンマークまでやって来たが…。

「近いと思うんだけど…、「良い事もあろうと考えながら、しかし常に最悪に備えよ」かな…」

 今度こそ所在がハッキリすればいいなぁと思いながらも、ミオはそう呟いて静かに目を閉じ、結果を待った。



 六時間後。

 イミテーションの暖炉と、その周囲に配置されたソファーセットが目を引くホテルの一室で、ミオはぬるくなり始めたミル

クティーを一口すすると、磨いたばかりのダガーをためつすがめつ仔細に眺めまわしてから鞘に納めた。

 強化プラスチック製の鞘と特製ダガーは、ゾーリンゲン出身のリッター用騎士剣専門クラフトマンによって造られたミオ専

用装備。電解着色で黒一色に統一された刀身はジルコニウム特殊合金製で、軽量かつ硬度に優れる。殺傷能力だけでなく、現

地での自前整備が簡単に済むよう取り回しについても熟考されているのが特徴で、丸々水洗いする事もできるようになっていた。

「いやぁ〜、申し訳ありませんなぁ少尉…」

 ミオとテーブルを挟んで向き合う格好で幅広の尻をソファーに沈めた猪は、大きな鼻がついた太いマズルの横を、決まり悪

そうに平手でグシグシと擦る。

「急なもので一室しか取れず…、いやはや…」

 個室を二つ取りたかった所なのだが、ツイン一室しか空いていなかったため、相部屋となってしまった。その事を自分の不

手際だと詫びる猪に、

「大丈夫ですよミューラーさん、経費もちょっと浮きますし。それに、シーズンのニューハウンで当日に宿が取れただけでも

良しとしなくちゃ」

 と、ミオは気にした様子もなく、視界が開ける広い窓を眺めながら、むしろ楽しげに応じる。

 外は雪が真横に降るような酷い天候だが、暖房がきいた室内は裸でも苦にならないほど暖かい。

 青年はワイシャツにスラックスという格好。一方猪中年は部屋に備え付けられていたガウンを纏ったくつろぎスタイル。

「それと、変に目を引いちゃうから、外で「少尉」って呼ぶのはやめて下さいよ?」

「はっ!…いやしかしついつい口にしてしまう物でして…」

 中年の猪は苦笑いしつつ「引き続き気を付けます」と答えると、黒ビールがなみなみ注がれた大ジョッキを持ち上げガブッ

と煽った。

 この猪は、名をフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラーという。

 ひとにより立派とも長ったらしいとも感じる名前だが、職業上姓で呼ばれる機会が多く、本人もそれを好んでいる。という

のも、格好の良い名前の響きと自分の容姿がマッチしていないから、というのがミューラー本人の主張なので。

 ミューラーは恰幅が良く骨太で、身長はミオより少し高い172センチ。ただし幅も厚みも倍以上ある体は147キロにも

達し、青年と並べば寸詰まりの短躯に見えてしまう。

 やや調子のいいところもあるが、常に前線に身を置き続けた歴戦の軍人であり、格闘も射撃も並以上。下積みが長いので知

識も豊富で、おおよそ一般的な下士官が触れる事は万事そつなくこなせるだけの技量も持ち合わせている。

 元々の所属はヴァイスリッターだが、二週間前にミオの権限により強制移籍させられ、そのままこの任務についているため、

未だに新所属の部隊構成が把握できていない。

 ただ、部隊の名称が「ナハトイェーガー」という事と、リッターの暗部組織として数年前に結成された事、特殊工作や隠密

活動などを行なっている事、ミオがその設立時から所属している最古参メンバーである事などは簡単に説明を受けて理解して

いる。

 なお、ミューラーの階級は下士官の特務曹長であり、少尉のミオは年下とはいえ上官に当たるのだが、この配置についても

不満などは一切無い。

 剣と槍の時代から大貴族エアハルト家に遣えてきた血筋のミューラー家は、家の関係が正式な主従ではなくなった今でも、

エアハルト家を国家同様の主君として崇めている。そのためミューラー個人も、エアハルト家の若当主は勿論、その兄弟家族

には並々ならぬ忠誠心と親愛の情を注いでいた。

 そんなミューラーにとって、エアハルト家の末弟ギュンター・エアハルトの親友であるミオは礼節を持って丁寧に扱うべき

対象。おまけに、家柄をかさにきて威張り散らす「良家の愚息」を幾人も見て来たミューラーは、誰にでも丁寧な物腰で接す

るミオに個人的にも好感を抱いている。

 加えて言うなら、あれよあれよとサラマンダー追跡劇に駆り出されて以降、寝食を共にしてきたこの二週間で、ミオのひと

となりがこれまで以上に判って来て、より親しみを強めてもいた。

 だが、ミューラーはミオの正体を知らされていない。

 国籍はおろか国際法に定められた基本的人権すら持たない、非合法組織によって生み出された、兵器仕様のクローン生物で

あるという事実を…。

「オスロからノルウェー国外へ…、しかしよりにもよってデンマーク入りとはベタですな」

 「目当て」の移動ルートは、辿ってみればまるで観光客のそれ。勘を働かせる程でもなかったと、得意げにブフーッと大き

な鼻息をつくミューラー。

「でも良かったです。前から一度来てみたかったんですよね、コプンハーグン。…あ、任務中に不謹慎ですね」

 微笑して応じるミオ。しかし冗談めかしているようでも、半分は本気でそう思っているらしい事が、立てた尻尾が揺れてい

る様子で窺えた。

「…まぁ、休暇切り上げでしたからな。いくらかでも気晴らしになったなら良い事です」

 つられて笑みを浮かべるミューラーだったが、

「しかし…、協力してくれるはずが、やはり手柄が欲しいのか…。監査官め、良い所で尋問を打ち切りにしおってからに…!」

 と、思い出して不機嫌に顔を顰める。

「仕方ないですよ、彼らには治療も必要でしたから。…ちょっと痛めつけ方が過ぎましたね。今後は気を付けます」

 もう少し上手くやれれば良かったのに、とミオがしおらしく謝ると、「ああいえそういう意味ではっ!」と慌ててフォロー

に入るミューラー。

「少尉に落ち度は全くございませんとも!ええ!単身で立ち回られた上に、ひとりも逃がさず捕らえるお見事な働きぶり!そ

れに比べて市警連中の動きの悪さといったら…、いやはやまったく!」

 ミオを持ち上げるために警官をけなすミューラーだが、この猪、自分も遅れて追いついた事はちゃっかり棚に上げている。

「とにかく、明日以降の尋問結果を待って、手掛かりを得てからでないと動けませんからね。今の所はいっその事、気持ちを

切り替えてのんびり過ごしちゃいましょうか」

 開き直っているのか楽天的なのか、手掛かりが得られる寸前というこの状態でも焦りが全く見られないミオの発言に、頷き

ながらミューラーは感じ入る。

 体躯同様にのびやかでしなやかな心の持ち様…。この若者は、やはり大物になる器かもしれない、と…。

「…よし、っと…」

 ミューラーと話をしながらも装備のチェックを終えたミオは、それらを手早く片付け始める。休息を取る前後に一度、自分

の手持ち武装を入念に確認してメンテナンスする習慣は、彼に名前をくれた白い巨犬の影響だった。

「シャワー、先に使います」

「あ、はい。ごゆっくりなさってください」

 ジョッキを持っていない方の手をサッと上げて敬礼したミューラーは、上着を脱いで肌着姿になり、タオルを手にバスルー

ムへ向かうミオを見送る。

 そして、閉ざされた浴室のドアをしばし眺めた後、

「…はっ!?」

 でれっと緩んだ口元から零れるヨダレに気が付いてジュルルッと啜り上げ、次いでブンブン頭を振ってから黒ビールをガブ

ガブ飲み干し、瓶から注ぎ足した。



 しなやかな細身の体を、熱いシャワーが撫で降りる。

 細く引き締まったミオの体躯は、きめ細かな被毛が濡れて寝るとますます細く見えた。

 だが、臀部や太腿、ふくらはぎなどは筋肉が発達して他所より逞しい。

 華奢なボディライン。締まってくびれた胴。細いうなじに整った顔立ち。若い女性が見とれてしまう、ユニセクシャルな魅

力を発散しているが、しかしミオは異性の色目やモーションにも反応しない。

 親友である武芸一辺倒の若い騎士にも同じ事が言えるのだが、容姿に恵まれていながら、そういったサインが判らないので

ある。

 よって、身持ちがしっかりしている、ガードが堅い、などと難攻さがまた魅力に拍車をかけるのだが、自分への誘いに気付

けた所で、ミオがそれになびく事はない。

 青年の胸には、白い大きな犬が住んでいる。それ以上に好意を寄せられる者が、他に居ないから…。

 雪原の逃走劇から六年以上。

 か弱さが失せ、儚さと精悍さが愛らしい顔に滲むようになったミオは、歳月と決意に変えられて無力な少年ではなくなった。

 あの過酷な白い世界の行軍中、何度も欲しくなった熱いシャワーを頭から浴びながら、ミオは思い出す。

 自分が、ヴァイスリッターに回収された日の事を。

 そして、人知を超えた「何か」と遭遇した時の事を…。



 雪の上に手足を投げ出し、大の字になって天を仰ぐ、白い巨漢。

 胸部と腹部を貫通した銃創から流れ出たおびただしい血が、雪原を深紅に染めている。

 だがもう、血は出ていない。

 血は流れ尽くし、残った温もりも散逸してゆくばかり。

「大尉っ!大尉ぃいいいいっ!目を開けて…!大尉…!ぼくの…、ぼくの名前を…、呼んっ…!」

 ミオが縋り付き、声を上げて泣くその巨体は、かつての力強さが嘘のように弛緩し、刻々と体温を失ってゆく。

 既に鼓動は止まり、瞼はもう開かず、呼びかけても、揺すっても、応えてくれない。

 気が狂いそうになるほどの喪失感と、笑い出しそうになるほどの絶望感と、泣き出しそうになるほどの無力感に、胸が張り

裂けそうだった。

 微かに響く、雪を踏んで近付く足音にも、泣き叫ぶミオは気付けない。

 唸る風が、雪が、自分の慟哭が、接近者の気配を消している。

「動くな」

 声に気がついたミオが顔を上げたその時には、雪中迷彩コートに身を包んだ一団は、少年と、彼が縋り付く巨体を取り囲み、

銃を向けていた。

 だが、ミオの目には怯えが無い。

 反射のように灯った眼光は、激しい憎悪と覚悟が織り成す、熾火のような熱を持つもの。

 白い巨体を護るように立ち上がり、中腰で構え、たどたどしい所作で刃物を握るミオの周囲で、激しく踊る雪がちらちらと

見え隠れする。

 手の震えは、しかし恐怖による物ではない。激しい感情の発露が力を過剰に込めさせ、わななかせている。

「誰にも…」

 掠れた声が、強風に連れ去られ北原の空に舞った。

「もう誰にも…、このひとを、傷つけさせない…!」

 それは、決意の表明。

 それは、不屈の宣告。

 見るからにか弱そうな少年の体に起きた異常に、最初に気付いた男が目を瞬く。

 ミオの体が、すぅっと透けて見えた。

 その向こうに横たわる巨体や、雪と氷の地面が、少年の体越しに目に映る。

 何らかの能力も発動が確信できた。だが、安定していないのか、透け具合は濃くなったり薄くなったりと一定しない。

 得体のしれない能力で半透明になった少年…。その不気味さに「おかしな真似をするな!」と声を荒らげた男は、

「待って下さい!」

 後方から飛んだ声に気付き、しかしミオから目を離さないまま発砲を思いとどまる。

「中尉!待ってください!」

 繰り返す声に続いて、ひとりの若者が雪を蹴散らし、ミオを包囲する男達に後ろから近付く。

 そして、包囲の外側からミオと白い巨体を確認して、「…やっぱり…!」とゴーグルを上げ、マスクを下げ、顔をあらわに

した。

 見覚えのある少年の顔。ちらりと覗く赤い髪。知った相手と確認して、ミオの眼から敵意が薄れ、不安定に明滅しながら透

けていた体が元に戻る。

 仲間を押し退けるようにして包囲の輪へ入り込んだギュンター騎士少尉候補生は、ミオの後ろに横たわる血塗れの巨体を目

の当たりにして「ディッケ・ハティ!」と悲鳴のような声で叫ぶ。

「誰か!衛生兵っ!この方に手当てを!」

 雪を蹴立てて巨体の脇に駆け込み、跪いたギュンターは、既に冷え切った血ではっきりしないが、傷があると思しき個所に

目星を付けて手で塞ぎながら、仲間達に呼びかける。

「俺の恩人なんだ!この方は敵じゃない!頼む!信じてくれ!」

 警戒を解かない仲間達を必死に説得するギュンター。その横で立ち尽くすミオの両目から、涙が溢れ出した。

(大尉は…、間違ってなかったんだ…)

 巨漢の行為は、無駄ではなかった。

 施した慈悲は、ここに戻ってきた。

 なのに…。

 ミオの手からナイフが落ちて、硬く凍った雪に跳ねた。

 その澄んだ音が合図になったかのように、

「総員、攻撃姿勢解除。装備保持のまま待機」

 吹き荒ぶ風に、涼やかな凛とした声が放り込まれる。

 その命令でリッター達はザッと動きを揃えて銃口を天に向け、捧げ持つように保持し、直立不動の姿勢を取る。

 包囲が一角で左右に割れて道を開け、ギュンターがやってきた方向から、左右を屈強な兵に守られた男が歩み出る。

 その澱みの無い足取りは、輪の中に踏み入り、ミオとギュンターの前まで赴いたところで止まった。

「ギュンター騎士少尉候補生」

 マスク越しに響く声に、少年騎士は「はっ!」と、巨漢の傷を押さえたままで応じる。

「彼らが、先に報告のあった「協力者」か?」

「はい!わたくしの命を救ってくれたディッケ・ハティと、そのお仲間です!」

 身分が高そうな目の前の男の正体も、自分達の置かれている状況も把握しきれていないミオは、「そうか」と頷いたその高

官がマスクに手を掛け、ゴーグルとフードを上げる様を呆然と眺める。

 取り払われた覆面の下から現れたのは、柔らかなウェーブを描く赤い長髪と、眉目秀麗な若き騎士の顔。

 モデルのような整った顔立ちに、ギュンターと同じ赤い髪が印象的な男は、すっと目を細めると「彼らに手当てを。急げ」

と傍に控えた兵士に命じる。

「しかし、そちらはどう見ても…」

 降り積もる雪に埋もれ行く巨体を見遣り、兵がそう応じたものの、

「可能な限り手を尽くせ」

 と、有無を言わせぬ口調で再度告げ、男はミオのすぐ目の前まで歩み寄る。

 奇妙な男だった。

 足取りは無造作に、何でもないように、ごくごく普通に見えるのに、雪を踏む音が極めて小さく、見る者が見れば、無防備

なようでその実わずかにも隙が無い事が判る。

 はらはらと涙を流しながら立ち尽くすミオの前で、男は腕を水平に寝せて胸につけ、敵意がない事を伝えながら礼を尽くす。

「部下の非礼を詫びさせて下さい、少年」

 鋭さと聡明さを兼ね備えた目が、ミオの姿を曇りなく映した。

「そして、愚弟を危機から救って下さった事に、感謝申し上げます」

 その言葉に秘められた意味を理解する間もなく、男はミオにさらりと、重大な事を告げる。

「私はヴェルナー。独国特務機関ヴァイスリッター総司令官です」

 これが、ギュンターの兄にして白騎士団長、ヴェルナー・エアハルト騎士大佐との出会いだった。



 その直後の事は、あまり良く覚えていない。

 緊張の糸が切れ、ショックに打ちのめされたミオは、気を失うように眠りにつき、そのまま昏睡状態に陥ったので。

 後になってギュンターから聞かされた所によれば、そのまま雪上車に収容されてヴァイスリッターのベースまで搬送され、

治療室に入れられたらしいが、昏睡状態は三日にも及び、原因も判らずじまいだった。

 だが重要なのは、そうしてヴァイスリッターによって保護され、生き永らえた事だけではない。

 ミオが、原因不明のその眠りの中で、もう一つの邂逅を果たした事もまた大きな事件だった。