ナハトイェーガー(中編)
白い景色の中で、膝を抱えている。
ミオが最初に気が付いたのは、自分がそんな状態にあった事。
いつからそうしていたのか、そこが何処なのかは判らない。
だが、自分と向き合うようにして膝を抱えて座る、髪の長い人間の女性をずっと瞳に映していても、彼女が誰なのかという
事すら考えられなかった。
女性はじっとミオを見つめていた。表情の無い、抜け殻のように呆けた少年の顔を。
そうして膝を抱えていたのが実時間にしてどれほどだったのかは判らないが、後から思い返すに、それはきっと丸三日近く
に及んだのだろうと、ミオは考えている。
女性がため息をついたのは、ミオが自分の状態を把握したすぐ後の事だった。
「「自分」を認識するだけでこんなにかかるなんて、驚くほどの脆弱性ね…」
耳を震わせたミオの目が、焦点を女性の顔に合わせる。物思いからふと我に返ったような、そんな変化を見せた少年は、雪
のように白い肌の女性を見つめ、
「…誰…でしたっけ…?」
と、戸惑いながら口を開く。そして、次の瞬間眉根を寄せ、それから困惑の表情となる。
自分が何者なのか、何故ここに居るのか、ここが何処なのかが判らない。
不安を覚えて「大尉…!」と反射的に口にしたミオを、女性は「あら?」と、食い入るように見つめた。
「意識レベルが急に上がった…?魂に相当深く擦り込まれた足掛かりがある…、という事かしら…」
意味不明な言葉を呟く女性を前に、ミオは慌てて立ち上がり、周囲を見回した。
自分の事を思い出せない状況でも覚えている、頼もしい白い巨漢の姿は、どこにも無い。
縋るべき者が居なくて動揺する少年に、
「わたしはヴェルヅァンディ。…ああ、レディスノウと名乗った方が、貴方達には判り易いのね」
と、女性はどこか投げやりな口調で話しかけ、腰を上げた。
とはいっても、そこには地面も、床もない。
上も下も存在せず、膝を抱えて座っていた姿勢も、ただそんなポーズをとっていただけの事に過ぎない。
永遠に続く白。そこは北原よりも広く、白く、眩しかった。
「レディ…スノウ…?」
聞き覚えがあるようなないような、しかし記憶の隅を刺激するキーワード。知っているような気もするのだが、しかしそれ
が何を意味する言葉なのか思い出せない。
「そう。レディスノウ」
繰り返したヴェルヅァンディは、ミオの足元から頭の先まで眺め回し、ため息をついた。
「がっかりね」
「え…?」
戸惑うミオに、ヴェルヅァンディは肩を竦めて続けた。
「…突破まで果たした彼が、その身を捨てて救った鍵はこの有様…。未来へ運ばれた可能性は、因果の流転に飲まれて消える、
か…」
そう言って、彼女がすっと横へ伸ばした手の先で、白い景色が不意に実在感を持つ。
「た…!」
ミオの目が丸く見開かれた。
その瞳に映るのは、白い景色から浮かび上がり、急に姿を現した白い巨体…。
「大尉っ!」
手を伸ばすミオ。しかし前へ進もうにも宙に浮いているような有様で、最愛の男へは少しも近寄れない。
ヴェルヅァンディは手を体の脇へ下ろすと、白い巨体を横から見遣る。
それは、2メートルを軽く超える巨漢…グレートピレニーズの獣人だった。
毛足の長い純白の被毛に覆われた巨躯は一糸纏わぬ姿。
丸太のように太い手足に、ドラム缶のような分厚く重量感のある胴。頭部を支える首は山脈のような肩のラインと一繋がり
で、どこからどこまでを首と断定するのも困難な筋肉の束となっている。
腹が出た大兵肥満の体躯だが、どこもかしこも造りが大きいその巨体からは、圧倒的な力強さを感じる事ができた。
呼吸しているようにも見えず、身じろぎ一つしないまま眠るように目を閉じ、手足とふさふさした尻尾をだらりと垂らし、
まるで何かに吊られているように直立姿勢で宙に浮いている巨漢。
その名は、ハティ・ガルム。
生物兵器、エインフェリア・ガルムシリーズのひとり。ドレッドノート(恐れ知らず)の異名を持つ戦士。
公的には、グレイブと呼称されていた部隊におけるミオの上官であり、私的には、心を繋げた大切な存在…。
ハティ目指し、ミオは必死に進もうとするが、1ミリたりとも近付けない。
「随分長く世界を眺めて来たけれど、稀に見る傑物だわ」
ミオとは違い、自在に移動できるらしいヴェルヅァンディは一歩ハティに近付く。
「私のアェインヘリャルにしたいぐらい…」
力なく俯いているその顎下に手を入れ、軽く撫でるヴェルヅァンディ。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の眼は何処か残念
そうでもあった。
まるで、素晴らしい何かを前にしながら、絶対に手に入らないと理解し、諦めようとしているように…。
「でも、無理なのよね…。この魂は私に靡かないわ」
呟いたヴェルヅァンディは、ミオに視線を向ける。
「解る?何よりも大切な「リーズン」が彼にはあるのよ。だから無理なの。再生所有しようにも、この魂はそれに応じないわ」
まともに聞いてもちんぷんかんぷんな内容だったが、そもそもミオはもうヴェルヅァンディの話を聞いていない。
言葉にならない事を叫び、涙を流し、必死に腕を伸ばし、ハティに触れようと、その傍に寄ろうともがくばかり。
「…がっかりね…」
ヴェルヅァンディは繰り返す。
「ここまでの男がここまでやって、残した存在はこんなにもちっぽけ…」
そして彼女は、一瞬にしてミオの眼前に移動して来た。
ヴェルヅァンディの顔が、いきなり真正面に、それもキスでもできそうな距離に現れ、流石に驚いてビクンと動きを止める
ミオ。その耳に…。
「貴方、存在していて恥ずかしくない?」
ヴェルヅァンディの、嘲るような声が入り込んだ。
美しくも冷たい残酷な嘲笑が、少年の瞳に焼き付けられる。
「取るに足らない貴方の元へ、何故私がわざわざ来たのか解る?」
ヴェルヅァンディは囁く。
「貴方の無力さと、ハティ・ガルムの徒労を、嗤いに来たのよ。「犬死だったわね」って…」
カッと、ミオの瞳が瞬時に、強烈な嚇怒に染まった。
ハティへの侮辱で激昂し、掴み掛かろうと伸びたミオの手は、しかし結果としてヴェルヅァンディに触れる事はなかった。
接近した時と同様、コマ落としのように一瞬で元の位置に戻ったヴェルヅァンディは、
「大尉を侮辱するな!たとえ誰だって、大尉を悪く言うのは許さない!」
激烈な怒りに顔を歪ませる少年を見つめ、小さく「結構」と呟いた。
「貴方。名前は?」
「ミオ!大尉がつけてくれた名前だ!大切な名前だ!」
「あら、名乗れるのね。ショック療法が上手く行ったかしら?」
敵意をそよ風ほどにも感じていないようなヴェルヅァンディの落ち着いた声で、違和感を覚えたミオは幾分平静を取り戻す。
そして、自分達の身に何が起こったのか思い出し、愕然とした。
同時に、目の前のこの女性が何者なのか理解し、戸惑う。
「貴方はまだ、何も解っていないでしょうね。けれど…」
ヴェルヅァンディはふぅっとため息をつき、再びハティを眺め遣って先を続ける。
「彼がその類稀な勇敢さと気高き精神と大いなる慈悲をもって、貴方の因果を未来へと繋げた事で、役割が確定したのよ」
無言のままハティを、そしてヴェルヅァンディを交互に見つめ、戸惑うミオに、ワールドセーバーは告げた。
「貴方は未来を変える鍵の一つ…。何を為すべきか慎重に見定めなさい。道標は既に示されているはずよ、ナハトイェーガー」
回想を終えたミオは、不意に舞い戻ったシャワーの音を聞きながら薄く目を開ける。
昏睡状態から快復した後、覚えていたのはそこまで。
だが、あそこで途絶えたあれを、奇妙な夢とは思わなかった。
その確信をさらに強めたのは、それから数年後。新造され、自分の所属となる部隊の名を知った時…。
ナハトイェーガー。
その時点で、もはや偶然とは僅かにも思えなくなった。
「………」
しばしそのまま動きを止めていたミオは、ほどなくシャワーコックを締め、湯を張ったバスタブに浸かる。
「六年、か…」
呟いた青年の脳裏を過ぎるのは、長いようであっという間に過ぎたこれまでの年月…。
リッターに救助され、不確かな身元というハンデがありながらもエアハルト家の保護を受けて、その客人として扱われたミ
オは、そのままならば仮の身分を与えられ、平穏な生活を送る事ができただろう。おそらくは、望めば一生涯…。
だが、そうはしなかった。
ラグナロク。ミオを産み出し、現在もなおヴェールに包まれたまま世界中で不気味に暗躍する非合法組織は、そう呼ばれて
いる。
一般的には認知されず、各国のハンターも大半はその存在を確信せず、一部の国が、その上層部や一握りの者達だけが名を
知っていたその組織は、ここ数年の間に飛躍的に支配力を強め、動きを活発化させていた。
その規模や実体は未だ謎に包まれているものの、垣間見えるだけで武力は大国のそれに比肩し得る。しかも、本拠地が何処
にあるのかも判らず、指導者の素性も明らかになっていない。
リッターも幾度か小競り合いをして辛酸を舐めさせられ、充分過ぎる驚異として認識しているものの、あまりにも情報が少
ないため対策が不十分だった。
ミオはそんな事情を考慮して、名家エアハルト家の若当主であり、ヴァイスリッター司令官であるヴェルナーに、ある取引
を持ちかけた。
取引材料は、自分自身。
ミオは数少ない「生きた」元ラグナロク兵。知識として持っている情報は、下級兵士だったが故に僅かだが、クローン生物
のミオは身体その物がラグナロクの技術力を測る情報源となる。
そうして、自分の身体情報を取引の材料としてヴァイスリッターとエアハルト家に差し出したミオが求めたのは、ラグナロ
クと戦う力と立場を得る事。
皮肉にもそれは、かつてハティが願い、ミオに与えたかった、平穏なる人生とは真逆の選択だったが、ヴェルヅァンディが
示唆した「既に示されている道標」というものが何なのか考えた時、すぐに思い浮かんだのがこれだった。
ハティが口にした生き方、世界の敵の敵…。
世界の敵ラグナロク。その敵として生きる事を、ミオは選択した。
自らが元ラグナロクであるという真実と手持ちの情報を全て開示すれば、捕虜として幽閉され、一方的に搾取されるという
危険性もある。その可能性について考えなかった訳ではないが、そこはギュンターの誠実さを信じて交渉の仲介役になって貰
う事にした。
それでも博打である事には変わりなく、ヴェルナーがギュンターを黙らせて強硬な手段に出るかもしれないと危惧はしたが、
それでも結局この案で押し通した。
ハティを頼れない以上、自分で見定め、考え、選択するしかない。駄目で元々。他に手が無かったのだから。
しかしミオの心配をよそに、ヴェルナーは至極あっさりと申し出を受けてくれた。
身元を調べようか聞き出そうかそっとしておこうか、立場と恩を天秤にかけてずっと迷っていたのだと、すっきりした顔で
笑いながら。
そしてミオは、ラグナロクから持ち出した物品や情報類、自らの身体情報の開示と引き換えに、エアハルト家のコネクショ
ンを利用して身分を偽装し、ヴァイスリッター付属機関の士官候補生という立場を作り上げた。
そうして、いずれそれなりの立場になるための土台作りとして軍人となったミオは、エアハルト家に保護されて厳重な警備
をつけられて過ごす傍ら、戦闘技術を叩き込まれた。
白兵戦用格闘術。工作能力。隠密活動のノウハウ。戦技、戦術、戦略レベルそれぞれでの戦の知識。そして、能力の研鑽…。
学ぶべき事は多岐に渡ったが、幸いにも教師が良かった。
おまけに、ラグナロク所属時には開花しなかったものの、元々ミオは兵士として造られたデザインクローン。遺伝子レベル
で手を加えられている彼の基礎能力は一般人よりも高く、鍛え方さえ間違わなければ、その大きなアドバンテージで強力な兵
士に育つ可能性があった。
そして、この六年でミオは成長した。
状況と立ち回り方によっては、ヴァイスリッターの精鋭、騎士団長親衛隊を越える戦果を叩き出すほどに。
湯を両手で掬い、パシャリと顔にかけたミオは、体が充分温まった事を確認して身を起こした。
湯がしたたり落ちるその裸体はラグナロクに居た頃とは違い、線は繊細でありながら、しなやかさと鋭さを同居させた、戦
士のソレになっていた。
「お先しました」
タオルで頭をゴシゴシ擦りながら戻って来た肌着姿のミオに、ビール瓶二本を空にしたミューラーが「お加減はどうでした
かな?」と陽気に応じる。
「狭くて不自由したりとか、物品が何か足りなかったりなどは…」
「大丈夫ですよ。広さも十分でした。でも…」
シャツを取り、袖を通しながら、ミオはミューラーに微苦笑を向ける。
「バスタブは、ミューラーさんには少し狭いかも?」
「問題ありません。何ならシャワーで済ませます」
応じた猪に笑みを向けたミオは、「ラウンジでコーヒーを頂いてきます」と断りを入れながらズボンを穿いてベルトを締め
ると、湿り気が抜け切っていない頭を少し気にしながらドアへ向かう。
「ごゆっくり…」
そう声をかけて送り出した猪は、しばしドアノブを見つめていたが、
「………」
やおら立ち上がり、ミオが戻って来はしないかとドアの方を警戒しながらコソコソと移動を始める。
まず最初に覗いたのはバスルームだった。
そこにはまだ湯気が濃く立ち込めており、ミオが使ったバスタオルがかけられ、使用済みの肌着類が洗濯物用のボックスに
纏められている。
ミューラーは目つきを鋭くし、バスタブをあらためた。ミオが忘れたので栓は抜かれておらず、使用後の湯がまだそのまま
になっている。
そこへ慎重に顔を近付け、湯の中の細かな気泡まで鋭く検分したミューラーは…。
「少尉の浸かった…風呂…」
とてもとても低い声でそう呟くなり、ザバッと両手で湯を掬い、それに口を付けて啜り込んだ。
「がぶっ!がぶがぶがふふっ!」
まるで砂漠を彷徨った挙句オアシスにたどり着き、ようやく水にありついた遭難者のように、湯を掬っては口に運び、音を
たてて飲む。
しまいにはバスタブの縁に手を掛けて顔を突っ込んで、ミューラーは直接口を付けて飲み始めた。
(少尉の!少尉の味が溶け込んだ湯…!)
一心不乱に湯を飲み込むミューラーは、やがて、
「うげぇ〜っぷ!」
ビールが溜まった胃袋に、ミオ出汁入りの使用済み湯を大量に収め、アルコールの混じったゲップを盛大に漏らす。
次いで猪が視線を向けたのはバスタオル。
湯で濡れた手をそれで拭う…のではなく、鼻をフゴフゴ鳴らして表も裏も匂いを嗅ぎまくった挙句、顔をタオルでグルグル
巻きにして覆い、
「ブフスーッ!ブファーッ!」
派手な吐息を漏らしながら深呼吸。タオルに残ったボディソープの香りを噛み締める。さらに…。
「しょ、少尉…!少尉いけません…!ワシには坊ちゃんという方が…!」
何やら怪しげなイメージプレイを始めるフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長37歳独身。
実はミューラー、男色家である。
恋愛より仕事という軍人気質で、未だに独り身を貫いている…と表向きはそういう事にしているし、実際そう思われている
が…。
実は特務曹長、男色家である。
生涯現役。引退まで嫁は取らない。つまり生涯独身。などとうそぶいているが…。
実はこの猪、男色家である。
しかもだいぶマイノリティーでアレな具合の性癖を併せ持った男色家である。
「あ!坊ちゃん!違います坊ちゃん!これは…!」
ミオタオルで覆面のように顔を覆い隠し、ピンク色の幻想にどっぷり浸かりながら鼻息を荒くしているミューラーの頭の中
では、ベッド上の自分に裸で迫るミオと、その現場を突如来室したギュンターが目撃する場面が展開されている。
「坊ちゃん!ワシは坊ちゃん一筋で!ああ!おやめになって下さい!少尉は悪くないんです!ワシのために争わんで下さい!」
自分をめぐって青年達が争う修羅場を想像し、顔をタオル巻きにし、身悶えしながらふごふごと息を荒らげるミューラー。
傍目には滑稽だが、声が迫真の演技なのでなかなかに薄気味悪い光景が出来上がってしまっている。
そうしてしばしドロドロのイメージプレイを堪能し、酸素不足と興奮で頭の芯を痺れさせたミューラーは、はぁはぁ言いな
がらタオルをはずし、湿り気と熱でムワムワしている顔を洗濯物が入ったボックスに向ける。
そして、そこからせかせかとミオの下着を取り出すと、高級なネックレスでも眺めるように、ボクサーパンツの両端を摘ん
で眼前に吊るす。
しばしじっとそれを見つめた後…。
「はぶしゅっ!はふはぶはっ!むぐむぐ…」
ミューラーはパンツに食らいつき、ムグムグと噛み締めて味わい始める。その逞しい両肩は、興奮と感動に打ち震えていた。
ミオと行動を共にするようになってから二週間。エアハルト家に赴いた際などに時折顔を合わせる青年に、ミューラーは前
々から好感を抱いていた。
その魅惑的な姿が四六時中目と鼻の先にあるとなれば、いけない妄想に浸ってギリギリの行為を働いてしまうのも仕方がな
い。ああ仕方がない!
そうしてイケナイ事だと認識しながらこんな行為を繰り返す背徳感と、もしもバレたら…と考えた際のスリルがまた堪らな
い。ああ堪らない!
常にお預けをくらった犬のような精神状態で悶々としながら二人旅を強いられているのだから、「ホテル一室しか空いてま
せんでした」なんて可愛い嘘は許容範囲だろう。ああ許容範囲だとも!
と、ミューラーはそう思っている。
よだれでべったり汚れたミオパンツを改めて眼前に吊るし、しげしげと見つめて悦に入るミューラー。だらしなく弛緩した
満足そうなその幸せ面には、前線生え抜きの軍人としての威厳など欠片ほども見られない。
さて次は、昂ぶったこの性欲と愚息を、ヨダレまみれのミオパンツを使って慰めよう…。
と、ミューラーがガウンの裾を捲り、トランクスをずり下げようとしたその時…。
「!?」
猪の耳が、ドアのロックが解除される音にピクリと反応した。ついでに尻尾もビンッと反り返って、房がついた先端がレー
ダーのように回転して音の出所へ向く。
早い。早過ぎる。もうコーヒーを飲んで来たのか?
焦るミューラー。「戻りました」と声をかけたミオは、
「席が混み合ってたから貰って来ました」
と続けながら、開けっ放しのバスルームドアへ視線を向ける。
嫌な汗が体中から吹き出すミューラー。
イメージプレイでは危機感を煽るシチュエーションも大歓迎だが、現実問題となれば話は別である。この素敵な二人旅及び
新たな仕事環境とおさらばになっては元も子もない。
どう誤魔化せば良いのか?いやそもそも誤魔化せるのか?
冷や汗で全身を湿らせて焦るミューラーだったが、
「あ。これからシャワーですか?」
ミオはそう解釈してバスルームを覗き込むと、あっちを向いてパンツを隠している猪の背中に、
「せっかくだから、コーヒー二つ貰って来たんですけど…」
と微苦笑を送る。
「ああいや!今からでしたから!今から!まだ脱いどらんし何もしとりませんから!ええ何もしとりません!さ、先に頂きま
すかな!冷めない内に!」
あせあせしながらも疑われていないと察してホッとしたミューラーは、テーブルに向かうミオの足音に耳をそばだてつつ、
こっそりパンツをボックスに戻す。
そして何食わない顔でソファーにつき、いきり立ったまま収まらない股間の事がバレはしないかひやひやしつつ、熱いコー
ヒーを我慢しながらなるべく急いで飲み干してから、
「では、失礼してシャワーを…」
と愛想笑いを浮かべつつ断りを入れて、バスルームに籠って性処理と偽装工作と証拠隠滅作戦を展開した。
そうして一夜明け…。
「へぇ〜!あれが人魚姫の像ですか!」
目をキラキラさせながら手で庇を作り、ガイドブックで写真を見ていた有名な像をしげしげと眺めるミオ。
がっかりする観光客も多いのであまり期待しない方が良いと、水辺沿いの遊歩道を通って向かう途中であらかじめ断わって
おいたミューラーだったが、
「予想してたより小さいなぁ!それに結構地味!」
がっかりするはずの所に何やら感心しているので、呆気にとられてしまった。
常軌を逸した制圧能力と得体の知れない力を秘めている若き将校は、しかしこうしてはしゃぐ様を見ていれば、年相応の青
年以外の何者でもない。
そんな様子にホンワカしながらも、実はミオと同室で夜通し興奮しっ放しだったので寝不足なフリードリヒ・ヴォルフガン
グ・ミューラー特務曹長37歳独身は目が充血しまくっている。
鉛色の薄雲から季節の終わりを告げるようにか細い雪がちらちらと降る、あいにくの空模様なのだが、ミオにはそんな重苦
しい空も寒々しい景色も気にならない。すこぶる上機嫌である。
「お昼は何処で食べましょうか?ホットドックスタンドにします?」
「いやまだ十時ですよ少…ゴホン!ミオ君」
一度少尉と言いかけ、訂正するミューラー。呼び捨てでも不自然ではない歳の差だし、その方が変に怪しまれる事もないで
すよ、とミオは主張するのだが、どうにも舌が落ち着かないので呼び捨ては難しいというのがミューラーの言い分。
「でも、動いている内にすぐ時間になりますよ?…っと」
言葉を切ったミオは、路肩でバルーンアートやアクセサリーを売っている露店商達を見遣ると、「ちょっと見て行きましょ
う」とミューラーを促した。
(はて?本隊からの支給物品の受け取りがあるんじゃ無かっただろうか?)
時間的に余裕もあるのだろうと考えながらも、胸の内で疑問に思ったミューラーは、シルバーのアクセサリーを丹念に見て
いたミオが「これ下さい」と買い求める様を見て口元を綻ばせた。
親友のギュンターは男前だが武骨で飾り気のない性格。だが、ミオは容姿も顔立ちも美麗と言って良いほどなので、こういっ
たアクセサリーで身を飾るのも似合っているように感じる。
(そういうお年頃なんだ。たまにはこうして…)
ミオが店主から、指し示した展示品と同じ型のチョーカーの箱入り新品を受け取る様を見届け、ひとりホワホワするミュー
ラーだったが…。
「はい。これミューラーさんのです」
露店を離れて引き返しながらミオが箱を差し出すと、ミューラーは「は?」と目を丸くした。
(え?な、何っ!?ま、まさか少尉、ワシに似合うと思ってアレを…!?)
ドギマギするミューラーは、「ひと目につきますから、早く」と急かされて箱を受け取る。そして、
「それが「ウチ」の通信機です。ほら、ぼくのと同タイプ」
と、襟元を軽く下げ、首に巻いたチョーカーをちらりと見せた。
「…は…?」
ときめきが一瞬で疑問に変わり、ポカンとするフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長37歳独身。ときめき
損である。
「さっきの露店商の彼、「ウチ」のメンバーなんです。昨夜少佐からの連絡にあった使者って、彼ですよ」
ミオは小声でそう告げるが、壮絶な肩透かしを食らった気分になっているミューラーは右から左である。
かつてミオやハティ達グレイブ第一小隊が用いていた首輪型通信装置は、解析されて改良を施され、チョーカー型になって
いる。
目を欺くためにアクセサリーもつけられるようデザインされたそれは、ヴァイスリッターの技術とラグナロクの技術が融合
した、いわば異なる道を歩んできた異種テクノロジーのハイブリッドによって生まれた品。
納得がいかない気分でしぶしぶ太い首にチョーカーを巻いたミューラーは、
「良かった、ピッタリですね。ミューラーさん首が太いから、ぼくの採寸が間違ってキツくならないか心配したんですよ」
そんなミオの言葉を受け、自分の首周りのサイズを知っていたのかと、またちょっとときめく。
「午後からはまた動きますから、このタイミングで受け取れたのは良かったですね」
微笑むミオ。だがその言葉の中には、「夕刻に再開される予定の捕虜尋問に際して、立ち合えない自分にこっそり尋問内容
を流してくれ」という要望がこもっている。
無邪気に観光を楽しんでいるように見えて、実は真面目に仕事もこなしているミオ。付き合えば付き合うほどそれまで知ら
なかった様々な面が見えてきて、戸惑う事も多いミューラーだが…、
(そこがまた、いいっ…!)
とりあえずはオーケーなようである。いろいろとめでたい事に。
「時間も浮きましたし、ちょっとぐらいニューハウンうろついて回っても良いですよね?それからホテルに戻って使い方を…」
「はっ!」
うきうきしているミューラーは、物珍しげにウォーターフロントの街並みを眺め回すミオの後ろを、尻尾を振りながらのし
のしついて行った。