ノンオブザーブ(前編)

「武器を捨てて、投降して下さい!」

 凛と声を張ったミオを見据え、ハスキーは胡乱げに眉根を寄せた。

「量産型…?いや、似ているだけか…?」

 その小さな声に、ミオの耳がピクリと反応した。

 ラグナロク内で生産されている同タイプのクローン達の内、同一のアーキタイプを雛型にしている者達とミオは外見が似て

いる。

 完全に同一では社会で目を引き、任務に支障が生じる為、遺伝子操作で毛色や模様に差を出してあるが、顔立ちも体格も親

戚や兄弟のようなレベルで似通っている者が多い。

 だからこそミオの姿はそれ自体が。相手がラグナロク関係者かどうかのテスターとなる。

「貴方は、黄昏…、ですね?」

 確信を込めたミオの問いかけで、グリスミルの目が鋭さを増した。

「単独行動、そしてこれだけの戦力を単身で壊滅させる武力…。士官クラスか、それとも…」

 油断なく足を踏み出し、距離を測りながらゆっくりと立ち位置を変えるミオ。

「小僧。随分と物知りなようだが…、ただのハンターではないな?何者だ?」

 グリスミルは戦意を失ったハンター達からミオへと向き直り、鋭い、射抜くような眼光で、青年の一挙手一投足を観察する。

「ナハトイェーガー。そう呼ばれています」

 ピクリと、ハスキーの目尻が動いた。軽い驚きによって。

「ナハト…イェーガー…?」

 名前は知っていた。報告は受けていた。独国のリッターか、それに関連する何かだという情報は得ていた。要注意、と…。

 何せラグナロクは、これまでに大小合わせて四十七の作戦を「ナハトイェーガー」に潰されているので。

「ダウド・グラハルトに次ぐ、最大級の敵性脅威の一つ…。なるほど納得した」

 ハスキーは凶暴に唇をめくり上げ、嗤う。

「裏切り者だったとはな。内部情報を持っているのは確かに厄介だ…。小僧、元々はこちらの量産兵士だろう?どうやってか

脱走し、そして情報を手土産に降った訳だな?」

「だいたい合ってます」

 憎しみを込めた嘲笑を向けられてもなお、ミオは怯まない。侮蔑の言葉もさらりと受け流している。

「投降してください。基本的人権が保証されるようこちらで働きかけると約束します」

 それは、相手もまた自分と同じく生物兵器かもしれないという事を鑑みての降伏勧告。だが…。

「笑わせるな小僧…」

 グリスミルは凶暴な笑みを浮かべ、無造作に大きく一歩踏み出した。

 それに呼応する形でミオは軽く重心を落とし、身構える。

 トンファーを握る左腕を胸元に引き付け、ダガーを逆手に握った右腕を真っ直ぐ伸ばし、軽く浮かせた独特のファイティン

グポーズは、相手の動きへの対処に主眼を置いたスタイル。

 引きつけた左腕はブロックとガードの為の物。伸ばした右腕は弾き、いなし、撃ち落とすための物であり、同時に攻めへ転

じる為の物。

「量産型がエインフェリアに…しかもエージェントでもあるこの俺に降伏勧告だと?冗談にしても面白過ぎるな」

 今度はミオの目尻がピクリと反応した。

「エインフェリア…。そして、エージェント…?誰の、ですか…?」

 ミオの首筋で被毛が浅く立つ。それを怯えと見て取ったグリスミルは、どのみち始末するつもりなので教えても問題ないと

考え、あっさりと応じる。

「俺はグリスミル。フレスベルグ様にお仕えする名誉を賜ったエージェントだ」

「フレスベルグ…。フレスベルグ・アジテーターの…」

 ミオの首後ろで被毛が下がる。因縁深いあの魔女の配下では無いと理解して。

「もう一つ、お訊きします」

 間合いを詰めるグリスミルから、ゆっくり横に移動して距離を調節しつつ、ミオは続けた。

「ウル・ガルムというエージェントをご存知ですか?」

 グリスミルは「ああ」と口の端を歪めて笑った。だがミオは、その嘲笑が何を意味するのか解らない。

「裏切り者は、裏切り者の事が気になる…、という事か?」

 ミオの瞳が疑問に染まる。

(裏切り者?ウル・ガルムが、ラグナロクを裏切った…!?どういう事!?)

「そうか。小僧、貴様はアリス拉致事件の折に、ヤツの起こした騒ぎに乗じて脱走したのか。…それとも、協力者だったのか?

確かに遺体識別も難しい状況だったが、なるほどな…」

 何か勘違いしたらしいグリスミルの言葉は大半が理解不能だったが、ミオはそれを重要な情報だと直感して一字一句逃さず

記憶する。

「それで、今…」

 今、ウル・ガルムはどうしているのか?そんな問いを投げかけようとしたミオは、しかし息を止めて横へ跳ぶ。

 ダンッと地を蹴ったグリスミルは、踏み込みつつ右の剣で逆袈裟の一刀を放っていた。

(速い!けど…)

 横っ飛びに避けて着地するなり、ミオは伸ばしていた右腕を下からスイングし、ダガーを投擲する。

 そして、これを左の剣で弾いたグリスミルに対し、左腰に帯びていたもう一本のダガーを逆手で引き抜きながら接近し、ト

ンファーを横殴りに振るった。

 投げたナイフを弾くその一瞬を利用して近接戦闘に持ち込んだ青年を、ハスキーは嘲笑う。

 基本性能で劣る量産型のクローン兵士が、エインフェリアたる自分に肉弾戦を挑むなど自殺行為。もっとも、銃撃戦を仕掛

けられても結果は変わらないが…。

 剣を立ててトンファーを受け、思いのほか重さのあるその一撃を止めつつ右剣を振り下ろし首筋を狙う。

 これをダガーで擦り上げるように下から撫で、力比べせずに手先の動きで逸らしたミオが、軌道を変えた剣筋の内側に黒い

刃物を躍らせる。

 首を引いてかわすグリスミルは、この時点で違和感を覚えた。

(何だ…?)

 ミオのトンファーが手元で回転し、長い側を腹へ突き込んで来る。

 これを半身で避けつつ手首を返したグリスミルは、スナップを利かせてその細首へ剣を打ち込むが、青年の体が旋回しなが

ら急に沈み込み、まるで予期していたようにこれを避ける。

(こいつ…!?)

 想定外の体術と速度。舐めてかかったグリスミルが驚いたのも無理はない。

 ミオの近接格闘能力は、エインフェリア…しかも高性能な身体能力を有するタイプのソレと同等のレベルに達していた。

 沈み込んだミオの体がいぱいに捻られ、上体の旋回に引っ張られる形で足が床すれすれを掃く。

 水面蹴りで両足を跳ねられ、バランスを崩すグリスミル。

 その胸部へ、一回転したミオの左腕がトンファーを握り込みながら突き込まれた。

「っく!」

 堪らず声を漏らし、咄嗟に剣を交差させて胸部をガードしたグリスミルだったが、トンファーを繰り出しながら伸び上がっ

たミオの、脚力まで動員した一撃で体を浮かされた。

 そこへ、まだ完全には死んでいない体の捻りと回転を乗せたアメリカンショートヘアーの、空気を切断するような鋭いロー

リングソバットが襲い掛かる。

 脇腹に飛び込むそれを膝を上げてガードしたグリスミルの体が、三割以上軽いだろう細身の青年に力負けしてしまい、蹴り

飛ばされた。

「このっ…!」

 呻きながら宙で体勢を整え、着地しようとしたグリスミルは、ハッとして目を見開いた。

 中腰で重心を落とし、反動に備えたミオが、大きく前へ突き出して自分に向けたトンファー。その短い方の先端に赤い光が

灯っている。

 収束し、眩さを急激に増した赤光は、右手を左腕に添えて身構えたミオの体を後方へ吹き飛ばしつつ、トンファーから高速

射出された。

 着地前の避けようがない状況で、それでも剣を交差させてガードしたグリスミルだったが、勢いに負けて壁まで弾き飛ばさ

れ、したたかに背中を打つ。

 ヴァルキリーウィングCは、使用者の思念波を変換して擬似エナジーコート現象を発生させる。そうして生み出した力場は

弾丸として射出する事も可能。

 使用者の意図で出力調整が可能なこの攻撃は、加減すれば素手で引っぱたく程度の出力に絞る事もできるが、その気になれ

ば銃器レベルにまで威力を引き上げられる。

 思念波強度に応じて変化するその出力は、ミオの使用時には最大でライフルのメタルジャケット弾並となる。

 壁に貼り付けられる格好で激突し、ずるっと落ちて床を踏み締めたグリスミルは、剣が一本、半ばから折れ曲がっている事

に気付く。

 突き抜けるような衝撃が残る体のダメージよりも、得物の方が深刻な被害状況。

 同時に、発射の反動を受けてザザザァッと靴底を滑らせながら大きく後退したミオは、静止するなり即座に前へ駆け、追撃

に入る。

 その姿が、すぅっと透明になって消え去った。

(何だ!?)

 グリスミルは驚くべき現象を目の当たりにしながらも、その鋭い聴覚で微かな足音と風切り音を察知する。

 半分勘で、半分経験で軌道を予測し、不可視の一撃を曲がった剣で弾くハスキー。

 その眼前で、不意に空間から滲み出るように湧いた半透明なミオの像が複数ブレながら重なり、姿がはっきりする。

(こいつ…、こいつは…!)

 ミオの能力名は、ノンオブザーブ。

 名付け親のハティをして、自分達の天敵足り得ると言わしめた希少能力。姿をまるごと消す事もできるので、隠密行動や不

可視の奇襲も容易に可能となる。

 単騎で軍を瓦解させ、戦況を覆し、捕捉されないまま情報の質や所在を変えてしまう…。使いようによっては戦術級、戦略

級の効果を発揮する力だった。

 壁を背にして後退できないポジションへ切り込まれ、曲がった剣でトンファーを受けつつ、もう一本の剣でダガーの突きを

いなすグリスミル。

(能力者!加えて…、リミッターをフルカットし、しかも連続使用しているのか!?)

 グリスミルの推測通り、エインフェリアをも圧倒してのけるミオの尋常ではないスピードとパワーは禁圧総解除によるもの。

 軽く柔軟な体は高出力に後押しされ、全身を一個のバネと化し、機動力のみならず、瞬発力を変換した瞬間的なパワーをも

獲得している。

 禁圧を解除するだけでも相当な技術だが、これを全身同時に行なうのは極めて難易度が高い。しかもミオはこれをオンオフ

切り替えて運用し、効果的に瞬間発動を連続させ、持久力を上げている。

 単純に出力上昇率が高い者は幾人か知っているが、ここまでテクニカルな使い方ができる者をグリスミルは知らない。どれ

ほどの研鑽がこの技量を生み出しているのか見当もつかない。

 対して、ミオはグリスミルの技量を落ち付いて分析している。

 青年は元々、中枢直属の士官…エージェントを想定して戦闘訓練を積んでいる。

 それも、ハティが「最初のガルムにして最強のガルム」と評していた、ウル・ガルムを基準に…。

 記憶に残るハティとウルの戦闘を物差しにすれば、グリスミルの力は未熟と言えた。ミオは高みを垣間見ているが故に、多

少の事では動じない。

「小僧…!図に…」

 牙を剥き出しにするハスキー。ゾクリと悪寒を覚えたミオは、反射的にトンファーを胸の前で水平に構える。

「乗るなっ!」

 咆哮するグリスミル。まるでその声に押されるように、ミオの体が後方へ吹き飛んだ。

「うっく…!」

 ザザッと床を擦る足を踏み締め、5メートルほど滑ってから止まったミオは、ヴァルキリーウィングCが発生させた力場の

シールドを解除する。

 何らかの手段による見えない攻撃は、この力場のお陰で直撃を免れる事ができた。だが、直径50センチほどの円形のシー

ルドからはみ出ていた下半身と両肩には軽い痺れが残っている。

(この感触、どこかで…?)

 デジャヴを覚えるミオ。だが、記憶を手繰る前にその視線は通路奥へ向いた。

 その視界が捉えたのは奥から現れた新手…、双子のようにそっくりな、アメリカンショートヘアー二人組。

(ぼくと同タイプ?でも、世代が違う…?)

 自分とも似ているふたりの姿を見て、そのわずかな差異を感じ取るミオ。

 青年が知る自分と同じタイプのクローン達よりも兵器として上等だという事が、、気配の消し方や身のこなしなどから容易

に察せられた。

「エージェント、グリスミル」

「敵増援により、劣勢となっています」

「現在はまだ余裕があります。が」

「遠方の通路から奥へ入り込まれる可能性も」

「また、いくつかの小爆発から爆薬の存在を確認しました」

「携帯者の数は不明です」

 交互に喋る補佐達から喜ばしくない報告を受け、「ちっ…!」と舌打ちするグリスミル。

 さっさとこの裏切り者を始末すべきか、本来の任務を優先すべきか、逡巡は一瞬だった。にわかに聞こえ始めた騒々しい足

音が、相手の増援が到着した事を教えていたので。

「少尉!御無事ですか!?」

 劣勢にあるハンター達を救助しながら前進してきたミューラーが、彼等を纏めて駆け付け、青年の姿を見つけて叫ぶ。

 次いで猪は、壁際で身を寄せ合っているハンター達と、床に倒れている無惨な多数の死体、そしてミオと対峙しているハス

キーや、その奥で顔が良く見えないふたり組を確認し、

「アーレス!ミーヤナッハ!!!」(総員!ワシに続けっ!!!)

 剣を抜き、威嚇の意味も込めて突撃を敢行する。

「面倒な…。殲滅してもいいが…」

 グリスミルはちらりとミオを窺う。

(雑兵だけならまだしも、この小僧とやり合っている最中に横槍が入っては面白くない…)

 屈辱で頭に血を昇らせながら、グリスミルは撤退を決めた。

 ハスキーが身を翻すのを見てミューラーが鼻息を荒くする。

「敵兵は腰砕けだ!押し潰せ!」

「ミューラー特曹!深追いは…」

 危険です。そう告げようとしたミオの声は、半ばで途切れた。

 通路の奥に駆け戻るグリスミルが剣を水平に振る。

 その先で、壁際で身を寄せ合っていたハンター三人が、バツンッという破裂音にも似た異音と同時に、胸の高さで纏めて上

下に両断された。

 無惨に崩れ落ちる惨殺死体。凶暴な笑みを浮かべるハスキー。

 半分口封じ、半分憂さ晴らし。いとも容易く、そしてあくまでも軽く、行きがけの駄賃に命を奪ったグリスミルを睨んだミ

オは、全身の毛をぶわりと逆立てて身を低くし、駆け出す姿勢に入ったが、

「…!」

 グリスミルが再度振るった剣が起爆を指揮したかのように、地下道の天井が突然爆砕される。

「っくぅ…!待て!待たないかっ!」

 粉塵とコンクリート塊が降り注ぐ中、通路の向こうへ消えるグリスミルへ叫ぶミオは、

「少尉!危険ですぞっ!」

 後ろからむにゅっと太い胴に抱えられ、半ば抱っこされるような形で引っ張られて下がる。

 捕まえたミオを抱いたまま姿勢を低くして腕を上げ、細かな破片などから体を張って庇いつつ、ミューラーはふと、腕の中

で青年が震えている事に気が付いた。

 キリリッと、噛み締められた細い歯が軋む。

 悔しさを噛み締めて身を震わせるミオを、轟音と粉塵と悲鳴の中、ミューラーは黙したままギュッと強く抱き締めた。

 気をしっかり持て。

 そう叱咤された気がして、ミオは顔を上げ前を見据える。

 胸から上が無くなったハンター達の死体が、崩落に巻き込まれて消える様が、その瞳に焼き付いた。



 ベッドの上で、青年がすやすやと眠っている。

 ナイトランプの淡い光が朧に陰影をつけたその顔は、中性的と言えるほど整っており、愛らしくも美しい。

 グリスミルとの戦闘で全身を酷使し、スタミナを使い切ったミオは、深い眠りについている。

 細身の体は禁圧を解除した際に目覚ましい機動力を発揮するが、その華奢さ故に、かけられた大きな負荷が肉体を痛めつけ、

過度に消耗させる。

 ハスキーを圧倒したものの、あの状態でいつまでも戦えるわけではない。傍から見れば有利に見えたが、実はそれほど余裕

があったわけではなかった。

 部分的に崩落した地下道の奥でもぬけの殻になった収容施設や詰所、物品保管庫を確認して引き上げた後、ミオは限界を迎

えてホテルへ戻った。

 今回の侵攻ではサラマンダーの奪還こそできなかったが、囚われた監査官は、同時に捕まえられたハンター達の生き残りと

ともに取り戻せた。

 捕らえられてから取り戻すまで時間が短かった事も幸いし、拷問などによって傷つけられる事もなく、各名は捕らわれた時

の負傷で弱っているだけ。重傷ではあるが命に別状はなく、今は病院に収容されている。

 その事で一安心した、というのもミオが休養を選んだ理由の一つでもある。

 サラマンダーやグリスミル達の行方については、捕らえた捕虜を尋問して上手い具合に情報を得られれば、移動先を突き止

めて追跡できる。

 そう結論を出して逸る気を鎮め、上官に経過報告を入れ、尋問の監視をミューラーに任せて帰って来たのだが…。

「少尉…。お疲れだったんですな…」

 そのミューラーは今、隣のベッドに腰掛けて、ミオの顔を食い入るように、息を殺して見詰めている。

 …いや、殺せていない。鼻息が異様に荒い。

 今日の分の尋問の中断に際し、流石にもう勝手に尋問を続行して出し抜こうとは思わないだろうと考えつつも、念の為にあ

の若い監査官の制服に盗聴器を仕込み(注・立派な犯罪で、露見すれば国家間の問題に発展しかねません)、今度勝手に先走っ

たら絶対に手伝わないと脅しをかけてから引き上げてきたミューラーは、

(おいたわしや少尉…。こんな細い体で頑張って…)

 などとしんみり考えつつも、本能なのか性なのか、ミオの首元に手を伸ばして布団を下げ、首元や鎖骨の辺りなど仔細に観

察して唾を飲み込んでいる。

 気が多い上に惚れっぽい中年、フリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長37歳独身。これまでの所属で問題を

起こさなかったのが不思議な男である。

 そんな事などつゆ知らず眠っているミオは、その口元を小さく動かし、寝言を漏らす。

 ビクッと手を引っ込めて背筋を伸ばし、何食わぬ顔をしたミューラーは、耳をそばだてて寝言を聴いていたが、やがてミオ

が目覚めないと確認すると、再度身を乗り出してふぅふぅ言い始めた。



 白い、無限に続く何も無い世界で、ミオはひとり立っている。

 正確に言えば上も下も地面もないので、浮かんでいると言った方が正しいのかもしれない。

「…レディスノウ」

 小さく呟いたミオの、誰も居なかったはずの背後から、くすくすと小さく笑いが零れた。

 振り向いたミオは、そこに髪の長い色白の人間女性の姿を見る。

 もっとも、人間と同じ姿をしているというだけで、人類の範疇に入っていない存在なのだろうという事は、もう理解できて

いるが。

「コプンハーグンまで出張ですか?」

「あら、驚かないのね?」

 ヴェルヅァンディが片眉を悪戯っぽく上げる。「だんだん可愛げがなくなって来たわ」と。

「こうやって何回も繰り返されていれば慣れますよ。誰だって」

 肩を竦めたミオは改めて周囲を見回し、「それで、今回も何か用なんでしょう?」と窺うような視線をヴェルヅァンディに

向け直す。

「用、という程じゃないのよ。念の為の注意喚起に来たといった所かしら」

「黄昏と接触したから…ですか?」

 ミオの言葉に顎を引くヴェルヅァンディ。

「剣を交えて気が付いたと思うけれど、基本性能はあちらの方が上よ。アェインヘリャルの模倣も、形を変えてこんな域まで

来たのね…」

「ええ。性能比べじゃ勝てないでしょうね」

「しかも…」

「気付いてますよ」

 何か言いかけたヴェルヅァンディを、ミオは笑いながら遮った。

「安心してください。ぼくはまだ死なない。「取引き」には、きちんと従います」

 ヴェルヅァンディはしばし黙った後、「本当に、可愛げがなくなって来たわね」と、また片眉を上げて笑みを浮かべた。

「まあ良いわ。相手の事は把握できているようだし、油断もしていない。信用して「前払い」した意味も解っている…。それ

なら結構よ」

「どうも」

「それじゃあ、そろそろ一度目覚めなさいな。…大事な物を奪われない内に…」

 クスリと笑ったヴェルヅァンディに、それはどういう意味かと訊ねようとしたミオだったが、周囲の白に視界も、意識も、

感覚も飲み込まれてゆき…。



 目を開けたミオは、眼前に迫ったミューラーの顔を視界一杯に捉えた。

「…ミューラー特曹…?」

「あうぉわやうぇいっ!?」

 覗き込むようにして顔を近づけていた猪は、驚きのあまり意味不明の叫びを発しつつ、寝惚け眼の猫の上から慌てて身を退

ける。

 小さく頭を振りながら身を起こしたミオは、「あ」と何かに気付いたように声を漏らし、ミューラーをビクつかせた。

「もしかしてぼく、うなされてました?」

「え!?あ、あ、あぁ〜…、ま、まぁ少し…!」

「済みません心配かけて…」

 耳を寝せながらペコリと頭を下げるミオの態度で、辛抱堪らなくなって寝ている間に唇を奪おうとしていたミューラーの分

厚い胸がグサグサ突き刺されて痛む。

 そんな猪の内心に気付く事も無く、ミオは時計を見遣って随分時間が経っていた事を確認する。

(大事な物を奪われない内に…。あ)

 あれは時間の事か、とヴェルヅァンディのサービス的警告を自分なりに解釈したミオは、筋肉がまだ張っている体の調子と

気怠さを確認しつつ、ミューラーに現状の説明を求めた。

 そしてひととおり話を聞くと、猪が独断で仕掛けた盗聴器の事は責めもせず、むしろ「流石です」と褒めさえする。

 元々ミオが欲しかったのは、単に言われた事をそつなくこなすだけの人材ではなく、時にルールを無視してでも効果的な働

きをして成果を上げられるような、高度な駆け引きもこなせる経験豊富な人物だった。ミューラーはその点で実に好ましい人

材と言える。

 猪の対応に満足したミオは、

「装備のチェックをしておかないと…。先にシャワーを浴びてきます。ここからはしばらくぼくが起きていますから、ミュー

ラーさんは休んで下さい」

 と猪を促し、シャワールームに入った。

 「ごゆっくり」と見送ったミューラーは、ミオが全く気付かなかったのでホッとしつつ、「惜しかった…」と呟く。

 そして、勝手にキスしようとした雰囲気酔いと股間の昂ぶりが静まっていない猪は、ミオがシャワールームに入ったのを良

い事にいそいそとガウンの前を開き、トランクスを下ろして股間を露出させた。

 基本的にミオの風呂は長めである。綺麗好きな上に、弱音こそ吐かないものの、細い体は寒さにあまり強くない。よく洗っ

て温め、強張りを解すのが常。

 その事がそろそろ判って来たミューラーは、この長い猶予時間を有効活用する事にした。懲りない猪である。

 ミオが寝ていたベッドの脇で床に跪き、横から覆い被さって鼻面を寄せ、豚っ鼻をフゴフゴ鳴らして匂いを嗅ぐ。

 普段より微かに濃い体臭は作戦行動中に体を酷使し、汗をかいたせいだろうか。

 細くしなやかな肢体が汗で微かに湿り、そのきめ細かな被毛がしとっと湿り気を帯びて寝て、体のラインが浮き上がる様を

想像したミューラーは…。

「ふご…、ふごっ…!」

 興奮して荒らげた、湿り気を帯びた息でシーツをしっとりさせた。

 ベッドに胸を預ける格好で被さったミューラーは、そのボヨンと丸みを帯びた出っ腹の下で、太く短い逸物をいきり立たせ

ている。

 軍属とはいえ種族柄肥りやすく、加えて食生活と歳弛みもあってミューラーの腹周りは脂肪が厚く、下の筋組織に押されて

張り出している。その太鼓腹が、逸物を握ったごつい手のピストン運動で、ベット共々揺れ始めた。

「しょ、少尉っ!いけません少尉っ!あっ!そ、そんな所…!」

 例によってイメージプレイ中のフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長37歳独身。今回は迫って来たミオが

仰向けの自分の秘部に顔を埋め、肉棒を口で愛撫しているという図式。線の細い首が、大きく顎を開いたせいで筋張って見え

て、無理な姿勢から華奢さが際立って見える。

 ビクンビクンと脈打つミューラーの肉棒。充血して膨れた鈴口は膨大な先走りでヌトヌトに濡れ、パツンパツンに張っては

ち切れんばかり。

 いよいよ盛り上がって来て、陰茎の付け根からジンジンと、くり返しくり返し刺激が亀頭へ押し寄せる。

「はっ!はふっ!しょ…、少尉…!」

「はい?」

 呻きに応える予想外の声。

 ビクンと背筋を伸ばして固まるミューラー。

 ギギギッと首を巡らせれば、シャワールームのドアを細く開け、タオルを被った頭を覗かせている細いアメショ。

 疲れが残っている実感があったミオは、長くシャワーを浴びるのはやめ、手早く流すだけに留めていた。

(終わった…)

 色んな物が終焉を迎えた気分で頭が真っ白になる猪。

 しかし…。

「あ。済みません。シーツまで直して貰っちゃって…」

 ベッド脇で屈んでいるミューラーの体が向こうをむいている事もあり、丸出しの股間にも気付いていないので、ミオは猪の

様子を全く不審に思わず、親切にも寝乱れたベッドを直してくれていたのだと勘違いした。

「あ、いや、その、それは、まぁ」

 またキョドる猪。だがしかし、その下手くそな取り繕いもミオの疑惑を招くには至らなかった。

 微苦笑を浮かべたミオが顔を引っ込めて着替え始めると、ミューラーは、

(あぶなかった!あぶなかった!)

 背中や首周りで冷や汗をダラダラ流しながらコソコソとパンツを引き上げてガウンを戻し、シーツをピシッと整えた。