Evolution of White disaster (act1)

黄色い月が光を投げ落とす、広大な埋め立て地。

寒空の下で凍て付いたその地面を、数トンの加重にも耐えうる分厚い靴底を備えたブーツが、シャリッと音を立てて踏み締

める。

夜に紛れる大きな影は、遺棄された建物が並ぶ広い土地を、薄紅い瞳で見回した。

大きな影は、埋め立て地を吹き抜ける凍て付きそうに冷たい夜風も意に介さず、濃紺のジャケットの袖を肘までまくり上げ、

前を大きく開けて身に付けており、胸元では同色のアンダーウェアが剥き出しになっている。

丸太のように太い脚に黒と蒼の迷彩カーゴパンツを穿いたその巨漢は、真っ白い被毛に包まれた熊であった。

極めて大柄ではあるが、その顔立ちはまだ若い。手足のみならず首も胴も丸々太く、腹はぽっこり丸く突き出ている。

丸々と太った体型だが、剥き出しの白い腕などでは、発達した筋肉が被毛を押し上げていた。

全長150センチはある、両刃の穂先を備えた槍を左手に持ち、肩に担いだ白熊は、傍らで屈んでいる男に声をかけた。

「今日はかなり冷え込んでるっスけど、平気っスか?」

屈み込んで地面を調べていた、三十になったかどうかという年頃の人間の男は、口元を微かに綻ばせた。

「腕まくりしている君に気遣われるというのも、何だか妙な具合だな」

「そこはホラ、オレ達は生まれつき寒冷地仕様っスから」

細長いバッグを背に斜めに担いだ、切れ長の目をした人間の男は、ゆっくりと身を起こすと、前方、かなり先に建つ三階建

ての建造物を見遣る。

元は工場らしきその建物は、ガラスは割れ、壁面にはあちこちヒビが入り、長らく放置されたままだという事が窺えた。

「足跡は三つ…、三人だけと見たが、どうだい?」

「同意見っス」

白熊が頷くと、男は背負ったバッグのベルトを掴み、足を踏み出した。

「応援を呼ぶまでもないだろう。このまま追うとしようか」

「了解っス!」

白熊は男と並んで歩き出しながら、表情を引き締めて応じた。

若い白熊の名はアルビオン・オールグッド。

本来は、首都を活動の場とする国内最大の調停者チーム、ブルーティッシュの所属なのだが、現在は訳あって東北のとある

町、東護町に滞在している。

人間の男の方もまた調停者で、名を長瀬冬也(ながせとうや)と言う。

若いながらも腕は確か、経験も豊富な調停者で、年末の事件で壊滅的な被害を被った調停者達が纏まって結成された、一時

的な連合チームを率いる顔役の一人でもある。

聖夜に起こったその事件で、この町の調停者の大半が殉職し、生き延びた者の殆ども重傷を負った。

事件から一ヶ月以上経ったとはいえ、復帰できていない負傷者が大半であり、どこのチームもまともに機能できていない。

そんな、調停が必要な事件が起こっても、対応に苦しむような悪状況を打開すべく、この町の調停者達は、異例とも言える

判断を下した。

それは、各チームの生き残りが寄り集まり、一時的に一つのチームとして活動する…。いわゆる、一時的な調停者チーム集

合体を作り出したのである。

「病み上がりなんだ。無理はしてくれるなよ?」

「うス。気を付けるっス」

「しかし大変だな君も…。学校にも行きたいだろうに」

「ぶっちゃけ退学できた方が良いんスけどね…」

気遣うトウヤに応じたアルは、半ば本気で発言している。

アルもまた、その事件で生死の境を彷徨うほどの重傷を負い、入院治療を受けていた一人である。

高校二年生であり、本来であれば首都に戻って学業に勤しまなければならないのではあるが、事情が事情なので現在は休学

し、こちらで現地の調停者達に協力する事になったのである。

その事に関して、勉強嫌いの本人は割と喜んでいたりもするのだが…。

「…学校は嫌いなのかい?」

「嫌いだったっスね。今はそうでもないっスけど、やっぱり楽しいとは感じてないっス」

「そう言えば首都の学校か。やはり獣人差別の…、っと…」

目の前の白熊も被差別経験者かもしれない。

そう思ったトウヤは、軽々しく口にすべき事ではないと、慌てて言葉を切った。

気まずそうに口をつぐんだトウヤを横目で見遣ると、アルは苦笑いしながら頭を掻く。

「正直言うとソレもあったっス。けど、今はもう吹っ切れたっスよ。それに、オレの方も人間をエロ眼鏡で見てたっていうの

もあったっスから」

「…色眼鏡?」

「…ソレっスね…」

建物に少し近付いた二人は、会話を中断した。

「私は裏手へ。君は横のシャッターから。良いか?」

「らじゃーっス!」

二人は小声で囁き交わすと、それぞれ移動を始め、建物の横手と裏へ回り込んだ。



建物の横手に回り込んだアルは、暗闇に聳える工場を見上げる。

雨染みがくっきりと跡を残す壁面。所々割れている窓は、一つも明かりを灯してはいない。

建物の死骸。そんな言葉が白熊の頭に思い浮かんだ。

アルは中の気配を伺いながら、元は機材等の搬入出に使用されていたのであろうシャッターに歩み寄る。

下が1メートル程開いたままになっているシャッターの下を、アルは殆ど腹ばいになって通り抜けた。

入り込んだシャッター内部はだだっ広い空間になっており、アルはそこが作業場だったらしいと目星をつける。

元は機材等が設置されていたのか、コンクリートの床には幾何学模様のように窪んだ溝が切られており、足場の名残なのか、

錆び付いた鉄板が所々で、埃の積もった床にボルトで直止めしてある。

埃と錆の匂い、加えて古くなった油の匂いにひかれて首を巡らせれば、作業場の片隅には、鉄板に穴をあける機械がいくつ

か遺棄されていた。

本来はドリルを持つ、机と巨大ミシンが一体化したような削鉄機は、すでに赤茶けた四角い塊と化している。

目を懲らして埃の積もった床を見つめたアルは、うっすらと数人分の靴跡が残っている事に気付き、気を引き締める。

足跡が残っている埃が堆積した床を注意深く見つめながら、アルはそれを辿って奥へと進み始めた。

足跡が続く先には、コンクリートの壁面にポッカリとあいた四角い穴。

元はドアがあったのだが、今は蝶番だけを残して向こう側へ倒れ、足踏みマットのようになっている。

左手に持つ手槍をしっかりと握り直し、気配を伺いながら慎重に通路を覗く。

遮る物が殆ど無い、だだっ広い埋め立て地を吹き渡って来た海風が、割れた窓から僅かに吹き込み、通路を通り抜けてゆく。

その中に混じる匂いに、白熊は気が付いた。

白いマズルの先についた、黒い湿った鼻がスンスンと鳴らされ、埃とも錆とも機械油とも違う、人為的に調合された整髪料

等の匂いを嗅ぎ取る。

風は通路の突き当たり、階段を下って来ている事を確認すると、アルは階上を目指して足を進め始めた。

足音を殺して歩を進める白熊は、左手に握った槍に視線を向け、胸の内で呟く。

(頼むから、ちゃんと言う事聞くんスよ?ブリューナク…)

二ヶ月前に刃を交えた竜人が使用していた、かつて自身を貫いたレリックウェポンを手に、アルは復帰後の第一戦に臨む。



階段を登り切ったアルは、微かな物音を耳にして動きを止めた。

長い通路の奥、側面にいくつも並んだ部屋の一つから、その音は聞こえている。

それは、低く押し殺された、何者かが囁き交わす声であった。

「…それで、いくらだ…?」

「…そうだな…、…ぐらいでどうかな?」

「…高過ぎる…!そもそも、聞いたような戦力になるのかどうか…」

「信じる信じないはそちら次第だ。要らないのならば他に売るだけの事…」

息を殺し、足音を潜ませて部屋に近付いた白熊は、まだ残っていたドアが細く開いた隙間から、薄紅い瞳で内部を覗く。

窓から差し込む黄色い月明かりが、室内の三人の姿をぼうっと浮かび上がらせていた。

囁き交わしているのは、入り口に背を向けたロングコートを纏う二人の男と、部屋の奥側、窓に背を向けて立つ、黒いジャ

ケットにジーンズという動きやすそうな格好の中年男。三人とも人間である。

が、最もアルの注意を引いたのは、男達でも、その会話の中身でもなかった。

部屋の奥に立つ男の横には、金属製の筒が寝かせてあった。

かなり大きいそれは、長さ150センチ、直径40センチ程もある。

(インセクトフォームの運搬カプセルに似てるっス…。でも、それにしちゃあちっこいっスね?)

眉を顰めて思案するアルは、気配を感じて視線を動かす。

アルが侵入したのとは別の方向から、トウヤが音もなく歩み寄ってきた。

白熊は目配せすると、ドアの前から少し引き、トウヤが入れ替わりで中を覗く。

(確認できた限りは、伏兵、トラップ、共に無しだ)

(こっちも無しっス。部屋の中の連中だけみたいっスね)

(では、このまま制圧する)

(了解っス!)

調停者間で用いられる手信号で意思確認を行うと、トウヤは横に退き、脇に抱えたバッグのビニールファスナーを音を立て

ずに引き開ける。

アルは少し下がって背を丸めると、加速を付けて大きく踏み込んだ。

分厚いブーツの底がドアを蹴り、蝶番が弾ける。

体重を十分に乗せたけんかキックでドアを蹴破ったアルは、男達が驚いて振り向いたその時には、その距離を半分ほどに縮

めていた。

蹴られた位置から上下二つに割れたドアが、男達と白熊の間で簡単な目隠しになる。

アルから見て右手側に居た男が、慌てながらも懐に手を突っ込み、拳銃を抜き出す。

が、引き抜かれたその拳銃は、構えられるよりも早くに、ガィンッという音を立てて手から弾け飛んでいる。

突入したアルの後方、膝立ちの姿勢でマットブラックに塗装されたアサルトライフルを構えたトウヤは、精密かつ素早い射

撃で男が手にした拳銃を弾き飛ばしてのけた。

左手側の男に一気に詰め寄ったアルは、男が銃を抜くと同時に、両手持ちにした槍を左から右へと素早く薙いだ。

男の手の中で、銃の上半分が綺麗に切断され、宙に飛ぶ。

(うわ…!もの凄い切れ味っスねこれ…!)

ブリューナクの穂先が備えた切れ味に軽く驚きながら、アルは振り切った槍を器用に縦回転させた。

腕を交差させる状態で反転させた槍を、白熊は逆手に握った状態で突き出す。

石突きを鋭く鳩尾に突き込まれた男は、「ぐぇっ!」と苦鳴を漏らしてくずおれた。

白熊はその後も動きを止めず、銃を弾かれて痺れた手を押さえている男めがけ、反転させた槍を振るう。

穂先のやや手前、柄の部分で首の後ろをストンと叩かれた男は、脳を揺さぶられて気絶し、顔から床に突っ伏した。

アルが障害を排除したその時には、トウヤは紫煙がたなびくライフルの銃口を、奥に居る黒いジャケットを着た男の眉間へ

向けている。

「調停者だ。危険生物の非合法取引の咎で、お前達を捕縛する。抵抗は止めておけ」

黒いジャケットを着た男は、降参を示すようにそろそろと両手を上げる。

その口元が、微かに笑みを浮かべた。

油断無く身構えていたアルは、上げられたその両手が指の間に挟み込むようにして何かを持っている事に気付き、声を上げる。

「トウヤさん!コイツ何か持ってるっス!」

アルの警告と同時に、男の両手が閃光を発した。

「っく!?しまっ…!」

男の両手の指の間に挟み込まれていた、マッチ棒程のサイズの発光装置の強烈な閃光で目をやられたトウヤは、室内に居る

アルを誤射してしまう事を怖れ、引き金を引けない。

いち早く目を閉じて難を逃れたアルは、男が破れた窓を振り返っているのを目にし、脱出を阻止すべくグッと身を屈めた。

脚力のリミッターを解除し、床を蹴ったアルは、

「逃がさないっスよ!…って、あれ?」

男が駆け寄る前に窓に到達していた。それどころか、宙に浮いた状態で窓から顔を突き出している。

(あれ?あれ!?な、なんスかこれ!?)

出力制限が解除された脚が、自分が予想もしていなかった加速を行い、制動をかけ損ねたアルは、

「ぎゃースっ!」

勢い余って、そのまま窓の外へと消えていった。



「…で、男は窓伝いに隣の部屋へ移動、脱出したらしい、と…」

「申し訳ありません…」

交番の地下、取調室内で行われている監査において、トウヤは担当監査官に頭を下げて詫びた。

「やっぱり、まだ本調子じゃ無いんだろうアル?」

アルとトウヤから報告を受けて監査をおこなった太めの警官は、ペンの尻で頬を掻きながら言った。

「入院生活でなまってるんスかねぇ?…とにかく面目ないっス…。今回のは完全にオレのヘマっス…」

「いや、私も迂闊だった…、先に気付いた君の手柄だよ。一対一なら、視力を奪われた私はやばかった」

申し訳なさそうに体を縮め、椅子に軋みを上げさせながら身じろぎしたアルを、トウヤは気遣ってフォローする。

しかしアルは、彼の言葉が半分はウソである事に気付いていた。

一対一の状況ならば、トウヤは迷う事無く発砲していた。

アルが居たからこそ銃撃を躊躇い、結果、男を取り逃がしてしまったのである。

トウヤが自分を庇って言ってくれているのが、アルには良く判っていた。

「確保したケースは空っぽのダミー…。売り手は逃亡…。復帰一発目から大失態っス…」

ガックリ項垂れてため息をついたアルに、監査官である種島和輝(たねじまかずき)は笑いかける。

「ま、無理せずに体を慣らしていけ。ただでさえ貴重な戦力なんだ、怪我で再入院にでもなったら困るし、ブルーティッシュ

にも申し訳が立たんよ。判ったな?」

「うス…」

励ますようなその言葉でも、アルの気分が晴れる事は無かった。



「ただいま〜っス」

鍵を開けて入った玄関で屈み込み、靴紐を解きながら白熊が声を上げる。

「おかえりアル君。どうだったかな?復帰戦は」

「にゃ〜ぉ」

口々に労いの声をかけながら玄関に迎えに出たのは、作務衣にエプロンという格好の山のような赤銅色の巨熊と、赤い首輪

をした白猫。

東護町滞在中の宿泊場所としてアルが利用しているのは、カルマトライブ調停事務所であった。

現在は行方不明となっている二人の留守を預かる意味も含め、短期間ながらユウヒが管理をおこなっている。

靴を脱ぎ終えて玄関から上がりながら、アルは小さくため息をついた。

「…大失態…やらかしたっス…」

「そうか…」

ユウヒはしょぼくれたアルの様子を見ながら顎を引いて頷くと、踵を返してリビングへ向かった。

「疲れただろう?すぐに軽食の支度ができる、少し待ってくれぬか」

肩を落としながらユウヒの後ろに従って歩き出したアルの足下で、その顔を見上げた白猫が、慰めるように「なおぅ…」と

一声鳴いた。



「…はぁ〜…」

床暖房で温まったフローリングの床に仰向けに寝転がったアルは、力無くため息を漏らした。

その傍らに歩み寄り、慰めるように顔を覗き込んだ白猫を、アルは両手を腋の下に入れる形でヒョイっと抱き上げる。

「マユちゃ〜ん…、オレ復帰早々大失敗しちゃったっスよぉう…」

しょぼくれた様子でそう呟くアルの顔を、マユミは赤い瞳で見つめる。

白い体に赤い瞳。自分と同じカラーリングのこの猫を、アルは大層気に入っている。

その白猫の正体が、今は存在しない巨大な組織の令嬢であった事も、かつて自分が出会っている事にも気付かぬままに。

昨年この町で起こったある事件。アルがユウトとタケシの二人と初めて顔を合わせたその事件の際に、この白猫は居場所を

失った。

それ以後は、この事務所やタネジマ監査官のアパート等に出没しているものの、基本的には野良活動をしている。

夏の間に滞在していた頃から顔を合わせているので、アルにとっては、ある意味この町の数少ない知り合いの一名と言えた。

アルはまた「はふぅ…」と、ため息を零し、こんもりと盛り上がった腹の上にマユミを下ろした。

白熊の丸い腹の上にチョコンとお座りしたマユミは、慰めようにも言葉をかける事もできない自分を歯痒く感じながら、労

るように細めた目でアルの顔を眺める。

やがて、リビングと一続きになっているキッチンから盆を手にしたユウヒが戻って来ると、アルはマユミが腹の上から転げ

落ちないよう、再び抱き上げながら身を起こした。

竹串に刺してこんがり焼いたニンニクや、味噌を塗って焼いたおにぎり、それにシジミ汁などを夜食としてあてがわれたア

ルは、テーブルを挟んで向き合って座り、タコワサをつまみに晩酌しているユウヒに、今夜の失敗の事を打ち明けた。

「なんかこう…、急に目の前に窓が!…みたいな感じだったっス…。ビックリして体勢直す事もできなかったっス…」

「ふむ…。禁圧解除をおこなったのは、完治後初めてだったか…」

顎をさすりつつ思案するように目を細めた巨熊に、アルは香ばしい焼きおにぎりを頬張りながら頷く。

傷が癒え、退院後に始めたユウヒとのリハビリ兼トレーニングでも、アルは禁圧解除をおこなっていない。

体に負担がかかるという理由から、なるべく使うなと言ったユウヒの忠告を、素直に守っていたのである。

「入院前よりも体の調子が良いような気がする…。と、以前言っていたかな?」

「うス。あんなにたっぷり休んだのなんて久々っスからねぇ…」

長い休暇で溜まっていた疲れも吹っ飛んだのだろう。

そう思いながらうんうん頷いたアルの前で、ユウヒは杯を持った手を机の上に置いたまま、しばし何事かを黙考していた。

「…つかぬ事を訊くが、君は涅槃の平原という物は知っておるかな?」

ニンニク串を頬張っていたアルは、「むぐ?」首を傾げる。

「ふむ、そうか…」

「ふぁんふぁんふはふぉえ?」

「伝え、覚えておる者ももはや少なくなったが、古くはこの国の獣人に広く伝わっておった、いわゆる死したる後の世の概念

の一つだ」

話に興味を覚えたアルは、口の中の物を飲み込むと、詳しく聞きたいとユウヒにせがんだ。

「死した後、我等の意識は色のない、黒白の草原へと行き着く。そこにはあちらに居る親しき者が迎えに来てくれており、そ

の者に導かれてあの世へ至るという…」

ユウヒは耳を傾けるアルに、涅槃の草原の言い伝えを、分かり易いよう噛み砕いて話して聞かせた。

「不思議な事に、海を渡った向こうの国々でも似たような伝承が多々あるらしい。まぁ、人間に伝わる三途の川の話と似たよ

うな伝承だな」

そう話を締めくくったユウヒは、箸を止めて黙り込んでいるアルの顔を見つめた。

若い白熊はユウヒの話の途中から机の上に視線を向けており、今もじっと何かを考え込んでいた。

「…やはり、君は涅槃を覗いていたのだな…」

「…かも知れないっス…」

以前聞かされたならば、一種の御伽話か迷信だと判断していたはずの不思議な話ではあったが、実際に体験したアルは考えた。

若くして他界した母と、自分を一回り大きくしたような金眼の白熊と出会い、言葉を交わしたあの夢は、ただの夢では無かっ

たのかもしれないと。

「…例えば…、実際には会ったことが無いひとでも、迎えに来てくれるんスかね…?」

「さて…。だが、本人が知らなくとも、会いたいと思う者は迎えに来るであろうな。あるいは…」

ユウヒは言葉を切り、アルの顔を映す目を優しげに細めた。

「…そう、あるいは…、「生きろ」と、追い返す為に…」

「…生きろ…」

小声で呟いたアルは、静かに目を閉じた。

「…誰にも、言わないでくれるっス?特に、リーダーとネネさんには…」

「ふむ?」

目を開けたアルは、困っているような微かな笑みを浮かべた。

「親を恋しがってるとか、勘違いされたくないんス。マユちゃんも、誰にも言っちゃダメっスよ?」

ソファーの上で丸くなっている白猫へと、照れ隠しに視線を走らせたアルは、

「病院で目が覚める前の事っス。眠ってるんだか気絶してるんだか判らないっスけど、意識が無かったオレは…」

ユウヒとマユミが見守る前で、母と、そして初めて顔を見た父と出会った、不思議な平原での出来事を語り始めた。



ジャケットにジーンズという格好の中年の男が、街灯もまばらな薄暗い路地を歩む。

工場や倉庫の建ち並ぶその界隈は住宅街にほど近く、日中はそこそこ人通りも多い。

だが、深夜となれば一転して人通りは途絶え、闇に閉ざされた寂しい通りに様変わりする。

その寒々しく足下もおぼつかない闇の中を、男は躊躇う様子も無く歩んでゆく。

そして、とある廃工場の前で足を止めると、素早く周囲を窺い、施錠されている錆び付いた門を乗り越えにかかった。

高さ2メートルはある赤錆の浮いた門の上に手をかけ、身軽な動きでひらりと飛び越えた男は、僅かに膝と腰を曲げて殆ど

音もなく着地する。

見る者が見ればそう判る、洗練され、そして慣れた動作であった。

男は再び周囲を見回すと、静かに素早く敷地の隅へ向かい、コンクリートのたたきにはめ込まれた鉄製の蓋を持ち上げる。

一見排水設備か何かに見えるその暗がりに飛び降りた男は、下から蓋を持ち上げ、元に戻した。

完全な闇の中に身を沈めた男は、懐から取り出した小さなガラス玉のような物を放る。

すると、透明な玉は落下する事無く、男の胸ほどの高さで宙に静止し、弱い光を放ち始めた。

光量を抑えたクリスタルに照らし出されたのは、一辺2メートル程の正立方体の空間。

コンクリートに囲まれて淀んだ空気に満ちた、古墳の石室を思わせるその空間で、屈み込んだ男は右手の人差し指で足下の

床に触れる。

すると、カコンと小さな音を立てて、床の一部が僅かに沈み込んだ。

継ぎ目は全く見えなかったが、一辺1センチ程のスイッチになっていたその部分は男が手を離すと浮き上がり、元通りに床

と一体化する。

男が身を起こしている間に、四方を囲んでいるコンクリートの壁の一ヵ所が奥へ引っ込み、さらに横へスライドし、地下へ

降りてゆく階段が現れる。

壁にポッカリとあいた横穴を潜った男が内側の壁に手を触れると、壁は元通りに塞がり、継ぎ目の無いコンクリートに戻った。

階段を降りてゆきながら、男はいつものように感心していた。

ここは男が用意した施設ではない。かつて東護町にも支部を持っていたある組織が、戦力を潜伏させておく為に用意した施

設である。

数年前に遺棄された場所だが、昨年にはラグナロクも、商売相手である東護の組織からこういった埋没施設をいくつか借り

受けて利用していた。

ここは、そういったラグナロクの戦力庫の一つとして利用されていた内の一ヵ所である。

長い階段を降りきった男は、十数分もの間入り組んだ地下通路を歩き、やがて扉を押し開けて、薄暗くて広い空洞に出る。

高さ5メートル程、奥行き30メートル程、幅は10メートル程の長方形の空間は、左右の壁にズラリとカプセルが並べら

れていた。

それらは、埋め立て地の廃工場での取引に持ち出されていた物と良く似ている。

ただし、持ち出された物よりもかなり大きく、長さは2メートル程、直径は1メートル近いずんぐりとした形状になっていた。

「…やれやれ、何処から漏れたのか…。念のためにダミーを運んでおいて正解だったな…」

取引現場にあらかじめ運び込んでおいた筒は、元々空っぽであった。

邪魔が入った場合、あるいは取引相手が強硬な手段に出た場合に備えての事である。

交渉が成立した場合は改めて本物を渡すつもりだったのだが、用心しておいて正解だったと、男はほくそ笑む。

無人の空間に靴音を響かせて奥へと歩みながら、男は手近な金属製の筒を覗き込んだ。

筒の前面に覗き窓のようについたガラスには霜がはっており、中は良く見えない。せいぜい黒い何かが入っているのが判る

程度である。

左右の壁際に並べられた筒の数は二十四。その間をゆっくりと歩んだ男は、突き当たりの壁に置いてある小振りな筒の前で

足を止めた。

その筒一つだけは、取引で利用された筒と同じサイズであり、全高は男の身長よりも低い。

他の筒と比較して温度がさほど低く設定されていないのか、その筒の薄く曇った窓からは、中に入っている物がかなりはっ

きりと見えた。

やや長めのサラサラとした細い黒髪に、顎の尖った細面の童顔。それは、人間の男の子であった。

静かに胸を上下させながら眠っている少年の顔をガラス越しに眺め、男は笑みを深める。

「適正価格で売却できなければ、危険を冒して持ち出した甲斐が無いからな…」



「んじゃ、ユウヒさん、マユちゃん、おやすみなさいっス!」

食事と入浴を終えたアルは、リビングで晩酌をしているユウヒと、ソファーに寝そべっているマユミに声をかけた。

まだ寒い時期にも関わらず、アルの寝間着は自前のトランクスと、ユウヒから借りた甚平の上だけという薄着である。

大柄なアルが着てもなおユウヒの甚平は大きく、かなりゆったりした着こなしになっていた。

「うむ。久々に動いた事だ、ゆっくり体を休めなさい」

「にゃ〜ぅ」

アルがリビングを出て、夏にも使っていた客用個室へ向かうと、ソファーの上から床に降りたマユミは、赤銅色の巨熊の傍

らに移動した。

自分の顔を見上げたマユミに、ユウヒは顎を引いて「ふむ」と頷く。

「何も好奇心からあの様な事を尋ねた訳ではないのだ。涅槃を覗いた者の身には、時に大きな変化が生じる場合があるのでな…」

ユウヒは言葉を繰れぬマユミの意図を汲み取り、そう説明した。

「アル君には明日の修練の際に説明し、確かめようと思うのだが、マユミさんには今の内に話しておこう」

小さく鳴いて返事をしたマユミに、ユウヒはアルに生じた変化について、自分なりの推測を話し始めた。



ベッドの上に寝転がったアルは、ここ数日の生活を振り返っていた。

日中はユウヒに相手をして貰い、鈍った体を本調子に戻し、勘を取り戻すべくトレーニングに打ち込む。

学校が終わる時間になれば、アケミが差し入れを持って訪れるので、ユウヒやマユミを交えて過ごすか、あるいは一緒に少

し出かける。

一人だけ冬休みが続いているような状況なので、クリスマスに東護にやって来た時に予定していたような、数日丸々一緒に

過ごすような事はできないものの、アルにしてみればアケミと共に過ごす時間は、十分過ぎる程に幸せなものだった。

「楽しんでばっか、いられないんスけどね…。リーダー達、今頃大変だろうし…」

天井を見つめたままボソッと呟いたアルは、居なくなってしまった者達や、おそらくは今も首都を駆け回っているはずの仲

間達の事に思いを馳せ、沈痛な表情を浮かべた。

「一体、何処で何してるんスか…?…ユウトさん…タケシさん…」



翌日の朝食後、事務所の地下にある修練場に足を運んだユウヒは、ここ数日いつもそうしているように、2メートル程の距

離をとってアルと向き合った。

「さて…。今日は禁圧解除を交えての修練としたい。まずはこれまで通りに体をほぐそうか。加減は無用、遠慮無く打ち込ん

で来なさい」

ユウヒの言葉に顎を引いて短く頷くと、アルは両拳を顎の下に構え、左足を少し引いてファイティングポーズをとる。

サウスポーのボクサーの構えにも似たそのスタイルは、素手の戦闘が本分でない割には堂に入っている。

それというのも、様々な武器の扱いと共に徒手空拳での戦闘もダウドからみっちり叩き込まれてきたせいである。

「では、始めよう」

ユウヒの言葉と同時に、アルは太めの巨体を揺すって軽快なフットワークを見せ、素早く前進した。

アルとは対照的に、ユウヒは構えもせずに両腕を体の横に下ろしたままである。

が、間合いを詰めたアルの右手が繰り出す、顎先を狙った鋭いジャブは、瞬き一つの間に持ち上がったユウヒの左手に阻ま

れた。

広い手の平に当たり、ジャブがスパンッと音を立てると、アルは素早く引いた右拳を再び繰り出す。

角度を変え、今度は胸元へと繰り出されたジャブは、再びユウヒの手に阻まれて小気味の良い音を立てた。

二度のジャブに続いて放たれた左ストレートは、今度は受け止められる事無く、ユウヒの右手で僅かに横へいなされる。

微かに横へ流れた上体を立て直し、身を捻って繰り出した左のボディブローは、またしても赤銅色の手に遮られた。

アルが繰り出す拳や蹴りが、次々とユウヒにいなされてゆく。そして、その動きは徐々に速くなっていった。

初めはアルが攻撃をしかけ、ユウヒがそれをいなしていたが、動きが速くなるにつれて変化が起こる。

アルの攻撃と、ユウヒの防御が同時になり、やがてユウヒの差し出した手がアルの先を行くようになる。

先読みしたユウヒが出す手に打ち込むような形で、アルは誘われるようにさらに動きを速めてゆく。

息を弾ませながらも軽快なフットワークを維持して打ちかかるアルを、半歩ずれ、あるいは少し後退しながら、ユウヒは導

いてゆく。

まるで力が引き出されて行くような不思議な高揚感を覚えながら、アルは夢中になってユウヒに追い縋り、打ち込む。

ユウヒとの修練は、アルにしてみれば楽しい物であった。

底の知れないこの巨漢の動きに導かれ、アルは自分でも意図していない姿勢からの攻撃や、体勢の立て直しを学んでいる。

ユウヒはこのトレーニング方法を「呼び水」と称していた。

涸れ井戸に水を注ぎ込んで涸れた水脈を開通させるように、刺激を与える事で反応や技の引き出しを増やしてゆく修練。

かつて妹がまだ子供で、未熟だった頃に施していたその修練を、今ユウヒは若き白熊に施している。

腹筋台の上にチョコンと座り、稽古の様子を見物していた白猫は、

(達人は、誰かを鍛える技術もまた達人なのですね)

楽しげに体を動かす二人を興味深そうに眺めながら、しなやかな尻尾をゆるやかに振りつつ、そんな事を考えていた。

やがてユウヒは、アルが脇を締めて繰り出した強烈なボディブローをパシッと掴み止める事で中断の意図を伝えた。

肩を上下させ、呼吸を弾ませるアルの顔を見下ろし、体は十分にほぐれたと判断したユウヒが口を開く。

「では、少し様子を見てみよう。禁圧解除を交えて、これまでと同じく打ち込んできなさい」

「うス!」

元気よく返事をしたアルは、再び最初と同じ間合いに戻ると、身構えつつ意識を集中させた。

そして脳が体に施している出力制限を意図的に強制解除する。

リミッターを解除しての限界出力で、アルの太い脚がその巨躯を前へと跳ね飛ばす。

「あ!?」

その直後、アルは予想以上の初速が出た事で驚き、急停止しようとしたが、叶わずに前のめりになる。

「もぶふっ!」

体勢を崩し、ユウヒに正面から飛び込むように接近したアルは、その太鼓腹に顔から突っ込む形で抱き止められた。

僅かにも後退せずアルを受け止めたユウヒは、「やはりか…」と、思案するように眼を細めて呟いた。



「体に頭がついてって無い?…どういう事っスか?ソレって…?」

二人で床に胡座をかき、向き合って座ったユウヒに、アルは首を傾げて尋ねた。

「おそらくは、禁圧解除で向上した体の性能に、頭の方が対応できていないのだ」

太い腕を胸の前で組んだユウヒは、首を傾げたままのアルに説明を始めた。

「禁圧とは、すなわち脳が体に施す枷。つまりは出力制限の事。身体への過剰な負荷を避ける為に備わっている物とされるが、

同時にこれは、脳が御し切れぬ程の力を体が発揮してしまわぬようにするための物でもあるのだ」

勉強嫌いのアルだが、この話は興味深かったらしく、耳をピンと立てて聞き入っている。

「昨夜は涅槃の草原に関わる話をしたが、あれにも理由があってな。君が涅槃を覗いた者かどうか、確認したかったのだ。話

は少しとぶが、しばし聞いて貰えるかな?」

アルが頷くと、ユウヒは涅槃の草原について話した理由から説明を始める。

臨死体験などの際に涅槃の草原を覗いた獣人は、その能力が高まる傾向がある。

ある者は身体能力が、またある者は五感が、それまでと比較して高まっている事があるのだと。

アルが負傷前よりも体の調子が良いと感じているのは、彼が涅槃を覗き、その結果身体的な能力が高まったせいではないの

かと、ユウヒは意見を述べる。

「以前の君の力がどの程度か知らぬので、俺には比較のしようも無いのだが、試しに走り込んでみると良いだろう。おそらく

以前よりも速く、長く駆ける事ができるはずだ」

ユウヒの言葉に耳を傾けながら、アルは考えた。

ここ数日のトレーニングはそれなりの運動量があった。それでも最後までスタミナが持続し、疲労の蓄積も全くと言って良

い程無い。

これまでは病み上がりの自分を気遣いながら施されているトレーニングメニューと、スタミナの付く食事のおかげだとばか

り思っていたが、どうやらそれだけでは無いらしいと、若い白熊は悟る。

「禁圧解除状態での膂力や瞬発力の向上は、平時のそれを大きく上回る。そのせいで認識にずれが生じてしまっているのだろ

う。そして、自覚は無いかもしれぬが、その出力変化に戸惑い、驚いてもいる様子が見受けられる。この点については、心構

えができておればかなり改善されるはず。これからは禁圧解除を頻繁に使用し、その感覚に慣らしてゆこう。無論、体に負担

をかけ過ぎぬよう注意しながらになるが…」

言っている事を理解しているか確認するように目を見つめてきたユウヒに、アルはコクッと頷いた。

「何となく判ったっス。50CCから大型に乗り換えたような感じっスね?」

白熊のこの返答に、

「…済まぬ。その例えだと俺の方が良く判らぬな…」

赤銅色の熊は困ったような顔になり、太い指で鼻の頭を掻きながら応じた。