ノンオブザーブ(中編)

「動きはありませんね」

 仕掛けた盗聴器からの信号を受信する箱型の機材を眺めながら、呟いたミオはコーヒーを啜る。

 深夜二時。ミオとミューラーは代わる代わる順番で無線機の様子を窺っている。

 交代の時間が来て生欠伸を噛み殺したミューラーは、「流石に懲りたのでしょうなぁ」と漏らした。

「信用できなくてこうして張ってるんですけど…、何だか、こういうのと逆パターンの童話がありましたよね?ずっと「狼が

来たぞ!」嘘をつき続けた子供が、本当に狼が来ても嘘だと思われて助けて貰えなかったっていう…」

「ああ、狼少年ですな」

 ニヤリと笑うミューラー。

「しかしあれは嘘をついた側が自業自得の結末を迎える話だったというのに…」

「嘘をつかれたぼくらが、こうして「狼」に備えてる…」

 ぷふっと、ふたりが同時に吹き出した。

「損してますよね?」

「まったくで…!」

 だがそれでいいと、ミオは思う。自分は狩人、ナハトイェーガー。狩る事が生業なのだから、嘘も真も纏めて狩り払うのみ。

 大切なのは後に何も残さない事。虚実纏めて消し去った後にはただ平穏な夜だけがある。黄昏など来なかったかのように…。

「そろそろ休んでください特曹。明け方に起こしますから」

「では、失礼してそうさせて頂きますかな…」

 腰を上げて伸びをしたミューラーは、ソファーを回り込んでベッドに向かいつつ、ミオの傍でチャッと足を揃えて敬礼する。

 その拍子に、胸を張って突き出した太鼓腹がギュゥ〜ッと鳴った。

 真っ直ぐ前を向いたまま決まり悪そうに動かなくなるミューラーと、堪え切れずに「プスッ!」と小さく吹き出すミオ。

「お腹減りました?慌ただしくて不規則でしたからね、午後から」

 そう言ったミオがガウンに覆われた丸い出っ腹をさっと撫でると、ミューラーはゾクゾクッと背筋の毛を逆立てた。

「このホテル、ルームサービスは0時まででしたっけ?夜食にレーションでも食べますか?他にはグミくらいしかないけど、

ぼくもちょっとお腹減っちゃったし…」

 無意識になのか、丸い腹を撫で回しながら壁の時計を見遣ったミオは、ミューラーの出っ腹の下にできている、何かがガウ

ンをキュッと押し上げた盛り上がりには気付かない。

(あああ少尉が…!少尉がワシの腹を撫でて…!)

 ゾクゾクするミューラー。もう少し手が下へ移動すれば秘所に触れる…。そんな事を考えてしまいますます股間が元気にな

る。が、

『…だ…!ザザ…何処から入っ…!』

 盗聴器の信号を拾っていた機材が荒らげられた声を拾い、ふたりは同時に素早く視線を向ける。

 即座にガバッと通信装置に覆い被さったミューラーは、チューニングして音量を上げると同時に、時間帯で変わるノイズの

除去を始めた。幸いにも深夜なのでノイズは少なく、音質は鮮明になったが…。

『敵しゅ…がっ!』

『ハァ、ハァ、ハァ!』

『畜生!何処から!』

『その狼だ!…いや、ハスキー?部外者…ギャア!』

『署の者じゃないぞ!撃て撃て!構わん撃ち殺せ!』

 悲鳴と断末魔。銃声と何かが倒れる音。入り乱れる足音と開閉されるドアの音…。

「…狼…少年…」

 険しい顔のままぽつりと呟いたミューラーは、ガウンを脱ぎ捨ててソファーの背もたれにぶら下げていたズボンを慌ただし

く手繰り寄せる。

「捕虜を取り戻しに来た…。いや、口封じかもしれませんね。警察署にある、尋問で得た情報諸共に消すつもりかも…」

「甘かった!まさかこんな大胆に動くとは…!」

 手早く衣類を着用しつつ、ミオとミューラーは通信機から漏れる悲痛な声や怒号に耳を震わせた。

「…ところで少尉。ワシらは警察署で起こっている事を、向こうから連絡でも受けない限りは知りようも無い「はず」なんで

すがね」

 まさか「盗聴していたので気付きました」とは言えない。駆け付ける為の口実をでっち上げなければならないと言外に訴え

るミューラーは、余裕もないので、半ばやけくその思い付きで提案する。

「虫の知らせという事でどうですかな?」

 コートを羽織ってトンファーを腰の後ろに吊るしたミオは、

「グート」(良いですね)

 と、低めた声でしれっと応じた。



 ピチャ、ピチャ、と血溜りを踏み締め、グリスミルは視線を室内の隅まで走らせた。

 地下の拘置設備には、もう彼以外に呼吸している者は居ない。囚われていた下請け組織の構成員全てが、肉と臓器にだけ傷

を付けられる形の刺傷で絶命していた。

 署内から散発的に聞こえている銃声も次第に間隔を開け、数が減っている。上階では少し前に火の手が上がり、放水も虚し

く勢いを増していた。

 情報を残さないよう警察署を襲撃したグリスミルは、下請け組織の構成員を口封じのために皆殺しにした。

 聞き取り調書を含め、自分達の情報が記録されていると思しき物は、紙も機材も全て抹消するつもりでいる。

 通信網を寸断して奇襲をかけ、皆殺しにした上で焼却し、証拠隠滅を図る…。表向きは地元組織と警官達の激突による不幸

な事件として取り扱われるよう、囚われていた捕虜達は細心の注意を払った殺し方…焼却後に痕跡が判らなくなるような刺傷

で処分し、その手には銃を握らせ、警官達と銃撃戦が行なわれたかのように偽装した。

 この上で炎に晒し、引き上げるつもりだが…。

 ハスキーの耳がピクリと動いた。

 階上からガラスが割れる音や、何かがぶつかり合うような轟音が響き、タイヤがスリップする音と猛々しいエンジン音まで

聞こえてくる。

「何だ?」

 眉根を寄せたグリスミルは、タイマーの作動を確認して焼却用の手投げ弾を床に放り捨てると、

「…まあいい。奴らに任せるか…」

 そうひとりごちて、足早にエレベータールームへ向かった。



 消防士達の制止も無視し、炎ごと正面玄関を突き破ったワゴン車が、ロビーの床をタイヤで擦りつつカウンターへバンパー

をぶつけ、停車する。

 このエントランスは放水が届いている事もあって比較的火勢が弱く、幸いにもまだ焼かれていない階段付近まで走って移動

できる。

「酷い有様ですな!」

 運転席に乗り込んでいたミューラーが、銃撃戦の痕だと一目で判る損傷の激しい壁を、そして倒れ伏して息絶えた人々を見

遣って唸り、苛立たしげに拳でハンドルを叩く。

 なお、突入に際してボコボコになったこのワゴンは、コペンハーゲン入りに際して普通の業者から借りたレンタカー。貸出

業者もまさかこんな手荒い使い方をされるとは思っていなかっただろうが、非常事態なので仕方なく突入車両に利用させて貰

う事にした。

 ミューラーは額にあげていた耐熱ゴーグルを目までおろしてコートのフードを被り、特殊素材のマスクをコートの襟下から

引っ張り上げてマズルを覆う。

 このマスクは生地が薄く呼吸も妨げないが、大気中の異物を濾過する機能を持っている。ただし濾過にも限界があり、徐々

に目詰まりしていずれは透過性が無くなってしまう。おまけに濡れると普通の布のように口に張り付き呼吸を妨げてしまう欠

点があり、万能とは到底言えない。

 マスクもフードも耐熱性も、あくまでも非常時の間に合わせとしてコートに付加された機能に過ぎない。火中での行動は時

間との勝負になる。

「生き残りを探しましょう!銃声がする以上、生きているひとも居ます!」

 ミオもまたマスクで顔を覆い、ゴーグルを着用してフードを下ろすと、黒いロングコートを翻し、躊躇う事なくワゴンの助

手席から灼熱の地獄へ飛び降りた。

 装備は専用のダガーが二振り。ヴァルキリーウィングCが火器と非殺傷兵器と近接武器を兼ねるミオは、通常火器の類は基

本的に持ち歩かない。それで事足りているという事実が、このトンファーの兵器としての優秀さを物語っている。もしもこれ

が量産できれば、独軍兵の個人武装と戦術は根底から覆されるだろう。

 もっとも、ヴァイスリッターでもこのトンファーを完全に解析できた訳ではないので、これを量産するには至っていない。

そもそも、リッターの騎士剣と同じ疑似レリックウェポンとはいえ複雑さが段違いなので、生産コストも尋常ではない。

 ミオに続いてミューラーも小型機関銃を片手に、熱された空気の中へ飛び込む。

 今回の武器はH&K、MP7。弾倉とサウンドサプレッサーを含めても重量が1.5キロを越えない、軽量かつコンパクト

な個人防衛火器である。

 専用弾薬を用いるので互換性が悪く、コストが高くつくとして、ヴァイスリッター所属時にはこの銃を敬遠してMP5を使

用していたのだが、臨時支給装備としてミオが出先の独陸軍から取り寄せたこれを拝領してからは、価値観がころりと変わっ

た。潤沢なアクセサリーパーツも一緒に支給されたので、第一印象からして評価上々。

 おまけに取り回しに気を配った設計や、使い心地の良さ、携行性と隠匿性の高さなどは、辺境から市街地までが戦場となる

ナハトイェーガーとしての任務には最適だった。

 近接戦闘用にサブウェポンとして左腰へ吊るした得物は、全長60センチほどの直剣。

 ヴァイスリッター所属だったとはいえ、騎士ではないミューラーには疑似レリックウェポンである貴重な騎士剣は支給され

ていない。そのため、伝統的な近接戦闘にはクラブやショートソードを使用する。

 今回携帯しているのはショートソード…カッツバルゲルと呼ばれるタイプの剣で、うねる長身魚がS字型を描いた鍔と、魚

の尾びれのような柄尻を備えた、海洋生物をモチーフにした意匠が施された一品。

 特殊な能力は持たず、切れ味もあまり良くないが、身幅が厚くとにかく頑丈に造られており、北原の危険生物相手の斬撃に

も刺突にも耐える強度を有する。

「二階ですね」

 踊る炎の唸りと、脅かされる風の悲鳴が聴覚を惑わす熱い空気の中、ミオは散発的な銃声に反応して階段の方向を見遣った。

 ふたりが居るフロアはロビーから正面に通路が伸び、その奥に上下階への階段とエレベーターが備えられている。

 通路左右はカウンターとデスク、仕切りで区切られた相談受付などが並んでいるが、戦闘で仕切り板の大半が壊れ、即席バ

リケードにしようとしたのか、蹴り倒されたロッカーやデスクが、無惨な死体と一緒にあちこちに転がり、パチパチ火を上げ

ていた。

「救助が最優先ですな」

 周囲に生きている者が居ないか見回して確認するミューラーに、「ええ。次点で資料を…」と頷いたミオの目が、ハッと少

し大きくなった。

 階段の下側から、火が燃え移ったカウンターやデスクの陰へと、何かが素早く移動するのが見えた。

 姿そのものははっきり見えなかったが、左右に分かれたソレが身を隠した先と自分達の傍にある障害物が、死角で結ばれて

一繋がりになっている事に気付き、ミオは警告を発する。

「特曹!敵です!障害物を使って左右から接近して来ます!」

 素早く腰を落として右手側へ向き直り、MP7を構えるミューラー。右手で構えて左手を添える格好なので、幅広の体躯は

ギュッと詰まり、衝撃に備えると共に的を小さくしている。

 ミオは左手側を警戒しつつ、トンファーを握る左腕を胸に引き付け、ダガーを握る右手を伸ばして下げた独特のスタイルを

取り、防御態勢が出来上がる。

 互いの死角をカバーし合うそのフォーメーションには、行動を共にするようになって日が浅い事を感じさせないほどスムー

ズに移行していた。

 そのスピーディーなスタンスチェンジが、奇襲に対して効果的に働いた。

 カウンターを乗り越えて飛びかかる、左右からの同時攻撃。もしも脇から襲われていたら視認すら難しかっただろうその速

度に、一方向にのみ集中できたミューラーは難なく対応し、照準を合わせる。

 プシシシシッと、サウンドサプレッサーに押さえられた銃声と共にゴム弾頭の弾幕が展開され、襲撃者の体に叩き込まれた。

 見事迎撃したと口の端を上げたミューラーは、

「な!?」

 窺わせた余裕も一瞬。両腕で顔面をガードしつつ全身に弾を浴びた襲撃者の顔を、交差させて庇う腕の隙間から垣間見て声

を漏らす。

(しょ、少尉!?いや…)

 一瞬見間違えてしまう程に、その襲撃者の顔はミオと似ていた。親戚か兄弟と言われても納得できてしまう程に…。

 纏う衣類が優れた耐衝撃機能を備えているらしく、飛びかかる途中で銃撃されて勢いを殺された猫は、しかし僅かにバラン

スを崩しただけでカウンターの上へ留まり、そこから跳びこむように横へ跳ね、射線を絞れないよう素早く動き回りながら襲

い掛かる。

 同時に、ミオの方でも飛び込んできた猫と初撃が交錯していた。

 トンファーで受け止めた特殊警棒越しに、ミオが見据える相手の顔は、目鼻立ちが自分とよく似ていた。

(同タイプ!)

 自分と同じアーキタイプから産み出されたクローン。そう察したミオだが、相手の目と顔からは感情が窺えない。

(自意識が無い、脳に調整を施されたタイプか…)

 目の奥に沈痛な光を宿すミオ。だが、それで交戦を辞める訳には行かない。

 相手が決して降伏勧告を受け入れないと、判ってしまったから。

「ええい!大人しくお縄を頂戴しろ!」

 床の上を低い姿勢で素早く跳ね回り、灰皿やベンチなどを縦にしてゴム弾を避ける猫に、ミューラーが叫ぶ。

「ミューラーさん!相手は戦闘人形です!脳を処理されているから自我が無い!こっちの言う事は一切聞きませんし、交渉も

降伏勧告も無理です!」

「は!?に、人形とは…」

「とにかくそういうの…、なんですっ!」

 力比べから一転して、相手の腹へ蹴りを入れ、間を離すミオ。離れるや否や、その拍子に猫が握った警棒に仕込まれたトリ

ガーが絞られ、ロッド部分が激しく火花を散らす。

「放電式のロッド!?特曹!注意を!」

「合点です!」

 蹴り離した相手への追撃に入るミオ。背から青年が離れた途端に、ミューラーは撃ち尽くしたマガジンを素早く交換する。

 ところが、これを待っていた猫が手元にあった植木鉢を掴み、投擲した。

「むっ!」

 土を散らしながら飛んできた植木鉢を、左腕を上げて防ぐミューラー。装填が遅れ、鈍い衝撃で腕が痺れたその隙に、猫が

滑るように近付き警棒を突き込む。

 低い姿勢から体重を乗せたその突きを、ミューラーは受け止めにもいなしにも行かず、体を後ろに倒して対応した。

 バチバチッと放電する警棒。そこへ、絶妙なタイミングで下からミューラーのブーツが跳ね上がる。

 厚底ブーツは絶縁仕様。下手な部位で受ければ感電するが、ブーツならば接触しても問題ない。

 カッ、と蹴飛ばされた警棒が跳ね跳び、宙でキリキリ回っているその間に、空っぽになった手を突き出す格好になった猫の

右腕を、ミューラーの両脚が跳び付き腕ひしぎのような形で挟み込む。

 即座に横転する猪の体躯。巻き込まれる恰好になった猫まで宙で一回転した直後、ふたりの体は熱された床に絡み合って倒

れた。

 そして身を起こしたミューラーは既に、俯せに引き据えた猫の右腕を左足で跨ぐ格好になっており、その二の腕へ尻を乗せ

て重みをかけつつ手首を取って、しっかり肘を極めていた。

 リッターが重んじる伝統的な闘い方は、何も剣技だけに限った物ではない。戦場での組み打ちも古い時代の物が改良されな

がら現代まで受け継がれており、騎士ではない下士官たちもそれらの戦技を修得している。

 特にミューラーは、組み打ちにおいては前所属部隊でも屈指の腕前だった。定期的に開かれる戦技のトーナメントでは、徒

手捕縛技部門で幾度もトロフィーを勝ち取っている。正規の騎士達と互角以上に渡りあって。

 体格差もあるが、それに加えてサブミッションの技能差も大きい。猫はもはや反撃も離脱もできなくなっている。

「ふんっ!」

 手慣れた様子で相手を抑え込み、関節を軋ませつつ締め上げてロックを完全な物にしたミューラーは、ミオの方へ視線を飛

ばす。

 疲労が残っているようで最大戦速には達していないものの、アメリカンショートヘアーはそれでも相手を圧倒していた。

 同タイプのクローンとはいえ、相手の方が新型な上に、より戦闘向きにデザインされている。肉体的基本スペックで言うな

らばミオが絶対的に不利なのだが、しかしそれを覆すほどに、ミオの戦闘技能は卓越している。

 相手が繰り出した警棒の突きをかわした時には、時計回りの回避行動そのままに側面へ回り、右足首をローキックで引っか

けるように払っている。

 そうしてバランスを崩させて前のめりになった所へ、間髪入れずに打ち下ろしのストレートでトンファーを叩き込むミオ。

 だが、前へつんのめって見えていないはずなのに、猫は警棒を首後ろに素早く回し、背中越しにトンファーを受けて直撃を

防いでいた。

(見えてる?いや…)

 ミオは視線を一瞬だけ余所へ向けた。その目が捉えたのは、ミューラーに組み敷かれて床に這うもう一匹…。その両目は、

苦痛の色も浮かべずに、つぶさにミオを観察している。

 つんのめって地べたに手をつき、そのまま前へ身を投げ出して一回転、体勢を立て直す猫。それを追いながら、ミオは相手

がもうひとりの視界内に自分を置こうとしている事に気付く。

(通信タイプ!)

 脳に機械的な処理を施し、念話を可能にしたタイプ。

 死角からの攻撃をさばけたのは、もうひとりが見たヴィジョンを受信しているおかげ。

 以前一度交戦した経験があるので、ミオはこの仕組みをすぐに見破った。

 だが、ふたり同時に連携攻撃を仕掛けられた前回とは違い、今回はミューラーが既にひとり捕らえている。単純に二点のカ

メラで動きを見られているというだけなので苦戦するには至らない。

 攻め込むミオ。受ける猫。しかしラッシュをかける青年の動きは相手の対処速度を上回り、一方的な攻めで押してゆく。

 後退を強いられた猫は、組み伏せられているもう一人が確認できる範囲からあっという間に押し出されて、機能を活かす事

ができなくなった。

 ダガーを特殊警棒が受ける。しかし直後に生じたスパークは、グリップの絶縁性能を越えるには至らない。

 得物が噛み合ったままトンファーを繰り出し、強烈なボディブローを放つミオ。足が床から浮き上がった猫に、打撃に乗じ

て踏み込んだ勢いを加えたサイドキックが襲い掛かる。

 胴の同一箇所への二連撃。くの字に折れて蹴り飛ばされた猫は四角い支柱に背中から激突し、犯罪行為への注意喚起を呼び

かけるポスターを破りながら崩れ落ちる。

「お見事!」

 賛辞の声を上げたミューラーは、しかし尻に敷いた猫が急にもがき始め、視線を下へ。

「こら!大人しくせんと腕をへし折るぞ!」

 脅しかけながら関節を軋ませて負荷をかけるミューラー。それでも動きを止めない猫。

 腕に負荷がかかり過ぎているので、拘束を少しだけ緩めようかと一瞬考えたが、ミューラーは思い直して弛めるのを止めに

する。そこで甘く流れないのは流石だったが…。

 ボギン。

「なっ!?」

 尻の下に生じる、猫の肩関節が外れ、肘が折れ、筋が切れる感触。驚いたミューラーが拘束を解いたのは、単に仏心が出た

だけでなく、腕が折れてはまともに動けないと考えたからだった。

 だが…。

「特曹!油断しちゃダメです!」

 ミオの叫びに、猫がバネ仕掛けの人形のように跳ね起き、床を擦る音が重なった。

 再度抑え込もうとしたミューラーの腕を、折れていない方の細腕が掻い潜る。

 その手にはいつの間にか、握った拳の先に水平に寝る形で12センチ程の長さの刃がついた、異形のメリケンサックがはめ

られていた。

 ドスンと、腹に一撃見舞われたミューラーの背が震える。

 刃はミューラーのコートの合わせ目に潜り込んで、根元まで埋まっていた。

「特曹っ!」

 飛び込んだミオがトンファーを回し、シャフトの長い側を前に出して握り締め、水平に振って猫の側頭部を殴り飛ばす。

 昏倒した猫の体が横転した所へ、入れ替わるように飛び込んだミオは、腹を押さえて蹲るミューラーの肩に手を掛け、「特

曹っ!しっかり!」と声を掛けつつ、ポケットに忍ばせていた正方形の吸着型止血剤を取り出した。

 その、一辺7センチ程のパックを開けようとしたミオに、

「ああいや、大丈夫ですとも少尉。げふっ!」

 思いのほかしっかりした声で応じたミューラーは、顔を顰めながら軽く噎せ、コートの合わせ目にできた穴に指を入れる。

 その下には、ざっくり切れたニットウェアと、その切れ目から覗く艶消しされた灰色の布地。

「防弾防刃のアンダーウェアです。いまひとつコートが頼りなかったのでお守り代わりに着込んで来ましたが…。えふっ!」

 刃は防刃繊維に阻まれてミューラーの肌に達していなかった。刃が突き刺さったように見えたのも、実はアンダーウェアご

と分厚い脂肪にめり込んでいただけ。

「び…、ビックリした…!」

 ほっとしたミオは、気絶したふたりの猫を改めて見遣る。

(ラグナロク製だから、外に放り出して引き渡したら騒ぎになるな…)

 結局ふたりをワイヤーロープで拘束し、焼け死なないように放水が届いて濡れている位置に縛り付けて、ミオとミューラー

は階上へ。

 銃撃は既に止んでいる。嫌な予感がしたものの、しかしそれは、それまで警官たちと交戦していた猫ふたりが持ち場を離れ

たせいで、全滅による沈黙ではなかった。

 各所に立てこもり、窓からの脱出を試みていた者達や、負傷した仲間を見捨てられずに身動きが取れなくなっていた者。一

部屋一部屋確認して周り、避難誘導をしながら目当ての人物を探していたミオは、

「…やられた…」

 パチパチと燃える壁が爆ぜている休憩室で、喉を一文字に切り裂かれて絶命している若い監査官を発見する。

 短く黙祷を捧げてから、ミューラーが仕込んだ盗聴器を回収した青年は、

「最善を尽くします。貴方の仲間を少しでも助けられるように…」

 物言わぬ骸にそう約束し、耳をそばだてた。

 低い、ローター音。

 報道用のヘリが数機飛んでいた事は把握しているが、そのうち一機が急激に接近している。

 廊下に出たミオは覗ける窓が無いか見回したが、火が回っていない場所は見つからず、音で判別するしかない。

 そこへ、早くも生き残りをかき集めて怪我人を背負い、火の手と非常灯だけが光源の廊下をドスドス駆けて来たミューラー

が、「ヘリがうるさいですな」とぐちる。兵隊を纏め慣れているせいか、こういった事には驚くほどの手際の良さを発揮して

いた。

「特ダネ狙いですかな」

「報道協定を無視して…、ですか?」

「どこにでも悪い意味での勇者は居るもんですからな」

「…あるいは、救助に協力するつもりなのかも…」

「この火勢では気流が乱れて危険ですが…。この平和な街中でこれ以上の惨事は勘弁ですぞ」

 天を仰ぐミューラー。眉根を寄せるミオ。ローター音は依然として接近を続けている。

「とにかく、ヘリが上から近付いたところで、そちらに向かう訳にも行きませんからな。構わず下へ降りるべきだと思います

が…」

「ですね」

 頷いたミオは先導する形で一階を目指す。だが…。

「…まさか…」

 ぽつりと呟いたミオは、階段脇のエレベーターを見遣る。

 電源は落ちており、作動していないはずだが…。

「ここ!開けて下さい!」

 ミオが飛び付き、ミューラーも胡乱げな顔をしながらもドアに取りつく。

「バックファイアは御免ですぞ!」

「大丈夫です!空気は流れてる!」

 ミオが言うとおり、電気系統の異常で勝手に少し開いたのか、僅かにできている隙間からは冷えた空気が漏れ出ていた。

 警官達も混ざって数人が取りつき、力を合わせて引き開けたエレベーターのドアの向こうには、黒々とした闇。

「ここから脱出…じゃあありませんな。どうしたんです?」

 階段も生きているので、わざわざこんな所を映画のように伝って逃げる必要は無い。怪訝そうなミューラーにミオは言う。

「…何か、あります…」

「は?ん〜…、ワシには何も…」

 と応じたミューラーだったが、暗さに目が慣れて来ると、その空間に異様な物が存在している事が判った。

 地下まで降りているエレベーターを吊るロープ。

 その横に、ナイロンテープのような物で編まれた梯子。

 所々にぶら下がる、何らかの装置…。

「ごめんなさい閉めましょうお手数をおかけしましたホント御免なさい何もありませんでしたね何も」

 早口で提案するミオ。誰も文句を言わず、一同は力と息を合わせ、見事な団結力でスムーズに扉を閉じる。

「急ぎましょう!」

「はっ!」

 大慌てで階段を駆け下りる一行。

(爆弾と発火装置…!それにあの梯子…、誰かがあそこから屋上に脱出したんだ!そして…)

 ミオは理解する。

 異様に接近する一機のヘリ。あれが近付いているのは、エキサイティングな特ダネ映像を撮るためでも、救助に参加するた

めでもない。

(屋上で誰かを回収する気なんだ!)



 生き残りを外へ逃がし、ミオの指示でワゴン車へ戻って荷台を漁るミューラー。

 その目は、居るはずの者が居なくなった一角に向けられている。

(まさかあんな逃げ方を…)

 猫ふたりの姿は消えていた。それも、拘束を弛めるために深手を負って。

 夥しい量の血痕と解かれたワイヤー、そして肉体の一部を残して消えたふたり…。行方は気になるが、今はそれよりも優先

すべき事がある。

「えぇい忙しい!」

 ワゴン車から引っ張り出した長大な布包みを解き、中身を引っ張り出して弄りながら、ミューラーは苛立たしげにぼやいた。