ノンオブザーブ(後編)

 危険域まで降下したヘリに、スピーカーで拡大された警告が発せられる。

 しかしそれが聞こえないかのように、燃え盛る警察署の上でホバリングしていたヘリは両側から屋上へロープを垂らす。

 おおっと野次馬からどよめきがあがる中、炎を防ぐためか、カーテンのような広い布をマントのように羽織ったふたりがロ

ープにとりつき、引き上げられた。

 奇跡の救助。そんな見出しを思い浮かべながら夢中でシャッターを切る、別のヘリの報道カメラマン。

 だが、彼がその記事を書く事は、結論から言えばなかった。

 ボン、という音を聞き、次いでぐらりと揺れたヘリの中で、男はカメラを取り落とす。

 首にかけたベルトでぶら下がったカメラを慌てて捕まえ、「おい揺れるぞ!」と文句を言いながらも、決定的瞬間を逃がす

まいとカメラを構え直した男の体は、次いで反対に傾いたヘリの壁へ激しく打ちつけられていた。

 次々と爆発するヘリのローター。

 一機、また一機と市街地に墜落してゆくその光景に、重なり合った悲鳴と怒号が混じり合う。

「なんて事を…!」

 屋上まで駆けあがったミオは、上昇してゆくヘリと、ウインチで巻き取られるロープに捕まっているふたりの姿を睨む。

 黒いマントで姿を隠しているが、片方はグリスミル、もう片方は先程手負いにした猫の一方。

 屋上の端ギリギリまで駆けたミオは、右腕をまっすぐ伸ばしてヘリに向ける。

 その手首下側…小指寄りの位置からプシュッと音を立て、先端に銛のような金具がついた細いワイヤーが射出された。

 が、ワイヤーはヘリに触れず、少しずれた位置を通過してしまう。ミオが、ワイヤー発射と同時に横合いから掴み掛かられ

たせいで。

「!?」

 首に手を掛け、しがみ付いて動きを封じて来た相手を確認し、ミオは歯噛みする。

 先程倒した猫の片割れは、何らかの手段で左手首を斬り落として拘束を抜け出していた。

 横から捕らえられたミオはそのまま屋上端の手摺りを乗り越え、諸共に外へ投げ出される。

(まずい!ワイヤーをもう一本…!)

 もつれ合って落下するその最中、左腕のワイヤーを射出しようとした青年は、シュウシュウという音をすぐ傍で聞いてハッ

とした。

 ミオに組み付いた猫は、懐に収めた爆弾へ、既に着火を終えている。

(しまった!自爆っ!?)

 直後、警察署と裏手の建物の間、地上20メートルで爆発が起こり、近隣の建物のガラスが大量に砕けた。



「自爆、完了致しました」

 ヘリの座席に座った猫は、片割れからの意思伝達が途絶えるなり、隣のハスキーにそう報告した。

 黙って頷いたグリスミルは、

(直接この手で殺してやりたかったが、まぁ仕方がない)

 と、ミオの姿を思い浮かべながら胸の内で呟く。

 ローター部分を破壊してヘリを残らず落としたグリスミル一行は、追跡もないまま悠々と空を逃走する。

 この報道局のヘリは、中身を殺してパイロットごとそっくりラグナロクに入れ替わっている。

 そして、他のヘリが出動する頃には、このヘリも乗り捨てて船に乗り換え、国外へ脱出する予定だった。

 だが…。

 ガゴンッ、と凄まじい音と衝撃に次いでヘリが大きく揺れ、機体がギシシィッと軋む。

 突風を受けたなどという生易しい物ではない、グリスミルは「何事だ!」と声を上げた。

「攻撃です!何者かの攻撃が…!」

 操縦士が必死にグリップを捻り上げるが、ヘリの底部後方…機体のテール寄りに命中した一発で甚大な被害を受けている。

「距離、稼げません!不時着します!」



 時間は、少しだけ遡る。

 立体駐車場の屋上へワゴンが駆け上がったのは、ヘリが真上を通過する正にその時だった。

「ギリギリ間に合いました!少尉の指示通りですな」

 ドアを開けて飛び降りたミューラーは、荷台へ回り込みつつチョーカーに触れ、通信していた。

 通信相手は、自爆に巻き込まれたはずのアメリカンショートヘアー。

「乗り込んで止められれば良かったんですが…、こうなったら仕方ありません」

 派手にひしゃげた木製デスクに背中から埋没したミオが、荒く浅い呼吸を意図的に鎮め、声の震えを誤魔化す為に通信感度

を下げながら応じる。

 自爆に巻き込まれそうになったミオは、ヴァルキリーウィングCをゼロ距離射撃し、力場炸裂の衝撃を利用して弾けるよう

に相手から離れていた。

 そうして反作用で吹き飛びながらシールドを展開して手足を縮め、爆発が起きた瞬間には背中で窓を突き破り、隣の建物内

へ転がり込んだ。

 直接焼かれる事はなんとか避けたものの、全身をあちこち打ち付けており、あばらにひびが入っている。

 だが、弱音は吐けない。弱った所などそうそう見せられない。恐れを知らない不死身の戦士でいなければならない。戦場で

はとくに…。

 割れた額から流れる血を腕で拭い、口の中が切れて溜まった血をペッと吐き捨てながら、ミオは通信を続ける。

「砲撃、お願いします」

「合点です!」

 ミオの負傷には気付かないまま勇ましく応じたミューラーは、そのとき既に肩に砲を担ぎ上げ、片膝立ちの低い姿勢で上空

のヘリに狙いを定めていた。

「連中の指揮官は、手際が良いようにして詰めが甘い…。もう一発殴れれば、また付け入る隙ができるはず…」

 ぶつぶつ呟くミオの声を通信機越しに聞きながら、ミューラーは狙いを定め、一気に引き金を絞りきった。

 ミューラーが今回持ち出したのはフリーガーファウスト。

 空飛ぶ拳骨の名を冠されたその武器は、対戦車兵器であるパンツァーファウストの対空版…端的に言えば個人携行型対空ロ

ケット砲。九本のロケット弾発射筒が束ねられ、合計九発を時差式で二段発射し、弾幕を作る。

 ボシュッ、と音をたてて発射された九発のロケットは散開飛翔し、その内一発が見事ヘリを捉えた。

 使用されたのは炸裂しないタイプの軟頭弾。それも通信装置が内蔵され、着弾で壊れようが何だろうが四方八方に信号をば

ら撒くという嫌がらせ仕様。例え着弾の損害が軽くとも、当たりさえすればこの仕込みによって早々とヘリを乗り捨てなけれ

ばならなくなる。

「少尉、命中しました」

「ゼーアグート…」(流石です)

 降下しながら遠ざかるヘリを見送り、ミオに成果を報告したミューラーは、フリーガーファウストを肩から降ろして呟く。

「しかし、よくもまぁこんなにも軽く、大型火器がポンポン支給されるもんだ…」

 要請すれば戦争が始められるほどの武装があっさり送られてきそうだと、薄ら寒い物を感じてしまう。

 一方、ミオはよろめきながら身を起こし、細い体を叱咤して階下へ向かう。

 足を引き摺り、壁に縋って進める歩みには、点々と血痕が伴われた。

「…軍曹…、ミオです」

 チョーカーに触れて通信チャンネルを切り替えたミオは、別のメンバーに連絡を入れつつ、負傷を悟られないように呼吸を

整えた。

「信号発生装置を打ち込みました。辿って下さい」

 快く返答があり、手短に通信を終えると、

「はは…。ぼくの体も、頑丈にできてればよかったのに…」

 白い巨漢のタフさを思い出して羨ましく感じながら、ミオはヒョコヒョコと、手すりにもたれかかりながらエレベーターへ

乗り込む。

 ミオがエレベーターをシェルター代わりにしたその直後、警察署が爆破されて吹き込んだ炎が割れた窓から入り込み、一瞬

でフロアを蹂躙した。



 暗い海面を疾走するボートが、沖合に浮かぶ船に接近する。

 大きな船である。

 船籍こそ無関係な国の物を装い、表向きは短距離航行用の家畜輸送船にカモフラージュされているが、その実態は、下請け

となった組織がラグナロクのために用意した隠れ蓑。

「積み荷は?」

「安定しております」

 猫の返事を受け、グリスミルは顎を引いて頷く。

 ヘリが使えなくなったせいで、移動完了が予定よりも遅れてしまった。

「このまま国外へ出る。こいつは乗り捨てるぞ」

 モーターボートを駆る部下が「イエッサー」と応じると、ハスキーは何となしに後方を振り返った。

「…まさか追っては来られないだろうが…」

 虫の知らせを振り払い、前を向くハスキー。

 的中していたその予感は、備えられる筈の猶予は、こうして見逃された。



「少尉。本当に大丈夫ですか?」

 心配そうなミューラーの声に「平気ですよぉ」と笑い顔を作って応じながら、半裸のミオは体にテーピングを施している。

 身を切るような寒さの中、海面を駆けるモーターボートの上は筆舌に尽くし難い寒さだったが、北原と比べれば遥かにまし。

意識をしゃっきりさせるスパイスとして、あえて寒風を浴びながら体の保持を終えたミオは、シャツを着込んでコートを纏う。

 テーピングで体を締め付け、装備を固めると、それで体がきちっと支えられた気がして幾分楽になった。

 ボートの乗組員は、ミオとミューラー、そして警察署からここまで青年の要請で足を務めた警官。

 ミオが装備を整え終えると、ミューラーは不満げな顔をしながらも黙った。

 合流した直後はミオの割れた額や出血を見て大騒ぎし、任務中断を訴えたミューラーだったが、「戦場では日常茶飯事じゃ

ないですか?」と言われてグゥの音も出なくなった。個人的好意によって中断を押し通すには、ミオが軽傷だと訴えているの

で根拠に乏しい。

 打ち身をしたが、他は少し切っただけだから、と、あばら骨がいかれるほどの重傷を隠しているミオ。その強靭な精神力で

負傷をひた隠しにする青年は、かつての弱々しい無力な少年と同一人物とは思えないほどタフになっている。

「前方に影。…ボートのようです」

 ボートを操縦しながら体格が良い髭面の警官が報告すると、ミューラーは「何?」とそちらを見遣る。

「遺棄されたボートのようです。人影はありません」

「ほう、目がよろしいようで…」

 感心したミューラーがようやく空っぽのボートを視認すると、思案していたミオは「やっぱり大型の船に乗り換えたんだ…」

と呟いた。

「しかし、たかだかサラマンダー如きに、連中随分ご執心ですなぁ。こうして確保に動くこちらもそうですが…」

 ミューラーのそんな言葉を耳に入れて、髭面の警官は「オリジンですから」と答えた。

「オリジン?」

「はい。サラマンダーと聞けば、秘匿情報に触れる立場にある多くの者は、火炎放射気管を持つコモドドラゴンのようなオオ

トカゲを想像するでしょうが」

「まぁ、それはそう…だが…」

 ミューラーの手が腰の拳銃に伸びる。

 やけに詳しい。尋問で聞き出せた内容にはサラマンダーの詳細は含まれていなかったのに、何故こちらの警官がミューラー

も知らない事情まで知っているのか?

「ナハトイェーガーが探しているのは、現在の技術力で生み出されるそれらのサラマンダーではありません。そのイメージ元

となった、レリックと同源の古代遺物です」

 チャキッとミューラーが素早く銃口を向けたのと、ミオがその手首を掴んで制したのは同時だった。

「少尉!?コイツ怪し過ぎますぞ!?」

「ええ、怪しいですね。まさかこんな形で潜り込むとは思ってなかったから、ぼくも気付きませんでした」

 そう応じたアメリカンショートヘアーは、しかし不穏な物が感じられる言葉の内容とは裏腹に、面白がっているような笑み

を口の端に浮かべている。

「ひとが悪いですよ、軍曹」

「敵を欺くにはまず味方から、と言いまして…。しつれーしましたー」

 言うなり髭面の男は右手で顔に触れ、ベリッと表皮をむしり取る。その下から現れたのは、のっぺりとした褐色の顔…。

 素顔を晒したヒキガエルの獣人は、「あーキツかったー」と間延びした本来の口調で呟きながら襟元を弛め、服の下に手を

入れて拘束具をバツンと外す。途端に胸の厚みがテプンと下に移動し、いかつい逆三角形だった体がふくよかで肉が緩い体型

に変化した。

 目をぱちくりさせるミューラーに、茶とクリーム色のヒキガエルがゆら〜っと敬礼すると、まずミオが口を開いて紹介する。

「彼はコンラッド・グーテンベルク軍曹。「ウチ」が誇る潜入工作のエキスパートです。二十五歳で、隊ではぼくと同じ数少

ない若手なんですよ」

「皆からはラドって呼ばれてまーす。以後お見知りおきを特曹ー」

 目を丸くしているミューラーは、ぺこりと頭を下げたヒキガエルに、「あ、ああ初めまして…」と応じたが、

「実は初めましてじゃないんですよね」

「昨日ー、チョーカーをお渡ししましたー」

 とミオとラドが言うと、「ああっ!?」と声を上げて思い出す。

 アクセサリーを商っていた露店商。ミオが「ウチ」の、と言っていた構成員は、このヒキガエルの変装だった。

 大柄で逞しい髭面警官に化けていたものの、ラドの身長はミオよりも少し低い167センチで、テプンテプンに緩い体をし

ている。

 これをシークレットブーツとコルセット、特殊メイクで弄り、体型と顔、声音と口調まで変えて他人になりすますのがラド

の特技だった。

「少佐にはー、連中の信号探知後に連絡しましたー」

「何か言ってました?」

「怪我に気を付けなさーい、って言ってましたー」

「う〜ん、今回は手遅れでした…」

 のんびりした口調で報告するラドと、困り顔で頬を掻くミオ。

「あとー、少佐ー、こっちに向かってるそーでーす」

「え?少佐が?こっちにいらっしゃるんですか?」

「援護が必要だー、っておっしゃってましたー」

「うぅ〜…、ご心配おかけしちゃったからなぁ…」

 援軍の話を聞き、情けなさそうに顔を顰めるミオ。しかしミューラーは驚きが醒めてくると、今度は先程の話が気になって

切り出した。

「サラマンダーのオリジンとか、さっき言っとったが…」

「あー、そーですそーですー」

 沈める為に船艇に穴を空けたのか、半ばまで水没した状態で遺棄されていたボートの傍を通過しつつ、ミオ達がその中を窺っ

て無人である事を確認している合間に、ラドはのんびりした口調で説明した。

 オリジナルのサラマンダーとは、レリックと同源の技術で生み出された古代危険生物である事。熱エネルギーを餌として活

動し、高熱を自在に生み出す能力を持つ事。一匹居れば火力発電所の代わりになる程の膨大なエネルギーを発生させる事…。

「お宝じゃあないですか!」

 大声を上げたミューラーに、「ええ。制御できれば、の話ですけど…」とミオが応じる。

「結局は生き物ですからねー。理論上は夢のエネルギーですけどー、サラマンダーを手なずけられた例ってー、記録にも数件

だけでーす。しかもー、しんぴょーせーがすごーくうっすーいのが何件かだけー」

「下手に暴走させたらマッターホルンが丸焼きになる規模の火災を引き起こしますからね…。二十年前でしたっけ?ツンドラ

の大火災」

「あー、アレもでしたねー、露国の制御実験が失敗したヤツー」

 ちょっと引くミューラー。知らなかったとはいえ、自分はこの二週間、そんな核燃料のような代物を追い掛けていたのか、

と…。

「な、何で一言教えて下さらなかったんですか少尉!?」

「え?いや、もし教えちゃったら、追いかけるだけでストレスになったでしょう?」

 自分はそのストレスにさらされ続けてきたミオがさらりと言うと、ミューラーは鼻白んだ。

「ですよねー。ミオ少尉にそーんな危ないの追っかけさせるなってー、「ウチ」の皆もおー騒ぎしてましたねー。そのくせ先

輩方もしぶっちゃってー。ミューラー特曹が都合よーく補充されたからー、行かずに済むけどー、ミオ少尉は呼び戻せってー。

大佐に非難ごーごーでしたー」

 呑気な口調で裏事情を暴露するラド。さらりと告げ口が混じっている。

「え?大佐に?文句言ったんですか?」

「後でバレてー、少佐に叱られてシューンとしてましたー」

「バラしたのはラド軍曹?」

「おーあたりー」

 ミオの明察に手を叩いて応じるラド軍曹。

 このヒキガエル、なかなか黒い。

「それで、皆が嫌がる中、軍曹はこうしてこちらに赴いたのかね?」

 あまり愉快ではない裏事情を聞かされてこめかみをピクピクさせているミューラーが訊ねると、「それはー、まー…」とラ

ドはミオをちらりと見遣る。

 その真ん丸な目が若干熱を帯び、潤んでいるのを、ミューラーは見逃さなかった。

「少尉だけにー、危ない事はさせられないですからー」

「ふふ…!有り難うございます」

 微笑するミオ。ぬらっとした目にひっそり熱っぽい光を忍ばせるラド。仄かに対抗心がくすぶるフリードリヒ・ヴォルフガ

ング・ミューラー特務曹長37歳独身。

(このヒキガエル、まさかっ…!?)

 一流は一流を知る。…ではないが、何か感じ取ったようである。



「あと三十分ほどで、コペンハーゲンの警備艇巡回海域を出ます」

「判った」

 ソファーに腰を沈めてくつろいでいたグリスミルは、猫の報告を受けると機嫌良さそうにワイングラスを揺らした。

 そして鼻先にグラスを寄せ、芳醇な香りを楽しんでから血のように赤いワインを含む。

 順調だった。この分ならばさほど苦労もせずサラマンダーを持ち帰る事ができる。

 損害はいくらか出たが、問題にならない規模だと、ハスキーは計算する。

 通信用の猫が一匹潰れたが、帰還したら新しく一匹受け取り、またペアを組ませるだけ。自分の命令で自爆した猫の事など、

大きな損失とは考えていない。

(ナハトイェーガーは仕留めた。同行していた猪は生き残ったようだが、まぁそちらはどうでも良い)

 ハスキーの口元が緩む。

 正体不明の敵性存在、ナハトイェーガーの抹殺。これは大きな戦果と言えた。おまけに元々の任務であるサラマンダーの奪

取も、このままいけば滞りなく済む。

「ヘイムダルめ…。いつまで相手にならないなどとほざいていられるかな…?」

 敵愾心をあらわにするグリスミルの瞳。脳裏に浮かぶのは自分とは別の中枢に遣える狐の顔。

―興味ねーんだわ。お前には―

 屈辱的な、しかも悪意も敵意もないあっけらかんとした言葉を、グリスミルは思い出す。

―なんつーの?なんかこう、お前って、あーだこーだ色んな事考えてんだろ?それがアレだ、器に収まってなくて漏れ出して、

不安定な感じなんだよな。だから興味ねーんだ。弱いから―

 憎々しげに口の端を吊り上げ、凶暴な笑みを浮かべるグリスミル。

 興味が無い。自尊心を深く傷つけられる言葉だった。

 エージェントの中では就任から最も日が浅いグリスミルは、自己顕示欲と名誉欲が強い。早く他のエージェントと対等の立

場になりたいと、そればかり考えている。

 なのに、最強のエインフェリアとみなされている巨馬…スレイプニルも、腕利きとして知られるヘイムダルも、自分に見向

きもしない。

(俺は成功例のデータを集約して生み出された…!旧式共より優れているのだ…!)

 それを証明してみせる。そう息巻くグリスミルは、気を鎮める為にワインを飲み干す。

(それにしても…、ナハトイェーガー、あの戦闘能力は何だったのだ?間違いなく量産兵士の体だったが…。戻ったら元の所

属を調べてみるか…)

 思い出したハスキーは少しばかり好奇心をくすぐられ、ワインを注ぎ足してもう一度煽り…、

「!?」

 ドォン、と船体が揺れたのは、中身が半分になったグラスをテーブルに置こうとしたその時だった。

「何事だ!?」

「確認しています」

 機械的に応じた猫が沈黙していたのは、三秒ほどだった。

「船尾Eブロックにて火災発生。第二スクリューに異常。敵襲と思われます」

 猫が管制室の情報を受け取って告げるなり、グリスミルは外套を羽織って船室を飛び出した。

(敵襲だと!?まさか…)

 生き残った猪が追って来た。そう考えたグリスミルだったが、細くしなやかな影が頭の隅に佇んでいる。

 まさかと思いつつも、そのシルエットは消えてくれなかった。



「命中っ!これで航行速度はガタ落ちですな!」

「お見事です。理想的着弾!」

「さーすがー」

 ミューラーが咆え、ミオとラドが口々に賛美する。

 猪が担いでいるのは、中央やや前部寄りにシールドが取り付けられた、鉄柱のようなロケット弾発射筒。

 防盾付きのバズーカとでも形容すべき姿のその武器は、RPzB54パンツァーシュレック。ラドがボートに積み込んでお

いた火器だが、早速役に立った。

「特曹ー、それ、繰り返し使えますからー」

「心得た!」

「あとー、シールドー、外れますからー」

「それは知っとる」

「それとー、そのシールドー、腕に固定できまーす」

「む?」

 言われて確認したミューラーは、ベルトがついている事に気が付いた。

「ジュラルミン合金でーす。耐電、耐熱、防弾性能もばっちりー」

「なるほど、特注品か」

 これは面白い、と笑みを零したミューラーは、ボートが接近してゆく先の大型船を見遣る。

 だが、甲板上から海面を見下ろして銃を構えている男達は、何故かあらぬ方向にライトを向け、そちらへ発砲していた。

「何やっとるんですかな?連中は。あそこに何か居るのか…」

「少尉の能力のー、ノンオブザーブはー」

 えっへん、と何故かラドが胸を張る。

「自分が消えるだけの能力じゃーないんですよねー」

「今、連中にはこのボートが正しく見えていません」

 ラドの後を引き取ったミオは、袖の下に仕込んだワイヤー射出装置の先端を露出させながら呟く。

「可視光線を「ずらし」ました。連中は、今射撃を続けているあそこにぼくらの姿を見ています。…ただ、そう長くはもちま

せんけど…」

 ミューラーは目を丸くする。てっきり自分自身が透明になるのがミオの能力だと思っていたのだが、実際には違っていた。

 そもそも透明になるといっても、ミオの体や衣類が実際に透けているわけではない。光を屈折させ、相手が視認する景色に

手を加えるというのが、ノンオブザーブで姿が消える原理。

 その精密なコントロールは、違和感を見せないほど自然に屈折域をコントロールし、光学迷彩にありがちな景色のぼやけな

どを一切出さない。

 ミオは像を消すだけでなく、この屈折を応用して本来の位置からずらして見せる事で、錯覚による攪乱も可能としている。

「乗り込みます」

 腰を落とした低い姿勢で、ミオはキッと船を見据える。

 その凛とした声に、姿勢に、眼差しに、ミューラーとラドは自然と敬服していた。

 待ち受けるは世界を覆う黄昏。こちらはたったの三人。

 それでも青年は怯まない。まるで恐れを知らない戦士のように、真っ直ぐな視線を標的に据えている。

 世界の敵の敵。

 ミューラーの脳裏を、ミオが時折口にする言葉が過ぎった。

 おそらくこの青年は、たったひとりになったとしても、世界の敵と戦い続けるのだろう。

 そんな漠然とした思いが分厚い胸を満たす。

「お供致します。地獄の果てまででも…!」

 付き合う危険は承知している。だが、ここで引き下がる気はミューラーに無い。

 これに対してミオは朗らかに笑った。

「地獄に行くのは当分先です。きちんと仕事の報告をしないと。それに、終わった後の打ち上げもありますし、本国に帰還し

て皆と合流したら…、特曹の歓迎パーティーもしないと!」

 ミオがウインクして、ミューラーは胸を高鳴らせた。

 死ぬ気などない。ミオは死と紙一重の戦場を潜り抜けながら、常に未来を見据えている。

「ぼくらが乗り込んだら、ラド軍曹は一旦離脱して下さい。目標確保の後連絡を入れますから、そうしたら再度拾いに来てく

ださい」

 迎えに来る時はミオのノンオブザーブは期待できない。銃火に身を晒す可能性も高いのだが、ラドは「りょーかーい!」と

快く返事をする。

 そして、ボートは敵船船尾から側面前寄りの位置へ回り込み、ミオはワイヤーを打ち上げてスルスルと登り始めた。

 そうして甲板からミオが垂らしたロープをえっちらおっちらミューラーが登り、ラドは一時離脱する。

 潜入が済んだその時点で、ようやく囮の幻像は消失した。