ブラックアウト(前編)
「ぼくから離れないで下さいね」
ミオが先行する形で、姿を消したふたりは船のちゅう内部へと入り込む。
姿が見えなくなるだけで実体はそのままなので、狭い通路で誰かとすれ違うのは難しい。騒ぎに反応して甲板に多くの人員
が集まっているとはいえ、残る人員も慌ただしく行き交っている。
注意深く、焦らず、しかし時間をかけ過ぎずに深部へ入り込んでゆくミオ。その判断力と手並みに歴戦の兵士であるミュー
ラーも舌を巻く。
「この低さまで潜れば船倉のはず…」
ひとがすれ違うのも難しいほど狭い通路を散々回った後、ミオは「グート」と小さく呟いた。
銃で武装した軍服姿が四つ…。
その四人がラグナロクの正規兵である事は、その軍服から判断できた。
四人の向こうには気体も漏らさない鉄製の気密ドアと、プッシュボタン式のナンバーロック。
表向き家畜輸送用に偽装されている船の、不自然に厳重な隔壁は、そこに目当ての物があると教えてくれていた。ただし…。
「「良い事もあろうと期待しつつ、常に最悪に備えよ」…」
肝に銘じている言葉を口にしつつ、ミオはここから甲板へのルートを頭に思い描いた。
強襲からの離脱は可能。隔壁が薄い部分を破って外へ出る事は、ミューラーが担いできたパンツァーシュレックがあれば容
易い。ついでに航行不能にしてやり、船ごと拿捕するという理想的なシナリオ展開も狙える。
「攻めます」
「合点です」
「とりあえず…」
ミオはミューラーにポショポショと耳打ちし、猪の口の端を吊り上げさせた。
「そいつは面白いですな」
そしてふたりは移動し、位置についた所で、ミオは兵士達に姿が見えるようにした。
「あ」
「え?」
「敵っ!」
口々に声を上げるラグナロク兵。唐突に出現したミオとミューラーの姿は、まず驚きの感情を植え付けたが、
「バズーカだ!」
次いで四人は、ミューラーが膝射姿勢で担いでいるパンツァーシュレックに肝を冷やす。
「撃ちまーす!3!2!」
ミオがカウントダウンし、慌てて気密ドアを開錠して中に入り込む兵士達。だが、閉めようとしたその時、ガゴンっとドア
に何か挟まる。
見えない何かが挟まって、驚きに見開かれた兵士の目に映ったのは、通路の奥で立ち上がり、パンツァーシュレックをひょ
いっと横に突き出している猪の姿と、同じ方向にトンファーを突き出しているアメリカンショートヘアーの姿…。
「上手く行きましたな」
「ええ」
そんな声が間近で聞こえた直後、通路奥の潜入者達は姿を消し、兵士は頭を強打されて昏倒した。
突然現れた猪は、担いだ砲をドアの隙間に捻じ込んでおり、その隙間から手を突っ込んだミオは、トンファーで兵士の頭を
殴っている。
何の事は無い。ふたりは初めからドアのすぐそばに居た。そして、そこで射撃するポーズを取りながら、その像をノンオブ
ザーブで後方に投影し、兵士達をはめたのである。
ドアをこじ開けるミューラー。素早く滑り込むミオ。反射的な銃撃はヴァルキリーウィングCのシールドで弾き、投擲した
ダガーで一名の肩を貫いて無力化する。
さらに力場の弾丸を射出してもうひとり吹き飛ばしたミオは、
「…こう来ちゃったか…」
と低く呟き、双眸を鋭く細める。
その部屋には、目当ての物は無かった。
その代わりに、今回の件で最も手強い相手が控えていた。
グリスミル。そして例の猫の片割れ。
疲労も抜けていない上に負傷している今のミオには、極めて分が悪い強敵…。
「引っかかった…と素直に喜べない状況だ」
両手に剣を吊るしたハスキーは、苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「生きていた上に、ここまで入り込まれるとはな。まんまとしてやられた…」
残った兵士がハスキー達の傍まで後退し、銃を構える。
形勢逆転だ、とその顔が語っていたが、しかし彼もグリスミルがここへ入っていた事は知らなかった。配置につかされる前
に、ハスキーは仕込みを終えていたので。
驚いたが、ここで侵入者を迎え撃てば手柄になる。そう考えた兵士の頭は、しかしそこで思考を混乱の内に断ち切られる。
ポンッと、胴体から離れて飛んでしまった頭は、切断面を晒す自分の首と、味方であるはずのハスキーと、驚きに目を丸く
している青年と猪の顔を、目まぐるしく回転する景色の中でごちゃ混ぜに見た。
「使えんぼんくら共だ…」
冷たく吐き捨てたグリスミルとミオ達の中間地点に、きょとんとした表情のまま兵士の首が落ちる。
頭部を失った体が膝をつき、前のめりに倒れ、その拍子にトリガーを引いた指が、パンッと、体の下で自らの弔砲を撃った。
「貴様…、仲間を…!」
躊躇なく、しかも無意味に処断する格好で部下の命を絶ったハスキーに、ミューラーは不快感が極まって怒りに転じた眼差
しを向ける。
ミオもまた、八つ当たりに他ならない身勝手な粛清を目の当たりにし、うなじの毛をふわりと逆立てた。
「仲間ではない。道具だ」
フンと鼻を鳴らしたハスキーに、アメリカンショートヘアーが問う。
「ぼくを足止めして自爆したあのひとも、道具ですか?」
その問いに答えないまま目を向けたグリスミルの表情で、ミオは理解した。
ハスキーの目が、表情が、雄弁に物語っていた。「何でそんな当たり前の事を訊く?」と、心底訝しげに…。
「特曹」
「は」
ミオの押し殺した声にミューラーが応じる。
「荷物は別の部屋みたいですけど、黙って後退させてくれる相手でもないです」
「一戦交える…ですな?異議はございません」
「有り難うございます…」
小声で礼を言ったミオは、ハスキーを視界中央に捉えながら時計回りに移動を始め、少しずつ距離を詰める。
逆にミューラーは相手との距離を保ったまま反時計回りに動き出す。
ハスキーはミオを、猫はミューラーをそれぞれ相手と定めて視線を固定した。
嚆矢となったのは、グリスミルの一刀だった。
素早く上げ、コンパクトなスイングで振り下ろす。刃はまだ5メートル以上距離があるミオには届かない。…はずだったが、
青年は素早く時計回りのフットワークを早めた。
その直後、ミオの足が退いた床が、バツッと何かで打たれたような音を立てる。
「やっぱり、衝撃波を放つタイプの能力…!」
確信したミオがわざわざ口に出すと、隠す気も無かったグリスミルがククッと含み笑いを漏らした。
地下施設内でのハンター虐殺も、襲撃した警察署から離脱する際に他のヘリを落としたのも、この能力による物だった。
衝撃波を発生させて、対象物を破壊する。あるいは衝撃波で攻撃を迎撃する。射程70メートル強の不可視強襲「ソニック
ジャム」。それがグリスミルの能力。
「大した観察力だ。コレは見えないというのに…」
「幸い、その手の能力のエキスパートと面識があって…」
ミオの言葉を軽口と受け取ったグリスミルは、しかし知らなかった。
この青年が本当に、「その手のエキスパート」と近しい間柄だという事を。
グリスミルが再度剣を振るう。しかしその剣閃からは風切り音がしない。剣が起こす音も風も発生させる衝撃波に加えられ
るせいで、何かに当たるまでは無音のまま。この特性はそのまま遠距離攻撃時の優位性に繋がる。
しかしミオは視認もできなければ音も聞き取れないその攻撃を、剣の軌跡から読み、回避しながら接近に移る。
ミオから見れば、グリスミル自慢のこの衝撃波もまだまだ粗い。
グリスミルが射出できる衝撃波は、剣なり腕なり振るった物の軌道そのまま…。つまり、見えない斬撃とはいえ、剣の振り
から延長線という攻撃範囲を見極められると、回避が可能になってしまう。
さらに言えば、特定の座標を選んで直接そこへ作用させるような使い方はできないので、攻撃の質は直線的で単純な物にな
らざるを得ない。
応用力。精密さ。範囲。そして威力…。グリスミルのソニックジャムは、その全てにおいてハティ・ガルムのドレッドノー
トに遠く及ばない。
グリスミルは焦る。まともに当たりさえすれば即死するだろう細い猫は、不可視の攻撃が見えているかのように回避しなが
ら距離を詰めて来る。見えない攻撃への恐れなど、微塵もないかのような迷いの無さだった。
「っく!おのれ!」
攻撃を掻い潜ってまんまと詰め寄ったミオが、トンファーを横殴りに叩き付ける。
弾き返そうとしたグリスミルは、しかし受け止める寸前で腕を内側に畳んだミオのフックにスルーされ、体の捻転を追いか
けるように放たれたローキックで膝横を強打された。
「ぐう!」
苦鳴を上げたハスキーの体がぶれる。
そこから苦し紛れに放った、衝撃波を纏いつかせた重い斬撃は、しかし蹴りを見舞うなり体を開いてステップアウトしたミ
オの鼻先を過ぎって空を断つ。
しかもそうしてできた隙を、強烈なトンファーのボディブローで突かれてしまう。
「げうっ!」
剣をダガーで弾き、隙間をこじ開けて捻じ込んだ一撃。だが…、
(っつ…!腕が、伸びない…!)
あばら骨に激痛が走ってミオの腕は伸び切らず、フィニッシュブローが不発する。
威力不足でノックアウトに至らなかったせいで、ミオに隙が出来た。
「この…!図に乗るなぁっ!」
怒りに任せて乱暴な蹴りを放つハスキー。ミオはダガーを握る腕を下げて肘で受けたものの、抜けた衝撃に胴を揺さぶられ、
傷めたろっ骨が悲鳴を上げる。
「ぐ…!」
呻いたミオがたたらを踏み、痛みを堪えるように体を捩る。
その無意識に脇腹を庇うようなよろめき方から、グリスミルはミオの負傷を看破した。
「…ふっ…!ふふっ!貴様、負傷しているな!?」
喜悦混じりに張りが出るグリスミルの声。見抜かれたミオはそれでも苦痛を顔には出さず、トンファーを引き付け右腕を伸
ばし、独特なファイティングポーズを取り直した。
「そうかそうか!あの自爆が効いたか!」
「ええ、効きました」
素直な返事は、しかし正面のミオから聞こえた物ではなかった。
ハッとしたグリスミルは、バッと振り向きながら剣を水平に薙ぎ、衝撃波を放つ。
同時に正面に居たミオの姿がブレて消え、振り向きざまにグリスミルが放った衝撃波を潜る格好で、身を低くしたミオが出
現した。
「消えるだけかと思えば、こんな真似も…」
気付かぬ間に回り込まれていた。ゾクリと寒気を覚えたグリスミルは、恐怖と焦りを打ち消すように激しく剣を振るい、複
数の衝撃波を連続で放つ。
奇襲を未然に防がれたはずのミオは、
(仕込みは済んだ、かな…)
足を止めずに動いて衝撃波を回避しながら、そんな事を考えていた。
一方ミューラーは、こんな密閉空間でパンツァーシュレックを撃つ訳にも行かないので、ラドに言われた事を思い出してシー
ルドを取り外して左腕に装着。右手にカッツバルゲルを引っ掴み、猫と白兵戦を展開している。
スタンロッドは厄介な武器だが、特製シールドは耐電機能つき。このお陰で一撃昏倒とは行かない。
機敏さでは猫に分があるものの、腕力さに物を言わせて攻撃を左腕で軽々と払い、逆に体勢を崩させて反撃するミューラー
の堅実な攻めは、相手にペースを握らせない。
一見猫が攻め立てているようで、しかしその実、幾度も危うい反撃を食らいそうになっている。
じりじりと前へ出て押してゆくミューラー。劣勢の猫に対して、
「おい!そのデブカボチャ相手にいつまで遊んでいる!」
ハスキーの喝が飛び、嫌いな食べ物に不名誉な例えられ方をしたミューラーがフゴッと不機嫌に鼻を鳴らす。
間合いを取ってミオと対峙するグリスミルは、「アレをやれ!すぐにだ!」と猫に叫んだ。
(「アレ」?一体何を…)
間合いもあるので身構えつつも猫の挙動に注意を払うミオ。
だが、この時点で青年は術中にはまっていた。
ミオの目から光が失せて、眼差しが茫洋とする。
両手がダランと下がり、トンファーとダガーがガランと音を立てて床に落ち、体から力が抜けて棒立ちになる。
「少尉!?」
何が起こったのか判らないミューラーの、注意を促す叫びは、しかしミオには聞こえていなかった。
パチパチと、暖かみを連想させる音がミオの耳をくすぐった。
(あれ…?ぼく…)
薄く開けた目を向けた先では、暖炉で薪が爆ぜて、チロチロと穏やかに灯影が揺れ踊っている。
(ここ、どこだろう…?)
ぼんやりと考えながら体を起こそうとしたミオは、肩からパサリと落ちた毛布を目で追い、それから自分がソファーの上に
居る事に気付いた。
同時に、自分が直前まで何にもたれかかっていたのかという事にも…。
「ミオ?」
低くもよく通る、穏やかで耳に心地良い声。
声の出所へ目を向けようと、ミオは顎を上げる。
「あ…」
純白。毛足の長い被毛。垂れた耳。気品と穏やかさを感じさせる、グレートピレニーズの顔…。
ハティ・ガルム。
ミオの名付け親であり、命の恩人であり、そして…。
ソファーに伸びたミオは、この相手に寄りかかり、太腿に頭を乗せる格好で眠っていた。
「おはようございます…」
目を擦りながらあくび混じりに挨拶したミオは、伸びをしようとして全身の不自然な鈍痛に気が付いた。
(何だろう?体痛い…。寝違えちゃったかな…?)
不思議に思って小首を傾げたミオの頭を、ハティの大きな手がそっと撫でた。
気持ち良さそうに、こそばゆそうに、幸せそうに目を細めるミオ。
この世で最も大切な者と一緒に過ごす、穏やかな時間…。
傍に居るだけで満たされる、至福のひととき…。
しかしミオは、その胸の奥に微かな違和感を覚える。
何か、違っているような気がした。
「皆が来るまで、まだ少しあるぞ?」
白い巨犬はそう言いながら、ずり落ちた毛布をミオの首まで引っ張り上げ、肩を抱くように逞しい腕を回してきた。
白犬の脇腹に肩と首を預け、もたれかかるミオ。
「皆が来るまで…?何でしたっけ、今日…」
「忘れてしまったのか?」
ハティが目を細め、ミオは「何でしたっけ?」と微苦笑する。
セーター越しに感じられる、重量感のある逞しくも豊満な体躯の感触が、分厚く柔らかな被毛を通して伝わる温もりが、少
年に戻ったミオを安心感と共に微睡の中へ引きこんでゆく…。
「同タイプだからもしや、と思ったが…」
ミューラーの声が響き、ミオが落とした武器の硬質な音が消えない内に、グリスミルは呟き、ほくそ笑む。
通信用に脳を処理された猫達は、実は同タイプのクローンを纏める司令塔としての機能も有している。
クローン個々への精神干渉も可能で、望めば廃棄に追い込む事もできる。
とはいえ、ミオ自体は既に生産されていない前世代モデルのため、効果が発揮されるかどうか怪しかったのだが…。
(かかりさえすれば、もうこちらの物だ…!)
コンコン、と軽やかなノックの音が耳を震わせ、ミオはまた微睡から浮上する。
「デカルドとスコルだな」
腰を上げる白犬。体が離れ、密着していた部位にスースーと寒さを覚えるミオ。
「おじゃまっ!」
「失礼」
ハティの手で開け放たれたドアを潜って姿を見せたのは、小柄な黒いポメラニアンと、大柄な緑色の竜人。
「誕生日おめでとう、ミオ」
「ハッピーバースデー!」
ケーキが入っているらしい四角い箱を胸の前に上げて見せるデカルドと、シャンパンのボトル二本を両手にそれぞれ持って
高々と吊るし上げるスコル。
(ああ、そういえば今日は、ぼくの誕生日だった…)
ミオは顔を綻ばせる。
(大尉から名前を貰った日…!)
少年の誕生日は、ハティに名前を付けて貰った日。年に一度の大切な記念日。
「皆は?あと料理は?」
「まだだ。頼んでおいた料理はそろそろ来るだろう」
スコルの問いにハティが応じる。
(ああそうか。他の皆も来るんだ…)
グレイブ隊の面々の顔を思い出しながら、懐かしく感じるミオ。
「随分静かだな?寝起きか?」
テーブルを挟んで向こう側のソファーに腰を下ろしたデカルドが声をかけて来て、ミオは少し考えた後、
「ちょっと太りました?」
と訊ねてデカルドを渋い顔にさせ、スコルを馬鹿笑いさせた。
「ギャハハハハ!言ってやって言ってやって!運動もしねーで、ずぅーっと油絵ばっか描いてるからさ、運動不足ってヤツ!」
「運動すれば痩せるとは限らない物だぞスコル」
とフォローに近い発言をしたハティに、ミオは「そうですね。大尉は変わらないし」と笑みを向けた。
「痩せた方が良いかな?」
「いえ!そのままでっ!」
生真面目なハティの言葉にミオが即答し、どっと笑いが上がる…。
「貴様ぁ!少尉に何をした!?」
荒らげられたミューラーの声に、「さてな」と応じたグリスミルが肩を竦め、そして剣を向けた。
そうして牽制している間に、猫はミオを凝視しながらゆっくり、一歩ずつ近付く。支配をより強力な物にする為に。
ミオの精神はハッキングを受け、彼自身が「最上の幸せ」と感じる事を勝手に脳内へ投影している。
それは同タイプの猫が任意にデザインした幻想ではなく、ミオ自身が生み出している幻想。
受け手が勝手に騙されるのだから、ハッキングしている猫自身がミオの事を知っている必要はない。
逆に言えば、自分が作り出している幻想だからこそ、不自然さを感じ取り難く、身を委ね易い。
「動くな!それ以上少尉に近付くな!」
「おっと、動かない方が良いのは貴様だデブカボチャ」
グリスミルとミューラーが睨み合う。
ミオは依然として動かない。…ように見えたが…。
「ミオ」
大勢が集まったログハウスの中で、ハティは隣のミオに声をかけた。ミオは細いのにハティが大き過ぎるせいで、ソファー
ひとつがふたりだけでギュウギュウになってしまう。
会場となったふたりのログハウスは、もはや主役そっちのけの盛り上がりとなり、女だてらに男勝りなゲルヒルデと、普段
は生真面目なデカルドの一気飲み競争で沸いている。
「はい?」
一歩引いているように静かな白い巨犬に寄り添い、一緒に喧騒を楽しんでいたミオは、その顔を見上げる。
だが、ハティの言葉は続かなかった。
訝って「なんです大尉?」と先を促すミオだったが…。
「私はもう大尉ではない。君には判っているはずだな?」
ハティは皆の様子を眺めながら、そんな事を言う。
「あ、そうでした。もうグレイブはなくなっちゃったし、ラグナロクでもないんだから…」
苦笑いしたミオに、ハティは「そうだ」と頷いた。
そして、ふたりの間に沈黙が落ちた。
ミオの喉が鳴る。
正体不明の不安が混み上げ、違和感が強くなる。
だが、それに気付いてはいけないと、気付くべきではないと、頭のどこかで警鐘が鳴る。
「あの…」
「ん」
何か言いかけ、そして飲み込んだミオを、ハティが見下ろす。
その目は静かで、穏やかで、優しげで、見ていると安心できて…。
ミオは、その眼差しに背中を押して貰えたような気分になった。
「グレイブ隊…、無くなっちゃいましたね…」
そうだな、とハティが頷く。
「ラグナロクでもないんですよね、もう…」
そうだな、とハティが応じる。
「ぼくらがあのままだったら、「こんな光景も有り得たんでしょうか」?」
どうかな、とハティは答える。
一つ一つ拾った違和感を見つめ直し、ミオは把握した。
「あのまま」の延長で、この光景に辿り着く事は無い。
ミオが望んだ幸せな世界は、喪失無しには実現しない。
だから、この光景は有り得ない物だった。
「ぼくは…」
立ち上がったミオが呟く。
「行かなくちゃ…」
腰を上げ、背筋を伸ばしたミオは、いつの間にか青年の姿に戻っている。
「そうだな。行かねばならない」
立ち上がったハティは、ミオの顔を見下ろしてそう頷きかけた。
見つめ合うハティとミオ。青年の背が伸びたおかげで、六年前より顔が近くなっている。
そんなふたりを、宴の騒ぎを引き摺ったまま思い思いの格好でくつろぐ面々が、穏やかに楽しげに明るく笑いながら眺めて
いる。
ハティは黙って頷いた。促すように。
その分厚く大きな手が、大人になってもなおか細いミオの左肩をポンと叩き、優しく掴む。
ミオも黙って頷き返した。応じるように。
言葉も交わさず見つめあう二人に、「おい新入り」とポメラニアンが発した声が横からぶつかる。
「忘れモンだ。しっかり持っとけ」
スコルに放られた何かを宙で掴み、ミオは皆の顔を見回した。
(ああ、どうして…)
知った顔ばかり。なのに、ろくに話をした事がない者ばかり…。
(どうしてぼくは、もっと皆と話をしなかったんだろう…)
ミオの最上の願いは、後悔と切り離せない物だった。
ミオの最上の願いは、激しい痛みを伴う代物だった。
そういう意味では、ミオは決して完全なる幸福で満たされる事はない。
「…行ってきます!」
背筋を伸ばし、敬礼したミオに、
「怪我などしないように、気を付けて行ってきなさい」
あんなにも笑うのが苦手だったハティが、敬礼を返して優しく微笑んだ。
ミオの視界の中で景色が薄れ、皆の顔がぼやけて、肩に乗ったハティの手の感触が遠のいて…。