ファルシャーネーベル(act1)
「元の所属は、諜報部か何処かなのか?」
唐突な質問に、ミルクたっぷりの紅茶にシュガーを注ぎ込んでいたヒキガエルは、カップに落としていた視線を上げた。
ふくよかで肉が緩い体型のヒキガエルの、キョロッと丸い目に映ったのは、テーブルを挟む格好で向き合っている、骨太で
幅がある腹の出た太り肉の猪。
両者は他にひとの居ない休憩室で、黒革張りのソファーに腰を沈めている。
ヒキガエルの名はコンラッド・グーテンベルク。愛称はラド。階級は軍曹。
猪の名はフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー。通称ミューラー。階級は特務曹長。
ふたりは、いわゆる軍人と呼ばれる存在である。だが、その所属と主な行動方針は対外的には明らかにされていない。
属する隊の名称はナハトイェーガー。ドイツ軍秘匿事項対応部門の一角であるヴァイスリッター旗下の、世界でただ一つ、
対ラグナロクを主目的とした国家直属の公的部隊…、その第一分隊が彼らの所属。
もっとも、分隊が構成されたのはほんの少し前の事で、それまでは基本的に指揮官である少佐の命を受けて各個バラバラに
任務に就き、必要に応じてその都度チームが組まれるといったスタイルだった。さらに、第一分隊と名付けられてはいても、
現在は彼らふたりと指揮官一名の三名構成。ただしその制圧力は、戦術上は一個大隊扱いとなる。
それは、彼らの若き上官ミオ・アイアンハートの存在を鑑みての戦力評価。部隊内でフェアシュヴィンデンとあだ名される
彼は、その頼りなさそうな華奢な見た目に反し、単身で易々、中隊規模の部隊を人死に無しで制圧してしまう怪物なのだから。
だがしかし、常々危険が隣人となっている彼らも、今日の所は武器をペンとキーボードに持ち替え、書類相手に平和な戦争
をしている。そのおかげで休憩時間にはこうして雑談しながらくつろいでいられるのだから、単調で面倒臭い仕事とはいえ文
句はない。
ミオ達がサラマンダー追跡任務を一時中断し、本国に帰還してから五週間。取り逃がして以降、依然として行方は掴めてい
ない。本部に詰めて他の任務をこなしつつ、各地の派遣員から情報を吸い上げて行方を探っているのだが、今のところ成果は
あがっていなかった。
先の任務から急遽編入されたミューラーは、今ではすっかり新たな環境に慣れている。しかしナハトイェーガーは大半の者
が席を空けているのが常であるため、それぞれの顔だけは覚えたものの、どんな人物なのか把握し損ねているメンバーが多い。
このラドもそのひとりである。
人員三名に対してやたらと広く、机三つと応接セットを備えてもなおガランとしている分隊の執務室では、ミオを上座にし
てその左右にラドとミューラーが座って事務に勤しんでいるのだが、当人同士の会話はあまりない。
ふたり揃って話しかける相手はまずミオである。上官への接近を牽制し合うのが猪と蛙のやり取りでメインとなっていた。
やり取りのメインが仕事の事でないのもなかなかに問題と言えるが、良くも悪くもミオが有能なので仕事自体は滞りがない。
とにかく、これまで牽制し合うばかりだったふたりは、お互いの事を訊く機会が無かった。
「美大ですよぉー」
自分の事を訊いて来るのは珍しいと感じつつ、ラドは少し間を空けて先の質問に応じた。
軍人らしからぬ見た目と間延びした口調だが、このおかげで本職を悟られ難いのは、潜入捜査などが主任務になる上ではメ
リットである。
「ビダイ?それは何処のどんな部隊だ?何かの予備隊か?」
妙な返答に眉根を寄せるミューラー。
こちらはラドとは対照的に、日常的に大声を張り上げ過ぎているせいで、声に少し掠れ癖がついている。かつては鬼軍曹と
あだ名されていたのもうなずける、それらしい声音だった。
「部隊じゃなくてー、学校ですー。美術の学校ですねー」
「???」
意味が判らず首を傾げるミューラー。厳つい顔と声と体格だが、仕草には単純な性格が素直に滲み出るので、あまり無愛想
には感じられない。
「元々は軍属じゃなかったんですよー。スカウトされただけでー、ナハトイェーガーになる前は民間人ですー」
「は?」
聞けば聞くほどますます訳が判らなくなるミューラー。
「…それはつまり、秘密という事か?」
ラドが勝手に口外できないような、あるいは自分の立場では触れられない類の秘匿案件に関わるの事なのだろうかと考えた
ミューラーだが…。
「そうじゃないんですよー。本当に、大学からナハトイェーガーっていう進路でしたからー」
ラドはミルクティーにさし入れたスプーンをカチャカチャと回しながら、涼しい顔で応じて、「それにしてもー、少尉、か
かりますねー」と、分厚い樫材のドアを見遣る。
絨毯が敷かれ、暖房で温まった休憩室には、彼らの年下の上官も来る予定だった。
しかし、報告書の取り纏めが終わり、休憩を取ろうと三名で執務室から出たところで、ミオは別の隊の少尉に声をかけられ、
連れて行かれた。
第二分隊長を務める狼の若い少尉は、何かとミオに声をかけ、つるみたがる。…と、ミューラーとラドは見ている。
職務上の用事と言われれば反論できないし、階級が上なので私情に走った文句を言う訳にもいかないが、さっさと解放して
こっちに寄越せというのが彼らの本音。
なお、ナハトイェーガーの内訳は、少佐一名、少尉三名、下士官十三名の計十七名。
その内、潜入や小規模編成での国外任務担当の第一分隊は三名構成で、主に国内各地への武力派遣任務を担当する第二分隊
が約半数を占める八名。後方支援員と衛生兵から成る第三分隊が五名。
最高指揮官にして最大戦力である少佐は分隊に含まれず、基本的に指揮に専念し、動く際はほぼ単独行動となる。
ちなみに、隊に女性は一名だけなのだが、それでもなお「ミオはモテる」と、ミューラーとラドは言う。誰もがミオに好意
的に接しつつ、やたらと時間を取らせるのだ、と自分達の事は棚に上げて…。
なお、このドイツ軍内でも行動方針が秘匿され、一部の軍人にしか存在を知らされていないナハトイェーガーに所属する者
達は、前所属も経歴もばらばらだが、共通点が一つある。
それは…。
「軍の学校も出ずにか?それはまた…」
奇妙な事だとミューラーが顔を顰めると、ラドも「ですよねー?変でしょー」と同意を示した。
そうしてまたドアを見遣り、思い出す。
ヘラを握って石膏像と向き合っていた自分が、銃を握ってひとと向き合い、それまでの生活と決別した日の事を…。
それは、三年ほど前の出来事だった。
走り去る列車の音が、遠ざかってゆく。まるで、急いでここから離れたがっているように。
荷物を下ろしてついた息は、白く空気に漂ってから溶けるように消えた。
眼前に広がるのは古びたレンガ造りの町並み。先触れのように降った雪が残り、日陰には白が目立つ。
少ない利用客を吐き出す寂れた駅の正面口には、客待ちのタクシーもない。
バスの運行本数も少ないので、折悪く、待機している物は一台も見当たらなかった。
「電車の時間に合わせた運行もされてない…。どれだけ田舎ぁ〜…?」
そんなヒキガエルの呟きをさらって、寒風が吹き抜けるロータリーには、掻き寄せられて凍った雪山があちこちに点在して
いたが、その除雪もおざなりで歩道は埋まっている。
「はぁ〜…」
しばらく周囲を眺めて立ち尽くしていたヒキガエルは、故郷の寂れ様の一端を見ただけで、声を添えて大きくため息をつき、
次いでタプタプ肥った体を寒さから来る激しい身震いでブルつかせ、コートの襟を引っ張り上げた。
この当時のラドは、卒業が視界に入った22歳の美大生だった。
ガタンガタンと、続けて到着した、自分が乗って来た物とは逆方面から来た列車がホームに入る音を聞きながら、ラドはベ
ンチに腰を下ろす。
この人口二千五百に満たない小さな田舎町がラドの故郷。
しかしヒキガエルは、生まれ故郷であるこの町が嫌だった。
目玉産業もなく、観光する場所もなく、名物もない田舎町。
倦怠と無気力に満ちて日々を送る大人達の、自ら動かない割にとめどなく吐き出される現状への愚痴。
幸いにも美術の成績が優秀だったので、特技を活かしてレベルの高い学校へ進む事ができたラドは、早々と町を出て外の生
活を味わえたが、そうでない者達は…。
「はぁ〜…」
ラドは心底嫌そうに再びため息をつき、項垂れた。
友人達と会うのも嫌だった。
外の生活を味わったラドが最初に帰郷した時の事だった。友人達に違和感を覚えたのは。 友人達は皆、寂れて寒い町の空
気に染め上げられて、大人達と似たような事ばかり喋るようになっていた。その上で都会に憧れ、しかし自ら行動を起こして
外に出ようとはしない。
彼らはラドの話を聞きたがった。
羨望混じりに話を聞き、しかし、「思ったほど大したことないな」と、話をせがんでおきながら、虚勢を張ってわざわざ口
にする…。それがたまらなく嫌だったのは、単に嫌悪感と徒労感を抱くから…というだけではない。
自分も町に留まっていたらこうなっていたかもしれない…。そう感じさせられるのが嫌だった。
顔見せに帰って来る定期的な帰郷は、ラドにとって嫌なイベントでしかなかった。石膏像相手に過ごす時間や、垢抜けた学
生達と交わす会話の方が有意義で実りがあり、楽しかった。
「はぁ〜…」
三度目のため息をついたラドは、雪が積もった石畳をシャリッと踏む音で顔を上げた。
動かした視界に映ったのは、バスの時刻表を確認しに歩み寄った、人間の青年。
衣類などが入っているのだろうボストンバッグとは別に、大きな筒型のバッグを抱えており、収まり切らなかった釣竿の先
端が顔を覗かせている。
青年は燃えるように赤い髪が印象的で、歳の頃ならばラドと同程度に見える。
男前と呼べる、整いながらも精悍な、ひ弱さが覗えない顔。幼さがほぼ抜けて、大人の面構えになりかけていた。
白いロングコートを纏っているが、腰をコートベルトで締めており、肩や袖にもあまり遊びが無いので、外套越しにボディ
ラインが覗える。
筋肉質でやや骨太の逞しい体躯だが、身長に比して均整が取れている、一流のアスリートのような美しいプロポーション。
怪我をしたらしい右頬には、長方形のテープが目の下から耳の下へ向かうように貼られていたので、何か激しいスポーツを
しているのかもしれないとラドは考える。同時に、モデルにすればきっと美しい彫像ができるだろうと、体付きを観察しなが
ら感じた。
「次まで四十分だな」
青年が呟く。イメージ通りの、張りのある力強い発声。だがラドはこの直後に驚いた。
「結構あるね。歩く?」
てっきりひとりだと思っていた赤毛の青年には連れが居た。しかも、ラドの視界のすぐ外に。
雪を踏む音で気付きそうな物なのに、居る事にも全く気付けなかった。その事に驚かされながら首を巡らせたラドの瞳に、
灰色の猫が映り込む。
そこに居たのは、細身のアメリカンショートヘアーだった。
軽やかな足取りで青年の隣に寄る猫は、十代後半に見える少年。青年と少年の中間に位置する、幼さが抜け切っていない可
愛らしい顔立ちはどこか中性的で、赤毛の青年と対照的な黒いロングコートは、同じく体にフィットするシルエット。
ヒキガエルと目があったアメリカンショートヘアーは、微笑を浮かべて会釈する。
その瞬間、ドキンとラドの心臓が跳ねた。
脳裏に、いつか写真で見た、しなやかな肢体と憂いの表情を披露する、古い神話に登場する美しい童神の像が浮かびあがる。
華奢で、儚げで、現実感がない美しさが、両者に共通しているように感じられた。
一瞬ほわんと、幻想的な物思いに心囚われたヒキガエルは、
「そうだな…。久々の休暇なんだ。待っている時間も惜しい、行こう」
「うん。ところでお宿はここからどれぐらい?」
青年と会話を交わす猫の発音に違和感を覚えた。ネイティブとは微かなイントネーションの差があるせいで。
(外人さん?留学生かなー…?)
ドイツの学生は一割が外国人と言われている。特にハイレベルな大学はさらに割合が多い。この数字と分布は、ドイツの学
校が留学先として魅力的である事を如実に物語っている。
ラドが通う大学もその多分に漏れず、多くの海外校と留学提携しているため、ドイツ人以外の顔がかなり多い。そのおかげ
で、アメリカンショートヘアーのドイツ語に、アメリカ人特有のアクセントやイントネーションが残っている事に気付く事が
できた。
「えぇと…」
猫に問われてポケットから手帳を抜き出した赤毛の青年は、
「「緑のカエル亭」は…、中央通りの西側ブロックだな。三十分も歩けば着くだろう」
そんな事を言ってラドを驚かせた。
緑のカエル亭は、他でもないラドの両親が営む宿なのだから。
歳も近いし宿の客。折角だから話しかけようかどうか迷ったラドは、しかし結局声をかけそびれた。
「ラド!」
背後から響いた声に、ラドが振り向き、青年と猫が確認の為に顔を向ける。
駅から出て来たすらりとした青年が、「おーい!」と、ヒキガエルに向かって大きく手を振った。
黒い兎だった。口元と喉が鮮やかに白く、すらっとした体型で背が少し高い。長い耳も相まって旗を掲げるポールのような
印象を受ける。
大荷物を背負った兎の姿を認めたラドは、顔を綻ばせて立ち上がった。
「フランツ!ひさしぶりー!」
幼馴染に歩み寄るラド。黒い兎も満面の笑みを浮かべ、手を差し出して握手を交わす。
兎の名はフランツ・フォン・ミュンハウゼン。ラドの幼馴染にして高校までの同級生。
元々は教会のコーラスに参加していた美声の持ち主で、誰もがてっきりその道に進むものだとばかり思っていたのだが、今
はミュンヘンの連邦軍大に通っている士官のタマゴ。
本人曰く、軍にも歌う場所があるから、という理由で選んだ進路で、実際にそちらの部門では今でも活躍できている。
「帰る予定があるなら言ってくれればよかったのにー」
「急だったんだよ。それで連絡し損ねた」
軽く責めるような口調になったラドに、フランツは笑いながら応じた。
ラドの心が軽くなる。これなら今回の帰郷は楽しい物になりそうだ、と。
「あそこか」
アイドリングするコンパクトな4WDの横で、運転席から降り立った男が、双眼鏡を覗きながら呟く。
襟を立てた黒いジャケットに同色のパンツ。茶色の被毛はきめ細かく、寒風を浴びてふわりふわりと揺れる。
「起伏が激しい地形に、窪んだ土地…。激しい雪風を避けて、水源を確保するためにあんな場所に町を作ったんだろうが、水
道網や暖房設備が発達した今となっちゃ、単に交通の便が悪い僻地だな」
山の尾根を縦断する道の、峠が巻いた折り返しの高台。遠い町の様子を双眼鏡で窺いながらそんな独り言を零したのは、若
い狐だった。
ハンサムと言っていい整った顔立ちで、毛艶も良く、引き締まった胴からすらりとした四肢が伸びるプロポーションはモデ
ルのように美しい。
だが、その容姿とは裏腹に、男は大変危険な存在だった。
男の名はヘイムダル。黄昏と呼ばれる組織の構成員。
素質のある戦士の死体に人為的強化を施し、人工人格を宿された死せる兵士エインフェリア…その最新世代にあたる、最新
技術の結晶である。
同時にその立場は、ラグナロク中枢メンバーのひとり、ヘルのエージェントという特権階級。
「仕事か酔狂なバカンスでもなけりゃひとは入ってこねえだろうな、あんな田舎」
脳内データベースにある事前入手した資料を、到着間際の今になってから参照し、町の興りから今に至る歴史と、産業や人
口、交通網や公的機関を確認しながら、ヘイムダルは退屈そうに鼻を鳴らした。
「ちゃっちゃと済ませて帰るか…」
「教会は変わらないな」
街の中央にある聖堂で、黒い兎は呟いた。
ステンドグラス越しに降る光に照らされた礼拝堂を、入り口から眺めながら。
「像、いくつか減ってないか?」
フランツの言葉にラドが頷く。柱の前にそれぞれ配置してあった聖母像や聖人像がいくつかなくなって、全体の数は以前の
三分の一程度になっている。
「老朽化してひび割れたヤツ、仕舞ったんだってー」
「へぇ…」
フランツは「でも変わってないのもあるな」と、等身大のセントジョージ像を指さした。
それがまるでホッとしたような口ぶりだったので、ラドは口をつぐんで考える。
フランツはセントジョージ像が好きだったのかなぁ、と、軽く罪悪感めいたものを覚えながら。
「なぁラド」
「え?う、うん?」
急に振り向いたフランツに、ドキリとしながら応じたラドは、
「夜は暇なんだろ?」
そう問われて、ホッとしたように顔を弛め、次いで嬉しそうに笑みを浮かべた。
「うん、凄く暇ぁー。遊ぶところもないしねー」
「言えてる」
軽く笑ったフランツは、「夜、飲もうぜ?ウチに来いよ」と、グラスを傾けるジェスチャーをしながらラドを誘った。
「行くー!」
なかなか会えなくなった親しい友人の誘い。断る理由などないラドは、一も二もなく頷いた。
フランツと約束してから翠のカエル亭…つまり自宅に帰ったラドは、泊り客が少ないのでさほど忙しくない両親に挨拶した
後、軽い興味で宿帳を検めた。
チェックイン時間から見て、駅でみたふたりと思しき名前は、宿帳の最後にあった。
(ギュンター・エアハルト…。ミオ・アイアンハート…)
こうしてラドは旅人達の名を知った。この先激変する自分の人生に深く関わるふたりだと、知らないまま…。
(どっちがどっちかな…。イントネーションからすると、外人っぽい猫の方がアイアンハート?
そんな事を考えながら、ラドはたいして広くない宿の中を抜けて行く。
緑のカエル亭は、大衆酒場とINNを兼ねる、古い造りの宿だった。
インテリアとして、安いがそれなりに見られる風景画や、石膏の実物大胸像やグラスサイズの女神像などが飾られている。
ラドは石膏像の一つをちらりと見遣り、それから目を逸らした。
(今見ると、かなり粗いー…)
飾られている、以前の自分の作品が疎ましい。上達した今になってみれば、当時の未熟さがはっきり判って恥ずかしいのに、
それがいつまでも飾られ続けている。
そしてそれらの石膏像が息子の作品だという事が両親の自慢で、事ある毎に客に教える。それが本人の目の前でも行なわれ
るし、時にはわざわざ呼びつけて紹介される。これもラドには嫌な事だった。
客室フロアへ続く階段を見上げ、それから裏の母屋へ向かうラド。
移動で疲れている…と親への挨拶もそこそこで切り上げたが、それは建前。夕食の支度などで両親が忙しくなるまでは、あ
れこれ話しかけられるのが煩わしいので、夜までは部屋に籠るつもりだった。
数か月ぶりの自室は綺麗になっていた。居ない間も母親が掃除してくれているからなのだが、これも何となく気に食わない。
勝手に入らないでほしいというのが本音である。
(いっそ、帰って来なくてもよくなったらー、この部屋もいらなくなるのになー…)
そんな事を考えながらベッドに腰を下ろしたラドは、飾ってある小さな紙粘土の胸像を見つめる。
それはラドが八つの時に作った、友人を象った粘土細工。造形の資質がある事を教師や親に知らしめたきっかけの作品。
今見れば雑だと感じるのだが、それでも宿内に飾られている他の作品とは違い、この品は嫌ではない。拙いながらも、当時
の年齢を鑑みれば上出来と言えたし、不特定多数に見られる位置に置いている訳でもないので。
まだ幼さが残るフランツの顔形を、当時の自分が一生懸命再現しようとした粘土胸像…。それをしばらく見つめていたラド
は、先ほど約束した、夜の顔合わせが待ち遠しくなった。
皆、自分が作った作品の事は褒めてくれる。
褒められる事自体は嫌ではない。だが、決して見てくれが良いとは言えないラド自身を見つめてくれる人物は、今も昔もあ
まり居ない。
だがフランツは自分を見てくれる。だからラドは、あの幼馴染が特別好きだった。彼は誰にでも優しいから…と、実感して
いながらも…。
一方その頃、客室棟三階では…。
「釣った魚、宿で料理してくれるかな?」
早速釣竿をチェックし、持っていく荷物を纏めているギュンターに、ベッドの上に座ったミオが訊ねる。
「食わないぞ?逃がすからな」
「また逃がすんだ?優しいね」
そんなミオの言葉と微笑みに、ギュンターは仏頂面で応じる。
「優しいもんか。優しかったらそもそも釣りなんかしない。食われないにしろ、釣り上げられるだけで魚はとんでもなく迷惑
しているだろう?食事にありついたと思って食いついたら、口に針を引っ掛けられて、痛い目に遭わされる訳だしな。逃がす
のは、欲求に負けた俺の手前勝手な罪滅ぼしだ。釣らざるを得ない事への妥協に過ぎないんだよ」
「そういう物かなぁ?」
ふたりにとって、この一週間は久々の休暇である。
それぞれ休暇を消化するようにと上官からやんわりと、しかしその実結構しつこく繰り返し促されていたので、それならば
とふたりで日程を重ねて休暇取得したのである。
だが、ギュンターの兄であるヴァイスリッターの騎士団長も、ミオの上官である少佐も、ふたりでパーッと賑やかな所にで
も遊びに行くものだと考えていたのだが、青少年たちの選択結果はこの田舎町への旅行。往復の移動に丸二日を費やし、冬場
の田舎で安宿に宿泊して釣り三昧という日程だった。
これにはふたりの上官も少し悩んだ。年相応な遊び方ができなくなっているのではないかと、懸念を抱いて。
しかし当の本人達はこれで満足なのだから、一種の親の心子知らずである。何処でもできるような事をわざわざ遠方でやる
のはとても贅沢な事だと、ふたりの価値観は判断していた。
「小さな湖がある。まずそこから当たろう」
「他には?」
「小川と沼。どこも森際だからバードウォッチング向きだ」
「グート」
頷きながら、ポケットに入れたオペラグラスを確認するミオ。
釣れる魚もポイントも調べていない。釣れないのもまた一興と、行き当たりばったりのなんとも酔狂な旅釣りであった。
「市街地の際から一歩踏み出せば、木だらけの起伏に富んだ地形だ。軽い運動になるから、軽く何か食ってから出るか?」
纏めていた荷物から手と目を離し、そう訊ねたギュンターは、
「何か買って持って行っても良いが…ん?」
返事がない連れの顔を訝しげに見遣った。
唐突に返事をしなくなったミオは、じっと部屋の鏡を見つめている。
何か変わった事があるのかと、視線を追って鏡を見たギュンターだったが、そこには部屋が映り込む普通の景色があるだけ
で、古びて少し曇っている以外には気になる点も無い。
「ミオ?」
名を呼ばれてハッとしたアメリカンショートヘアーは、友人に視線を戻し、「あ、ゴメン。何?」と聞き返す。
「こっちが「何?」だ。どうかしたのか?」
「え?いや何も…。ちょっとぼーっとしてて…」
苦笑いしたミオは、「旅疲れか?」と眉根を寄せたギュンターに、曖昧な首肯で応じた。
(気のせい…かな…)
ちらりと鏡を見遣ったミオは、釈然としない気分で耳を小さく動かし、部屋を出るギュンターについて行く。
そうして鍵がかけられ、無人になった部屋の金属製ドアノブに…、
(さて、伝えるべきかしら?それとも黙っておくべきかしら?)
色白の、人間に見える若い女性の顔が映り込んだ。
だが、ドアの前は勿論、部屋の中にはそこに姿が映るような人物など存在しない。
(武装も満足に携帯していない状況…、変に教えて突っかかって行かれても困るわね…)
白い女性…レディ・スノウとも呼ばれるソレは、擦れて光沢が悪くなったドアノブの中で目を閉じ、軽く肩を竦めた。
(いよいよとなったら警告するとしましょうか…。黄昏の訪れを…)