ファルシャーネーベル(act2)

 寂れた町にも日が暮れて、ぽつりぽつりとばらけた明かりが、そこかしこに灯り始めた。

 闇と光の極端に偏った比率は都市部とは比較にならないほど。煌々と照る満月間近の月明かりは、寂れた町を、人通りの絶

えた路地を、明かりもまばらな目抜き通りを、等しく冷たく照らしている。

 そんな黒々とした闇の中に蹲る、日当たりが悪いせいで屋根に残った雪が凍りついた、一軒の民家で…。

「酔ったか?」

 兎がクルッと耳の角度を変えて笑い顔になり、顔がすっかり赤くなったヒキガエルの頬を、からかうようにプニュッとつつ

いた。

「酔ってないよー」

 そう応じるラドの声は、しかし抑揚がややおかしくて、少し鼻にかかっていた。

 フランツの家は、壁が薄く窓も昔ながらの造りなので、保温も暖房のききも悪く、部屋はあまり暖かくない。

 布張りのソファーは表面のあちこちにほつれが目立ち、テーブルは薄くて軽く、足が悪くていちいちカタカタと音を立てた。

 フランツの実家は裕福ではない。それは、特に稼ぎが悪いからではなく、両親が信心深過ぎて、収入に見合わないお布施を

教会に納めているせいである。

 フランツが少年時代に長らく教会の聖歌隊に所属していたのも、親に入れられたというのが発端だった。

 だが、そんな家庭はこの町で珍しくない。

 貧困と疲弊と過疎。産業の無さと少子高齢化。住民の減少のみならず、交流人口もほぼ皆無。だからこそ逃避を兼ねて力を

入れる信仰。この町には、地方自治体が避けたい事柄が集約され、縮図のように被せられている。

「そうか?無理してるんじゃ…」

 からかうように目を細めたフランツへ、まだまだ平気だとアピールするように、ラドはグラスのワインをグッと飲み干した。

 喉を下る不味い酒。安っぽい甘みが口内に居座り、人工的なフルーツの香りがねっとりと絡むように鼻へ抜け、そのくせ渋

みが舌に残る。後味までは誤魔化し切れていない、ひとの手を加えて整えた味も、香りも、どこまでも中途半端だった。

 この辺りで生産される、流通量が少なく、しかしブランド銘柄でもない、質が悪過ぎて市場拡大に失敗して二十年は経つが、

それでも細々と生産されているドイツワイン…。ここでしか飲めない故郷の味と言えば聞こえはいいが、この程度のワインは

何処ででも二束三文で売られている。

 それでも生産開始当時は大きく期待を寄せられたのだろう。現在ではかなり規模が縮小されたワイン生産工場に隣接する記

念館には、当時の有力者や近隣の顔役などが揃った試飲会や、大々的なセレモニーの様子が、写真で残されている。

 幼少時に授業で見学に行かされた時は、係員から聞かされた粉飾された説明と大袈裟な予定…否、妄想話に等しい物を、あ

る程度真面目に受け取っていた物だが…。

(ヘルシャーノーブル(君主の上品さ)…。名前負けもいい所だよねぇー…)

 町の名の一部を取り、名前だけはそれらしく作られたが、味が悪いせいで滑稽に感じられるネーミング。なまじ名前がまと

もだから酷いと失笑するラド。

「どうかしたか?何か面白いのか?…いややっぱり酔ったんだろ?」

「ちーがーうーよー。フランツこそ、あんまり進まないねー?」

 問われたラドは尻をずらしてフランツに寄りながら、その手の中にあるグラスを覗き込んだ。酔ったかと訊く割に、フラン

ツの方も酒の進みは遅い。

 フランツはラドの空になったワインをグラスに注ぎ足してやると、半分ほどになっていた自分のグラスにも注ぎ、

「酒ぐらい持って来れば良かったな…」

 と、まだ中身がたっぷり残っている瓶を掴んで灯りに翳し、派手に顔を顰めた。ラドもこれに同意して頷く。

 栄えた街で飲める質の良い酒に舌が慣れると、地元ではオーソドックスなこのワインの低俗さが浮き彫りになる。フランツ

と一緒でなければ酒の進みはもっと悪かっただろう。

「寒いねー」

 ポツリと漏らしたラドの左手は、フランツの右腿にそっと這って、内股へと進む。

 鼻を小さく鳴らしたフランツは、それを咎める事もなくラドの肩に腕を回して、受け入れるように身を寄せた。

 首に回って胸に降りた兎の手が、ヒキガエルのタプンと柔らかな胸をセーターの上から鷲掴みにして、軽く指を食いこませ

る。

 そこを揉みしだくように軽く手を動かしながら、フランツは「少し太ったか?」と口の端を上げた。

「変わってないよー」

「いいや太っただろ?」

「変わってないってばー」

 応じるラドの手はフランツの筋張った太腿を撫で回す。

 士官候補生として訓練を受けているフランツは、元々細かった体から無駄な肉をすっかり削ぎ落として、鋭く引き締まった

ボディラインを獲得していた。

 ラドの手がフランツの体を這い上がる。衣類越しにもくびれた腹部と腰骨の線が判り、鼓動が少しずつ早まった。

「飲めよ。まずくても温まる」

「燃料みたいな扱いー。アルコール燃料だねー」

「違いない」

 苦笑いしながらグラスを取って口元に運ぶフランツ。促されるようにそれに倣って、ワインを煽るラド。

 味わう事を考えず、喉を隆起させて胃に流し込んだラドの口に、フランツの唇が重ねられた。

 唇を割って入り込む舌と、口移しのワイン。

 口の端から零れたワインの筋が、ラドの襟から胸元へ入った。

 コクンと喉を鳴らしてフランツの唾液とワインを飲み下すラドは、弛緩した恍惚の表情を浮かべている。

 男女がそうするように、互いの口を貪り吸うふたり。

 こんな時、ラドはいつも考える。フランツだけが違うのだ、と。

 ラドが作る物を、皆が美しいと褒めてくれた。

 だが、ラド自身の容姿を褒めてはくれない。

 皆が見ているのは、見てくれの悪い自分ではなく、自分が作った像だけ…。

 皆が好きなのは、不細工なヒキガエルではなく、その手が産んだ品だけ…。

 だが、フランツは違う。

 自分を見て、自分を好いて、自分を評価してくれる…。何の取り柄も無かった頃から、皆と違ってフランツだけは自分を見

ていてくれた。

 最初に体を重ねたのは、面白くない事があって、ふざけて調理酒用の質が悪いワインに手を出して、酔っぱらってしまった

十五の頃。何も知らないまま、こうだろうか?と悩み、想像しながら、男女のセックスの真似事をしてみた時の事。

 それで男に欲情する癖がつき、女に興味を持たなくなってしまったのか、はたまた元々そういう性質だったのかは、それま

で誰かに恋をした事が無かったので、ラド自身にも正確な所は判らないのだが、生まれてこの方異性への興味を一度も自覚す

ることなく、男色が定着してしまった。

 だが、後悔はしていなかった。

 初めてベッドを共にした相手が女ではなくフランツだった事も、今では当然の事と思えている。

 といっても、ふたりは交際しているという訳ではない。

 そういう気分になった時に、肉欲を満たすために体を重ねるだけで、それを除けばただの親しい友人にしか見えない付き合

いをしている。ずっと一緒に居ようなどと約束した訳でもなければ、将来共に過ごす予定がある訳でもない。

 もしもそうなったら…と、時々考えはするが、今のところはそれだけである。

「かわいいな、ラド…」

 酔いが回り始めたラドの目を、唇を外したフランツが至近距離から見つめる。タプンと柔らかな肉が堆積した顎下に手を這

わせ、軽く撫でて揺すりながら。

 そしてフランツは、気持ちよさそうに目を細めているラドを、ゆっくりとソファーに押し倒した。

 セーターの肩を掴み、上に引っ張られるラドは、背中を浮かせて腕を上に向け、素直に脱がされる。

 衣類を一枚一枚剥ぎ取られてゆき、やがてだらしなく弛んだヒキガエルの裸体が、薄暗い照明の下であらわになった。

 フランツの手が自分の胸から腹へ撫で下ろすのを、ラドは顎を引いて見つめる。

 柔らかく緩い皮下脂肪を覆うのは、両生類特有のツルンとした肌。粘膜と皮膚の中間のようなその外皮は独特の手触り。

 女性のソレとは違う、弛んで潰れたラインを描く胸を丹念に揉み、脇腹をくすぐるように浅く撫でる兎。されるがまま、細

い指先の感触に酔いしれて、早くも上気し始めるヒキガエル。

 やがてフランツの手は、ムッチリ肉が張った股間へ伸びる。

 反射的にギュッと太腿を閉めたラドに微苦笑を見せて、フランツがそっと、その太腿を左右に開いた。

 ツルンとした肌色の股間には、縦長の割れ目があるだけ。ヒキガエルのラドのソレは、このスリットに収納されており、露

出していない。

 その、肉と粘膜に包まれた秘部へ、兎の細指がツプリと、ゆっくり入り込む。

「くっ…、んっ!」

 肉の内へ入り込まれる感触に声を漏らすラド。フランツの指は既に粘液で湿った肉の割れ目を探り、最奥に埋もれる突起に

触れる。

「ひんあっ!」

 高い声を漏らし、仰け反るラド。その水膨れしているような全身で、タプンと贅肉が揺れるほどに強く反応したヒキガエル

は、口を閉じ、狭い鼻孔からフシューフシューと息を漏らす。

「かわいいな、ラド…」

 繰り返したフランツは、割れ目に入れた中指と薬指で、ラドの陰茎先端を撫でながら、空いた片手で自らのベルトを外した。

 シュルリと抜き取られたベルトが床に落ちる音を、ラドは秘所を弄られながら聞く。

 体は正直。既に口内には唾液が溢れ、一度は反射的に閉じて相手に開かれた股も、今は自分から広げて股間に潜り込んだ指

の刺激を貪っている。

 クチュッ、クチュッ、と湿った卑猥な音が、フランツの手に弄ばれるラドの股間から上がる。その指が大きく動くたびに、

ヒキガエルは押し殺した声が微かに混じる吐息で、喉を震わせ、鼻孔を大きくする。

 やがてフランツは手を引くと、ラドの脚をさらに大きく開かせて、ズボンと下着を脱いだ。

 待ちかねたように上気するラドの前で、黒兎の腰回りが露出する。

 フランツの陰茎は既に勃起していた。充血で赤々とした亀頭は膨れ上がり、肉棒には太い血管が浮き出ている。

 ラドは薄目を開けて視線を下に向け、自分の腹の向こうに半分隠れたソレを見遣り、

「入れてー…、フランツのソレ、ちょうだーい…!もう、我慢できないぃー…!」

 恥じらいを押し殺した熱っぽい口調で、あからさまに誘った。

「いやらしいな、ラド…」

 口の端を上げて応じたフランツは、自らの肉棒を、ラドの肉棒が収まっているスリットへと突き入れた。

 ズブチュッ、とぬかるみに足が埋まるような、一層大きな湿った音が響いた。

 挿入を受けたスリットは開いて内部の赤を露呈し、粘膜と粘液がフランツの陰茎を飲み込む。

「あん!んあ、あ…!」

 身悶えするラド。スリット内に侵入した兎の陰茎が、先住しているヒキガエルのソレと触れ合う。

 この種でなければ味わえない感覚。味わえない刺激。味わえない快楽。

 それだけで、ヒキガエルに生まれて良かったと思えた。

 

 一方その頃…。

「ちょっと、湿気ある?」

「ん?」

 夕食を終え、シャワーを浴びたギュンターが、ズボンだけ穿き、逞しく引き絞った上体を外気に晒したままベッドルームに

戻ると、窓際のテーブルセットについて外を眺めていたミオがおもむろに訊ねた。

「どうだろうな。周囲の山から吹き下ろす風にもよるだろうが…、この気温だぞ」

「そんな恰好で「この気温」とか言われてもね」

 ミオがクスリと笑い、ギュンターはタオルで頭をゴシゴシと乱暴に拭いながら「まあな」と応じた。

 そして青年は椅子に腰を下ろし、アメリカンショートヘアーと小さなテーブルを挟む。

「ダンケ」

 紅茶のポットを取り、カップに注ぐミオに礼を言うと、ギュンターは頭を拭っていたタオルを首にかけた。

 筋肉のラインがくっきり見える青年の裸身には、無数の傷跡があった。

 だが、任務で負った傷は少ない。その傷の数々は、ほとんどが訓練で負った物である。

 いかなる組織にも恐れられるほどの武力を誇るリッター。

 その訓練は実戦さながらの激しい物で、時に重傷者や、命を落とす者まで出る。そこまでして日常的に鍛え込まれているか

らこそ、実戦で後れを取るケースは極めて少ない。大概、訓練の方が実際に任務中に遭遇する困難よりも、遥かに過酷なのだ

から。

 実際のところ、その一員であるギュンターの身体能力は常人を大きく越え、人間でありながら獣人のアスリートレベルを超

えた筋力と機敏さを持っている。同様の訓練を受けた獣人には、流石に身体性能の面では敵わないが、それでも戦技で劣りは

しない。

 熱いストレートティーを音を立ててズズズっと啜り、一息ついたギュンターの脇で、吐息を受けた窓が丸く曇った。とはいっ

ても、既に結露が激しい窓に、細かな穴だらけの白い曇りができただけ。

 一方、静かに紅茶を啜るミオは音を立てない。脚を広げてくつろいでいるギュンターとは違い、膝を真っ直ぐに出して背筋

を伸ばした、整った姿勢である。

 ミオは外だけでなく、プライベートでもこんな具合だった。逆にギュンターは、軍人然としたきびきびした振る舞いは苦に

ならないが、優雅さや上品さという物を理解し実践するのが得意ではない。良くも悪くも自然と愛想に欠ける職業軍人的振る

舞いや受け答えになってしまう。

 疲れないのか?と、ギュンターも以前はよく訊ねた物だったが、今はもう気にしない。「将校たる者、振る舞いにエレガン

トさを忘れるべからず」と、誰かの受け売りなのか、決まった文言が返って来るだけなので。

「湿度が高くとも低くとも予定に変更はない。決行を見合わせるような悪天候にでもならない限りは、夜明け前に打って出る」

 出撃するかのような勇ましい口調と表情で述べるギュンターだが、ようするに陽が昇る前にまた釣りに行くつもりなのであ

る。彼にとっての釣りがどれだけ真剣勝負なのか、その珍妙な熱意から垣間見えた。

「それは良いけど。付き合うし…」

 応じたミオは窓の外を見遣り、目を細めた。

「…気温…、湿度…、それなのに…。変なの」

 その口の中で転がされた呟きはあまりに小さく、ギュンターには聞こえなかった。

「早めに休むぞ。英気を養わずして結果を求めるべからず。食う時は食い、眠る時は眠り、挑む時は挑む。その時々にやるべ

き事をやらねば」

 生真面目さが状況に対してやや滑っている印象が拭えないギュンターの発言に、ミオはクスッと笑いを引き出された。

「ん?どうかしたか?」

「ううん。ただ…、あ〜…、ミューラーさんも同じような事を言うなぁって思って。食べる時にはしっかり食べないと、丈夫

な体が作れませんよ、って」

 単純にギュンターの発言が笑いを誘っただけとは言えず、共通の知り合いである猪の名を挙げて誤魔化したミオに、

「ふん…。彼は単にミオの小食が珍しく、自分の健啖ぶりを自覚していないから、ああいうだけの事だ。俺から見ればミュー

ラー特曹の食事はいささか品に欠ける。…とはいえ俺も上品とは言えないから大きな事は言えないのだがな…」

 そう言って眉尻を下げるギュンター。

 その頭の中にあるのは、兄とミオの完璧なテーブルマナー。食事で同席した際には腕の違いを痛感させられてしまう。

「…性格も現れるのか…?」

「え?」

「いや、こっちの話だ」

 若き騎士は、太く筋張った首の後ろに手をやり、憮然とした表情のまま、ほぐすように左右へ傾けた。

 そこで、ギュンターはミオの腰の辺りへ視線を向ける。

 テーブルが邪魔で見えないが、ポケット辺りから震動音が聞こえた。

「連絡…。少佐からだ」

 携帯電話兼情報端末を取り出したミオは、暗号化されていない通常のメールを開き、目を左右に動かして文字列を追うと、

やがてふっと表情を和らげた。

「緊急の用件…という訳じゃなさそうだな?」

 ミオの表情から察して口を開いたギュンターに、

「うん。くつろいでいるか、って。それとエアハルト大佐が、メールを送ったのに返事が無い…って零していたって」

 アメリカンショートヘアーは、ベッドサイドで充電しているギュンターの携帯を見遣りながら告げた。

「な!兄上から!?」

 慌てて腰を上げて足早にベッドへ向かい、携帯を掴んだギュンターは、上官からの訓示文でも読み上げるように背筋を伸ば

し、直立不動でメールを確認する。

「お兄さんは何て?」

「…ミオに迷惑をかけていないか、逐次自己採点せよ、と…」

 何とも言えない微妙な表情でメールを読み終えたギュンターは、

「…ここまでに何件迷惑した?」

 真面目くさった顔で確認を求め、ミオに小さく吹き出させた。

 

(俺だ。現在地はノーブルロッソ市街地間際。予定通り作戦行動に入るが、良いか?)

 月明かりを浴びて佇む黒影が、頭の中で呟く。

 周囲には誰も居ない。町の郊外に当たる鬱蒼と茂った木々の中に、影がひとつ。

 凍りついた薄い雪の層の上に顔を出す、小さな岩に足を置いているのは、エインフェリア、ヘイムダル。

 一番近い町の街灯までおよそ千二百メートルといった所だが、町の外周を巡る道路には車はおろかひとの姿もない。

(くれぐれも、隠密に頼むわねぇ)

 やがてヘイムダルの頭の中に響いたのは、女性の声。

(解ってるよ。…それにしてもつまんねー町だ。さっさと済ませて撤収する。アンタが来る前にな)

(あらあら、お気に召さなかったかしらぁ?)

 頭に響く女性の声に含み笑いの気配が混じり、ヘイムダルは憮然とした。

(そんなの当たり前だろー?戦闘を避けるどころか、存在を気取られないように隠密行動?ただでさえ歯応えのある相手が居

る訳でもねー場所に遥々来て、調査と、場合によっちゃ回収?俺向きじゃねー!)

(うふふふ…!そう言わないでちょうだいな。この状況で動かせるのは貴方だけなのよねぇ)

(むー…!)

 主である灰髪の魔女の命令は拒否しないが、それでも不平不満を隠そうともせず率直に文句をぶつけていたヘイムダルは、

(…ん?)

 突然目を細め、軽く膝を曲げて僅かに腰を沈めた。

(どうかしたのかしらぁ?)

 自分の懐刀が臨戦態勢に入った事を察し、確認するヘルに、

(霧が…出始めたな)

 ヘイムダルは鋭い目つきで町の様子を窺いつつ応じる。

 先程までは全く無かったのだが、地面が薄く霧に覆われつつあった。

 どこから湧いているのかは判別し難い。道端の側溝や家屋の排水口などから、温水が蒸気となって発散されているようにも

見えるし、地面から水分が気化しているようにも見える。

 さらに妙なのは、煙突や室外機などから上がる蒸気は、その気温の中で長らく留まっている事を許されず、あっという間に

霧散して薄れてゆくのに、地面に薄く溜まった霧はいつまでも消えない。

 地表すれすれの低い位置とそれ以外では、気温が違うのか、風が違うのか、それとも…。

(情報通りね…。で、どうなの?)

(地形、風向、気温、…どれをとってもこんな具合に霧が出るのは不自然だ)

(ビンゴかしら?)

(かもな)

 ヘイムダルは腰に手を遣り、得物の手触りを確かめた。狐の両腰には、それぞれ一本ずつ刀剣が装着されている。

 右の腰には刃渡りがやや長く、比較的細身の諸刃直剣。

 強靭なフレームと硬度が高いエッジから成る、強度と切れ味を兼ね備えたラグナロク製の白兵戦武装、ジルコンブレード。

 そして左の腰には、刀身がやや反った大振りな刀。

 身幅は分厚く、刀身先端まで太い、まるで鉈そのまま引き伸ばしたような異形の大太刀で、銘は獅子王。

(目的は、判っているわねぇ?)

(当然)

 ヘイムダルは霧が流れる町の底を見据え、足を踏み出す。

(さあ任務開始だ。とっとと確かめて帰るとするか)

 

 そして、夜が更けて、日付が変わった八時間後…。

「そろそろ陽が出るね」

 白い息をはぁ〜っと吐き、それを集めるように手袋に覆われた手を動かしたミオは、傍らのギュンターを見下ろす。

 立ち上がっている猫の横、折り畳みチェアに腰を据えて釣竿を構えたまま、微動だにしないギュンターの顔は…浮かない。

 釣果ゼロ。夜中に出張ってこの結果はなかなかに痛かった。

「…迷惑点、一点追加か…」

「え?」

「こっちの話だ…」

 夜明け前の白み始めた空の下、冷え込みが最もきつい時間である。町を囲む森林の一角、やや小高い丘の上に位置する沼の

ほとりには、ふたりの他に誰も居ない。

「あれ?」

 硬い表情のギュンターから視線を外したミオは、町の方へ目を遣り、軽く眉根を寄せた。

「どうした?」

 ようやく水面の浮きから目を離して口を開いたギュンターに、

「霧が…」

 不思議そうな顔をしたミオは、尾と耳を小刻みに動かしながら、木々の切れ目から見下ろせる街を指さしてみせた。

「引いてく。潮が引くみたいに…」

 アメリカンショートヘアーが眺める先では、夜に湧き出して地表を覆い、膝下の高さまで溜まっていた霧は、徐々にその高

さを下げて、地面が透けて見えるほどになっていた。

 だが、薄まった訳ではない。霧の濃度自体は変わっておらず、まるで水が地面に吸い込まれてゆくように厚みを減らしてい

る。

 そちらを一瞥したギュンターは、「気になるのか?」と訊ねた。

「いや、それほどでも…。ちょっと神経質だね」

「いいや、注意深いと言うんだ。お前の場合は」

 例えば何かの加工場がひしめく界隈や、賑わう繁華街のような、何らかの熱を排出した事に伴う蒸気の出方ではない。脛の

辺りまで溜まる低い霧は、それ以上上昇する事もなく、流れ去る事も無く、ただそこに湧き出し、溜まり、そして消える。

 ミオにはその発生と消失が、どうにも変わっているように思えた。

「変わった現象だね。ちょっと面白いな」

「俺にはどう変わっているのか判らないが、面白く感じるほどなら、この町独特の現象なのかもな。朝飯の時にでも、宿の親

父に訊いてみるか」

「うん」

 そしてミオは腰を下ろす。いよいよ明るくなってきた空の下、町の境界の天辺で金の十字架が、それ自体が発光しているよ

うに光を反射し始めていた。

 

 何事もないような静けさで月の時間は過ぎ、夜明け直前に向けて気温はぐんぐん下がった。

 その寒さがピークになった頃…。

「ん…、んん〜…」

 顔を顰めたラドが、唸りながら身悶えした。

 妙な、落ち着かない夢を見て。

 それは、取り掛かっている石膏像がポロポロ、ポロポロと、ひび割れて崩れるという物だった。

 コンクールまで期限が無い。有り得ないほど時間が無い。部屋の外で審査員が待っている。そんな非現実的なシチュエーショ

ンで、ひとを待たせていられる程度の時間ではどうしようもない作業に挑み、ひたすら徒労感だけを味わわされ、ただただ疲

れる夢…。

 やがて丸い眼球の上で薄い瞼が動き、開く。

 そうしてぼんやりと天井を見たラドは、夢だった事を悟ってホッとしつつ、フランツの部屋で飲んでいた事を思い出し、

(ろくなワインじゃないなぁー…)

 と、少し重い頭と疲れる夢を安酒のせいにした。

 ラドはソファーで、情事の後そのまま眠っていた。

 フランツが用意したのだろう毛布が二枚、ラドの体を覆っていた。

 一方で兎は、ソファーの脇で毛布にくるまり、床に転がって寝ている。

 寝覚めの悪い夢から一転して気分が良くなったラドは、気を遣ってくれたのだろう友人の頬に手を伸ばし、軽く撫でた。

(冷たーい…)

 温い毛布の中から出したばかりの手に感じる、ソファーの下…床すれすれは、空気がひんやりしていて、フランツの湿った

鼻先は、触れた指を驚いて引っ込めるほどに冷たくなっていた。

(暖房弱くなってる?それとも出力が低いのかなー…)

 活きの悪い暖房を見遣ってそう考えた途端、急に肌寒さが強くなって、ラドは大きく身震いした。

 そして、自分にソファーを譲って寒い場所で寝ているフランツを見下ろし、申し訳なくなって腰を上げる。

「むー…」

 のそっと、脇に寄り添い、横たわるラドの気配で目が醒めて、薄目を開けたフランツは耳をピクつかせた。

「うーふーふー…」

 意味不明な笑みを浮かべて見せたラドは、相手の物に加えて毛布二枚を、フランツとふたりで被る格好にしてぴったり身を

寄せた。

 そうして首元に毛布を引っ張り上げたヒキガエルは…、

「寝直すならベッド行こうぜ…」

「うっ…!?」

 もっともな提案をされて言葉に詰まった。

 かくして蛙は、ベッドに移って兎に添い寝しながら、再び微睡の中へ落ちて行く。

 

―フランツはー、なんでみんなといっしょにいかないのー?―

 

 微睡の中、握った兎の手に呼び起こされる、ラドの古い記憶は…。