第一話 「神代熊鬼」

 浅葱色の着物を纏った大きな熊は、日暮れも近い斜陽を受けながら、のっしのっしと未舗装の道を行く。

 夕餉の支度をしているのだろう、道の左右に建ついくつかの平屋からは、家毎に異なる香りが漂って来る。

 民家がポツポツと建つ、標高も高い山間の盆地にぽつんと拓けたこの村は、河祖下という小さな寒村である。

 村内には舗装されている道は少なく、麓へ向かう道だけが四半世紀程前にようやく舗装されたばかり。それも丁寧とは決し

て呼べない舗装具合で、敷かれてから二十六年も経った今、生命力に満ちあふれた雑草や木の根であちこちが押され、ひび割

れている。

 この村の殆どの道がそうであるように、踏み固められた土の道を、大きな熊は雪駄で踏み締め、進んでゆく。

 小山のよう、という表現がしっくり来る。身の丈もさることながら、厚みも幅も半端ではない巨漢であった。

 体毛は赤味が強い茶色。当年とって四十七という歳のせいか、体もたるみ、かなり腹が出た体型である。

 老い衰える…とまでは至っていない程度の、しかし男盛りも過ぎている巨漢は、やけにゆっくりとした歩調で進みながら、

右手に広がる狭い畑の方を見遣った。

 つるべ落としと表現されるこの頃の陽は、傾き始めればあっと言う間に足を速め、峰の向こうへ消えてしまう。そして標高

の高いこの村には、冷たい夜がやって来る。

 陽の温もりを惜しむかのように眼を細めた巨漢は、ややあって視線を前へ戻した。

 その、身の丈七尺七寸にも及ぶ巨漢の影法師を踏まぬよう、斜め後ろを歩む者があった。

 そちらは赤銅色の巨熊である。

 前を行く巨漢と殆ど変わらぬ身の丈。太り気味ではあるものの、巨漢と比べればまだ締まりがある体付き。

 厳めしい顔つきをしており、前をはだけて着用した黒い学ランの下には白いランニングシャツ一枚。

 この男の十四という実年齢を聞けば、誰もが驚きを隠せない。

 極めて大柄であるのみならず、体付きにも顔つきにも幼さは微塵も無く、堂々とした振る舞いと巨躯に纏う威厳は、年齢に

適した少年という言葉で彼を表現する事を躊躇わせた。

 男二人は共に山のようでありながら、印象はかなり異なる。

 前を行く巨漢が穏やかな、実り多き秋の山を思わせるのに対し、後ろを歩む男は近寄り難い険しい山を連想させた。

 ゆっくりと歩む二人は、やがて四角い機械で足を止めた。

 村の集会場の前に公衆電話と並んで設置されているそれは、この村では数少ない清涼飲料水の自動販売機である。

「コーシーでええか?」

 一応標準語ではあるものの、訛りのきつい言葉を発し、若熊を振り返る巨漢。問われた方はそれに対してただ一言「茶」と、

不機嫌さを隠そうともせず、ぶっきらぼうに応じた。

 今年の春に取り替えられたばかりの、このルーレットつきの自販機がお気に入りらしく、巨漢は運試しと称しては頻繁に足

を運び、やたらと甘い缶コーヒーを買っている。

 が、若熊はこの電子音が鳴る自販機自体も騒々しいと感じている上に、巨漢が年甲斐もなく当たったの外れたのと一喜一憂

する事も、快く思っていない。

「外れじゃ」

 残念そうに呟いた巨熊がウーロン茶の缶を放ると、若熊は渋い顔をしながら片手で掴み取る。

 結局二度とも外れて残念がる巨漢に、「んで、何の話だ親父殿」と、若熊は仏頂面を崩しもせず訊ねた。

「儂ぁ、明日っから数日村を開げる」

 そう言いつつプルタブを起こした細い缶をあおり、大きく開けた口にゴポポポポとコーヒーを注ぎ込むと、巨漢は口元を手

の甲でグイッと拭った。本人は汚れる事も気にならないようだが、若熊は父のこういった品の無いところも快く思っていない。

「お役目が?」

「お役目じゃ」

 若熊の短い問いに、その父親である巨漢も短く応じる。

 若熊は仏頂面をますます愛想の無い物に変えた。

 こんな事を言う為だけに読書を中断して屋敷から連れ出されたのかと思い、いささかムッとしている息子に、巨漢は構わず

言葉を続ける。

「こいつは物の例えだがなぁ。ユウヒよ。儂が誰かに殺されたら、おめぇどうする?」

「親父殿ば殺せるモンなんぞそうそう居ねぇべ。強いで上げんだら鳴神の雷電様ぐれぇだげっと、そいづぁねぇ」

 ユウヒと呼ばれた若熊は、即座に、さも馬鹿馬鹿しそうに応じる。

 帝に仕える戦人として数々の武勲を立て、神代家を数百年ぶりに神将に復権させるという話が出るまでに押し上げた父…。

 ユウヒ少年にとっての父は、天上天下遍く見渡した所で並ぶ者の無い武人であり、目標でもあった。

 が、ひととして、当主として、父として、それは如何な物か?と思う箇所も多々ある。

 戦人としてはともかく、一家の大黒柱として、父として、巨漢は万事適当過ぎるきらいがあった。それが、自分にも他人に

も厳しいユウヒ少年には気に入らないのである。

 不機嫌ながらも正直な気持ちと意見を言葉にした息子に、巨漢は破顔して見せた。

「儂ぁ今生きとる。生きとる以上は、いつか必ずくたばるもんじゃ。儂の場合はまぁ、まず間違いなく戦って死ぬ事になんだ

ろうなぁ」

 何が言いたいのか判らず黙り込んだユウヒに、巨漢は笑みを深くした。

「儂がくたばっても、おめぇは流されんなよ。親が父くたばった程度でおたおたするようじゃ、当主なんぞ務まらねぇぞ?」

「親父殿…?」

 さすがに妙だと感じたユウヒは、父の表情を窺った。

 朝からやけに機嫌が良さそうだったので、何か良い事でもあったのだろうと思っていたが、晴れ晴れとしたその表情が、不

意に不吉な物にも感じられた。

「今度のお務め…、どごで何すんだ?」

「言えねぇな。「とっぷしぃくれっと」じゃ」

 来年の誕生日を迎えれば十五、元服に至れば帝直轄領守護として勅命…つまり「お務め」に従事できるが、ユウヒは未だ勅

命を受けられる立場にはない。息子とはいえお務めの内容まで詳しく話す事はできなかった。

「おっちぬがもしんねぇのが?」

「例え話じゃ。今回に限っての事じゃあねぇ」

 とぼけた調子でうそぶく父。しかしいつもと様子が違うと、ユウヒはムスッと口を引き結ぶ。

 全く納得しない我が子に、巨漢は歯を剥いてニヤリと笑いかけた。

「安心しろ。おめぇの嫁っこが見付かるまでは、儂ぁ死んでも死に切れねぇ」

「なにかに付けですぐ嫁っこ嫁っこてやがますねぇど親父殿」

 ムスッとしたユウヒに「だっはっはっ!」と豪快な笑い声で応じ、巨漢は踵を返した。

「おめぇ一人拵えんのに、儂と母ちゃんがなんぼ苦労したと思っとるんじゃ?嫁っこ探しも早ぇに越した事はねぇ」

 すっかり話をすり替えてしまった父親がさっさと歩いて行くと、ユウヒはため息をついてその後を追った。

 先を行く父の、斜陽に染まった背を睨みながら。

 神代勇羆(くましろゆうひ)、十四歳。

 後に「奥羽の闘神」の異称で呼ばれる事になる巨熊も、元服を翌年に控えたこの時点では、身分的には未だ一介の中学生に

過ぎなかった。



「親父殿が妙だ」

 神代家の風呂場…湯煙漂う広い露天風呂の、岩に囲まれた湯船の縁に寄り掛かり、ユウヒはぼそりと呟いた。

「妙…、で御座いますか?」

 やや離れた位置に身を沈めている影が、低い声で問い返す。

「おがすねぇごど抜がすのはいづものごったげっと、手前が死んだらどうだの、おらが嫁貰うまで死に切れねぇだの、妙なご

どかだってでよ…」

 頭に乗せた手ぬぐいを取って顔を拭うユウヒに、影は尋ねる。

「此度のお役目…、相当危険な物なのでしょうか…?」

 心配そうな響きを孕んだ声を、垣根を越えて入って来た秋風がさらう。

 同時にもうもうと立ち込めていた湯気が払われ、鮮やかな赤茶色と白に覆われた顔があらわになった。

 ユウヒと共に入浴していたのは、大柄な犬である。

 被毛は豊かで骨太の体付きをしており、ユウヒ同様固太りの体型。

 身の丈はさすがにユウヒ程ではないものの、それでも十四という年齢からすればかなり大きく、180センチ近い。

「ヤクモ。御庭番だぢ、何がお役目の話ばしてねぇが?」

「いやそれは…。見習いの私らの前では、お役目に関する話は全く出ませんので…」

 ユウヒの問いに応じる礼儀正しい少年は、申し訳なさそうに三角の耳を伏せる。

「あど一年近ぐあんのが…。元服しねぇど話は聞かして貰えねぇ…。「歯痒い」っつぅの、こんな胸具合ば言うんだべな」

 ムスッとした顔で呟くユウヒに、少年は控え目に相槌を打った。

 この大柄な犬の少年、名を板前八雲(いたまえやくも)と言う。

 御庭番であった両親が殉職して以降、奉公人として神代家に入って面倒を見られている。

 生来の真面目が過ぎて、気難しいと言える気性となっているユウヒ少年にとって、幼馴染みでもあるこの同い歳の奉公人は、

村内で最も親しくしている相手でもあった。

 だが、ユウヒが気を許しているというこの点から、ヤクモの屋敷内での立場は微妙な物となっている。

 ひとを選り好みする若君に気に入られているこの少年は、ユウヒが片腕として傍に置くようになるやもしれないと期待され

ているのである。

 よって、いずれは神代の正式な御庭番となれるよう日夜鍛えられているのだが、しかし重大な問題点が二つあった。

 至って平和主義者で、虫も殺せぬ穏やかな気性の持ち主であるという事がまず一点。

 体格には恵まれているものの、体力が無い上に運動神経がすこぶる悪いというのがもう一点。

 つまり、そもそも御庭番が務まるかどうかという最低基準が、既に危ぶまれているのである。

 自分にも他人にも厳しいユウヒが、なぜこの少年と最も仲が良いのかは、屋敷内でも大きな謎になっている。

 厳しい鍛錬を進んで己に課し、脆さや弱さを徹底的に嫌う神代の若君は、どういう訳か、木偶の坊と陰口を叩かれているこ

の少年の事は嫌っていない。

 同年代では飛び抜けた大柄同士で、仲間意識から気が合うのだろうという話が、いくつか流れている中では、一応もっとも

らしい風評なのだが…。

「…ヤクモ…」

「何で御座いましょう?」

 大柄な体に見合わぬ幼い仕草で首を傾げたヤクモに、ユウヒは一瞬躊躇った後、言葉を続けた。

「…おめぇの親父殿が亡ぐなったどぎ…、どんな具合だった…?」

 ヤクモはピクリと身を震わせる。

 普段ならどんな事にもすぐに投げ返される返答は、今回は無かった。

「…いや、答えねって良い。変なごど聞いで悪がった…」

 すぐさま思い直してそう言ったユウヒは、不機嫌そうに顔を顰めた。

 父の言動が引っかかっていたとはいえ、あまりにも浅はかで思慮に欠ける問いだったと、胸の内で己をなじりながら。

 親しい仲とはいえ、軽々しく踏み込むべきでは無い部分がある事は、精神が成熟しつつあるユウヒにも判って来ている。

 それでも問いを発してしまったのは、常とは違う父の言葉と態度に不安を覚えてしまったからだった。

 ヤクモが両親を亡くしたのは、八歳の時。

 その時の事で何よりも強くユウヒの印象に残っているのは、泣き虫のヤクモが涙の一粒も見せなかった事であった。

 緊張して硬くはなっていたし、当然寂しげではあったものの、悲嘆に暮れて泣き叫ぶような姿は見せなかった。

 その事が、付き合いの長いユウヒにも不思議でならなかった。

 夕刻に見た父の態度の事もあって、その時の気分を訊ねてみたのだが…。

「…おそらく…、実感が無かったのだと思います…」

 かなり間を開けてからポツリと言ったヤクモを、もはや答えを求めていなかったユウヒは意外そうに見つめる。

「両親が居なくなった事…、最初は…、「寂しい」としか思えませんでした…」

「ヤクモ。無理に言わねったって良いど?」

 気遣ったユウヒに「大丈夫です」と微笑みかけ、ヤクモは眉根を寄せながら視線を上に向けた。両親を亡くした当時の事を

思い出しながら。

「最初は泣けませんでした。ですが…、四十九日が過ぎて、お屋敷に来て数日経った朝…、やっと見慣れ始めた天井を布団の

中から眺めていたら…、「ああ、父と母はもう居ないのだな…」と、急に思えて…、やっと、「悲しい」と思えました」

 黙って話に聞き入っているユウヒと一度視線を合わせると、ヤクモは目を閉じる。

「死に顔も見られませんでしたし、「さよなら」も言われなかったせいでしょうか…、お別れなのだなぁ、という実感が湧か

なかったのです…」

 これを聞いたユウヒは、胸の内で「ああ…」と納得する。

 緊急だったらしく、ヤクモの両親の最後のお役目は、我が子に出発を告げる事すらできない物だった。

 忘れもしないその日、ユウヒとヤクモは遠足で村を離れており、夕暮れに帰って来たその時には、ヤクモの両親は息を引き

取った状態で帰宅していた。

 さらには、二人の遺体は損壊がかなり激しかったため、幼いヤクモは親の死に顔を見せて貰えなかったのである。

 死に顔も見られず、別れの言葉も無く、突然居なくなってしまった両親…。

 八歳の子供が周囲から話を聞くだけで親の死を実感するのは難しかった。

「自分はきっと、こんな所まで鈍いのでしょうね」

 しばし閉じていた目を開け、そして細め、困ったような寂しがっているような苦笑いを浮かべたヤクモに、ユウヒは首を左

右に振る事で応じた。

「おらでも、そうなっかもしんねぇ」



 同時刻、神代家の屋敷、開け放った襖と窓の向こうに庭を眺める奥の間では、寝間着となる浴衣姿で胡座をかいた巨漢が、

升になみなみと注がれた酒をチビチビと舐めていた。

 巨漢は既に夕食後。腹が膨れるほど飲み食いし、刺激の強い酒で消化を促進させている。

 仕事を前に腹を膨らませるのは、この巨漢にとっては常の事であった。

 彼の家系に代々受け継がれて来た能力は燃費が悪い。体力をごっそり削って行くので、事前に食い溜めしておくのは戦への

備えなのである。特に大仕事前には少しでも消耗を補うべく馬鹿食いする。無論、動くまでに腹がこなれるよう見計らっての

事だが。

「此度の相手は逆神共…。一人一人別にだったら、これまでに潰して来たのと同じ事じゃが…、裏帝の本拠地となれば確実に

「天敵」も出て来るじゃろう。儂ら神代から出た天敵も、な…」

 息子と話した夕暮れ時とは口調を変え、重々しく呟いた巨漢の横で、同席していた者が目を伏せる。

 傍らに正座して同じく庭を眺めているのは、恰幅の良い熊の女性である。

「これまでも散々やんちゃして来たがのぉ…、場合によっちゃあ今度こそ帰って来れんやもしれん」

 ニカッと笑った巨漢は、自分より十五も若い妻へと顔を向ける。

「生きて帰って来られるよう頑張るつもりじゃが…、「もしも」ってもんは何処にでも転がっとる」

 今宵が今生の別れになるかもしれない。

 そう告げている夫に、女性は微笑みを返した。

「どうしたんですか今日は、らしくありませんよぉ?それに一つ、勘違いなさってらっしゃいます」

 女性が間延びした口調でそう言うと、巨漢はきょとんとした顔になる。

「私はいつだって、あなたがお務めに出向かれる度に、今度こそ帰って来ないかもしれないと、その都度覚悟を決めておりま

したよ。…いいえ、もっと正確に言うなら…、あなたに嫁ぐと決めたその時から、いつか置いてゆかれるかもしれないと、覚

悟を決めておりましたとも」

 何を今更。そんな調子で言われた巨漢は、しかし妻の体に多少なりとも緊張が見て取れる事に気付いていた。

 長年連れ添ってきた妻の気丈な態度に、巨漢は笑みを浮かべる。

「それは、気付けんかった…」

 肩を抱き寄せて自分にしなだれかからせた妻の頭の上に、巨漢はトンと顎を乗せた。

「…約束はできんが、今度も帰って来られるよう、頑張って来る…」

「はい…」

 すっかり馴染みとなった夫の体臭を鼻先で嗅ぎながら、女性は小さく頷いた。

 死地へ向かう夫に涙を見られぬよう、目を瞑ったまま。

 そして程なく、襖の向こうに気配が立つと、巨漢は最後に一度強く妻を引き寄せ、耳元に「行って来る」と囁きかけた。

「お気を付け下さいまし、あなた…」

「おう」

 頷いた巨漢は腰をあげると、襖に向かって歩き出す。

 引き開けた向こうの左右へ伸びる廊下には、磨き上げられた板張りの床に跪く、年配の山羊の姿。

 作務衣にも似た、しかしふくらはぎから踝までと、肘下から手首までを、巻き付けた黒布でしっかりと締めた黒装束に身を

包み、恭しく頭を垂れる山羊は、巨漢が正面に立つとさらに深く頭を沈める。

「出陣の支度、整ってございます」

「よし。行くか」

 頷いた巨漢は、部屋に残した妻を振り返らぬまま廊下を歩み出す。

 一方で老山羊は、仕えるべき主の一方である巨漢の妻…神代斗波(くましろとなみ)に深々と一礼し、懇願するような視線

を受けて「お任せあれ」と一度大きく頷くと、静かに襖を閉めて巨漢の後を追った。

 立ち上がった山羊は、老いを感じさせない矍鑠とした歩みで廊下を行く。

 先を進む巨漢が足を踏み出す度に床が震え、軋むのに対し、腰も曲がっていない若々しい痩躯の老人は、足音一つたてず、

ゆるやかな風の如く静かだった。

「いつになく、しんみりとしておいでですな」

「そりゃあしんみりもしちまうさなぁ。今度は喧嘩相手が相手じゃ」

 背にかけられた言葉に、巨漢は微苦笑した。

「若ぇ頃から散々やんちゃもしたが、今度はとびっきりじゃなぁ」

「はい。よもやワシが現役でおる間にこのような事態が起ころうとは…。やれやれ、長生きなどするものではありませんなぁ」

「爺やには長生きして貰わんと困る。ユウヒもヤクモも、爺やが居ねぇとろくな大人にゃあなれねぇ」

「まったくお人が悪い…。またそうやっておだてて、冷や水を取らせようとなさる…」

 老いた山羊が、言葉とは裏腹に楽しげにくっくっと笑うと、先を行く巨漢もまた口元をニンマリと緩めた。

 巨漢の先代家長の片腕でもあった老山羊は、代が変わった現在も、巨漢の片腕として仕える古兵である。

 今居る誰よりも古くから屋敷に仕えている最古参の御庭番であり、巨漢が生まれる前から屋敷に仕え、二代に渡って守護頭

を補佐し、御庭番を纏める山羊は、巨漢にとっては両親と並ぶ三人目の親のような存在でもある。

「爺や、皆はもう庭におるのか?」

「はい。総員揃っております」

「そのまましばらく小休止させてくれ。使者殿も間も無く見えるだろう。戦装束を整えたら儂も行く」

「承知いたしました」

 頷いた老山羊は、間もなく訪れた廊下の分岐で主と別れ、庭へと向かう。

 一人になった巨漢は、廊下を踏み軋ませつつ奥へ進み、ある一室の前で足を止めた。

 襖を開き、磨かれた板張りの床が見事なその部屋へ踏み入った巨漢は、正面奥に視線を向ける。

 刀剣や甲冑が並ぶその部屋の最奥では、黒檀の衣類掛けに吊るされた濃紺の戦装束が、主に袖を通されるのを待っていた。

 袖の無い、空手着にも似た衣装の前へと歩を進めると、巨漢はおもむろに腰に手を掛け、帯を解いた。

 するりと足下に浴衣が落ちると、褌一丁となった巨漢は、仕事着でもある戦装束に手を伸ばした。

 歳のせいでだいぶ弛み、かなり脂肪もついてしまった巨体は、しかしそれでも豊富な筋肉量を誇る。腕を動かす度に肩や背

で、毛皮の下の筋肉が逞しく、力強く動くのが見て取れた。

 胴着を纏い、下穿きに足を通した巨漢は、太い綱を取り、弛んだ腹が乗っかるような具合で締める。

 帯代わりに締めた綱を体の正面で固く結んだ巨漢は、二本目の綱をとり、襷のように両肩へ廻した。

 さながら金剛力士像の羽衣のようにかなり余裕を持たせて首と肩に綱を廻し、身支度が一通り済むと、巨漢は衣類掛けの脇

に立たせられている漆塗りの台に目を向ける。

 丸い足先に垂直に立った、細い丸木の支え。その上には盆のような円形の板がついており、バランス的に不安定に見えるそ

の台の上には、ずんぐりと丸い大徳利が鎮座していた。

 黒ずんだ焦げ茶色の徳利は、金属的な色をしてはいるが、一見すると焼き物のようにも見える。

 丸い口に栓を押し込まれたそれは、口元のくびれに紐が巻かれており、巨漢はこれを掴んで取り上げた。

 それは二升入る大徳利で、分厚く、頑丈に作られている。

 神代の男は徒手空拳での戦闘を主力とする。鍛え抜いた肉体と技を用い、光の装甲を纏って敵を粉砕するのが基本にして真

骨頂。

 だが、代々の家長は長の証として、特別に誂えた「得物」を持つ。

 鋼で拵え、ヒヒイロカネでコーティングし、目立たぬよう着色したその徳利こそが、巨漢の得物。

 名は黒金威し(くろがねおどし)。遺物である紐…不動索(ふどうじゃく)を口に巻いたそれは、徳利の形と機能を持って

はいるが、鈍器として作られている。

 ずっしりとしたそれを左手で顔の高さに吊るし、しばし眺めた後、巨漢は持ち主同様に太くて大きなそれの横腹を、平手で

ポンと軽く叩いた。

 そして腰に巻いた綱に紐をくくりつけ、左腰に大徳利をぶら下げると、身支度を終えた巨漢はのっそりと踵を返し、不敵に

口元を歪め、獰猛に瞳を輝かせる。

「さぁて行くか…。神代熊鬼(くましろゆうき)、一世一代の大一番によぉ…」

 程なく帝からの使者が到着し、ユウキは戦へ赴く。

 裏帝を、逆神を討つ為に。