第十話 「ブリュンヒルデ」
「ウチの倅は、弱ぇ」
ぶすっと、この世の何もかもつまらないとでも言いたげな膨れっ面で、その太った狸は言った。
肘掛けつきの座椅子に背を預け、右足を立て、左足を崩した胡坐のように曲げて投げ出しているその狸は、肉が付きすぎて
真ん丸に膨れた頬に拳を当てる形で頬杖をついている。
汚れた鏡餅…。そんなイメージが浮かぶ見てくれである。
身の丈は大してないが、えらく幅のある丸い男だった。
夏の木の葉を思わせる深緑の着流しを身に付け、前を大きくはだけているのだが、そこから水袋のように自重で下に寄った
布袋腹が見えている。
おまけに太い脚を大きく広げてだらしない格好をしているものだから、着流しの裾も乱れ、腰の左右に広がって股ぐらが曝
け出され、真っ赤な越中褌が露出している。
その左手には瓢箪をくり抜いて作られた徳利が、くびれに紐をかけられてぶら下げられており、眼前には小さな四角い灰皿
と、脇に注連縄のような捻れが刻まれた長くゴツい金色の煙管が、木組みの煙管置きに乗せられていた。
それは、梅雨も明け、夏の空気がそこかしこに蟠り始めた頃の事…。体型もあって人一倍暑いのだろうが、涼み様は他にも
あるだろうにと、庭に出ていたコハンは濡れ縁に歩み寄りながら微苦笑する。
狐はその細く締った体に、鋼糸を編んだタンクトップにも似た肌着をピッタリと纏い、腰から下は稽古用の下穿きで覆って
いる。履いた草履の下は小石が敷き詰められているが、周囲に足跡が全く残っていない。
神ン野家の屋敷は、通路とその両脇に並ぶ部屋が線を成し、いくつも交差する、真上から見れば格子のように見える風変り
な造りになっていた。
その構造上、格子の目にあたる中庭をいくつも有するのだが、その中庭も部屋も通路も全て似た造りになっており、侵入者
はおろか客まで惑わせてしまう構造になっている。何せ部屋の間取りや床の間の調度品まで揃えられているのだから、ぱっと
室内だけ見ても見分けがつかない。
今コハンが居るのもその中庭の一つで、狸が座しているのも他の物と変哲のない八畳の和室だった。
神ン野家代々の当主は諧謔味のある悪戯者や変り者が多かったと聞いているが、彼らが改築に改築を重ねて屋敷がこうなっ
た事を考えれば、その噂も本当なのだろうと、コハンには思えている。
二十代半ばを過ぎたばかりの若々しい狐が晒す、締った上半身のラインを見つめながら、神ン野家当主アクタロウは、億劫
そうに煙管を取って、刻んだ葉を丸めて先端に落としながら続ける。
「何も神ン野だから他の神将と比べて弱ぇってんじゃねぇ。あいつは母親に似たか、ひ弱の中のひ弱だ。禁圧の解き方を覚え
るまでは早かったが…、解いた上で御庭番にも歯が立たねぇ。ありゃあ見込みがねぇ」
紫煙をぷかっと吐き出したアクタロウに、「しかし」とコハンは応じた。
「彼は努力家です。その面を他者に見せようとしませんが、程よくユルい努力家です。そして、身体能力の絶望的といえる低
さについても自覚しています。だから…」
「「術に全部傾けてる」ってか?」
言葉を先取りされたコハンは、一拍間を置いてから頷いた。
「ふん…」
鼻を鳴らしたアクタロウは、瓢箪徳利の栓を抜き、ぐびっと飲んで一息つくと、再び長く重々しい煙管を手に取り、咥える。
喜んでいる。照れ隠しに一時せわしない動きを見せたのだという事が、コハンには判った。
ぞんざいに扱っているようで、アクタロウは息子の事が愛おしくて仕方がないのである。
死んでほしくない。きつい目にあってほしくない。しかし家柄と血筋に課せられた使命が安穏たる生活を許してくれない…。
だからアクタロウは、元服を迎えたと同時に息子へ厳しい課題を与えた。
それは、奥義の修得。
天敵にして宿敵、隠神に抗するにあたり、最も有効と思われる手段の伝授こそが、アクタロウが息子を生き延びさせる為に
決断した事である。
双方は無理でも一方だけならば、五、六年で物にできるかもしれない…。そう考えての事だったが、アクタロウが修得する
よう課した、修得が比較的早く済む側は、消耗が非常に大きいという欠点がある。その補助の為に専用の品を譲るつもりでい
るが…。
その不安と懸念を見透かしたように、コハンは笑み、口を開いた。「大丈夫ですよ」と。
「アクゴロウ君は、立派な桜を咲かせます。他の誰でもない、アクタロウ様の息子なのですから…」
「…ふん…」
膨れっ面の狸の後ろで、太い尻尾がもそっと動き、座椅子を叩いた。
思えば、自分とアクゴロウの関係は、自分と彼の父、アクタロウとの間に築かれたそれとよく似ている。
(歴史は繰り返すと言いますが、これもその一端と言って良いのでしょうか…?)
出し抜けに浮かんだ数年前の光景…束の間の回想にそんな感慨を抱いたコハンは、ふと首を巡らせた。
「アクゴロウ君?」
一時会話が途切れ、そのまま呟きすらもなくなった若い同輩を見遣り、問いを投げかける。
「はい?」
首を巡らせ、そして少し傾げ、アクゴロウが自分を見ると、今の沈黙は何でもなかったのかと、コハンは視線を前へ戻す。
「隠神の位置は、まだ判りませんね」
「ですなぁ」
応じたアクゴロウは、前へ歩みながらも方向をコハン寄りに変え、距離を狭める。
相談事がしたくて呼ばれたと勘違いしたのかと考え、コハンは軽く手を上げてそれを制そうとした。
「適度に離れていた方が良いでしょう」
「それもそうですね」
そんな返事をコハンは聞く。が、実は聞いたような気がしているだけであった。
アクゴロウの像と重なり、それよりも大柄な狸がそこに居るのだが、それにコハンも、御庭番達も気付けない。
(こやつが神座か…。野放しにしてはまずい相手だ。悪いが、何も知らぬまま死んで貰うぜ…)
姿を認識させる事も無く一息に暗殺しようと、長ドスを握り込んだギョウブは、幻術を維持したままコハンに忍び寄ろうと
足を踏み出しかけ、そして止める。
「目で見た物だけ信じん方がええよぉ」
思念波の揺らぎを察知した次の瞬間、その声はギョウブの耳に届いた。
弾かれたように振り向けば、うつ伏せに倒れたまま動かない、若く丸い狸の亡骸。…いや、亡骸にしたと思っていたモノ。
ギョウブは目を見張る。地面に伏した丸い体が、夜闇に溶けるような濃い緑色に変じたかと思えば、木の葉の塊となってザッ
と崩れた。
(馬鹿な…!ハメられたのはこっちだと!?)
動揺したギョウブは、しかしそこで失敗を悟る。
「…貴方は…」
涼やかな声に再度振り向けば、乱れた幻像を透かして垣間見えたギョウブに気付き、目を細めているコハンの姿。
「当主!お下がり下さい!」
雄のトドが吠え、間に割って入る形で進路を塞ぎ、ギョウブは奇襲がギリギリ間に合う距離と位置関係を潰されてしまった。
おまけに…、
「定まりました」
神座家当主が、その能力の条件を整え終えていた。
「ちっ!」
舌打ちをしたギョウブは、即座に飛び退こうとしたが、ハッとなって足下を見下ろした。
足が動かない。足裏が地面に張り付いたように、全く…。
(これが…、禁術言魂か…!)
話に聞く、歴史上確認されている使い手は神座家のみという特殊かつ極めて危険な術を身をもって味わいながら、ギョウブ
は歯噛みする。が、噛み締めたその歯も程無く緩んで隙間を空け、景色がぼんやりと霞んだ。
腕が勝手に動き、長ドスを首に押し当てるが、ギョウブはその行為を疑問にも思わないのか、ぼんやりとコハンを見つめる
のみ。
声にならぬ声が頭の中に響く。その長ドスで、己の首を斬り裂けと。
その出所は胸の内、ギョウブ自身が発している。
強制的に自死させられる寸前のギョウブは、それが暗示どころではなく、魂の支配に近いとぼんやり悟った。
「おし!流石はコハン様だぜ!」
己の首にドスの刃を浅く埋めたギョウブを見つめ、勝利を確信したトドがニヤリと笑う。しかし、
「しくじりました…!」
コハンが呻き、トドはハッと主を振り返った。
「定位が完全ではありません!破られます!」
馬鹿な、と呻いたのは雌のトド。浅く切れた首元から、大狸は刃をぐぐっと引き離し始めている。
「くそっ!あたしが!」
前に出た雌のトドが口を大きく開け、破壊の咆哮を放ったが、それはどういう訳かギョウブを素通りし、彼の周囲と足下で
土砂を吹き上げさせた。
「な…!?」
「下がって!彼はそこに居ません!」
コハンの警告と同時に、ギョウブの姿がすぅっと消え去る。
禁術言魂は、条件が揃っていなかった。
コハンが視認したギョウブの姿は、幻術によって本体とずれた位置に見えていた。そのせいで掛かりが浅かったのである。
「野郎何処に…!?っく!」
雄のトドは姿を消したギョウブからコハンを守るべく、主の方へ三歩後退した。そこで、土を蹴る僅かな音を耳にする。
「そこか!」
丸太のような足が空を切って唸り、右回し蹴りが何も無い空間を横切った。
音すらも錯覚。その事を改めて知ったトドは、背に強烈な衝撃を受けて仰け反り、体を弓なりに反らして前方へ吹き飛ぶ。
直後、ぶんっと空間がぶれてから戻り、そこへ浮き上がるようにして姿を見せた大狸は、蹴り飛ばしたトドが顔から地面に
激突し、バウンドしながら失神している事を確認すると、コハンに視線を戻した。
ただの横蹴り一発で、神座が誇る屈強な御庭番を戦闘不能に追い込む…。それが、隠神という逆神だった。
「話には聞いてるぜ、神座の…。何ともえげつねぇ術だ」
長ドスを構えたギョウブが鋭い目でコハンを睨む。しかし、自分を睨むその男が本当にそこに居るかどうかは、コハンにも
判らない。
「えげつないのはお互い様かと…。動かないで下さい」
コハンが警告を発した相手はギョウブではない。彼に相棒を倒され、嚇怒に顔を歪ませている雌のトドである。
コハンは確信している。真っ向から肉弾戦を挑めたとしても、自分の配下でこの男を倒せる者は居ないと。腕っぷしだけな
らば御庭番随一であるトドが手も無く捻られたのだ。うかつに兵を寄せれば被害が増えてしまう。
(神ン野家に匹敵する幻術に加え、この武力…。なんともずるいですね…)
一方、自らの手で切らされた首筋からじくじくと血を流し、険しい表情を浮かべているギョウブも、迂闊には攻められずに
いた。
先程は念のために像をずらして見せたおかげで難を逃れたが、万が一完全に捉えられたら打つ手が無い。距離が狭まれば狭
まるほど、山勘で発した術に引っかかってしまう恐れがある。おまけに…。
(神ン野の小倅め、何処に潜んだ…!?)
ギョウブはコハンを睨みながら、姿を消したアクゴロウの事にも神経を尖らせている。
アクゴロウの姿が消えたと同時に魔王槌も消えている。切り札を手にしたまま身を潜めているのは、確実に自分を仕留める
隙を狙っての事だと察しはつく。
王手をかけたようで、自分の喉下にも手が掛けられている…。腹の探りあいと牽制の眼差しが生み出す膠着状態は、時折地
に響く、獅子と大熊の激戦の余波で揺さぶりをかけられる。
その、誰もが僅かな隙を逃せない状況で、
(そうや…、もっともっと警戒して、疑えばええよ…)
アクゴロウはニンマリと口元を緩めた。
大地に背を合わせ、暗い空を見上げながら。
ギョウブが突き刺したのは、本当は幻などではなかった。致命的な一撃はアクゴロウをまともに捉えていたのである。
咄嗟に幻だったように演出しただけで、アクゴロウ本人は倒れ伏した位置から殆ど動いていない。状況が見辛く、かつ息も
し辛かったのでごろりと仰向けになったが、立ち上がるのも難しい重傷を負っている。
それでもギョウブが引っかかったのは、「神ン野ならば有り得る」と判断したからだった。アクゴロウはまんまと、天敵に
して宿敵が自分達に抱く警戒心と評価を利用し、後出しの幻術で形勢を取り成したのである。
えづく度に口から血が溢れ、細く早い呼吸の度に喉がひゅうひゅう、コポコポと鳴る。腹と背に空いた穴からは止め処なく
血が溢れ、地面に染みていく。
(痛いなぁ…。苦しいなぁ…。しんどいなぁ…)
焦点が合わなくなりそうな目を意識して戻し、必死に意識を繋ぎ止めながら、アクゴロウは驚異的な精度の幻術を発現させ
続けていた。
姿はおろか血の匂いも、呼吸の音も敵味方の認識から消すよう働きかけ、なおかつギョウブと相対するコハンの像をずらし
ている。
この全てが、まだギョウブに気付かれていない。
それだけではない。拮抗した状況を維持するアクゴロウだが、実はもうひとつ、ギョウブにもコハンにも、他の者達にも気
付かれずに一つ手を打っている。
意識が飛んでしまえば全て水の泡…。自分にかかる重責をしっかりと認識し、アクゴロウはのろのろと手を上げ、腹に穿た
れた刺し傷に触れる。そして…。
「ぐ…、う…!」
傷に自ら指を入れ、脂肪層をぐりっとほじる様にして傷口を広げた。
並の神経ならば意識が飛ぶ程の激痛を、丸い狸は気付けに利用する。
若くとも、弱くとも、とぼけた態度と顔をしていながらも、その胆力と覚悟は他の神将に負けてはいない。二十二代目神ン
野を名乗ったその日から、その身を帝と国民に捧げ、天敵を討つと腹に決め、今日まで過ごしてきたのだから。
(痛いわぁ…、泣きそうやわぁ…。っていうか、判らんだけで泣いとるかも…)
気付けで無理やり意識をはっきりさせたアクゴロウは、それでも、保ってあと数分だと確信する。
(このままやと…、コハンさんは分が悪い…。お願いしますよぉ…。どうか…間にあって…)
巨大な左手が眼前に迫り、視界を奪う。
顔面を薄く覆った力場の幕ごと頭部を鷲掴みにされたライデンは、構わず左拳を相対する巨漢の右わき腹に叩き込んだ。が、
金色に輝く高密度の力場を纏ったその拳すら、暗茶色に染まったライゾウの防壁を破る事は叶わず、彼我のエネルギーが激し
く反応して食い合う十数センチの隙間をおいて阻まれた。
一方、連続速射された雷音破を意にも介さず突進し、掴み合える距離まで乗り込んだライゾウは、反撃にも一切の動揺を見
せず、獅子の頭部を掴んだ左手に力を込め、強引にねじ伏せにかかった。
(落熊撃か…!)
神代の闘法にも造詣が深いライデンは、それが変形版の落熊撃だと悟り、後ろへ押し倒される格好になりつつ、不意に脱力
して身を任せる。
抵抗が失せ、急激に動いたライゾウは上体が前へ泳ぐ格好になり、倒れ様にライデンが蹴り上げた右足を太い腿の間に入れ
られた。
金的ではあるが、当たってはいない。しかし力場で蹴りを防いでも、大地に根を張っている訳ではない。巴投げでもするよ
うに蹴り離しにかかったライデンの動きが想定外だったため、対処が遅れたライゾウは宙へ蹴り上げられた。
倍近い巨躯を蹴り上げつつ、しかし自分の顔を捉えたまま離さないライゾウを至近距離から見据え、ライデンが吼える。
「連壊…、環狼脚(れんかいかんろうきゃく)!」
右足が引かれるや否や、左足がライゾウの脇腹に蹴り込まれ、その反動を活かして身が捻られ、反対側から右足が強襲する。
それぞれが踵の位置で力場を爆ぜさせ、加速を得て威力を増しているそれは大神の蹴技、その上位派生技であった。
左右からの連撃を浴び、力場が瞬間的に色の濃さを失ったライゾウは、とどめに繰り出された射抜くような左の突き蹴りを
鳩尾に打ち込まれ、そこに閃光が走ったと同時に弾き飛ばされた。
鳴神を興りとする各流派を再統合し、たった一代でその身に集大成とも言える複合闘法を作り上げたライデンは、正統派で
ありながら幾百の多彩な派生技を体得している。
力技に秀でた神代、速度に優れた大神、それぞれの技の長所で本家が及ばぬ点を補う事で、遠中近距離はおろか組み打ちの
零距離、その全てにおいて隙を消している。
だが、ほぼ完成の域に至ったこの武神でさえも、目の前の巨漢を捻じ伏せるのは容易い事ではなかった。
弾き飛ばされた熊が宙で身を捻り、四つん這いになって着地し、ゆっくり身を起こすと、ライデンは双眸を鋭く細め、口の
端を上げて牙を覗かせる。
(何という男だ…)
心底感嘆した。その剛力に、胆力に、剛健さに。
ユウキやロウガと稽古で手合わせし、それぞれを完成の域に近い強者と評していたが、目の前の男は彼らをも超えており、
自分と全くの五分…。
神代の闘法をベースに変質し、独自の進化を遂げた神壊の技と、逆神史上屈指の強者であるライゾウという組み合わせ。そ
れらはライデンをも感嘆させ、焦がれさせた。
遺物破壊に主眼を置き、その力を磨いてきた神代の技は、破壊力はともかく大味な物が多い。
だが、そこから目標を「ひと」に定め直し、遺物を破壊するための力を効率的な人体と力場破壊に改変させ続けて来た神壊
の技は、広くかき集めて織り成したライデンの戦技と真っ向勝負ができる域まで研鑽されていた。
恐るべきは神壊の執念か、それとも神代の血か。
血が滾る。身が震える。かつてない強敵を前に、ライデンの闘争心が、本能が刺激される。年甲斐もないと己を諌めるが、
不謹慎にも歓喜が体の底から込み上げて来る。
(ユウキの言う通り…、この身にはやはり「好き者」が住まうのか…)
無頼の大熊はかつて言った。ライデンの本質は武芸者のそれであり、御役目よりも、後進の育成よりも、強者との殴り合い
を望んでいる、と…。
馬鹿を言うな、御役目も指導もおろそかにはせん。と、あの時応じはしたが、事ここに至って、あれは当たっていたと確信
させられた。
これまで望めども訪れなかった、自分と互角の武力を持つ男との対戦…。それが無意識の内に諦め、心の奥深くへ封じてい
た欲求を目覚めさせる。
もうどうでも良い。この男と心行くまで殴りあえるならば、御役目も立場も捨て去って構わない。そんな危うい考えすらも
頭の隅を掠めて行く。
神卸しの持続限界が近付く中、眠れる獅子がいよいよ目を覚まし、大熊が静かに構え直す。
(強いな…)
ライゾウは胸中で呟いた。
自信が無かった訳ではないが、自分の武が通じると確信したと同時に、一筋縄では行かない事も思い知らされた。
(流石は最強の神将。噂に偽り無し…と言ったところか)
隠れ里の際で仕切り直す両者。
だが、その決着がつく前に…。
「…む…!?」
ライデンの目がすっと横に動き、ライゾウもまた視線だけ横へ向ける。
茂る樹木の遥か向こうで、空が白み、ぼんやりと明るくなっていた。
夜明け…ではない。日が昇るまでまだまだかかる。ついでに言うならば時折上がる正体不明の火柱とも様子が違っていた。
(何だあれは…?逆神が何か仕込んでいた…という訳でもなさそうだが…)
(先の焔とも違う。神将の策?いや、鳴神の様子もおかしい。では何者が…?)
ライデン、ライゾウ、共に正体を掴み損ねたそれは…。
「この森の中でスルトを探さなくちゃいけねぇのはメンドっちぃっスけど、好都合と言えば好都合なんスよね」
純白の巨漢は目の上に手でひさしを作り、何本目かの火柱を眺めながら呟いた。
「おまけに思うように進めてねぇっぽいっスね。こいつは重ね重ね好都合っス。居場所はおおよそ判ったっスから」
のんびりとした口調ではあるが、それを聞いているロキとヘルにはリラックスした雰囲気など微塵も無い。
「もう一度訊きましょうか…。何故ここに居るんです?貴方達は」
ロキの問いに巨漢は応じず、
「バベルの鍵…」
赤髪の女性が、ぽつりと呟いた。
女性にじっと暗い光を湛えた眼差しを注いでいたヘルは、僅かに目尻を吊り上げる。
「黄昏が欲しがっているのは、裏帝と呼ばれる者達ですね?地を這って生きる事を選び、人類と交わったワールドセーバー達
の子孫…」
「あらぁ?」
ヘルは訝しげにロキを見遣った。
「あらあらぁ?何であそこまで知ってるんですかねぇ?先生…」
ロキは何かを思い出すように指を頬に這わせ、僅かに首を傾げる。
子供が考え込むような可愛らしい動作ではあるが、その表情も目の光も、子供の物とは質が違っていた。
「ヴァルハラが占拠された際に、脱出間際になって隔壁制御システムが麻痺しましたが、あれは…」
「ミーミルの細工っス。おかげでコアにアクセスする時間ができたっスよ。…まぁ、結局間に合わなかったんスけどね…」
ロキの言葉に、事情を知る者でなければ理解できない返答を被せた巨漢は、小さくため息をついて耳を寝せる。
「怠け者のアンタが、なんであんな時ばかり働き者になったんスか…」
沈痛な声で呟いた北極熊は、気を取り直すように担いでいた剣を持ち上げ、刃先を下にして地面へガツンと下ろす。そうし
て柄尻に分厚い手を乗せ、杖のように体重を預けて少し身を乗り出すと、
「さて、本題っス」
不敵に口の端を吊り上げ、金色の双眸を細めて笑う。
「こっからは、オレが仕切らせて貰うっス」
途端に、空気が変質した。術士二人に緊張が走って。
ヘルは表情を消してじりっと一歩下がり、ロキはすっと右手を上げ、相手の動きを牽制するように肩の高さで翳す。
剣を抜いた訳でもない。構えた訳でもない。にもかかわらず二人は北極熊の挙動を注視し、緊張を高める。
一方、生き残り、ただ一人意識を保っている帝の近衛兵は、ガチガチと歯を鳴らしていた。
(な、何なんだ…?何なんだこいつら…!?)
子供と女。しかし中身は化物という正体不明の二人組に樹海で出会い、部隊が壊滅されられたかと思えば、今度は馬鹿でか
い白熊がぬっと現れた。おまけにまた別の女まで現れて…。
子供と女と女と白熊。珍妙な四人は何やら訳の分からない事を言い交していたので、一時は仲間なのかもしれないと思った
のだが…。
(この空気は何だ…!?)
歯の根が合わない程震えながら、近衛兵は冷や汗をだらだらと流す。
それは、彼がそれなりに優秀であるが故に感じてしまう恐怖。
例えばドラム缶のような金属の塊があったとする。ただそれだけならばひとはそれに恐怖などまず感じない。近寄って表面
に触れたり、叩いたりもできるだろう。
だが、それが都市を吹き飛ばす程の威力を持った爆弾であると知ったならどうだろうか?
つまり彼は優秀であるが故に、その北極熊が何なのかという事を、僅かばかり理解してしまったのである。
白き災厄、ジークフリートの一片を…。
しかしそんな兵には興味も注意も視線も向けず、当の北極熊は術士二人を見つめている。
「ロキ、ヘル。五秒で選ぶっス。尻尾巻いて逃げ帰るか、それとも塵になるか…」
「ジーク」
北極熊は傍らの女性に声をかけられ、言葉を切った。そして気付く。自分の気に当てられた近衛兵が泡を吹いている事に。
「少し抑えてあげて…。怯えているわ」
「こいつは配慮が足りなかったっスね…」
ジークは口の端を緩めて微苦笑すると、その態度を余裕の表れと取り、自分達への愚弄と取ったヘルは、素早く両手を前に
付き出し、その双掌を赤髪の女性に向ける。
同時に、その動きを察知した赤髪の女性も素早く手を前方へ翳した。
直後、ヘルの双手からオレンジ色の焔が帯状に伸びた。
まるで蛇のように身をうねらせ、あたかも意志を持っているかのように二人に迫る焔。
しかし赤髪の女性は面を照らす焔の接近にも瞬きひとつせず、薄赤い瞳をぼんやりと輝かせた。
そして、その現象は引き起こされる。
女性と北極熊の前方2メートル程の位置、何もない宙にうっすらと赤い線が走り、それがある物の輪郭を描いた。そして線
が描き出した立体は、その内側を赤い燐光で満たし、一瞬の内に形を成す。
それは、盾だった。
厚み15センチ、幅150センチ、高さ2メートル近い真紅のカイトシールドは、不意に出現するなりその身を持って炎の
帯を受け止める。
いかなる作用による物か、炎は盾に触れるや否や明るさを減じ、熱を失い、術者であるヘルの元へ向かって瞬時に透明化し
て消えてゆく。
舌打ちしたヘルの瞳にジリジリと焦げ付くような憎悪が浮かんだ。
この力を彼女はよく知っている。身を持って、嫌と言う程味わったこの力を…。
ブリュンヒルデという名の赤髪の女性は、試作型合成人間である。
オールドミスと呼ばれる人外の存在を模して生み出された彼女達は、レリックヒューマン・ワルキューレとも称されている
が、その第一号が彼女…ブリュンヒルデであった。
その特性は、思念波を視認、吸収、操作し、具現化するという物。
思念波に能力発動メカニズムとエネルギーの大半を委ねている術士にとっては、正に天敵中の天敵といえる。
ブリュンヒルデがすっと手を上げると、ヘルの術を霧散させて思念波を吸い取った大盾が浮き上がり、宙を移動して彼女の
前面に舞い降りる。
そして、その姿を覆い隠した盾が掴まれ、横へ移動させられたその時には、ブリュンヒルデは真紅の甲冑を纏っていた。
思念波を具現化させて生み出した戦装束を纏い、体をすっぽり覆い隠すほど大きな盾と、全長1.5メートル程のジャベリ
ンで武装したブリュンヒルデは、不敵に笑う北極熊の脇に進み出てその顔を見上げる。
「ヘル様のお相手はわたくしが…。貴方は心置きなくロキ様と」
「合点っス!」
ニィッと笑みを深めて巨漢が剣を振り上げ、担ぎ直すと、
「あまり調子に乗らない事ね、ブリュンヒルデちゃん…!」
ヘルは因縁深い相手を睨みながら、憎悪を滾らせた目を輝かせ、挑発するように髪を掻き上げた。