第十一話 「犬沢芝居」
ピチョンと、湯気で湿った竹の端から水滴が落ち、浴場の床に当たって音を立てた。
「かぁ〜っ!極楽極楽!」
逞しい大柄な体躯にたっぷり贅肉が乗った大熊が、手拭いで顔をゴシゴシ拭きつつ満足げに漏らす。
河祖中村の別荘で露天風呂に浸かったユウキは、傍らで硬くなっている柴犬を見遣った。
「そうキチーンとしとらんで、りらっくすしたらどうじゃ?」
「は、はいっ…!」
十五になったばかりの新人御庭番は、ユウキに促されてもカチンコチンだった。
「のぉシバイ?」
「はいっ!?」
緊張し過ぎている少年の横で、可笑しくなったユウキが腹を揺すって笑う。
「今からそんなんじゃと、安心して背中など任せられんぞ?」
「も、申し訳ございません!」
生真面目な返事をしたシバイは、
「しかし!お、御庭番となったからには、いざとなれば必ずや!命に代えてもユウキ様を御守り致しますので…」
「ああ、そういうの却下じゃ」
意気込みを述べる途中で言葉を遮られた。
「あのなぁシバイ?」
ざばっと湯船から上がった太い腕が、シバイの肩にかかって無理やり抱き寄せる。
逞しくも脂肪が乗ってむっちりした、中年の分厚い胸にしなだれかかる格好になったシバイは、耳元でこそこそと囁かれた。
「爺やに聞かれたら何かとうるさいからのぉ、大きな声じゃあちと言えんが…、儂のために死んで何かするってぇのは止めて
くれい。お前さんの命はお前さんのもんじゃ。そして、お前さんが本当に大事にするべきは儂以外の誰かのはずじゃ。お前さ
んが死んで良いと、命を賭けると、そこまで尽くしていいのは「その誰か」の為じゃ。ゆめゆめ、忘れたらいかんぞ?」
声を潜めてそう諭した後、ユウキはニンマリ笑って、ふざける子供のようにシバイをグイグイ抱き寄せては、困り顔を見て、
戸惑う態度を見て、面白がって笑った。
強引に緊張を解かれて笑えるようになるまでそんなスキンシップを強要されたシバイは、なんとなく考えた。
イタズラされるから注意しろ、と御庭番頭に耳打ちされていたが…、案外、皆嫌がらなかったのではないか?と。
席に名を連ねられるこの年になるまで、人柄をあまり良くは知らなかったが、神代熊鬼という男は、外面や見てくれ抜きに、
とても魅力的に思えた。
そうしてそのまま座敷に誘われ、酒も飲めない歳のまま晩飯晩酌に付き合わされ、気分が良かったのか、調子に乗って酔い
潰れる格好になったユウキの様子を見ながら、新参者の身で夜を共にしたのは、今から十年前の事…。シバイが御庭番として
末席に名を加えた、秋の日の出来事だった。
「やるもんじゃのぉ…!」
火の海となった樹海の一角、感心しているように唸った大熊は、熱風吹き上がる空中で錐もみ回転していた。柴犬を片腕で
しっかり抱え、展開した力場で身を守りながら。
地上20メートル程に打ち上げられた所で、斬り下ろしの一撃を叩き込まれ、それを何とかガードした所なのだが、片腕が
塞がっている上に相手の力量も尋常ではなく、ユウキは防戦一方である。
それでもなお、ユウキは追いつめられたような顔をしていない。表情にもまだ余裕がある。
それが、スルトに疑念を抱かせた。
(何か狙っているのか…。それとも仕込みがあるのか…)
スルトとしては、目撃者は抹殺しておきたかった。今夜この場で神将全てを片付けるのは到底不可能なので、後々の事を考
えれば自分の情報は残さないに越した事は無い。
しかし運が悪い事に、出くわしてしまった相手は当代屈指の戦上手…、熊代の家長だった。
それ故に迷いが生まれ始めた。このしぶとい熊親父を何としても倒すべきか、それともデメリットには目を瞑り、放置して
目的を優先すべきか…。
その迷いを、ユウキの余裕が増幅する。何か企んでいるのではないかと勘ぐったスルトの攻め手は、ちょくちょくの様子見
で緩むようになっていた。
(しめしめ、やっこさん疑い始めよった。警戒して斬りかかって来よらんわい)
胸の内でほくそ笑んだユウキが、宙で姿勢を整え、両脚と右手でドスンと着地する。
「ユウキ様!このままでは御身まで危のうございます!お願いですから!どうか、どうか私を放り出して…」
ユウキの弛んだ胸に顔を押し付けられる格好で抱えられた細身の柴犬が、もう何度目か判らない懇願を口にするが…、
「くどーい!却下じゃ却下ぁっ!」
「しかし…!」
「しつこいっ!駄目ったら駄目じゃっ!」
ユウキは頑としてその頼みを聞き入れない。
こいつは儂のモンじゃ。力強く抱えた腕が、シバイにそう語りかける。
それがシバイには有り難く、申し訳なく、そして情けない。身命を賭して守るべき主君に守られ、足手纏いになっているこ
の状況が堪らない。
一方で、スルトは上昇気流を受けながら落下。しかし手にした巨剣は炎を放つため、落下中も迎撃可能であり、軌道も変え
られるので無防備ではない。
普通ならば。
自分を窺いながら舞い降りる赤虎を見上げ、ユウキはすっと目を細めた。
火炎の放射である程度軌道を変えはするが、宙にあっては流石に動きが鈍い。ここまでの競り合いで、どの程度まで自由が
利くかは確認している。
狙うならばここだった。
「シバイ…、ちぃっと辛抱じゃ…」
呟いたユウキの全身が、ミシッ…と小さく音を立てる。
「狂熊…覚醒…!(きょうゆうかくせい)」
熊代式の神卸し。臨界を越えた筋力と力場の出力を得る、長所を増幅する秘中の秘。出力が上がり、密度を高めた力場が濃
い赤みを帯びて、ユウキの体色に近い茶色に変じる。
異常を察したスルトが剣を正眼に構え、攻撃に備えるが…、ユウキの狙いは、防御ごと相手を消し飛ばす、超重量爆撃での
一発勝負。
「奥義…、百花繚乱!(びゃっかりょうらん)」
大熊の咆哮に次いで、背面で閃光が炸裂。ユウキの体がスルトめがけて打ち出された。
背後で力場を爆ぜさせ、その衝撃を自らが帯びた力場で受け止める事で巨躯に超加速がもたらされ、強靭な肉体がそのまま
砲弾となる。
さらには炸裂させて浴びた力場の余剰エネルギーと、身に帯びた力場が反応しあって熱エネルギーに変換され、本体の周囲
は極めて高温の放射熱に晒される。
そして熱を防ぐ手段を持たない対象は、直撃を受けずとも瞬時に塵と化し、乱れ咲いた花の花弁の如く吹き散らされる…。
それが、神代の古式闘法における三大奥義の一つ、百花繚乱。
加速による強烈なGでシバイの意識が瞬時に飛び、鍛え抜いたユウキの体躯がミシミシと軋む。シバイの体が壊れるような
動きはできないため、速度を落とさざるをえなかったが、そこまで計算して待ったのがこの状況だった。
(避けられん…!)
瞬時に判断したスルトは、大剣を寝せて受けに回る。
迫るユウキは渾身の力を込め、大きく引いた拳を突き出す。
赤い巨剣と閃光纏う拳がぶつかり合い、両者が纏う熱が四方へ拡散され、傍の立木が一気に燃焼、炭化する。
接触は一瞬。弾き飛んだのは…、
「ちっ!」
剛腕一閃で殴り飛ばされたスルト。
一方ユウキは、渾身の一撃を凌いでのけたスルトに舌を巻いていた。
(何つぅ頑丈な剣じゃ!本気の拳骨でも砕けんじゃと!?しかもやっこさん、逃げを打てる角度で受けよった!)
物心つく頃から修練に励み、初陣から三十年以上経ったユウキでも、ここまでの手練れは二人しか知らない。しかもその内
一人は自分の父で、もう一方は鳴神雷電である。まさか神将の血に連なる者以外に、これほどの使い手が居るとは想像もして
いなかった。
(侮っていた…。ウォーマイスターとはこれほどの物か…!)
錐もみしながら飛んだスルトが、燃え落ちかけている大木を蹴り、勢いを殺して地上へ落ちる。
(何者じゃこいつは…?ちぃっと骨が折れるのぉ…!)
勢い余って上空まで舞い上がったユウキは、力場を爆ぜさせて急降下し、地面を目指す。
奥義も決定打にはならなかった。だが、ユウキは今の接触で相手の能力の一部を理解した。
(発火能力じゃねぇなぁ…。ありゃあ剣の能力じゃ。やっこさんが炎に焼かれねぇのは、もっと別の…)
ユウキの口の端が歪む。底知れない乱入者…、どうにも血が騒いで仕方がなかった。
穏やかな、静かな夜気は一変し、緊張が満ちてチリチリと肌を刺す。
樹海の一角で向き合う二名一組、計四名の男女。
一方は、灰色の髪の男の子と、同じく灰髪で、ソバージュをかけた若い女性。
もう一方は、巨大な北極熊と、深紅の西洋甲冑を着込んだ、赤髪の若い女性。
灰色の髪の二名は術士。どちらもラグナロク最高幹部会、中枢のメンバー。見た目とは裏腹に世界屈指の危険人物達。
しかし、向き合う二名には絶望感も過度の緊張も見られない。むしろ、緊張を強いられているのは…。
最高峰の術士二名を前に、油断無く構えながら、赤髪の女性は灰髪の魔女を見据えている。薄く笑みながらも瞳に憎悪の光
を湛えているヘルとは対照的に、静かな、落ち着き払った眼差しで。
闇夜に浮かぶシャープなシルエットの赤い甲冑は、それ自体が薄く発光し、輪郭をおぼろげな物としている。
それを纏う女性の白い肌は、甲冑の色と赤色の髪があいまって、細面だけが鮮烈なまでに清く、気高く見えた。まるで、神
話の一場面を描いた絵画から切り取られたような、神々しさすら感じられる姿だった。
一方、傍らに並び立つ身の丈2メートル半もの大兵肥満もまた、闇夜に溶け込むジャケットの色と被毛の白さが対比をなし、
暗さに慣れた目に鋭く刺さる。
肩越しに背中の剣に手をかけた巨漢からは、先程までの飄々とした、場違いに牧歌的な雰囲気は消え去り、向き合えば、ゆ
るやかに風が吹きつけて来るような感触を味わわされる。
それは、物理的な物に感じられるほどの強烈極まるプレッシャー。
甲冑纏う乙女の名は、ブリュンヒルデ。
巨大な北極熊の名は、ジークフリード。
両者の姓は、今は同じくバッドネーム。
ラグナロクが、世界で最も危険な存在と認識しているつがい…、それがこの二人である。
「忠告はしたっス」
ジークが口を開くと同時に、背負った包みをロックしていた無数のバンドが、バツバツッと音を立てて自動的に外れた。
「…泣くんじゃねぇっスよ?」
唇が捲れあがり、唾液に濡れた丈夫そうな牙がぬらりと光りながら覗く。
直後、肩の高さで腕を前へ伸ばしていたロキが、出し抜けにパチンと指を鳴らした。
目を焼くオレンジの光。四者の中央に出現した小型の太陽を思わせる火球が、樹海を昼以上に明るく照らす。
攻撃…ではない。間に障害を挟み、猶予を得るための一手である。しかし…、
「ぬりぃっス!」
北極熊は一声吼えつつ、背にした長い包みを振り上げ、打ち落とす。
バンドが外れて包みが解け、得物を巻いていた布が振り払われて前へ飛ぶ。それが、一瞬炎と視界を遮った。
広がりながら火球に被さり、耐熱効果で一瞬だけ熱を防ぎ、そして耐え兼ねて燃え落ちる広い布地。しかしそれが燃え尽き
る前に、白い巨体はその場から消えていた。
「先生!上!」
ヘルの声が響いたその時には、ロキは既に頭上へ手を翳している。
超重量の巨体が、夜空を背に浮かんでいた。まるでもう一つの月のように。
その手には、淡く白くぼんやり輝く、全長2メートル、身幅40センチほどの巨大な剣…。しかしその切っ先は丸く、刃が
無い。剣を模した白い塊にも見える。
背を反らし、せり出ている腹をさらに突き出し、両手で柄を掴んで巨剣を振りかぶる北極熊は、巨体から鑑みて驚異的な跳
躍力を見せつけ、一瞬で地上12メートルの高さに至っていた。
そしてそこは、火球の上から術士二名を睥睨できる位置…。
「やるっスよヴァルムンク…。ストロークシフト!」
愛剣に声をかけつつ振り下ろすジーク。丸みを帯びた巨大な剣は、その動作中に発光を強め、丸みを帯びた刃の部分っから
眩い閃光を発し始める。
ジークの愛剣は元々刃を持たない、本体そのものは棍棒にも等しいなまくら。ジークが求めた時だけ鋭い光の刃を作り出す。
主が必要とするその時だけ、求められた形の力を発揮するマルチプルウェポン…、それが、レリックウェポン・ヴァルムン
ク。今回ジークがヴァルムンクに求めたのは…。
「でぇりゃっ!」
丸太のように太い両腕が、巨大な剣を真下まで振り抜く。その軌跡が三日月を象り、そのまま剣から剥離して地上へ走った。
ヴァルムンクが形成した光の刃を、体全部を使って振り抜きながら射出したジークの眼下で、ロキが障壁を展開し、受け止
めにかかる。
大気を固着させ、思念波で補強した不可視の障壁が光の刃を止める。しかし刃は雪が溶けるように即座に形を崩し、局面と
なった障壁上部に、浴びせるような形で侵食する。
同時にヘルは、ヒルデの動きに対応して動き始めていた。今思念波を乱されて障壁を破られればロキが危うい。相手の宣言
通りに動くのは癪だったが、ヒルデを阻む以外に選択肢はない。
戦乙女はジークが上空から狙撃を行なっている間に、シールドを突き出して前進していた。その背からは翼のように赤い光
が放出され、彼女の体に推進力を与えている。
身に纏った思念波のフィールドアーマーで熱を打ち消し、思念波によって制御されたロキの火球をカイトシールドを押し付
ける形で中和し、削り取るように輪郭を欠けさせながら距離を詰めるヒルデ。
迎え撃ち、地面に両手を添えて電柱程の氷柱を足元からいくつも出現させ、防壁にするヘル。術によって引き起こした現象
そのものは中和されても、一度出来上がった熱や冷気はしばらく残る。継続操作を必要とせず、物理的な障害物として氷を残
すのは、戦乙女への牽制として有効な手段だった。
障壁で攻撃を受け止めたロキは、明滅するその向こうから落下して来るジークと視線を合わせる。
金色の瞳が獰猛に煌めき、剣から離した右手からは勢い良く白い蒸気が噴出しており、落下の軌跡を辿って長くたなびく。
「出し惜しみしねぇっスよ!」
目を細めて顔つきを鋭くしたロキが出力を上げる。障壁に纏わりつく光を追い散らしたが、そこへ体ごと逆さまに落下した
ジークが右腕から突っ込んだ。
障壁へ直接右手を叩きつけ、逆立ちする格好で激突したジークは、そのまま障壁上に着地する。右手から放出される白い蒸
気が、障壁を分解してシュウシュウと音を上げさせる。
「ここでニブルを使い込んで良いんですか?」
「温存したまま行かせちまっても良いんス?」
せめぎ合いながら口でも互いを牽制する両者。しかし競り合いは短時間、勝負はジークに軍配が上がった。
蒸気に侵食されて薄くなった障壁を北極熊の右手が食い破り、全体にバキンと亀裂を入れる。間髪入れず白い左腕が翻り、
ひび割れた障壁へヴァルムンクを叩きつける。
ガシャンと、ガラスが割れるような音を立てて障壁が砕け、北極熊の体が支えを失い、ロキに向かって落下を開始した。
(この間合いは分が悪いですね…)
障壁を張り直すには厳しい間合い。コンパクトな障壁を纏い直すためにも時間が欲しい。抱えたグリモアがら術を読み込み、
手を翳し直したロキは、青い光を掌に収束させて稲妻を放つ準備に入る。
しかし、障壁を叩き割ったその格好でヴァルムンクを下方に向けていたジークは、
「ヴァルムンク!オービターシフト!」
右手からの蒸気放出を止めて愛剣に対応を呼びかけ、白い巨剣に光を帯びさせていた。発光した刀身から立て続けに三つ、
バレーボール大の白い光球が射出され、ジークの巨体を中心に、それぞれが斜めにずれた軌道で衛星のように旋回し始める。
刹那の間も置かずにロキの手から放たれた青い稲光は、北極熊の身体を絡め取ったかに見えたが、
(防ぎましたか…)
細められたロキの目に映り込むのは、ジークを中心にして回る白い光球との間で斥力が働いたように捻じ曲げられ、あらぬ
方向へ走り抜けて行く稲光の軌跡。
しかし、それで終わりではなかった。
「ヒルデ!」
咆えた北極熊の意図に導かれ、旋回していた光球の一つが主から離れ、弧を描いてヘルに迫る。
氷柱を生成し終え、火球を突破してきたヒルデに次の手を打とうと、手を翳して精神を集中させていたヘルは、
「くっ!?」
迫った光球を何とか避けたものの、肩口の傍を通られただけでジャケットを焦がされる。
伴侶の声でこの介入を予期していたヒルデは、ジャベリンを携えて高速飛翔、氷柱を素早く突き崩しつつ間合いを詰める。
さらにジークは光球二つをロキに射出、一発目で構築されかかっていた障壁を強度不十分なまま破壊し、残る一発に本体へ
攻撃を仕掛けさせる。
風の操作でするりと、ワイヤーで引かれるように高速で下がったロキの眼前で、地面に接した光球がジュワッと地面を焼く。
さらに、
「どっせぇえええええええいっ!」
雄叫びを上げたジークの巨体が、光の粒子を噴射する剣をロケットエンジンにして落下角度を調節、空中から弾き落とされ
る格好でロキに迫る。
白い巨体の超重量の乗せ、振り上げられたヴァルムンクが唸りを上げた。
その切っ先が届くか否かの位置で、かろうじて小さな障壁を生成したロキが、剣先を鈍らせる僅かな猶予を得た上で、予備
動作の無いバックスライドを行なって攻撃を避ける。
ズドンと、大地が揺らぐ。
着地しつつ振り下ろされた巨大な剣が、硬い地面を砕いて深く潜り込んでいた。
のっそりと身を起こすジーク。ボリュームがある肥えた巨躯からは強烈なプレッシャーが垂れ流され、金眼には好戦的な強
い光が宿り、口元には殺意が滲む獰猛な笑みが浮かんでいる。
(ホワイトディザスターの二つ名は伊達ではありませんね…)
何とか間合いを取って仕切り直す事に成功したロキだったが、しかし余裕は全くない。
攻撃が通じない。逆に攻撃は何とか防げる程度。しかも、これでなおジークは全力を出していないのだ。本命の為に力を温
存しており、オーバードライブも行なっていない。分が悪いどころの騒ぎではない。
一方で、ヘルはブリュンヒルデに間合いを詰められ、接近戦を挑まれていた。
赤い手槍の穂先が闇を裂き、首を傾けながら身を捻ったヘルの脇を抜ける。
ヒルデは即座に柄を脇に挟んで締め、水平のスイングに切り替えられるが、ヘルはこれを読んでいたので、素早く伏せてか
わし、直後に風を起こして後方へ滑るように移動する。
しかし、戦乙女は鋭く踏み込んで二度、三度と突きを放ち、立て直す隙を与えない。
体をすっぽり覆うほどのカイトシールドと、1.5メートルにも及ぶジャベリンで武装し、全身甲冑を纏いながら、ヒルデ
の動きは機敏で迅速である。
何せ思念波を物質化した武具はエネルギーの塊であり、身体で感知できる程の重量を持たない上に、部分的に切り離して粒
子化噴射し、姿勢制御や加速に活用できるのだから。
おまけに背から翼状に放出される思念波の推進力は、彼女を砲弾のような速度で飛翔させる。
ジークもヒルデも、その得物と能力により、単身での空中戦が可能となっていた。
(ええい…!しつ…!こいっ…!)
身を捌きつつヘルが牽制に放った拳大の氷塊が、宙で急激に成長。植物が根を張るように無数の腕を伸ばす。しかしヒルデ
はシールドを翳し、押し付けるように前へ放ってそれを防ぎ止めると、シールドが視界を遮っているその状態で身を捻って、
ジャベリンを投擲する。
それ自体が後部を揮発させるように粒子化、及び噴射させ、加速を得るジャベリン。ヒルデとヘルを隔てていたシールドは、
槍の穂先が接触する直前にヒルデの意思で霧散する。
「くっ!」
呻いて身を捌くヘル、そしてこの時…、
「…しまった…!」
ロキが呻き、前方を手で払う。すると、対峙していたジークが突如吹き上がった炎に飲まれ、周囲の景色ごと蜃気楼のよう
に揺れて消え去った。
「ヘル!ジークが行きました!」
「え…」
警告に反応したヘルが巡らせた目に、陽炎のように揺れる闇と、揺れてずれた景色の中からぬぅっと現れ、剣を振りかぶる
白い巨体が映り込んだ。
「ちっ!」
彼我の距離は2メートル程度、もはやヒルデを見ている余裕すらない。咄嗟に障壁を張ったヘルだが、
「そこには居ません!」
続けて上がるロキの声。ハッとしたヘルの眼前で、現れたばかりのジークがニッと口の端を上げ、揺れて消える。そして、
「後ろ!?」
振り向いたヘルは、大きく目を見開いた。剣を後方まで引いて太い胴を限界まで捻り、フルスイングの体勢に入った北極熊
の姿を近距離で目にして。
その、ヴァルムンクの機能を用いて光を屈折させる事で可能となるステルス技術は、疑似ノンオブザーブ現象と呼ばれる。
「ちぇすとぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
咆えながら薙ぎ払われた巨剣が、障壁に食い込みつつヘルを斜め上空へ弾き飛ばす。さらには、接触と同時に放射された光
の奔流が、夜空へ弾け飛んだ魔女を押し流しながら飲み込み、
「……っ!!!」
悲鳴すら上げさせず、障壁ごと塵に変えた。
「ヘル!」
ロキが発した、弟子への叱責を込めた呼びかけは、直後に鳴った風切り音でかき消された。
高速でスライドしたロキが見ているのは、飛翔しつつ近付く赤い戦乙女。
ジークの動きに合わせて相手をスイッチしたヒルデは、自分の周囲に二十数本ものジャベリンを生み出し、自分に追従させ
る形で滞空させている。
「滅多刺し!」
ヒルデの号令下、無数のジャベリンが赤い濁流となって距離を取ろうとしたロキに襲いかかった。
「えぇい…!」
珍しく苛立たしげに唸ったロキが、地面を踏んだ途端に爪先をトンと鳴らし、地表を叩く。
直後、硬い地面を貫いて無数の岩塊がせり上がり、槍の奔流を阻みつつヒルデの接近を妨げた。
ドガガガガガガッと連続して打ち込まれたジャベリンが岩を粉砕すると、爆炎が上がって高熱が荒れ狂う。
一瞬の隙を生み出して仕掛けた、無差別焼却。
これはまずいと踏んだヒルデは、飛翔状態のままくるりと後ろ向きになりつつ思念波放出量を上げ、翼を拡大してそれ自体
を壁にした。
噴射によって爆炎と熱を押し返してやり過ごし、収まってから着地したヒルデは、
「…逃げられましたね…」
ぽつりと呟きながら振り返り、ロキの姿が消えている事を確認すると、甲冑を霧散させてジャケット姿に戻り、疲労が滲ん
だため息をつく。
そこへ、のっそりと白い巨体が歩み寄った。
「ごめんなさいジーク…。至らなかったわ…」
「問題ねぇっス!」
失態を悔やむヒルデの肩に腕を回したジークは、二カッと歯を剥いて笑い、太い腕でぐいっと抱き寄せた。
「ヘルはしばらくお休み!ロキは逃亡!これならスルトとやりあっても邪魔は入らねぇっスから、なかなかの戦果っス!」
励ますジークの逞しくもムッチリ柔らかな胸と腹に押し付けられる格好になったヒルデは、くすりと笑て小さく頷く。そし
て、逞しい腕の中で首を捻り、へたり込んだまま動けず、一部始終を見ていた帝の近衛を見遣った。
ビクリと震える近衛。しかし、北極熊の腕を抜け出し、歩み寄って来る赤い髪の女を見つめながらも、腰が抜けて動けず、
逃げられない。
やがてヒルデは近衛の眼前に立ち、屈みこんで目線を合わせた。
「な…、なっ…、な…!」
何者?そう問いたくとも歯の根が合わず、わななく口元からはガチガチと音が零れるだけ。恐怖に震える近衛は、のっそり
と歩み寄ったジークの巨体を見上げて青ざめる。しかし、
「何者…って訊きたそうっスね」
巨大な北極熊は先程までの獰猛そうな表情を消し、悪童のような悪戯っぽい笑みを浮かべ、目を細めている。それを意外に
感じた近衛の額を、トン…と、ヒルデの人差し指が軽く突いた。
「何者かと問われると…、まぁ、世界と敵対する者でしょうか?」
ヒルデがそうささやいた途端、思念波を吸い出された近衛はかくんと項垂れ、気を失った。
「こっちとしちゃあ、仲良く折り合いつけてやって行きてぇトコなんスけどねぇ…」
「仕方ないわ。私達はあるべき流れから外れてしまった存在だもの」
しかめっ面になって後頭部をがりがり掻くジークに、ヒルデは寂しげに微笑みながら応じた。そしてやにわに立ち上がると、
周囲を見回して近衛兵達の被害状況を再確認する。
「助けられるひとも居るわ」
「任せたっス。オレはスルトの野郎をどつきに行くっス」
軽く言ってヴァルムンクを担ぎ上げ、ジークはヒルデにウインクした。
「世界からは目の敵にされる…。けど世界を守る…。つくづく損な役回りっス」
そのなんとも皮肉な内容の発言に、ヒルデは微笑んで頷く。
言葉とは裏腹に、ジークには悲壮感が見られない。
世界に受け入れられないまま、ひっそりと寄り添い、世界を守る。それが自分の生きる道だともう決めている。
ヒルデもまたこの生き方に疑問は持たない。既に覚悟は決めた。この巨漢に添い遂げると決めたその時に…。
「んじゃ、行って来るっス!」
「はい。ご武運を…」
戦場深く踏み入る夫と、送り出す妻。一方が背伸びして、一方が身を屈めてかわした無事を祈る口付けを見る者は、誰も居
なかった。