第十二話 「神原猪門」

「刀の製法を、か」

 厳めしい顔つきの猪は、向き合って座る赤銅色の巨熊の目を見つめ、ボソリと呟いた。

 神原家当主…イモンの元を、神代家の次期家長となるユウヒが訊ねたのは、ほんの二週間ほど前の事。

 ひと払いを済ませた奥座敷で座椅子に背を預けているイモンと向き合い、どっかと胡坐をかいたユウヒは、太い両腿に大き

な手を乗せ、背筋を伸ばしている。

 イモンは齢三十の大猪。大柄で逞しい堅肥りの偉丈夫だが、向き合う十四の少年はそれすら上回る大柄さ。幅も厚みも既に

イモンを上回り、身長はもうじき2メートルを超えるだろうという巨漢ぶり。

 血気盛んで手が焼けると、他ならぬ父親…ユウキから常々聞いているイモンだが、なかなかどうして、居住まいを正した少

年は堂に入った落ち着きを見せており、父が言うような危なっかしさは微塵も感じられない。

(確かに餓鬼の時分は多動で危うかったが、もう落ち着く年なのだろう)

 そう考えたイモンは、改めてユウヒに問う。

「して、神代のお主がそれを望むのは何故だ?」

「おらぁ、もうじき元服です。神代のしきたりに則って、親父殿みでぐ得物ば一づ拵えで持づようになんです」

 ぼそぼそと訛りのきつい言葉で応じたユウヒを前に、そういえばそうだったとイモンが頷く。

「んだがら、得物は刀にしてぇ」

 イモンは視線を少し上に向け、当主が持つ得物について考える。

 元々武器で武装する自分達神原一門とは違い、神代は徒手空拳に特化した神将。主戦力は己の五体であり、得物を用いた戦

い方を主体にはしていない。

 しかし昔は、将たる者が丸腰では格好が立たないというしきたりで、神代をはじめとする無手の当主や時期当主は、特に式

典などの公式時には帯刀する事になっていた。

 今でこそこの帯刀義務は無くなったものの、当主が特別な品を持つ習慣は今でも残り、神代など武器を用いない神将達も、

このしきたりに則って何らかの品を身に帯びている。

 もっとも昨今では、ユウキの大徳利やアクゴロウの数珠など、武器の形状をしていない物も多いのだが…。

「刀、なぁ…」

 唸ったイモンは、湯呑を取ってぬるくなった茶を啜り、思慮に耽って目を閉じる。

「神代の奥義、雷切」

 ポンと投げかけられた言葉で、ユウヒは眉をぴくりと上げる。

「確かあれは、性質上刀…あるいは棒状の物が必要となる…。習得できたのか?」

「いや、まだ安定しね…。七割程度です」

 応じたユウヒが何故か恥じらっているように耳を倒していたので、イモンはくっくっと小さく笑った。

 恥じるどころか威張っていい。生涯かけても一つ会得できない者が大半という物を、たった十四の少年が七割方物にしたの

だから。

(神ン野のアクゴロウといい、末恐ろしい子供ばかり生まれおる。次代も安泰か…)

 頼もしくも思うが、逆に他の生き方をしては世界の敵にしかなれない子供達を不憫にも感じ、イモンは複雑な想いを腹に収

めて頭を振る。

「そうさな、ユウキ殿のように使う度に何かしらへし折るなら、折れん得物を携えるのも一つか…」

 イモンは口の端を上げて武骨な笑みを浮かべると、腰を上げ、立ち上がるようにユウヒを促した。

「刀と言っても様々だからな…、参考までに蔵の物を見せてやろう。打ち合い斬り合いに用いぬのなら、短く頑丈な物が良い

だろうが…」

「まだ神代の姓を貰う前、おらだぢの始祖が蕨手刀使ってだど、昔に親父殿がら聞ぎました」

 襖を開けにかかったイモンは、ユウヒを振り返って顔を見上げる。

「長さは要らねぇがら、そいな具合の頑丈なモンが良い」

「心得た」

 無愛想な少年を促し、イモンは考える。

 あるいは山刀のような物ならば邪魔にならず、ユウヒにも似合うかもしれない、と…。

 後にユウヒの得物となるマタギナガサは、この日イモンが刀鍛冶に話して絵図に書き出させた物を元に作られた。

 始祖が用いた遺物をベースに、ヒヒイロカネで身を飾って…。



 じゃりっと、ギョウブの足が地面を擦って数センチ進む。

 同じ分だけ踵を引いたコハンは、ちらりと視線を動かして周囲を窺う。

 倒れた御庭番と敵兵…。今まさに切り結んでいる者…。

「なるほど」

 ギョウブの声がコセイの視線を自分へ引き戻した。

「神ン野の小倅を探しているな?えぇ?」

 狐の顔には糸一筋程の変化も無かったが、図星だった。

「どうやら貴様らも位置が判らんらしい…。違うか?」

 無表情のままでいるコハンだが、その問いかけは確認であり、看破されているのは間違いないと察している。

 それでも応じないのは、大狸の言葉そのものに何らかのゆさぶりが含まれ、術中へ誘う罠である可能性が捨てきれなかった

からである。

「小倅に頼らねばならんのか、それとも案じているのか、どっちだろうなぁ?」

 言葉の最中にじりっと爪先を滑り出させたギョウブを威嚇するように、雌のトドがルルルッと鼻の奥で唸り、腰を沈める。

 いつでも飛びかかれるぞ、と脅しを込めた、これ見よがしの構え直しだが、彼女にもコハンにも判っている。今見えている

そこに、本当にギョウブが居る保証はない事が。

(さて、どうした物でしょうか…)

 詰められた分だけ退く事も、正解とは限らない。まさかと思いたいが、後方へ回り込まれている可能性もある。いや、今こ

うして話している最中にも、幻の姿をそこに残して移動している事も有り得る。

 だが、コハンはそれらの可能性を頭に据えたまま、疑心暗鬼にならないよう注意しつつ、勘に従って行動した。

 神ン野の先代当主アクタロウが昔言っていた。自分達のような策士は、考えずに勘頼みで行動された方が厄介なのだと。加

えて、狙い通りに事が転がり過ぎる時は用心深くなるとも聞かされた。

 コハンが取ったその勘頼みの後退は、これらに合致した物でもある。

 一方で、気配も姿も完全に消えているアクゴロウの事も気になるが、ギョウブにやられた訳ではない事は彼の言葉から察せ

られる。

 しかし、この状況に至りながら目立った行動がないのは気になった。何らかの事情で幻術破りができなくなっているのかも

しれない。

(さて、こいつはどうしたものか…)

 ギョウブはコハンを見据えたまま、その行動を仔細に観察していた。幻の体から二歩ほど横に動いた個所で。

 自分の正確な位置は判っていないようだが、下がるコハンの足運びには動揺も迷いも見られない。

 下がらせるのは思惑通りに行っているのだが、その落ち着いた様のせいか、まるで何か策があるようにも見えた。

 何気なくアクタロウが漏らした言葉をコハンが聞いていた。ずっと昔の事、日常の中、さして重要とも思えなかった小さな

事が、今ここでコハンの命を永らえ、ギョウブを牽制する結果に繋がっている。もしもギョウブが知ったならば、どこまでも

忌々しいと神ン野をなじった事だろう。

 しかし、その膠着状態はそう長く続かない。ここは戦場であり、いつまでも突っ立ったままではいられない。ギョウブはい

ずれ攻勢に出る。コハンもまた一か八かで禁術を使用する。

 その前に…。

(はやく…!はや…く…!)

 姿を消して地に倒れたまま、腹の傷を自らの手で弄り、生じる激痛によって意識を繋ぎ止めるアクゴロウは、脂汗を流しな

がら待っていた。

 手は一つ打った。しかし間に合うかどうかは賭けだった。

 今気を失ってしまえば姿が露わになり、自分がまともに動けない事を知ったギョウブは、とどめを刺しに来るか、安心して

コハンを仕留めにかかる。加えてせっかく打った手も無駄になってしまう。

 今この状況で、有利なのはたった独りのギョウブ側。若く、経験も浅いアクゴロウだが、ここが堪え所なのだという事がこ

の場の誰よりもはっきり判っている。

 それは、アクゴロウの天性の才だった。先天的に軍師、参謀格としての資質を多分に有している若狸は、自身の命すら駒に

見立て、倒れながらもこの状況に影響を及ぼし続けている。

(神ン野の小倅は動かん…。この場を離れたか?それとも臆して逃げたか?)

 ギョウブは様子見も十分だと考え、コハンとの距離を詰めにかかる。

 正確な位置が判らないコハンは、慎重に気配を探り、捉える機会を窺うが、ゆるゆると動いたギョウブに側面を取られてし

まう。

 だが、誰もギョウブの姿を見ていない中で、アクゴロウだけはその位置をおおまかに見抜き、仕掛けるタイミングも見切っ

ていた。

 下がるコハンの後方には、倒れ伏した敵兵の死体…。邪魔になるそれを利用する為に、ギョウブはあの位置に幻を置いてコ

ハンを後退させていた。

 アクゴロウがそこまで見抜いていながら、なおも警告を発しなかったのは…。

(さらば…!)

 ギョウブが地を蹴り加速する。鈍く煌めく長ドスが闇を映して翻り、振り上げられる。

 コハンは位置を見破っていないが、神将の血が危機を知らせるのか、首周りの毛をふわりと逆立てていた。

 ドスを握るギョウブの腕に力がこもったその瞬間、

(…きた…!)

 アクゴロウが目を大きく開き、急停止したギョウブもまた目を見張り、コハンが振り向く。

 三者の目に映るのは、ギョウブ本体とコハンの間に飛来した、柵を砕いた物と思われる無数の木端と、闇に溶け込む黒い翅

を持つ蝶…カラスアゲハ。

「神座の!加勢するぞ!」

 野太い声が響くと同時に、カラスアゲハが舞うそこで、無数の木端がピタリと止まる。まるで見えない壁に貼り付けられた

ように。

(しまった!)

 進路をふさぐ木端は障害とも呼べない物だったが、ギョウブにとっては手痛い妨害となった。突っ込むにはいささか邪魔な

上に、コハンには居る方向がばれてしまっている。

 止まった木端の中を舞うカラスアゲハが、驚いているコハンにふわりと寄り、守るように眼前で舞う。

「これは…、アクゴロウ君の…?」

 幻のカラスアゲハを見つめて疑問を口にしたコハンは、改めて木端とカラスアゲハが飛んで来た方向…、先の声を発した主

を見遣った。

 柵を破砕して木端を飛ばした武者が、鉈をそのまま引き伸ばしたような特異な形状の刀をブンッと振るい、数羽のカラスア

ゲハを従えたまま、ずしゃっと大股に一歩踏み出す。

「イモンさん…!」

 コハンの表情が明るくなり、姿を消したままのギョウブが歯噛みする。

 両者の目に映るのは、武者甲冑に身を包んだ大柄な猪…、神将随一の剣客、神原猪門そのひと。

 危急と察し、持ち場を配下に任せて駆け付けた猪武者は、顎をしゃくってカラスアゲハを示し、コハンに問う。

「これこの通り、神ン野の若当主が使いを寄越したが…、やっこさんは何処だ?」

 これが、アクゴロウが打った一手だった。

 微かに感じた近場まで来ているイモンの思念波を頼りに、傍に幻蝶を出現させて助力を求め、この場に導いていたのである。

(はは…、えっとぶりにしんどぉ…。ちょっぴん…休み…たいわぁ…)

 ギリギリの、しかし絶好のタイミングでの援軍到来に笑いが込み上げ、それで傷が痛み、若狸は歪み笑いに顔を染める。

 アクゴロウは、賭けに勝った。

「揚羽蝶の動きから見るに、神ン野には彼奴の位置が判っておるらしいな」

 宙に浮く無数の木端によって隔てられた、自分から見て右手側…コハンが居る側とは反対側を注視しながら、イモンは呟い

た。その足は警戒しながらも前へ踏み出され、重々しい歩みが具足を鳴らす。

 敵の加勢を前に、ギョウブは焦りを押し殺して状況を再分析した。

 木端が邪魔でコハンを急襲できない。突破は可能だが、砕いて進めば位置が把握され、コハンの術に囚われてしまう。

 幻体は先の位置に出したままだが、今はもう誰も見ていない。そちらを動かしても陽動として十分な効果は期待できそうに

なかった。

(このまま強引に押し進めるのは無謀だ。札を切り直すか…)

 仕方なく一度距離を置き、再度イモンも含めて策にはめようと考えたギョウブだったが、

「正確な位置は判らぬ」

 淀みない足取りで進むイモンがそう呟き、ちらりと視線をそちらへ向ける。

 イモンの目は確かにギョウブの居る方へ向けられているが、直視はしていない。しかし…。

「判らぬ、が…」

 大猪は足を止め、左足を前に出して半身になり、鉈のような分厚い刀を担ぐように頭上に構えた。その、刀を担ぐ両腕が、

何か重い物を支えるように、あるいは見えない天井を押し上げるように、ぐぐっと力瘤を膨らませる。

「隠神の化け狸が「居るかもしれぬ所」を、居るつもりで斬るまでの事よ」

 剣術で言う鳥居の構えに太刀を担ぎ、すぅっと目を細めたイモンがボソリと呟く。

「轟猪激進(ごうちょげきしん)!」

 直後、四肢で膨れ上がる筋肉の束。蹴り足で吹き上げられた土砂を置き去りに、猪武者が爆発的な突進を開始する。

(まずい…!)

 ギョウブは身構えつつも後方へ跳ぶ。そこへ一直線に駆け込むイモンの腕が、頭上から反時計回りに太刀を振るい、袈裟懸

けに斬り下ろす。

「斬の奥義!鵺刻(ぬえきざみ)!」

 唸りを上げた異形の大太刀…獅子王が、風の悲鳴が上がるよりも速く宙を駆けた。

 主君に従って鵺と対峙した遠い祖先、猪早太にちなんだ刀術の奥義。九条の剣光がイモンの進路上で閃き、その内の一刀が

高い金属音を上げる。

 宙を舞う、折れた長ドスの切っ先。イモンの太刀が織り成す断絶層から逃げ損ねたギョウブは、間一髪で肩口から胸元まで

を一薙ぎにする一刀を凌いだが、受けた長ドスは折れ、受けた事でできた僅かな猶予で身を捌いたものの、なおも止まらなかっ

た太刀に胸を浅く斬られている。

 この瞬間に、防御に集中力を割き、傷で思考を乱されたせいで幻術が解け、ギョウブの姿が現れる。

「ちっ!」

「そこか化け狸!」

 舌打ちしたギョウブを目で追いつつ、イモンは土を踏み抉りながら方向転換、再度神速の八刀を見舞うべく構え直す。

 神卸しにより肉体の限界を超える筋出力と思考の高速化を実現させたイモンと、折れた得物だけでまともに殴り合うのは無

謀。そう判断したギョウブは即座に右へ地を蹴り、同時に左へ跳ぶ幻体を生み出し、二択で惑わしつつ回避に入る。

 しかし、一拍早く踏み込んだイモンの一刀目が、二人のギョウブの右足と左足を同時に薙いでいた。

 手応えなく足を通過された方は幻。ゾックリと太腿を裂かれた方が本体。

 と、一瞬考えたイモンは、瞬時にそれがフェイントだと思い直し、続く二刀目を血を流さなかったギョウブへ向ける。

「くっ!」

 折れたドスで再度受けたギョウブだが、今度は根元付近から折れ、使用に耐えなくなった。さらには受けた勢いで後方に飛

ばされ、背から地面へ落ちる。

 猛進するイモンが繰り出す太刀が、バウンドしつつ後転し、勢いをつけて飛び起きるギョウブを追う。

「覚悟!」

 イモンが吼えると同時に、跳ねるように起きたギョウブの太い胴が、追いついた横薙ぎ一閃で腕ごと断たれた。

 目を見開いた大狸の上半身が宙で回る。その喉元へ、確実なとどめとして突きを放ったイモンは、

「ふん!やりおるわ!」

 切っ先が触れるや否や上下に分断されたギョウブが消え去る様を眼に捉え、大きな牙が覗いた口元を苦々しく歪めた。

 その直後、横合いから振るわれた刀が、体を開いてかわしたイモンの肩を掠める。

 甲冑を貫通し、体にのみ傷が生じる幻の一刀…。起き上がる幻を作りつつ、本人は横へ転がっていたギョウブは、イモンの

攻撃の隙を狙って反撃に転じていた。

 極めて高いレベルにある体術と幻術、洞察力が組み合わされたギョウブの闘法は、経験で上を行くイモンとも渡り合えるだ

けの練度に至っている。

 ギョウブの幻刀は物をすり抜けて傷を負わせるが、逆にそれでイモンの獅子王を受ける事もできない。両者は紙一重の回避

を重ねて斬り合う。

 ひとの域を超えた両者の戦いぶりを、僅かに退いて見守りながら、コハンは難しい顔をしていた。

 幻と本体がいつ入れ替わっているのか判らず、ギョウブを捕捉できない。

 そうこうしている間にも両者の交戦区域は移動し続けており、巻き添えが出ないよう、そしてイモンの邪魔にならないよう、

味方兵に退去や移動、陣の敷き直しの指示を出すのが関の山。

 同じ神将とはいえイモンと違って直接戦闘向きではないため、コハンには割って入るだけの技量が無い。援護しようにもめ

まぐるしい動きに対応できず、出した手が邪魔をしかねない。

(何とも歯がゆい事です。が…)

 考えようによっては好都合だった。今ならばギョウブに邪魔される事無く動ける。

 まず気になるのは、幻のカラスアゲハを飛ばして援軍を呼んだアクゴロウの事。イモンが駆けつけてくれた今になってもな

お動きが無いのはどういう事なのかと、コハンは不安を覚えた。

「アクゴロウ君!何処です!?」

 声高に叫ぶも返事は無い。が、変化はあった。

 コハンの前で、カラスアゲハがすぅっと、闇に溶け込むように消えた。それと同時にイモンを導いた蝶達も失せる。

「アクゴロウ君!?」

 いよいよ胸騒ぎが強くなったコハンの耳を、

「ジンノ様っ!?」

 雌のトドが上げた悲鳴に近い大声が叩いた。

 振り向いたコハンは、確かに先程までは何も無かった場所に目を止め、見開いた。

 雌トドが駆け込む先…、腹から夥しい血を流し、自身が作った血溜りの中で仰向けになっている肥えた狸の姿が、瞳孔が大

きく開いた狐の瞳に映り込む。

「しっかり!しっかりなさって下さいまし!」

 屈み込んだトドが確認したアクゴロウの瞳は、夜空を映して望洋としており、焦点が定まっていない。

 意識を繋ぎ止める為に自ら傷口を痛めつけたアクゴロウだったが、その代償として出血が進んでしまっていた。

 血が足りず、いつ意識が途切れるか判らないその状態で、アクゴロウは浅く弱々しい呼吸音を漏らしながら、魔王槌を握っ

た左手を上げる。

 震えるその手を、駆け込んで跪いたコハンが取り、支えると、アクゴロウは口元を微かに綻ばせた。

「ギリギリ…やったわぁ…」

 直後、アクゴロウの四肢にはめられた数珠が、パキィンと澄んだ音を立ててひびを生じさせる。

 そしてアクゴロウの血塗れになった右手が、傷を避けて脇側をベチンと叩く。

 変化は、静かに訪れながらも劇的だった。

「む!?」

 目を細めたイモンの眼前で、二人になっていたギョウブの一方が消え、幻刀も消失する。

「しまった!魔王槌か!?」

 イモンと渡り合うのが精一杯で余裕をなくしていたギョウブは、懸念していた術破りを最悪のタイミングで受けてしまった。

 目前で翻る師子王に鼻先を掠められつつ後方へ宙返りし、懐に飲んでいた匕首を抜いて投げ、足止めを図ったギョウブは、

撤退を視野に入れてコハンとアクゴロウの方を見遣り、ハッとした。

 雌のトドに背を支えられ、上半身を起こしたアクゴロウと、宙にあるギョウブの、破幻の瞳が視線を交わらせる。

(まずい!)

 狙いを察したギョウブの目が、アクゴロウの口の動きを凝視した。

「奥義…、神ン前桜(じんぜんざくら)…」

 喉の奥からこぽりと溢れて来た血と共に、アクゴロウが術式の名を口から零す。

 ギョウブの足が地についたと同時に、その視界の上部が薄桃色に染まった。

 大狸の背後に聳えるのは、突如出現した一本の巨木。満開の華を咲かせた桜の木…。

 大人が五人手を繋いでも回り切らないような太い幹には、一抱えほどもある太さの注連縄が巻かれている。

 その威容を振り返ったギョウブの顔から血の気が引いた。

 それは、見る者を選ぶ桜。

 そして、見た者を殺す桜。

 風もないのに激しく揺れた枝が、無数の花びらを舞い降らせる。さながら、薄桃色の雪のように。

 巨木から薄桃色がひらりひらりと舞い降りる、怖いほど美しいその光景の中で、ギョウブは一目散に駆け出した。

 その肩に、舞い降りた桜の花びらがふわりと落ちて、衣服をすり抜け被毛に触れ、そこを桜色に変色させた。

「う…!」

 呻いたギョウブの左肩から、一切の感覚が消失する。

 神ン野家の奥義、神ン前桜は、感覚を欺く幻術の高度発展形に当たる。

 花びらを知覚した者がそれに触れた時、触れた個所の機能を失調させるという術なのだが、これは、意図的な運動のみなら

ず、不随意運動までも封じてしまう。

 そしてその効果は、術者の制御下にさえあれば、十数分持続する。

 これが何を意味し、受けた者がどのような末路を辿るかといえば、答えは簡単。

 花びらを浴びた手足が動かなくなり、逃れられなくなった所で、全身に降り注ぐ桜の花びらが全ての機能を止めてゆく。そ

うして桜の供物となった者は、花びらに埋もれて息絶える。

 しかもその致死幻影は、破幻の瞳でも無効化できない上に、見せる対象を絞る事もできる。今現在アクゴロウは、神ン前桜

を見せる相手をギョウブにのみ限定していた。

 逆に言えば、神ン前桜とは、制御をしくじれば敵味方関係なく死に至らしめる無差別攻撃となってしまう、危険極まりない

術でもある。

 それを、アクゴロウは意識も朦朧としているこの状態で御している。これは僅かなミスも許されない綱渡りだった。

(馬鹿なのか!?それともよほど自信があるのか!?)

 ギョウブは驚嘆した。この奥義をこの歳で扱える技量にも、自身が万全でないにも関わらず味方が周囲にいる状況で使う、

その度胸にも。

 改めて自分達の宿敵の恐ろしさを自覚したギョウブは、疾走して逃れようとしつつ、降りかかる花びらに向かって左腕を伸

ばした。頭に落ちかかる花びらを防ぐために。

 肩の上部から感覚が失せた左腕はかろうじて動くが、普段の三割も仕事ができない。頭と引き換えにするなら安い物。数枚

の花びらを払うようにして手の甲、肘、二の腕に受けたそばから、被毛がじわりと薄桃色に変色し、感覚を失う。

(もはや交戦は無理だ。一度退いて立て直すしか…!)

 大事の前の小事。神ン野に背を向ける屈辱に耐え、ギョウブは撤退一択の心積もりで桜の下を駆け抜ける。

 これを見たイモンは、「逃すか!」と叫ぶなり左手で脇差を掴み、逆手で引き抜きにかかった。

「鳴けよ骨食!」

 大喝と共に抜き放たれたのは真っ白い刀身。まるで骨を思わせる白さのそれは、光沢を帯びておらず、金属には見えない。

 かつて鵺にとどめを刺したとされるその刀が、抜き放つその動作で下から上へ振り抜かれると、ヒョォウ…と物悲しい音を

立てて白い扇状の光が放たれ、夜闇を裂いて宙を走った。

(まずい!)

 身を横へ投げ出したギョウブだったが、言う事を聞かない左腕を体に引き付ける事ができない。

 直後、吹き上がる鮮血。漏れる低い呻き。

 風になびいた帯のように、宙へ水平に残されたその左腕が、肘と肩の中間でボヅッと断ち切られた。

 つんのめるギョウブ。追い縋るイモン。切断された側の腕を抱えるように走るギョウブは、速度の鈍りからイモンに追いつ

かれ、肩ごしに視線を飛ばして猪武者を見遣る。

 鳥居に構えた太刀を、イモンが今まさに背後から振り下ろそうとしたその時、

「!?」

 振り向いたギョウブが断たれた左腕を振り、そこから飛んだ鮮血が目くらましとなってイモンを襲う。

 太刀の峰に添えていた左手を外し、目を庇ったイモンは、

「な!?」

 血飛沫が宙で繋がり合い、鎖となって自分の腕に絡みついた事で驚愕する。

 それを見遣るギョウブの視界の中で、巨大な桜が花びらを止ませ、輪郭をぼやけさせ、薄く透けてゆく。それと同時に…、

「…おぶっ…!」

 トドに支えられ、瞳から光が失せたアクゴロウが大量に喀血し、魔王槌を手放した。

「アクゴロウ君!」

「ジンノ様!しっかり!」

 コハンと、持ち合わせの布で腹の傷を押さえて若狸を止血しているトドが叫ぶが、アクゴロウにはその大声すら遠く聞こえ

る有様。

(あかん…、あかん、もう…、保た…)

 神ン前桜の暴走を防ぐため、最後の力を振り絞って術を打ち切るアクゴロウ。カクンとその頭が落ちるのと、桜が完全に消

え去るのは同時だった。

 腕を失いながらも魔王槌の干渉が消え、術の行使が可能となったギョウブの姿が、イモンの眼前でぶれてだぶり、七体に分

裂する。

「えぇい!」

 唸ったイモンが左腕を捕らえられたまま、扇状に広がって駆け去ろうとするギョウブ達を追い、間合い外に逃げ去られる前

に片腕で太刀を振るう。が、本来九条奔る刃光はたったの五条しか閃かず、二体のギョウブが斬殺を免れて間合いの外へ。さ

らにはそれぞれがすぅっと姿を消す。

 イモンは猪鼻をふごっと鳴らして匂いを手繰ろうとしたが、幻臭まで放たれたらしく、ギョウブの血の臭いが周囲に濃く立

ち込めて位置を探れなかった。

「化け狸め…!己の無力さを恥じるべきか、敵ながら天晴と言うべきか…、当主三人がかりで仕留め損なうとは…!」

 目を細めて苦々しく呟くと、イモンは踵を返した。

(げに恐ろしきは、斯様なモノを生み出すに至った、我らが確執と執念か…)

 奇襲は既に考えていない。むしろ仕掛けてきてくれるなら有り難いが、図に乗って攻め込んで来てくれるほど容易い相手と

は思えなかった。そういう性質ならば、そもそもコハンとアクゴロウが遅れを取る事も無いのだから。

(さておき、まずは神ン野の倅だな。幸いにも急所は逸れたようだが、放っておけば死んでしまう。ここは一刻も早く安全圏

まで下がらせ、治療を受けさせねば…)

 手負いにしたとはいえギョウブは生きている。ここで対抗手段のアクゴロウの戦線離脱は厳しい。しかし…。

(次代を担う者を失うのは、もっと厳しい)

 太刀を振るって返り血を飛ばし、イモンはアクゴロウの元へ歩み寄る。

 コハンと従者に指示を出し、退避させる為に。