第十三話 「ジークフリート」

「筋が良いな。彼女達は」

 正座した灰色の猫が、しゃかしゃかと茶を掻き混ぜながらそう呟くと、向き合って座った巨漢は「カンザキの褒め言葉って

のは格別っス」と笑みを見せた。

 ここは神崎家の屋敷深く、密談などにも使われる半地下の茶室。

 細身で中背の神崎家当主…ビョウギと向き合う巨漢は、身の丈2メートル半はありそうな北極熊だった。

 着流し姿のビョウギが茶を入れる前で、半袖シャツの上にオーバーオールを着込んだ巨漢は胡坐をかいた足首を両手で掴み、

尻を支点にして子供っぽく巨体を前後に揺すり、畳と床をミシミシいわせている。

 茶…はどうでもいい。一緒に出される菓子が楽しみなのである。

「流石は思念波操作特化タイプっスね。理屈じゃできるはずだってミーミルも言ってたっスけど、カンザキの索敵技術まで学

べるのは正直ビックリっス」

 軽い調子の北極熊に、ビョウギは静かに、憂いを込めた声で応じた。

「戦乙女…。思い切った計画を立てた物だね」

「まったくっス」

「他人事のように言うが…、よりによって合成人間とはね…。明るみに出れば倫理問題にも発展するだろう?」

「そいつはオレに言われても困るっス。計画したのはヴェイとミーミルだし、ゴーサイン出したのはディンっスから」

 しれっと応じた北極熊は、「それに…」と付け加える。

「計画の立案は政府連合主導って聞いてるっス。お墨付きっスよ」

「そうおおらかに構えていて良い物かね?」

 ビョウギの声には苦い物が潜んでいる。

「戦力を文字通り「生産」する。命ある「兵器」を生み出す。生きている以上道具ではないんだ。彼女達には意思がある」

「反抗するかもしれねぇって言いたいんス?」

「そんな簡単な事なら良いんだがね。兵器である事を生まれながらに義務付けられる…。その歪さが心配だ」

 ビョウギは茶を勧めたが、その目は物憂げに細められている。

「神将や逆神も似たような物だが、生まれながらに闘う義務を課す事は酷だ。できれば娘達にそんな事は教えたくない。…そ

う思うのがひとの情だろうに、何故に心を持たせた上で兵器として生み出すのか…」

「哲学的っスねぇ」

「はぐらかすな。…本当は、言いたい事が判っているんだろう?アドバンスドコマンダー、ジークフリート…」

 役職名込みで呼ばれた北極熊は、それでも居住まいを正さず、「まぁ薄々っスけど」と軽く肩を竦めた。あくまでも公式見

解としての意見を述べるつもりはないようだと、ビョウギはその態度から察しをつける。

「生きている以上、コントロールは完璧じゃねぇっス。単純なインセクトフォームは勿論、時には機械だって制御しくじるん

スから。けど、その点を抜きにしても魅力的なんスよ。ひとのカタチをしてりゃあ、判り易い兵器と違って色んなトコに行け

るっス」

 君のようにな、とビョウギが胸中で呟くが、ジークは気付かないまま続けた。

「面倒なのは寝返り裏切り命令違反っスけど、可能性を低くする以外に効果的な手はねぇもんっス。もっとも…」

 北極熊はペロリと舌を出して苦笑いする。「かく言うオレが規則破りの常習犯っスけど」と。

「だからその内、処分されるんじゃねぇかなぁ…とか思わねぇでもねぇっス」

「縁起でもない事をさらりと言うね」

 そう言いながらも、ビョウギは思う。おそらくは、彼にとってそれは本当に軽い事なのだろうと。そして、もしそうなった

としても何とかできる自信があるのだろうと…。

「そうならない事を祈るから、なるべく上の機嫌を損ねないでやってくれ」

「勿論、オレだってそうなって欲しいなんて思ってねぇっスよ」

 茶を啜った北極熊は、「ところで、菓子まだっス?」と、唐突に話題を変えにかかった。

「せっかく日本に来たんだから、オレ饅頭食いてぇっス」

「もうじき来るとも。栗大福が」

 呆れ笑いしながらも、ビョウギはつくづく思う。

 この男はきっと、世界が敵になったとしても、こんな調子で笑っているのだろう、と…。


 この時はまだ知る由も無かった。

 この二年後にはジークとヒルデが先進国政府連合によって抹殺対象に認定され、追われる身となる事も。

 お互いの子らに、自分達のこの奇妙な縁が、切れずに繋がってゆく事も…。





 帯紐を解き、腋の下を通して腕に巻く。

 一端をきつく噛み、一端を右手で引き、堅く縛り上げて切断された左腕を止血する。

 イモンと神ン前桜から逃げ切り、跪いて傷の処置をしているギョウブは、僅か2メートル脇で刀を交える御庭番と自らの配

下にも存在を気取られていない。

 隠れ里中央。裏帝の寝所も近いこの位置は、未熟な若兵達を配置した個所…。本来ならば衛生兵を置いた後陣なのだが、ギョ

ウブが駆けつける前に攻め入られていた。

 予定では神無一派がこの前に布陣し、正面突撃を許さない壁兼鉾となるはずだったが、出した伝令は会えなかったのか、彼

らはいまだに戻っていない。

 あてにせず、ギョウブが守りにつくのも手ではあった。だが、そうして幻術の陣を敷いても神ン野に何をされるか判った物

ではないので、各部隊へ自分がそこに居るかのような仄めかしを見せた後に、アクゴロウの隊への奇襲を選択した。他に手は

無かったのだが…。

「まだだっ…!」

 傷の痛みに顔つきを険しくし、脂汗を流しながら呻くように声を発した大狸の目は、未だに覇気を失っていなかった。

 ギョウブは、まだ敗北を受け入れていない。諦めていない。

(僥倖だ!神代に右腕を痛めつけられ、神ン前桜に晒され、神原の刃と相対し、それでも生き延びられた。これ以上望んじゃ

バチが当たろうよ…!何より、運が尽きちゃおらん証拠だぜ…!)

 自らを奮い立たせるギョウブの左腕が、幻術によって形を整える。士気にも関わるので、手負いとなった事はしばし伏せて

おかなければならない。

 支度を整えたギョウブの周囲で隠れ蓑が解かれ、唐突に現れた逆神の姿を映し、白馬の御庭番の目が見開かれる。

「隠神の眷…」

 刀を水平にして受ける山犬を、上から刃を重ねて圧し込んでいた白馬は、右手に致死の幻刀を携えた狸の出現で息を飲み、

驚きの声を上げ、

「いかにも、我が名は隠神刑部。主を黄泉へ送る外道よ」

 そんな名乗りを最後に聞き、事切れる。

 放られた幻刀が眉間を貫いてすり抜け、それを攻撃と認識し、避けられなかった白馬は即死していた。

「イヌガミの大将!」

 加勢を得て命拾いした山犬が、息を吹き返したように声を上げると、圧し込まれて後退していた裏帝勢がにわかに活気付く。

「勝負はこれからだ!皆、くれぐれも気を抜くなよ!」

 十人のギョウブがずらりと並んで咆えると、劣勢に陥っていた同胞達からときの声が上がった。

 神無は一向に戻らず、ライゾウは鳴神との一騎打ちで手が離せない。里は自分が指揮して守らねばならないが、どうにも手

が足りない。

(文字通り、手が足りんようになったがな…)

 胸中で皮肉を呟いて隻腕となった我が身を自嘲し、しかし敵にも味方にも傷を負った事など悟らせず、ギョウブは分身を伴っ

て戦線に踊り込む。

 足りぬと嘆く暇に、足の一本、腕の片方動かせる。

 そうして仲間の援護と敵の翻弄に入りながら、ギョウブは防衛線の指揮に集中して乱れた戦列を整え始めた。

 御庭番のひとりが、本命のひとりと見て切りかかれば、それは幻影。空ぶった薙刀が地を叩けば、横合いから幻のギョウブ

と連携したシマリスが十字槍でそれを仕留める。

 幻と見て無視しようとすれば、この幻のギョウブに重なって隠れた小柄な猫が飛び出して、体当たりしながら腹をドスで深

く抉る。

 元より乱戦を視野に入れて訓練されてきた若兵達は、アドリブでギョウブの舞台に参加し、目覚ましい成果を上げた。

 ギョウブの右腕は、気取られないように注意しているものの、初戦でユウキに一撃食らわされてから鈍痛が抜けず、本調子

ではない。

 片腕を失い、止血も乱雑で、鎮痛処置すらしていないその有様で、刻々と失われていく血と力にも頓着せず、ギョウブは一

糸乱れぬ完璧な幻術と統率で、瞬く間にその場の戦況を逆転してみせた。

 だが、仲間への激励とは裏腹に、ギョウブは既に退却を視野に入れていた。

 実行に際しての問題は、引き際と逃走経路。

 帝勢が四方からなだれ込み、入り乱れての戦闘になっている。アクゴロウさえ潰せば術でどうにでも惑わせる事ができるの

で、まずはそこから叩く為に奇襲を試みたのだが、これが失敗した今、迂闊な策は使えない。

 アクゴロウが危篤状態である事、並びにその戦線離脱を知らず、傷は負わせたが奇襲自体は失敗した物と思い込んでいるギョ

ウブは、選択を大きく制限されていた。

(この場で堪え、御館様に退去を上告せねば…)

 人選を誤って取り乱させ、場を混乱させてはかなわない。指揮を執る自らも混戦内で敵兵と斬り結び、味方をサポートしつ

つ、ギョウブは適任者を探す。

 そして、その目がひとりの若者に据えられた。

 それはまだ年若いキジトラ猫。既に手傷を負っており、額から右側頭部を覆う形で巻いたさらしには赤黒く血が滲んでいる。

「このっ!」

 接格好も同程度の茶色い犬が手槍を繰り、懐に飛び込もうとする猫を牽制する。見誤って左腕を穂先で掠められ、浅く切ら

れた猫は、苦し紛れに右手に握った苦無を放るが、これは鎖帷子を着込んだ犬の肩に当たって宙に跳ねた。

 一瞬丸腰になり、太腿に巻いた革帯に手を遣り、得物を取ろうとした猫の顔を狙って槍が突き出される。これを首を傾がせ

て避けると、猫は左手に握り込んでいた物をパッと宙に放った。

 それは何の変哲もない砂利。しかし踏み込む犬はそれを顔と体に浴び、呻いて動きを鈍らせる。

 その一瞬が、明暗を分けた。

「せぇっ!」

 声が響いたのは宙。見上げた犬の目に、夜空に半ば溶け込んでいる大狸のシルエットが映り込む。

 突き殺し、崩れた敵兵を踏み台に跳び、姿を消していたギョウブは、猫が投擲し、鎖帷子に阻まれて宙に上がった苦無の尻

に足裏を当て、落下の勢いを加えて蹴り下ろした。

 大柄なギョウブの体重もあり、苦無が犬の眉間に根元までづっくりと突き刺さると同時に、首がゴキンと音を立ててへし折

れる。

 仰け反る格好で倒れてゆく犬を宙で蹴り飛ばして退け、猫との間に割って入る形でドシッと着地したギョウブは、「無事か

トライチ!?」と声をかけて振り向き、若者を安堵させる。

「有り難うございます、イヌガミの大将!」

 礼を言うキジトラ猫に体ごと向き直ったギョウブは、右手を眼前に上げてパチンと指を鳴らした。

 直後、狸と猫はその場の敵味方全ての目から見えなくなる。

「時間が無い。これから言う事をよっく聞けよ、トライチ…!」

 ギョウブの声がやや乱れ、息が上がっている事に気付いた猫は、大狸の左腕を見て息を飲む。

 術を限界まで使用して戦況をコントロールしているギョウブは、今ここで自分達を隔離するだけの余力すらなく、左腕の幻

を解除せざるをえなかった。

「イヌガミの大将!?う、腕が…!」

「ははは!猪に引っ掛けられちまった!が、大した事でもない」

 空元気で笑って見せたギョウブだが、幻での身繕いが解けており、血と脂汗で湿った全身と衣類から、無理をしているのは

猫にも一目で判る有様だった。

「すぐに退いて手当てを!」

「ああ、退こう。もう少ししたら、な」

 頷いたギョウブの目に硬い光を見て取り、トライチは息を飲む。

「…何を…なさるおつもりですか?大将…?」

 ギョウブは一拍間を空け、少し息を吸い、それから、低く押し殺した声を発した。

「里を…捨てる…」



(…一体全体、こいつはどういう事っスか…?)

 巨大な白熊は、宙高く打ち上げられた炎の球を見上げて眉根を寄せる。

 距離にして1キロ近くあるが、優れた視力はその炎の中に居る、赤い虎の姿を捉えていた。

 焔を纏うスルトを打ち上げたのは何者なのか?

 そんなジークの疑問はすぐさま解決した。続いて閃光を真下に吹きながら、ロケットのように大柄な熊が飛翔し、スルトに

激突、数合打ち合った後に叩き落とされたので。

(あれは…ウォーマイスターの一人っス?スルトのヤツ、しくじって接触しやがったんスか…)

 ジークの目的はラグナロクの目論見を砕く事。その観点から言えば、スルトが神将と交戦するのは有り難い展開ではあるの

だが、場合によっては困る事にもなる。

(ウォーマイスターは全員がユニバーサルステージクラスの能力者…って言っても、戦闘能力には差があるって話っス。スル

トの相手が務まるひとだったらいいっスけど、それ以外だと…)

 しかし、そんなジークの思慮を余所に、燃える木々の中から光弾が数条尾を引いて飛び、宙のスルトを襲う。一発は弾かれ

るが、捌けなかった二発目がバランスを崩させ、三発目が接触間際で花火のように爆ぜ、赤虎を水平方向に吹き飛ばす。

 落ちて行くスルトを追うように、燃える木々がなぎ倒され、何かが落下点へ移動してゆく。

 おおよそ生物の物とは思えない、常識を逸脱した戦闘行為に、ジークはついつい「うっは!猛烈っス!」と笑いを零した。

 神将についての詳細な情報は、ある二家を除けばジークも殆ど知らない。おおまかにその能力系統と、戦略兵器級の能力者

が居る事を知る程度で、実際にどの程度の物なのかは機密の高さのせいで覗えない。だが…。

(こいつは想定以上っスね…。まさかニーベルンゲンとここまでやれるとは思わなかったっス)

 スルトが瞬殺できないレベルの相手…。興味を覚えたジークだが、ただ観察だけしている訳ではない。逞しい両脚で地面を

蹴り、巨体をぐんぐん前へ進めている。

 時速60キロを越える速度で木々の隙間を縫い、程なく灼熱の領域に足を踏み込むも、白い体躯から噴き出る蒸気が炎を押

し退け、熱を阻む。不死身のジークフリートという二つ名は伊達ではない。生物がまず生存できないこの環境でも、彼の行動

は妨げられなかった。

 もはや姿を見られずに事を片付けられるような状態でもない。神将に加勢するか、それともスルトを引っ掛けて離脱し、邪

魔が入らない状況で殴り合うか、とにかく介入は必須なのだが、大きな問題もあった。

 それはジーク達の立場上の問題である。

 ジーク達は政府連合によってその存在自体を秘匿されながらも、抹殺対象とされている。帝直属とはいえ、国家権力内の特

例存在と呼んで差し支えない神将達が、そんなジークをどう見るかが問題だった。

(場合によっちゃ三つ巴っスね…)

 燃えて倒れ掛かって来た木を大剣の一振りで、切断するどころか木端微塵に打ち砕き、火の粉を巨体で追い散らして駆ける

ジークは、障害物をなぎ倒しながら突き進む何かと、距離を置いて並走する形になった。

 スルトと接触するよりも、こちらとの接触が先になる。そう判断したジークは、進路を僅かに変えて神将の方へと向かう。

 その金色の目が、右腕の一振りで大木を砕き散らし、最短距離で突き進むでたらめな大熊を捉えたのは、ほんの数秒後。

(おー、でっけぇっス。熊族だと…、確か「クマシロ」って一門っスね)

 自分よりは幾分小さいが、それでも度を越した巨体を斜め後ろから追い、ジークは口を開きかけ、

「取り込み中じゃ。邪魔さえせんなら、そのまま帰ってえぇぞ?」

 先んじて、ユウキが振り返りもせず放った言葉に面食らう。

 どこまで事情を知っているのか気になる物言いだった。

「困らす気はねぇっスけど、場合によっちゃ邪魔になるっス。その場合は?」

 出方を窺うジークが返した言葉に、ユウキが笑う。

「自分は敵じゃあねぇ、ってか?」

「世界からは嫌われてるっスけど」

「曖昧じゃなぁ、何者じゃおめぇさん?」

 ジークはユウキが抱えている犬獣人を見つめ、言葉を探した。

「まぁ、世界と仲良くやって行きたいと思ってる世界の敵っス」

 ユウキはそこで初めて振り返った。

 巨大な北極熊。その姿は初見だが、吐かれた言葉で思い当たる事があった。

(「あんおふぃしゃる」…とか呼ばれとったか?…そうか、そういう事か…。こいつが神崎と鳴神でこそこそ隠しとった…)

 頷いたユウキは、「神崎はダチじゃ」と短く切った言葉を投げかけ、ジークの目を丸くさせた。

「じゃあ、オレの事知ってんスか?」

「知らん。名前も姿も人柄も知らんし、これまで会った事も、これから会う事もないわい」

 驚くジークにぶっきらぼうに告げたユウキは、さらに付け加えた。

「もっとも、今こっちは手がいっぱいじゃ。もしも不審なモンと会っても、余計なモンまでしょっ引く余裕なんぞねぇなぁ」

 ジークにしてみれば予想外の繋がりに救われた格好だった。

 神崎の当主が自分の事を漏らしていたのは想定外だったが、逆にその事で確信できた。

 この中年は、神崎が信用している男なのだろう、と。

「こいつは独り言っス」

 北極熊は剣を握り締めて大きく後ろに引き、光を纏わせながら告げた。

「スルト…あの赤虎は、こっちが二人になった以上、計画を確実にこなすために、交戦を避けるはずっス」

「ほう?計画ってのは何じゃ?」

 腕に纏わせた力場の密度を急激に上げ、ユウキが問う。

「おそらく裏帝の身柄を確保すんのが目的っス。何に使うつもりかは…、おっちゃんの想像に任せるっス」

「面白い事にはなりそうもないのぉ」

 苦々しく呟いたユウキに、「とにかく」とジークは先を続けた。

「速攻戦っス。逃げられると厄介っスから、撤退する余裕なんかくれてやらねぇっス」

「心得た。抜かるなよ?」

 拳を固めて引いたユウキが、剣を後方へ大きく引いて構えたジークが、並んで駆けるその前方で、巨木が爆発的に燃焼して

塵になる。

 極めて白に近いオレンジの炎が、もはや火柱を通り越して光の柱となって天を突いた。

 その中から歩み出るのは、まるでエナジーコートのように高熱のフィールドを身に帯びた赤い虎。

「はっ…!オーバードライブとは景気が良いっス!」

 ユウキと並走しながら唸ったジークの姿を映し、スルトの金眼が見開かれる。

「ジーク…か…!?」

「ヴァルムンク!オービターシフト!」

 スルトの呻きが、愛剣に指示を出すジークの声でかき消された。



(まだか…?)

 分身を十五に増やして敵兵をかく乱しつつ抑え込み、いつ神原などの神将が前へ進んで来るか気を揉みながら、ギョウブは

胸中で唸る。

 失った左腕が、火を付けられたように激しく痛む。失血のせいで体が重く、動きも鈍り、集中力の持続も危うくなっている。

(まだか…!?)

 それでも踏み堪えるギョウブが待っているのは、裏帝とその世話役の元へ伝令に向かわせたトライチの帰り。

 下手に引き際を叩かれれば壊乱してしまうので、迅速かつ隠密な行動が求められる。支度が整い次第、波が引くように一息

に下がらなければならない。

(まだか、トライチ!?)

 万全であればいくらでも保たせられるが、今はそうもいかない。いっそ片付ける方が楽だったが、時間稼ぎをしなければな

らない。

 余力を振り絞れば可能だが、蹴散らすのはまずかった。派手に動いて自分の位置が割り出されては本末転倒。せっかく散々

幻を見せて仕込んだというのに、ライゾウを迂回した全ての兵が、逆神不在と見て、鈍らせた足を早めては困る。

 ぜへぇっ、とギョウブの口から乱れた息が漏れ、喉が鳴る。

 刹那、幻体の像が微かに乱れたが、精神力で持ち直す。

 疲労困憊のギョウブは既に先陣から引いており、敵兵の目から姿を消し、幻術のみで帝勢を惑わし、味方を援護し、指揮を

執っている。

 もはや自ら切り結ぶのも難しいほど衰弱している。失血のせいで、物理的に肉体の酷使が難しくなっていた。

(まだだぜ…!この場を明け渡すとしても、一人でも多く御舘様と共に行かせる…!しっかりしろ、うどの大木め!腕の一本

程度でだらしのない…、刑部の名は飾りかよ…!)

 己をなじって意気を保たせるギョウブの脳裏を、妻と幼い娘の顔が、同胞達の笑みが、主君達の憂い顔が掠める。

(畜生…。死なせやせん…。負けやせん…。ひとりでも多く、夜明けを見せてやる…!)

 落ち着いた振る舞いとは対照的に、抑え込んでいる激情で内から身を熱くするギョウブは、

「イヌガミの大将!」

 待ち望んだ声にバッと振り向き、駆け戻って来るキジトラの姿を目に映した。

 傍らに駆け寄ったトライチに、安堵混じりに「…よし…!」と頷きかけ、ギョウブは策を実行に移す。

「通達!「潮騒」はじめっ!」

 低く告げたギョウブの言葉が、傍の者からその近くの者へと、次々伝達されて行く。

 しかし、切り結んでいる最中の者にも届けられたその声は、仕草は、気配の変化は、ギョウブの術に邪魔されて、帝側の兵

には認識できない。

 通達が行き渡った事を確認し、ギョウブは傍らのトライチに声をかけた。

「助かる見込みがある者は、出来る限り連れて行くぜ」

「はい!」

 二人の表情は厳しい。

 ギョウブの言葉は、裏を返せば死体と、助かる見込みがない者は置いて行く事を意味している。

 隠れ里に生まれ、暮らし、外の世界に矛を向け続け、同じ方向を見て暮らしてきた裏帝勢の関係性は、ご近所暮らしや顔見

知りなどと言う生易しい物ではない。

 閉鎖された世界の中で幾代にもわたり血を混ぜ、重ねてきた彼らは、濃淡の差はあっても大半が遠縁の親類になる。

 親戚や家族同様の関係と同族意識を育んできた里に住まう仲間を、仕方がないとはいえ捨ててゆく胸の内には、筆舌し難い

物があった。

「…始めるぜ…」

 低く呟いたギョウブの声に潜むのは忸怩たる思い。そして、己の力不足と怨敵へそれぞれ向ける、二方向の嚇怒。

 ギョウブは衣の前合わせに手をかけて広げ、胸と腹を露出させた。

 術破りをされようがされまいが、余力は殆ど無い。ここで振り絞っておくのは悪くない。

 次いですぅっと息を吸って腹を膨らませ、右の平手でボムンと叩く。

「霊狸傾鼓(れいりけいこ)…!」

 ギョウブの瞳が思念波の増大に反応して真っ赤に染まり、神卸しの完成と同時に、その場に居る帝勢全員がギョウブの姿に

なった。

「あ?」

「え!?」

 そんな疑問や驚きの声すら、他者の耳に届く際には呪詛と怨嗟の声に変質させられていた。

 味方同士で互いの姿を見て動揺する御庭番だが、そこにはギョウブの術による補正が働いており、全員が全員、敵意満面に

得物を振り上げる姿となる。

 より正確に言えば、帝勢全員の五感が、仲間を敵に置き換えるよう惑わされていた。

 兵達が目にする仲間の姿、声、言葉やしぐさまでもが、ギョウブ本人のように敵対的な態度となって認知される。

 しかもその幻惑効果は、ギョウブ本人が集中を解いた後もしばし継続する上に、破幻の瞳でもなければまず看破できない精

密さ。

 兵達はおかしいと思いながらも、そこが戦場であり、最前まで幻のギョウブが暴れまわっていた以上、味方同士で武器を向

け合わざるを得ない。

 一方で、裏帝勢の姿は帝勢に認識されなくなっており、いつでも退却できるように状況が整えられた。

 敵を同士討ちに誘い込み、同時に自軍を認識させなくするこの術は、ワンサイドゲームの虐殺にも利用できるのだが、今回

は掃討その物が目的ではない。同士討ちしつつ、新たに参じた後詰部隊まで巻き込んで貰わなければならない。

 今の状態で使える大きな術はこれで最後。魔王槌による術破りが来ればそれまで。これは、ギョウブにしてみれば一か八か

の賭けだった。

 そして大狸は、赤く爛々と瞳を輝かせながら、静かに囁く。

 疑心暗鬼に陥らせる事まで前段階に組み込み、満を持して致命的かつ極めて殺傷性の高い足止めとして使用した、この術の

名は…。

「奥義、狂花酔月(きょうかすいげつ)…」

 かくして、凄惨で壮絶な同士討ちが始まった。