第十五話 「ラン」

 樹海の一浪を担う、大樹の一本。

 その下で、風に揺れる枝葉を見上げながら、恰幅の良い大狸は腕を懐に突っ込んだ。

 午前九時。太い指でもそもそと鳩尾辺りを掻いているギョウブは、ただでさえ目つきが悪く険のあるその顔に、不機嫌そう

な表情を浮かべていた。

 眠い。加えて疲れが溜まっている。

 迷い人が注意すべき深度まで入り込んだのは昨夕の事。

 遺物の奪取のため、御役目を受けて樹海の外へ出て、遭遇した明神配下の御庭番衆を含めた帝直下の隊と戦闘行為に及び、

これを退けて帰還するという三日掛けの強行軍から帰ったばかりのギョウブ達隠神一派は、疲れた体に鞭打ってこれの監視に

当たった。

 結局ただの遭難者と確認されたので、術を敷いて惑わし、樹海の外側へと歩き出させ、トライチをはじめとする一部の配下

に見張らせた上で、残りの配下には休息を取るよう指示して先に里へ戻しているが、ギョウブはこの場で逐次の報告を待って

いる。

 本来は下っ端を一人残せば良かったのだが、皆の疲労も濃いので配慮しての事だった。

 どこまでもふてぶてしく、敵に対しては冷徹で容赦のないギョウブだが、しきたりに厳格で、御役目に誠実な一方で、配下

には割と寛容に接し、大事に扱っている。

 欠伸を噛み殺し、眠気を追い出すように軽く頭を振ったギョウブは、耳をピクリと動かして振り向いた。

 気配が感じられる。ただし潜められてはおらず、里の方角から接近して来る何者かの足音は、無造作で無防備。

 しかし、逆にその判り易い足運びがどうにも気になった。

 訝って目を凝らすギョウブは、やがて相手の姿が木立の隙間に見え隠れし始めると、納得すると同時に驚きもした。

 近付いて来るのは、やたらと体格は良いが、まだ五つに満たない子熊…。

「おい、ラン」

 ギョウブが声を発すると、きょろきょろと上ばかり見ながら歩いてきた子熊は、ようやく大狸に気付いて視線を下ろす。

「ギョーブさま」

 意外そうに名を口にし、少し歩調を早めて歩み寄った子熊に、ギョウブは訊ねる。

「どうした?里からこんなに離れちゃあいかんぜ」

 大柄なので子供相手にはいつも腰を折って話すギョウブだが、幼児とはいえその子熊は異様なほど体格が良く、上背もあれ

ば恰幅も良いので、それほど背中を丸めなくとも不都合は無かった。

 父親を見てそう育ったのか、子供のくせに表情の変化に乏しい子熊は、何か説明しようとして口を開き、しかし上手く言え

ないのか、拳を握り締めていた左手を突き出し、開いて見せた。

 ぽってり厚い手に乗ったそれは、小さな白い何か。

 それを見たギョウブは、「…歯か?」と訝しげに目を細めた後、

「ヌシは、もう乳歯が抜けたのか?」

 と、少し驚いて訊ね、「さんこめ」と答えられて細めたばかりの目をすぐさま大きくする。

 今朝抜けた乳歯を手にした男の子は、頷いてからイーッと歯を剥いて見せた。少し屈んだギョウブは、右下の前歯が抜け落

ちて出来たすきっ歯の穴を見つめ、珍しく顔を綻ばせる。

「こいつは朝からめでたいぜ。良かったなラン」

 頭をグシグシ撫でて貰った熊の子は、大狸の手を受け入れるように耳を寝せ、くすぐったそうに目を細めた。

「…しかしだ、それでどうしてこんな所まで出て来た?」

 ギョウブはそう問うと、熊の子は傍らの大樹を見遣り、それから枝葉が茂る頭上を見上げる。

 その視線を追い、ああそうか、と納得したギョウブの耳に、

「たかいとこにあげる」

 と、予想した通りの声が届いた。

 隠れ里では風習で、上の歯が抜ければ縁の下などに入れ、下の歯が抜ければ屋根の上など高い所に放り上げる。そうして次

に生える歯が上から下へ、下から上へ、曲がらないように生えるよう、そしてその子が真っ直ぐ育つようにとまじないをする

のだが…。

(…で、屋根に上げるのを覚えたから、とりあえず高い所なら良いと思って、ひとりでやろうと出て来ちまったのか…。まぁ

あまり口うるさく言わんからな、あのひとは…)

 この子熊の父親…ライゾウは基本的に放任主義である。

 これは、危ない事も体験して覚えねば真には身につかないという考えを持っての事で、遊ぶ場所に口出ししないどころか、

囲炉裏にかなり近づいても、短刀…マキリナガサを弄っていても、いよいよ危ないという状態になるまでは注意しない。

 これには周囲もハラハラしているが、実際に効果があるのか、息子達は軽い火傷をしたり、浅い切り傷を作ったりはするが、

不思議と大怪我をする事は無かった。

 ついでに言うと、二人兄弟の兄に当たるこちらの子熊は自立心が強く、ひとりで様々な事をする。どうやら今回は見よう見

まねで覚えた歯のおまじないを自分でやろうと考え、より高いところ、高いところ、と探してこんな所へ大樹を求めて来たら

しい。

「良いかライ?まじないは家でやらにゃあ駄目だ。高けりゃ何処でも良いって訳でもないんだぜ?」

 ギョウブがそう諭すと、熊の子は無表情のまま少し考え、どうやら自分は勘違いをしていたようだと気付き、頷いた。

「でも、おっとうもおっかあもいない」

「ん?何で…」

「おっとうはおやかたさまのところ。シモツキさまたちがとってきたカマイタチをバラすんだって。おっかあはマナゴのねえ

ちゃんのシューゲンのじゅんびで、ツノカクシつくりにいった」

 両親不在で独りで出て来たのだと察したギョウブは、「フウはどうした?」と、引っ込み思案で大人しい弟の事を尋ねる。

「おっかあといっしょにいった」

「なるほど」

 あの子らしいと納得したギョウブは、少し考えてからため息をついた。

「仕方ねぇ…。ちょいと待ってな」

 そして大狸は、伝言のための幻体を残そうと、右手を上げて人差し指と中指を揃えて眼前に立て、意識を集中しかけ…、ふ

と子熊の視線に気付く。

 じっとギョウブの手元を見つめる熊の子は、表情こそ無いものの、目が少し大きくなる。そこには期待しているような光が

見て取れた。

 微苦笑した大狸は、印を結んだ手を下ろし、作務衣の襟元に指をかけてぐいっとはだけ、太鼓腹を露出させた。

 少し手の込んだ幻術ではあるものの、手印で十分、ここまでする程ではない。それでもギョウブは子熊の期待に応え、息を

吸って腹を突出し、ボンッと腹鼓を打つ。

 すると、ギョウブの横でドロンと音を立てて煙が上がり、その中から大狸と瓜二つの幻体が姿を現した。

 本人を知る者には意外だと驚かれそうな諧謔味を覗かせて、期待に応えた上に過剰な演出までして見せたギョウブは、さら

に目を大きくした熊の子が幻体を凝視している様を窺い、口の端をほんの少しだけ吊り上げる。

 そして袖の下から投擲用の細い小刀を取り出し、木の幹に浅く切り傷をつけ、幻体と関連付ける術式を組む。

 およそ三十秒後、ギョウブは仕込みを済ませて熊の子を促し、幻体を残して里へ引き返し始める。

 ギョウブが行なったのは、自分は一度里に返るが、すぐに戻るという事を伝えるメッセンジャーとして残した幻と、それが

万が一にも入り込んだ第三者に見られないよう、自分達隠神の血族にのみ幻が作用するよう指向性を持たせる調整。トライチ

なり隠神の眷属なり、伝令に走るのは大なり小なり隠神の血を身に宿す顔ぶれなので、この手の対象指定は樹海の内も外も選

ばず、仲間内で便利に使われていた。

 自分の出っ腹をポコポコ叩き、ギョウブの腹鼓を真似ようとしては、上手い具合に音が鳴らずに首を傾げる。そんな熊の子

と並んで歩き、微笑ましい気分でその様子を眺める大狸は、いつものように考える。

 刑部が尽くすのは御館様。守るのは隠れ里。それは務め。

 自分が尽くすのは御館様。守るのは里の皆。それは望み。

 刑部として、個人として、務めと望みが一致している自分は、案外幸せ者なのかもしれない、と…。

(この子らの代には、同族相手の戦なんぞさせたくはねぇなぁ…)

 つくづくそう思い、大狸はそのふてぶてしい面構えを維持したまま、胸の内のみで嘆息した。

 自分も妻子ある身。子の可愛さというものが、実子を得てからさらによく解ったような気がする。

 里中の家族。宝である子供等。主君に先達に戦友、そして…。

(守る。そして勝つぜ。我らこそ「逆神」などという名を被せられる末の代…。次の代からは「神将」。そして御館様こそ真

なる「帝」よ…!)

 幾度となく噛み締めるその決意は、ひとえに大切な主君と仲間のための物。

 輝かしい未来を、広い世界を、次代へ与えてやるために…。

(命一つを武に込めて、矢尽き刃の折れるまで…!)






「潮騒が…」

「潮騒始め」

「潮騒…」

 ライゾウがライデンの進撃を封じ、ギョウブが里の内に入った帝勢を抑えて全部隊の撤退支援に奔走している頃、低く囁き

交わされる合言葉が里の住民全てに伝播し、退避行動は半ばまで終わっていた。

 帝勢に包囲されているとはいえ、里から僅かに離れた位置には地下を通る抜け穴がある。そこまで辿り着けば樹海の外へ逃

げられるはずだった。

 この「潮騒」という合言葉が何を意味するのか、里の者なら言葉を覚えたての子供ですら知っている。

 それは、非常用中の非常用。ただならぬ緊急時にのみ、たった一度だけ発せられる合図…。

 ひきなみ しおさい なったらな

 ねやすて さとすて かけくらべ

 にりがけ ごりがけ はちりがけ

 あさがけ とおがけ かけとおし

 おやかたさまと とおがけくらべ

 そんな、子供らの毬つきわらべ歌に警告が置き換えられ、発せられない事が望まれる合図の存在は皆に根付いている。

 潮騒の合図を受けたら、寝屋も里も捨て、二里でも五里でも八里でも、ひたすら遠くまで駆け通せ。御館様と共に…。

 幼い頃からそう教わって来た里の住民達は、あらかじめ決められていた流れに沿って、潮が引くように里の中心部へと移動

して行った。

 老人の手を引く者。幼子を背負う者。老いた親の背を押す者。そして、それらを守るように周囲を固める、元服を迎えてい

ないために正規の兵として参戦していなかった少年達…。

 助け合い、急ぎ避難する民の群れは、服装こそ時代錯誤に古めかしいが、社会の縮図のようでもある。なにせこの里は彼ら

にとって世界その物。外を知らない者からすればそれだけで世界と認識できる秩序と仕組みが備わった里は、これはこれで一

つの社会に他ならない。

 引いてゆく民の中、ずんぐりした影がひとり立ち止まった。

 傍を駆ける親がそれに気付かず先へ向かうが、その影は流れゆく住民達の中、川の中に突き立つ杭のように動かない。

 それは、年端もゆかない男の子…、おそらくは羆系の血が濃いと思われる熊獣人だった。

 だが、子供とはいえその身の丈、幅、厚みは同年代の子とは一線を画す。

 赤みが強い被毛は、鮮やかな赤銅色。胴も手足も太いずんぐりとした体躯は、まるでドラム缶のようでもあった。

 やがて、次男の手を引いて避難している母熊が、いつの間にか息子の片方が居なくなった事に気付いた。

「…ラン?」

 名を呼び、周囲を見回すが、姿は見えず返事も無い。

 状況が状況である。急に不安が強まった母熊は繰り返し名を呼んだが、息子は姿を見せてくれない。

 前を見遣れば、列は既に御館様の屋敷の敷地に入り、壁にさえぎられて先の顔ぶれが判らなくなっている。

 もしかして先に行ったのだろうか?後ろから列も流れているので、いつまでも立ち止まってはいられない母親は、しっかり

している子供だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、頼りない次男を導いて先へゆく…。



 ぜぃぜぃと、荒い息がトライチの耳を打つ。

 里を突っ切って競り合いの現場に向かう最中、猫の傍らを駆けるギョウブの呼吸は千々に乱れ、疲労の隠しようもない有様

だった。

 取り残される兵が出ないよう、戦場を駆け回り、撤退の援護に奔走する隠神一派は、疲労の極みにあってもなお重責を担っ

ている。

 その任務の支柱ともいえるのがギョウブの幻術である。

 転んでもただでは起きない。宿敵、神ン野の当主は仕留め損なったものの、アクゴロウを行動不能に追い込んだ事で、ここ

に来て相手を惑わせての撤退が可能となっている。

 しかしながら、もはや余力は僅かである。

 細身の猫は大狸をちらりと覗う。

 腹をふいごのように上下させて喘ぐギョウブの目に、あの赤味を帯びた光は無い。

 この状況で破幻の瞳が維持されていない…。それは思念波が枯渇している何よりの証だった。

 加えて、全身に無数の打撲や裂傷を負っている。

 特に肘の上で切断された左腕が重傷。本来ならばすぐにも綿密な治療が必要な所である。きつく縛って出血を抑えようとは

しているが、駆け通しの動き通しでは止まる物も止まらない。

 神代を皮切りに、神座、神ン野、さらに神原と、独りで四人もの神将と渡り合い、生き延びた実力は本物だが、彼らの足止

めに対する代償は相応の物となった。

「二番隊です」

 低く囁いたトライチに促されたギョウブは、奥歯で舌を挟みつけるように噛んで意識を引き締めつつ、行く手から駆け込ん

でくる疲弊した兵達と、それを先導する三名の狸を見つめる。

「…半分以上逝ったか…」

 ギョウブが率いる工作部隊でも選りすぐりの顔ぶれだった、本隊に次ぐ精鋭揃いの二番隊は、ギョウブが加勢に向かった先

で既に撤退支援を完了させたようだが、所属する眷属六名が喪われていた。

 トライチは頭の中で全隊に所属する隠神眷属の顔ぶれを並べ、沈痛な面持ちになる。

 姿が見えず安否確認ができていない者も多いが、ここまでに確認できただけでも隠神の眷属は六割が討ち死にしていた。

 しかしギョウブは、見た目の上ではそれで乱れる事も無く、「撤退支援が必要なのは…」と、合流する二番隊を迎える格好

で足を緩め、呼吸を整えながら呟く。

「…鳴神を単身で止めている、ライゾウ殿だな…」



 ハンマーを思わせる巨大な拳が、太い胴を掠めるように、捻り込みながら打ち出される。

 両足をしっかり踏ん張った巨熊が放つ中段突きは、本来ならば7メートル離れた獅子へ届くような物ではない。

 だが、その拳が完全に突きを放ち終える前に、ライデンは横へ跳んでいる。

 ガンッと金物を叩くような音と同時に、跳躍した獅子の左腿外側で、力場が削り取られた。

 雷音破。だが、神卸しを行なったライゾウが全力で放つ超高密度のそれは、おおよそ技の形態として予想されていた威力を

大きく上回る。

(かつてこれほどの雷音破を撃てる者が、鳴神に居ただろうか…?)

 薄ら寒くなるほどの武才と練度。老いて衰えたつもりなどさらさらないが、神将最強の男…鳴神雷電をして、あと十若けれ

ばと考えさせるほどの強者。

(まごう事なく、歴代最強の神壊…。同時に、史上最強の帝の敵でもあろうな…)

 構え直したライゾウは、すぐには動かなかった。

 抑えてはいるが、呼気が浅く乱れている。

 しかしそれはライデンも同じ事で、呼吸を意識して落ち着かせてはいるが、精神と全身に溜まった疲労は尋常ではない。

 ミス一つが、競り負け一つが、即座に死へ繋がるパワーゲーム。一進一退の攻防は、体力のみならず神経まですり減らす。

 ライデン自身が眼を遣る余裕は無いが、既に見える範囲に彼の配下は居ない。

 その気になったライゾウの攻撃は、余波と流れ弾ですら手練れの鳴神一派を葬り去るほど。そんな所でいつまでも主の戦を

見守っているような役立たずは、ライデンの配下にはひとりも居なかった。

 分隊規模に別れた彼らは、既に別の勢力へ加勢に向かい、戦果を挙げている。その内の一隊は、瀕死のアクゴロウをコハン

達から託され、迅速に戦線離脱を果たしている。

 それでも、ライゾウが果たした役目は大きい。

 帝側の最大戦力であると同時に、最前列では総司令官となるライデンを、完全に封じ込めてしまったのだから。

 しかし逆に、ライデンもまた自分の働きを卑下してはいない。

 ライデンは口の端を上げ、獰猛な笑みを浮かべた。

(この代で良かった…)

 自惚れでも、勘違いでもない。これは相手を正当に評価するが故の事実。

(このライデンの目が黒いうちに会いまみえる事ができ、本当に良かった…)

 おそらくは、万全の状態で正面からぶつかり合ったとしても、ユウキですらこの男には勝てなかっただろう。

 もしも生まれる時代が違っていたら、自分の居ない世代だったならば、この男ひとりに神将が総がかりで、しかも半数以上

の犠牲を覚悟で当たるしかなかった。

 だからこそライデンは感謝した。お互いを引き合わせたこの状況に。かつてない強敵とぶつかり合えたこの機会に。

 呼吸を整える僅か五秒。その間にも互いの挙動に注意を払っていた両者は、同時に動く。

 消耗している事は両者とも重々承知。決着はそう遠くない。

 そして、勝った方が余勢を駆って戦線になだれ込む影響がどれほどの物かということも、よく判っている。

 ただの一騎打ちではない、趨勢に影響を及ぼすその決着を、いざつけんとばかりに獅子と巨熊が足を踏み出したその瞬間、

『!?』

 二人は同時に、弾かれたように視線を横へ飛ばした。

 もはや残骸すら残っていない、数分前まで里の柵があったそこに、ひとりの子供が立っている。

「おっとう」

 呟いた子熊を映すライゾウの瞳に、ここまで見せなかった動揺の光が灯る。

 同時に、ライデンの目にも明らかな驚愕が浮かんでいた。

 顔立ちの幼さとは裏腹にやたらと体格が良く、遠近感がおかしくなりそうなほど大きな子熊。五つかそこらに見えるが、既

に体重は七、八十キロはあるだろう。上背も相当ある。何よりも、その毛並みは…。

(赤銅…、ユウヒと同じ毛色だと…!?)

 獅子の両目が見開かれる。

 よく見ればその子熊は、毛色だけでなく顔立ちや体型までユウキの息子に酷似している。

(間違いない、あれは…)

 神代の初代当主よりもさらに昔。遡れる限り最初の神代家の源流…。

(アテルイの…毛並み…!)

 その男の毛色もまた赤銅色だったと、因縁浅からぬ家の当主であるライデンは特別に伝え聞いている。

 先祖返り。

 始祖の血がより濃く現れた個体。

 目の前のライゾウも相当濃く顕現しているが、その息子と思しき子熊は、それ以上に血が濃い事が見た目だけでも判る。

 ライデンの拳が一層力を込めて握り込まれた。

 まるで状況が判っていないように表情がないその子供は、見過ごせない血脈の末。

 ライゾウとは今こうして相対できた。だが、この子供が大きくなった時、全盛期を迎えた時、自分がまだ戦える状況にある

とは限らない。

 そしてそうなった時、誰がそれを止められる?

 今こうして拳を交えている男以上の怪物となるかもしれないその倅を、次代の神将へ任せる訳にはいかない。

(赦せとは申さぬ…。ただ…、ただただ…、済まぬ!)

 胸は痛むが、この場で未来を断つのが一番良い。加えて、子を殺めたという不名誉を誰かに被らせるより、自分が手を汚し

て心無い陰口を叩かれた方が良い。

 腹を決めたライデンが動く。前に出して軽く上げていた左手で人差し指と中指を立て、まるで銃を手にして狙いを定めるよ

うに、ライゾウを指し示す。

「雷音破!」

 操光術の狙撃は、しかし直前に息子から敵へと視線を戻したライゾウには察知されていた。

 出力から見て牽制と受け取り、空手でいう回し受けの要領で、迫った光弾を弾こうと試みる。そうする事で隙無く捌き、反

撃に転じ、息子へ手出しする余裕を失わせるつもりだった。

 しかし、到達直前で光弾の角度が変わった。

 ほぼ直角の変化。手導もなく、速度と角度変化重視のそれは威力に欠けるが、生身で防ぐには無理がある。腕で受ければ腕

が爆ぜ、掠ればそこがゴッソリ持って行かれる。手先重視で威力を欠いてもなお、ライデンのそれは並の雷音破を遥かに上回っ

ていた。

「ラン!」

 ライデンの真意を察したライゾウの口から怒号に近い声が漏れた。

 巨漢が初めて発した焦りの声が、ライデンの胸に突き刺さる。

 咎無き子供が血筋によって運命を左右されるこの理不尽は、これまで嫌というほど見てきたし、今も続いている。

 そんな中で、自分だけが出来る限り手を汚さずにいようなどという甘えは、獅子の誇りが許さない。

 赦せとは言わない。赦されるとも思っていない。ただただ、済まぬと詫びるしかない。

 …だが、結果的にライデンは、腹を決めたつもりがまだ迷いを抱えていた。

 ライデンの祖先である偉大な武人は、かつて矛を交えた相手を認め、和解を願った。そしてその願いは半分だけ叶った。

 彼が敷いたその礎の上に自分達は立っている。

 同じ事は、できないのだろうか…?

 そんな迷いは、光弾の速度を鈍らせていた。

 一拍奪われたライゾウが何とかできる猶予は無いが、それでも、熊の子が驚いて腕を上げ、顔を庇う程度の猶予が生まれて

いる。

 これから起こる惨劇を、忸怩たる思いで見据えようと目を逸らさずにいたライデンは、

「!?」

 声も出せずに目を見開く。

 熊の子の身体が光を纏い、濃密なエネルギーの奔流が不完全な力場となって雷光破を受け、ばうっと音を立てて半ば飲み込

み、粘度の高い液体が比重の軽い異物を浮かせるようにしてその軌道を変える。

 結果、熊の子の頭部を粉砕するはずだった光弾は、斜め後方の上空へと抜ける。

 直撃は避けた物の、纏った力場ごと勢いに押されて体が後ろへ泳ぎ、尻もちをつく格好で転び、そのまま2メートル程ごろ

ごろと転がった熊の子は、しかしうつ伏せになったタイミングで四肢を地面に踏ん張り、力場を纏った両手の指を地面に食い

込ませて制動をかける。

 表情に乏しい子熊は、しかしその姿勢でキッと顔を上げ、ライデンを真っ直ぐに睨んで唇を捲り上げ、牙を剥き出しにして

ウルルルルッと唸る。

 不完全とはいえ反射的に力場を纏い、並の能力者であれば瞬間的にのみ纏うだけのそれを持続させている。さらには身のこ

なしも子供の物とは思えず、何よりもライデンを前にいささかも怯まない胆力…。

 それらが、ライデンの中から驚きと罪悪感を消し飛ばした。

 二十年後か、三十年後か、いや、自分が老いる事を考えれば十年後すら怪しい。今この場で殺しておかなければ、いずれ確

実に手におえなくなる。

 そう感じたその瞬間には、獅子の足が地面を蹴り砕き猛進を開始している。肩の高さで肘を折り、横に掲げられた右手には、

「雷鋭爪(らいえいそう)!」

 五指に生まれて激しく輝く光の爪。

 超高密度エネルギー刃を指に纏い、五本束ねた刃として抜き手の形に固めた獅子が、見据えていながらも突進への反応が遅

れてしまった熊の子に襲い掛かる。

 獅子搏兎。守りの衣を薄くしてまで技の殺傷力と己の推進力に力場を費やしたライデンが放つ、確実に仕留めるための直接

攻撃。

 視界の中で急速拡大する獅子の姿を前にしても、年端もゆかない子熊には何ができるわけでもなく…。

 ボヅッ…と、嫌な音が鳴った。

 光の爪が力場を食い破り、食い込んだ傍から被毛と肉を、焼くというプロセスをほぼ飛ばして炭化させ、塵に変える。

 しかしライデンの目に、子熊の姿は映っていない。

 そして子熊の目にも、ライデンの姿は映っていない。

 獅子の目に映るのは、己の腕を両手で掴み止めながらも、受け止め切れずに鳩尾へ束ねた爪を打ち込まれた大熊の瞳。

 子熊の目に映るのは、余裕のない強敵との戦闘の最中に現われて足を引っ張った自分を、我が身を捨てて護った父の背中。

 間一髪、ライデンの進路に飛び込んでその右腕を掴み、腹を突き刺されながらも踏ん張ったライゾウは、地面に溝を残して

滑りながらも、獅子の突進を息子の直前で止めていた。

 ぐぶっと、ライゾウの喉が鳴る。込み上げた物で頬を膨らませ、耐え兼ねて真一文字に閉じた口からだらりと漏らしたのは、

熱されて異臭と蒸気を放つ、どろりと粘度が増した大量の血液。

 掴み止め、力場で威力を減殺したものの、光の爪は胃まで達する傷を穿った。

「おっ…とう…?」

 何が起きたのか、見えず、判っていない熊の子が、父の背におずおずと声をかける。

 だが、負傷を悟られないよう気を張っているライゾウも、喉が血で塞がり返事が出来ない。

 そして、ようやく巨熊に致命傷を与えたライデンもまた、胸を裂かれるような苦痛を、その心に覚えていた。

 正しいのはどちらだ?間違っているのはどちらだ?

 この場だけを切り取って大衆に見せるならば、善悪がどちらかは論ずるまでも無い。

 時に正義でないとしても、大義の為に己を捨てる。その覚悟があってもなお、ライデンは目の前の光景に打ちのめされた。

 そこへ…、

「ラン!?ライゾウ殿!?」

 上がった声にハッとしたライデンは、ライゾウと子熊の後方、いつの間にか人気が失せている里中から駆け出てきた裏帝勢

を目に止める。

 声を上げたのは先頭を固める三匹の狸、そのすぐ後ろには一際大柄な、熊と見紛うような大狸の姿。

(隠神…!)

 相手が何者か悟ったライデンが緊張を取り戻すや否や、その下腹部にごつい膝が蹴り上げられる。

 反発し合う力場が、膝蹴りを放ったライゾウと、受けたライデンに距離を作る。

 深手を負いながらも獅子を跳ね飛ばし、距離を取って対峙したライゾウは、ゴクリと喉を鳴らして熱くねばっこい血を飲み

下すと、腹の穴から溢れ出る血と胃液の漏洩を、右手で塞ぐ格好で抑えながら声を発した。

「ここはひとりで抑える。往け」

 内臓をずたずたにされ、血液を一部沸騰させられながらも、その声は常の物と変わらなかった。だが、

(そんな…、まさか…!?)

 ギョウブはすぐさま察した。ライゾウが致命傷を受けている事を…。

「おっとう…?」

 子熊が声をかける。だが、ライゾウは振り向かない。

 呼吸を無理矢理押さえつけ、胸を張った仁王立ち。

 神壊当主としての意地が、不二守の名を継いだ矜持が、父親としての使命感が、負傷を悟られる事を良しとしなかった。

「ラン…。おっかあとフウの元へゆけ」

 慎重に、乱さぬように声を発したライゾウの背に、堪らなくなったギョウブが声をかける。

「ライゾウ殿!」

 敵わぬまでも、共に討ち死にするまで…。

 しかし、そんな本音は言葉にならず、名を呼んだきりギョウブは二の句が継げなくなる。

 瀕死のライゾウ。力も尽きかけているギョウブ。万全ならばいざしらず、今ここで神将最強の男を相手にするのは、総員が

かりでも自殺行為だった。

 今は他に優先すべき事がある。

 口惜しいが戦は負け。こうなれば主君を守り抜く事が、そして一人でも多く生き延びさせる事が、ギョウブ達逆神が優先す

べき事柄…。

 ギョウブが少ない手勢と共に現れた事で敗戦を悟ったライゾウは、残り少ない命を代価に、今一時、ライデンを足止めする

つもりでいる。

 置いて行け。そう語る巨熊の大きな背中が、ギョウブには堪えた。

 真に立場ある者は、自分に正直になるという事さえ贅沢となる。ギョウブには気持ちに正直な行動を取る事さえ許されない。

「…彦左(ひこざ)…」

 静かなその声は、しかしギョウブの耳にははっきり届く。

「後は…頼んだ…」

 今生の別れだからこそ、ライゾウはギョウブに、当主襲名前の名で語りかけた。

 ギリッと牙を噛み締めたギョウブは、顎をしゃくって配下の狸を二人遣り、ライゾウの背後から子熊を連れ戻させる。

 嫌がる息子に、ライゾウが最後に告げたのは、

「すぐに追う。先にゆけ、ラン…」

 その生涯において、最初で最後の我が子への嘘。

 両側から抱えられ、引きずるようにして熊の子を離しながら、ふたりの狸はライゾウの背に会釈する。

 ギョウブもまた頭を垂れると、トライチをはじめ、ライゾウの状態を悟った皆が一斉に頭を下げた。

 そして、ギョウブ達は引き返す。

「おっとう?おっとう!?」

 暴れるので二人がかりで抱え上げられて運ばれる熊の子が、流石に異常を察して声を上げ始めた。

 だが、ライデンは駆け去る彼らを追えず、ただただそれを見送るだけ。

 死への坂道を転げ落ちる最中、腹に空いた穴を臓物ごと力場分解の熱で焼いて塞ぎ、一時の猶予を稼いだライゾウが、獅子

の追走を許さない。

(惜しい男よな…)

 ライデンは静かに力を練り上げ、ライゾウもまた応じて構え、色濃い力場を纏い直す。

 おそらくは次が最後の一合。

 負傷度合いではライデンが有利だが油断はできない。捨て身となったライゾウがどれほどの猛威となるかは想像に難くない。

 じりっと両者の爪先が進められ、死線間際の呼気合わせが始まったその瞬間、

『!?』

 またしても、両者の動きが同時に止まる。

 四つの目が向けられた先…遥か彼方で、爆音と共に紅蓮の炎が樹海の木々の上まで昇り、それが連鎖爆発するように里の方

へと向かい始めた。