第十六話 「鳴神雷騎」

 蒼く蒼く、そして広い空間を前に、鮮やかな赤い被毛に黒い縞模様がくっきり映える虎の偉丈夫が、ひとり佇んでいた。

 その足元は白い長方形で、前方はぽっつりと切り取られたように無くなり、そこから先には大空が広がっている。

 長さ500メートル、幅50メートルきっかりのそこは、所々で目盛のように横線が入っている事もあり、サイズを無視す

れば白い定規のようにも見えた。

 虎が先端に立つのは滑走路。遥か高空に浮かぶ球状の巨大建造物から、それを取り囲んでファンの羽のように規則正しく伸

びた、十二本ある離着陸場の一本だった。

 古代テクノロジーの遺産であるソレは、現存する中でひとの手にある物としては最大規模の古代の巨大設備。失調した個所

については現代技術による補修と補助が行なわれているが、ほぼ全体がレリックと言える。

 あまりにも巨大過ぎる上に全体が雲と霞を纏っているため、虎が立っている滑走路の先端からは全貌が見渡せない。もっと

も、距離を取ればステルス機能によって巨大構造物その物が見えなくなってしまうのだが。

 ひとの営みを遥か眼下に置くその高みに佇む赤虎は、屈強な体躯と身に纏う軍服から受ける厳めしい印象とは裏腹に、精悍

な顔に覇気を欠いた表情を浮かべている。

 もう数十分もそうしている虎の背に、

「ここに居たんスか、スルト」

 聞き馴染んだ上官の声が当たり、振り返らせた。

 頑強な黒いブーツの分厚い靴底で白い滑走路を踏み締めて歩み寄るのは、巨人のような北極熊。

「ジーク…」

 身の丈は2メートル半近くあり、肥り肉な体躯は分厚く重厚で、四肢には丸太のような太みがあって逞しい。この巨漢と比

べると、2メートル近い赤虎ですら頭二つ分近く身長が低く、小柄に見えてしまう。

「ヴァルハラから見下ろすと、地上は穏やかなモンに見えるっスね」

 スルトの浮かない顔に気付きながらも、ジークは横に並んで、手すりすらない縁から臆する様子もなく地上を見下ろす。

 雲を透かして見える大陸と海岸線、濃い青が静かにたゆたう海。あまりにも遠くて、地図を見るように現実味が無い地上が

彼らの足下に広がっていた。

 だがそこでは、ひとが笑い、泣き、怒り、もがき、生き、死に、朽ちてゆく現実そのものが、一時も休まず繰り広げられて

いる。

 そしてそこに、スルトとジークは三時間前まで居た。

 再び地上に目を向けた赤虎は、また思い出す。

 昨日自分が数ヘクタールにも及ぶ大地ごと焼き尽くした、数千の人々の事を。

 声すら無く業火に焼かれて灰になった、自らの手で未来を断った人々の事を。

 若者も老人も幼子も、母も父も息子も娘も、男も女も関係なく、業火は灰に変えた。その営みごと…。

「死者千四百二十二名」

 ジークが唐突に漏らした言葉に、スルトの耳がピクリと反応する。

 自らの所業を数値化した言葉が、スルトの胸を激痛を伴って抉る。

 少し間を置き、ジークは続けた。

「…内、戦死者数四十五、「病死者」数千三百七十七。報告はそう上げたっス」

 顔を上げ、巨漢の横顔に視線を向けたスルトは、

「ジーク。それは…」

 何か言いかけたが、結局言葉を飲み込んだ。

 その数字は、欺瞞でありながら事実でもある。



 ジークとスルトが請け負った任務は、未確認タイプのレリックを複数違法保持し、それを研究して兵器転用している武器商

人の拿捕。

 私設軍すら有する相手である上に、所有しているレリックの情報はほぼ皆無。そのため、一騎当千を体現するアドヴァンス

ドコマンダー…ジークフリートを指揮官に立て、選りすぐりの精鋭で固めた小隊が派遣されたのだが…。

 鎮圧は簡単に思えた。銃火器で武装する兵士も、高レベル能力者の特殊兵団には敵わない。

 だが、いよいよ主犯格を捕えるべくラボに踏み込んだ時、想定外の事が起こった。

 主犯格達が本人達もまだ把握し切れていない水晶型の爆弾レリックにも似たそれを、逃走の隙を作ろうと射出したのである。

 しかしそれは、一見すると既知の爆弾型だが、正体は違っていた。

 鉱物に性質変化させられたウイルスの塊だったのである。

 射出の衝撃でスリープモードが解除され、拡散されたウィルスに汚染された者は、本人の抵抗力にもよるが、早い者で数分、

遅い者で数時間後に発症。体中から血を吹き流し、体組織を液状化させられるという劇的な症状を経て、数十分で死に至った。

 さらには空気感染する性質まで持っており、これによって爆発的に広まったウィルスは、丘陵地帯にあった商人の邸宅近辺

はおろか、付近の森林、いくつもの村までもを飲み込んだ。

 ジークの隊にも犠牲者が出たものの、そこは経験豊富な精鋭揃い。ラボに踏み込んだ指揮官が不在の状況でも、外を固めて

いた隊員達は数名が倒れた時点で目に見えない何らかの脅威が迫っている事を察し、一塊になった隊員をエナジーコート能力

を持つメンバーがガードする格好でこれを乗り越えた。

 ウイルス兵器である事は容易に判断がついたので、ラボ内に入っていたおかげで感染を免れたメンバー達は、外のメンバー

によって死体からサンプルをもたらされる形で解析を開始した。

 だが、解析の結果は残酷だった。

 発症したなら手の打ちようが無く、既存のウイルスとは全く異なる種であるためワクチンの精製が困難。不可能ではないが

今から取り掛かっても到底間に合わず、手をこまねいている内に感染は国境を超えるだろうと予測された。

 おそらくは運用のために対となるワクチンも存在したはずだが、発掘されていなかったのか、ラボからは見つからなかった。

 頼みの綱は主犯格が握る発掘現場の情報だが、そうと知らずに自らが散布したウイルスが舞う世界へ逃げ出して行った彼は、

大量に出した巻き添えと同じ最期を遂げている。

 だが、解析と試験により一つ判ったのは、このウイルスが五百℃以上の熱により死滅するという事…。

 かくして、スルトはその剣を振るった。

 その、生物から逸脱した特異な体質故にウイルスを無効化する赤虎は、単身でヘリを駆使して駆け回り、感染者ごとウイル

スと大地を焼き払い、未曽有のパンデミックを水際で食い止めたのである。

 一切合切灰にせよ。

 その命令を下したのは、ジークだった。

 そして彼もまた、発症しながらまだ息があった数名の部下に、自らの手で引導を渡した上で火葬にした…。



 高空でありながら酸素も維持され、風も無いその滑走路上は、静かだった。

 耳が痛くなる程の静寂を破ったのは、ジークの声。

「オレを恨まねぇんスか?」

 しばしの間を置き、スルトが口を開く。

「…貴方の判断は正しかった。恨む筋合いなど何処にもない」

「正しいと思うなら、何で自分を赦せねぇんスか?」

 即座に切り返され、スルトは押し黙る。

 どうしようもなかった。だが、この手で多くの命を焼き滅ぼした事実は変わらない。

 何も知らないまま感染し、何も知らないまま焼かれた、何の咎もない一般人…。

 喉かな牧草地帯。平和で牧歌的な大地。

 あるいは自宅で家事をしながら、あるいは職場で仕事をしながら、あるいは学校で勉強をしながら、あるいは草原で犬と戯

れながら…、彼らは見えない毒に侵され、血を流して苦しみの中混乱し、何も判らないまま、どうして自分が死ぬのかも知ら

ないまま、業火に焼き尽くされた。

 そこにあっただろう一つ一つの人生を想うスルトの胸は、鉛を飲んだように重く、刺し貫かれたように痛む。

 言葉の無い赤虎に、ジークは言う。

「フィンブルヴェトの構成員が、命に従った結果として発生させた犠牲及び損害は、想定内想定外を問わず、全て命を発した

者の責に帰す」

 すらすらと文章の一節を諳んじたジークは、真っ直ぐに空を見据えたまま続けた。

「そう、軍規に明記してあるっス。忘れちゃいねぇっスね?」

「………」

「全責任はオレにあるっス。お前は今回の事で何の責も負っちゃいねぇんスよ」

「だが、私は実際にこの手で…」

「ごちゃごちゃうるせぇっス。上官が良いっつってんだから良いんスよ」

 にべもなくスルトの言葉を遮り、ジークはフンと鼻を鳴らした。

「品行方正成績優秀頭脳明晰百戦錬磨…、オレから見ても非の打ちどころがねぇお前の唯一の欠点が、優し過ぎる事っス」

 返事のないスルトの横で、(…けどまぁ、同時に優しさがこいつの美点でもあるっスけど…)と、ジークは声に出さず、胸

の内で呟いた。

「そりゃあオレだって無駄な殺しは大嫌いっス。飯が不味くなるっスから。けど仕方がねぇって時は腹を決める…、まぁ状況

によってはある意味諦めるわけっス」

 それを聞いたスルトの瞳に、異議のちらつきが現れる。

 それは違う。断じて諦めではなく、貴方はいつでも最善の道を探してきた。例え信条に反する事でも、本当に正しい事なら

ば受け入れた。

 それが、世界の守護者たる者の有り様だから…。

 だが自分は、ただ潔白でありたいという自己満足と、手を汚す覚悟が無い故に…。

 しかし偉丈夫がその思いを口にする前に、巨漢は踵を返した。

「ディンから伝言っス。執務室に来いって言ってやがったっスよ」

「…局長が?」

 歩き出しながら言うジークの背を振り返り、訝しげな声を発した赤虎は、

「お前は本日付けでオレの隊から外れるっス」

 そう続いた言葉で目を見開く。

 まさかジークは、今回の件で何らかの処分を受けたのか?そんなスルトの心配を感じ取ったように、巨漢は「別にお叱りが

あった訳じゃねぇっスよ」と、肩越しにひらひら手を振って見せた。

 そして、3メートル程離れた所で足を止め、背を向けたまま語りかける。

「今日からお前はゼネラルコマンダーっス。近日中に編成される新造部隊を任すって話だったっスよ」

 ハッとしたスルトが、突然昇格を知らされて驚き、何も言えないでいる間に、

「部下仕切る立場になるんスから、いつまでもしょぼくれてんじゃねぇっス。…同じ指揮官として、今回オレが見つけられな

かった答えを探してみるのも一興じゃねぇっスか?」

 ジークはそう言いながら再び歩き出す。

「そうしていつか答えを見つけたら、オレの無能を嘲笑いに来れば良いっス。その時を、楽しみにしてるっスよ」

 飄々とした巨漢の期待と激励を受け、スルトは深く頭を垂れる。

 もう、責を被ってくれる上官は居ない。ここからは自分が全ての責を負う事になる。

 やがて顔を上げたスルトは、決然とした表情で背筋を伸ばし、胸を張り、遠ざかるジークの背を追うように歩き出した。







「何処に行ったんス…」

 噛み締めてギリリと鳴らした牙を僅かに開け、北極熊が声を絞り出す。

 白い蒸気を纏う北極熊と、力場でシバイごと身を守るユウキの眼前には、塔と見まごう火炎の柱。

 熱波と炎は炭化していた木々を灰塵の粉吹雪に変え、激しく掻き回して上昇気流に巻き込んで行く。

 荒れ狂う炎の中に消えたスルトは、姿は勿論、気配も捉えられない。

「何処に行ったんス…!」

 赤虎が放った連鎖爆発が、彼方で里を飲み込んだのは数秒前の事。阻止できなかったジークが鼻面に皺を寄せて繰り返す。

「その手で一つでも多く掬い取りてぇって…、繋ぎ止められる命は取り零したくねぇって…、悔しさに肩を震わせたあの頃の

お前は…、何処に行ったんス…!」

 その呻きに、答える者は誰も居ない。

「答えろスルトぉっ!!!」

 ジークの怒号が、ごうごうと唸る熱波の中に響き渡った。



 その数秒前、隠れ里近辺に展開していた帝勢は、轟く爆音と燃え上がる炎の接近を察知し、恐慌状態に陥りかけていた。

 驚愕、あるいは恐怖で凍り付く者。怯えて逃げ惑う者。反応は様々だったが、その中で…。



「お前は手前、私は先だ!」

「応!」

 鬣がやけに長い青鹿毛の馬が凛とした声を上げ、明るい赤茶色の体色をした和牛がそれに応じる。

 岩を削って造られたような、ごつく分厚く重々しい体躯の和牛がパンと音を立てて分厚い手を合わせると、次いで太い指を

組み、その中で人差し指と中指を立てる。そうして仏門のそれにも似た印を素早く結び…、

「焦天…大炎上!(しょうてんだいえんじょう)!」

 くわっと目が見開かれた途端、30メートル以上先の何もない空間に大火が咲き、逆巻く炎の柱が打ち立てられた。

 迫り来る、里を飲み込むほどの炎に対し、柱は小ぶりながらも負けない大火力。しかしそれでは終わらない。

「群れ泳ぐ白魚の型!」

 すらりとした体躯の馬が腕を伸ばして手の平を上に向け、招くように指を立てる。

 すると、それに誘われたように土中から白い無数の魚のような物が勢い良く飛び出した。

 海面を跳ねるように地面から跳ねて現れたそれは、その一つ一つが、細やかな気泡を含んで白く染まった水で形成された魚。

 一匹20センチ程の秋刀魚にも似た水の魚は、消防車の放水もかくやの勢いで宙を泳ぐと、牛が立てた火柱へと迫り、前へ

回り込んだ。そうして迫って来たスルトの爆炎との間に挟まる形で、火の中へ一斉に飛び込む。

 炎の間で、身の内へ空気をふんだんに宿していた魚達が一斉に気化し、蒸気爆発が巻き起こる。

 しかしそれは二つの炎の間から左右に逃げる形になるよう、規模がコントロールされていた。

 正面を炎の柱が、左右を水蒸気爆発の爆風が阻む形で、爆炎が急き止められ、追い散らされる。

 どよめく御庭番達の前で、牛と馬は押し退けた炎が戻る事を眼力で阻むように、二人並んで阿吽の像の如き佇まい。

 代々牛頭馬頭と異称される、火男の明神、水芸の神尾の両当主が揃い踏みした一画は、大規模火災を強引に捻じ伏せた事で

被害を免れた。



「あれは…!」

 駆け迫る炎を目に映して呻いた狐の前で、ギラリと目を光らせた大猪は、「任せて貰おう」と前へ踏み出す。

「皆、後ろに回って固まれぃ!トドの若いの、左右は任せる!」

 里中へ踏み入っていた一隊は、イモンの指示に従ってその背後で身を寄せ合い、その左右端を雌雄のトドが巨体で固めた。

 皆を背に庇った猪武者は、怯む事なく大炎を睨んで右手に刀を構えると、瞬く間に迫った炎めがけて開いた左手を突き出す。

 すると、まるでそれに押し留められたかのようにイモンの正面でのみ炎がピタリと、踊る舌までが動きを止める。まるで、

映像を一時停止したかのように…。

 イモンの正面で割れ、左右を駆ける炎と熱波は、それでも一行を飲み込もうとしたが、左右に陣取ったトド二頭が衝撃波の

咆哮を放って大気ごと揺さぶり、それを四散させる。

 肌を焼くような熱気は浴びたものの、死者負傷者は皆無だった。

 そして炎が完全に駆け抜け、家屋が燃え盛る里の中にぽつんとできた安全圏で、イモンは愛用の大太刀を振り上げ、正面で

停止した炎の中へ投げ込んだ。

「ぬん!」

 刀が地に落ちる前に、力を込めて左手を握り込むイモン。その視線の先で、天を衝く炎が凍り付いたような静止から、流動

を始めた。

 獅子王の刀身に、大量の炎が流れ込む。まるで排水溝に向かって水が流れるように…。

 程なく、停止していた炎は全てが刀身に吸い込まれ、イモンは構えを解いた。

「これほどの惨状を生み出せるとは…。一体何者か…?」

 呻いた猪武者の言葉に、答えられる者は誰も居なかった。



「堪えろ!破れたら終わりだぞ!」

 三名が集合して組み上げたかまくら型の力場の中、密集陣形を取っているギョウブ達の前で中年の大猿が吼える。

 降って湧いた災厄のように見える大火の洗礼だが、しかしギョウブは先に幾度も上がった炎で警戒を強め、里を直接攻撃さ

れる事を危ぶんでいた。だからこそ連れ歩く中に操光術の使い手を三名含めたのである。

 それでも、この規模は予測を大きく上回っていた。

 避難して行く民の姿は見えない。だが、抜け穴に辿り着いたかどうか覗えないこの状況では、彼らが無事である保証など得

られない。

 歯噛みするギョウブ。

 捨てると決まった里とはいえ、そこは自分達が生まれ育ち、今日まで過ごした掛け替えのない故郷であり、この世でたった

一つの安住の地…。それが焼け落ちて灰になる様を目の当たりにするのは堪えた。

 怒りと喪失感に震える大狸の腕の中で、熊の子は目を見開いている。

 その瞳に映るのは、自分達を護る力場の外で荒れ狂う紅蓮の炎…。

「…おっかあ…。フウ…」

 ぽそりと呟いた次の瞬間、ギョウブの腕が弾かれた。

「ぐっ!?」

 呻いた大狸の腕から飛び出したランは、不安定な力場を纏ったまま壁に突っ込み、内から外へ抜け、つんのめって焦げた大

地の上を転がる。

「な、何だ!?」

 猿が狼狽の声を上げた。が、力場が破れた訳ではない。不安定な力場を纏うだけのランは、たまたま炎と拮抗していた陣の

力場が不安定になっていた事もあり、弱まったタイミングで食い込んだ直後、内から外へ向けられる力の流れによって押し出

されていた。

 立ち上がるなり脇目も振らず、力場に守られたまま炎をかき分け駆け出すラン。

「おっかあ!フウ!おっかあっ!」

「待てラン!行くな、戻れ!」

 追いかけようにも、力場でも纏えなければここから動けない。叫ぶギョウブの声も唸る炎に阻まれる。そもそも、声が届い

た所で素直に言う事を聞くとも思えない。

 仕方なく幻術で足止めしようとしたギョウブは、

「ぐ…」

 鼻孔からどばっと血を溢れさせ、眩暈を覚えてよろめいた。

「ヒコ…大将!?」

 巨体を支えに入ったトライチだったが、しかし重みに耐え切れず、揃って尻餅をつく。

「もう駄目です!それ以上術をお使いになっては…」

 体を案じるトライチ。しかしギョウブは鼻血を拭い、肘の上で失われた腕を、ランが消えた炎に向かって伸ばす。意識が朦

朧とし、片腕を失った事すら一時忘れて…。

「何が…、「守る」だ…!何が「勝つ」だ…!」

 低く押し殺した声で呻くギョウブの目が、悔し涙に潤んだ。

「「刑部」を継いでおきながら、何て情けねぇ有様だ…!」

「大将…」

「隠神の大将…」

 周りから漏れる慰めの声も、今のギョウブには届かない。

「ワシは…、無力だっ…!」

 鼻血を拭って真っ赤に染まった拳を、地面に叩きつける。

 常に部下の目を気にしているギョウブが、周囲の目も憚らず苛立ちで物に当たる姿など、長年連れ添ったトライチ達でも初

めて見る。

「大丈夫ですよ!あの子はあの通りこの炎でも平気ですし、敵だってこの状況では動けません。そうそう手出しはできないは

ずですから…」

 背をさすりながら、安心させようと述べるトライチに、ギョウブは一言も答えられなかった。

 楽観視などでいない。この炎の中で動ける敵と出会ったならば、ランは間違いなく殺される。

 しかし、結論から言えば、ランは生きて母親達の下へ辿り着いた。

 だが、そのタイミングで行かせてしまった事を、止められなかった事を、ギョウブはこれ以降、死ぬまで悔やみ続ける事に

なる…。



 視界全てを覆う紅蓮の炎が木々を飲み込み迫る中、その前に仁王立ちになったのは鬣を後ろで結い上げた獅子獣人。

 身の丈は180と少し。肩幅広く胸も分厚い大柄な若獅子は、歳の頃は二十代半ばながら、きりりと精悍な面構えに威厳が

満ちている。

 逞しい体躯に纏うのは、袖を落とした漆黒の作務衣と、同色の手甲と脚絆。

 そしてその背には、作務衣の黒地に濃紺で刺繍され、眼光と輪郭のみが金糸で浮き上がる、闇に身構えた唐獅子牡丹。

 今回の任務の性質上、徹底的に機動性を重視し、邪魔にならないよう鬣を後頭部に結い上げたその姿は、まるで侍のようで

もある。徒手空拳を主要戦闘手段とする鳴神の流派にしては珍しく、腰に得物を帯びているのもそう思わせる原因の一端となっ

ていた。

 腰に帯び、柄に左手を被せられたその木刀は、黒塗りになっている訳ではないが、材料となったその特殊な樹木自体が黒檀

のように黒いため、真夏の影がそのまま実体化したような深い黒味を帯びている。

 大火を前に怯む様子も見せない獅子は、首を傾けて半面だけ振り返り、肩越しにちらりと後方を窺った。

 そこには、退避して来た神ン野と鳴神の御庭番達と、彼らが前線から運んできた、瀕死の重傷を負った若い狸を含めた負傷

者達の姿。

 その中で、担架を下ろされて地面に寝かされている丸々肥えた狸は、目を閉じたままハカハカと浅い呼吸を繰り返していた。

 が、異常を察したのか薄く瞼を開け、自分を守るように囲んで屈む御庭番達を見回し、次いで茫洋としたその眼差しを獅子

に向ける。

 生気が薄れた瞳に映るのは、黒地に凄む雄々しい唐獅子牡丹の図柄と、古い既知の横顔。

 視線を自分に向けながらも、意識が朦朧としているアクゴロウに、獅子は顎を引いて頷きかけた。

「御心配には及びません若当主。必ず御守り致します」

 力強く言い切った獅子は、前に顔を向け直すなり半身に構え、音も無く抜刀する。

 そして右手に握った黒刀を前方に突き出し、右腕の手首に左手を添え、迫り来る天を衝く炎を切っ先で指し示すように構え

ると、意識を集中した。

 徒手空拳は基礎ではあるが、それが鳴神式の全てではない。元々が武家という事もあり、その操光術には得物を用いて扱う

技も存在し、奥義には刃を用いて放つ物も名を連ねている。

 それらの技は、時代の変遷とともに帯刀しない方が好ましくなった事で使い手が減ったものの、しかし絶える事はなく、今

日まで脈々と受け継がれてきた。

 この獅子…、ライデンの次男にして鳴神家次期当主候補者の一方、鳴神雷騎(なるかみらいき)は、その「受け継ぐ者」の

ひとりである。

「制空…(せいくう)!」

 木刀を握るその手に力を注ぎこみ、意識を集中するライキ。そして得物は、存在しないはずの鍔を出現させる。

「雷障陣(らいしょうじん)!」

 光の鍔が木刀の根元に出現するなり、ライキは両足を踏ん張った。直後、鍔が刀身を伝うように刃先へ滑り、切っ先から射

出される。

 射出の反動でざざぁっと大きく後方へ滑ったライキとは反対に、射出された鍔は猛スピードで飛翔しつつ見る間に拡張し、

直径10メートルにも及ぶ力場の盾となった。

 それが、まるで機動隊が盾で押して暴徒を圧するように、迫る炎を真っ向から叩き、進行を阻むどころか押し返す。

 それは守りの技術であると同時に、暴徒などを鎮圧するのにも適した、いわば移動式バリケードを射出する技。任意の地点

で停止させる事も、そのまま出現させておく事もできるが、今回ライキはそのどちらでもない使い方をしている。

 射出の反動で木刀の切っ先を天へ向けたライキは、刃を返してぶんっと袈裟に一振りし、「散!」と一声号令を発した。

 直後、獅子がその力を惜しげなくつぎ込んだ力場の盾が、その中央から八方へ亀裂を生じさせ、ガラスが割れるような音と

共に光の粒子となって分解、前方へ放射状に炸裂する。

 クレイモア地雷にも似た指向性爆弾となった盾は、炎を押し返して遠ざけた上に、火勢を上回る爆発力で炎の河を割り、ラ

イキ一行が立つそこを炎が通らない中州として取り残させた。

 一難去ってまた一難。しかしその危難もまた退けられ、ホッとしたように表情を緩めるアクゴロウ。

 秘伝の大技を披露して災厄を退けたライキは、消耗で軽く肩を上下させながら息を整え、安堵しかけた気持ちを引き締める。

(帝は御無事だろうか?)

 明神の術にもない規模の超広域焼却。この規模では帝の陣も安全とは言い切れない。

 ライキはこの戦において、帝が待つ本陣にて陣中警戒と身辺警護を任されていた。

 そんな彼が陣を離れ、前線寄りのこんな所まで出て来ていたのは、先程早駆けの一報を受けてアクゴロウの戦線離脱を知っ

た帝から勅命を受け、医療班の数名を伴って迎えに上がったためである。

 危ういタイミングだったが、大火が押し寄せる前に撤退組と合流できたのはついている。だがしかし、この状況で陣を離れ

たのは…。

(運が良いのか悪いのか…。いや、神田のご当主もおられる。腕利きの御庭番も配備されている。操光術の使い手も多い。…

あの布陣で滅多な事はないだろう…)

 ライキはそう胸の内で自分に言い聞かせながら足を運び、アクゴロウの傍で跪き、恭しく頭を垂れた。

 医療班から派遣された男が、大神式の操光術応用で肥えた狸の腹の傷を応急処置しているものの、移動しながらでは止血が

関の山。落ち着けないこの状況では本格的な治療などできはしない。

 衣が大きく肌蹴られて露わになったアクゴロウの布袋腹には、意識を保つために自ら広げた無惨な刺傷。その具合を改めて

確認したライキの目が、まるで苦痛を覚えたように、目尻に幾筋も深い皺を刻んで細められた。

 神将とはいえ、神ン野は肉体的に極めて脆弱。傷自体はかろうじて急所から逸れているが、失血死を免れたのは僥倖と言え

るほどの深手だった。

「おいたわしや若当主…。負傷の報せを受け、帝も大層ご心配なさっておいででした」

「帝…が…?」

 苦しげに喘ぐアクゴロウの胸と腹を反射的に見遣り、無理に答えなくていいと告げ、ライキは先を続ける。

「喜んでもおられました。負傷の報せに併せ、身を顧みない勇敢なご活躍も伝えられましたので…。帰りましょう。お褒めの

御言葉を頂きに…」

 そしてライキは再び深く頭を下げ、「先を急ぎますのでもうしばしのご辛抱を、悪五郎日影様…」と、移動がアクゴロウの

傷に響く事を案じて告げたが、

「昔みたいに…、アクゴンて呼んでくれんの…?」

 アクゴロウがへらっと口元を弛めてそんな事を言うと、不意打ちを食らって目を大きくし、半端に腰を浮かせて立ち上がり

かけた姿勢で止まった。

 冗談めかしたその言葉すら、強がりのやせ我慢。しかし…、

「…それだけ元気があれば一安心です」

 そうと察しながらも少しばかり安堵したライキは、皆と共にアクゴロウを護って本陣を目指す。

 担架で揺られるアクゴロウは、「ゴメンね〜…、重いでしょ…?」などと声をかけて皆を安心させようとしていたが、ライ

キにやんわりと窘められて口をつぐみ、目を閉じる。

 命一つ拾うのにもこれだけ難儀する…。この戦でどれだけの犠牲が出たかは、今はまだ考えたくない。

 実際の所、遠隔、しかも広範囲とあって流石に火力が落ちていたため、防御手段を持つ者は業火の洗礼から逃れる事ができ

たが、それでも帝勢、裏帝勢を問わず、大半は為す術もなく火中に倒れていた。

 しかし、移動を再開して間もなく、気が逸るライキは足を止めざるを得なくなる。

 炎の河が流れ去り、蹂躙された名残の炎がそちらこちらで燃え続け、焼け焦げた大地がブスブスと水分と煙を吐き出す中、

焔に照らされる四つの影が、一行の行く手に現れた。

 立ちはだかったのは熊、猿、猪に山猫、四名共に…、

(手負いか…)

 矛兼盾として素早く一行の先頭に立ったライキは、そう相手方の状態を見て取りながらも、油断無く半身に構えて抜刀に備

える。

 彼らがあの猛火をやり過ごせた理由は一目瞭然だった。大柄な茶毛の熊が、その両拳に光を灯していたので。

(神代の血筋…いや、神壊の眷属か…)

 揃いも揃って満身創痍。内三名は手の施しようもない傷を負い、生きているのが不思議な程の出血量。猪などは破れた衣の

腹から臓物をはみ出させている。

 比較的まともに動けそうな熊も、呼吸の乱れは隠しようもない。ぜぃぜぃと喘ぐその息に乱されるように、拳に纏う力場が

不安定に明滅していた。

 何より驚かされたのは、里を囲む戦線を抜けてこんな所に到達した裏帝勢が居るという事実と、その存在が今まで露見して

いなかった事。

 鉄壁と思われた陣を何処かで食い破った上で、遭遇する者を片っ端から片付け、情報を持ち帰られないようにしたとしか思

えない。そしてその安くない代償が、彼らの体に刻まれた深手…。

 それでもなお牙を剥こうとするのは、死にゆく者の意地なのか、まつろわぬ者の意地なのか…。

(生え抜きの精鋭を固めた独立強襲部隊といったところか…。おそらく狙いは本陣への奇襲、そして帝の暗殺…)

 放っておけば死ぬ相手とはいえ、こちらも重傷者を抱えた身。避けて通るに易くはないと、ライキは交戦を決めて得物を抜

き放つ。

「姓は鳴神、名は雷騎。帝の僕の末席に名を連ねる者なり。貴兄らは如何に?」

 朗々と名乗りを上げたライキに、四人の内で最前に立つ大柄な熊が、

「………」

 血が零れ落ちる口をゆっくりと開け、名乗り応じた。



 かくして始まった戦は激しくも短く、残りの者をアクゴロウの護りに当て、単身挑んだライキが勝利を収めた。

 だが…。