第十七話 「神田涼風」
ざぁっと、樹海が啼く。
物心ついた時からずっと聞いてきたその音に丸い耳をピクつかせ、ライゾウは天を仰ぎ見る。
神代家の物に酷似した拵えの戦装束は、肩口が大きく裂けており、下穿きも裾が焦げ落ちていた。
独りだった。
ある品を奪取、不可能ならば破壊せよとの御役目を受けて出征したのは十日前。里を出る際には十四居た配下が、帰還した
今はひとりも居ない。
狙いを事前に察知された訳ではないが、出先で神将当主二名、そしてその御庭番達と子息を含む精鋭達と鉢合わせたのが部
隊壊滅の原因だった。
目的は達した。流石に原形を留めたままの奪取は不可能だったが、ライゾウの手で間違いなく目標物を破壊し、その欠片を
小指の爪ほどだが持ち帰る事ができた。
しかし、その代償は安くない。
半数は、神将との死闘の末、壮絶な討死にを遂げた。
逃れた残りは、今に至るまで合流できず、安否不明。
ライゾウ自身も、現場に派遣されていた隠神の眷属が目くらまししてくれなければ撤退できなかった。もしもギョウブがあ
そこまで用心深い性格でなければ、念の為にと人員を送り込んで配置していなければ、派遣された隠神の眷属が腕利きでなけ
れば…、敵側を全滅させるしか脱する手段は無く、闘争の場と逃走経路上が焦土と化す大惨事になっていただろう。
当代最強の逆神ですらその有様だったのだから、いかに精鋭揃いとはいえ、部隊が壊滅するのも無理はない。
樹海の奥。里もまだ遠い、何の目印もないそこで、ライゾウは待つ。
約束の刻限はとうに過ぎ、責めるように、急かすように、日は傾き続けて周囲の暗さは闇へと変わってゆく。
「…トニワ」
ポツリと、瞑目した巨漢が呟いた。
「キリシロ。ラクサイ。アワス。イハヤ」
呟かれるそれは、散って行った同朋達の名。
やがて、生死が確認できていない者達の名を残すのみとなり、口を閉ざしたライゾウは、いよいよ昏くなった空の下、未練
を断ち切るように右拳を胸の前につけ、弔意を示した。が、
「………」
おもむろに目を開けて、前方を、自分が来た道を、外から通じる通い路を凝視する。
遠く遠く、濃くなりつつある闇の中に、絡み合うようにもつれた影が見えた。
ボロボロで、息も絶え絶えで、時によろめきながら近付いて来るのは、熊、猿、猪、山猫。
それは、神壊の血が色濃い眷属をはじめとした、生え抜きの精鋭達…。
やがて、ライゾウに気付いて眷属の大熊が足を止め、背負われた山猫が「御頭…!」と、感極まって震えた声を漏らした。
「御頭、御無事で…!」
猿に肩を借りている猪が、荒い息の間に安堵の呟きを混ぜ、引き摺る足を叱咤して歩調を早める。
その場で配下を待ち、そして迎えたライゾウは、無言で四人の顔を見回す。
全員が満身創痍。熊はその大きな体躯に、展開した力場ごと厚い脂肪層と筋肉層を貫通された深手をいくつも負い、猪は右
の太腿に骨まで達する裂傷を受けて失血がひどく、山猫は背に四か所も刺創が刻まれて、真っ直ぐ立つ事もできない。目立っ
た外傷が無い猿も、袖に隠れた右腕から被毛と皮膚が焼失し、筋肉まで達する重度の火傷を負っていた。
「よく帰った」
短い言葉。しかしそれでも、寡黙で感情に乏しい巨漢の労いをそこに感じ、四人は頭を垂れる。
猿が代表して報告した内容で、ライゾウは知った。
生死不明だった内、彼ら四人以外が皆命を落とした事を。
「戻る」
散った者への手向けの言葉を口にする事も無く、ライゾウは短く言った。が、
「何か、持ち帰ったか?」
すぐさま四人の顔を見比べてそう訊ねた。
すると、顎を引いた熊が腰を揺すって山猫を背負い直し、尻を片手で保持する格好で支えつつ、自由になった右手を懐にさ
し入れる。
抜き出されたその手には、筒状に巻かれた小指ほどの大きさの紙包みが、数本纏めて掴まれていた。
「皆の毛を、集められただけ…」
低く太い声で応じた熊が広げた、その分厚い手に乗る同朋の遺毛を見つめ、ライゾウは顎を引く。
「弔い、その墓前に報せよう。此度の戦果はお主らの手柄だと」
そして巨漢は、足を負傷した猪に寄ると、支えている猿から腕を預かり、ぐいっと引き上げた。
重厚な猪の体躯がまるで羽毛のように浮き上がり、くるりと背を向けたライゾウの背に乗る。その重さを感じさせない動き
は、見慣れていてもなお目を見張る物だった。
「も、勿体のうございます…!」
恐縮した猪が許しを乞い、降ろして貰おうとしたが、巨漢は応じずに踵を返し、手負いの配下がそれに続く。
結界を抜ける頃には守護番である隠神の眷属達が駆け寄り、歩くのも辛い負傷者達を担架に乗せた。
里が近付いた頃に馴染みの大狸が一行を出迎え、そのまま御館様の下までライゾウと四人を導いた。
屋敷の庭に跪いたライゾウ達を、屋敷の正面に設えられた大口の障子戸を開け、謁見の座敷に立って見下ろすのは、切れ長
の目と紫紺の瞳、纏う狩衣と袴が印象的な、三十を少し越えた頃の人間男性。
帝側からは裏帝と呼ばれる血筋の末裔。
逆神達からは主君として崇められる者。
あえて冠した姓は、「二つ無き」という意味を込め、そしてこの地に雄大なる姿を晒す大山の名を取り、「不二(ふじ)」。
「先触れから大体の報告は受けている」
静かな、しかし胸に深く染み入るような、凛と冷たい厳かな声。こうべを垂れたままその言葉を聞く五名の耳を、
「…よく戻ってきてくれた」
一転して、ふわりと感情が宿った安堵の声が撫でる。
「顔を見せておくれ」
労いがこもり、深い慈しみが滲んだその声に促されて顔を上げた一同は、そこに家族の帰還を喜び、帰らぬ家族を悼む主君
の顔を見た。
隠れ里の強固な結束は、なにもしきたりと祖先からの使命のみによって維持されている訳ではない。立てるべき旗が、傅く
べき頭が、尽くすべき主が慕われて続けているからこそ、何百という年月を経ても綻び一つ生まれない。
段を降り、帰還組を労おうと足を向けた主に、
「御館様。まず神壊の話を…」
その気持ちを察しながらも、ギョウブはあえて忠言する。これは、格式を守るべきという考えがあっての発言ではあるもの
の、報告を終えない事には労わられる側も気が休まらないだろうという気遣いも含められての物だった。
「…そうであった」
顔つきを引き締めて声音を威厳ある物へ戻した主に、ライゾウは懐から取り出した小さな布包みを開き、両手に乗せて恭し
く捧げる。
「品はこれへ」
砕けた赤水晶のようなそれを見つめ、逆神達の主をはじめ、居合わせた者達が眉を潜める。
神将の血を濃く引いた大狸と狼もまた、それを凝視しているが…。
(血が反応しない…。遺物特有の気配が無い…。何なのだ、アレは?)
正体を知らされていながら、ギョウブにはその「何か」の本質が掴めなかった。
「これが…、バロール…」
「止む無く葬(はぶ)った次第に御座る。…否、此れは…」
ライゾウは言葉を探し、結局適当な物が思いつかず、
「まだ「生きて」おります」
そう述べて、場の全員を凍り付かせた。
それは、まるっきり外れているとも言えない物言いだった。砕かれて欠片になってもなお、ソレはまだ機能を失っていない。
遺物の破壊を主眼に置いて磨き上げられた、神代の古式闘法を源流とする神壊の技でも、完全な機能停止に追い込む事がで
きなかった。
それどころか、欠片は徐々に角が取れ、丸みを帯び始めている。
欠損が大き過ぎて、おそらく完全な形への自己修復は不可能と思われるが、それでも何割かの力を宿した状態まで戻るはず
だと、ライゾウは主に告げた。
「封じられていると聞いていたが…。それでこれか…」
呆れているとも感心しているともつかない声音だったが、それでもライゾウの主君は満足したらしく、「使われる前に壊せ
て良かった」と、瞼を下ろして呟いた。
「御館様。別に申し上げたき事が」
ライゾウは包みを閉じて欠片を覆うと、改まって首を垂れる。
「神田、神原の当主、それぞれ葬って参りました」
先程とは別の形で、再び場が凍り付く。
闘争と逃走の最中、ライゾウは現当主二名を葬っていた。
「当主…を…?」
絶句した主に、巨漢は頭を下げたまま続ける。
「皆の手柄に御座る」
こうして、神田家は引退したばかりの先代当主が復帰する事になり、神原家ではイモンが予定を繰り上げて急遽当主の座に
就いた。
外ではどうあれ、隠れ里の中では、この手柄はライゾウの希望もあって彼一人の武勲ではなく、殉死した精鋭達も含めた御
役目従事者全員の武勲として扱われる事になった。
一方その頃、屋敷の奥では…。
「…?」
とても四つには見えない大きな熊の子が、目を丸くして首を傾げていた。
その前で、小さな人間の女の子が穏やかな紫紺の目を細め、静かに微笑む。
年下なのに二倍はある熊と畳の間で向き合っているのは、人形のように整った顔立ちをした、美しい少女。
まだ十歳になっていないが、品の良さが知れる微笑と聡明そうな眼差しが、歳不相応で印象的だった。
熊の子は、そんな少女の掌に乗った、赤い色が閉じ込められたガラスのおはじきを凝視している。
「もういっかい」
身を乗り出した熊の子に頷くと、少女はおはじきを握り、それから手を開く。すると、そこには直前まであったはずのおは
じきが無い。
「……?」
ますます不思議そうな顔になった熊の子の前で、少女は再び手を握り、それから開く。
「………!?」
また現れたおはじきを見て、熊の子の目が皿のようになった。
「どうかしらラン。不思議?」
少女の問いに、熊の子はぽかんとした顔のままコクコクと何度も頷いていた。
「もういっかい!」
ねだるランに微笑みながら頷き、少女はまたおはじきを消し、そして出現させて見せる。
どうなっているのかさっぱり判らない。それがこの少女の能力の一端なのだと言われても、幼いランには何がどうなってお
はじきが消えたり現れたりするのか全く判らず、その能力自体がどういう物なのかも見当がつかない。
「も、もういっかい!もういっかいみせて!」
判らないが、不思議で、面白くて、ランは繰り返し見せてくれとせがむ。
少女は穏やかに微笑んだまま、年下の大きな子を楽しませてやった。
ランはこの少女が好きだった。
自分だけではない。ランの弟も、友人達も、大人も含めた里の皆も、この少女の事が好きなのだと、ランは知っている。
貴き血を宿す、自分達の主…。
いつか自分がこのひとを守ってゆくようになる。
父の背を見て育った熊の子は、そう考えていた。
今の君主に父達が遣えるように、自分もこのひとに遣えて生きてゆくのだと…。
「で、どうすんじゃ?あんちゃん」
背中に問いかけた中年巨漢に、白い巨漢は気を取り直すように首を左右に振ってから向き直った。
「俺はこのままアイツを探しとくっス。狙いがイマイチ判んなくなっちまったけど、目的があって動いてんのは間違いねぇっ
スから…」
ユウキは目を鋭く細め、ジークを凝視する。
「目的ってのはなんじゃ?アイツと…」
お前の。と続ける事なく、ユウキの指が軽く開かれる。
返答如何によってはこのまま去らせる訳にはいかないと、態度で示した大熊に、
「あっちのは良く判らなくなったっス。けど、俺の目的は…」
ジークは剣を地面に突き立てて手放し、両手を軽く上げ、敵意が無い事を示して訴えた。
「だいたいは世界平和っス。世界からは嫌われてるっスけど」
何とも適当で大雑把な物言いだったが、白熊の顔も声も大真面目だった。
操光術の達人相手に、近距離で両手を上げるというその行為と態度で、ユウキは面白くなさそうに顔を顰める。全く動じな
いその態度が、悪童精神がまだ抜けていない巨漢からすると少々拍子抜けで、面白くない。
それでも、いわれなく撃たれはしないと信じているジークの姿を見せられては、信じない訳にいかなかった。
(バレたら相当咎められるじゃろな…。また神将正規復帰が遠のいちまうぜ…)
指から力を抜いたユウキは、「行きな」と顎をしゃくった。
「ただし見つかるんじゃねぇぞ?もしとっ捕まっても、ここで会った事も、儂が行かせた事も内緒じゃ」
「合点承知っス!」
ニッと歯を剥いて不敵に笑ったジークは、この状況で誰にも見つかるなという、困難極まるユウキの条件をあっさり飲んだ。
疑似ノンオブザーブが使用できる白熊には、見られないだけならばそう難しくもない。問題は神将にレリックの気配で察知
されないかという事と、交戦する際にどうするかという事のみ。逃走の場すら確保できれば、どちらもクリアは可能だった。
「さて、儂は眠り姫のシバちゃんを何処かに置いて、現場に急ぐか…」
自分に抱き締められたまま気絶している御庭番に視線を向け、ユウキは呟いた。
合戦には出遅れたが、まだやれる事はあるはずだと、気を引き締めて。
そうして踵を返しかけたユウキは、ふと思い直してジークに声を掛けた。
「儂は神代家の…」
改めて自分の名と素性を伝え、縁があったらまた会おう、だができれば捕まって引き合わされるなどという再会は御免だ、
とジークに告げると、
「じゃあな、しっかりやれよあんちゃん」
ユウキは白熊に背を向け、肩越しにひらひらと手を振った。
その鷹揚な背中に軽く会釈し、「おっちゃんも気をつけるっス」と応じたジークは、愛剣を肩に担ぎ上げた。
(火遊びが過ぎるっスよ、スルト…)
金色の瞳に嚇怒を湛え、ジークは襟元に仕込んだ通信装置に手を伸ばす。
「…ヒルデ、状況が変わっちまったっス。…読めねぇっスけど、たぶんかなり不味い方に…」
業火に焼かれる樹海の中、金色に輝く力場を纏った獅子は、爆風に煽られて飛んで来た巨木を、裏拳で打ち払うようにして
砕き散らした。
炭化して脆くなっていた巨木が、破片と塵を火中で撒き散らす中、ライデンは直前まで向き合っていた大熊の姿を求め、視
線を走らせる。
「…ぬかった…!」
獅子は歯噛みする。
対峙していたライデンとライゾウは、火炎流の芯に直撃される位置に居た。
それで命を落とすような事はなかったが、吹き飛ばされないよう堪え、焼かれないよう防ぐ最中、常に相手の姿を捉えてい
られた訳ではない。
ライゾウは逃げた。
だが、それは己の命を惜しんでの事でも、ライデンを恐れての事でもない。
余命幾許もない身を叱咤して向かったのは、守るべき何かの下だと察しがついた。
(あの体ではそう遠くまで行けぬ…)
後味が悪い決着になると確信しながらも、ライデンは炎の中を歩き出す。
しかし、炎の洗礼によって痕跡は完全に消え去り、踊り狂う火の手が視界を妨げる。
困難極まる追跡となる事は、想像に難くなかった。
「正確でした。流石ですね」
炎の河が駆け抜ける様を遠目に見下ろし、灰色の髪の男の子が呟く。
その口元に寄せられた手は、万年筆を装う通信機を握っていた。
『対象の位置は?』
耳の上側を挟むように着用したイヤリング型受信機で音声を受け、その身に雲を纏いながら高空に浮かんだロキは、眼下の
惨状を睥睨する。
そこには、里を襲い、列の後尾を飲み込んだ大火災に驚きながらも、先を急いで避難を続ける里の衆…。
「そのまま直進して下さい。逃げ道でもあるのか、進路が定まっています。その速度なら一分と経たずに接触できるでしょう」
用は済んだとばかりに相手からの返事が途絶えると、ロキは肩を竦めた。
「評価して欲しいですけれどね。この働き者を」
ジーク、ブリュンヒルデとの戦闘を期に撤退したと見せかけたロキは、しかし距離を置いて戦場を観察していた。
おそらくジークとスルトの接触は避けられないと判断し、本来彼が一人で行なうはずだった目標物の位置把握を買って出て、
密かに通信しながら機会を窺っていたのである。
これは索敵に秀でた神崎が、スルトの手に掛かって退場したからこそ可能となった事だった。
スルトが広範囲焼却を行なったのは単に攻撃の為だけではない。
目くらましを兼ねて場を混乱させつつ、困難となった目標の達成を確実にするための一手であり、大事な目標物を巻き込ま
ないようロキに誘導されて放っている。
「…さて、あとは出助けしなくとも大丈夫でしょうが…」
いよいよ退路の確保に当たらなければと、思案しながら呟いたロキは、
「…しまった」
目を鋭く細め、ゆっくり旋回する。
斜め下方から、高速接近する何かがあった。
上昇気流で激しく暴れる夜風の中、身に着けた羽織袴を悠然となびかせ、まるで鳥が飛ぶようにロキへ迫ったのは…。
「乱気流を防いで風を騒がせたせいで察知されましたか…。注意したつもりでしたが、厄介な相手も居たものです」
襟元に手を入れてネックを引き出し、鼻先まで覆って顔を隠すロキ。その警戒の色が濃く浮いた瞳に映るのは、彼程ではな
いが小柄な影。
30メートル強の間を空けてロキと対峙したその人物は、「風が妙な騒ぎ方をしよると思えば…」と、ヒゲをチョンチョン
引っ張りながら呟いた。
天を指し、ゆらりと揺れる長い耳。
白い物がだいぶ増えた茶色い被毛が、大火災の上昇気流が暴れ狂う高空において、涼風に揺れるという異常な動きを見せて
いる。
その瞳が一時ロキから離れて地上を一瞥し、逃げてゆく裏帝勢の列を確認した後、すぐさま向け直された。
その男は初老の兎獣人。神田家当主、神田涼風(かんだりょうふう)。通称…、
「何者かは、捕えてからゆっくり訊こうかの…」
風使い。
瞬時に硬度の高い障壁を展開し直したロキが、前触れもない衝撃を受けて下方へ叩き落とされる。
リョウフウの怪しく光る夜色の瞳が、風の塊を叩きつけてやった相手を追い、五指を広げた手は次の一撃に備えて頭上へ差
し上げられる。
「奥義…」
瞬間、夜空が歪んだ。
それは、リョウフウの呼びかけに応じて風が集い、直径20メートル、高さ100メートルにも及ぶ円柱状に大気が圧し固
められ、密度の違いで光が屈折してしまったせい。
元々神田は直接戦闘に秀でた神将ではなく、遠隔攻撃と索敵を得意とする後方支援型。肉体的には脆弱な部類に入り、身軽
なだけ神ン野よりマシといった所。
しかし、大気そのものを武器とし、条件付きで天候すらコントロールできるその能力は、消耗が大きく持続攻撃も大技の連
続使用も難しいという欠点を差し引いても、極めて強力と言える。
「高天ケ槌(たかまがつち)!」
本来ならばそれは、相手を押し潰す固形化した空気の鉄槌。しかし今回はロキを捕獲するために、中央に穴を空けて筒状に
している。
その攻撃を受ける当人…落下中のロキからすれば、星々の瞬きすら歪んだ夜空が、自分に向かって迫ってくるように見えた。
しかし…。
(大気操作は、得意分野の一つです)
すぅっと、ロキの隠された口元が笑みを作る。
巨大な筒が自分を飲み込み、天地を結ぶ柱となって身動きを封じにかかったそこで、ロキは遭遇した時点から準備していた
術を解き放った。
直後、固形化した空気の柱は一部のコントロールを失った。
目を見開くリョウフウ。ロキが行なったのは、自身が纏う障壁もまた風である事を利用し、接触して削られた障壁の破片を
柱に溶け込ませ、それに含まれた自身の思念波を媒介にして制御を乱すという阻害行為。巨大なソレをコントロールする兎の
思念波干渉を、ロキはほんの少しの労力で邪魔してのけた。
精密で驚異的な技術を見せつけられ、リョウフウは自分が相手を甘く見た事を悟る。
だが、気付いた時にはもう遅い。
「柱が…!維持できん…!」
制御を取り戻そうとしたリョウフウだったが、果たせずに柱が砕け散る。固形化したまま…。
硬度の高い大気の破片は、爆散しながら地上にも降り注いだ。逃げてゆく、隠れ里の住民達の上にも。
硬質な空気の塊は、重さこそ無いがガラス片のように鋭く、硬度と速度もあって立派な凶器となった。
突如降って来た無色透明な夜空の欠片が、幼子をおぶる雌犬を母子纏めてに串刺しにし、老いた母の手を引く猫の首をはね、
父の手を握った少女の手首を斬り飛ばす。
しかしそれは、一波だけでは終わらなかった。
分解され、リョウフウの制御を離れた柱の残骸は、ロキが潜り込ませた改竄思念波に導かれ、宙へ弾け飛んだ物すらも残ら
ず軌道を変えてリョウフウを襲う。
即座に自身の周囲で大気を固形化し、防壁にして相殺したリョウフウだが、ロキの支配奪取は完璧ではなく、狙いから逸れ
てしまう物が大半。
元々まともに交戦するつもりがないロキからすれば、足止めが目的なのでそれでも構わないのだが、その破片群の中でも上
空から舞い戻った物は、リョウフウを通り越し、第二波として地上に降り注いだ。
舐めるように列の全てを襲う、降って湧いた災難で、阿鼻叫喚の地獄絵図が出来上がる。
「御館様!」
「御館様をお守りしろ!」
悲鳴が上がる中、それでも主君を護ろうと声を張る忠臣達。しかし…。
「お父様ぁっ!」
少女が悲鳴を上げる。咄嗟に覆い被さり、盾となって自分を守った父に押し倒されて。
あまりにも唐突過ぎて、力を行使する暇もなかった。
右腕が肩から飛び、首筋を深く切り裂かれて致命傷を負いながら、当代の裏帝は娘を地面に押し付け、我が身を盾にして降
り注ぐ刃から護る。
そこへその妻が、駆けつけた家臣が、折り重なるようにして刃を防ぐ生きた盾となり…。
「いやっ!嫌ぁっ!お父様!お母様!血が、血がこんなにっ!」
降り注ぐ見えない刃に倒れて行く里の皆の姿を、少女は身動きが取れないまま、なす術もないまま、ただ見せつけられる。
「止めて!皆!皆もう止めて!逃げてぇっ!」
少女の悲痛な叫びに、苦痛の声と断末魔が重なった。
木々も人々同様切り倒され、樹海が咽び泣く。
見えていなかった現実を、少女はこの夜、初めて知った。
自分達は逆神達や眷属達、里の皆に守られている…。そう昔から父母に教えられてきた。だから皆を愛し、慈しみ、感謝し、
労いなさい、と…。
こういう事だったのだ。
これまで見えていなかったが、見せられはしなかったが、御役目に出たまま帰らなかったあの狸も、眠っているような死体
となって埋葬されたあの熊も、こうして自分達の為に死んでいったのだ。
不幸な事に、齢十一にも拘らず、少女は聡明過ぎた。聡明過ぎたから、今日やっと目にできた真実から、より深い真理に辿
り着いてしまった。
「やめてぇっ!もう、もう良いからっ!お父様!お母様!皆!もう止めてぇええええ!」
喉も裂けよと少女が嘆きの声を上げる、その上空で、
「今度こそ撤退します。あとは宜しく…」
何事もなかったように、ロキは通信機に話しかけた。通信相手の姿を、眼下の地上に肉眼で捉えながら。
深い夜闇に沈んだ樹海を駆ける。赤い影。
「何奴!?」
気付いたリョウフウは、しかし木々が邪魔してスルトの姿をはっきり見る事ができない。
フルスロットルで駆けるレース用バイクにも匹敵する、およそ生物の物ではない速度で木々の隙間を縫い、列に接近した赤
虎は、片腕一本で深紅の大剣を掲げ、進路に落下して来た硬質な大気の下を潜り抜けつつ、これを粉々に破砕する。
金色の瞳が見据える物は、惨状の中で折り重なったひとの塊。その下に嘆きを封じた、命の壁…。
スルトの目が僅かに細められた。
だが、一瞬そこに浮かんだ苦悩と悲哀の色は、静かで冷たい光で即座に塗り潰される。
逞しい体が旋回する。斜め後方から迫った大気の塊を、疾走する勢いそのままに前方へ跳びつつ身を捻り、剣の一振りで打
ち砕く。
さらに、凝縮を解かれたそれに着火。爆風を生み出して迫る残骸を纏めて放逐し、前方跳躍しながらの旋回を終えて前向き
に戻ったスルトは、なおも駆ける。
行く手に降り注ぐ大気の残骸が、丁度地上に達する密度を最も高めるタイミング。
常人ならば命が幾つあっても足りない所だが、この程度の困難を踏み越えられないようでは、世界と対決する事など夢物語。
縦横無尽に赤い線を描く太刀筋が、スルトの前からあらゆる障害を排除する。
あと十歩。そこまで迫ったそのタイミングで、赤虎は頭上で剣を旋回させ、竜巻のように旋回しながら吹き上がる炎を、そ
して上昇気流を生み出した。
同時にこれが、上空に留まるリョウフウの目から、これから起こる一連の出来事を覆い隠すヴェールとなる。
自分と目標物の上から降り注ぐ残骸を一時排除したその隙に、赤虎は折り重なったひとの骸の山に組み付き、乱暴に除けて
ゆく。
放出した炎は、対象を巻き込まない為に威力を抑えた物。あくまでも大気の塊を押し退ける為に放った一発なので、すぐさ
ま消えてしまう。
猶予の無いその状況で、重なる骸をめくり、転がし、放るスルトがやがて目にしたのは、守護者達と自分の血に塗れて全身
を染め上げられた成人男性と、その下で気を失っている赤い少女の姿。
手を止めたスルトの金眼が、少女の上に被さった成人男性に向く。
かろうじて脈がある。だが、今にも息絶えようとしている。
(…遅かったか…)
俯せになっている男の横向きの顔。その朦朧とした半眼に紫紺の瞳を確認し、スルトは胸の内で呟く。
目標物。裏帝と呼ばれる存在。バベルの鍵となる数少ない血筋。
所在が付き止められ、帝が攻め入るという情報を得たスルトは、混戦に紛れて身柄を押さえるつもりだったのだが…。
直接的にはロキが要因だが、もっと早く動けていれば間に合ったはず。二つも妨害が入った事が悔やまれた。
「…か…」
微かな声に、スルトは軽く耳を動かす。
裏帝の口が、微かに動いていた。
「…ひゅ…、こ…」
首を裂かれて言葉も発せられないその男の、光が消えつつある瞳と、必死の息遣いが、味方ではないと確信していながらも
スルトに訴え、懇願する。
娘を救ってくれ。と…。
虎の金眼が細まる。
まだ子供とはいえ貴重な血。生きたサンプル。本来の目標物がダメになった以上、嫌だと言っても連れてゆくつもりだった。
生き永らえる事はできる。救う事になるとも、この場で死ぬのと比べてマシとも言えないが。
裏帝の唇が震える。
乞い、願う。
娘を助けてくれ、と…。
赤虎は軽く目を閉じ、考えた。
そして決断する。
苦しめる必用は無い。この場に災厄を撒き、里を焼き払ったのが自分達だとはあえて伝えず、静かに逝かせて良いだろうと。
顎を引いて「引き受けた」とスルトが応じた途端に、裏帝は細い息を吐き出す。そしてそのまま二度と、動く事は無かった。
赤虎はその金眼を父から娘に向け直し、そして気が付く。
少女の目は、夜空を映していた。
いつ気が付いたのか、紫紺の瞳は何の感情も浮かべず、茫洋と虚空を眺めている。
「………」
目くらましの炎がもうじき消える。空へ放った熱は拡散し、追い散らした破片群も再度落下しようとしている。さっさと連
れ出さねばまずいと考えたスルトは、少女を引っ張り出そうと手を伸ばし、
「殺して」
ピタリと、動きを止めた。
「私を、殺して」
まるで人形が喋るように、涙に濡れた顔に一切の感情を浮かべず、少女が言う。
「お願いです。死なせて…」
「…!」
息を飲むスルト。
絶望に囚われ、生きる気力を失った少女に、赤髪の若い女性が重なって見えた。
―お願い…。貴方の手で、死なせて…―
(オルトリンデ…)
金色の瞳が郷愁と悔恨に曇った。
何故、彼女の姿が似ても似つかない目の前の少女と重なるのか?
硬く、冷たく、鋼のように引き締められていたスルトの心に、綻びが生じた。