第十九話 「不二沙門」

 弾けたような勢いで後ろ向きに落下していたロキは、木々の中に突っ込んでリョウフウの目から姿が消えた途端に、仰向け

に寝そべるような格好で上空を見上げながら、頭の方へと高速移動を開始する。

 それはまるで、見えない担架の上に寝たまま、見えない誰かに運ばれて行くような格好だったが、スピードが尋常ではない。

時速九十キロにも及ぶ速度で、周囲を見もせずに木々の間を縫い、風に運ばれて戦線から遠ざかってゆく。

(さて、スルトは上手くやりましたかね…?)

 一方リョウフウは、木立の中に消えたロキを見送りながらも追跡も追撃もできなかった。

 地上で咲いた炎を見下ろし、さてはあそこにこの異変の元凶が…、と警戒せざるをえなかったせいで。

 大技を使った直後で消耗は大きいが、臆した訳ではない。例え勝てなくとも刺し違えられるのならば、一戦交えて見事散る

覚悟はある。

 だが、無駄死にだけは駄目だった。

 今ここで自分が死ねば、情報を持ち帰れなくなる。その事と、相手ひとりと刺し違える戦果を天秤にかけた場合、帝の為に

なるのは前者だと理解できている。

 それでも、できるならばせめて相手の姿を確認した上で撤退したいリョウフウだったが…。

(…何じゃ…?)

 兎は目を大きくして地表を見回す。

 夥しい犠牲者の骸はそのままに、立っている者の姿は見えない。

(遺物の気配があったような気がしたが…、アヤツの思念波じゃったか?)

 何ら特別な物を見い出せず、兎は顔を顰めて考え込んだ。

(…気を逸らすための遠隔発火じゃったのか?だとしたらまんまとしてやられたわい…)

 ロキに集中していたリョウフウには、スルトが突入した様子が確認できていなかった。そのため発火が先の火炎流を起こし

た者の仕業だと確信があった訳でもなく、一度ロキの手だと考えたら、そのままそう思い込んでしまった。

 やがてリョウフウは、生存者は見当たらないものの、が居ても居なくとも自分の手に余ると考え、ひとまず報告に戻る。

 少女を連れて木陰へ駆け込み、息を殺して隠れている赤虎には気付かないまま…。

 炎が収まった後もそこに残る熱と上昇気流が邪魔になり、リョウフウはスルトと少女の存在を掴み損ねた。

 情報を持ち帰る事を優先したいので、地表すれすれまで降りて確認するという判断はできなかった。姿が見えなくなったロ

キがもしも奇襲を目論んでいては厄介だというのもあるが、どちらにせよ神崎の索敵から逃れられるはずがないと考えたせい

でもある。

 戦闘は戦闘が得意な者に任せる。自分は自分の役目を果たす。

 この徹底した割り切りが、結果的にはリョウフウの命を救ったとも言えた。

 もしも遭遇してしまったら、スルトは口封じと退路確保の為に一戦交えるつもりだったので…。

(行ったか…)

 愛剣に特殊なバンドを巻き、神将特有の超感覚でレリックの存在を気取られないようにしていたスルトは、リョウフウが飛

び去るのを見届けてから少女に視線を向ける。

 腕を掴まれて強引に木陰まで引き込まれた少女は、掴まれた腕を支点にぶら下がるような格好で、地べたに座り込んでいた。

「行くぞ」

 そう声を掛けたスルトだったが、返事は無い。

 しかしぐずぐずしてはいられない。とにかくこの場を離れ、それから頬を打つなりして正気付かせようと考えたスルトは、

「…殺して…」

 ぼそりと少女が呟くと、その顔を見下ろす。

 また一瞬だけ、似ても似つかない女性の顔が、少女に重なって見えた。

(オルトリンデ…)

 僅かに目を細めたスルトの沈痛な表情には気付かないまま、少女は繰り返す。

「お願い…、殺して…」

 スルトは答えない。だが、その金色の瞳に軽い動揺が浮かんだかと思えば、即座に硬く冷たい、強靭な意志の光が灯る。

「生きろ」

 赤虎は冷厳な声音で言い放った。

「生きてもがき、あがき、己を殺めようとした世界に抗え。君にはその権利がある」

「権利…?」

 少女は望洋とした瞳をスルトに向けた。

「復讐の権利だ」

 一つ大きく頷いた赤虎は、「そして、君が復讐すべき者はここにも居る」と先を続け、自分の顔を親指でさし示した。

「炎を放ち、君の仲間ごと里を焼いたのは私だ」

 少女の目が見開かれ、紫紺の瞳が驚愕を、次いで怒りを映し、激しく揺れる。

 直後、少女の手が腰へ伸びた。そして細い指が護身用の小刀に触れたか否かというその瞬間に、小刀の柄が消失した。

 スルトの首が素早く傾けられ、上方斜め後ろから飛来した小刀がその頬毛を掠めた。

 消失したのは柄だけではない。小刀本体が、鞘だけを残してスルトの後方に出現し、襲い掛かっていた。

(空間転移…。なるほど、「奴」の力と同じか)

 慌てもしないスルトの前で、少女が跳ねるように動き、立ち上がる動作からそのまま前へ出る。

 舞い戻る形で自分の眼前に飛んで来た小刀を、小さな手が宙で逆手に掴む。

(子供の動きではないな。だが、まだ遅い)

 右手で逆さに掴んだ小刀の刃をスルトに向け、左手を柄の尻に添え、胸の前で構え、体ごとぶつかってゆく少女。

 しかし、決して遅くはないその動きも、赤虎の反応速度を上回れない。金眼は刃のきらめきをしっかり捉え…。

 ドヂュッと、ぶつかる音と、擦れる音が同時に響いた。

 少女の瞳は驚きの色を浮かべ、ジャケットの合わせ目に刃先を食い込ませた小刀を見つめている。

 当たる寸前、スルトはわざと動いて合わせ目に刃を受け入れていた。

「このジャケットは防刃防弾だ。刃で貫くなら、このように狙う場所を見定めなければならないぞ」

 信じられない物を見たような顔で、少女は赤虎の顔を見上げる。

「どうして…」

「一部前払いだ。だが、今払ってやるのはここまでだ」

 そう言うなり、スルトは力が抜けた少女の手を掴み、刃を引き抜く。

 刃先には僅かに血が付着していたが、傷は浅い。体重をかけて突き込んだ小刀でも、皮膚を浅く切っただけ…、生物の範疇

を逸脱している赤虎の強靭な肉体には、かすり傷程度しか負わせられない。

 少女の手を握ったまま、赤虎は厳かに告げる。

「今の君では、どうあがいても私を殺せはしない。生殺与奪の権限は私が握っている事は理解できるな?」

 脅しと取れる内容だったが、不思議とそこに怖さも威嚇も感じられず、少女は黙って金色の瞳を見つめ続けた。

「私には目的がある。そのために君を利用する。生きていようが死んでいようが利用はできる。君に選択の余地は無いのが現

実だ」

 少女の手を放し、紫紺の瞳を見下ろして、スルトは告げる。まるで諭し、教えるような口調で。

「自ら死を選ぶ事は、君の場合解放とはならない。自由になりたいなら、それまで生きろ。私を殺したいなら、それを可能と

する力を手にするまで生きろ。生きたいのならば殺しはしない。生きていて貰った方がこちらもいくらか好都合だからな」

 力ずくで言う事をきかせる手もある。恐怖による支配、薬の使用、脳改造、いくらでも方法はある。

 だが、スルトにはそれらを選ぶつもりがない。

(私は、まだ甘いのだろうな…)

 胸の内で自嘲した赤虎の前で、少女は血が付いたままの小刀を鞘に戻した。

 その瞳には、生来の聡明そうな光が戻り、スルトを見定めようとしているような様子が見られた。

 まだ終われない。まだ終わらない。

 赤虎の事、里の悲劇の事、全貌を把握しないまま投げ出す事はできないと、胸の奥に吹き込まれた小さな火種が少女を突き

動かす。

「離脱する。騒ぐようなら黙らせて引き摺ってゆく。足手纏いになりそうでも担いでゆく」

 一方的な宣言に少女からの返事は無かったが、拒絶もしなかった。

「私はスルト。君の名は?」

 答えを期待した訳ではなかったが、一応名乗っておいたスルトに、

「シャモン。不二沙門(ふじしゃもん)」

 少女は毅然とした表情と声音で名乗り返した。

 家族を、仲間を、里を、自分の世界全てを失った少女を伴って、赤虎は往く。

 自分と、忘れられない女性の境遇を、取り残された少女に重ねて…。



 燃え盛る炎を尻目に、倒れ伏す骸を横目に、生き残りを可能な限り導いて延々と歩き続けた大狸は、抜け道の入り口をカモ

フラージュしていた地点に辿り着いた。

 そこには、何もない。

 だが、何の変哲もない木立の間の空間に、落ち武者達が姿を消してゆく。

 隠神の術によって継続幻術がかけられ、「そこにそれが有る」と確信していない者には、小さな祠が入り口となる抜け穴は、

存在すら感知できないようになっていた。

 念の為に腕利き数名を先行させて安全を確認したギョウブは、その上でたった二十数名まで減ってしまった里の者を先に抜

け穴へ入れ、自身はしんがりとなって入り口に留まっている。

 思念波の反射すら幻術で錯覚させられるギョウブだが、今は余力がない。そのため、術を施してあるこの場所にたどり着く

前に神崎の思念波探知に引っかかる事を懸念していたのだが、今の所追尾された様子は見受けられなかった。

 生き残りの救助と捜索に随分手間取ったので、もしも気取られていれば既に近くまで手が伸びているはず。今来ないとなる

と、神崎が深手を負うなどして、探知できない状況にあるのかもしれないとも思えた。

 ギョウブの妻子は無事だった。

 大気が固形化した刃に晒された前列と、炎の河に呑まれた後列の丁度中間に居て直接の被害を受けなかった上に、神壊の血

を引く操光術使いが傍に居たため、熱波からも守って貰えたので。

 この力場に守られた一団だけが、数少ない生き残りとなった。

 だが、家族が無事だった隻腕の大狸の顔に、安堵の色も喜びの色も、全く見えなかった。

 撤退の道中、主君の遺体を見つけた。

 娘の姿は見えなかったが、どれだけ探しても見つからず、今ではもう帝勢の足があの場まで及んでいる。

 ライゾウは来ない。あの傷では助からないと自分でも判っていた大熊は、おそらく討ち死にしたのだろうと考えている。

 神無の当主が率いた一派も、開戦間もなくから行方が判らなくなって、そのまま連絡もなく、姿も見えないまま…。おそら

くこちらも全滅だろうと察しはついた。

 それでもギョウブが、もう誰も来なくなった入口の前から足を動かせないのは、僅かな期待が消せないからだった。

「イヌガミの大将」

 聞き馴染んだ声が抜け穴の中から静かに響き、キジトラ猫が姿を現したが、ギョウブはじっと自分達が歩いてきた方角を見

据えたまま、振り向きもせず口を開く。

「フウはどうだ?」

「泣き疲れて眠っています。先程おぶられて穴を抜けました」

「そうか」

 そう言ったきり、ギョウブは黙り込んだ。トライチはその背中におずおずと声を掛ける。

「大将。お気持ちは判りますが、そろそろ…」

「トライチ」

 言葉を遮ったギョウブの声で、トライチは耳を倒した。切り上げを忠言する出過ぎた行為への叱責を覚悟して。

 だが、大狸の声はキジトラ猫を叱りつけるための物ではなかった。

「覚えとるか?皆の目を盗んで遠出して、兎を獲ったあの辺りの事…」

「…大将?」

「覚えとるか?草の上で大の字になり、枝葉の隙間から見上げた空…」

「イヌガミの大…」

「覚えとるか?並んで腰かけて握り飯を食った、でこぼこの岩の事…」

 押し黙ったトライチの前で、ギョウブもまた口を閉ざした。

 生まれ育った里も家も、先祖代々の墓も、崇めるべき主君も、全て失われた。

「何が…、守るだ…!」

 残った右手で拳を作り、ギリッと握り込む。

 己の無力さへの怒りと耐え難い喪失感で、逞しい肩が小刻みに震える。

「ワシは、情けねぇ男だ…!何が「刑部」だ…!何が隠神の頭だ…!神将のひとりも仕留められず!里の者も殆ど救えず!命

からがら逃げおおせて、周りを見ればほんの一握り…!」

「大将…」

 トライチの沈痛な声が、小さく開いた口から漏れる。

 ギョウブは十分やった。確かに仕留められはしなかったが、幾人もの神将を代わる代わる相手取り、攻勢を挫いた。ギョウ

ブが稼いだ時間がなければ、里の者は撤退が始まる前に戦火に巻かれていた。トライチをはじめ、生き残った闘士全員がその

事を知っている。

 なのに、ギョウブ自身にはその戦果すら救いにはならない。

「いっそ…」

 ぽつりと、大狸が呟いた。

「いっそ、一矢報いて散りに行くか…」

「そんな事おっしゃらないで下さい!」

 鋭い声がギョウブの耳を打つ。

 前に回り込んだトライチは、ギョウブの顔を真ん前から睨み上げた。

「こんな時に率いるべき大将がおられなかったら、ワタシ達はどうすれば良いのです!?」

 見下ろすギョウブの顔が苦悩に歪む。

 言われずとも理解していた。生き延びた皆の命に、自分が責任を持たなければならない事は。

 だがそれでも、生き恥を晒して永らえるより、討ち死にして果てた方が楽だという考えは、今のギョウブには魅力的過ぎ、

何もかも投げ出したくなる自分と、最後まで務めを果たそうとする自分が、胸の内でせめぎ合っていた。

 それが判っていたから、トライチは叫んだ。

「約束したでしょう!?隠神刑部は皆の物だけれど、隠神彦左はワタシのモノだって!」

 大狸は牙を噛み締める。昔交わした、二人だけの約束…。

 トライチは大狸の太い胴に腕を回し、胸に顔を押し付けた。

「守れる物がまだある内は…、死んではなりません…!死んでは…嫌です…!ヒコザさん…!」

 建前と本音がごちゃまぜになった懇願。感極まって鼻を啜ったトライチの背に、苦痛を堪えるような顔で両腕を回すヒコザ。

 だが左腕を失い隻腕となった今では、以前のようにしっかり抱き締める事ができず、もどかしく思いながら右腕に一層力を

込める。

 そう。死んで楽になるという贅沢は、まだ許されない。

「生きましょう。皆で…」

 すすり泣くトライチに頷き、ヒコザは天を見上げた。

 こんな状況になっても、否、こんな状況だからこそ、ヒコザはまだ、ギョウブであり続けなければならない。

 刑部としての務めを果たす。皆を連れて安全な地を探し出す。ひとりでも多く生き永らえさせるために。

 夜明けが近付く中、風に撫でられた樹海が、あの日と同じように潮騒のような音を立てた。

 まるで、別れを惜しんでいるように…。



 本陣に設けられた、簡易医療所となっている複数の天幕は、運び込まれる負傷者と人足でごった返していた。

 合戦で想定された負傷とは違う、炎に呑まれた重傷者が大量に出たせいである。

 その医療を受け持つのは、優れた医術者を幾人も抱え、帝の御付医も派遣している薬師神(やくしじ)一派。

 しかし、医術薬学に精通した彼らの手でも、救える者は半数にも満たない。運ばれてくる間に手遅れになる者も多く、初め

から手の施しようがない者も多い。

 よって、非常事態の非情の策として、助かる見込みのない者は薬で苦痛を和らげ、治療を行なわず旅立たせている。

 そんな中に、小ぶりな天幕の周囲を厳重に固める、屈強な鳴神の御庭番達と、神ン野の御庭番達の姿があった。

 緊張を隠せていないのも無理のない事で、彼らが守る天幕の中では、今まさに重要人物の治療が行なわれている最中だった。

 天幕内部、中央の寝台に寝かされているのは、まん丸く肥え太った若い狸。

 麻酔で眠らされたアクゴロウは、ぽってりした腕に何本も管を繋がれ、投薬と輸血を受けている。

 脇に佇むのは、袖をたくし上げて襷をかけた、真っ白い作務衣を纏った猿。

 中肉中背、頭に白い物が混じり始めた黒毛のニホンザルは四十歳前後に見え、アクゴロウの腹に視線を注ぐ横顔は、緊迫感

漂う鋭い物になっていた。

 薬師神元内(やくしじげんない)。薬師神家の当主であり、神将、御庭番を含め、帝勢で最も医療に精通した男は、今全身

全霊をもってアクゴロウの治療に集中していた。

 神将どころか御庭番の非戦闘員と比較しても脆弱な神ン野の肉体は、一般人と大差ない耐久力しか持ち合わせていない。そ

んな体で腹部を貫通する傷を負わされた上に、意識を保つために自ら傷口をほじくり返し、出血を増やしてしまったのだから、

外傷性にせよ失血性にせよショック死しなかったのは運が良かったと言える。

 ゲンナイの手袋すらはめていない両手は、アクゴロウの弛んだ腹に手首の上まで潜り込んでいる。

 柔らかい贅肉を押し込んで埋まっている訳ではない。まるで水面に手を突っ込むように、猿の手はアクゴロウの体内に入り

込んでいた。

 これは薬師神家の能力による物。生物の体を自在に透過できる彼らは、体に一切傷を付けないオペが可能だった。加えて彼

らは、患者の細胞を模して自らの体を細胞レベルで変化させ、生きた補修材として傷を塞ぐ事ができる。

 あるいは欠損をこれで補い、あるいは病巣を取り除いて替わりとし、あるいは縫合糸のように傷を塞ぐ。

 アクゴロウの腹と背の傷は、出血を止めるためにこの術によって真っ先に塞がれ、傷の名残は毛が無い、つるんとした白い

肌が露出しただけの物となっていた。

 ただし、たちどころに傷を修復するこの能力も万能ではない。

 思念波の記憶とでも言うべきか、肉体に欠損が生じても、薬師神達にはそこに薄く影のような物が浮かんで見える。健全な

状態の体の形が…。

 そこから元の状態を読み取って細胞が変質し、己の肉体その物を消費して復元するのだが、読み取り可能なのはせいぜい数

日。時間が経つと思念波が現状の肉体に適応し、元の状態が判らなくなってしまうため、古傷は治せない。加えて骨や、代替

えがきかない殆どの器官などは、細胞変質に時間がかかり過ぎてまず補えない。

 さらに、自分の体を削って癒すというその性質上、復元できる体積自体に限度がある。

 何より、傷は癒せても死者は蘇生できない。

 そんな摩訶不思議な現象を目の当たりにしながらも、天幕の隅に下がって様子を見守る若獅子には、驚いている様子がまっ

たく見られない。

 鬣を結い上げて侍のような風貌になっている獅子の顔に浮かぶのは、驚きではなく緊張。この治療を見るのは初めてではな

く、自身も以前これで負傷を治された経験があるので、いまさら驚愕する事は無い。

 ライキが案じているのは、何とか一命を取り留めたアクゴロウの傷が、これで本当に治るのかどうかという事だった。

 急所を外して即死は免れたものの、失血自体は深刻なレベル。後遺症が残ってまともに動けなくでもなったら、先代当主の

アクタロウが働ける体調にない今、世継ぎが出るまで神将は一角を失う事になる。

 …という思いは勿論あるのだが、ライキにとってのそれは建前に過ぎない。

 本音を語るなら、ひとえに幼馴染の身が心配なのである。

 久々の再会。急遽の当主交代だったため、まだ当主襲名の祝いすら言えていない。その上、間を置かずにこの戦となったの

で、出陣前に顔を合わせて軽い挨拶を交わしただけ。

 これまでどうしていたのか知りたいし、聞かせたい。積もる話は山ほどある。だが、思い出語りをするどころか、アクゴロ

ウはこの有様…。

(この体の無駄な頑丈さを、少しでも譲れたなら…)

 一瞬そんな事を考えたライキは、軽く頭を振った。

 どうにもならない事を考えるのは弱気になっている証拠。そんな事ではアクゴロウが目を覚ました際に向ける顔に曇りが出

てしまうぞと、己を戒める。

「ごぶっ…!」

 水音が混じった異音を耳にし、ハッとアクゴロウを注視するライキ。狸の口から、黒く濁った体液がゴポゴポと溢れている。

「そう慌てなさんな」

 低く押し殺した声は、治療に当たっている猿が発した物。

「しかしご当主!?」

「腹の中に溢れた血を、胃の傷を塞ぐ前に絞り出してやっただけさ。そんな事より、いつまでも突っ立っていないで、そこら

に座ってなさい。随分血を抜いた。いくら頑丈な鳴神でも相当堪えただろう」

 ライキは言われて初めて思い出したように、先程アクゴロウへ輸血するための血を抜かれた右腕の内側に触れる。

「いいえ。このままで結構です」

「相変わらず堅い。ライデン殿譲りと言えなくもないが、それは果たして皆にとって喜ばしい事かね?」

 ゲンナイが余所事を口にした事から、「手」術は間もなく、それも問題なく終わるのだろうと察してホッと表情を弛めたラ

イキは、

「…む?どういう意味でしょうか?」

 ゲンナイの言葉に違和感を覚え、訊き返す。

「お前、この坊主にもそんな態度で接していたんじゃあないのかね?」

 確かにそうだった。だが、アクゴロウは今や当主であり、立派な神将の一員なのだから、それは当然の事…。そう考えて口

を開いたライキは、

「喜ぶかね?この坊主は」

 そんなゲンナイの言葉で即座に口を閉ざす。

「患者の回復に元気は不可欠だ。薬や食事より効果的な物もあるんだって事は、判るかい?」

「…ええ…」

 頷いたライキは、アクゴロウの顔を見遣る。

 本当はあの時、「若当主」などとよそよそしく呼びかけて欲しくなかったのではないか?

 今になってアクゴロウの言葉を思い返すと、そうも感じられた。

(神経は太いが、寂しがり屋な面があったからな…)

「それはそうと…」

 ゲンナイの声がライキの物思いを中断させる。

 治療の余裕ができたのか、表情が幾分和らいだ猿が目を向けたのは、天幕の隅で地べたに置かれた担架。

 そこには、大型貨物船の繋留にも耐えるワイヤーロープで全身を縛られた、大柄な手負いの熊が寝かされていた。

 アクゴロウを護って帰還する途中で出くわした、神壊の眷属である。

 ライキの一刀を受けて力場ごと額が割られており、頭に巻いた包帯は真っ赤に染まっている。加えて、全身には遭遇前から

負っていた深手がいくつも刻まれているが、それでもなお、その熊は生きていた。

「治した所で無駄だぞ。奴らは絶対に口を割らんよ。これまで尋問で情報を吐かせられた例は無い。驚くほど多彩な手段で自

害している」

 死ぬまで息を止めて自害した者まで居たと、猿は鋭く目を細める。

 助けた所で情報は出ない。それどころか自害するのがオチ。事情に詳しいライキにとってゲンナイが言う事はもっともだっ

たが、一縷の望みをかけて瀕死の大熊を連れ帰っていた。

 今回で全て終わらせる為に、生き残りが居た場合の退路などをどうにか聞き出し、憂いを断っておきたかったのである。

「それでも…」

 言いかけたライキの声が途切れるのと、ゲンナイの手が止まるのは同時だった。

「………」

 半眼に目を開けた熊が首を捻って、ゲンナイと、その前の寝台に寝かされたアクゴロウを見遣る。

 ライキの反応は速かった。

 ゲンナイとアクゴロウを護るべく寝台と担架の間に素早く移動し、二人を背に庇って腰の黒木刀を抜き放った時には、既に

全身をうっすらと燐光で覆っており、鬣の毛先が熱でふわりと逆立っている。

 ゲンナイはアクゴロウの腹の中に手を入れたままで、臓物を修復中。手が放せる状態ではない。

 天幕に満ちた緊張で空気が粘度を上げる。

 いつでも攻防双方の動作が可能なように、半身に構えて木刀を水平に寝せたライキは、

(…む…?)

 熊の様子がおかしい事に気付き、眉根を寄せた。

 ぼんやりと三人を眺める熊の目は望洋としており、そこにあるはずの敵意や怒り、虜囚の恥辱は見られなかった。

 ここが何処なのか判らない。そんな当たり前の事も勿論あったが…。

「だれ…?」

 朦朧としたまま熊が発した疑問の声に、ゲンナイとライキは眉根を寄せる。

 目にも声にも敵意は無い。いや、それどころか警戒すらない。

「………?」

 続けて声を発しようとした熊だったが、言葉が出て来ずにつっかえてしまった。

「様子がおかしいな…」

 そんなゲンナイの言葉に返事こそしなかったものの、ライキも同じく熊の異常に気付いている。

「どこ…?だれ…?」

 すぐにはまともな会話ができないほど脳に深刻なダメージを受けた熊は、状況が掴めないどころか…、

「だれ…?おれ…、なに…?」

 もはや自分が何者なのかという事すらも、判らなくなっていた。

 きょとんとしながら戸惑う、逆神の眷属だった熊を前に、何も言えなくなったゲンナイとライキ。

 いつから鳴っていたのか、三人の耳は、終戦を報せる法螺貝の遠い音を聞いていた…。



「勝ったんかのぉ…?」

 立ち止まって呟く大熊。

 肩を貸している初老の獅子は天を見上げ、樹海のざわめきに混じる法螺貝の音色に耳をうごめかせた。

 裏帝とおぼしき遺体を発見した一隊が鳴らす終戦の報せは、しかし二人の闘士に安堵も満足感も与えてはくれなかった。

「勝った、と言えるのかどうか…」

「違いねぇや…」

 腰にぶら下げた、ひしゃげてしまった愛用の大徳利を見遣り、ユウキは口の端を皮肉げに吊り上げた。

「敵も味方もいっぺぇ死んだ…」

「元より、勝ち負けがある性質の戦ではなかった…」

 夜明け間近の風に鬣をなぶらせながら、ライデンが神妙な口調で応じる。

 しばし黙り込んでいたユウキは、やがてぼそぼそと呟く。

「やって悔いるなら、やらねぇで悔いた方がマシだ…。やったからには悔いちゃいけねぇ…」

 その口が、無理矢理ふてぶてしい笑みを形作る。

「儂らの勝ちだと言ってやらにゃあ、死んだ仲間が浮かばれねぇ。ざまぁみろ参ったかと言ってやらにゃあ、殺した敵が困っ

ちまう」

 そう言ったユウキの横顔をちらりと見遣り、ライデンは顎を引いて瞑目した。

 乱暴で無茶苦茶な独自の観念。しかしそこには、死者への確かな想いがある。

 こんな男だからこそ、鬼神の二つ名で呼ばれるのだろう。

「それもまた、生き延びた者の義務か」

「そんな高尚なモンでもねぇけどな…」

 やがて、二つの影は再び動き出した。

 戦は終わっても、やるべき事はまだまだ残っている。部下を纏め、被害状況を確認し、残党が居ないか捜索もしなければな

らない。

 それでも…。

(みっともねぇ身内同士の殺し合いも…、今回で終いじゃ…)