第二話 「隠神刑部」

 三百年ほど昔、帝の跡継ぎとして男子の双子が生まれたのが、事の起こりだった。

 御柱解放と封印の力がそれぞれに分かれて発現したその双子は、先帝が後継者を定める前に崩御してしまった事で、各々が

帝を名乗り、正当性を巡って争った。

 御柱を利用し、国の発展に利用すべきと主張する、解放の力を持った弟。

 御柱を危険視し、封じたままにする事を主張する、封印の力を持った兄。

 この際、神将十二家は御柱は封じておくべきという結論に至り、正当な帝と見なした兄の側についた。

 だが、対立する弟の側にも、神将の血縁にあたる分家筋などの一部が味方した。

 この時、当時の神代家は二つに割れた。

 当時の当主は弟帝の元につき、ユウキの先祖となるその弟が、当主代理となって兄帝の元に馳せ参じたのである。

 その後、十数年に及ぶ暗闘の結果、弟帝側が敗北した。

 しかしこの時、弟帝の一人娘は生き残った逆神達家臣に匿われ、何処かへ落ち延びている。

 この戦において敗れ、追われた側…、つまり正当な帝と見なされなかった弟の血筋は裏帝(りてい)と、帝に反旗を翻した

神将家の類縁達は逆神(さかがみ)と、それぞれ呼ばれる事となった。

 だが、それで終わった訳ではない。

 落ち延びた裏帝の子と逆神達は己の正当性を主張し続け、帝を戴く神将家と、今日に至るまで三百年にも渡って暗闘を繰り

広げて来た。

 時には当主が討たれ、時には帝の跡継ぎが命を奪われ、また逆神も屠られ、裏帝の血縁と目される者も数名殺害された。

 ユウキの祖父も、その前の代の家長も、逆神との戦いで命を落とした。

 それに憎しみを募らせたという訳ではないが、立場上逆神との戦に身を投じねばならなかったユウキも、幾度も死にかけな

がら逆神の眷属を幾人も殺めた。

 そして気付けば奥羽の鬼神と呼ばれるようになり、その働きによって宿願が果たされる寸前にまでになっていた。三百年近

くに及ぶ代々の家長の望み…、神代家の正式な神将復帰という宿願が。

 此度の戦を終えれば、神代家は正式に神将として復権する。そしてユウキは三百年という時を経て「神将神代家」の当主と

なる。神将としての神代最後の当主が十六代目だったので、ユウキは十七代目とされる予定だった。

 だが、神将復帰という宿願が叶ったその土台に、逆神一派の血と屍が添えられた事実を、ユウキは決して軽視していない。

 正々堂々果たし合った末に自分が討たれても恨むつもりはない。元より強者との潰し合いを歓迎していた自分が、いざ屠ら

れる側に回った途端に「お恨み申す」では情けなかろうと思っているので。

 戦で死ぬなら本望。そして、その事を家族に引き摺って欲しくはないと思っている。だからこそ、息子には言ったのだ。

 自分が死んでも流されるな、と。

 憎しみに、環境の変化に、その他様々な物に、流されはするな、と。

 だが、まだ若い息子に自分の心境と考え方を察しろというのはなかなかに難しいだろうとも思っている。故に、できればも

う少し生きて、ユウヒがきちんと父親の生き方を理解できるようになるまでは、傍で指導してやりたいと考えている。

 無論。夜明けを生きて迎えられればの話だが。

 血で血を洗う永い闘争にも、ようやく終止符が打たれる時が来た。ユウキは今そう思っている。

 ついに突き止められた裏帝の隠れ里の位置。そこを全兵力を持って叩き潰すこの戦が終われば、もはや同じ神将の祖を持つ

者同士が殺しあう戦は起こらない。

 だからこそ、今宵は何が前に立とうと、打ち砕き、捻り潰す心積もりだった。

 例え、敵として目の前に立ったのが幼子だったとしても…。



「こいつは恐れいった」

 傍らの巨木を見上げ、巨体の熊親父が呟く。

 綱を帯と襷にかけ、金剛力士の羽衣のように背面で輪を拵えたいでたちの巨漢は、深い木立の中でたった一人、佇んでいる。

 後ろを振り返っても、左右を見回しても、前方に目を凝らしても、最前まで一緒に居た御庭番衆の姿は見えなかった。

 普通に歩いていた。警戒はしていたが、駆けた訳でもなく、はぐれるような道を歩んだ訳でもない。それなのにユウキは今、

木々の間にたった一人で立っていた。

 景色は先ほどまでと変わらない。ただ忽然と、自分以外の者達が消えてしまっている。

「見事な幻術じゃ」

 感心すらしながら、ユウキはざっと辺りを見回した。神代の御庭番だけではない。既に敵と接触し、交戦していた他家集団

の気配も無い。

 ユウキ達神代一派の右方向は鳴神、その一つ向こうには大神が、それぞれ総員掛かりで進軍していた。戦闘開始から操光術

の破砕音と光が樹上に抜けて、感じ、見えていたのだが、今は静かな物である。不気味なほどに。

「神ン野(じんの)の分家筋とは、これまでに何度もやり合ったもんじゃが…、ここまでの使い手はおらんかった」

 そう言いながら、ユウキは軽く目を閉じ、耳と鼻で周囲を探る。

 味方の気配は感じられない。が、動くのは得策ではない。そう思った次の瞬間には、ユウキは目を開け、足を止めた。

 歩いたのは五歩と、振り返って確認する。

 神経を音と臭いに集中させている間に、足が勝手に進んでいた。

「ふむ…。認識にちょっかいをかける作用もあるか。無意識に足が進んで深みにはまるとは…、厄介じゃ」

 相手の術中に落ちた事は判るが、どう破るかというのが問題だった。

 自分達がどんな状態にあるのかは察しがついた。他の御庭番が自分と同じく孤立しているだろうと。

 ただし、現実にはそう離れてもいないはずだった。

「原理としちゃあ、アイツか?」

 ユウキは腰に吊るした焦げ茶色の大徳利…黒金脅しに手を伸ばし、持ち上げる。

「思念波で認識に干渉したんじゃな。…そしてこいつは、術者本人が近付いて来ても判らん。傷を負わされた事すら認識でき

ねぇ可能性もあるなぁ。おまけに辺り構わず手出ししちまえば、味方が怪我をするって寸法か」

 言葉を切り、徳利の栓を抜いてグビッと酒を煽ったユウキは、頬を膨らませ、口内一杯にそれを溜めた。酒とは言っても特

別に蒸留された高濃度アルコールであり、口内の粘膜と舌がビリビリする。

 ユウキはそれを飲まず、口を尖らせて霧状に吹き出した。

 むわっと漂う強烈なアルコール臭が、ゆるい風によって木立の中を運ばれ、広がって行く。

 しばしその場に佇んでいたユウキは、徳利を掴んだままの腕をおもむろに上げ、

「そこじゃあ!」

 何も無い、木と木の間めがけて投擲する。

 強烈なアルコール臭で集中に僅かな乱れが生じたのだろう。神将特有の鋭敏な感覚が、刹那揺らいだ幻術の向こうから露出

した敵の気配を掴んでいた。

 大気を破砕して砲弾のように飛んだ黒金脅しの先で、その、何も無いように見えた空間から何者かが横へ跳ぶ。

「出よったな!」

 ニィッと獰猛に口の端を吊り上げるユウキ。その瞳には漆黒の作務衣を纏った大狸の姿が映りこんでいる。

 ユウヒは徳利を放ったその手で口に結ばれた紐を掴んでいるが、その全長は元の30センチを大きく超え、今や15メート

ル以上にもなっていた。

 紐は縒り目が解けて伸びている訳ではない。よく見なければ判らない事だが、ユウキの手元で紐の縒り目が半透明になって

ぶれたかと思えば、重なったままずれ、それらの端が触れ合った所で実体化している。縒り目自体が分裂し、その全長を伸ば

していた。

 その紐を握った逞しい腕が、制動を加えて徳利を引き戻す。同時に踏みしめられた足が地面を浅くえぐり、徳利を引き戻す

ために生じた反動の大きさを物語った。

 狸を後方から強襲する大徳利は、さしずめ鉄球といった所か。気配を察して地面に伏せた狸の上を徳利が通過する。黒い縁

取りの中からユウキを睨む狸の瞳は、一般人でも視認できるほど強烈な思念波感光を引き起こし、赤茶色に輝いていた。

 引き戻されると、今度は紐の縒り目がユウキの手元で減っており、徳利が引き戻されながらもたるみが出ない。

 たるみが生じないが故に徳利の制動はタイムラグが極めて少なく、動きが速い。神経質なほど動きが精密な巻き取り機でも

取り付けてあるかのように、常にユウキの制動に備えた長さのまま、瞬時に延長と収縮をおこなう。

 物質と非物質の境目にあるこの紐は、現在調停者が所持し得る最高峰実体剣ジルコンブレードでも切れ目すらつかない強靭

さを持ち、所持者の意図に応じて自在に長さを変える。それが捕縛用遺物…不動索の性質であった。

 もっとも、神代家は元来レリックとの相性があまり良くない。適正の無さを補うために、ユウキはこの不動索を三十年以上

に渡って使い慣らし、自分の思念波を馴染ませ、同時に思念波コントロールの修練も積んで来た。その結果、適正者と遺物の

間に見られるような高い親和性が生まれている。

 手元に戻った大徳利を、腰を沈めた前傾姿勢になり、右手で受けるユウキ。砲弾を受けるに等しいそれは、燐光を纏わせた

掌で止めてもなお、熊の巨体を抜けた振動が、ズシンと地面を震わせて突き抜ける程の物だった。

 徳利を掴んだ腕を下げ、棒立ちの状態に戻るユウキと、身を起こす大柄な狸。

 熊の瞳が相手の姿をじっくりと観察する。

 年の頃なら三十路前後に見えた。腹が出た狸らしい体躯だが、大柄で筋肉質、尾と模様さえ無ければ熊種と見紛う程の筋肉

量。そして…。

「その赤く光る目ん玉ぁ…。そうかそうか…、大当たりじゃ」

 目を細め、口の端を吊り上げ、野性味の濃い笑みを浮かべるユウキの周囲では、術の解除に伴ってお互いを認識できるよう

になった御庭番達が、変化した状況からの開放で戸惑っていた。

 無言でユウキを見つめる狸は、敵味方含め、自分以外の者の姿を認識できなくなるという驚異的な幻術を披露した。

 もしも術を解けなければ、敵を認識できないまま傷を負わされていた。それだけではない。もしも恐慌状態に陥った誰かが、

見えないながらも手当たり次第に周囲を攻撃していたならば、味方同士で被害を出す所だった。

 隠神(いぬがみ)の眷属と幾度か相対した経験から、幻術破りとして集中を乱すという打開策を編み出し、今日も特製の高

濃度アルコールを持参して来ていたユウキだが、対処を誤ればどれだけの痛手を被っていた事か…。

「ユウキ様。これは…」

 即座に歩み寄った山羊が問うも、ユウキは獰猛な笑みを崩さない。

「皆は回り込んで先に奥に行っとけや」

 そう言ってユウキがしゃくった顎の先、狸の後方では、木の間に張られた太い注連縄が揺れている。

 その下には作務衣や着流しに身を包む、百年の時を越えて来たかのような古めかしい衣装に身を包んだ獣人達。

 その注連縄こそが、大狸が隠していた「目的地」を守る外側の要の一つだった。

「儂らが「びんご」じゃった。あそこが神ン野の倅が言っとった、隠れ里を囲む境界軸の一つじゃろう」

 ユウキの笑みが深くなる。

 血が滾る。強敵を前に闘争本能が刺激され、常は腹の底に潜めている獰猛な面が顔を出す。

 常は凡夫を自称し、奔放にのんびりと過ごし振舞う彼が、奥羽の鬼神とあだ名されるのは、強敵との潰し合いを好む血の気

の多さ故である。

 その彼の血が、この大当たりに歓喜していた。

 今回の奇襲において、帝勢は敵側のおおまかな潜伏位置を掴んではいたが、裏帝の隠れ里その物の姿は何処からも見えてい

なかった。

 これは隠神の血に連なる眷属達が幻術でカバーしているせいだと察しはついていたが、今目の前に居るその男こそが、本命

中の大本命だと、ユウキは直感している。

「爺、指揮は任せる。儂は…」

 ユウキはちらりとヤギを見やり、それから狸へ目を戻した。

「ソコのに用事がある」

 ヤギもまた大狸を見やる。身の丈180を軽く超え、酒樽のような胴に逞しく筋肉が盛り上がった四肢…。彼が知る本流、

神ン野の当主とは随分と印象が異なるが、彼が纏う常軌を逸した圧力は、御庭番が束になってかかっても勝ち目がないと確信

させるに十分だった。

「御武運を…」

「おうよ」

 短く応じたユウキの傍から素早く離れ、御庭番頭は手勢を纏めて注連縄による陣の破壊に向かう。あれさえ破れば広域幻術

は解け、隠れ里は露になるはずだった。

 回り込もうとする御庭番達を阻みたくとも、ユウキとの睨み合いが続いて動くに動けない大狸は、すぅっと息を吸い込むと、

大喝するようなどら声を発する。

「防げよヌシらぁ!御館様には決して寄せるな!」

 その声に応じ、注連縄を守る集団が鬨の声を上げ、御庭番達を阻むべく前に出る。

 大狸を迂回して回り込んだ御庭番達が、注連縄とユウキの調度中間にあたる位置で裏帝の守り手達と戦闘に入り、たちまち

剣戟の響きと気合の声、能力による炸裂音や高い風の音が響き出す。

 聞き馴染んだ騒がしい即興曲を耳にしつつ、ユウキは笑みの形にゆがんだ口をおもむろにあけた。

「帝直轄奥羽領守護頭、神代家当代家長、神代熊鬼じゃ。おめぇは…、今の隠神じゃな?」

 大狸は半眼にした目で巨漢を見据えながら、口を僅かにあける。

「いかにも。ワシが当代の隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)よ。名は幾度も話に聞いていたぜ、神代の…」

 静かな声とは裏腹に、ギョウブと名乗った大狸の双眸では憎悪の炎が激しく揺れている。

「ワシの親類縁者は、十数年前まで八十八も居った。ところがだ、今じゃあ結界を維持するのにもぎりぎりしか居らん」

 その眷属激減に一役買っているのが、目の前の巨漢…ユウキだった。ギョウブが彼に抱く憎しみは当然とも言える。工作の

為に外界に出向いたまま戻らなかった七十名の内、約半分は、ユウキが屠って神代家神将復帰の礎としたのだから。

「ほうほう。そいつは難儀じゃ…。もっとも、キツいならお役目なんぞ投げ出せば良いとは思うが?」

 憎悪の圧力すら涼風程にも感じていないのか、ユウキはとぼけて応じる。この挑発行為でギョウブの瞳が赤光を強めた。

 思念波の異常増幅によって感光した瞳が、赤茶色の光で目全体を染めている。その特異体質は、神ン野家始祖の血を濃く引

いた証でもあった。

 ぶらりと下げられた大狸の両手から、するるっと銀色の帯のような物が下向きに伸びる。直後、それは鍔の無い白木柄の刀

に変じた。

 それは実体を持たない幻である。ただし、切り付けられれば体は裂傷を負う。

 補助する器具もなしに物理現象すら引き起こす神ン野と隠神の幻術は、その凄まじい思念波濃度によって脅威の技となる。

ギョウブが生み出したその刀は、実体を持たないながらも対象を切り殺せる、危険な幻だった。

 思念波の共鳴干渉によって、幻の刃で斬られれば実際に身が切れてしまうその攻撃は、物理的な手段では防げない。ユウキ

の操光術でも防御はできず、力場を抵抗無く突き抜け、肉体にのみ傷を与えて来る。その対策としては、

(制すは先手!勢いでそのまま押し潰す!)

 なのだが、ユウキは頭に浮かべたその言葉を即座に消した。

 容易く仕留められる相手でない事は先の身のこなしで理解した。強引に攻めても押し切れるとは限らない。

(楽しいなぁ、おい!)

 ユウキは笑う。一筋縄ではいなかい久々の強敵を前に。

「よぉし。それじゃあ一つ、真面目にやるか」

 呟いて腰を落とし、肩幅に足を開いたユウキは、左腕を前に出して肩の高さで翳し、右腕を引いてひたりと脇腹に添え、半

身になって構える。

 対策としてユウキが選択したのは正攻法。防げない刃をかわしつつ攻撃をねじ込む、白兵戦だった。

 野球グローブのような大きな手は脱力して開かれ、拳を握り込んでいない。大地をしっかりと踏み締めながらも、上体は適

度に脱力している。これは神代流古式闘法における基本の構えであり、ユウキが最も好み、最も得意とする物でもあった。

 前に出した左手は牽制と防御を、引き付けた右手は必殺の重撃を放つ、攻守両立の構えである。

 一方ギョウブは両手を体の脇にだらりと垂らした姿勢。それは一見すると構えにも見えない構え。

 やや踵を浮かせ、前後左右どの方向にでも上体を傾けて初撃をかわす。そしてどんな姿勢からでも左右どちらか、あるいは

両方の刃を繰り出す。 

 その反撃に体重と膂力は必要ない。物理的防御が不可能な幻の刃はそれ自体に重さが無い上に、切り付けた事で抵抗が生じ

る事も無い。ただただ素早く、撫でるように、触れさせさえすればそれで良い。斬撃にかかるのは、自分の腕の重みとそれに

かかる空気抵抗だけ。

 構えたユウキがじりっと足を進め始める。感嘆しながら。

 これまでに相対して来た隠神の眷属達にも、似たような術を使う者が幾人か居た。だが、この極めて実体に近い幻は維持す

るだけで思念波を大量消費してゆく。これまでにこの術をユウキに見せた者は、その全員が接触してからの短時間だけ出現さ

せていた。

 ところが、ギョウブはそれを出したまま、急いて攻め込んで来る様子も見せない。これは維持に余裕がある何よりの証拠。

加えて、隠れ里を守る幻術結界も一部が綻んだだけで、致命的な崩壊は起こしていない。

(どれだけの「きゃぱしてー」があるんじゃコヤツ?ふん…。ますます本物じゃ…!)

 ユウキは牙を剥き出しにして笑う。これまでの眷属とは段違いの力を備えた逆神、隠神の当主の技量が、彼の身に濃く流れ

る神代の血を滾らせる。

 逆神側の当主とはいえ、その力は決して神将達に劣る物ではない。帝の世を終わらせ、裏帝を御座につける事を目的に活動

して来た彼らは、直接戦闘に向かない神将と比べれば、殺傷力という点で上回る者もある。ギョウブは正にその、「抜き出て

危険な逆神」に分類される存在だと、神代の当主は判断した。

「いざ!」

 一つ吼え、ユウキがわき腹につけていた右腕を突き出す。十数メートルの間を空けたまま繰り出された正拳突きは、しかし

威嚇でも挑発でもない。突き出されつつ纏った燐光が輝きを強め、拳を包む光が突き出す勢いそのままに手から離れ、宙を駆

ける。操光術を戦闘用に研鑽し、鳴神家が編み出した古式闘法の基礎、放出型の遠当てである。

 が、ユウキの動きをよく見ていたギョウブは、大柄で太い体躯を柳の葉のようにふわりと横へ流し、高速で迫り来る光の軌

道から退いた。

 雷音破(らいおんぱ)。操光術を用いる神将や逆神、そして御庭番であれば、いの一番に体得するその技は、個人の技量で

差が生じるとはいえ、極めて汎用性が高く便利な物だった。

 逆に言えば、手の内を少しでも知る者であれば、使用者と相対した瞬間からまずこの技を念頭に置いて立ち回るため、単に

正面から撃っただけでは決定打になり得ない。

 光弾の軌道から退きつつ、間合いを詰めようと考えたギョウブは、しかし右腕と入れ替わりに引かれたユウキの左腕が眩く

発光している事に気付き、赤く染まった目を鋭く細める。

「雷音烈破!(らいおんれっぱ)」

 咆哮とともに繰り出された左拳から、続けて光弾が飛ぶ。先の光弾を、それ以上の速度で追いかけるように。

 右腕で放たれた光弾がギョウブの傍に至ったそのタイミングで、左腕が発した光弾が追いつき、接触。即座に力場が破砕さ

れて熱と衝撃が発生し、目を焼くような閃光が弾けた。

 古い技が逆神達に知られている事から、鳴神、大神、神代の三家は、彼らとの戦闘に備えて操光術を改良発展させて来た。

この技も逆神が袂を分かってから生み出された物であり、ギョウブはその存在を知らなかった。

 高熱と衝撃が球状の範囲で暴れ回り、ギョウブの姿はどこにも見えない。が、ユウキは油断せずにゆっくりと足を進め、追

撃の構えを崩さない。

 閃光の炸裂から三秒後、大狸は光の中から飛び出した。

 作務衣の上着を脱いで上半身裸になり、幻の刀を消した右手でそれを掴んでいる。

(ふん…。鵺の毛でも編み込んであるんじゃろうか…?)

 作務衣が防壁となって力場の炸裂を防いだと見て取ったユウキは、そのまま作務衣を放り捨てて駆けて来るギョウブを迎え

撃つべく、腰を沈めた。

 大柄な割に素早い動きを見せるギョウブ。彼我の距離が瞬く間に埋まり、狸が刀を振り上げ、ユウキが左拳を打ち出そうと

したその直後、疾走して来た狸の姿が薄れ、向こうが透けて見える。

(幻体か!)

 瞬時に伏せたユウキの上を、横手から水平に振るわれた刀がなぎ払う。だが、巨漢は回避と同時に、四つん這いの姿勢から

左手を地面に打ち込んでいた。

「蒼火天衝!(そうかてんしょう)」

 右手側に出現していたギョウブの足元が発光し、光の柱が噴出する。直径2メートル程の光柱は、刀を振るったギョウブの

右腕を除く全身を飲み込んでいた。

 が、その右手がすぅっと霞む。

 ハッとしたユウキが首を肩ごと横へ振った直後、その眼前を銀光が通過した。

 先の爆発から飛び出して駆け寄ってきた幻体を追うように、本物のギョウブが幻で姿を消しつつ駆け込み、一刀振り下ろし

ている。

 二度の幻術はいずれも看破が難しい精密な物で、本物との見分けはつかなかった。

 ユウキの鼻が浅く切れて、血の玉がふつふつと数珠のように浮く。

 その血が即座に宙へ飛び、飛沫となった。ユウキが急激な動きを見せたせいで。

 四つん這いで上体を左側へ傾けた、獣じみた姿勢から、ユウキは独楽のように体を旋回させた。

 軸となったのは地面に打ち込んだ左拳。そこを中心に体操の鞍馬を思わせる動作で下半身を地面すれすれで振るっている。

 肥満体の巨躯からすれば信じ難い芸当だった。地面に打ち込んだ腕に、急な動きを強いられた腰に、駆動する筋肉に、どれ

だけの負荷がかかっているのか見当もつかない。

 外骨格として纏った力場で体への負荷を減じているユウキは、揃えて振るったその丸太のような両足に激しい衝撃を感じた。

「ぐっ!」

 咄嗟に左腕と足を上げて防御したギョウブが唸る。

 叩き付けられた両足の威力で、受け止めた手足がミシミシと悲鳴を上げ、その直後には木っ端のように吹き飛ばされる。だ

が、ただ蹴り飛ばされた訳ではなかった。

(ふん。跳んで勢いを殺されちまったか…。やるもんじゃ) 

 十数メートルも飛ばされたギョウブは、前傾姿勢で後ろ向きに着地すると、体の痺れも無視して再度突進、途中で姿を消す。

 ギョウブが消えたその空間を雷音破が通過し、その左右に二人のギョウブが出現する。

「くくっ…!面白くなって来たなぁ!えぇおい!?」

 迫る二人のギョウブを前に、ユウキは笑う。血が滾る強敵とのぶつかり合いに歓喜しながら。



 一方その頃、隠れ里を挟んでユウキ達とは反対側の位置では…。

「まがるなぁ」(意訳:邪魔だなぁ)

 行く手に聳える巨木の間に張られた注連縄を目に留めると、背が低い鏡餅のような狸が首を起こし、結界の軸を見上げた。

そして首を傾げ、ぷっくりと肉付きの良い頬に人差し指を当て、何やら考え込むような仕草を見せる。

 注連縄の下には武装した敵方の守り。中には数名狸の姿が見え、彼らが結界を維持する幻術使いだと察しがついた。

 狸の背丈は160と少し。しかし体重は130。でっぷり肥えた脂肪太りの体型で、歩く度に太鼓腹や乳房やら尻やらがタ

プタプ揺れる様は、ゴムが伸びきった水風船を連想させた。

 前を大きくはだけて赤紫の着物を羽織って、ポヨポヨと締まりのない布袋腹を露出させており、ハーフパンツのような膝上

までの裾が短い下穿きを身につけ、草履をつっかけている。

 両手首、両足首には玉の小さな数珠がぴっちりとはめられており、それが薄赤く燐光を放っている。

 とてもそうは見えないが、このいささか緩い格好こそが彼の戦装束だった。

 狸の名は神ン野悪五郎日影(じんのあくごろうにちえい)。当年とって二十三の若狸は、現役最年少の当主である。

 昨日までは父の悪太郎木影(あくたろうこかげ)が当主だったのだが、歳と不摂生な生活のせいで数年前から体調を崩して

おり、今回の御役目を機に当主引継ぎが行われた。

 もっとも、急だったために引継ぎの儀を帝の前でおこなっただけで、神将家現当主達へのお披露目はまだ済んでおらず、こ

の大戦が済んだ後に当主としての挨拶回りをおこなう予定である。

 無論、無事に生き抜ければの話だが。

 強烈な思念波に反応し、本来鳶色のアクゴロウの瞳は、内から滲み出させるように赤光を放っていた。

 これは神ン野の始祖の血を濃く継いでいる者に見られる特徴的な現象で、能力ではなく、破幻の瞳と呼ばれる特異体質の一

種である。高まった思念波に感光して赤く光るその瞳は、大概の幻術を易々と看破し、実体を捉える。

 ギョウブが技巧を凝らしてユウキ達に仕掛けた高度な幻術ならばともかく、眷属が張ったまやかしであれば、注連縄で精度

を上げてもなおアクゴロウの目をごまかすには至らない。

 周囲の者の目には高さ10メートル程の石垣が映っているが、この破幻の瞳を持つ彼だけはそれを透かして実際の光景を見

ている。

「この壁の向こうに隠れ里が…?」

 彼と配下の御庭番達に同行していた帝の近衛長が、幻の石垣を見上げて漏らす。ついに敵地の外壁へ辿り着いたと意気込む

彼の横で、

「行けんわぁ、これまやかしや」

 アクゴロウはふるふると首を横に振った。

「まやかし…ですと?これがですか?アクゴロウ殿…」

 初老の護衛長は人間で、既に総白髪。実直で生真面目そうな顔には皺の年輪が深く刻まれているが、アクゴロウに対する口

調や態度は目上の者へのそれとなっている。

 頷いた狸は告げる。実際には石垣など存在せず、その奥に結界の陣を支える軸である注連縄があり、その下にはそれを守護

する敵方の守り手達がひしめいている事を。

「壁の向こう…いや、中に敵!?ではどうやって…?」

「ちょぉ待っときぃな、ぼくが今めがすでよ」

 鏡餅のような狸が発したやや高い声に、近衛長が「は?」と眉根を寄せる。

「あー、ゴメンなぁ?少し待っててなぁ、今壊すから。って言うたの」

 独り言として馴染んだ方言が出てしまったアクゴロウは、ペロッと舌を出して笑う。下膨れの顔と相まってその表情は少年

のようでもあった。

「皆、突撃準備しとってね?ぼく術破りしてみるわぁ」

 御庭番や帝の近衛兵達を振り返ってそう言うと、アクゴロウは腰に吊るした木槌を手に取り、しげしげと眺めた。

 大黒様の小槌にも似た形状のそれは、太古からの好敵手にして茶飲み友達でもある古狸の一派、山ン本衆(さんもとしゅう)

からこの日の為に借り受けた神具で、名を魔王槌という。

 劇的な作用を持つ遺物であり、その機能は神ン野家にとって天敵とも言える物だが、同時に隠神にとっても致命的な品であっ

た。江戸時代に志国で起こった神ン野と隠神一派の戦では、当時の神ン野家当主がこの小槌を手に、たった一人で隠神勢を壊

滅させ、生き残りを志国から追い出している。

 伝説の神具を手にし、それを興味深そうに眺めているアクゴロウを、近衛長はやや不安げな面持ちで見つめていた。

 急遽当主になったこの若者の経験不足を心配している事もあるが、何よりもおっとりのんびりしたその言動で不安になって

いる。戦場に居るという自覚が無いのではないかとすら思えていた。

 が、それはアクゴロウという青年を完全に見誤っているが故の不安だった。

「このまやかし、ごっつい手間かけとる。おぶけるわぁ…」(意訳:このまやかし、とても手間をかけている。驚いたなぁ…)

 そう感心して呟きながら、アクゴロウは垂れ目気味の双眸を赤々と強く輝かせた。