第二十話 「薬師神元内」

(スルトは目的を達し、裏帝派は表向き壊滅…。シナリオとしては悪くない結末に至りましたね)

 灰色の髪を夜風になぶらせ、ロキは火の手がまだ収まっていない樹海の一角を眺める。

 戦線離脱成功。スルトも既に樹海の際まで後退し、移動を終えようとしている段階。成果は上々と言えた。

 男の子は通信機に触れ、口を開く」

「ヘル。作戦終了です。迎えの手配をお願いします」

『あらぁ?再出撃準備が終わったんですけどねぇ先生』

「やる気のところ済みませんが、次回にしてください」

『あらあら、仕方ないわねぇ。そうしますか』

「神崎が健在だったらもう少し手こずったでしょうが、思いのほかあっさり退却できました」

「「退却できた」…。何で過去形なんスかね?」

 弾かれたように振り返ったロキは、素早く右手を水平に振るう。

 その手刀から放たれた鎌鼬は、何もない空間を突っ切り、複数の木々を上下に分断したが…。

「何処見てやがんスか?えぇロキ?」

 太い声は、ロキの左手側。

 風呂敷が翻るように景色が捲れ、姿を現したのは、夜闇に溶け込む戦闘服を纏った白い巨体。

『先生?どうしまし…』

「状況が変わりました。こちらへの迎えは不要です」

 一歩後退したロキは、やれやれと首を縮めた。

「災厄と出くわしました」

 その言葉だけで事情を悟ったヘルによって即座に通信が切られ、ロキは風の障壁を纏って後方へ跳ぶ。しかし…。

「遅ぇっス!」

 一足跳びに間を詰めたジークの腕が、愛剣を袈裟に振り下ろし、RPGの直撃にもゆうゆう耐える障壁をあっさり断ち割る。

 危うい所で辛くも剣先から逃れたロキは、剣を振り下ろしたジークの顔めがけて手を翳した。

 そこに灯るのは、青白い雷光…。

 刹那、ロキの前方へ青い稲光が駆ける。避けられるスピードでもタイミングでもなく、雷電の直撃を浴びるジーク。

 だが、白い災厄は倒れない。全身を絡め取るように走った青い稲光を、蒸気を吹き出させる体に纏わりつかせたまま、さら

に一歩踏み込んで逆袈裟の一撃を繰り出す。

 ロキの雷撃は効いていない。ジークを直撃した雷撃は、しかしその巨体から噴出される蒸気に阻まれたように、体表から少

し離れた高さを駆け巡っただけだった。

(状況を鑑みるに、今からスルトを探す余裕はねぇっスからね。ニブル使い切っても問題ねぇっス)

 激しく噴出する蒸気をたなびかせ、ロキに迫るジーク。

 二撃目が術士の肩口を胸元から切り上げる形で掠め、そこから唐竹割りに転じた一刀は、ロキの前髪を一房斬り散らす。

 反撃に出るロキの右手が、その手の平に圧縮した空気の塊を作り出す。

 殺傷力ではなく、それを炸裂させる事で彼我の距離を開こうとしたのだが…。

「どっせぇ!」

 垂直に振りおろし、地面に剣先をめり込ませた大剣が、気合一閃分厚いブーツで蹴り上げられる。

 ぱっと散った赤と、白、そして桃色。

 ヴァルムンクが、ロキの右手を圧縮した大気ごと粉砕していた。

 圧縮を解かれた空気が一気に拡散し、粉々の肉片になったロキの右手がそこに血霧の赤を混ぜる。

 爆風並の衝撃をまともに食らって吹き飛ぶロキと、浴びながらも踏み止まり、睨み付けるジーク。その金眼が、瞬間的に強

く輝いた。

(戦闘続行は不可能ですね。幸いにも間が離れましたから、このまま障壁を張り直し、離脱を…)

 激しくスピンし、衝撃波で叩かれて肌が裂けた全身から血飛沫を撒き散らしながら、ロキは障壁を纏い直す。だが…。

「逃がさねぇっス!」

 咆えた北極熊は、既に間近に迫っていた。

 得物を握らない左手が、まるで熱湯を撒かれた雪上のように激しく蒸気を発散させつつ、平手で障壁を叩き、そのままずぼっ

と、手形の穴を空けて突き破る。

 目を見開いたロキの細い首は、その直後に野球グローブのような手に掴まれ、「グヂュッ」と、「ボギッ」が混じり合った

音を立てた。

 バシュッと炸裂音を立てて霧散する障壁。

 間を詰めた勢いそのままに、ジークはロキの首を掴んだまま弾丸のような勢いで前進し、行く手の大木へ叩きつける。

 後頭部が大きくへこみ、眼窩から目玉が飛び出したその顔面へ、ヴァルムンクの柄を掴んだままきつく握り込まれた白い拳

骨が、体重を乗せて打ち込まれた。

 バンッと何かが爆ぜるような音が響き、停止したジークと大木の間で赤い霧が舞う。

「前にも増して…、背、縮んだんじゃねぇっスか?オチビさん」

 皮肉を言って口元を歪めた巨漢が左手を振ると、首から上が無くなったロキの体がドチャリと地面に投げ出された。

 返り血塗れの凄まじい面相で見下ろすジークの前で、ロキの死体はサラサラと塵になって崩れ、衣類とグリモアだけを残し

て消え去った。

「…さてと…」

 規格外に大きいロキのグリモアを拾い上げたジークは、襟元に指で触れて口を開く。

「…オレっス」

『はい。無事?』

「ちょいと小腹が減った以外は」

 この状況でタフな冗談が言える北極熊の神経に、通信相手のブリュンヒルデがクスリと笑う。

「赤は取り逃がしたっスけど、小さい灰色は一回やれたっスよ」

 さらりと告げたジークだが、ヒルデは嘆息している。「魔人」ロキを事もなく仕留められる存在など、人類史を振り返って

もどれほど居るのか、と…。

 しかしこの戦果に特別な感慨も持っていないジーク当人は、何でもない事のように先を続けた。

「本は持って帰るっス」

『回収するの?でも…、追跡されるんじゃ…?』

「願ったり叶ったりっス」

 ジークは鼻を鳴らして笑った。

 このグリモアがロキの手持ち全てではないが、貴重な物である事は間違いない。ロキは必ず奪い返そうとする。

「今まではこっちが探し回るしかなかったっスけど…、今度はあっちが、血眼になって探し回る番っス…!」

 不敵な笑みを浮かべたジークは、伴侶との通信を終え、落ち合うポイントに向かって歩き出す。

 途中一度だけ振り返ったその金眼は…、

(やっぱり、神崎の探査は働いてねぇんスよね…)

 友人の死を確信し、物憂げに細められていた。



 帝の本陣に、次々と怪我人が運び込まれ続ける。

 その中にはライデンに肩を借りたユウキの姿もあったが…、

「大神の翁が重傷です!」

 瀕死の狼が火傷を負った体の大部分を包帯で覆われた状態で運び込まれ、大騒ぎになった。

 そのしばし後に、大神の当主とその妻、そして長男と思われる無残な死体が焼け跡から発見され、別の場所では神崎の御庭

番達の一部が焼死体で見つけ出された。

 神崎当主の遺体は、他の遺体ともども引き上げられた後に、本人の物と確認された。

 命を繋ぎ止めるだけで手一杯のゲンナイは、不眠不休で翌日夕刻まで術を連続使用し、その間にも樹海の捜索と隠蔽工作は

続けられ、あっという間に日が過ぎて行き…。











 太い指が、ぐっと握り込まれる。

 そうして作られた拳の周囲に、微かな光の粒子が漂ったかと思えば、一瞬後にはガスに火がつくように、ポッと燐光が全体

を覆った。

「う〜む…。まだイマイチしっくり来んなぁ…」

「当然だ。半分千切れた腕を無理矢理治したのだからな。本調子になるまで最低でも半年はかかるだろうし、指先の微細な鈍

りは一生元に戻らんだろう」

 左手の五指を握り、開き、ワキワキと動かしたユウキに、カルテを見つめながらゲンナイが応じる。

 ユウキは片肌脱いで、歳のせいで弛みが増しているものの、それでもまだ逞しさが損なわれていない身体を晒していた。

 ライゾウとの闘いで抉られた左の二の腕は、一ヶ月経とうとしている今でも完治はしておらず、元は瘤のように膨れていた

部分がゾックリそぎ落とされたように、肩から肘近くまで扁平になっていた。

 自然治癒に任せていては絶望的な傷だった。ゲンナイがその能力によって癒してくれたおかげで復元が叶ったのである。

 もっとも、失われた部位は体積がかなり大きかったので、時間を要した。

 というのも、一時に復元しては身を削られるゲンナイが保たないので、時間をかけて繰り返し足を運び、少しずつ修復して

貰わなければならず、ここまで時間がかかってしまったのである。

「さらっと言ってくれるのぉ…」

「その程度で済んで僥倖だったのだぞ?」

「それはそうと、少し痩せたかゲンナイ?」

「…誰のせいだと思うかね?」

「正直済まんかったわい…」

 熊と猿が顔を顰めて言い合っているのは、帝居敷地内にある医院の一室…、ゲンナイが仮の事務室として使っている部屋で

ある。

 あの戦から、二十九日が過ぎた。

 戦その物どころか、その後の被害状況までもが非常事態だった事もあり、ゲンナイはあの晩以降帝の傍に身を置いたまま、

自分が守護する直轄領にも帰らず、重傷者の面倒を見続けている。

 これまでならば守護頭が一ヶ月も領を空けるなど由々しき事態だったが、裏帝との暗闘が決着したという事もあり、この滞

在が普通に可とみなされた。

「そりゃあそうと、アクゴロウがまだここに来とると聞いたが…」

 ユウキは声を潜め、身を乗り出して訊ねた。

「まさか…、何ぞ深刻な後遺症でも…?」

「違う。別の用事で訪れるだけだ。ついでに傷跡の様子を見せて貰っているが、もう毛が生えている。あとひと月とかからず

生え揃って、跡は見えなくなるだろう」

「そんなら良いんじゃが…」

 ユウキは言葉を切り、背後のドアを振り返った。すると、五秒ほど置いてノックが響き、ゲンナイの返事を待って、ポッテ

リ肥えた狸と、逞しい若獅子が顔を覗かせる。

「先生、お邪魔…、あ!」

 アクゴロウが顔を明るくし、ニィッと笑みを浮かべたユウキが軽く手を挙げる。

 狸は当主らしく家紋入りの黒羽織を身に着けているが、その下は緩く帯を締めて布袋腹を楽にできる、薄緑色の小粋な着流

し姿。

 ライキの方は背に唐獅子牡丹が刺繍された作務衣姿だが、こちらも黒い戦装束ではなく、色が薄く明るい蒼色。手甲や脚絆

を付けず、鬣もざんばらに下ろしている。

 離れといえどもここは殿中、二人とも丸腰。…に見えるが、アクゴロウは懐に骨子が鋼の扇子を差し、新しくしつらえ直し

た数珠を両手両足に嵌めている。ライキに至ってはそもそもその躰自体が武器であるため、実際のところ非武装とは言えない。

「お久しぶりです。お加減は如何でしょう?」

 背筋を伸ばして礼儀正しく挨拶したライキと、すっかり元気になったアクゴロウを交互に見遣ったゲンナイは、

「ユウキの診察に少し掛かる。時間を潰してきなさい」

 と、やんわり言って二人を下がらせた。

 口々に挨拶した二人がドアを閉めると、ユウキは顔を前に向け直し、ゲンナイの瞳をじっと見つめた。

「…アクゴロウが来とる「別の用事」…ってぇのじゃが…」

 猿はその目を真っ直ぐに見返し、「ああ」と頷いた。

「…茶でも淹れるか」

 頷いたゲンナイは、腰を上げて湯沸かし器に向かう。

「ライデンさんは何と言っとる?帝は?」

「様子見中。…ではあるが、方針は半ば固まったようだ。帝と神崎と鳴神の間で交わされた、内々の話だが…」

「ほう?」

 興味深そうに目を細めるユウキに背を向けたまま、湯呑を用意しながらゲンナイが言う事には…。

「ライキは、戦の後に一度本家へ顔を出したきり、置縄には戻っていない。ずっとここに居る」

 予想に反し話が素直に続かなかったので、ユウキは眉根を寄せた。

「あ〜、アレか?お前さんの…、ぼでー…、うむ。「ぼでーがーど」ってヤツかのぉ?」

「それもある。が…」

 茶葉が入った筒の蓋をポンと抜いたゲンナイは、振り返りもせずに告げた。

「今月末付けで、ライキは正式に鳴神の後継者候補から外れる事になる」

 完全に虚を突かれ、ユウキは目を見開いた。

「…どういう事じゃ…?」



 ベッドの上に胡坐をかいた大男は、手元に広げた詩集をじっと見つめていた。

「あじさいの、はなが、しとしと、ふる、あめに、ぬれて…」

 おもむろに音読を始め、それを終えると最初の段落まで視線を戻し、また黙読を始める大男は、体格の良い熊だった。

 音読の際に時々舌がもつれるが、聞き取り辛い程ではない。

「調子ええね?ずっと練習しとったん?」

 そんな声に顔を上げた大男は、いつの間にか開いていたドアからそっと覗く丸い狸と、その後ろに立つ屈強な獅子の姿を目

にし、「あ、あ」と目を細めて笑みを作った。

 ライキとアクゴロウが潜ったドアの両脇には、鳴神の御庭番が二名ずつついているが、室内からは姿が見えない。

 それは、この大男が置かれた複雑な立場と関係している。

 大男は治療を受ける身でありながら、監視される重要参考人でもあった。

 ライキに倒され、捕えられたこの熊は、力場を纏ったライキの黒木刀による一撃で、己の力場と頭部を割られた。

 出力が拮抗していたおかげでかろうじて致命傷には至らず、一命を取り留めたものの…。

「なんやかんや、こまいのでも思い出せた事とかあった?」

 何気ないアクゴロウの問いだが、それに対する返答如何によっては対処が変わる。

 表に何も出さない神経が太い狸と、気取られないようにしながらも即座に動ける心積りでいるライキに対し、熊はふるふる

と首を左右に振った。

「わかる、ない」

 舌がもつれたような声を漏らす熊は、頭部への一撃が元で脳に損傷を受け、記憶を失っている。

 しかも、損傷の影響を受けたのは記憶だけではない。運動や会話にも不具合が現れていた。

 言語野へのダメージは深刻で、当初は単語すら出て来ず、「なに?」「あれ」程度しか言えない有様だったのだが、この一

月近くの間にリハビリが進み、会話には殆ど不自由しなくなった。

 舌のもつれは運動機能の損傷による物だが、こちらも手足の復旧と連動するように調子が良くなっている。

 驚異的、と形容する事すら生温い回復力だとゲンナイが太鼓判を押したこの大男は、しかし与えられる情報が制限されてい

るため、自分が置かれている状況を把握できていない。

 大男は、周囲から自分の事をこう聞かされ、それが真実なのだと信じ込んでいる。

 「仕事」中の「事故」により重傷を負った自分は、ライキによってここに運び込まれた、彼の友人なのだと…。

 それは精神安定と辻褄合わせの為に与えられた偽りの情報だが、すっかり信じ込んでいる大男は、「友人」であるライキと

アクゴロウの訪問をいつでも喜ぶ。

 その純真な笑みが、静かな喜び方が、自分達への信頼が、二人には痛い。

(逆神の眷属とはいえ、何も知らずに接すれば、極々普通の個人なのだ。憎み合って相対さえしなければ、こちら側と何も変

わらない…)

 ベッド際に寄って話しかけるアクゴロウと、一生懸命言葉を引っ張り出してそれに応じる大男を眺めながら、ライキはそう

考える。

 当初この大男は、隠れ里の正確な住民数と、裏帝派の生き残りが居るとすれば何処へどんな手段で逃げるのかといった情報

を入手する為に生かされていた。

 だが、今に及んで終息宣言が出され、裏帝、逆神含めて全滅と判断されると、情報源としての価値も無くなった。

 むしろここまで来ると、下手に記憶を取り戻されてしまった方が都合は悪い。極論を言えば、いっそ殺してしまえという意

見も出た。

 だがこれには、数名の神将と、何よりライキ、そしてその肩を持ったアクゴロウが反対したのである。

 殺すべきではない理由としてライキが挙げたのは、審問と治療に当たった神崎と薬師神が口を揃えた、記憶の復活はまずな

いだろうという見立て。

 だが、口にこそしなかったものの、瀕死でありながら自分に戦慄を抱かせた、この大男の武才を惜しんでもいた。

 そして何より、これはライキだけでなくアクゴロウや、口添えしてくれた神将達にも言える事だが、できればもう、同じ血

の流れから生まれた者を殺めたくなかったのである。

 父であり鳴神当主のライデンは、大男の助命を乞うライキを擁護するような真似は一切しなかった。

 だが、悔いていないし恨んでもいない。

 好きにしろ。とライデンは言った。

 そこだけ聞けばまるで突き放すような物言いだが、ライキは悟っている。

 ライデンは愛想を尽かしたのでもなければ、怒っていた訳でもない。息子の主張を否定せず、逆に身内として肩を持つ事も

しなかったが、一個人として信念の在りようのまま歩めと、言外に含めていた。

 結局、帝の側近達がなかなか首を縦に振らず、しばらくの間議論は続いたが、先日ある条件付きで大男の助命が可決された。

 ライキが当主候補者から外されたのは、この条件を飲んで、ある使命を帯びる事になったせいである。

 この男の後見人かつ監視者となる…。それが、ライキに課せられた新たな使命。

 大男を捕縛したのは他でもないライキ。命乞いをしたのもライキ。そして、客観的に見てこの件に最適の人材とされたのも

またライキだった。

 万が一にもこの大男が記憶を取り戻し、逆神の眷属として牙を剥くような事になれば、並の御庭番では荷が重過ぎる。後手

に回れば、あるいは下手を打てば、止めるまでに甚大な被害が生じてしまうのは明白だった。

 だからこそライキが選ばれた。

 元からこの任を割り振れない当主と次期当主第一候補者を除けば、国内を探し回ってもライキ以上の使い手はまず居ない。

加えて操光術を扱えるとなれば、対抗馬の立てようもなかった。

 だが、お目付け役としてライキを用意し、常にその傍へ置いておくにしても、問題は全て解決する訳ではない。

 一種の爆弾でもあるこの大男をいずれかの神将本家に置いてしまうと、そこで何かが起こった際に未熟な世継ぎなどが犠牲

になるかもしれない。

 そのため、ライキはこの大男を伴い、いずれの家とも離れた所に居を構えるなどして過ごす事になる。

 半ば放逐に等しい、当主候補者とは思えない扱いだが、それほどまでに逆神の血は危険視されていた。

 決着がついた今となっても…。

 だが、この特殊な御役目を受けたライキは、今後の身の振り方について悲観しているわけでもない。

 確かに重責だが、やるべき事もやりたい事もある。ちょっとした荷物は背負ったものの、それで身動きが取れなくなる訳で

もない。何処に居てもライキ宛ての御役目はこれからも続いて発せられるので、それらを片付けつつ武者修行しながら各地を

巡って行こうかと、気楽に考えているほどだった。

 さしあたっては、アクゴロウの誘いもあるので神ン野が守護する領へ向かうつもりでいる。

 そうして、当主交代が済んだばかりの神ン野家が抱えている、ある案件を手伝いつつ、今後の身の振り方を考えてゆくつも

りである。

(天敵は滅んだ。神ン野を脅かす脅威は大幅に減った。…こっちの展望はそう楽観できないが…。ま、しばらくはアクゴンの

所で手伝いながら、久々に羽を伸ばすか…)

 胸中でひとりごちたライキは、ベッド脇に座って見舞いに持参したリンゴを剥き始めたアクゴロウに手招きされ、ベッド上

の大男に笑いかけられると、口の端を少し緩めて歩み寄った。



「…つまりアレか。ライキはけじめをつけた訳じゃな」

 ゲンナイからライキの今後についての話を聞きつつ、茶を啜ったユウキが一息ついて口を開く。

 頷いた猿もまた、熱い茶を一口啜って先を続けた。

「そういう事になるな。…もっとも、元から当主になるのは兄だと決めてかかっていたような若者だ。苦に思ってはいな…、

うるさい!」

「いでぇっ!」

 真面目な話をしている最中に、草加煎餅をバリボリけたたましい音を立てて齧り始めたユウキの眉間に、ゲンナイのチョッ

プが炸裂した。

「何しよんじゃ!」

「真面目な話をしているのだ!」

「だからと…、禁圧解除してちょっぷか!?」

「普通にはたこうとしても簡単に避けるだろうが?それともボディが良かったか?渾身の神卸しで土手っ腹に捻じ込んでやろ

うか?」

「忘れとるといかんから一応言っとくがのぉゲンナイ…。儂ぁ病み上がりじゃ!」

「知っている。治したのは私だからな」

「じゃったら…」

「ツベコベうるさいと寝ている間にその太鼓腹に手を突っ込んで肝臓に細工して少し飲んでも酷く悪酔いする体質に変えてや

るぞ?」

「本気で済まんかった」

中身が冗談ではない恫喝で素直に謝るユウキ。

「で…」

口調を改まった物に変えて、ゲンナイは問う。

「神代本家としては、神壊の眷属をどう思う?」

人柄自体は悪童ぶりが抜け切っていないまま中年になったようなユウキだが、伊達に奥羽の鬼神と恐れられてはいない。

帝に敵対する者、そして神将にとって害となる者、神代を脅かす者には微塵も容赦しない。本来の性分を抑え込んで御役目

を担う際のユウキは、冷徹にして苛烈、徹底的である。

だからこそ、ゲンナイは考えた。

ユウキならば、後に禍根を残さないために、あの大男を殺害する可能性がある、と…。

「…意地の悪い質問じゃ…」

 大熊はガリガリと頭を掻き、苦笑いした。

「話を聞かんままだったら、知らぬ存ぜぬで始末も出来たろうがよぅ、こうしてお主から話を聞かされちゃあ、「知りません

でした」で片付けちまう訳にもいかんじゃろうが。…言うても、主ぁ儂にやんちゃさせんために、ここまで話したんじゃろう

がな」

バレたか、と無表情になって舌を出すゲンナイ。

「ま、血を流し過ぎてげんなりしとった所じゃ殺めんで済むなら、それでいい…」

 ユウキはそう呟くと、軽く目を閉じて口の端を上げる。

「頼むから、余計な事を思い出さんで欲しいもんじゃ…」



 欠けた月が山稜を照らし、山の際を走る黒塗りの高級車が、鈍い光沢で月光を弾く。

 エンジン音を響かせて走るその車の後ろにも、同じく黒い車が続いていた。

 ただし、黒い二台はフォルムが異なる。

 前を走る高級外車とは違い、後ろを走る車はオフロードも走破するジープだった。

 対向車も少ない、山を巻く深夜の道。片側は山の斜面だが、反対側はガードレールの向こうが落ち込み、15メートルほど

下は沢になっている。

 夜道に響くタイヤの悲鳴とエンジンの唸り。驚いて逃げる小動物に、眠りを覚まされて慌てる鳥達。

 しかし、騒々しいだけでは済まない者も居る。

 追走するジープの助手席の窓が空き、身を乗り出す人影。しかし前を行く高級外車は、ジープのヘッドライトが邪魔で様子

が見えない。

 プシプシッと小さな音が鳴り、次いで高級外車の尻が、タイヤの真後ろでガァンと激しい音を立てた。

「撃って来たか」

 そう呟いたのは、高級外車の後部座席に座っている初老の男。青みがかった黒髪には、既に白い物がだいぶ混じっているが、

眼光鋭く顔立ちは精悍。

 その右腕は、自分に縋り付く小さな女の子をしっかり抱いている。

「トモエ、心配要らないよ」

「はい。おじいちゃま…」

 気丈に返事をする女の子のか細い声には、しかし堪えている不安が微かに滲んでいる。

 ハンドルを繰る黒服と、助手席の黒服は、その女の子を怖がらせないように配慮し、極めて危機的な状況である事を主に告

げない。

 もっとも、初老の男は告げられなくとも、危機を重々承知してなおこの落ち着き様なのだが…。

(さて、手が無い訳でもないが…)

 初老の男は考える。

 車を停めさせて交戦するという手もあるが、孫娘が居る手前、危険はなるべく少なくしておきたい。

 逃げ切れるかと問われれば、部下の腕を信じるほかないのだが、市街地にさえ入れば目立つ事はできないだろうとも考えて

いる。

(少しばかり、困ったかな…)

 真後ろで防弾ガラスに銃弾が命中しても落ち着き払ったまま、初老の男はフロントガラスの先に広がる闇を見つめ続け…。

(…ん?)

 鋭い目を大きくし、唐突に声を発した。

「何か居…」

「避けよ」

 疑問と警戒が半々の声を発しかけた運転手は、主の言葉でそれを遮られると、ハンドルをやや大きく切る。

 ヘッドライトが斬り裂いた闇の中、大柄な影と小柄な影が一瞬浮かび上がり、そして再び闇の中に消える。

 黒塗りの高級車が周囲に突風を撒いて駆け抜け、後部座席に座った初老の男は、ちらりと窓から外を窺った。

 闇の中に佇む影が、追ってくるジープのライトで照らし出される。

 路上に仁王立ちする大柄な影もまた、高級外車を横目で一瞥していた。

「…まさかと思ったが、思わぬ幸運だ…」

 初老の男がそうひとりごちるのと、

「…トライチ。やれ」

 大柄な影が傍らの影に命じたのは、ほぼ同時だった。

「お任せを、大将」

 涼やかな声で応じたのは、ジープのヘッドライトで照らされたキジトラ猫。一方大柄な影は大股に道の中央に出て、ジープ

の真正面へ出る。

「何だ!?酔っ払いか!?」

 ヘッドライトが照らし出した獣人二人を見て、ジープを駆る、目出し帽で顔を隠した男が怒鳴る。

 反射的に避けようとしてハンドルを切ったその手は、

「あ?」

 間抜けな声と共に、切ろうとした方向とは逆に回されていた。

 まるで、両手が脳からの信号を真逆に受け取ったかのように…。

「な、なんっ!?」

 男は動揺と混乱から、切り直そうとしたハンドルを戻し過ぎ、ジープはガードレールに浅く突っ込んで跳ね返った。

 ジープに乗り込んでいる複数の男達の怒号が車内に満ち、けたたましいスリップ音が耳を傷めつけ、ドゴンッ…、と重い音

と振動がジープを揺らす。

 運転手の、そして助手席に乗る男の、さらに後ろからフロントを見ていた男の、目出し帽から覗く計六つの目が揃って真ん

丸になった。

 重い振動と音をもたらしたモノが、ボンネットに乗り、フロントガラスに右手をつき、運転席を覗き込んでいる。

 それは、ぼろぼろの作務衣を纏う、熊と見紛うほど大柄な大狸。

「行きがけの駄賃だ。てめぇらのタマぁ貰っとくぜ…?」

 その声は、車内の男達には届かない。しかし、素早く突っ込まれたその「左手」は、フロントガラスをすり抜けて運転手の

首に伸びた。

 ひとの首を簡単にへし折ってしまいそうな、大きくごつい手が…。

「げぐっ!?」

 息を詰まらせたような音を漏らし、運転手の目出し帽から覗く目が白くひっくり返る。

 自分がそう感じた通りに、男は一瞬で首をへし折られていた。

「あばよ…」

 低く言い残し、大狸は飛び乗った時と同様、素早くボンネットから離れる。

 運転手が殺されたジープは、しばらく走った所でカーブを曲がり損ね、ガードレールに脇腹を擦りつけた後、その切れ目を

押し広げるようにして沢へ転落して行った。

 アスファルトを踏み締めたギョウブは、その様を眺めながら、幻術で作り出していた左腕を消す。

「大将…」

 歩み寄ったトライチが無事を問う前に、

「事故に見せかけて処理するには丁度いい片付け方だろう?」

 隻腕の大狸はそう言って、不敵に口の端を吊り上げた。

 やがて、行く手から複数の車がやって来た。黒塗りの高級外車をガードする、これまた高級車達が、夜道に佇む汚らしい身

なりの狸と猫を、ヘッドライトで照らす。

 すぐさま光量が落とされて眩さが薄れ、光に照らし出された二人が目を細めてヘッドライトの

群れを見つめていると、

「やはりヒコザ君だったか」

 屈強な黒服達に周囲を固められた初老の男が、灯りの中に足を踏み入れた。

「覚えていて下さって光栄だぜ。烏丸(からすま)の頭」

 応じたギョウブは、何とも複雑そうな顔をしている。

 隠れ里壊滅から約一ヶ月。

 生き残りを率いて野山に潜み、誰にも見つからないよう移動して来たギョウブは、ちょっとした縁があるこの男を頼って、

この本州南端の県にやって来た。

 そうして今、目当ての相手に首尾よく会えたが、これからする頼み事や自分達の状況は、口にし辛い事だった。

 一方で初老の男は、敗戦以降風呂にも入らず着の身着たままで、相当臭う二人の体臭にも頓着せず、懐かしそうに、嬉しそ

うに、顔を緩めていた。