第二十一話 「フレイア・ゴルド(一)」

 夜の雪原に警報が鳴り響く。

 北の最果て、北原と呼ばれる純白の世界で、緊張を煽るけたたましい響きの中、雪が厚く積もってなお輪郭が判るドーム型

の建造物が、表面の氷を弾き落として無数の突起を露出させた。

 単純な鉄柱型の突起は氷塊を砕いて伸び切ると、先端に埋め込まれた球体を反転させ、カメラとサーチライトを露出させる

なり光の帯を空中へ伸ばす。

 ひとの営みも文明の手もほぼ及んでいない銀世界に、異質なほどの最先端技術を投入して建造されたその建物は、先進国が

技術的、経済的に協力して造り出した物。高さ400メートル、地下施設含めて全110階層の半球型。周囲に無数の付随建

造物を持つそこは、ノーザンボールと呼ばれている。

 北原の端、人類の征服領域のすぐ外に築かれたこの北原最大の基地は、一般的には公にされていない物だが、調査協定を結

んでいる先進国連合承認済みの「合法的」な北原の調査、開拓、活動における重要な拠点となっている。

 北原で発見されたレリック、捕獲された危険生物、太古の民エスキモーの痕跡…、様々な物が持ち込まれ、そして研究、解

析される場であると同時に、不用意に持ち出されないよう管理するゲートの役も果たす場所。

 そこが今、最大レベルの緊急警報を発していた。

「まったく、休む暇も無いと来たよ…」

 後頭部にロングヘアを纏め上げながらぼやき、若い女性が通路を駆ける。

 美人と言っていい、まだ少女の幼さが残る整った顔立ちの女性は、黄金を溶かし込んだようなブロンドの髪を後頭部でポニ

ーテールに結い上げた。

 プロテクターが仕込まれた雪中迷彩服に身を包み、走りながら首元までジッパーを引き上げてたわわな胸を仕舞いこむ。

 硬質の靴音高く通路を駆ける女性の碧眼は強い意志の光を帯び、何処までも真っ直ぐで、表情は引き締まり、美しいが凛々

しく勇ましい。

 左腰に吊るした鞘に収まる直剣を右手で抜剣し易い角度にサブベルトで固定。腰の後ろに固定した小型拳銃のホルスターは、

剣とは逆に左手で抜き易い角度に調整してある。

 駆けながら出撃準備を整えた女性は、警報に尻を叩かれて慌しく動き出したベースの人員と幾度もすれ違った後で、居住エ

リアから駆け出してきた数名の男性…自分と同じ雪中迷彩装備の一団と鉢合わせた。

「とりあえず10名出した。残りはベース各部の防衛警戒に回したが、問題は?」

 一団の先頭に立った精悍な髭面の男性が述べると、女性は口元を綻ばせてウインクする。

「ナッシング!さっすが、手回しが早いねヤマガタ!」

 頼れる副隊長を右に、隊員を率いて通路を走り抜け、外へ向かう女性の名は、フレイア・ゴルド。弱冠21歳ながら既に階

位では最上位に位置するトップクラスのハンターであり、総勢22名のハンターチームを率いる隊長である。

 副隊長の男性の名は山形敏鬼(やまがたとしき)。フレイアにとっては経理から仕事の取得まで任せられる無二の右腕であ

り、彼自身も並のハンターとは比較にならない凄腕の戦士である。

 一弾となって駆け抜けるハンター達は、警報の合間に暗号化された言語で放送が流れると、揃って顔を顰めた。

「「蝶が逃げた」…か」

「直訳するとなかなかにメルヘンだけどねぇ」

 トシキの呟きに、半眼になったフレイアが応じる。

「シャレになんないよ、ホント…」



 ドームに十数か所あるゲートの一つから飛び出したハンター達は、雪が舞う空気の中へ踏み出すその瞬間から片手にライト、

片手に得物を構えて索敵体勢に移った。

 髭の副隊長を含めて、極寒の地でも誤作動を起こさないあつらえの機関銃やライフル等で武装する中、フレイアだけは拳銃

と剣という軽装。しかも彼女が抜いたのは剣だけで、拳銃は背部のホルスターにおさまったままである。

「居るね」

 短く呟いたフレイアは陣頭に立っている。飛行する鴈の編隊のように逆V字の布陣。その先端に経つのは最も軽装の女性。

普通ならば違和感しかないフォーメーションだが…。

「ファイア!」

 フレイアの号令と同時に、隊員全てが手にした銃を上方45度に向けた。

 即座に始まる機関銃での一斉射撃。けたたましい銃撃音に続いて…。

「ギギィッ!」

「ギイィイッ!」

 建付けの悪い木戸の軋みを拡声器で増幅したような、生理的嫌悪感を催させる鳴き声が夜空から響いた。

 ジャスッ…、ザシュッ…、ドシャッ…。

 雪面に落下して来るのは、円盤型の胴に多数の足を生やした生物、三体。

 円盤状の胴体は直径1メートル余り。前面にバイザー状の楕円になった複眼を有しており、その下には断ち切り鋏を下へ向

けたような顎を備える。足も胴も全体が真珠色で、表面は滑らかな光沢を帯びていた。

 長さ3メートルにもなる長い脚が四対、先端が杭状に鋭く尖った一対の腕を持つそれは、何処かタカアシガニにも似ている

が、脚の形状が大きく異なる。円柱状の脚は関節を多数有し、よく見れば蛇腹のようになっている。その脚の前後には長い棘

が生え、その間に膜が張られ、魚の背びれにも似た様相を呈する。そのヒレを持つ四対の脚を揃え、羽ばたくように動かす事

で、この生物は空を飛ぶ。

「掃討開始!」

 抜き放っていた剣を右手後方へ振り抜いたフレイアは、号令を下しつつ先陣を切って怪物へ向かう。その頭上では、サーチ

ライトに補足された同様の怪物が数体、雪の舞う夜空を鳶のように旋回していた。

「既に「兵隊」を産んでいるとは…!」

 トシキが両手にサブマシンガンを構え、フレイアの左後方を固めて追従しながら呻いた。

「「親」が見えない!下手をすると、コイツら時間稼ぎかも!」

 銃弾の乱射でヒレが傷つけられ、地表に降りた怪物へ肉薄するフレイアも、髭の男と同様に渋い顔だった。

 怪物はまるで古い本に出て来る異星人のように長い脚で立ち上がった。167センチのフレイアから見れば、二倍近い高さ

に胴と目がある異形のバケモノである。が、ブロンドの女剣士は怯む素振りもなく接近し、振り上げられる長い足を瞬きもせ

ずに見定める。

 初動の角度から軌道を見切ったフレイアは、全速前進から一転して斜め右前方へ飛び込み、雪面で前転する。寸前までその

頭と胴があった空間を貫き、怪物の脚が固く締まった雪の大地に突き刺さる。

 直後、直径30センチはあろうかという怪物の脚が一本、先端から80センチほどの位置で切断されて宙に舞った。

 光を照り返し、虚空に三日月の軌跡を描いたのは、フレイアが手にした直剣…ブロードソード。

 材質は炭素を2パーセント含む鋼、つまりありふれた炭素鋼なのだが…。

「っと!」

 別の脚が降りかかり、剣を薙いだフレイアは横っ飛びに避けながらもう一度腕を振るい、宙に銀のカーブを描いた。避けな

がら牽制で振るったようにも見えるその一刀は、しかし自分を狙った脚の鋭い先端を真芯で捕え、カスンッ…と軽い音を立て

て50センチ以上も両断している。

 他の二体は他の隊員が銃火器による一斉砲火を浴びせているが、弾丸をまともに浴びながら、その甲殻は容易くは破壊され

ない。数秒の連射を浴びてようやくひび割れを生じ、中身を露出させ、ダメージを負う。

 にもかかわらず、フレイアが握った剣は、銃弾をも弾く甲殻を易々と切り裂き、欠けも折れもしない。

「まず一匹!」

 雪の中を跳ねる獣のように、俊敏に回避と攻撃をおこなうフレイアは、怪物の脚を三本断ち切り、四本目を切断したそこで、

大きく身を翻して屈み込むと、落下してきた本体を迎え撃つように、足元から頭上へと剣を振るった。

 円を描いて大きく振られた剣の軌跡と交錯した、怪物の胴。それが、雪煙を上げて地面に落ちるなり綺麗に二分割される。

 フレイア・ゴルド。その若過ぎる実年齢と美しい顔立ち、女性として理想的なプロポーションから、多くの場合は初対面で

軽く見られがちだが、USA全土のハンターをランク付けするならば、トップ20に入る実績と実力の持ち主である。

 その二つ名は「アンブレイカブル」。個人の戦技において、米国本土でも三本指に入ろうかという名うての女剣士。

 フレイアが一体仕留める間に、二手に分かれて怪物をそれぞれ攻撃していたハンター達は、大半が弾かれる銃弾を執拗に打

ち込んでいた。

 弾かれても狼狽えない。有効打は何発か入る。ヒレ、関節部、複眼、口腔…。徹底的に、容赦なく、執拗に鉛玉の雨を浴び

せられる怪物がギィギィと鳴き、暴れまわって長い脚を振り回すが、ハンター達は冷静に間合いを調節し、反撃の全てに対し

て余裕を見せながら避け、ひたすらに銃撃を続ける。

 やがて、弱って動きが鈍くなった怪物へ…。

「セット!」

 髭面の男が鋭く腕を前方へ振りおろし、号令を受けた俊足のハンターが二名、漏斗状の金属筒を握り、それぞれ怪物へ接近

した。

 迎撃すべく振り上げられた脚へ集中砲火、息の合った援護を受けて怪物に肉薄した二名のハンターは、同時に漏斗状の金属

筒を怪物の胴…円盤の下面へ、広い面を押し付ける形で設置する。そしてそのまま下を潜り抜け、飛び込み前転で間合いを離

しつつ雪面に転げ、全く同時に起爆装置をカキンと握りこむ。

 ボジュッ…。

 刹那、怪物の胴を貫き、垂直に火柱が上がった。

 吸着型破甲爆雷。怪物の腹部に設置された爆弾はモンロー・ノイマン効果で甲殻を破壊し、その身を貫通して、鉄の火柱を

垂直に上げる。

 怪物の胴体に風穴を開けた爆雷が、七秒ほどの燃焼で対象を完全に絶命させたその時には、ハンター達は次の対象を探して

警戒ポジションに戻っている。

 各々の技量も、実戦経験も、集団としての練度も、並みのハンター達とは一線を画している彼等のチーム名は「セスルーム

ニル」。設立から数年の比較的新しいハンターチームだが、この北原で活動する様々な組織、団体の中でも、数々の実績と戦

果によって非常に目立つ存在である。

「「親」は居ない?」

 周囲を警戒しながら問うフレイアに、耳元の装置に手を当てて基地内の通信を聞き取ったトシキは…。

「出遅れた。兵隊をバラ撒いて速やかに飛び去ったらしい。反応途絶から既に十二分も経過したようだ」

「………」

 フレイアは、サーチライトに照らされて宙を舞う何体かの怪物を見上げると…。

「防衛戦に移行するよ。各員、負傷者の救助と迎撃を優先!ノーザンボールの被害を最小限に食い止める!」

 「大元」の追跡を断念し、すぐさま指示を飛ばした。



 担架に乗せられた血まみれの負傷者が、うめき声を残しながら運ばれてゆく。

 通路の脇に立ち、壁に背を預け、腕を組んでいるフレイアは、十数人目の負傷者を見送ってため息をついた。

「どれだけやられたんだか…」

 傍らに立つトシキは…。

「判明しているだけで十八名。明るくなればまだ増えるかもな」

 死体が。言外にそう匂わせて口を閉ざす。

 フレイアの横顔は憂いを帯びながらも、怒っているようにも見える。

「アイツをケージから逃がしたおっちょこちょいは、本国の研究者らしいね」

 フレイアの言葉にトシキが顎を引く。

「…研究開始は、英国のチームが到着する明後日からのはずだったよね…」

 再び顎を引くトシキ。

「…功を焦って、協定を無視したって事…?」

「研究班のメンバー二名が行方不明だ。リッターが捜索に出ているが、こちらもそれぞれにひとりずつ同行させている」

「…同行を承諾してくれたの?」

 思わず顔を上げたフレイアに、髭面の男は「快く」と応じた。

「こっちの国の不始末…。協力を申し出ながら、本当は何か企んでると思われたって、文句は言えないのに…」

「白騎士団長は歴代の例にもれず公明正大な出来物だ。我々のこれまでの活動に鑑みて信用できると判断し、こちらに出てい

る全てのリッターに、協力を惜しまないようにと指示を出していたらしい」

「…ヴァイトリング大尉といい、頭が下がるね、ホント…」

「で、どうする?」

 トシキは問う。後腐れの無いよう、捕縛に向かったメンバーにそのまま殺害させ、償わせる事もできるが?と。

「決まってるよ。捕縛して、勿論生きたまま連れ帰って」

「了解」

 そう言うだろうと思っていたトシキは、先に下していた命令がフレイアの意見に叶う物だったので、変更の通信はしない。

「アイツ一匹行動不能に追い込むのに、ヴァイスリッターには7人の犠牲が出た。英国から直々に足を運んだサーの従者にも

3人の犠牲が出た。他のハンターチームだって…。個人の自己顕示欲や名声でフイにするには大き過ぎる代償を支払ってる。

絶対に逃がさないで。自害もさせないで。何もさせないで。責任は必ず取らせなきゃいけない」

「…それだが、研究者たちに本国の当局から指示があった可能性も…」

「だとしても構わないよ。私が忠誠を誓ってるのは星条旗でも白い小屋でもお星様でもない。…「二回目」なんだ…。ここで

引き下がったら「彼」に顔向けできないよ」

 毅然としたフレイアの目には、建前でも冗談でもない真意が宿る。

「了解」

 繰り返したトシキは、「しかしどうする?」と再び問う。

「部隊の展開は間に合わない。「親」はおそらくラインを突破し、北原を出てしまう。サーはノーザンボールの防衛協定に基

づく出向任務中で、無論ユニバーサルステージとして出入国には制限がある、そうそう動けないだろう。リッターの戦闘指揮

系統も今は…。助力を望めそうな相手は居ないが、どうする?」

 北原の「危険な物」を外界へ出さないための最終防衛ラインは、このベースより20キロは内側にある。本来このベースは

既に安全な領域内にあり、ここから外側へ危険な物が出てゆく事はありえない。人為的ミス故の想定外が、今日初めて生じた

わけである。

「決まってるよ」

 前髪をかき上げてフレイアは答えた。強い意志の光を双眸に湛えて。

「例え私だけでも、地の果てまでだって追う。出会ったのも捕まえたのも私達なんだ。…責任は、果たさなくちゃ…」





 それから二ヶ月後。

 東洋の島国、その背骨とされる山脈の、ある集落…。

「あ~…、そご…」

 湯煙漂う浴場に胡坐を掻いた巨大な熊が、厳つい顔を少し緩ませて嘆息する。

 肩甲骨の間、肉厚な背中の中心部をやや強めに押しながら擦られ、年寄りくさい声を発しているが、2メートルを軽く越え

る身長と、みっちりと密度高く肥えた体格、そして顔を含めた見た目に反し、まだ少年である。

 その背後では、180センチを超える大柄で固太りの秋田犬が、泡だらけの若い主の背にヘチマのスポンジをあて、丁寧に

力を込めて擦り洗いしていた。

 犬はかなり大柄なのだが、熊の身長が230センチを越えているので、傍に居るとむしろ小柄に見えてしまう。

「このあたりでしょうか?」

「ああそご!そご!あ~…!」

 いかにも気持ち良さそうに、鼻にかかった声を漏らす赤銅色の熊の名は、神代勇羆。

 反応がよくて楽しいのか、クスクス笑いながら背中を流す秋田犬の名は、板前八雲。

 どちらもまだ十五歳の少年だが、「ここ」のしきたりでは十五で元服となり、大人の一員として扱われる。

 屋敷の裏手、天然の温泉が湧き、湯気が立ち込める露天の浴場。日課の修練を終え、夕餉を待つ休息の時刻。少年達はふた

りきりで気兼ねなく湯浴みに勤しむ。

 熊代家では家庭菜園で各種野菜類を育てているが、ヘチマを加工してスポンジに使う案を進言し、育て始めたのはヤクモで

ある。熊代家に引き取られてから御庭番頭に色々な本を読ませて貰ってこの利用方法を知り、好奇心から試してみたのだが、

出来上がった天然スポンジの評判は非常によく、たった数年でこの河祖郡全域に広まった。

 滅多に外からひとが来ないので外へ出される販売ルートは皆無だが、「河祖下ヘチマスポンジ」の商品名で立派に特産品扱

いとなっている。

「最近、御庭番頭がお忙しいご様子ですね?今日もお帰りになりませんでした」

 ヤクモは視線を上に向けて眉根を寄せた。考え込む顔立ちもあどけない少年は桶にスポンジを浸して漱ぐと、目の前の広い

背中に当て直す。

「決まった話でねぇが、何でも「物騒なモン」が北の方がら国さへってきた恐れがあんだど」

 背中を流して貰う心地良さに身も心も一時緩み、くつろいだ顔を見せていたユウヒは、声を少し低くする。御役目に関わる

話題かもしれないと考えての事だった。

「物騒な…」

「外国のモンらしい。親父殿が電話で話してだの耳さ挟んだだげだがら、おらも詳しぐは知らねぇ」

「という事は、いずれ御屋形様にもお呼びがかかるでしょうか?それとも警戒するようにという連絡だけで…」

「どうだがな…。神座殿ど神ン野殿に誘わいで藤祭り見さ行ってけど…そいづもおら達さ伏せでる御役目がもしんねぇが…、

ありゃたぶん北の件どは関係ねぇべな」

「北と言えば…、しばらく大神家の方々のお姿を見ませんし、あちらへ窺ったという話も聞いておりません」

「どうにも、大神家の方は難しいらしいど」

 ユウヒはムスッと不機嫌そうな顔になる。が、それは機嫌が悪いわけでなく、生真面目で気難しい性格の大男が考え込む時

に自然とそうなってしまうだけ。

「裏帝の里ば滅ぼした戦で、大神家は爺様ど司狼(しろう)以外討ぢ死にしちまった。爺様が当主に戻ってっけども、全身焼

がれる重傷だったんだ、まどもに御役目こなすのは難しい。んだども、次の当主んなるシロウはまだ子供だ。急いで仕込んで

るって話だが…」

 ユウヒは言葉を切る。ヤクモも自分の若き主が何を思っているのかは判った。

 神将家の一角、大神家を預かる当主。その重責をゆくゆくは担う事になるのが、まだ十にもならない子供だった。

 実質的に当主不在の大神家は、北街道の守護を担い切るのが難しい状況。両親兄弟を失った大神家の少年は、哀しみに暮れ

る暇すらなく、当主となるために武を叩き込まれている。

 ユウヒ自身もそうだったが、神将家の跡取りとなる子供は、この世に生を受けた瞬間から、人並みの自由と幸福を諦めなけ

ればならない。家柄と血に課せられた義務を背負い、生まれ持ったその力を帝と国のために行使する人生が決定付けられる。

 ユウヒはその決められた生き方に文句は無い。元より、自身が生まれ持った力は「普通の人生」を送るには不適な物だとい

う自覚もある。物心がつき、客観的に自分を見る事ができるようになった頃には、もう義務として宿命を受け入れざるを得な

かった。

 だが、大神家のシロウは違う。だからユウヒは心が痛む。

 本来、あの家では兄が跡取りとなるはずだった。つまりシロウは、当主として担がれる立場になる事は避けられたはずだっ

た。多少の不便はあっても、それなりの自由と生き方の選択があるはずだった。

 しかし両親も兄も討ち死にした今、まだ子供の狼は当主となる以外に道が無くなった。

 ユウヒとヤクモの脳裏に、顔立ちは血筋通りに精悍でありながら、しかしまだあどけなさが色濃く残る仔狼のはにかみ笑い

が浮かぶ。

 比較的「マシ」な人生を送れるはずだったあの子供は、今…。

「ともかぐだ」

 ユウヒは口調を改める。

「北がらへって来るモンがもし北街道さ悪さすんだったら、大神家の援護に出向がねげなんねぇ。御庭番も減って人手も足っ

てねぇしな」

「はい…」

 耳を倒して頷くヤクモ。秋田犬の少年は、本当は戦う事が苦手である。争い事自体が好きではないが、御役目とあらば、大

神家の援護とあらば、ユウヒに付き従って海峡を渡る覚悟はできている。

 初陣以降、既に実戦を五度経験した。仲間の御庭番がひとり殉職し、ヤクモ自身もやむをえない状況で三名の命を奪った。

ユウヒが護ってくれなければ自身も命を落としていただろうと確信している。

 死別とあの世が隣にある…。「ここ」は、そういう世界だった。

「ヤクモ」

 ぐるんと体の向きを変え、ユウヒが正対すると、手が止まっていたヤクモは「はいっ!?」と驚いて声を高くする。

「おめぇは死ぬなよ?おらが当主んなった時、側役に置ぐのはおめぇだ」

「………」

 俯くヤクモのぽってりした手を取り、ユウヒは小指を立てて絡ませる。

「んだがら約束しろ。死なねぇって」

「ユウヒ様…?」

 念を押し、指きりまで迫るユウヒの表情と声に違和感を覚えるヤクモ。神代家の、この河祖下の「指切り」は、世間一般で

認識される子供のまじないや約束ではない。誓いを立てるに等しい覚悟で交わされる「儀式」である。

「何かあったのですか?」

「何もねぇ」

 嘘だ。そうヤクモは確信する。そしてその予感は正しかった。ユウヒは父の電話の内容から、国内に入ったかもしれない

「何か」が、相当危険な物らしいと予感していた。

 なしくずしに指きりさせられたヤクモは、上下に振られた自分の小指を見下ろして…。



 チラチラと雪が舞う。粉雪が横切る視界の中央で、手袋を嵌めた右手の小指を見つめたヤクモは、次いで鉛のような色に染

まった空を見上げた。

 分厚く雪が積もった山深い景色。空と山稜の境も曖昧な曇天。東北の雪景色としてはおかしなところは無いのだが、あきら

かに異常なのは…。

「六月でこれが」

 雪面に屈んで休憩するヤクモの隣で、仁王立ちのユウヒが顔を顰める。

 季節を無視した大雪…それも粉雪の堆積が、ここ三日間で奥羽北部を埋めていた。

 湿り気のある大粒の雪ではなく、サラサラした粉雪という所が異常性の高さを物語る。気温が高ければこんな雪質にはなら

ない。まして六月、異常気象の一言で片付けるには異常さが過ぎる。

 既に山間の集落をいくつも孤立させ、冬季閉鎖が解けたばかりの山道を軒並み寸断しているこの寒波は、ひとの命を直接脅

かすだけではない。田植えも終わっており、農作物は異常気象により多大な被害を受けている。既に経済的損失は大きく、長

引けばさらに増す。命も営みも毟り取られてゆく。

 ユウヒとヤクモの周囲には御庭番達。彼らは7名からなる部隊で捜索に当たっている。

 現当主であるユウキも自ら陣頭に出ており、最大戦力であるそちらは単独で捜索中。

 熊代家のお膝元である河祖下村だけではない。他、平時は河祖上村、河祖中村に詰める御庭番も最低限の護りを残してその

殆どが派遣され、神代一派はかつて裏帝の隠れ里を攻めた時以来の総出で、奥羽山脈北側を北上しながら虱潰しに当たってい

る。

 ユウヒの予感どおり、国内に入った「何か」は、熊代の関係者が総出で対処しなければならないほどの「大物」だった。北

街道を一日で縦断して冷害を振り撒いたソレは、蒼森に上陸して減速し、山中に居座っている。

 だが、捜索開始から丸二昼夜が経った今も、ソレは見つからない。

(皆そろそろ疲れが出始めでっか…)

 メンバーをそれとなく観察し、ユウヒは腕を組んだ。

 熊代の御庭番は山に慣れているが、それでも捜索は難航した。季節外れの異常な雪に加え、時が経つ毎に低くなる気温、さ

らに標的の位置が全く掴めていないので、捜索範囲が広過ぎる。

(情報の入り方もおがしい…。上も把握しかねでんだべな…。「ソイヅ」は何処がら来た?どいな相手だ?)

 ユウヒ達は、捜索している相手の事を殆ど知らない。危険である事と空を飛ぶ事、そして気象に異常を生じさせる事…、そ

の程度しか情報を得ていない。

 どうやら発端となった国外の地、関わった国などの問題で、情報が高度に伏せられているらしい。もっとも、そこから覗え

るのは…。

(他国のお上の不祥事が発端が)

 苦々しく口を引き結ぶユウヒ。情報が小出しになっているのは、政府間の綱引きの最中なのだろう。こちらの政府側の窓口

がてこずっているらしいと察しはついた。無論、とばっちりの被害を受ける側でありながら強く出る交渉ができていない時点

で、相手側がどういった国なのかはある程度予想がつくのだが…。

(よりによって…、大物の時に限ってこいな面倒を…!)

 少年は不機嫌さを隠せないまま、横目でチラリと、疲れ切っているヤクモを見遣る。嫌な予感が的中していた。

 ヤクモは御役目に参加するようになって数ヶ月経ったが、一向に成長を見せない。技術的に、体力的に、という意味ではな

い。精神面が、である。

 元々気が優しくて大人しい少年だが、命のやり取りをする場を数度経験しながら、甘さと迷いと躊躇いを捨て切れていない。

相手がバケモノの類であればいいが、ひとが相手となれば動揺し、自らの危険と相手の命を同じ天秤に乗せてしまう。

 それは、社会一般で言うならば真っ当な感性と言える。ユウヒ自身も幼馴染のそんなところを、口には出さないが美徳と見

ている。

 しかしそれ故に、ヤクモがこの世界で長生きできる確率は低い。

 相手を殺す事を躊躇い、仲間の傷を案じ、反射と使命感でひとを殺める事ができないヤクモは、この世界では早死にするク

チである。

 ユウヒはそれを受け入れる気が無い。傍に置き、護り抜き、永らく共に歩む事を望んでいる。

 だからこそ、不確定要素が多い上に危険が大きい今回のような任務は有り難くなかった。

 いかに当主の息子とはいえ、個人的な感情論でヤクモを役目から外す事はできない。気心知れた仲なので遣り易いからと、

もっともらしい理由をつけて、同じ隊にしてくれるよう父に頼む程度が限度である。傍に居る限りはある程度護ってやれるが、

ユウヒもひとの身、手が届く範囲は知れている。相手の危険度が高過ぎる場合や、環境自体が危険な状況では…。

「………」

 おもむろに首を巡らせたユウヒは、爪先を少し上げ、トン…と、軽く雪面を叩いた。

 ヤクモも、他の御庭番も、それに気付かない様子で休憩を続ける。が…、

「湯を沸かします。そろそろ熱を摂らないと…」

 御庭番のひとりが荷物を降ろし、周りの数名が火起こしの支度に入る。腰を上げたヤクモは、「ちょっとお花摘みを…」と

モゾモゾ移動し、ユウヒが「んでおらも付き合うが」と同行し、樹氷となった杉の木の陰へ隠れ…。



(…調停者…か?いやしかし、動き出すのが早過ぎる…)

 雪に紛れる雪中迷彩服に身を包んだ男は、双眼鏡で御庭番達の様子を覗う。

 普通の猟師などではない。この国のハンター達かと思ったが、それにしてはいでたちが妙だった。やけに古臭い格好と言う

べきか、戦前のマタギを思わせる格好である。

(まずいな…。ひょっとしたらこの近くにヤツが居るかもしれないが…)

 警告すべきだと良心は告げるが、しかし現在は秘密裏に活動している最中。危険を教えようにも下手に接触するのはまずい。

(何せこちらは今、密入国者という立場だからな…)

 フードの下で髭面を思い切り顰めたのは、セスルームニルの副隊長トシキ。

 北原から逃れた「標的」を追っていた彼らは、アラスカ、ベーリング海、カムチャツカ半島、オホーツク海を経て、北街道

から非合法に上陸した。密入国せざるを得なかったのは、母国の政府高官が何とか事を小さく纏めようと画策し、日本側の当

局と綱引きを始めてしまったせいである。

 時間が経てば経つほど捕捉が困難になるため、フレイアの決断により法を犯す方針を取ったが…。

(何とかして退散させられないだろうか?)

 国籍は変えてあるが、トシキは元々日本人である。生まれ故郷を離れて久しいが、この国に愛着が無いわけではない。でき

れば危険を教えて退避させたいが…。

(…!)

 瞬時にその場から飛び退き、トシキは被っていた白布を宙に放った。

 ボッ…と鈍い音が響き、風を孕んだ布の中央が消失、瞬時に燃え上がって端まで灰になる。

 その、一瞬の炎上と飛び散る灰の向こうにトシキは見た。

 赤銅色の、熊の巨漢を。

「!!!」

 反射的に両腰の拳銃に手を伸ばしかけ、トシキは躊躇する。帯びているのは対危険生物用の大口径ハンドガンで、いま装填

されているのは非殺傷弾どころか、シェルブレイカー…対甲殻類型危険生物特効の徹甲弾だった。懐に9ミリハンドガンを収

めてはいるが、抜いている暇はない。

 着地したトシキの眼前で、何処から跳躍したのか、高みから落下してきた熊が雪面に大穴を穿つ。周囲に舞った雪煙が、一

瞬でジュッ…と音を立てて気化し、即座に凍り付いてダイアモンドダストとなる。

(エナジーコート能力者!?何らかの手段で防壁を攻撃に利用しているのか!?)

 迷いながらもトシキは銃を抜いた。エナジーコートを扱う能力者が纏った力場の上からであれば、銃撃の威力は著しく減衰

する。しかもこの熊のエナジーコートの出力は耐熱耐寒シートを一瞬で焼き尽くすほどの余熱を持っていた。となれば、並大

抵の能力者とは力場の強度も段違いだろう。

(どうする?シェルブレイカーならば通じるかもしれないが…)

 9ミリ弾は通じない。だが、シェルブレイカーを撃って、もしもあっさり力場を貫通してしまったら、当たった部分がこそ

げ落ちる。腕に当たれば腕が、脚に当たれば脚が、命中した位置から先が丸ごと千切れ飛んでしまう。

 キラキラと氷の粒子が舞う中、赤銅色の熊は半身になって腰を落とし、構えを取ってトシキを睨み据えた。

 トシキは迷う。任務遂行のためには無力化した方がいい。だが、向き合って感じたのは、目の前の熊が只者ではないという

本能的な確信。場数を踏んできたトシキですら底が見えない。

 事情を話し、敵対する意思が無いと伝えるべき。そんな、最も安全と思われる方針を選ぼうとしたトシキは…。

「!」

 二丁の銃を熊に向けた。

 熊が前へ跳ぶ。力場を爆ぜさせて推力としたのか、後方へ爆発的に雪の粉塵を巻き上げて。

 固められた巨大な拳が強く光を帯び、大きく引かれて肩から腕が力強く盛り上がり、寒気を熱しながら粉砕し…。

 ダンダンッ!

 連続した銃声に続き、トシキが伏せる。その上を跳び越えた巨大な熊は、光を纏う拳を…。

「ギイイイッ!」

 トシキの背後へ空から舞い降りた、タカアシガニをグロテスクにしたような怪物めがけて叩き込んだ。

 進路にあった脚を物ともせずに爆砕して突き進み、円盤型の胴体に拳が命中し…。

「散華衝(さんげしょう)!」

 熊が吠えたその瞬間、怪物は円盤状の胴体の中央部から抉るように消失させられ、左右に脚の残骸をばらまいた。

 拳に纏わせた力場を、命中の瞬間に内からもう一つ発生させた力場と接触反応させて爆砕。極々狭い範囲に集中した破壊を

引き起こす熊代の技。拳を覆う分の他に自分の身を護る防壁がもう一枚必要となるため、非常に難易度が高い技術なのだが、

ユウヒは元服前にこれを完璧に仕上げていた。

 拳を引き、構え直したユウヒの背後でトシキが身を起こす。先に二発撃ったシェルバスターは、ユウヒを後方から襲撃しよ

うと滑空してきたもう一匹の怪物の楕円形複眼へ、まるで豚の鼻のように二つの穴をあけていた。

 ギイギイ鳴いてのたうち回る怪物へ、シェルバスターの連射でとどめを刺そうとしたトシキだったが…。

「ヤクモ、やれ!」

 ユウヒの号令から間髪入れず、

「水芸!降霜沈丁花(こうそうじんちょうげ!)」

 少年の声が高々と上がる。その響きがトシキの耳に届くや否や、転げ回っていた怪物の体表へ見る間に氷の粒がつき、それ

が広がり、大きくなり、数秒の内に全体を覆って完全に氷漬けにしてしまった。

 トシキが振り仰いだ雪丘の上には、木陰から姿を現した、丸く肥った秋田犬の少年。腰に四本帯びた筒から巻物を取り出し、

宙に広げて手を押し付けている。

「…ふぅ…」

 巻物から手を離して集中を解いたヤクモは、巻物の端を掴んで大きく振るうと、そのままスルルッと巻き取って竹筒に収め

る。気温が低い事を利用する事を思いつき、対象の周囲を高速冷却する術を選んだが、狙い通り効果覿面。ヤクモ自身が普通

に扱うよりも遥かに強力な冷凍作用が働き、怪物は生きたまま氷で固められて活動を停止、貴重な生体サンプルの確保に成功

した。

(術師…か?)

 小高くなった雪面の上、木陰からサポートをおこなった秋田犬の少年を見上げたトシキは、

「何者だ?」

 背後から響いた太い声に、銃を捨て、ゆっくりと両手を上げて向き直る。

 いつのまにか、その剛腕が届く距離まで歩み寄っていたユウヒは、戦意が無い事を示すトシキを胡乱げに見つめていたが…。

「…とりあえず、犯罪者の類でねぇな。迷いの一片もねぐ、おらの後ろのアヤカシさ銃向げでだな、おめぇ…」

 軽く肩を竦め、トシキへ腕を下ろすよう告げた。

 トシキの姿を見た直後は敵か味方か判断がつかなかったが、自分達を監視していた事から敵対者の可能性も低くは無いと考

えた。それ故に先制攻撃を仕掛けたユウヒだったが、相対したトシキが、銃口を自分の背後に舞い降りた殺気へと定めた事か

ら、少なくとも敵ではないと判断するに至った。

 無論、接近に応じて妙な素振りを見せればその首を叩き落とすつもりではいたが、トシキは敵意も不審な様子も一切見せず、

丸腰のままユウヒの手が届く位置までの接近を許したため、何らかの芝居を打っている可能性も排除されている。加えて言う

と…。

(熟練の御庭番と気配が似でんな…。務めに命を賭げられるおどごだ)

 ユウヒの爪を己の命を抉れる位置に迎えながら、怯えも見せずに敵ではない態度を示すその胆力に、少しばかり敬意も覚え

ている。

「事情があり、コソコソと隠れるような真似をしていたが…」

 トシキは銃を拾ってホルスターに戻しつつ、「…説得力はないな…」と自嘲して告げる。いつ、どのように動いたのか、神

代の御庭番達が散開方位し、遠目からトシキを囲み、いつでも仕掛けられるよう待機していた。たったひとりで切り抜けられ

る相手ではないと痛感できる手際の良さである。

「「我々」は一応、法を守る側の立場にある」

「………」

 ユウヒは慎重に間合いを詰めてトシキを囲み込む御庭番達と、恐る恐る遠巻きに自分達の様子を窺いながら巻物を握ってい

るヤクモに目を向け、

「こっちも似だようなモンだ」

 トシキのさりげない、複数形という情報開示に相応の返答をし、サッと手を上げ、仲間達の臨戦態勢を解除させた。