第二十二話 「フレイア・ゴルド(二)」
身の丈七尺七寸にも及ぶ巨熊は、雪の窪地を見下ろしていた。
坂が交わる新雪の吹き溜まり、細かな雪が堆積したそこは、落ちればカモシカも泳いで逃れる深みである。
そこを、タカアシガニを妙な具合に歪ませたような異形の生物が、長い足で雪の底を探りながらギュモッ、ギュモッ、と雪
を軋ませ近付いてくる。
「ふぅむ…」
鼻先をチョンと触りつつ呟いた熊は、空手着にも似た濃紺の戦装束を纏っていた。帯の代わりに太い綱を締めており、出っ
腹がその上に乗っかる。二本目の綱は襷のように両肩へ廻り、金剛力士の羽衣のように背中で交差している。舞い落ちる雪は、
その淡い光に覆われた巨体を湿らせる事無く、悉く溶けて蒸散していた。
神将、神代熊鬼。
齢四十八。男盛りは過ぎ、かなり体も弛んで腹も出た体型ではあるが、老いさらばえるとまでは行かない年齢。何より、怪
物を睥睨するその両目は精気に満ち溢れていた。
総指揮官でもあり最大戦力でもある巨熊は、いつも通り自身を一部隊と勘定して単独捜索している。
締めた綱の左腰側には、得物である焦げ茶色の真ん丸い大徳利が紐で括りつけられているが、今は長年愛用した品ではなく
なっている。
裏帝討伐戦において宿敵である神壊の当主を討ち果たしたものの、相手も同源の戦士。半ばまで抉られた左腕は、見た目の
上では元通りになったが、時折思い出したように二の腕が苦しくなる。仕事に支障がない程度には動くものの、力を込め過ぎ
ると指先に震えが生じるため、全力で振るえば精密性が失われるようになってしまった。
神代に伝わっていた遺物、自在に伸びる拘束具「不動索(ふどうじゃく)」は物質と非物質の境目にあり、焼けようが切れ
ようが灰になろうが、波に乱れた水面の月のように時間が経過すれば元に戻るが、ユウキ専用の得物である大徳利「黒金威し
(くろがねおどし)」は潰れてしまい、二代目として誂え直してある。
それでもなお、現役である。神代一派最大の戦力であり、頭としての務めを果たすに不足の無い力が今でもある。
「蟹っぽい所はあるが、食えそうにねぇのぉ…。ってか例え食っても不味そうじゃ」
暢気な事を言いながら、接近してくる怪物を観察するユウキは…。
「こいつぁ…、そう。「びんご」じゃ」
気温はさらに低くなり、異常気象の中心点に近付いているのが実感できる。加えてこの見た事もない怪物…、怪異の元は近
いと察しがつく。
(さほど力を感じねぇんだが…、子か、兵隊か、って所か…。半径何十キロだかの寒波を引き連れて移動する「何か」…。本
体はたぶん「実在する伝説」級のとんでもねぇ何かじゃろう。が…)
怪物が跳ねた。雪の底の凍った地面を脚で蹴り、跳躍した頂点で八本脚を広げて揃え、グライダーのように滑空し、ユウキ
に迫る。
「兵隊は、わりかしお粗末じゃ。自分が向き合っとる相手が「どういったモン」か判らんとはの…」
呟くなり右手を上げ、太い人差し指を怪物に向ける。手で拳銃を形作るように。
「雷音破」
指先に光が灯るなり、光弾が飛んだ。バヂュンと音を立てて怪物の胴体正面…複眼の位置に命中すると、そこをごっそりと
抉るように消失させる。圧縮された高密度のエネルギー塊は、極々狭い範囲で限定的に、絶対の破壊を実行していた。
相手になるならない以前の力の差があった。もはや狩る狩られるの関係ですらなく、ユウキにとってこの程度の相手は敵に
すら成り得ず、路傍の石にも等しい。この怪物が何十束になろうと、この「奥羽の鬼神」にはかすり傷一つつけられない。
着弾の衝撃で後ろへ弾き返された怪物の死骸は、仰向けに雪面へ落下し粉雪を巻き上げて没した。
「薄気味悪ぃ格好じゃなぁ。輪郭だけ蟹と似ちゃあおるものの、何じゃこの関節だらけの脚は?どこに身が詰まっとる?細部
がおかしいせいで食欲が湧かんわい…」
蟹は好物だがコレはちょっと…、と未練がましく死骸を見下ろしていたユウキは、
「…ふん?」
視界の隅を過ぎった薄い影に気付き、顔を上げて空を仰ぐ。曇天の色に紛れ込む白い飛翔体がいくつか見えた。
「ひのふのみの…、六つか」
指差し確認しながら、空を舞う怪物の姿を目で追ったユウキは…。
「…獲物を見つけて旋回する猛禽みてぇな動きじゃな…」
怪物達が何かを標的にして動いていると察し、雪面を一瞥して、雪が締まっているルートを見抜くなり、巨体と体型に見合
わない速度で尾根を駆け上がって行った。
(よくもまぁ、こう次から次へと…)
直剣を振るった若い女性は、顔面を縦に割られた怪物が雪の上に伏す前に、拳銃を引き抜き頭上へ向けた。
ひたりと、滑空してくる怪物の複眼へ射線が据えられる。
寒冷地でも凍りつかないよう特殊措置を施した信頼性が高い逸品だが、拳銃自体は小型である。そして、装填されているの
は何の変哲も無い9ミリパラベラム弾。マシンガンの連射でようやく傷を負わせられる怪物に対して有効とは言いがたい武器
だが…。
プシュプシュプシュッとサウンドサプレッサーが発射音を抑え、三点バーストで弾丸が飛翔する。その頼りない礫は、しか
し怪物の複眼を破壊して体内深くまで潜り込んだ。
「ギシィッ!」
苦鳴を上げた怪物が慣性にしたがって降下するその下を、フレイアは身を屈めてやり過ごしつつ、腹部に一刀加えてとどめ
を刺す。
剣にしろ銃弾にしろ、本来の強度を考えれば不自然な破壊力と頑強さを発揮しているが、これこそがフレイアの能力。彼女
がその手で振るう得物や、銃から放つ弾丸は、本来のスペックを凌駕する性能を獲得する。
剣を握れば競技用フルーレでツヴァイハンダーを切断し、手にした銃から弾き出される弾丸は単なる9ミリパラベラムであっ
ても、弾頭が無傷のままダイアモンドを欠けさせる。
何らかのエネルギー膜によって得物の表面がコーティングされ、それが高速で流動する事でチェーンソーの刃のように破壊
力が増す。結果として中身が保護されたまま高強度まで獲得するらしいという事は判っているが、詳しい原理などは不明。た
だ確かなのは、彼女が摘んだポリ製のストローが、押し付けた氷柱をへし折れるという事実。
とはいえ、便利なようでもこの能力には制約がある。
能力の効果を与えられるのはフレイアがその掌で触れた物だけであり、彼女の手から離れたら一秒程度で効果が失われる。
拳銃は銃弾まで丸ごと強化される訳だが、これも射出から一秒後には普通の弾丸に戻ってしまう。そして、彼女の能力が強化
対象にできるのは無機物のみであり、自身に触れて体を保護するといったような使い方はできない。
能力名は「アンブレイカブル」。彼女の二つ名は、この能力そのままの名を付けた物である。
雪面を転がり、中腰で体勢を整えたフレイアは左手をちらりと見遣る。拳銃のスライドが後退したまま止まっていた。
(弾切れ…!)
背負ったザックにまだ予備は残っているが、すぐに使えるよう腰回りに配置していたマガジンは使い果たした。
フレイアの周囲には既に十四体の怪物が死骸になって横たわっている。腕利き五名で対処するのが適正レベルの危険生物を
単身でこれだけ屠って、なお無傷で居られる時点で常軌を逸した戦闘能力だが、その戦力は通常兵器を媒介にして発揮する物。
弾薬が尽きれば接近戦以外にできる事が無い。
(肉弾戦で頑張るっきゃないか…!)
脚を組んで作った翼でマンタのように空中を泳ぐ怪物達を見上げ、銃を腰の後ろへ戻すフレイア。両手で剣を掴んだ彼女の
肩は、既に息が上がって上下していた。
能力者ではあるが、彼女の体それ自体は人間女性の域を出ない。プロのアスリートとトライアスロン勝負できるほど鍛え込
んではあるが、慣れない雪山を数日間探索した疲労も溜まっている。おまけに氷点下二十度、フワフワと堆積し足場も判り難
い、慣れ親しんだ北原とは勝手が違う粉雪の上、相手が怪物二十体以上という悪条件が重なった勝負は流石にキツい。
(時間が惜しいってのに…!)
歯噛みするフレイアの耳に、
「蟹モドキとおなご…。どっちに加勢するかは悩む必要もねぇなぁ」
場にそぐわない、のんびりした声が届いた。
振り仰いだフレイアは、後方5メートル程度、斜面のやや上側に、錯視に惑って距離感を失いそうなほどの巨体を見る。
(え?…で…、でっか…!誰!?いつの間に!?)
声を聞くまで、その熊に接近されていた事にすら気付けなかった。
それなのに恐怖は無い。得体の知れない大男に背後を取られていながら、驚きはしたが危機感は覚えない。
フレイアは直感していた。自ら声に出して存在を知らせたその巨熊が、少なくとも敵ではないという事を。
「雷…、音…」
ユウキは野球のピッチャーが全力投球するように振りかぶり、右手の五指に光を灯す。
「破!」
唸りを上げて振り抜かれた右手から、光弾が五条の尾を引いた。
「よっと」
振り抜いた手を上向きにし、指をグッと握りこむユウキ。光弾はその意思に従い、まるで追尾型ミサイルのように弧を描い
て軌道修正しつつ、滞空していた怪物五体を同時に打ち落とし、正確に頭を潰して絶命させる。
怪物が居なくなった空と、死骸の山を見比べ、ポカンとしたフレイアは、雪を踏み鳴らしてのっそのっそと歩み寄ってきた
熊に顔を向けた。
「ありがと、助かったよおじさん…!」
ふぅっと息を吐いたフレイアは、人懐っこい笑みを浮かべてペコンとお辞儀した。
顔を上げ、加勢してくれた巨漢の姿をまじまじと見たフレイアは、思わず嘆息していた。
(でっかいなぁ…。山みたいだ)
そこそこ歳を食っているが、巨大な体躯はなお逞しい。肥えて弛みも出ているが、衰えや老いの印象は極めて薄かった。
(それに…)
思う所があり、フレイアは一瞬顔を曇らせた。
(このひとも、エナジーコートを使うのか…)
「おっと…!傍で見たらますますべっぴんさんじゃのぉ!」
一方、フレイアの顔をはっきりと見るなり、思わず讃辞の声を上げるユウキ。
美人である。しかも金髪碧眼の異国美人。やや幼さが残る若さはちきれんばかりの美人。防寒装備の上からでも読み取れる
スタイル抜群の美人。しかも流暢に日本語を話す外国美人。
腹の中のよからぬ虫がフレイアに反応し、「むっふ~!」と熱い鼻息を漏らしたユウキは…。
「雪山のひとり歩きは物騒じゃぞお嬢ちゃん?おまけにこの天気じゃ、下山した方がいい。どれ、足場も悪い事だしおぶって
やろうか!で、その後は鍋でも一杯…」
警告から忠告を経由し下心満載の提案を経て流れるように口説きに入る熊親父。茶ではなく鍋に誘うあたりがおかしいのだ
が、本人は妙だとは思っていない。
「いやぁ、せっかくだけど仕事中だから」
にこやかに笑いながら辞退するフレイア。
(参ったなぁ…。このおじさん調停者?密入国してるから秘匿事項関係者と接触するのまずいんだけど…)
内心冷や汗をかきながら、フレイアは「おじさん「も」調停者?」とかまをかけてみた。
「うん。まぁそうじゃ」
ユウキはさらりと嘘をつく。騒ぎにならないよう、内々に処理すべき密命に従事している最中である。帝直轄の神将と知ら
れては色々と面倒があるので、誤差の範囲として偽った。
「お嬢ちゃんもかい?」
顎を引いて「まあね」と応じたフレイアは愛想笑いしているが…、
(つくづく参ったなぁ…。もう調停者達に討伐依頼が出されるぐらいの騒ぎになってるなんて…)
内心困り果てていた。そしてユウキも…。
(もう調停者に依頼が入っとるとは…。上からは何も聞いとらんし、政府筋以外からの依頼か?情報統制とやらもあてになら
んなぁ)
フレイアが別の筋から異常現象の解決依頼を受けている調停者であると考え、上のゴタゴタがこうも現場に響くとは、と胸
の内でため息を漏らしている。
(しかもこんなめんけぇおなごを山ん中に送り込んで、気色悪い蟹モドキと取っ組み合いさせようとは…。依頼主は特殊な性
癖でもあるのか?多足物の輪姦ふぇちか?)
勝手な想像を巡らせ、蟹達にひん剥かれたフレイアの姿を想像し…、
(…絵面はそう…悪かぁねぇのぉ…!)
げへへ…、と下卑た笑みを零す困った熊親父。
(とはいえ、腕は相当立つみてぇだが、蟹モドキがあとどれだけ居るか判ったもんじゃねぇ。親玉みてぇなモンも間違いなく
近いだろうし…)
可愛い顔に傷でも負ってはしのびない。撤退を促すべきだろうと考えるユウキ。勿論、連絡先を聞いた上で。
(乗りかかった船の行き先は気になるだろうし、決着がついたかつかねぇかは知っとかねぇとケツの落ち着きが悪ぃってモン
よ。ちゃ~んと終わった連絡は入れなきゃならねぇからな。ついでに鍋でもつつき合いながら世間話でも…)
公私混同ではない。公私両立なのである。彼の中では。
しかし、ユウキが説得と退避経路の算段をつけている間に…。
「…ゴメンおじさん。もう行かなきゃ」
フレイアは背負っていたザックからスペアマガジンを取り出し、拳銃にセットする。その顔は一瞬で凛々しく引き締まり、
視線は何かを見つめるように尾根の向こうへ固定されていた。
「うん?行くと言うと…」
「手伝ってくれてありがとね?でも、この仕事は降りた方がいいよ。ヤバいヤマだからさ」
少年のようにさばさばと言って、フレイアは少しだけ笑い、敬礼した。
「じゃ!お互い生きてたら、また!」
言うが早いか、フレイアは身を翻して怪物達の死骸を飛び越え、一直線に走り出す。
「あ。お嬢ちゃん!」
呼び止めようとしたユウキは、ハッとなって懐に手を突っ込んだ。
御庭番からの緊急通信…表示ナンバーは息子とヤクモが居る隊の物。
作戦行動中に単独行動しているユウキへ通信が入る事はまず無い。あるとすれば、救援を要するような緊急事態。
「何じゃ!?何かあったのか!?」
珍しく慌てて通信に応じるユウキ。息子の事は戦闘行動という点ではあまり心配していないが、行動を共にするヤクモの事
となれば話は別。ヤクモはお庭番の中でも未熟な部類、おまけに、特別気を配っているあの少年に何かがあればユウヒも冷静
さを欠く。綻びが生じるとすればそこからだが…。
『親父殿』
予想に反し、聞こえてきたのは落ち着き払った息子の声。悪い予感は外れだったかと、ホッと胸を撫で下ろしたユウキは…。
『この山さ、おら達の他にも団体でひとがへってっと。タカアシガニみでぇなアヤカシもな』
「ふんむ?そっちも会ったか」
足元の死骸を見下ろすユウキ。手を貸したものの、十数体はフレイアが仕留めた分。彼女自身は起伏の激しい山肌の中に白
装束で紛れ、既に姿が見えなくなっているが、この腕ならば雑魚相手にそうそう遅れは取らないだろうという確信がある。
(ま、足跡辿りゃあ後は追える…)
フレイアの痕跡を辿って歩き出しながら、ユウキは「美人か?」と息子に聞いた。
『不味そうな蟹みでぇなツラしてっと』
「そっちじゃねぇ。ひとの方じゃ」
『髭面だど?』
「よし、そっちは任す。こっちは調停者だって事で話をしとけ」
『もうそう話して退避の説得中だ。…ながなが頑固だげっとな…』
「結構結構。頑張って帰って貰え」
『んで、そっちは?』
「めんけぇおなごじゃ」
『そっちでねぇ』
「合わせて二十は仕留めた」
『…多いな』
「まだまだ居るやもしれん。それに…、こいつらはたぶん「兵隊」じゃ。異常気象の原因になり得るような妙な力は持っとら
んし、親玉は別に居るじゃろうなぁ」
『どうする?』
「儂はこのまま親玉を探す。どうにも寒ぅなってきおった。異常気象の原因が「そやつ」だとすれば、近辺におるかもしれん」
『ならこっちは…』
「何人入っとるのか判らんが、調停者達に下山を促しつつ雑魚始末じゃ。他の隊にもそう伝えろ」
『加勢は要らねぇのが?』
「ユウヒ、おめぇの親父殿を舐めちゃあいかんぞ?まだまだ当主を降りる気はねぇ」
『…判った』
指示を出して通信機を懐にしまったユウキは、
「………」
一度足を止め、フレイアの足跡から目を離し、視線を前方へ向けた。
「…おい…」
吹き付けてくる風が、一層冷たい。
「おいおいおい…」
顔を顰めた巨熊は、尾根の向こうに突如聳えた白い柱を凝視する。
それは、筒状に雪が舞い上がった、氷雪の竜巻だった。
(つむじ風が立つような風向きでも強風でもねぇし、むしろ地形から見たら起こる方がおかしい…。って事は、温度差でアレ
か!?ありゃあ、真ん中は一体マイナス何十℃じゃ!?)
驚きを隠せないユウキだが、既に走り出している。白い竜巻が生じているのはフレイアの足跡が続いた先…。つまり、彼女
が接触したと考えるのが自然。
(あのお嬢ちゃん、親玉に会うたか!)
ユウキの身を燐光が包む。国際的な基準ではエナジーコート、この国では以前操光術と呼ばれていた能力である。神代の血
族は代々ほぼ必ずこの能力を持って生まれており、ユウキもまた例外なく生まれつき力場を操る事ができた。
力場を纏えばその内側はまるで別世界のように安定した環境が保たれ、銃弾はおろか温度差、細菌、毒ガスに至るまで、使
用者に害となる事象を防ぎ止める。持続させられるならば過酷な環境下でこれほど役立つ能力も無い。
低出力で薄衣程度に力場を纏うユウキは、向かい風も冷気も押し退けて突き進むが…。
(この風に寒気!あのお嬢ちゃん、いくら厚着でも生身じゃあそう保たねぇ!)
「やあ…。ご無沙汰…!」
舞い上がる雪の中、剣を地に刺し、手掛かりにして踏ん張りながら、フレイアは宙を見上げる。
吹きつける雪に顔を叩かれながら、ゴーグルをはめた双眸が微動だにせず映すのは、白の中で羽ばたく巨大な影。
そのシルエットは、蝶に酷似していた。
薄く透けて見える真珠色の翅。
滑らかな光沢を持つ蛇腹状の腹部。
中央に真紅の宝石のような、一抱え程もある半透明の球体を備える胸部。
丸く大きな、美しい蒼に煌く一対の複眼と、アゲハ蝶のソレにも似た一対の触覚。
ただし、体長は3メートルほど。広げた翼の幅は8メートルを優に超える。
ソレは、荒れ狂う風と雪の中、竜巻の中心で、別の世界線に居るかのように、ゆるやかに、穏やかに、羽ばたきながら宙に
留まっている。
アゲハに似たその顔は、蒼い複眼にフレイアの姿を映したまま動かない。
「やっと会えたね…。探したよプシュケー…!」
初遭遇時と同様に、フレイアは蝶を睨め上げながら拳銃を抜いた。
即座に三点バーストを二射。支えにしていた剣を引き抜き、牽制と同時に駆け出す。アンブレイカブルの影響を受けた銃弾
は、巨大蝶の甲殻に当たって止まり、それでもなお食い込むように回転を続けたが、能力の持続時間が切れるなり、浅い凹み
だけを残してパラパラと落下した。
(何発撃ち込めば壊せるかな…。気が遠くなりそうだよ!)
フレイアの狙いは蝶の傍に立つ、強風でしなった大木。元は樹氷だったか今は丸裸にされており、足場になる枝も見切りや
すい。
背負ったザックには吸着型破甲爆雷四つを一括りにした秘密兵器を入れてある。接近してそれらを仕掛け、爆殺するつもり
だった。
蝶は宙にホバリングしたまま、その六本の脚をフレイアに向けた。
この人間を知っている。一度自分を捕らえた中に居たひとりだと、プシュケーは個体としてのフレイアを認識している。
元のバランスは蝶その物のプシュケーは、その脚を一気に十倍ほどまで伸ばした。射出するように素早く。
蛇腹状のそれは短い筒が組み合わされた構造で、口吻と同じ役割を果たしており、それで獲物を突き刺して食料とする。
連続して飛来した脚が雪面を次々抉る。連続した伸縮刺突は目にも止まらないほどで、まるで雹が落下するように雪面を立
て続けに穿ち、雪煙を上げる。
全力疾走して範囲から逃れつつ、追って来る脚の先端を反応良く避け続けながら移動するフレイアは、風除けとなる木々の
合間を縫い、プシュケーに、その傍の木に接近してゆく。
(もうすぐ…!)
首尾よく辿り着いた木の根元から、斜めに傾いだ幹に駆け上がるフレイア。靴裏からカシュンとスパイクが飛び出し、凍っ
た幹に爪を立てる。体を持って行かれそうな強風の中で、手も使わずバランスを保ち、凍った幹を駆け昇る身ごなしは、本当
に生身の人間かと疑いたくなるほど。まるで野生の四足獣のようでもある。
人間離れした身軽さで幹を駆け登りつつ、フレイアは肩にかけていたザックのベルトを引っ張り、ワンタッチロックを解除
する。
瞬時にベルトが解けたザックを左脇に抱え、右手を中に手を突っ込みつつ、半身になって右側面をプシュケーに向け、左の
握り拳を胸に抱えるように寄せて構え、前に向けつつ狙いを定める。
左手のグローブには仕込みワイヤーが搭載されている。射程はおよそ15メートル、強度は体重43キロのフレイアを牽引
するのがせいぜいだが、サポートとして使う事でワイヤーの到達距離まで跳躍できる。この強風の中でも、プシュケーが動い
ても、ワイヤーさえ引っ掛かれば到達は可能。
(ドンピシャ射程距離!ここで…!)
しかし、フレイアがワイヤーを射出しようとした、まさにその瞬間…。
(しまっ…!)
風に耐えていた木が、限界に達して根を浮かせた。
ガクンと大きく足場が揺れて、射出したワーヤはプシュケーの斜め上へ飛び、伸び切った所で風に煽られ、あらぬ方向へ流
された。
しかも悪い事はそれだけではない。靴底の爪が木肌から外れて足が滑ったフレイアは、風に煽られて背中から木の幹へ叩き
つけられた。
「っぐう!」
かろうじて左手で枝を掴み、ずり落ちるのは避けたが、右手で掴んだ切り札を収めたザックは手放せない。その不自由さ故
に受身も取れなかったフレイアは、肺腑の空気を搾り出されて呻いた。
その動きが止まった瞬間を、プシュケーは見逃さない。
シュン…と風を切って伸びる脚。視認しながら、回避が間に合わない事を悟るフレイア。一か八か、剣を抜いて腹で受ける
つもりで手を腰に伸ばしたその時、
「「じゃすたもーめんと」じゃ!」
嵐を貫く銅鑼声と丸い塊が、プシュケーの脚に横から当たって弾き飛ばした。
驚いてフレイアが向けた視線の先では…。
「ぬふっ!「びんご」!」
雪面に踏ん張る巨大な熊が腰を沈めて重心を落とし、大徳利を投擲していた。握った手元のその紐は、明らかに体積が違う
不自然な伸び方をしている。
(さっきのおじさん!?…このロープ…、レリック!?)
凝視するフレイア。雪が舞う強風の中、その優秀な視力は縄目がブレて重なりつつ、弛みなく長さを自己調節する紐の異常
さを見て取る。
(半物質型レリック!?激レアじゃない!この国のハンターってこんな物まで持ってるの!?…いや…、もしかして…)
存在の位相がずれているとされるこの手のレリックは、発見数が極めて少なく、殆どの国では研究優先で確保され、一介の
ハンターが所持する事はまず不可能。それを使うこの熊は、ひょっとしたら一介の調停者などではないのでは?とフレイアは
疑問を抱く。
(こいつぁ大物じゃ。見た事もねぇアヤカシじゃが…、さて、力はどれほどじゃ?えぇ?)
血が滾り、ユウキの笑みが凶暴さに彩られる。強敵に出会って闘争本能が揺さぶられ、普段は腹の底に眠っている獰猛な面
が表に出て来ていた。
気ままに気楽に奔放に、のんびりだらだら過ごし振る舞う事を好むユウキが「奥羽の鬼神」の異名で呼ばれるのは、腹の底
では強敵との潰し合いを求めている、血の気が多いこの本性故のこと。
(しかしまぁ、優先はお嬢ちゃんの身の安全、と…)
昂ぶりを抑えてフレイアに目を向け、ユウキは声を張り上げた。
「お嬢ちゃん!ソイツにしっかり掴まっとくんじゃ!こっちに引っ張るからよぉ!」
プシュケーの脚を弾いた黒金威しは雪面に没しており、ピンと張られた不動索はユウキの手元から一直線になっている。倒
れつつある木から安全に脱出できる救助の手に加え…。
「「じゃすたもーめん」ゆったじゃろうが雷音破!」
唸りを上げた左腕の五指から光弾が飛び、フレイアに襲い掛かった残りの五本脚を正確に迎撃する。力場が引き起こした爆
発でプシュケーも流石に怯んだ。が…。
(あんな細っこい脚が、雷音破の直撃でも傷一つ付かんじゃと?どんな頑丈さじゃ…)
ユウキは予想外に強固なプシュケーの外殻に舌を巻く。爆発が収まった向こうでは真珠色の艶やかな外殻が健在だった。
傷の後遺症が残る左腕は、全力でやれば指先が震えて狙いがずれる。それ故に少々加減したというのもあるが、これで無傷
ならば通常攻撃では秒殺とは行かない。ならばやはりフレイアを退避させるのが優先となる。
「お嬢ちゃん!引き寄せっから早くソイツに掴まれぃ!」
しかし…。
「ありがとおじさん!けど…!そのままロープ張ってて!」
フレイアは不動索に飛びつくなり、逆上がりの要領で一回転して、ピンと張ったそれに靴裏を合わせた。
「んな!?」
さしものユウキも面食らって素っ頓狂な声を上げ、引っ張られた不動策をしっかり握り、ずしっとさらに腰を沈める。
策の張力を利用し、フレイアは反動を使ってプシュケーめがけて跳んだ。
右手には引っ張り出した吸着型破甲爆雷。四機を一括りにベルトで連結したそれを鞭の様に振るう。狙いは頭部と胸部の境
目、必殺の位置。
(どんな怪物だろうと、首を飛ばせばっ!)
「いかん!よせお嬢ちゃん!」
巨大蝶の挙動に不審な物を感じ、ユウキが吼えたその直後、プシュケーがその羽を大きく広げ、羽ばたいた。
突如として気圧が狂い、乱気流が発生した。羽そのものが羽ばたきで起こした風圧ではない。プシュケーは気圧そのものに
干渉する能力を持つ、生きた気象兵器でもある。気圧の急激な変化で耳を痛め、平衡感覚を失ったフレイアは眩暈に襲われ、
その手から爆雷がすっぽ抜けた。
そして、生じた乱気流が爆雷の塊をあらぬ方向に吹き飛ばして雪中に埋没させ、体が軽いフレイアを簡単に吹き飛ばして、
高々と宙に打ち上げる。
「お嬢ちゃん!」
黒金威しを引っ張り戻しながらユウキが叫ぶ。放物線を描いて飛ばされたフレイアは、20メートルの高さから雪面に落下
した。下は雪で、何とか受け身も取ったが、この位置エネルギーは如何ともし難い。平衡感覚を取り戻せないままさらに十数
メートル坂を転がり落ち、そこへ…。
「う、うう…!」
衝撃で動けないフレイアの碧眼が、坂の上から迫る白を捉えた。
乱気流で起こった表層雪崩は、悲鳴すら上げさせずに彼女を飲み込む。ごうごうと唸り軋む雪の苦鳴の向こうに巨熊が呼ぶ
大声が聞こえた気もしたが、すぐさま雪中に沈んだフレイアの耳には届かなくなった。
(死ねない…!まだ…!まだ死ぬわけには…!)
口元を覆い、窒息しないように空間を保ちながら、雪の中で耐えるフレイア。だが、流動する雪に揉まれ、氷塊や折れた枝
に体中を叩かれ、手足は感覚を失い、冷たい雪へ完全に埋もれて…。
(ま…だ…!仇を…、取れて…な…!)
弱々しく伸ばそうとした手が本当に伸びているのかも、上下がどちらなのかも判らない。
程なく、フレイアの意識は白く、白く、塗り潰されて…。