第二十三話 「フレイア・ゴルド(三)」

(暗い…)

 薄く開いた目が周囲の状況を確認するまで、数秒を要した。

 焦点が合い始めて最初に認識したのは雪。押し固められた雪の天井。北原で幾度も篭った馴染みの景色。雪明りだけの、暗

い、見慣れた雪洞の空気。

 分厚く毛布を被っているようで、寒いどころかやや暑いほどだった。

 夢うつつのまま、自分は何をしていたのだろうかと考えたフレイアは、次いで戻った感覚…痛覚が、体中の鈍痛を一斉に訴

えて呻く。

 自分でも驚くほど弱々しい呻きに反応したのは、一緒に雪洞に篭っていたセスルームニルの隊員。ではなく…。

「お?気が付いたかのぉ?」

 毛布が口をきいた。

 熱にうかされた頭で一瞬そんな事を考えたフレイアは、間近にぬっと現れた熊の顔を認める。

 あれ?誰だったっけ?とゆるゆる頭が回る。薄暗い中で見る丸い輪郭と声は記憶に新しい。

 少しして、道中で出会った大きな熊のおじさんだ、とフレイアは思い出した。だが、どうして自分達が一緒に居るのかはよ

く判らない。プシュケーに挑んだ事は覚えている。吹き飛ばされて、その後はどうなっただろうか?と記憶を手繰る。

「ふぅむ。熱は下がっとらんのぉ。もうちっと眠っとった方がええな」

 フレイアの額に手を当てたユウキは、「外は嵐じゃ。身動きもとれん。開き直って休むが吉じゃぞ」と笑いかけた。

「…こ…こは…?」

 掠れた声を漏らした喉がヒュウヒュウ鳴った。息があまり吸い込めない。呼吸が浅い。声を出しただけでむせ返り、弱々し

く咳き込んだフレイアに「無理に喋らんでええ」と優しげな声で言い聞かせたユウキは、簡単に状況を説明した。

 フレイアが吹き飛ばされた直後、ユウキはプシュケーに特大の光玉を立て続けにお見舞いした。

 呆れるほど頑強なプシュケーはそれでも落ちず、甲殻表面に微細な傷を負っただけだったが、雷音破の左右つるべ撃ちは流

石に堪らなかったようで、嵐を強めながら高く飛翔した。

 飛び去る蝶をしかしユウキは追跡せず、すぐさま雪崩に巻き込まれたフレイアの救出に向かい、広範囲に渡った表層雪崩の

痕跡を、流された方向に目星をつけて必死になって掘り返した。

 ユウキをまきたかったらしいプシュケーが手加減無しに起こした嵐は凄まじく、気温はマイナス30℃にもなった。

 フレイアの凍死が先か、窒息死が先か、時間勝負で雪を掘り返したユウキは、運良く彼女のザックのベルトを発見した。

 天が味方したとしか思えない幸運。重点的に雪を取り除いた結果、ユウキは1.5メートルほど雪を掘り返したところでフ

レイアを見つけ出した。

 呼吸は止まっていたが、その場ですぐさま人工呼吸で息を吹き込み、胸を大きな手で前後から挟んで繰り返し圧迫し、蘇生

を試みた。

 彼女自身の生命力と鍛えられた体の賜物だろう、体温の低下と全身打撲の目に遭いながらも、フレイアは息を吹き返した。

顔などの露出した部位に擦り傷はできていたが、幸いにも派手に出血する傷を負わなかったのも幸運だった。

 何とか心肺機能を復活させたユウキは、近場の樹氷群に飛び込み、適度な厚さに積もった雪に頭から突っ込んでモグラのよ

うに掘り返し、手早く雪洞を築いてフレイアを押し込み、自分の衣類で包んで保温した。

 それから改めて、褌一丁という知らぬ者が見れば気が狂ったような恰好で燐光を纏い、寒風も雪も物ともせず、雪洞を拡張

して自分も入り込み、丁寧に雪のブロックを作って出入口に蓋をした。

 雪は止まず、まともに動けない寒波が荒れ狂う中、御庭番達に連絡して自分達の無事を知らせるとともに、遭遇した蝶の怪

物の事を告げ、防衛優先で安全な場所まで退避するよう命じてある。

 それから、十三時間と少し経って今に至るのだが、時間をかけて細かな説明をするよりも、まずは眠って休んだ方が良いと

考えたユウキは、フレイアを安心させるために気楽な口調で、重要な事だけ抜き出して説明を終える。

「敷いた防衛網で、あやつが何処かへ行こうとしたらすぐに判る。…まぁ、この天気じゃ。原因であるやっこさんは、割と近

くに留まっとるんじゃろうなぁ」

 言うべき事を隠さず伝えたのは、ある程度状況を知ってすっきりしないと休むに休めないだろうと考えたからだった。

「そ…か…」

 ではもう少し休もうと、フレイアは熊の忠告を受け入れた。

 若くとも、フレイアは幾度も死線を潜り抜けてきた戦士。自分の状態と外の状況を考え、どうすべきか冷静に判断できる。

 身を苛む高熱に、全身の打撲、そして悪天候…。焦っても仕方がない事も、今のコンディションでは戦えない事も、重々理

解できた。

(大した肝っ玉じゃ…)

 素直に眠りについたフレイアの顔を見つめながら、ユウキは口元を綻ばせた。

 あの時ユウキは、果敢にプシュケーへ挑む彼女の横顔から、若さ故の無鉄砲さや自信とは違う、焦りにも似た物と悲壮なま

での覚悟を感じ取った。単に仕事というだけではなく、何か事情があってアレを仕留めたがっているのだろうと察している。

(…にしても、役得役得…!ぬふふ!)

 不謹慎に喜ぶユウキ。実は、フレイアの体を包んでいるのは毛布ではなく、褌一丁になったユウキ自身の巨体。

 時折手の平サイズの小さな力場を作り、ゆっくり熱崩壊させて雪洞内の温度を保ってはいるが、火を炊く等のまともな暖は

取れない状況。ユウキの豊かな被毛とたっぷりついた皮下脂肪は天然の防寒具で、下に大風呂敷を敷き、上から戦装束をかけ、

フレイアを抱え込んで全身で温めれば電気毛布のように温くなる。

 冷えた体を温めるのはひとの体が一番だし仕方がない。と、公然と抱き合う理由ができてユウキは色々と大喜び。

(あ~、しばらく嵐が止まんとええんじゃがなぁ~!)

 眠っている間にほっぺにチューでもしようか。たわわな胸のラインを目に焼き付けておこうか。それとも…。

 よからぬ事をあれこれ考えている内に、股間の愚息がどんどん元気になっていったユウキは…。

(ぬう…。いかん。センズリはいかん。それはいかん…)

 いきりたったソレを褌の布越しに掴み、ウンウン唸って我慢する。

 倫理的、道徳的な問題で堪えているわけではない。理由は別にあった。

 ユウキ達の間には、マタギ達と同じく「山の神は醜女である」という言い伝えがある。

 その恵まれていない外見と問題がある性格のため伴侶に巡り合えておらず、常に男に餓え、常に女に嫉妬しているとされる

山の女神は、機嫌が悪いと天候を荒れに荒れさせる。

 そんな時、女神の機嫌を取るためのまじないという物も伝わっているのだが…。

(センズリは…!それだけはいかん…!)

 「男性の自慰」。万年男日照りの山の女神は、これを披露する事で機嫌をよくするとされている。

 自慰をしたら山の女神が機嫌を直して天候を好転させてしまうかもしれない。

 何せ神様である。居るかどうかは判らないが、本当に居ても不思議ではないという頻度で「センズリ祈祷は嵐を鎮める」と

いう経験則がある。

 何せ神様である。あの蝶の妖怪の気象操作すらも無視して景気良く快晴に変えてしまう可能性がある。

 実際問題、「晴れたら状況が良くなる」だけで困る事は一つもないはずなのだが、公然と抱き合っていられる理由が欲しい

という下心があるユウキ個人は晴れたら困る。

 悶々と我慢する巨熊は、腰を振りたくなるのも手を動かしたくなるのも、発揮の仕方をいささか間違えている鋼の自制心で

圧し留め…。





 ゴウゴウと唸る風雪を、覗き穴からユウヒは眺める。

 雪洞入り口は雪を固めて造ったブロックを石垣のように積み上げて塞いでおり、一つ除けて覗き窓をあける事もでき、一度

外に出た後も積み直して塞げる造り。いざとなれば圧し崩してすぐに外へ出る事も可能。粉雪なのでブロックは造り難かった

が、湿らせた塊を核にして固めてある。

「止みませんね…」

 同じ雪洞に篭ったヤクモが不安げな声を漏らす。

「こんでは親父殿を探しにも出はれねぇ。蟹モドギ共の姿も見えねぇが、なじょすっか…」

 ユウキからの無線指示により、御庭番もセスルームニルも点在して雪洞を掘り、見張りを立てて防衛ラインを敷いた。この

まま天候が小康状態になるのを待ち、それぞれの頭と合流するのが最善の手だが…。

「ヤマガタっつったあのおどごの話じゃあ、蟹モドギ共の親玉は相当に厄介な相手みでぇだ。あの親父殿がそうそう遅れを取

るどは思わねぇが…」

 ユウヒが案じているのは父が負傷者を保護しているという点だった。父親自体は何でもなくとも負傷者は話が別。傷の状態

と相手の力、そして天候次第では助からない。自分達と同じく雪洞を掘って急場を凌いでいるヤマガタとその仲間達の話から

知ったが、どうも父が救助した女性は彼らのリーダーらしい。彼女が危ういとなれば、いかに制止しようとヤマガタ達も動く

だろう。

 ついでにもう一つ心配なのは…。

(美人にうつつ抜がしてヘマしでがさねげいいげっとな…)

 腕は立つが、女性が傍にいると何かとやらかす父親である。良いところを見せようと空回りしたり、胸を覗き見ているうち

に標的を取り逃がしたり、やらかしそうな失敗は枚挙に暇が無い。

「…ふぅ…」

 気を揉んでも仕方がない、とユウヒはため息をつき、「腹減ったな…。動ぎようがねぇ内に飯食っとぐべ」と、ヤクモを振

り返って指示を出した。

「えええ…、食欲がおありなんですか…?」

 ヤクモは丸顔を泣きそうに歪めた。雪中行軍に次ぐ雪中行軍、雪洞造りの重労働、蟹モドキとの戦闘、そして明らかに異常

なこの天候と、総大将不在の不安な状況…、疲労に加えてメンタル的な疲弊もあってヤクモは食欲など欠片もない。

「食えっ時に食っとがねげ、いざって時に動げねぇ。動げねげ死ぬ。死んでがらでは食えねぇど」

「………」

 時折、ユウヒはその生死観を淡々と語る。そんな時ヤクモは、若き主を遠く感じる。

 豪快であけすけで抜け目のないユウキや、穏やかに粛々と御役目を受け入れていた先代当主とも違う。生真面目を通り越し

て極端に徹底しているユウヒには、狭量な価値観と危うい諦観が付き纏っているように感じる。

「………」

 ヤクモの表情に気付いたユウヒも口をつぐみ、彼我の距離を実感する。

 

―深遠を覗けば深遠に見返される…。努々忘れるな…。それその物になってしまわないように…―

 

 かつて、生まれて初めてひとを殺めた日に聞き、胸に刻んだ言葉が、ユウヒの耳に蘇る。

 傍に置きたいと思うヤクモと自分との距離は、日に日に開いている気がした。

「…飯だ。晴れで忙しぐなったら食ってる暇もねぐなっからな」

 少し口調と表情を和らげるユウヒ。

「…はい…」

 その取り繕った態度がまた、ヤクモに距離を感じさせた。





「お?目ぇ覚ましたかお嬢ちゃん。気分はどうじゃ?」

 五時間後、再び目を覚ましたフレイアの顔を、ユウキは目をショボショボさせながら覗きこんだ。

「ん…、おかげさまで…、ケフッ!」

 喉がヒリついて咳き込み、それで頭痛と体中の鋭い痛みを感じ、フレイアは「よし…!」と胸の内で呟いた。

 鈍かった痛覚が先に目が覚めた時よりも元に戻っている。痛みがはっきりしているならばそうそう死ねない。何よりの復調

の兆しだった。

「おっと、喉が乾燥しとるか。ちっと待っとれ」

 のっそり身を起こしたユウキを腕の中から見上げ、フレイアは気が付いた。自分が下着一枚の熊に抱かれていた事に。

 さて弁解しようか、と口を開きかけたユウキに、

「面倒かけちゃった…。ありがと、ごめんねおじさん」

 フレイアは申し訳無さそうに詫びた。

 状況から見て、凍死させないためにやむをえずそうしたのだろうと考えた。

 喜々として裸で抱きながら欲情していた、などとは露ほども考えなかった。

 性欲と戦い続けて妙に疲れた顔をしているユウキを、

(一睡もしないで辺りを警戒しながら、私を介抱してくれてたんだ…)

 見事に誤解してしまう危うい善人フレイア。

「何の何の。困った時はお互い様…」

 応じるユウキの言葉が途切れた。

 体を起こそうと身じろぎしたフレイアは、つこうとした手で硬い物に触れ、ソレに気付く。

 見下ろした瞳が映したのは、胡坐をかいたユウキの太い脚の間。フレイアが手をついたのは太腿に寄せられていた関節まで

太い巨熊の踝部分…丁度股座にあたる位置。

 土手肉の下に褌の紐を隠す丸々とした出っ腹の下で、褌の布地がピコンと盛り上がり、小さなテントを作って、手をついた

フレイアの手首に触れていた。

「いやぁ!仕方がねぇ状況とはいえ役得じゃった。お嬢ちゃんがあんまりべっぴんさんなもんで、歳甲斐なくセガレもこの通

りじゃ。がっはっはっ!」

 頭を掻きながら豪快に笑って誤魔化すユウキ。愚息の無礼をも相手を持ち上げる材料に利用する老獪さ。普通ならば下品な

物言いに怒ったり不快感をあらわにしたりするものだが…。

「んふ!お上手なんだから、おじさん!」

 不快がるどころか照れ笑いを見せる、危う過ぎる純粋人フレイア。

 言い訳して追求を逃れるどころか、疑われもしなかったユウキは、

(このお嬢ちゃん、素直過ぎてちっと危なっかしいのぉ…)

 流石に少しフレイアが心配になった。



 ユウキは力場の応用で球体の熱源を作り、持参していた鍋をそれにかけ、雪を溶かして湯を沸かし、シソと梅、辛子からな

る粉末茶を淹れてフレイアに飲ませた。

「あ!私、フレイア・ゴルド」

 暖かい茶を啜りながら、フレイアは思い出した様子で名乗った。

「ゴタゴタしてて自己紹介もしてなかったよね?失敗失敗」

 人懐っこい笑みを浮かべるフレイアに、ニィッと笑ってユウキも応じる。

「ユウキじゃ。好きな食い物は蟹と海老。趣味は山菜採りじゃ」

 さりげなくプロフィールをちらつかせてお近付きになろうとする熊親父。

 ピリリと辛い茶は効果抜群で、乾燥した喉を湿らせ、飲むなり胃がポカポカし、体が内側から温まった。

 改めてユウキの姿を確認したフレイアは、軽いデジャヴを覚えた。

 会った事はない。会話するのも今回が初めて。なのに、この巨体と逞しく勇壮な印象を何処かで味わった気がする。

(…あ。北原に入ったばかりの頃、エスキモーの拠点跡で…)

 蒼い瞳が思い出す。太古の民が遺した画の、狩人と思しき獣人の姿を。

 そういった絵をフレイアはいくつか北原で見たが、銀狼と並んで多かったのが赤毛の熊だった。

 フレイアが最初に見たのは、赤味が濃い被毛に覆われた熊の狩人の絵。その狩人は、セイウチが四肢を生やしたような、現

在は確認されていない巨大な獣を討ち取っていた。

(ああ、そうだ。あの絵を見たときも、力強くて頼もしいって感じたっけ…)

 物思いに耽るフレイアの具合はだいぶ落ち着いた。

 だが、嵐はおさまらない。

 通信でそれぞれの仲間と連絡を取り合いながら、フレイアとユウキは雪洞に身を寄せ続ける。

 急いで造った雪洞は少々狭く、ユウキが座ると頭を下げなければならず、それでもうなじが天井に触れるほどだった。

 長時間篭っている内に曲げっぱなしの体がくたびれそうだったし、現状では他にできる事も無いので、ユウキは雪洞の改築

工事に取り掛かった。

 外に出て上に雪を重ね、さらに天井を押し上げて拡張しつつ押し固め、居住空間を広げたユウキは、ついでに内壁に数箇所

窪みを作って棚にし、蝋燭を立てられるようにする。

 勝手知ったる雪の山。先代の折檻で冬山に裸で放り出された折も、下山するまでに肥えて帰って来るほどの男である。北原

暮らしが数年に及ぶフレイアでも驚くほど、ユウキはこの環境に順応していた。

 しかも、単に嵐に耐えているという状況ではない。近くにプシュケーや兵隊が居るというこの状況下で、落ち着き払って腰

を据えられる肝っ玉にも恐れ入った。

「ここ奥羽の北端は世界一の豪雪地帯じゃ。降る雪の量だけなら北原より多くてのぉ」

 雪慣れについて訊ねたフレイアは、ユウキの返答で感心する。硬く凍てついた北原の雪原と、起伏に富み、細かな雪が堆積

するこの山では勝手が違う。寒さにも雪にも慣れていると自負していたが、見込みが甘かったと反省しきり。

 仮住まいの整備が済むと、「まずは飯じゃ。腹が減っては戦ができん」と、ユウキはもう一度沸かした湯に乾燥させた肉、

茸類、長葱、若布を入れて茹で、味噌をといて味を整えると、キリタンポのように固まった干し飯を入れて柔らかくした。神

代家の携帯食料一式である。

(期待しとった「鍋でも一緒に…」とは少々違うが、まぁええか)

 辛子入りの茶は効果があり、胃が刺激されたフレイアは空腹を覚えた。勧められるまま遠慮なく口にした鍋は熱く、味噌が

きいて美味い。疲弊し、怪我を治している最中の体に染み渡ってゆく。

 食事を摂って英気を養いながら、ふたりは情報交換に入った。

 ここまで来るとフレイアも諦めがつき、トラブルを避けるために密入国した点だけは伏せて、自分達が北原からプシュケー

を追って来た事を説明する。

「なるほど。どうりで焦っとったわけじゃ」

「焦る?」

 きょとんとしたフレイアは、プシュケーに挑む自分を見ていたユウキが、頑なさと焦燥を感じたと述べると、下唇を噛んだ。

「若さ故の無鉄砲さか、功名心か、はたまた金銭欲かと思わんでもなかったが…、どうにも違うのぉ」

 目的が達せられるなら犠牲を厭わない。そんな張り詰めた覚悟が伝わって来る顔だったとユウキから語られると、自覚があっ

たフレイアは視線を下げた。

「冷静なつもりだったけど、まだまだだなぁ…」

 悔しげに呟いたフレイアが脚の上でギュッと両拳を握ると、巨熊は「ふぅむ…」と思案するように鼻を鳴らす。

「仕事の責任感…と片付けるには随分と入れ込んどる様子じゃ。何ぞ、個人的な因縁でも?」

 無理に話す必要は無いが…。と付け加えたユウキに、しばし視線を下げて空になった鍋を見つめていたフレイアは、おもむ

ろにザックを手繰り寄せ、ジッパーを開けて中から拳銃を取り出す。

 フレイアの手に余るサイズの無骨な外観の拳銃は、スタームルガーMkⅢという。

「アレの名前は「プシュケー」…。カテゴリー0の危険生物…」

 その細かな傷が無数についた拳銃を撫でながら、フレイアは語り始める。

「零…、分類不能か。やはり実在する神話や伝説の類じゃったか」

 どうりで手強いはずだと顎を撫でるユウキ。

「アレが目を覚ました時…、私達は、ちょうどその現場に居たんだ…」





 プシュケー。

 北原の氷の下で眠りについていたソレは、遺物と同源と推定される存在。現在の技術で生産、複製ができる危険生物とは一

線を画す、古代からそのまま遺されたモノ。

 事の発端は、北原の浅い区域で見つかった先住民族…エスキモーの生活痕と思しき遺構の発掘作業における、杜撰な抜け駆

けにあった。

 北原に埋まる貴重な遺物や遺構は、世界中の何処と比較しても飛びぬけて多い。推定埋蔵量で言えば、これまでに確認され

た世界中の秘匿事項関連物の30パーセントにも及ぶ量が未だに手付かずのまま埋没しているという仮説もある。

 そんな北原での共同調査発掘作業は、各国から均等に人員を出す事になっている。だが、その協定は厳格に遵守されている

とは言い難い。本格的な共同調査が始まる前に、「調査前の環境整備」と称して先に手を入れ、目ぼしい物を秘密裏に持ち出

してしまう組織もある。

 未開の地ですらも、先進国同士がイニシアティブを巡って水面下の争いを続けていた。

 今回のプシュケー蘇生も、功を焦ったひとりの政府高官の抜け駆けが引き金となり、悲劇が起こった。



「精が出ますな」

 小康状態の曇天を見上げるフレイアは、かけられた声に首を巡らせた。

「やあ、ヴァイトリング大尉。そろそろ交代の時間?」

 人好きのする笑みを浮かべて応じたフレイアに、精悍な顔立ちの狼が「十五分ほど前だが」と目を細めて頷く。

 すらりと背の高い美丈夫の名はロルフ・ヴァイトリング騎士大尉。狼らしい男前の顔だが、微笑すると子を眺める親のよう

な優しい顔つきに様変わりする。

 腰に長剣を帯び、太腿に拳銃を収めたホルスターを装着している。纏った純白の雪中迷彩服には儀礼用の金の刺繍が施され

ており、見る者が見れば階級と所属が判るようになっていた。

 目下であるフレイア達にも対等の相手として丁寧に接し、部下にもそれを徹底させる紳士である。何より、職務に忠実であ

りながらも柔軟な思考を有しているところに、フレイアは好感を抱いていた。

 ドイツの部隊、ヴァイスリッターの中隊指揮官であるロルフは、遺構発掘現場を背にして地平を見渡し続けていたフレイア

に並ぶと、笑みを絶やさないまま世間話をする体を装って告げた。

「…中が何やらきな臭い様子です。ひょっとすると、他の調査団が到着する前に「やる」つもりかもしれませんよ」

「…それは穏やかじゃないね」

 笑みを浮かべたままフレイアも応じる。ロルフは遺構内に入った調査隊の不審な気配を察し、時間に余裕を持った交代を装っ

て接触していた。早過ぎては怪しまれるが、十五分前ならばおかしくはない。狼の配慮は完璧と言えた。

「面白そうな遺物でもあったのかな…?」

「ただの遺物とは限りません。ちらりと見ましたが、調査隊のひとりが妙に顔を紅潮させて…、見たところ呼吸も尋常ではな

い様子でした」

「へ~…」

 じゃあ、危険生物の死骸の氷漬けでも見つかったのかな?そうフレイアが言葉を発する直前、ボン…、と、後方で音がした。

 素早く得物に手を掛け、同時に振り向いたふたりが見たのは、遺構を覆うように張られた天幕が、内部から爆ぜ割れて飛び

散る光景。

「総員!現場へ急行!」

 無線に叫んだ狼は、「何だあれは…!?」と駆け出しながら呻く。

 並んで疾走するフレイアもまた、各隊員に通信で参集を呼びかけながら、その初めて見る異形に目を奪われた。

「蝶…にも似てるね…」

 真珠色の巨大な蝶。その感想に狼も顎を引いて同意した。そしてふと気付く。

「真珠色の…蝶…?カイト…?まさか…、あれが「プシュケー」というモノか?」

「プシュケー?」

 聞き返したフレイアに、「「命を吸う真珠の凧」と称されたモノについて、ギリシアの文献で読んだ事が…」と応じた狼は、

正面からの強風に脚を鈍らせ、顔を腕でガードした。

 雪と氷が礫のように叩きつける向かい風。蝶と遺構の元へ向かおうとするリッターとセスルームニルの隊員達も、突如牙を

剥いた強風に歩みを鈍らされる。

「…何をしているんだ…!?」

 竜巻を発生させている蝶は、その下の地面へと脚を伸ばしていた。

 文字通り「伸びて」いる。サイズはともかく元々のバランスは普通の蝶と変わらなかったプシュケーだが、今は六本の脚が

地面へ伸び、何かに触れて…。

「…調査隊員が!?」

 フレイアが叫ぶ。プシュケーは伸ばした足の先端を、地面に横たわる調査隊員達の体に突き刺していた。

「ああ…!」

「おおおおお…!」

 苦鳴を上げる調査隊員達。救いを求めるように、あるいは這いずろうとして、伸ばしたその手がボキリと、防寒服の中で折

れ崩れた。

「「命を吸う」…!」

 呻く狼。プシュケーに体液も体温も、生命維持に必要な物を残らず吸い出された犠牲者は、まるで氷像のように凍て付き、

ボロボロと崩れてゆく。

 接近が難しいと判断し、フレイアは拳銃を引き抜き威嚇射撃を敢行する。が、距離もあり、強風に煽られて踏ん張りながら

の射撃である。六発撃って当たったのは一発だけ。しかも羽に命中した弾丸は弾かれてしまっていた。

 よく見れば、羽に浮く脈のように見える物は全てが蛇腹構造の骨組み。よほど強固なのか、アンブレイカブルの影響下にあ

る弾丸でも破壊できない。

 四方から駆け寄る隊員達に見向きもしないプシュケーは、胸部の赤い玉を明滅させ、そこから分裂させるように小ぶりな玉

を落とす。

 それは雪面に落下するなり色を消し、真っ白に濁り、すぐさまひび割れ…。

「子供を産んだ!?」

 タカアシガニにも似た怪物が球体を破って現れ、見る見る大きくなると、フレイアは歯噛みした。

 気象操作能力。強固な体。何百年か何千年か氷の下に在っても生存できる生命力。そして復活した直後から問題なく動ける

活動力。さらに、単身で子を産む…。

「あれは間違いなく危険度分類不能…カテゴリー0です!」

 ロルフが警戒を促して吼える。

 カテゴリー0。一般的な危険度での分類が不可能な存在。伝説や神話に登場する存在そのままの、人知を超えた超越生命…。

「嘘でしょ…!「そういった装備」なんか準備して来てないのに!」

「同じく…!ノーザンボールまで引き返せば、遠征出発前の調査大隊と騎士少佐のお歴々がまだ居るはず…。その戦力とレー

ルアハトアハトを拝借できますが…」

「じゃあ決まりだね。撤退戦だ!」

「賛成です。調査隊の生き残りを救出したいですが…、援護をお願いできますか?」

「正気!?」

 フレイアは目を剥いた。

「アイツの下に飛び込む気なの!?」

「私の能力は、お話ししましたね?」

「「フェンスターラーデン」…。エナジーコートだったよね」

「その通りです。私が行くのが最も効率的でしょう」

「でも…」

 フレイアは難色を示す。ロルフからは能力について教えられただけではない。本国に家族が居る事も、可愛い息子の誕生日

が来月だという事も教えて貰っている。

「お願いしますよ!」

 言うが早いか、狼はその身に薄く燐光を纏った。

 正確には、ロルフはほぼ常時、被毛の下に薄く省エネルギーで力場を展開している。これを拡大させ、厚くする事で、より

強度を高めた結果が全身の淡い発光。

 風雪をシャットアウトし、向かい風を掻き分け、前傾姿勢で疾走する狼は、脳のリミッターをカットしており、雪上であり

ながら常識外れの高速移動を実現させる。雪煙を後方に上げて疾走する狼は、スノーモービルをも追い越せる速度だった。

 追いつけないフレイアが「ああもう!」と叫びながら援護射撃を開始し、仲間達へ無線で呼びかけた。

「ヴァイトリング大尉が生き残りの救助に入る!絶対に死なせないで!」

 雪を巻き上げ高速接近する狼に気付いたプシュケーが、その脚を一本伸ばす。が、疾走者は最低限の動きでそれをくぐり抜

けつつ、目にも留まらぬ早業で脚へ斬り付けた。

 体を覆う燐光が斬撃を繰り出す一瞬だけ消え、その代わりに剣の刃部分が発光していた。しかも手にしているそれはリッター

の主兵装である高速振動剣。フレイアの銃撃も弾く蝶の強固な外殻は、力場を一点集中させたエッジにより、浅く抉れて破片

を散らす。

(全力でこれか、私一人で手に負える相手ではない…!)

 その直後、蝶は全ての足を引き上げて、接近する狼へと差し向ける。

 伸縮自在の鋭い脚が伸び、繰り返し突き刺しに舞い降りる様は、まるで雨あられのよう。だが燐光を体に引き戻した狼は、

機敏な動作で際どいながらもそれらを全て避けおおせて、蝶の下へと到達する。

 タカアシガニのような怪物は合計四体。始末している猶予は無いが、一体は進路に立ちはだかっている。

(押し通る!)

 距離も時間も惜しい。威嚇するように脚を広げた怪物の正面から狼が挑む。

 太腿に括りつけていたヘビーバレルカスタムのスタームルガーMk3を瞬き一つの間に引き抜き、怪物の複眼に向け、引き

金を絞る。

 轟音と共に発射された弾丸は、ロルフの能力を付加されて燐光を纏っていた。

 複眼に命中した弾丸は、怪物の体に食い込んだ途端にエネルギーを開放する。体内で力場が炸裂弾頭のように起爆され、頭

部を大きく割られた怪物はあっけなく絶命。その体が地に崩れる前に、狼はその真下を潜り抜け、生存者の姿を確認した。

(中国の高官!運がいい、まだ生きている!)

 気絶しているようだが息はある。

 疾走する狼は速度を緩めずにスライディングに移り、壮年の男を抱き上げて、抱えながら足を踏ん張り上体を起こす。雪面

での戦闘に精通した玄人ならではの無駄が無い動作に、無線で繋がるフレイアとその仲間達が一斉に歓声を上げた。

「やるぅ!そのままそのまま!」

 強風に苦労しながらも間合いを詰めつつ、威嚇射撃を繰り返すフレイア。リッターも全員が有効射程に到達し、プシュケー

への攻撃は現状況での最大火力となる。だが…。

「…く…!」

 狼の脚が鈍った。生命力をエネルギーとし、力場を発生させるエナジーコート型の能力は、最大出力時の消耗が非常に激し

い。しかも狼は今、大人ひとりを抱え、リミッターをカットして体にギリギリの負荷をかけながら全力疾走している。抱えて

いる壮年をも力場で覆う都合上、消耗が加速していた。

「ヴァイトリング大尉!」

 狼の失速に気付き、強引に前へ出るフレイア。焦りが浮かんだその目は、標的を絞ったプシュケーを映していた。

 この場での最大の脅威は狼だと見定めた蝶は、全ての足を狼の背に向けた。

「大尉無理だよ!捨てて逃げて!」

 ひとひとり抱えて背後からの攻撃を捌ききるのは不可能だと判断し、フレイアが叫んだ。

 が、ロルフは手放さない。耳を傾けて後方を窺いながら、苦渋の表情で決断を下す。

「頼みます!」

 狼は、距離を詰めたフレイアの方へと、抱えていた壮年を放り投げた。

「大尉!ダメだよ!逃げ…!」

 狼は素早く向き直り、弱まった燐光を全て剣に託すと、フレイアが撤収する時間を稼ぐために踏み止まった。

 立ちはだかって構え、伸びてきた六本の脚を愛剣で薙ぎ、斬り、払い、いなし…。

「!」

 剣が纏っていた燐光が消えた。

 五本目の脚を叩いた剣が半ばから折れ飛んだ。

 そして六本目が、力場を完全に失ったロルフの胴を貫いた。

 肺腑を貫かれた狼は、自らを突き刺したプシュケーの脚を、最後の力を振り絞って両手で掴む。

 

―…エルザ…。アドルフ…。済まない…―

 

 聞こえるはずが無いその声を、フレイアは確かに聞いた。

「…大尉…!う、うううううっ!」

 唇を噛み締め、壮年を引き摺り、フレイアが後退する。

 まるで守護像のように仁王立ちし、プシュケーを睨む狼の左腕が、根元から抜け落ちた。

「…!」

 堪らず顔をそむけるフレイア。

 狼は立ったままボロボロに砕け、白い衣を残して崩壊する。

 ブーツだけが、出来の悪い冗談のように、砕けた中身が支えとなって立ち続けていた。

「撤収だ!撤収!即座に撤収して!リッターもだよ!撤…しゅ…!」

 プシュケーとその子供が死骸漁りに戻る。気を失ったままの壮年を引き摺るフレイアは、声を詰まらせながらも叫び続けた。



 この初戦で指揮官の一角を欠いたリッターは、二度目の討伐戦においてさらなる犠牲者を出した。

 着任早々に急行してくれた英国の「サー」の加勢もあり、結果的にプシュケーを活動停止に追い込む事には成功した。

 が、狼が救出した調査隊の高官は何も語らないまま原因不明の怪死を遂げ、プシュケーが解き放たれたアクシデントの詳細

は判らないままとなった。

 彼の本国からは全てその高官の独断だったという見解が発表された。当然、誰もその公式発表を鵜呑みにはせず、「指示に

従って抜け駆けを主導した男が口封じされた」という事実を知っている。

 ロルフが命を賭して繋いだ真相究明への糸は、不正弾劾への手がかりは、国家によって無情に断ち切られた。

 そして今度は、フレイアの母国側が行なおうとした不正行為により、プシュケーが再び解き放たれた…。





「…悔しかった…!」

 俯いたフレイアの顔から透明な滴が落ち、手の上にある無骨な拳銃に当たって砕ける。

「大尉は結婚してた…!母国に可愛い奥さんと小さな息子さんが居たんだ…!私達は奥さんに、その子に、一体何て言えばい

い!?ズルをした国のとばっちりで死じゃいましたって!?しかもまたズルがあって怪物を逃がしちゃいましたって!?今も

怪物はどっかを飛んでますって!?そんなの…!…酷だよ…!そんなんじゃ大尉も家族も報われないよ…!」

 グッと言葉に詰まったフレイアの肩は、震えが一瞬たりともおさまらない。

「大尉だけじゃない…!月末に交代でやっと家族の処へ帰れるって言ってた騎士も居た…!サーの部下には結婚してまだ半年

のひとも居た…!病気のお父さんを独り国に残して来たひとも…!皆が生きてた!彼等には何も落ち度も無かった!それが…、

一部の勝手で…!」

 社会は理不尽だ。世界は残酷だ。そんな事は知っている。

 だが、知ってなお、フレイアは諦めない。そういう物だから「仕方がない」とは割り切れない。

 生きるという事は抗う事。生き残るという事は、倒れた者の分まで戦う事。

 それが、生まれついての能力者であるが故に、普通の人生を送ることを許されなかった、フレイア・ゴルドという女性の生

き方。

「私達には力が無い…!権力が、発言する力が、不正を正す力が…、変えるには色々な力が足りない…!仇討ちしたって何に

もならないけど、せめて私達の…!あの時轡を並べた者の手で果たさなきゃ、ヴァイトリング大尉達の弔いにならない…!」

 そんな経緯があったから、フレイアは「自分達の手で」プシュケーを討伐する事に拘っていた。

 ユウキが感じたフレイアの焦りは、加勢された結果、自分達の手で仇討ちが果たせなくなるのではないかという懸念が頭の

隅にあったが故の物。

 ひと前で泣くなんて、とフレイアは腕で目を擦る。気弱になっているのかと自問しながら。

 いかに腕が立とうと、実績があろうと、フレイアはまだ若い。無力さに涙もすれば悔しさに泣きもする。隊員達の前では見

せない、仲間には見せられない、気丈で陽気でタフなフレイアの素顔が曝け出されていた。

「あ~…、まぁ、アレじゃのぉ…」

 しばし黙って聞いていたユウキは、困り顔で後頭部をガシガシ掻いた。

 この男にとって、女の涙はこの世で最も苦手な物である。

「部外者の儂が何を言っても、慰めにもならんだろうが…」

 ずりずりっと尻をずらし、フレイアの傍に寄ると、力んで震える両肩にそっと手を乗せて、元気付けるように軽くポンポン

と叩くと、

「儂は仕留めん。トドメはお嬢ちゃんに譲るって約束する。絶対じゃ。な?」

 小さな手を取り、小指を絡ませて上下に振る。

「ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます!ゆーびきった!」

 何をしているのか?と胡乱げな泣き顔を上げたフレイアに、熊親父は真面目くさった顔で告げる。

「今のはこの国の約束のまじないじゃ。約束を守れんかったら針を千本飲まにゃいかんという、それはそれはおっそろしい罰

則が付き纏う誓いの儀式じゃ。針千本なんぞ飲むのは御免じゃから、儂は絶対に約束を破らん。な?な?じゃから…」

 ユウキはフレイアにニィッと笑いかける。さぁ笑え、と促すように。

「お嬢ちゃんは仇討ちができる!これで安心じゃろう!」

 子供のような言い分で、強引に安心させようとするユウキに、

「…ん…!」

 フレイアは、無理矢理作った笑顔で応えた。

「そう!その顔じゃ!おなごはやっぱり笑ってなんぼじゃからな!…が…」

 ユウキは顔を上に向け、雪の天井を見ながら続ける。

「生きてりゃあ、たまに泣きたくなる事もある。…この嵐じゃ。どれだけ騒ごうが何処へも聞こえやしねぇじゃろう。おさま

らんなら、泣き足りんなら、ホレ、あれじゃ。ロバの耳…じゃったか?あんな具合にこの穴倉ん中に思いっきりぶちまけとく

のも悪くねぇ。…そうそう!何なら儂の胸を貸してやっても…」

 冗談めかして両手を広げたユウキは、

「…む?」

 ボフンと、胸に軽い重みを受けて言葉を切る。

「……………!!!」

 フレイアは泣いていた。ユウキの胸に顔を埋め、体を力ませ、背中を震わせ、言葉にならない叫びを腹の底から上げていた。

「………ふぅ…」

 小さく息をついたユウキは、縋り付いて泣き叫ぶか細い女の体をそっと両腕で包み、大きな手でゆっくりと、背中を擦り、

頭を撫でてやった。

(どう生きて来たのか知らねぇが、相当、無理を通して来たんじゃろうな…)

 女だてらに隊長という立場。おまけにまだまだ歳も若い。

 この世界で生きるなら理不尽な出来事も頻繁に見る。それでも胸を張り、気を張り、歩んできたのだろう。

 今は一時、誰にも見られず泣けばいい。

 ユウキはフレイアの嗚咽が止まるまで声もかけずに、ただ、ただ、優しく背と頭を撫で続けた。