第二十六話 「フレイア・ゴルド(六)」

 まどろみから覚めると、暖かな感触に包まれていた。

 薄く開けた目に映るのは濃い茶色の被毛と、クリーム色に変じる喉元へのグラデーション。

 大音量の高鼾には雪洞に篭っている間に慣れた。そもそもどんな環境でも休息が取れる太い神経をしているので、苦にはな

らない。

 ベッドからはみ出そうな巨漢の、仰向けになったその左腕と胴の間に収まって、逞しい肩に頭を乗せて横臥していたフレイ

アは、無意識に深く息を吸い、ユウキの匂いを嗅ぐ。

 短い夜が明けた。

 初めての夜が明けた。

 初めての男となった熊と朝を迎えた。

 特別な事だったという思いはあるが、考えていたような劇的な変化はない。

 ただ、やはり自分はこの男の事が好きになってしまったのだと、追認するばかり。

 呼吸でゆるやかに上下する、こんもりと盛り上がった腹と分厚い胸に手を這わせて撫でると、ユウキの鼾が止まった。

「…もう朝か…」

 習性なのだろう、目を開けるなり状況を確認するように素早く動かし、カーテンの隙間から伺える陽光から時刻に目星をつ

けたユウキは、少し首を起こして、ベッドから落ちないよう抱えていたフレイアに目を向ける。

「眠れたかの?」

「うん」

 目を細めて微笑みを交わすと、ユウキはフレイアの額に軽く口付けした。

 一夜限りの儚い夢。

 この朝からは、お互いに自分達の道に戻る。その事をふたりともしっかりと理解している。だが…。

「…おじさん」

「うん、何じゃ?」

 フレイアはユウキに身を寄せて囁く。

「朝御飯まで、こうしててもいい…?」

「………」

 名残惜しくなると判っていながら、ユウキはフレイアの要望に応え、向き合うように自分も横向きの体勢になると、その小

さな体をキュッと、全身で包むように抱きかかえた。




 波止場から望む一団は、去り行くフェリーを見送る。

「無事に帰り着ければいいのですが…」

 河祖中の御庭番、犬沢芝居が水平線を眺めて呟いた。

 シバイをはじめとする、機動力と体力に恵まれている二十代の若衆は、セスルームニルの出立までの護衛として最も活躍し

ている。任を終えた安堵と一抹の寂しさが、米粒のようになったフェリーを眺める目に浮かんでいる。

「心配要らん。連中は国を股にかけて動く「ぷろふぇっしょなる」じゃ。如何様にもやり果せるじゃろう。それに…」

 胸元に手を突っ込み、モソモソと掻くユウキは苦笑いを浮かべていた。

「独国の騎士へ挨拶にゆくそうじゃが…、あの娘は真っ当なもののふには好かれる性質じゃ。「りったぁ」の連中にゃ気に入

られるじゃろうからな」

 言葉を切り、ユウキはしばし無言で眺める。水平線の向こうへ去る大型フェリーを。

「…さぁて!」

 海に背を向け、気を取り直したように大きく声を上げ、巨熊は同行した皆を見回した。

「此度はこれにて、御役御免とする!」

 当主の宣言を受け、一様に頭を垂れた御庭番達へ、

「長い御役目になったが、皆よく遣り遂げてくれた。郷に戻ったら宴会じゃ!たっぷり英気を養って、次の御役目に備えて貰

おう!」

 ユウキはニンマリと笑って労いの言葉をかけた。



 黄金を溶かし込んだような髪が潮風に揺れる。

 フレイアはフェリーの展望デッキから眺めていた。水平線の向こうへ消える陸地を。

「後ろ髪を引かれる思い、か?」

 声に振り向けば髭面の男。歩み寄ったトシキはフレイアと並び、手すりを掴んで母国を望む。

「いい国だね、ヤマガタの故国」

「ああ。…出るまではそうも思っていなかったが、帰ってみると違うな…」

「後ろ髪を引かれるのは、キミもなんじゃないの?」

 目を向けたトシキに、フレイアは悪戯っぽく笑う。

「皆が言ってたよ。「あの副隊長が友人を作った」ってね」

「…誤解があるようだが、別に友人が居ない訳ではない。…多いとも言えないが」

「私も会ってみたかったなぁ。どんなひと?」

「そうだな…。堅物でプロ意識が高くて腕が立つ男だ」

「…え?」

 一瞬怪訝な顔をしたフレイアは、

(それって、類は友を…ってヤツなんじゃ…?)

 トシキそっくりな髭の男を想像していた。

「さて!とりあえず留守番部隊に日本土産は送ったけど、土産話も持っていってあげなくちゃね!」

 殊更に元気な声で言ったフレイアには、もう陸地は見えていない。

 遠く、遠く、異国の夜が刻んでいった想いを胸に、若き戦士は日常へ戻る。

 戦いと、痛みと、絆で描かれた日常へ。

 その前に、まずは…。






 煉瓦造りの壁と煙突が暖かな印象をもたらす、童話に出てきそうな一軒家を眺めながら、トシキはタバコに火をつけた。

 背の低い草が芝生のように茂る丘の上、玄関口の前に立つフレイアの背を遠く望んで。

「………」

 フレイアと向き合っている狼の女性は、まだ30になっていないだろう。若く美しい顔を伏せ、手渡され、広げた布の上を

見つめている。

 そこには、細かい傷が無数につき、使い込まれた一丁の銃が乗っていた。

 夫がもう居ないという事実が、愛用していた銃の重さと共に、ずっしりと伝わって来る。

 涙に頬を濡らしながら、ロルフの妻は気丈に口を開いた。

「あのひとは、立派でしたか…?」

 フレイアは真っ直ぐに婦人を見つめ、目を逸らさず、逃げず、きっぱりと伝えた。

「判りません」

 顔を上げた婦人に彼女は言う。

「騎士大尉殿は、お勤めを立派に果たされました。けれど、貴女の所へ帰れませんでした。…それを「立派な行為だ」と私が

言い切るのは…、乱暴です…」

 狼の婦人は涙に濡れた目を細めた。

 夫の死を最初に告げに来た白騎士団長も、フレイアと全く同じ事を言っていたので。

 婦人には判っていた。フレイアの握り締められている拳が、肩が、黄金の髪が震える意味が。

 夫は皆に惜しまれた…。それだけで少し、気持ちが救われた。

「ママ」

 家の中から声が聞こえ、顔を覗かせた幼い狼に気付き、フレイアは目を見張る。

(「アドルフ」…)

 仔狼の名をフレイアは知っている。名の由来まで聞いている。

 ロルフ。

 狼を意味するそのままの名だと、あの騎士は微苦笑していた。

 アドルフ。

 だから息子には、「高貴な狼」と名付けたのだと語っていた。

 子供の成長は早い。ロルフの息子は、彼が何度か見せてくれた家族写真の姿よりも、少し大きくなっていた。

(…この子も、私と同じか…)

 アドルフの右手首にはリングが嵌められていた。

 能力者である事が判明した子供には、様々なアクセサリーに扮した形の発信機がつけられる。検診で能力が検知された日か

ら監視対象とされて。

 監視対象から外れ、発信機が取り外されるのは、自身がハンターや調停者、リッターなどの「監視する側」となるか、法を

犯す側として社会と決別した場合のみ。

 アドルフは、父と同じ能力を宿して生を受けた。

 心配そうに母親を見る子供は、顔立ちはまだ幼く、体格も華奢で弱々しく、だが確かに、父と母両方の特徴を受け継いだ毛

色と顔つきをしていた。

(いつかこの子も、私と似た道を選ぶのかな…)

 フレイアはアドルフを見つめながら考える。

(そしていつか、この銃を握るのかな…)


 この時の予感が的中した事をフレイアが知るのは、この十数年後の事だった。

 知人のリッターから渡された婦人の手紙で、アドルフが騎士候補生となった旨を知り、額を押さえて天を仰いたフレイアが

泣き笑いの顔になった時、彼女は奇しくもあの事件の日同様、ノーザンボールに駐屯していた。











 そして、四ヶ月の時が流れ…。











「ん~…!」

 組んだ掌を空に向け、秋田犬の少年は背伸びをした。

 太った体の体操はなかなかユーモラス。机仕事に疲れたヤクモは、神代の屋敷の正面玄関前で軽くストレッチ中。

 背伸びに次いで腕を肩の高さで水平にし、グッグッと左右に体を捻ると、緩んでいた作務衣の外紐が解けてベロンと襟が落

ちた。

 気恥ずかしげに紐を摘み、キュッと結び直したヤクモへ、

「あら、ヤクモったらやっと休憩ですか?」

 正門側から歩いて来た恰幅の良い熊の女性が、ニコニコしながらやや間延びした口調で声をかける。

 熊族は女性でも大柄な場合が多いが、それでも平均を超える大柄な女性である。近所で貰った舞茸の塊が入ったザルを手に

しているが、大きな塊も広いザル籠も小さく見えてしまうほど体格がいい。

 神代斗波。ユウキとはやや年齢差がある若妻で、今年三十三になる婦人。ヤクモにとっては当主の妻で

あると同時に若き主の母でもあり、両親を失った少年個人としては…。

「あ、奥方様!お帰りなさい、お持ちします!」

 駆け寄ったヤクモに「大丈夫ですよぉ、そんなに重い物じゃありませんから」と笑顔で応じ、ザルを遠ざけるトナミ。実際

のところ、ヤクモより遥かに腕力が強いので、籠一つのマイタケなど何でもない。

 立場上、ヤクモは御庭番であり使用人である。

 だが、名目はともかく、トナミは住み込みの少年を息子と同じように扱っている。

 初めは遠慮と申し訳なさが先に立っていたが、今ではヤクモも母を慕うようにトナミへ懐いていた。

「お仕事の方はひと段落しましたか?」

 体は大きいが笑顔には女性的なたおやかさが見られるトナミへ、ヤクモは「はい、なんとか」と尻尾を振りながら頷いた。

「熱心なのも結構ですけどね、あまり根をつめすぎないように。辛かったらちゃんと言わなくちゃダメですよぉ?でないと、

ユウキ様がどんどん持って来てしまいますから」

 トナミが言及しているのは、ヤクモが内職として請け負う術具の整備や作成についての事。ヤクモは今朝から五時間ほど、

僅かにも休憩を取らずにぶっ続けで机と向き合い、巻物を精密に複製していた。こういった仕事をする時の集中力は他の事と

は段違いで、寝食を忘れて没頭してしまう事もしばしばある。

「大丈夫です。…それに、好きですから…」

 実働部隊たる御庭番として、内職の方が好きだと言うのは気恥ずかしいと、ヤクモは耳を寝せる。

「それなら良いんですけどねぇ…」

 温和な微笑を浮かべるトナミは、「お夕飯は舞茸と鶏の炊き込みご飯にしますからね」と少年に告げると、

「手伝いは要りませんけど、出来上がるまでかかります。あなたは気分転換に散歩でもしてらっしゃいな」

 と、ウインクして少年に暇を出す。

 奥方の好意に済まなそうなはにかみ笑いを見せると、ヤクモは言われたとおりに散策へ出かけた。

 ふらふらとあてもなく、景色を眺めるだけの散歩。山間の寒村を抜けて、村名が刻まれた石碑を一瞥し、バスが通る山道へ

出れば、そこはもう聳える山々の真ん中。

 秋の気配が濃い奥羽の午後。色付きはまだまだだが、一気に燃えるような紅葉に変じるのはいつもの事。ヤクモは山肌を深

く覆う木々を遠くまで眺め、衣替えの気配を窺った。

 日に日に肌寒さがキツくなってゆく。今年も奥羽に長い冬が来る。

 毎年訪れる厳しい寒さは、しかし嫌いではない。被毛も脂肪も厚いヤクモは暑さが大の苦手で、寒いぐらいで丁度良かった。

 手元を見つめ続ける細かい作業で疲れた目を、遠くを望んで休めながらゆっくり歩く坂道。慣れ親しんだ景色をぼんやり眺

めて歩くのは、ヤクモにとっては幸せな時間である。だいたいはユウヒと一緒なのだが、たまには独り歩きも悪くない。

 秋茸の季節だなぁ、と夕飯を楽しみにする少年は、麓から登ってきたバスを見遣り、邪魔にならないよう端へ退いた。

 バスが通ってはいるが、だいたいは空のまま流すだけ。登ってくるバスに客が乗ってくるのは稀で、バス停にもひとは居な

いので、スピードを緩めず通り過ぎるだろうと考えたヤクモだったが…。

(あれ?)

 珍しく、バスは減速して停留所に寄る。

 村の者かが麓に降りていたのかな?と、知った顔が降車すると思い込んでバスを見つめていたヤクモは、

「…あっ!?」

 降りた女性を見て声を上げた。

 黄金を溶かし込んだような金色の髪をポニーテールに結い上げ、大きな鞄を肩にかけたその女性は、ヤクモに気付いて蒼い

瞳を向け、次いで丸くした。

 村の者ではないが、ヤクモも知った顔だった。

「フレイアさん!」

 ドッドッドッと弾むように坂を駆け下りて、出発したバスとすれ違ったヤクモは、「や」と顔を綻ばせた女性の前で急停止

した。

「久しぶり、ヤクモ君」

 ジーンズにトレーナー、薄手のベストを羽織ったフレイアは、当然だが武装していない。ただし武器は携帯しているのだろ

う。大きなバッグは前後方向へやけに長く、中に剣が忍ばせてあるのは明白だった。

「いつから日本にいらっしゃっていたんですか!?…あ!」

 再会を喜び巻き尾を振っていたヤクモは、慌てて口元を覆った。

 もしかしたら「仕事」かもしれない。だとすれば誰が見ているか聞いているか判らない場所で、フレイアの状況を訊くのは

まずい。

 そんなヤクモの考えを察したフレイアは、「あ。仕事じゃないよ?今は休暇中」と手をパタパタ振った。曰く、メンバーの

数名に冠婚葬祭の用事が重なったので、久しぶりにチーム全員で長期休暇を楽しむ事にしたらしい。

「それで河祖下に…」

 改めて当主へのお礼がてら挨拶に来たのだと察したヤクモは、また尻尾を振って笑顔になった。

「それで…、おじ…ユウキ様はいらっしゃる?」

 一瞬口ごもって言い直したフレイアに、「はい!」とヤクモは頷いた。

「ユウキ様だけでなく、皆も喜びます!ご案内しますね!」

 意気揚々と踵を返し、先に立って案内を始めたヤクモの後ろで、

(ここが、あのひとが住んでいるところ…)

 寒村を眺めるフレイアは、緊張気味の顔になっていた。

(会えば…、「答え」が出せるかな…?)

 それに対し、大喜びのヤクモは珍しく饒舌になっており、彼女のやや硬い表情と、ほんのり赤味がさした頬には気付けない。

 お元気でしたか?に始まり、セスルームニルの皆は変わりないか、ユウヒと仲良くなった髭の副隊長も日本に来ているのか、

喋り続けるヤクモが訊きたい事の半分も口にしない内に、ふたりは神代の門を潜った。

 広大な屋敷の立派な門構えを、緊張の面持ちで眺めるフレイア。

 視線を感じるが、そこに敵意は無い。一瞬の警戒に次いで驚きがあり、さらに戸惑いながらも喜んだような…、そんな奇妙

な感覚があった。

(このお屋敷におじさんが住んでるんだ…)

 緊張と期待。

 最初は何と切り出そうか?

 お元気でしたか?では少しそっけない気もするし、やあ、では馴れ馴れし過ぎるだろう。やはり、お世話になりました、か

ら入るのが良い気がする。

 そのように、挨拶の切り出し方を考えるフレイアは気付いていない。自分が右手をそっと、下腹部に当てている事には…。

「お客様をお連れしましたー!」

 玄関口からヤクモが叫ぶと、先ほどフレイアが感じた視線の主達…御庭番が、屋敷の陰や廊下に面した部屋などからワラワ

ラと湧いて出た。

『いらっしゃいませ!』

 好意的な顔で出迎えた御庭番達の隠密の腕前に多少驚いたフレイアだったが、記憶にある顔を一つ一つ確かめて笑顔で挨拶

を返した。

「お久しゅうございます、フレイア様」

「あ!ヤギのお爺さん!」

 皆が道をあけた奥から進み出て御庭番頭の老山羊が恭しくお辞儀すると、フレイアは「あの時は大変ご迷惑を…!」と恐縮

する。自分が入院中に様々な手配をし、連絡役や様子見でちょくちょく顔を出してくれた上に、ユウキの指示によりセスルー

ムニル達を守っていた実行隊長がこの老人だった。

「すぐユウキ様をお呼び致します。喜ぶお顔が目に浮かびますな」

 と、微笑んで身を翻した老人が素早く、しかし走らずに奥へと戻ると…。

「あらお客様?」

 それから少し遅れて、廊下の奥からひょこっと顔を覗かせたのは大柄な熊の女性。

 料理中だったので、着物の袖を勇ましく捲り上げ、襷で止めていたトナミは「あら嫌だ、済みませんこんな格好で…」と苦

笑い。

 会釈を返したフレイアは、

(女中さんかな?大きいけれど優しそうなひとだ)

 と、微笑を浮かべ…。

「ユウキ様の奥方様、トナミ様です」

 小声で囁いたヤクモの言葉で、そのまま凍りついたように動きを止める。

(…え…?)

「奥方様!この方がお話しておりましたフレイア様です!」

 ヤクモが嬉しそうに紹介し、トナミは「あらまぁ!」と目を大きくした。

「美人だ、めんこい、と評判は聞いていましたけれど、本当にお綺麗で可愛らしいのねぇ!」

 足早に玄関へ出てきたトナミが、「神代斗波です。お話はヤクモと主人から…」と自己紹介するも、

(…奥さん…?このひとが…?おじさんの…?)

 フレイアは名乗り返すのも忘れ、目の前の恰幅がいい婦人を見つめていた。

(おじさん…、結婚…してたんだ…?)

 耳鳴りがした。肌の下を滑る冷えた血の流れを聞いた気がした。急に寒くなって、眩暈がした。

 フレイアは、ユウキが既婚者である事を今の今まで知らなかった。

 ウォーマイスターのひとりと本人の口から知りはしたが、家庭環境までは察していなかった。

 セスルームニルの面々も、こういった仕事につく者にとって家族の情報が弱点になりかねない事は理解しているので、自ら

の家族の事を信頼する仲間に話す事はあっても、他者の家族の情報は口外しない。それが慣例になっているのでフレイアも仲

間に問う事は無かった。

 そもそもユウキは当初、フレイアを軽く口説くノリでいた。ナンパの相手へ自分が既婚者だと告げるはずもない。そして、

「約束」を果たすと決め、一晩共に過ごした際には、妻と子が居る事を口にすれば言い訳になるとも、フレイアの心にしこり

を残すとも考えたので、最後まで既婚者である事は伏せ、家庭の話は一言もしていなかった。

(あ…、あはは…!そ、そうだよね…。結婚ぐらい、してるよね…)

 足元がガラガラと崩れて行く様な喪失感と浮遊感。小刻みに震え始める体。

「…フレイアさん?」

 様子がおかしい事に気付いたヤクモは、その顔を窺って絶句した。

 凍りついたように動かない微笑に彩られ、血の気が失せた白い頬を、涙の筋が伝っていた。

「あ!」

 声を上げたのは誰だったのか、素早く身を翻したフレイアは玄関から飛び出した。

「フレイア様!?」

「フレイアさん!」

「え?何ですか?どうしたんです!?」

 御庭番達が口々に名を呼び、ヤクモほか数名が後を追って外へ駆け出し、トナミが驚き、何か失礼をしただろうかと顔を曇

らせる。そこへ…。

「お嬢ちゃんが来とるんじゃって!?」

 老山羊に導かれ、屋敷の奥から大股に、慌てた様子で出てきたユウキは、

「………」

 玄関に立ち尽くす妻と、集まっている御庭番を目にし、足を止めた。

「…しもうた…!」

 何が起きたのか、察しはついた。



「フレイア様!お待ちを!」

「フレイアさん!如何なさったんですか!?」

 ヤクモ達御庭番が名を呼びながら追う。しかしフレイアは止まらない。

 ここには居られない。

 その想いばかりが胸を占め、帰るにもバスが無い事まで頭が回らないほど冷静さを欠いている。

 バス停目指して走るフレイアは、俊足の御庭番すら引き離すが…。

 フッと、唐突にフレイアの上に影がさした。

 直後、赤銅色の巨大な塊がズドンと地面を揺るがしてフレイアの前に降り立つ。

「ユウヒ様!」

「若!」

 御庭番達が上げた声を背中で聞き、フレイアは立ちはだかる巨熊の前で急停止した。

 騒ぎを聞きつけ、道路沿いの崖の上から落差8メートルを物ともせず飛び降りてきたユウヒは、山菜を摘んでいる最中だっ

た。戦果が詰まった大きな布袋を脇に抱えている。

 息を切らせながらその顔を見上げたフレイアは、途端に呼吸が止まった。

 ユウキを若くして厳しさを加えたような顔に、堂々たる体躯…。その体の隅々に面影がある。

 すぐに判った。

 あのひとの息子だ、と…。

 一方ユウヒも、起きているフレイアと会うのはこれが初めてだったが、医院への搬送前に顔を見ていたので、その黄金の髪

と美しい顔立ちを憶えていた。

「…ヤマガタ殿んどごの…」

 低く呟いたユウヒは、追いついた御庭番と、涙を流す若い女性の顔を見比べ、途端に顔つきを険しくした。

(親父殿…、まだ何かしでがしたな…?)

 その鋭く厳しく細められた目が、遠くから全力疾走してくる父の慌てきった顔を捉えたが…。

「!」

 素早く屈んだユウヒは、抱えていた袋を放り出し、膝が折れたフレイアをさっと支えた。そしてすぐさま気付く。

(熱が…!)

 走って乱れた息も、掴んで支えた腕も、はっきり判るほど熱い。

 気を張って上手く繕っていたが、フレイアは憔悴し切り、弱っていた。急な運動が堪えたのか、気を失ってしまっている。

「ど、どうなさいましたフレイアさん!?」

 驚いて回りこんで様子を窺うヤクモに、「ヤクモ!氷用意してけろ!すげぇ熱だ!」とユウヒが応じる。

「お嬢ちゃん!なじょすた!?」

 以上を察して顔色を変えながら駆けて来たユウキに、息子が唸る。

「ひでぇ熱だ…。こいな体調でこいな山奥までわざわざ訊ねで来るなんて、尋常でねぇど…?」

「何じゃと!?」

 ユウキは息子を押し除けるようにしてフレイアを抱える。気を失い、ぐったりしたその体はやけに熱く、呼吸は不安になる

ほど浅くて早い。

「すぐ床の支度しろ!誰が先生も呼ばってこ!」

 フレイアを抱き上げ、その顔を辛そうに覗きこむ父に代わり、ユウヒが大声で命じる。

 長閑な河祖下の空気は、一転して緊張に包まれた。





 薄く目を開けたフレイアは、まず板目が目に付く天井を眺めた。

 悪寒が酷い。頭が痛い。霞がかかったように思考がぼんやりとする。

「目ぇ、醒めだのすか?」

 鈍痛が残る頭に、気遣って低められたその声は、むしろ心地良く響いた。

 布団に寝かせられたフレイアは、傍らに胡坐を掻いて座し、腕を組んでいる逞しい熊の姿をみとめる。

 一瞬ユウキかと思ったが、違う。赤銅色の巨熊…息子の若熊だった。

「「そいな体」で無理するもんでねがすと。…いや、のっぴぎなんねぐなってのごどが…」

 諌めるように言ったユウヒは、気を取り直してかぶりを振る。

 訛りが酷く、聞き取り辛くはあったが、フレイアは若熊の言葉を何とか理解する。

「…私は…」

 か細い声を漏らし、状況を確認しようとしたフレイアは、あの日と同じだ、と気付いて微苦笑した。

「倒れらいで、意識もねがったがらそのまま客間さ運ばして貰いました」

 フレイアが運び込まれたのは、神代の屋敷にいくつもある来客用の部屋だった。

 窓が無く、そこへ至る廊下には御庭番達の部屋がいくつも面しており、有事の際には駆け付けやすく、「敵」からは守り抜

き易い、訳アリの客を匿うのに適した奥の間である。

「こごはおらだぢの………神代熊鬼の家です」

 一瞬考え、判り易く説明しようと父の名を出したユウヒは、フレイアの顔が曇ったのを見逃さなかった。

「…喉、渇いでねがすか?」

 水差しと湯呑を乗せた盆を引き寄せたユウヒだったが、それに対するフレイアの返事はなく…。

「…「そんな体」…」

 先に聞いた言葉の意味を、ようやく理解してフレイアが顔色を変えた。

「…こっちの勘違いだら申し訳ねがす…。が、先生の見立でだど、貴女は…、ご懐妊なさってっと…」

 気を遣うように言葉を選んだ若熊は、フレイアの表情で悟る。

 神代家お付きの医師の見立ては、今回も間違っていなかった、と…。

(バレちゃったか…)

 フレイアは目を閉じ、ため息をついた。



 妊娠に気付いたのは、先月受けた定期健康診断の結果で、ドクターから呼び出しを受けた時だった。

 北原のベースに駐屯する者は、未知の物質や生物と接触する事が多いので、帰投後の検査は勿論、入念な検査が月に一度義

務付けられている。

 さて、ウイルスか毒か寄生虫かと、戦々恐々医務室を訪ねたフレイアは、おめでとう、との一言できょとんとした。

 妊娠三ヶ月。

 唐突に告げられたフレイアは、呆けて、驚いて、それからすぐに悟った。

 心当たりは一つしかない。時期は勿論のこと、性交は一度しか経験が無い。

 妊娠自体はハンターとしても北原駐屯者としても、規約や法令上の問題はない。ノーザンボールのドクターは母体を気遣っ

て結果を教えただけである。

 父親である男性と相談し、長期休養と育児の為にも一時仕事を休んだ方がいい。

 めでたい事だと微笑みながらそう勧めるドクターの声を、フレイアは全然聞いていなかった。

 どうしよう?というのが最初の思考。

 産むか否かの判断に、まずは悩まされた。

 いくつもの命を絶ってきた自分に、子を産む資格は無い。…とは、フレイアは思わなかった。

 いくつもの命を絶ってきたからこそ、繋げる命は繋ぐべきではないのか?彼女はそう考えたからこそ、身軽になるために堕

胎措置を取る事を躊躇い、しかし子育てできる自信もなく、大いに悩んだ。自分の子孫を残す云々ではなく、一つの命として、

自分が宿したものの行く末を考えた。

 結局、自分独りだけでは結論が出せず、気が付けばメンバーの用事を理由にセスルームニルの一斉休暇を決定していた。

 少し不思議そうだった副隊長のトシキも、まさか男っ気の無いリーダーが妊娠しているとは夢にも思わなかったし、ドクター

も報告義務の無い個人情報として扱ったため、メンバーの誰一人としてフレイアの妊娠には気付かなかった。

 自分の中で育つ小さな命について考え続け、眠れない夜を幾十越えて、フレイアはこの世でただひとりの相談できる相手の

もとへ向かった。

 ほんの少し、考えもした。

 これを機に引退する事になるだろうか、と。

 子供を産んで、奥さんになって、家庭に入るのだろうか、と。

 だが、一時匿われていたメンバーから聞いた話を頼りに、ようやく辿り着いた河祖下で知ったのは、ユウキに家庭があった

という事実…。



 自分の思考の浅さに、察しの悪さに、想定の甘さに、呆れ過ぎて涙が出てきた。

 常識知らずと言われても、自覚している、と笑いながら返してきた彼女は、しかしもう笑えない。

(笑えないほど、世間知らずで常識知らずだ…)

 黙りこんだフレイアに、若熊は頭を垂れた。

「…「済まねぇ」で、済む話でねぇごどは、判ってます」

 父のしでかした事でこのひとは傷付いた…。そう考えれば腹も立つし、目の前のまだ若い女性への申し訳なさで胸が張り裂

けそうになる。

「父が白状しました。ゴルド殿さ何をしたがも…、妻子ある身だど話してねがったごども…」

 詫びるユウヒを、フレイアは布団の中から不思議そうに見つめる。

 この若者にとって、自分は父に過ちを犯させ、家庭に波風を立てた疫病神のはず…。なのに、どうしてこうも真摯に、憎し

みも怒りも全く向けず、自分に接してくれるのだろうか?と。

「…いや…」

 ややあって、フレイアは申し訳なさからユウヒの顔を見られなくなり、目を閉じて口を開いた。

「悪いのは私なんだ…。あのひとは「約束」を守っただけ…。私が侵してしまったんだ…。貴方達の家庭を…」

 本当は縋りたくなっていたのだろう。子供を宿し、困惑し、心細くもなり…、それでユウキに会いたくなった。あの「おじ

さん」なら何とかしてくれる…、そう、無意識に助けを求めていた。

「私が浅はかだった…。願いを聞いてくれると言われて…、舞い上がって…、結局、こうして迷惑をかけて…」

 結果として火種を持ち込むはめになってしまった事を、フレイアは悔いた。ユウキに迷惑をかけただけでなく、その妻、息

子、家族へ嫌な思いをさせてしまった、と…。

 フレイアは今でも、ユウキは悪くないと思っている。全ては初恋に浮かれた自分が身勝手で犯した過ち。あのひとはただ、

約束を守ってくれただけなのだ、と…。

「父ど、話すべぎ事も多いでしょう」

 やがてユウヒは、口を閉ざしたフレイアにそう告げた。

 当主は今、最奥にあたる広間で密談の最中のはずだった。妻と。

 事の次第を洗いざらい打ち明けている最中のはずである。妻に。

「…父を、呼んで来ます…」

 退室を告げ、腰を浮かせるユウヒ。しかし…。

「それには及びません」

 声は唐突に、ユウヒの真後ろ…襖の向こうから聞こえた。

 スッと開いた襖の向こうには、恰幅の良い熊の婦人。

「主はいま顔を洗っておりますので」

 表情のない母の顔を驚きながら見つめる息子は、身を起こそうとしているフレイアに気付いて「寝ででください」と慌てて

制止する。

「いや…。寝ながら顔を合わせるなんて…、これ以上、失礼は重ねられないよ…」

 上体を起こしたフレイアは、その場で正座したトナミと向き合う格好で座り直す。

「この度は、とんだご迷惑をおかけしました」

 くたびれた体に鞭打って、フレイアは誠心誠意、トナミに頭を下げる。

「全て、私が原因です…。どうお詫びしても取り返しのつかない傷を、ご家庭につけてしまいました。どうか、気が済むよう

にして下さい…」

 どんな罵りも暴力も甘んじて受ける。そんな気構えで自分を投げ出したフレイアは…。

「…顔を上げて下さいな」

 静かな声に促され、一瞬の逡巡の後、覚悟を決めて顔を起こした。

 そして、目を見張った。

「困ったものですよ。あのひと、どんな事でも約束したら必ず実行しちゃいますからねぇ…」

 トナミは優しく微笑んでいた。「身重の体でここまでいらっしゃるのも、大変だったでしょう?」と、労わりの眼差しをフ

レイアに向けて。

「貴女は何も悪くありませんとも。遠路遥々、あのひとを頼って下さったのでしょう?本当に、本当に…」

 大きな熊が背を丸め、頭を垂れる。

 フレイアは信じられない物を見た気持ちで目を見開き、慌てて腰を浮かせる。

「よく頼って下さいました。ようこそいらっしゃいました。神代一派総員、心から歓迎致します」

 顔を上げて欲しいと、困り顔で慌てながら手を取って促すフレイアと、面を上げて間近でその顔を見つめ、やはり優しく微

笑むトナミ。そんなふたりの様子を眺めながら…。

(母親って生ぎ物は…、強ぇなぁ…)

 頭ではなく感覚で、若熊はそう感じた。

 それは、ユウヒがこれまでに考え求めてきた、闘う者の体や心の「強さ」とは質が違っていて、しかしこれもまた「強さ」

なのだと、理解が及ばないながらも感じられて…。


 数分後、呼びに行った息子と入れ替わる格好で、ユウキは客間に足を踏み入れた。

「まぁ…その…、何じゃ…」

 頬を掻こうとしたユウキは、痛みで盛大に顔を顰めた。

 フレイアは目を真ん丸にして、熊の顔を見上げている。

 「主は顔を洗っている」とトナミから聞かされていたフレイアは、この段階で、顔を洗っていた理由を理解した。

 ユウキの顔は二倍ほどに膨れ上がっている。

 右目の上が大きく腫れ上がって瘤になり、左頬は何か口内に含んでいるような盛り上がりっぷり。鼻孔には両方ともティッ

シュが詰められていた。

 フレイアを部屋に寝かせた後、妻へ全部正直に話し、折檻された結果がこれ。

 日頃はおおらかで穏やかなトナミだが、ユウキの妻として第一候補に上げられたのは、何も気立ての良さ故ではない。

 トナミは、四百年近く前の先祖が神代家から嫁に来た家柄の出身…いわば一種の「神代の眷属」。血はだいぶ薄れていたの

だが、トナミは五代ぶりに能力が遺伝した、神代家の直系と同じエナジーコート能力者である。

 そして、普段ののんびりおっとりした様子からは想像もつかないが、怒るべき時には奥羽の鬼神も腰が引けるほどの激怒っ

ぷりを見せる。正当に怒るべき時以外は怒らないので、彼女が怒った時はユウキも全く反論できない。

 嫁に来て以来通算三度目の激高を見せた彼女が振るった拳骨は、現役当主を容赦なくボコボコにして平謝りさせた。威力を

上げるためではなく、手を痛めたら料理をするのに差し支えるという理由で力場を纏う婦人拳骨だが、常人なら頭部の骨格が

様変わりする破壊力である。

 妻の鉄拳制裁を経て人相がすっかり変わっている熊親父は、布団の上に座ったフレイアと向き合い、腰を下ろした。

 正対したふたりの横、丁度中間に位置する場所にはトナミが座っている。

 なお、トナミがさっさとしまったので、ユウキの分だけ座布団が無い。

「…済まん…」

 土下座して詫びるユウキ。

「いえ、私が悪かったから…」

 同じく頭を下げるフレイア。

 ユウキはとつとつと、詫びの言葉を口にする。

 言い訳するのではなく、妻帯者である事を伏せていた理由と心境を語り、子ができるとは思ってもいなかったと白状する。

 神代に限らず、古種の血を濃く引いた獣人は、今の人類との間では子が極端に出来難い。獣人相手でも子供はなかなかでき

ず、ユウキもトナミも倅が生まれるまで相当頑張った。さらに、古種の獣人と人間との間に子供が出来る確率は絶望的に低い

とされていた。だからこそ、避妊の必要性を考えず、「初めて」を「ナマで」味わわせる事を重視して行為に及んだ…。

 そんな内容の話を、妻が居る前で包み隠さず生々しくフレイアに語るユウキ。悪い冗談のような話の中身と光景だが、心底

反省しての赤裸々な打ち明け話である。

 フレイアもまた、赤面しながら詫びる。

 初恋に浮かれて、妻子があっても不思議ではない年齢にもかかわらず、ユウキに家庭がある事を想像もしなかった。

 約束をいい事に、非常識な願いを口にしてしまった。その挙句、子供が出来たら不安になり、頼ってしまい、こうして迷惑

をかけてしまった…。

 繰り返し頭を下げあい、延々と詫びあうふたりの言うべきことが、ひとしきり言い尽くされたところで…。

「はい。そこまでです」

 それまで黙っていたトナミがパンパンと手を叩いた。

「フレイアさんもユウキ様も、もう謝るのはそのあたりにして下さいな」

「いや…」

「でも…」

 なおも詫び足りない顔のふたりへ、婦人は大仰にため息をつくと、少し厳しい顔になる。

「「間違った」とか、「油断した」とか、そんな話はもう結構!そんな言い方は「そこにある命」に失礼です!「自分が居る

せいで親達が謝りあっている」なんて、お腹の中の赤ちゃんが可哀相でしょうが!」

 ハッとしたフレイアが下腹部に手を当て、ユウキも目を見開いてそこを見遣った。

「産まれて来る子にどんな罪がありますか?いいえ!これっぽっちもありませんとも!生まれる事を喜ばれないなんて、子供

にとってこんな不幸はありませんよ!?」

 普段はおっとり優しいトナミが大声で叱責すると、ユウキもフレイアも揃って小さくなった。

 トナミは確かにユウキに対して激怒した。が、夫が浮気したという理由で怒ったわけではない。

 フレイアとの約束により彼女を抱いた事については、寂しくも思ったし顔を顰めもしたが、あまり怒っていない。一度交わ

した約束を違えるような夫や当主であった方がむしろ許せない、というのがトナミの言い分。

 子を宿したフレイアが誰も頼れず、あそこまで衰弱した状態で訪ねて来なければならなかった…。その境遇へ追い込んだ原

因が、他でもない自分の夫であったが故の怒髪天である。

 そしてフレイアに対しては、嫉妬や憎悪などの悪感情を抱くどころか、満足な説明もなく勘違いを正されなかった事で騙さ

れたに等しい成り行きで処女を捧げる羽目になった、と同情している。さらに、大事な最初の相手が若くもなければ美男でも

ないユウキで本当に良かったのか?という点で申し訳なく思ってすらいる。

「「そこに赤ちゃんが居る」っていう事実が何より大事なんですよ!それに比べたら、私の立場だとか父の家柄だとか母の環

境だとか筋が通る通らないとか、みんなみんな二の次です!あなたたちが「他所事」を気にかけて何になります!?」

 婦人に叱られ、伝説を屠る程の戦士である二名は、子供のようにシュンと小さくなっている。

 妻としての立場、夫と寝た女、他の女と寝た夫、そして出来た子供…。普通なら到底受け入れられないだろう様々な事を、

「赤ちゃんが一番」「他は二の次」「あとは他所事」で片付けるトナミの徳の高さと度量には、ユウキもフレイアも心身とも

に平伏するしかない。

「気にかけるべきはまず赤ちゃんの事です!赤ちゃんが居る事をしっかりと気持ちで受け入れてあげて、今後の事を考えてあ

げてくださいな。もしもああだこうだと横からグダグダ抜かす輩が居たら、その時はこの私が、片っ端から顔が無くなるまで

ブン殴ってやりますから!」

 勇ましく着物の腕を捲くり、鼻息荒く太い二の腕を見せたトナミは、

「…ですから…」

 気圧されているふたりへ、一転して優しく目を細め、微笑みかけた。

「ふたりともまず、喜んであげてくださいな?それが、親として子に果たすべき最初の義務ですよ」

 フレイアは視線を下げる。

 両手が下腹部にそっと据えられている。

 ポロリと、涙が零れた。

 トナミに諭され、自分の中に宿った小さな命について、やっとしっかり考える事ができた。

 自分の子供。

 好いた相手との間に出来た、自分の子供…。

 愛おしい命。それが今、自分の中にある…。

「…ほら。ユウキ様…!」

「お、おおう…?」

「何をしてらっしゃるんです?ほら、お傍に…!」

 トナミに睨まれ、ユウキはドギマギしつつも膝ですり寄り、フレイアの傍に腰を落ち着ける。

「湯浴みの支度をお願いして来ますから、少しお喋りしてお待ち下さいな」

 婦人はそう言い残して席を立ち、廊下に出る。

 ボソボソと、性懲りもなく詫びながら言葉を交わし始めたふたりの声に微苦笑して、そっと部屋を離れながら、

(さて、ああ見えてユウヒも状況に困惑しているでしょうし…、ヤクモも義理堅いから、ムッツリ考え込んでるあの子の隣で

一緒に困り顔になってるでしょうねぇ…。梨でも剥いて持って行きながら、少しフォローしておきましょう)

 神代家は、日頃からだいたい上手く回っている。

 ただし、回すのはユウキの役目だが、上手く回るのはトナミのお陰である。


 これが、フレイアが一時身を寄せた、河祖郡での一日目。

 神代熊鬼の第一婦人、神代斗波と、公的には存在と関係を隠し通された第二婦人、フレイア・ゴルドの出会い。

 後に姉妹の契りを交わす事となる「ふたりの母」は、しかしまだ、これから先の事など知らぬままで…。