第二十七話 「オーディン・オーディナリィオーダー」

「あらトナミさん、お散歩がい?」

 道端で出くわし、にこやかに話しかけるカモシカの老婆に、ふくよかな雌熊が「ええ!」と笑顔で応じる。

「動かないと血の巡りも悪くなってしまいますからね!」

「良いごった。けんど程ほどになさいな?寒さは腹のやや子さ効ぐがら」

 気遣ってくれる老婆に笑顔で頷き、トナミは会釈しながらすれ違って屋敷へ向かう。元々恰幅が良かった雌熊は、最近ます

ます腹囲が増して、顔も丸くなっている。

 雪融け近付く河祖下の三月末。トナミはだいたい毎日、例え用事が無くとも散歩に出る。「妊娠している」と周囲に印象付

けるために。

 着物の内側に仕込んであるのは、綿たっぷりの幅広い腹巻。口内にも脱脂綿を含んで頬を膨らませて見せ、毛並みも外出前

にブラシをかけて空気を入れ、フカッとボリュームを出している。

 大門を抜けて、玄関先を掃除していた御庭番と挨拶を交わしながら屋敷内に戻ったトナミは、外の客を入れない奥の間へと

向かった。

「戻りましたよフレイアさん」

 襖を開けたトナミに微笑みかけられた相手は、そののんびりと間延びした穏やかな声を聴いて顔を綻ばせた。

 秋田犬の少年に付き添われ、暖かくした部屋で体を休ませていたのは、金髪碧眼の美しい女性。締め付けのないゆったりし

た衣類を纏った上から、綿がタップリ入った「どんぶく」という防寒着を羽織らされている。いずれもトナミの物なのでだい

ぶサイズが大きく、一回り以上大きい衣類に包まるような格好で座っているフレイアは、だいぶ腹の大きさが目立っている。

「おかえりトナミさん」

「お帰りなさいませ奥方様」

 フレイアと、体を温める蜂蜜生姜の薬湯を入れていたヤクモが口々に応じて迎えると、トナミは鼻を少し鳴らして香りを嗅

ぎながら、フレイアの隣に腰を下ろす。

「良い香りですね…。ヤクモ、私にも一杯下さいな」

「はい、ただいま」

 ムックリフックラした秋田犬の若者は、トナミの分の湯飲みを手早く用意し始めた。

 この国の術士は概ね術具作りの修練の過程で様々な特殊素材に触れるため、薬学を修める事も多い。ヤクモもその例に漏れ

ず、師や両親から生活で役立つ薬や療法について学んでいた。特にヤクモの場合は、入手方法や量が限られる希少だったり特

殊だったりする素材に頼らず、身近な物を活用する薬学に明るい。村や近場の山で取れる物で拵える素朴な薬湯は、劇的な効

果を発揮したりはしないが、着実に無理なく体に効いてくる。

 特筆すべきは、不味かったり飲み難かったりする場合が多い伝統の薬を、物によっては美味しく飲めるように、最悪でも何

とか飲み下せるように、味や粘度を整え直せる事。実はこれ、ヤクモが属する神代御庭番術士の流派においては地味に歴史的

快挙なのだが、残念な事にヤクモが直系門下最後のひとりなので、誰もこの成果に気付いていない。当主のユウキからして「

何となく飲み易くなった気がする」とのたまう程度の変化しか理解できていない。

「具合はどうです?」

 フレイアの張った腹にそっと触れて、トナミは愛おしげに優しく撫でる。

「さっき三回も蹴られました」

「よしよし、今日も元気ですね。一息入れたら湯浴みにしましょうか」

 ふたりを微笑ましく見守りながら、薬湯を用意するヤクモは思う。皆も言っているが、御二人は本当の姉妹のように仲が良

い、と。

(けれど…)

 手元への注意が半分のまま正確な分量で薬湯を淹れながら、ヤクモは胸の内で困り顔になった。

 フレイアの子を、ユウキとトナミの子として育てる。この取り決めは自分の意見で翻る物では無いのだが、本当にこれで良

かったのか?と…。

 フレイアがこの話を切り出したのは、屋敷に来て四日後の事だった。

 神将家の当主という立場のユウキに、外に作った子があるのはまずいだろうと考えての事であると同時に、基本的に放浪者

である自分に子育てはできないという考えがあっての事でもある。だが、生まれて来る子にとっては、普通に両親が揃ってい

る方が幸せだろうというのが一番の動機。だからユウキとトナミに頭を下げて懇願した。どうか生まれて来る子は、愛し合っ

た「正当な両親」の間に生まれた子であると思ったまま暮らして欲しいのだと。

 何よりウォーマイスターの子だと知られてしまったら、赤子を狙って動く組織もあるだろう。この国であれば護られもする

が、自分が連れて行ってしまったら護り切るのは難しい。赤子の安全を考えれば、ユウキとトナミの下で暮らすのが一番良い。

 ユウキはともかく、トナミもこの案には当初反対した。我が子を抱ける幸せを、我が子を育てる喜びを、フレイアには噛み

締める権利があるのだと。

 だが、結局ふたりは折れた。それほどまでにフレイアは真剣に案じていた。迷惑をかけると承知の上で、恥を忍んでふたり

に頼み込んだ。

 そして、ユウキが帝に話を通して事の次第を説明した上で、生まれて来る子はユウキとトナミの子として扱われる事になっ

た。ただし、各当主や御庭番頭、それに類する近縁を除き、この事は秘密にされた。河祖下でも神代の御庭番と屋敷関係者し

か知らず、村民には真実が伏せられた。河祖上、河祖中の御庭番達も、それぞれの責任者に限って話が通された。

 方針が固まるや否や、トナミはフレイアと姉妹の契りを結び、実子と変わらない愛情を注いで育てると誓う一方、行かなけ

ればならない時が来るまでは、我が子をしっかり抱いてあやす事を約束させた。そして妊娠を装う仮装を始め、自分に為せる

事は全て成した。

 ここまでは良い…というよりも、ヤクモにはどうしようもない事なのだが、神代家の次期当主となるはずの若熊の方もまた

複雑である。

(後でまた稽古の様子を覗いてみよう…)



 演習場に激しく転倒する音が響いた。

 転がったまま腕を押さえて呻く牛を睥睨し、防御した腕ごと蹴り飛ばした赤銅色の熊は、舌打ちでもしたそうに顔を顰めて

足を下ろす。

 力が入り過ぎた。防御の姿勢を取った時点で良しとし、勢いを緩めるのが常なのだが…。

「…済まねぇ」

 低い声で詫びて、ユウヒは踵を返す。

「少し頭冷やしてくる…」

 演習場を出るユウヒは、溜息をついて肩を落とした。

 ユウヒは若年ながら、既に稽古をつけてやる側に立っている。父のユウキを除けば、もはや徒手空拳でまともな稽古相手に

なれる者は居ない。決して質は低くない、むしろ実戦経験豊富で武闘派揃いの神代の御庭番が、若熊相手に手も足も出ない。

才覚の一言で済ませるのも憚られるような「別物」…、その立場を自覚し、驕るでも嘆くでもなく淡々と御役目に邁進するユ

ウヒだったが、淡々と済ませられない事で頭を悩ませている。

「ユウヒ様」

 呼びかけられて足を止め、ユウヒは口を真一文字に引き結んだ。背中を丸めた様など他者には見せられぬ、と。しかし…。

「お疲れですね?」

 屋敷への昇り口に立っているのはヤクモだった。

「まぁ、な…」

 立っていたのが幼馴染だと気付くと、肩の力を抜いて素直に認め、首を縮める。

「集中が悪ぃ。ついつい力が篭る。こんなんでは稽古つけるどごろが、怪我させかねねぇ」

 今日も不機嫌だと察したヤクモは、「お茶を入れましょう。菓子を用意しますから」と提案した。



 数分後、庭に面した比較的狭い和室に移動したヤクモは、着替えたユウヒに白餡の最中と濃い緑茶をあてがった。

「原因は判ってんだ」

 ムスッとした顔でユウヒが呟く。次期当主として、帝直轄領の護りとして、常に厳しい態度を崩さないユウヒだが、ヤクモ

と二人きりの時は少年らしい表情を見せるし愚痴も口にする。

「もうじき生まれる…。そう考えっと、どうもな…」

 茶を啜ったユウヒに、ヤクモは気遣わしげな視線を向けはするが、口は挟まない。

「きょうだいがでぎる。そいづは別に良いんだ。オラが死んでも継ぐ子が居んのは神代家にとっちゃ良い事だがらな。嬉しい

事だって判ってんだ。んだども…」

 ふぅ、と息をつく。

「自分が本心でどう思ってんのが、わがんねぇ…」

 それはユウヒが抱えるの正直な気持ち。母が違うきょうだいができて、それを両親とも一緒のきょうだいと偽って、ずっと

接してゆく…。そこがどうも引っかかる。

 そして、弟か妹かまだ判らないが、きょうだいとの接し方など知りもせず、考えた事も無かった事が不安にも繋がる。

 苛立ちはある。だがそれは生まれて来る子供に対しての物ではない。母と名乗らないと決めたフレイアの哀しい選択…。実

の母を知らぬまま育つ事が決まった子供…。

「…そいづが…、なんだが…、ぬぅ…!」

 呻いたユウヒは、頭を抱えて後ろに引っくり返る。

「んがぁあっ!畜生っ!スッキリしねぇ!モヤモヤして堪んねぇ!何が良くて何が悪ぃんだ!?」

 小さな子供が癇癪を起こしたように、引っくり返って左右にゴロゴロ返りながら頭を掻き毟るユウヒを、ヤクモは苦笑いで

眺める。

「………」

 程なく、ユウヒは仰向けでピタリと止まる。こんもり山になった腹がゆったり呼吸する様を、ヤクモは五つ数えてから湯飲

みを取り、茶を啜った。

「…ふぅ…」

 起き上がり小法師のように、尻を支点にゴロリと起き上がったユウヒは、少し落ち着いた様子で息をつくと、耳を倒して鼻

先を下げ、頭を掻きながら上目遣いにヤクモを見遣る。

 取り乱して悪かった。誰にも言うなよ。そんな、申し訳なさと恥じらいが混じる視線を受け止めて、ヤクモは小さく顎を引

いた。

「あまり考え過ぎない方がよろしいのでは…。私がこんな風に申し上げるのは少し無責任ですが、一緒に暮らすうちに何とか

なります、きっと…」

 遠慮がちに、優しく静かにそう言ったヤクモに、「だど良いんだげっとなぁ…」と少年らしい顔を覗かせながらユウヒが応

じる。

 ここしばらくで、ユウヒもヤクモも少し変わった。家庭環境が複雑になる事が影響したのか、役目のためにと、ただひたす

らに厳格で融通の利かなかったユウヒは、年頃の少年らしい悩む姿をヤクモに見せるようになった。

 一方ヤクモは、信頼できる身内としてフレイアの世話役という責任ある役目を命じられた事が影響したのか、気を張り続け

た末にオドオドした様子が薄れて、婦人達の傍で過ごす内に、おっとりしながらも落ち着いた雰囲気になった。

「心配なのはもうイッコあんだ」

 最中を取って齧り付き、赤銅色の熊は困っているように耳をピコピコさせた。

「歳離れだきょうだいに、どいなぐ接したら良い?おどごだったらまだ気楽だげっとな、妹だったらなじょすっぺが?」

 やっと等身大の答えやすい相談が来たぞと、ヤクモは目を細める。

「接し方は、自然に定まって来る物ではないでしょうか?私とユウヒ様も、この接し方を事前に考えて決めた訳ではなかった

訳ですし…」

 ユウヒは「…あ」と声を漏らす。

(つまりあれが、ヤクモど一緒みでぇな感じで…、一緒に居るうぢに態度が決まって来るモンが?)

 そう考えたらほんのちょっと自信がついて、ユウヒはそっと息を吐く。そういう事ならば、本人に伏せると決められた事に

だけ触れないようにして、自分は自分できょうだいに接するだけだと。



「先生の見立てでは、来週にもお生まれになるとのお話で」

 月が出た空を縁側から見上げる巨漢の熊に、山羊の老人が報告する。

「いよいよ…だなぁ」

 冷え切った夜気の中、湯気立つ湯飲みを片手にユウキは白い息を吐いた。

 ヤギが下がってひとりになると、ユウキはぬるくなりつつある茶を啜った。フレイアを孕ませた事が判ったあの日から、ケ

ジメとして禁酒している。トナミはそれが、正妻である自分に断りなく子を作った詫びであり、反省の姿勢でもある事を知っ

てはいるが、もう気にするなと言っても聞くような夫でもなし、気の済むようにさせようと放置している。

 酒を断って調子が良くなったかといえば、そうでもない。元々深酒による体の衰えは無かったようで、単に物足りないだけ。

まぁ自分への罰なのだから良い事が何もない方がそれらしくていいと、熊親父は湯飲みを再び口元に寄せ…。

「………」

 無言で下ろし、床に置く。

 のっそりと立ち上がった熊の耳はピンと立ち、気配を窺っていた。

 首筋にチリリと来る、一瞬の殺気。すぐさま消えたソレの出所を探って、ユウキはしばし視線を巡らせ…。



 屋敷の大門を出た所で、ユウキは足を止めた。

 夜までやっている店も無いので、河祖下の夜は早い。日が暮れれば皆家に戻るので、雪に埋まった薄明るい風景に人影は無

くなる。

 吹く風は穏やかながら冷たく、凍りついた山々は時折積もった雪を落とす音を響かせた。

 その冷たい静けさの中で、ユウキは口を開く。

「何用じゃ?わざわざ先触れまで送りつけて神代に討ち入りなんぞと、酔狂な真似をする輩が居るとも思えねぇがなぁ。…寒

い中誘った理由がつまらねぇモンだったら…拗ねるぞ?」

 先ほど感じた殺気は誘いだったと確信した上で、ユウキは口を尖らせた。

「つまんねぇ用事だったら、こっちも気楽なんスけどね」

 答えた声はユウキの横手側。雪が積もってコーンのようになった木の下で、巨大過ぎる人影がぼやいた。相手が誰なのか気

付いた途端、ユウキの目が丸くなる。

「おめぇさんは…」

 一度だけだが、会った事がある相手だった。巨躯のユウキよりもさらに巨体の北極熊…。雪に溶け込む雪中迷彩に装いを替

えてはいるが、布に包んでバンドで留め、背負った巨大な剣はそのまま。裏帝の隠れ里を攻める戦の最中、赤い虎の偉丈夫を

相手取って共闘したあの男だった。

 「どもっス」と気安い調子で片手を上げ、ジークフリートはユウキに歩み寄る。

「何の用じゃ?いや、本気で判らんぞ?」

 ユウキも舌を巻く超戦士。先ほどの殺気がこの男の物だとすれば、冗談ではなく本気で神代に喧嘩を吹っかける事が可能な

レベルの相手だったという事になるが、喧嘩を売り買いする心当たりが無い。

「そりゃあそうっス。オレだってこんな事になってるなんて思ってもみなかったっスから。ぶっちゃけ頭痛ぇっスよマジで」

 大仰に肩を竦めたジークは、「ちょいと付き合って貰って良いっスか?誰にも聞かれたくねぇ相談っス」と、のっそり体の

向きを変えた。



 ジークに先導されるまま村外れまで歩いたユウキは、足を止めた北極熊がため息をつくのを見て、彼が本当に困っているら

しいと察した。

「あ~…。どっから話したモンだか…。とりあえずは確認からっスね」

 踵を返して向き直ったジークは、早速ユウキに問う。

「アンタのトコに匿われてる娘、オレが世話んなったロクデナシの隠し子なんスけど…」

「待った」

 顔を顰めてユウキが遮る。

「何故嬢ちゃんがここに居る事を知っとる?」

「定期的にコッソリ様子見守りに行ってたんスよ。ちょいと立て込んでた間に北原を離れちまってたみてぇで、探すのに随分

かかったっス…。…あ、こいつは本人にも他の誰かにもナイショっスよ?オレとの繋がりがバレるとフレイアも面白くねぇ事

になっちまうっスから」

 ジークは口の前で人差し指を立てると、声を潜めた。

「もう十年以上顔を合わせちゃいねぇっスけどね、ずっと昔…あの娘が小さかった頃に何回か会ってるんで、あの子もオレの

顔は知ってるっス。偽名で会ってたから正体には気付いちゃいねぇはずっスけどね。…まぁとにかく、問題はオレの事じゃな

く、あの娘のろくでもねぇ親父の事っス。オレも相当ロクデナシでヒトデナシっスけどね、ありゃヒデェ。ヒデェって言葉が

ソフトに思えるぐれぇヒデェ。あ。思い出したら腹立って来たっスあんちくしょう」

 ユウキは黙してジークを見つめる。

「で、まずは確認なんスけど、アンタはフレイアの父親が誰なのかは知らねぇ…、って事でいいっスね?」

「そうじゃな。お嬢ちゃん自身も「たぶん」と思うひとは居ったと言ったが…」

 ウンウンと頷いて、「やっぱ勘付かれてんじゃねぇスかあのロクデナシ…」と愚痴るジーク。

「まぁ、相談に乗って貰うためにも、知ってて貰うのが前提になるんで、まずは聞いて貰うっス」

 そう言うなり、ジークは背負っていた大剣に手をかけ、傍らの雪面に放り出した。

 雪煙を上げて白に沈んだ剣をチラと一瞬見遣るユウキ。戦闘の意思が無い事をこのタイミングで示す…。それはつまり、こ

れから争いになってもおなしくない話をする事、そして争いになったとしても自分に闘う気は無い事を意味していた。

 ここまでされては従う他あるまいと、ユウキも腹を決める。どんな話をされても驚くものかと。

「「こっち」で使ってる名前はいくつもあるっスけど、今の名前やら任務の偽名やら通名やら名乗ってもしょうがねぇっスか

らね…。まず本名からっス」

 実名を出すのは久しぶりだなと、少々感慨深くなりながらジークは名乗った。

「オレは「ジークフリート・アレスグートゥ」。生まれはイマジナリーストラクチャー・ニブルヘイム。ず~っと昔は「ニー

ベルンゲン」って呼ばれてた種の部族出身、「現行人類」から見りゃ「旧人類」って事になる…レリックと同源の生き物っス」

 ユウキの眉が上がった。判らない事もあったがピンと来た。神代家の祖…ひいては「古種」と呼ばれる獣人達と同じく、こ

の北極熊もまた「遺物」の一種なのだと。

「…いまじんす…、何と言った?オメェさんの郷は…」

「ドイツに重なってる異層領域構造っス。アイツの話じゃこの国だと「かくりよ」とか「かくしよ」って呼んでるはずっスね。

確か…、「タカマガハラ」とか「ヨモツヒラサカ」とかそういう名前のトコが、いくつかあったんじゃねぇっスか?」

 ユウキが唸る。例えを持ち出された事で理解できた。自身も行った事は無いし「あるらしい」と口伝に聞くのみだが、「異

界」とも「位相」ともいう現実の空間とは別の座標にある地…、それが「幽世」とも「隠世」とも呼ばれる場所。現行人類が

認識できる現実世界からはズレた座標に存在する小世界…、北極熊はそこと同類の地の出身だと言っている。

 そもそも、各神将家が守護を命じられている御柱も、平時はそういったズレた座標に聳えている。

「で、かつての所属は「秘匿事項対策機関フィンブルヴェト」…。つまりオレはフィンブルの生き残りっス」

 ユウキの眉が上がる。驚いていない訳ではないが、やはりそうか、という所。

 国際秘匿事項対策機関フィンブルヴェト。先進国連合の軍部が主導して設立し、叛意があるとの嫌疑をかけられて強制解体

された組織。その設立経緯における見過ごせない要素への抗議として、日本はフィンブルヴェト設立の折に帝の命で先進国連

合から脱退しており、以降は一切の協力を拒み、神将達も接触していない事になっている。

 が、ユウキは少なくとも神崎家とフィンブルヴェトに「非公式接触」があった事に感付いていた。何か事があった時に頼み

とするつもりだったのだろう、神崎家当主からそれとなく仄めかされていたので。

「神崎の…いや」

 問いを口にしかけたユウキは、思い直してそれを引っ込める。何故問わないのか察したジークは、済まなそうな、そして感

謝しているような、微妙な半笑いで耳を倒した。信用して貰うために自分の素性は晒す。が、その他の情報は必要なだけに限

らせて貰わなければならない。

「「ジークの何でも質問箱のコーナー!」…でも良いんスけど、余計な情報までやっちまうと、アンタも立場上色々まずい事

出て来ちまうっスからね。説明に必要なトコだけにしとくっス。ただ、イッコだけ独り言っス…」

 太い人差し指を立てて、ジークは言った、

「ビョウギはダチだったっスよ。少なくともオレにとっちゃ」

「…それだけ判れば充分じゃ」

 で?とユウキは促す。今出した情報と相談事とやらが、どう結びつくのかと。これに顎を引いたジークは…。

「フレイア・ゴルドは、フィンブルの機動制圧局局長にして総責任者だった男…、オーディン・オーディナリィオーダーの隠

し子っス」

 ふむ。とユウキは頷いた。先の話からすれば、フレイアはフィンブルヴェトの関係者筋なのだろうとは思っていた。先進国

連合からすれば捕縛あるいは抹殺対象なのだろう、そこの総責任者の娘ともなれば特大級の厄ネタである。

 が、そんな事はユウキにとって問題ではない。日本は、帝は、もはや先進国連合とは関係ない。フィンブルヴェトの生き残

りや関係者を捕えるよう要請があったとしても、従ってやる義理は無い。

 ここで熊親父が考えたのは、フレイアがそういう血筋だという事を、おそらく先進国連合は把握していないという事。でな

ければ北原でハンター稼業などしていられない。

 そして、ジークは少なくともフレイアの敵ではない。こっそり見守っていたと言っていたし、自分との繋がりが知られると

フレイアにとって面白くない事になるという発言からも、ジークは彼女の側と取れる。そもそもフレイアを除きにかかるので

あれば、感付かれないようにユウキが御役目にでも出ている隙をついて殺せば済む事。わざわざこうして一人だけ呼び出す意

味がない。

 となれば、相談というのは、いよいよ身元が掴まれそうだから匿っておいてくれと、そういった話だろうかとユウキが考え

ていると…。

「そのオーディン…、オレ達がディンって呼んでた親父の本名なんスけどね。鳴神大電(なるかみだいでん)っていったんス」

 ユウキの顔からは、完全に血の気が引いていた。

「…立ち話でするような…、話じゃねぇなぁ…!」

 嫌な汗をかきながら唸るユウキに、ジークは肩を竦める。

「かといって、腰据えて誰かに聞かれちゃ堪んねぇっス」

 会話している所を誰かに見られるよりも、会話を聞かれる事の方がまずい。どんな疑いをかけられるよりも、内容を知られ

る方が何百倍もまずい。危険を確実に排除するための、村外れでの立ち話。視界も広く取れるここでなら、話を聞かれる前に

気配を察知できる。そういう考えでジークはこんな接触の仕方を選んだ。これは、それほどまでに危険な情報だった。

 鳴神大電。現鳴神家当主であるライデンの実兄。自分は当主に向かぬと言い残し、家督を弟に任せて国外へ逐電した出奔者。

それが、フィンブルヴェトの総司令官を務めていた男の正体。

(日本が先進国連合から抜けたのは…!帝がそうお命じになった理由は…!出奔したダイデン殿を、連合が組織の責任者に据

えて召し抱えたからか!)

 加えて言うならば、フィンブルヴェト解体の折に処刑された「総責任者」というのは、出奔したとはいえ神将家の直系。叛

意があったという公表が本当かどうかもそもそも疑っていたが、これはますますきな臭い。帝の命により、先進国連合への再

加盟を拒否し続けているという事実が、これまでとは全く違う見方になってくる。

 出奔した神将家の直系…もしかしたら当主になっていたかもしれない男を、主家筋である帝の意志に反してフィンブルヴェ

トの総責任者に配置し、挙句に叛意ありとして処刑したというのであれば…。

 だがユウキの顔色は、その真相とは別の「気付き」によって、さらに悪くなった。

「…待て…。つまり…、お譲ちゃんは鳴神家の…!?」

 思い返してみれば、彼女とのやり取りで引っかかりを覚えた事があった。さらに、フレイアの奇妙なエナジーコート能力は、

鳴神家が得意とする力場を器物に纏わせる技術によく似ている。そして、外国人ならば珍しくもないと思っていたが、あの金

色の髪の毛は…。

 呻くユウキをジークは見つめる。自分が問題視している事が何なのか悟った熊に、北極熊はため息混じりに言った。

「どうなんスかね…。神将家の当主と、直系の隠し子の人間…。この組み合わせは、「神威の禁忌」に触れる血の濃さになる

んスか?」

「………」

 問われても、ユウキはすぐには返答できなかった。

 神威。遥か昔、神将の血が濃い者同士で契った折に生まれた心無い怪物。生ける者を衝動的に破壊しようとし、神将すらも

喰らう者。神将家縁の者…特に直系の血が濃い者同士の婚姻が固く禁じられているのは、この「神威」が再び生まれないよう

にするため。

「ニーベルンゲン同士じゃそんな事は起こらねぇんス。実際、ニブルヘイムにはニーベルンゲン以外の人種は居ねぇ…つまり

純粋に近い古種しか住んでねぇっスけど、そんな事は起きてねぇっス。両親の種族の違いが大きかったとか、そういう事なの

かもしれねぇっスけど…」

 とはいえ、とジークは考える。

(まぁ、親父からもアルベリヒからも聞いた事ねぇから、オレが知らねぇだけって線もあるにはあるっスか…。少なくともオ

レが生まれてから出奔するまでの580年間、ニブルヘイムじゃそういうのは一匹も生まれてねぇっスけど…。いや、ミーミ

ルが言うオレみてぇな「アーキタイプ」と、現行人類中の古種の末裔の違いっスか?ムムム…)

 ジークはユウキ達とは比較にならないほど古種の血が濃いのだが、彼の一族ではそんな怪物は生まれていない。だから同じ

条件で神威が本当に生まれるのか、そもそもどんな条件を満たすとそうなるのかが判らない。しかし、それが偶然やたまたま

ではないらしいという事は知っている。

 神将家に限らず、他国でも古い血統を繋ぎ続けている家から「世界の敵になり得る怪物」が生まれる事は、フィンブルが纏

めた統計資料から把握している。ジークの同僚だったジャイアントパンダも、あるいは自分もまた歪んだ先祖返りを果たした

変異種と言えるのかもしれないと、自らの能力的な特殊性や倫理的な部分の欠落に関する異常性について分析していた。

 条件は判らないし確信もない。だが、ただ一つ言えるのは、もしも本当に生まれるのならば、自分が対処すべき「世界の敵」

である可能性があるという事。少なくとも、当時の神将達ですらたった一匹を相手に劣勢に立たされたという話が事実だとす

ればとても看過などできない。赤子の内に殺せるならばそれに越した事は無い。

 ユウキにも、ジークが言わんとしている事が判った。「相談」とはつまり、こういう事だったのだと…。

「赤子の内に…、か…」

 ユウキが唸る。「その恐れ」があるならば我が子を殺せ。できないならば自分がやってやる。北極熊はそう言っている。

「世界の敵になった時点でオレにとっちゃ排除対象っス」

 あくまでも淡々とジークは言う。自分に任せるのも正当な選択、無理に手を汚す必要はない、と。

 しばし黙したユウキは、低く抑えた声を発した。

「…オメェさんの言う事は理解した。「神威」なら殺さにゃならん…」

「オレがやるっスか?」

 気を回して提案したジークに、しかしユウキは首を横に振った。

「まだ神威とは決まっとらん」

「………」

 まぁ、すんなり受け入れはしないだろうなと、予期していたジークだったが…。

「確認した上で、神威だったなら…、儂の手で殺す。コイツは誰かに責任を負わせて良いモンじゃねぇ…」

 ユウキは重々しい声を吐き出した。もしもそうだったならば、自分がやらねばならないのだと、腹を決めて。

「確認する方法があるんスか?」

 北極熊の問いに、ユウキは「ある」と顎を引いた。

「「神威」は、生まれた時から目が見えており、産声を上げなかったらしい。普通の赤事は最初から違うておったと伝え聞く。

…おそらく、「そうと判る」生き物なんじゃろう…」

「そういう事なら判断は任せるっス」

 あくまでも淡々と、声にも顔にも感情を出さないジークだったが、胸中は複雑だった。

 フレイアの事は、彼女が赤子の頃から知っている。カエルの子はカエルと言うが、できればこちらの世界に足を踏み込まず、

人並みの幸せを得て暮らして欲しいと望んでいた。

 ハンターになったと聞いた時も、いつか足を洗って、願える事なら子を授かって幸せな家庭を築いて欲しいと願った。

 子供ができる事は、ジークにとっても嬉しい事…の、はずだったのだが…。

 雪中に放り出した大剣を拾い上げ、担ぎ直すと、ジークは村の外に体を向けた。

「しばらくこの辺に潜んどくっス」

 結末を見届ける。そう仄めかした北極熊の背を見送り、ユウキは念の為に周囲を窺いながら屋敷に戻る。

 足が、重かった。



 雪が降り積もる中、山中の木々が密集した位置まで歩いてきたジークは、丁度良い枝ぶりの木を見つけると、ロープと薄い

シートで野営準備を始めた。どちらも頼りなく見えるほど細くて薄いが、市販品の組み立て式テントよりも遥かに頑丈である。

 ポールやシャフトを使わずに、生えている木と枝を利用してロープを渡し、シートを張り、ジークの巨体が屈んでさえいれ

ば収まる程度の高さと、寝転がっても問題ない面積を確保したら、愛剣と荷物を中に放り込んでから、テントの前で雪面に指

で記号を書く。直線の組み合わせで記した領土、太陽、喪失を意味する記号に、北極熊はフッと息を吹きかけた。記号を形作

る窪みに白い息が溜まるが、それは自然の雪煙や霧とは違い、かなり長い間そこに留まっていた。

 テントを囲む四か所でそれぞれ同じ事をしたジークは、入口となるシートの合わせ目を見遣る。

 そこには、なかった。今しがたジークが張ったはずのテントが。

(雑っスけど、目くらましはまぁこれで良いっスね)

 仕事の出来栄えに満足した北極熊は、記した記号の外側からは視認できなくなったテントにゴソゴソと潜り込むと、無煙で

燃焼する固形燃料と小さな鍋を取り出し、火にかけた鍋に雪を入れて溶かして湯を沸かし、豆類の粉と乾燥茸と野菜、干し肉

を入れて、粉末ミルクを加えながらグツグツ煮込み、簡素なシチューを作り始める。携帯食料はさほど持参していないので、

明日以降は野山の獣を狩るつもりだった。

(初めての土地っスけど、勝手はまぁニブルヘイムに似たモンっス。あっちの獣と比べりゃ大人しいモンだし、狩りはそう難

しくねぇっス。それにしても…、ここらはニブルヘイムを思い出す雪景色っス…)

 ジークの故郷は年中雪が溶けない場所だった。針葉樹が雪に埋もれながら育ち、白濁色の水晶のような結晶があちこちから

生え、奇妙な野生動物が暮らす広大な雪の大地…。この世界から切り離された、冬以外の季節が無い場所…。それがジークの

記憶にある故郷の風景。

(北原よりも似てやがるっス。落ち着く景色…なんスけどね、何も無かったなら…)

 木のヘラでシチューを掻き回しながら、ジークはため息をついた。

 フレイアが家庭をもって子供ができたら…とは何度か考えた。幸せな家庭しか想像しなかった。まさか、よりによって、そ

の相手が…。

(ディン…。さらっとくたばってんじゃねぇっスよ…。フレイアちゃん、すげぇ男と子供作っちまったんスよ?心配だったら

何とかしてやれっス、ダメ親父…)




 フレイアが産気付いたのは、三日後の事だった。

 三月三十一日。既に寝仕度も整えた時分に破水し、屋敷内では慌しく分娩の準備が整えられた。

「何か…、何かすっこどねぇが!?手伝えっこど何か…!」

 部屋に運び込まれるフレイアが蒼白だったので、本能的にただならない事を察してソワソワする若熊を秋田犬が諭す。

「お、おちっ、落ち着いて!待ちましょ、ましょう!ね!?」

 言葉の上では落ち着かせる側だが、ユウヒにしがみ付いている格好で、ヤクモも相当取り乱していた。そんな若者達に…。

「のーぷろぶれむ、じゃ!」

 のっしのっしと歩いてきたユウキは、少年達の肩をバンバン叩いて笑いかけた。

「逆子から四つ子まで取り上げてきた、海千山千の猛者揃いじゃ。蕪でも抜くようにスポンと取り出すわい!」

 気楽な調子で若手を落ち着かせると、当主はトナミを伴って部屋に入る。

 そして戸は閉められ、長い戦いが始まった。



 苦闘、と言っていい分娩だった。

 フレイアの子は逆子だった上に大きかった。熊獣人の、しかもかなり体格が良い赤子で、膣内からなかなか出てこなかった。

 日付を跨いで喘いでいるフレイアに掛かる負担も相当な物。枕元についたトナミは手を握って励まし続けるが、その表情は

厳しい。

 母子の安全を考慮し、医師は自然分娩では母体が危険である事を説明した上で、ユウキの許しを得て切開に踏み切った。

 ユウキはみじろぎもせず、じっと出産を見守る。その胸中を知らぬ者の目には、どっしり構えて動じない、頼もしい当主と

映っただろうが…。

「出ました!」

 フレイアの股の正面についていた女医が、血塗れの塊を取り上げる。

 ユウキが目を剥いた。

 そう、それはまさに「塊」と形容できる、丸々とした大きな赤子…。

 ユウヒが産まれた時の事を思いだした。アレもこんな具合の赤ん坊だったと。

 ユウキはじっと赤ん坊を見つめる。取り上げられた赤子は、女医の手の中で…、

「………」

 目を開けていた。

 縫いぐるみのような熊の赤ん坊。フレイアの血が強く出たのだろう、熊獣人の姿ながら、明るい金色の毛並みに青い瞳…。

(ああ…)

 鳴きもせず目を開けている赤ん坊を見下ろし、ユウキは…。

(ああ…!)

 動けなかった。

(あああああっ…!)

 腹は決めたはずだった。なのに躊躇った。生まれた我が子は愛おしかった。

(何と…、身勝手な事じゃ…!)

 あれだけ命を奪ってきて、なおも身内の命は手放したくないのか?なおも我が子の命は惜しいのか?自分は汚らしい男だと

自覚していたはずだったが、こうまで意地汚いのかと、激しく失望した。

 歯を噛み締める。拳を固める。

 フレイアは自分を赦さないだろう。トナミは役目だと頭で理解はしても気持ちの上では赦さないだろう。誰も自分を赦せな

いだろう。理解しろと言う方が難しい。母親が自らの手から離してまで、生みたかった、そして生きてほしかった、そう望ま

れた子を、他でもない父親が殺めるのだから。

 せめて一瞬で、苦痛なく命を奪う。悼む事も許されぬ死体を残すくらいなら、跡形もなく消した方がフレイアにはまだ救い

になるだろうと心を決める。

(赦せとは言わん。恨め…!呪え…!この外道を…!)

 誰にも止める隙を与えず、瞬時に命を断とうと、ユウキがその左拳を少し上げた瞬間、

「!」

 左腕の上腕…かつて逆神に抉られた古傷が疼いた。我が子を救うために勝ちの目を投げ打った、血の源流を同じとする神壊

に傷つけられた傷が。

 その一瞬が、運命を分けた。

「フ…」

 赤子が息を大きく吸い、喉が震えた。

「フアッ!」

 産声が上がった。ここに居ると、訴えるような声が。

「フアッ!フアアッ!フアッ!フアッ!」

 息を飲んだユウキの手が止まる。赤子の顔を覗き込む。青い目は、何にも反応していなかった。何も見てはいなかった。開

いているだけで、何も見えていない…。

「元気な女の子ですよ、御当主!」

 ユウキの左手がゆっくり開く。手の平から籠った熱が抜けてゆく。

 安堵、と呼ぶべきか。脱力感と疲労感で眩暈がして、肩の力が一気に抜けた。

「…そうか…」

 精一杯のたった一言を吐き出して、ユウキは項垂れる。そして、女医に目をやり、トナミに頷きかけ、赤子をフレイアに抱

かせてやれと促した。

 最初に抱くべきはフレイア。自分には、先に赤子に触れる権利など無い。とはいえ…。

(…「良かった」…。心底、そう思う…)

 元気に鳴く赤子の声に、か細いフレイアの声が重なった。

「ああ…。赤ちゃん…」

 蒼白な顔を生まれたての我が子に向けて、愛おしいその顔を見つめて、フレイアは涙を零した。

「赤ちゃん…、本当に、産めたんだ…!」



 屋敷の慌しさが落ち着いた頃、ユウキは夜明け前に屋敷を出た。

 向かう先は先日の村外れ。雪を踏み締め歩んだ先で、雪中迷彩に身を固めた北極熊は待っていた。

「赤子は神威じゃねぇんスね?」

「うむ。普通の赤ん坊じゃった」

 大きな熊二頭は向き合ったまま、しばし無言でいたが…。

「ぶっはぁあああああっ!いがったっス!マジで?マジで普通の子供っスね!?古種の血が濃いとかそういうのは除いて!?」

 白い溜息を盛大につくジークと、「うむ。普通の赤ん坊じゃった」と、安堵の余り魂が抜けたような顔で繰り返すユウキ。

「はぁ…。とにかくまぁ、良かったっス…」

 少なくともこれで一つ心配事が消えた。そして、かつて願った一つ…子を成して母になって欲しいという願いは叶った。

「あとはさっさと引退するか何かして、平穏な生活を送って欲しいモンっス…」

「うむ。普通の赤ん坊じゃった」

 ジークが眉根を寄せる。目を潤ませて立ち尽くすユウキは、もはや心ここにあらずといった有様。

「ちょ…、しっかり!?」

「うむ。しっかりした赤ん坊じゃった」

「戻って来いっス!」

 ハッと我に返ったユウキは、「うむ」と頷く。

「めごい(愛らしい)…赤ん坊じゃった…」

「大丈夫っスかコレ…。とにかく」

 北極熊は首を縮める。「オレは行くっス」と。

「結局オレの取り越し苦労で掻き回したっスね」

「いや、聞いておいて良かった」

 応じたユウキは目を細める。「で…」と。

「これは答えて貰えるモンか判らんが、質問じゃ」

「物によるっスけど、何スかね?」

 声を低くしてユウキは尋ねた。樹海での戦に介入してきた赤虎の偉丈夫、あれも元フィンブルヴェトなのかと。

「そうっスよ。オレの元同僚、アドヴァンスドコマンダーだった男っス。そして、今は残党を組織して世界に牙を剥く存在っ

ス。オレら少数派を除いた生き残りは、フィンブルを解体された時の事も、抹殺対象にされた事も恨んでて、世界に復讐しよ

うと企ててるみてぇなんスよね。ま、無理もねぇし気持ちも判らねぇでもねぇんスけど…」

「それでオメェさんは、かつての仲間と袂を分かって敵対しとる、と…」

「先進国連合からは十把一絡げに抹殺対象にされてるっスけどね。もっとも、オレらも連中もアンオフィシャル…ハナから存

在してねぇ事になってるんで、公な抹殺指令も手配も回ってねぇっスけど」

「道理でこっちに情報が入って来てねぇ訳じゃ。「全滅」としか聞いとらんからのぉ」

「そりゃあ公表できねぇっスよ。手前らが主導して作った組織に、叛意ありって濡れ衣着せて滅ぼして、そいつを恨まれて世

界丸ごと復讐されるんじゃ、判り易過ぎる諸悪の根源じゃねぇっスか。かなりキツいバチ当たれっス、マジで」

「それで、何でオメェさんは仲間達と同じ結論には至らなかったんじゃ?」

「………」

 ジークは僅かに目を細め、微苦笑する。

 かつて自分を慕ってくれた、浅黒い肌の少女の顔を思い出しながら。

「約束した…って言うか、押し付けられちまったんスよ」

 広い肩を竦める。「返事を聞かねぇってのはヒデェっス。一方的に約束してそれっきり…」と。

「だからオレらは決めたんスよ。迫り来る明日に立ち向かう、今の世界を護ってやる、って」

 だいたい、あの復讐では少々不公平なのだと、ジークは言った。

「世界に生きる大半のひとは無関係で、先進国連合のせいで謂れ無く復讐対象に巻き込まれてるんスから。だったら、謂れ無

く味方してやるヤツが居なきゃ釣り合いが取れねぇっス」

 この動機を聞き、ユウキの顔が僅かに綻んだ。

 眩しかった。自分にはこんな生き方はできない。選べない。結局のところ自分は、神代家と帝と国を護る事しか考えられな

い。関りが薄い、世界の何処かの大勢のためになど命は張れない。

「損な性分じゃのぉ、オメェさん…」

 そんなユウキの「褒め言葉」に、

「雑なだけっス」

 ジークはニカッと笑って応じた。



 かくして北極熊は去る。

 ユウキが見送る先で、あっという間に雪の中に消えて。

(はぁ…。やっと落ち着いて飯が食えるっス…。いや、のんびりもしちゃいられねぇ、早くヒルデんトコに帰ってやんなきゃ

寂しがらせちまうっスね。いい子に待ってるっスよカワイコちゃん!)