第二十八話 「神代熊斗」

 卓上に開いた巻物に記した文字列をじっと見つめて確認し、秋田犬は出来上がった術具に不具合が無いかどうか、時間をか

けて入念にチェックする。

 神代家の屋敷、敷地内にある離れ。この仕上げ用の清書室を含め、調合室、作業室、休憩室の四間からなる二階建ての離れ

は特殊な工房になっているのだが、今ではヤクモがここの主のような物。以前はこの河祖郡にも、ヤクモの両親や師、先輩を

含めて数名の術師がおり、この工房で巻物などを造っていたのだが、今では工房の使用者もヤクモひとりだけである。

 武道の稽古場や神社の拝殿を思わせる板張りの和室。仄かに香る墨の匂いが、火鉢から漂う熱の香りと混じって立ち込める

部屋。八畳程度の部屋は窓がなく、四方の壁には隙間なく掛け軸が下がっている。掛け軸には、まるで視力検査の表のように、

漢字とも梵字ともつかない文字が手本として記されていた。

 厚い座布団に正座したヤクモがついている机には、筆と硯、そして半分ほど減った固形の墨。脇に置かれた漆塗りの箱には

固形の墨が何十個も、ビッシリと収められている。それぞれ金や朱色などで尻の部分に異なる印がつけられているそれらは、

一見同じ墨色でも成分が異なる。

 西洋ではグリモアと呼ばれる、術を用いるために不可欠な道具。この手の術具は文化圏や流派で様々な形態を取るが、この

島国では術書と呼び、スクロールの形状をしている。

 巻物の術具は、複数の術情報を内部に蓄積する石板型のグリモアとは異なり、異なる術をいくつも詰め込むような真似はで

きない。文字の形、並びの意味、そして墨の成分などで、込められる術の中身が決まる。しかしスクロール型の術具には、そ

れ自体に術の展開式が予め記される事で、使用時には注ぎ込む思念波で術の強弱と精度をコントロールするだけで良いという

メリットがある。多機能であるが故に、拙い使い方をすれば複数の術の同時起動による機能衝突や暴発、フリーズを招く石板

型と比べても、安定性では上を行く。

 術士であるヤクモは、自分の得物…つまり術を封じてある巻物を自ら手入れする。他の御庭番達が刀剣などの愛用武器を鍛

冶師や研ぎ師に頼めるのとは違い、巻物は術師でなければ扱えないためでもあるのだが、近年では少し事情が違って来ていた。

 他に頼れる者が居た頃は判らなかったのだが、実は、ヤクモは巻物に限らず、術式を彫り込むなどして何らかの効果を付与

した武具や調度類などの、術具全般の制作や補修が非常に上手かった。

 かつて、駆け出し独りでは大変だろうと、ユウキが神座家に頼んで呼んだ熟練の術師は、ヤクモの仕事を見るなり「自分の

出番は無い」と評価した。非の打ち所が見つからないと。それで判明した事なのだが、術士は術士でも、ヤクモは術具を作っ

たり手入れをしたりする、いわばクラフトマンとしての類稀な才能があった。

 術士は、術具へ封入じた「術」を読み込み、行使する。この読み込みと制御に思念波を用いる上に、様々なパターンの術を

行使する性質上、思念波強度は勿論、「癖の無い」思念波である事が理想とされる。とはいえ、普通ならば「火と縁がある」

「風との相性が良い」「波そのもの」など、もって生まれた質…つまり「癖」が大なり小なりあるもので、それにより術士に

よって術の得手不得手も決まってくる。

 ところが、ヤクモの場合この「思念波の癖」が全く無かった。術士の界隈では「無色(むしき)」と呼ばれるのだが、特化

して相性が良い術の形式や属性が無い反面、いかなる術の使用にも制約が無い。数系統の術に絞って特化する、いわゆる砲兵

や狙撃手のような活躍が見込める術士達には火力で敵わないものの、多種多様な術の使用による汎用性の高さがこのタイプの

特色である。

 そして、術具に術を「入れる」工程では、封入者とその術の相性の良さは重要ではない。使用さえできれば封入できる。威

力も精度も実際に使用する術者の力量に左右されるので、術具を作る際にはとにかく正確に、そして読み込み不良を起こさな

いように入れる事が大切なのである。そのため、ヤクモのように得意な術もないが不得意な術もない無色の術士は術具造りに

向いている。

 こんな才能に気付いてほったらかしにしておくユウキではない。早速ヤクモを売り込んで、術具の補修や書写を方々から引

き受けて来るようになった。勿論、「御代」はきっちり頂く格好で。
おかげで、ユウキが管理しているヤクモの貯蓄金及び料

金代わりに置いていかれた貴重な品は莫大なものとなっているのだが、ヤクモ本人が素朴で無欲で派手さを求めない性格なの

で、貯まる一方で全然出て行かず、既に首都に豪邸が建つほどの財産になっている。

 そんな売れっ子術具職人は…、

(良し、完成…)

 朝から五時間かけて依頼の品を一本仕上げたところで、すっかり冷えてしまった茶を啜った。このまま墨が乾くのを待てば

終了。あとは起動用の手形を使用者本人が押すだけである。

 首を左右に傾け、肉付きの良い肩を交互に揉んで凝りをほぐしたヤクモは、指と目と頭を休憩させるために一息入れようと、

腰の後ろを拳でトントン叩きながら立ち上がり…。

「終わったが?」

「ひゃわぅっ!?」

 出入口の戸の外からかけられた声で飛び上がった。

 一時間ほど前から工房の外で待機していた赤銅色の熊は、古馴染みの作業が一段落したと察するなり、戸をあけて中を覗く。

「休憩がでら、「熊斗(ゆうと)」の様子ば見さ行ぐべ」

「ええまあ、良いですが…」

 鼻息が荒いユウヒに対し、ヤクモは困り顔。妹の様子を見に行く際、ユウヒは決まってヤクモを誘う。そしてヤクモに抱か

せて自分は横から様子を窺うのだが…。

「んで行ぐど!」

 ソワソワしている赤銅色の熊に腕を掴まれ、グイグイ引っ張られてゆく秋田犬。

(何で上達しないんでしょう…。ユウヒ様の抱っこ…)

 実は、ユウヒはまだ赤子の妹が可愛くて仕方ないのだが、抱き上げると確実に泣かせる。

 雑なのである。揺すり方が。

 一方ヤクモは揺すり方が上手く、泣き出しても抱いて揺らして寝かしつけられる。ふたりの母を除けば最も寝かしつけるの

が上手い。

 母屋に入り、フレイアとトナミが一日の大半を過ごす奥の間へ向かったふたりは、襖の前で跪くと、控えめに声を発した。

「失礼します…。お加減は如何でしょうか…?」

 方言ではフレイアが聞き取り難いので、標準語の勉強に精を出したユウヒが、赤ん坊が寝ていたら出直そうと、小さく伺い

を立てると…。

「あ!起きてるよ、大丈夫!」

 フレイアの声が応じる。衣擦れの音が聞こえたので、少年ふたりは申し合わせて少し待ち、襖を開けた。

 授乳を終えたところだったフレイアは着物の胸元を直しており、小熊を抱いたトナミは肩に顎を乗せさせて、背中を軽く叩

いてやっている。

 黄金を溶かし込んだような鮮やかな金毛の小熊は、「んけぷぅ…」と口を尖らせて満足げにゲップをすると、開いた襖の向

こうに見えた赤銅色の熊と秋田犬に気付いて、キャッと声を上げて笑った。

「おう。顔見さ来たどユウト…!」

 おそるおそる愛想笑いするユウヒだが、そのぎこちない笑みは口の端がピクピクしている。ヤクモがトナミから赤ん坊を受

け取って抱くと、赤銅色の熊は顔を覗きこみ、ふっくらした頬を指先で軽く擦ってやる。喜んだ赤子が手を伸ばし、太い指を

キュッと掴むと…、

「………」

 赤銅色の熊の耳が後ろに移動し、厳めしい顔がデレッと緩んだ。妹が出来るまで一度も見せた事がないデレデレの顔である。

 フレイアが産んだ赤子は、彼女自身によって「神代熊斗(くましろゆうと)」と名付けられた。ユウキとトナミから一文字

ずつ貰って付けた名である。

 ヤクモはズッシリした赤子を軽く揺すりながらあやす。これも才能なのか、この少年に抱かれるのが好きなようで、ユウト

は大人しい。また、脂肪過多なヤクモのたわわな胸を、母達の物と同列に見るのか、空腹時のユウトはヤクモの胸を探る。少

年はこれで何とも微妙な気分にさせられるのだが…。

 しかし、この様子を眺めるフレイアは、幸せそうでありながら、目の奥に寂しさを溜めている。

 神将の血筋は目が見えるようになると「早い」。あっというまにハイハイから伝い歩きをするようになってしまう。母の顔

を思い出に刻んでしまう。だから、フレイアはもう出立の日を決めていた。

 ユウキには勿論、トナミにも深く感謝している。憎んで当たり前、恨んで当然の相手だろうに、自分を受け入れて可愛がっ

てくれた。本当に姉ができたような気持ちで過ごして来れた。

 ユウヒにも感謝し、そして申し訳なくも思っている。少年から見れば自分は父親の妾、接し難いどころか毛嫌いされて当然

だったのだが、若熊は「全部親父殿の責任」「母が妹と言うのだからフレイア殿は某にとって叔母君」と言うばかりで、腹を

立てている様子もなく、終始労わり気遣いながら接してくれた。

 山羊の老人やヤクモをはじめとする、他の屋敷の者もそうだった。厄介者でしかない自分をかくまい、主の親族としてもて

なし、親切にしてくれた。

 自分には、過ぎた幸せだと思う。



「…あと三日か…」

 縁側に座したユウキが呟く。

 新緑で色付いた見事な山の衣を瞳に映し、想うのはフレイアの事。心変わりしてくれるならと、幾度も話をしたのだが、フ

レイアの意思は固かった。

 フレイアが北原へ戻る為の手はずは、彼女のチームの者と連絡を密に取って整えた。御庭番の精鋭達が護衛し、引き渡す段

取りがついている。

 子を産ませておいて何だが、ユウキから見てのフレイアはいささか奇妙な間柄である。第二婦人と見る事もあるが、年の差

が大きいせいか娘のようにも思えて、それでいて実際に我が子の母でもある。

 扱いその物は、それこそベッタリの甘やかし。トナミの気持ちを思って、目に見える所で表立ってベタベタはしないが、溺

愛と言って良い配慮と接し方。腰が痛そうなら寝かせて揉み、肩が凝った様子ならやはり揉み、足がムクめばとにかく揉む。

可愛くて仕方がないという心情と、申し訳ない事をしたという負い目がそんな態度を取らせるのだが、ユウキがここまでセカ

セカと甲斐甲斐しく世話を焼く相手は他に居ない。

 彼女が発つというのを止められないのは、やはり強く出られないから。

 可愛い娘を産んで貰えた。スクスク育つ元気な子は、フレイアのブロンドと碧眼を引き継いでいた。いずれべっぴんになる

と、太鼓判を押している。

 最初こそドギマギし過ぎていて、どうなる事かと思ったが、ユウヒには妹の出生で良い影響が出た。次の家長として育て、

御役目を担う事しか考えない少年に育った長男は、危ういほど実直で堅物だった。

 自他ともに厳しく、適度な寛容さを持たず、融通が利かず、直情径行が強く、気性が荒く、排他的で、情け深いとは到底言

えない性質だった。身内の一部に多少の情をかけはするが、それもほんの一握り。例え昨日まで共に戦った物と今日敵対した

としても、一切の躊躇なく屠れる。御役目への厳格な姿勢を通り越した、寒々しいほど冷厳な性質は、父親から「鬼神」の質

だけを取り出して引き継いだようでもあった。

 だが、そんなユウヒは変わった。フレイアが来た頃から一度不安定になった。思い悩む…まさに年頃の少年のような変化が

見られた。そして幼い妹に、か弱い命に、抱いて触れて触れられて、明らかに柔らかくなった。これまで概念でしかなかった

「牙を持たぬ護るべき民」の姿を間近で見て、その儚く愛おしい命を慈しむ事を知った。こうまで変わるのかというほどに…。

 自分がしでかした事で問題だらけになるはずが、全て上手く回って環境が良くなった。

 しかしフレイアは発つ。あと数日でこの環境は変わる。

「寂しくなるのぉ…」

 ふぅ、と溜息を漏らした熊親父は、風に心寂しく靡いた山を、物憂げに眺めていた。

 自分が、というだけではない。フレイアが去れば屋敷の皆も寂しがる。特に、まだ赤子の娘は…。



 夕餉の時刻、呼ばれた食卓に父とフレイアの姿が無く、母がユウトをおぶって飯を盛っているのを見たユウヒは、何も言わ

ずに卓についた。ヤクモも察したようで、何も言わなかった。

「いい郷だよね。本当に」

 夕焼けを過ぎて、夜がその帳を下ろす直前となった山々を眺めながら、フレイアは言う。「幸せだった」と。

 屋敷の屋根の上、フレイアを抱えて登ったユウキは、体を冷やさないよう自らの袢纏を被せてやりながら、「何よりの褒め

言葉じゃ」と目を細める。

 しばし屋根の上に座して、ふたりは暗くなってゆく空を並んで眺めた。言葉が尽きるほど謝りあい、感謝しあい、今に至っ

たふたり。勝手な物だと各々が自分に呆れるが、産まれた子には幸せになって欲しいと心底思う。

「ユウトには神代は継がせん。アレは自由にさせようと思っとる」

「それが良いよ。何せ私の子供で、ユウキさんの子供だもんねぇ。育ったら絶対に自由人さ」

「確実にべっぴんさんになるのぉ。嬢ちゃんの子じゃしの?」

「それはどうかな…。正直な所、私には熊族の美醜観念が判らないから何とも…。少なくとも、人間の目から見ても可愛い事

は確かだけどね?うん」

 暗くなってゆく屋根の上で、会話を交わしながらユウキは時刻を待つ。やがて…。

「見えて来たぞ」

 肩を抱かれて促され、フレイアが見上げた空は夕暮れと夜の境目。グラデーションがかかる空で、徐々に星々が瞬き始める。

 標高が高い山奥の村から見上げる夜の始まり。ここでしか見られない質素な贅沢。晴れた日の夕暮れにだけ望む事ができる、

昼夜の入れ替わり…。

「夏はまた違う顔じゃ。秋も、冬も…」

 ユウキの言わんとしている事を理解し、フレイアは頷く。

「うん…。帰って来て、ちゃんと顔を見ます…」

 つくづく思う。自分は幸せ者だと…。



 出立の朝が来た。

 産後の肥立ちも良く、ほぼ体力が戻ったフレイアは、ボストンバッグを肩から下げて、屋敷玄関に集まった皆に頭を下げ、

礼を言った。

 ここからはユウキが手配した護送役に付き添われ、迎えに来るチームメンバー達と合流してから出国する事になる。

 ユウトは連れてこられていない。別れが辛くなるからというフレイアの頼みで、ヤクモが中庭で抱いて、ユウヒと一緒にあ

やしている。

 バッグの中にはフレイア滞在中にユウキが命じて鍛造させた、彼女が愛用するサイズの直剣…刀工入魂の逸品が納められて

いる。切れ味と頑丈さは勿論だが、とにかく扱い易さを重視してある拵え。これはフレイアのエナジーコート能力によって武

装が保護、強化されるので、掴む剣に何よりも必要とされるのは、腕の延長として振るえるような使い心地だろうと考えたユ

ウキの意見による仕様だった。

 姉妹の契りを交わしたフレイアとトナミは、再会の約束として指切りした。

「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら顔が無くなるまで(早口)ブーンなーぐるっ、ゆーびきったっ!」

「え、ちょ、怖い!罰則怖いトナミさん!」

「約束を破らなければいいだけの話ですよ」

 ニコニコ笑顔のトナミ。フレイアは絶対に約束を破らないと思っているが、こうでも言っておけば遠慮なく会いに来れるだ

ろうという気遣いを込めた指切りである。

 最後にユウキへ深々と頭を下げ、用意された車に乗り込もうとしたフレイアは、遠く、赤子の泣き声を聞いた。

「………」

 フレイアが去る事を察したのか、火がついたように泣いているユウトの声。ヤクモがあやしているはずなのだが、一向に泣

き止む気配が無い。

「最後に…」

 一目会ってゆくか?そう問おうとしたユウキの声を、フレイアの震え声が遮った。

「切りが、ないからさ…!」

 車に乗り込む。ドアを閉める。声はまだ聞こえる。耳の奥にこびり付いて…。

(元気でね…、ユウト…。時々会いに来るから、「お母さん」の言う事聞いて、良い子に育つんだよ…)

 屋敷の門を車が出る。見送られて去るその影を追うように、赤子の声はいつまでも響いていた。




 それから数ヶ月、ユウトはフレイアの姿を追い求めた。

 時々思い出した様子で恋しがって泣いていた。

 しかしその頻度も、回数も、少しずつ減って行った。母が望んだ通りに。

 そして、月日が過ぎ、季節が巡り、年の瀬が迫る頃…。




「もうそろそろ、「母さん」くらいは言ってくれますかねぇ?」

 それは、夕餉の鍋を囲んでいる神代家の居間で、ずっしりした赤ん坊を抱いて、空になった哺乳瓶を取り上げながら、トナ

ミが発した言葉。

 すくすく成長するユウトは既にだいぶ活発で、もう器用に伝い歩きするようになっているが、意味のある単語はまだ話さな

い。そろそろかもしれないと皆が期待しているのだが…。

「何の、そこは父ちゃんが先じゃろうな!」

 どんぶり飯を掻き込む手を止め、熊親父が自信満々に言った。

「何せこの間「ぽ」って言っとったからのぉ!「ぽ」と「と」、近い近い!そろそろ行けるはずじゃ!」

 両親のそんな会話を聞きながら…、

(…あんちゃんはどうだべな…)

 ホクホクした鱈の切り身を口に入れつつ、チラリと妹を窺い、淡い期待を抱くユウヒ。しかしこれは実に儚い願いである。

何せ未だに抱っこすると数分で嫌がられる。下手をすれば泣かれる。泣かれるとテンパる。テンパると雑に揺する。揺すると

さらに泣かれる。…という有様。余りに危うい上にユウトも嫌がるので、家族の中で唯一を風呂に入れてやれない状況である。

(最初は食べ物関係の言葉かも…)

 その隣で程よく火が通った長葱を齧りながら、客観的に考えるヤクモ。なお、秋田犬はユウトをお風呂に入れてやれる。隣

でユウヒにじっと見られながらだが。

「ユウト、父ちゃんって言ってみい?」

「母さんはどうですかぁユウト?母さぁんって…」

「父ちゃん。ホレ、父ちゃん…。簡単じゃろう?お前なら言える!」

 盛んにアピールしつつ自分の顔を指差して見せる親達だったが、指をおしゃぶりするユウトは不思議そうな顔をするばかり

で、「ぷぇ」と謎の返事。

「…あんちゃん…」

 ユウヒがボソリと小声で囁いた途端、ユウトはクルンとそっぽを向いた。嫌がったわけではなく、聞こえていないままたま

たま顔の向きを変えたのだが、これには兄もショックを受ける。

「まだですかねぇ」

「そうじゃなぁ」

 妻と頷きあった熊親父が、思い出したように秋田犬に目を向ける。

「先にヤクモの名前でも呼ばれたらへこむのぉ。わはははは!」

 と、熊親父が冗談めかして言い、「まさか」とヤクモも笑っていると…。

「やっきゅ」

『……………』

 あどけない、舌足らずな声に続いて、居間に微妙な静寂が落ちた。

「…え?」

 困惑する秋田犬。母に抱かれたままの赤子はヤクモの方に手を伸ばしており、明らかに個体識別ができている。

「…「やっきゅ」…」

 熊親父が呆然と繰り返す。

「あらぁ~…。本当に先を越されちゃいましたねぇ」

 驚き顔で苦笑いするトナミ。

「………」

 幼馴染を愕然と見つめるユウヒ。

 あやしながら話しかける機会がトナミに次いで多かったのは、確かにヤクモだった。だが、原因は頻度だけではない。ヤク

モの名前を先に覚えたのは、全員がヤクモを「ヤクモ」としか呼ばないからである。

 ユウキにせよトナミにせよユウヒにせよ、御頭御館親父殿トナミさん奥方細君お袋ユウヒ様若君坊と、とにかく相手によっ

て呼ばれ方が変わる上にやたらと種類が多い。一貫して名前で呼ばれるヤクモの名の響きは、抱かれていると呼びかけで必ず

聞くので、ユウトにとっては覚え易かった。

 だが、そんな事など思いつきもしなかった面々は…。

「ユウトは…、ヤクモが一番好きか…」

 しょぼくれる熊親父。世のパパ達は「大きくなったらパパのお嫁さんになる!」などと言われてデレデレするのだろう。だ

が、このままではヤクモの嫁になる、などと言い出しかねないのではないかと心配になってきた。パパは許しませんよの表情

で秋田犬を上目遣いに見据えるユウキ。なかなかに目が怖い。

(ヤクモが一番…)

 父の言葉でますますへこむ兄。

 嬉しいような、しかし素直に喜んではいけないような、神妙な面持ちのヤクモ。

「やっきゅ」

 ユウトが再び名を呼んだ。ヤクモの所に行きたそうに、短い手を伸ばしながら…。

 実際問題、トナミを除けばヤクモに最も懐いている。その事実を、ユウトの父と兄はジワジワと自覚させられてゆく…。




 年が明けて春が来て山桜が咲き、一歳になると、パヤパヤしていたユウトの被毛はすっかり金色を濃くし、被毛の色合いは

フレイアの髪の色にますます似て来た。

 この時期にはユウトは支え無しでトテトテ歩くようになっていた。

 何せ両親に似て好奇心旺盛なので、ますます目が離せなくなった。ちょっと気になった物があれば、距離も障害も関係なし

に近くまで行こうとする。庭木に花がつけば触れたがり、段差を全く見ずに縁側から庭に転げ落ちそうになって、幾度かユウ

キがダイビングキャッチし、何度かユウヒがスライディングキャッチした。ヨチヨチ歩きのくせに登坂力及び突破力は妙に高

く、ベビーベッドの柵はよじ登って超えてしまうし、襖はスターンッと勢いよくあける。そして障子は格子ごと破る。

 結局のところ、目を離さないのがベストという事。とはいえ、トナミも神代家夫人として役割があり、完全にはフォローで

きない。せめて御役目がない時は他の家族でフォローしたい所である。

 ユウヒは、命じられれば喜び勇んで真面目にじっと見守っているのだが、泣き出した時に鎮火させられない上に、あやすの

が下手糞。

 ヤクモは、纏まった時間を必要とする作業が多い。それを深夜に回す事で多少は対応できるが、寝不足でユウトの世話をす

るのは本人も怖がる。

 御庭番頭の山羊爺もちょくちょく引き受けてくれるのだが、大所帯の御庭番を取り纏めているので基本的に多忙。ユウキと

並んでこの直轄領を取り締まる要でもあるので、御役目が無い時でも見回りの手配や修練の指示、危急の要件への対応などで、

何もない日がまず存在しない。

「今の時期だけです」

 とはトナミの弁。兄はここまで多動ではなく、あまり手のかからない子ではあったが、世話焼きが必要なくなるまでは、過

ぎてみればあっという間だった。ユウトもきっと、こうして手がかかる時期はすぐに過ぎてしまう。この時しか味わえないの

だから、とトナミが微笑めば、なるほどそうだな貴重な時間だと、皆も頷くしかなかった。

 とはいえ、昼寝させても突然パッと目を開けて、泣き出すどころか添い寝役に気付かれないまま屋敷の探索に出かけてしま

うユウトの冒険心と行動力には手を焼かされる。そこでトナミが案じたのが「腰紐作戦」。ユウトの腰とその時の世話役の腰

を紐で括りつけ、昼寝の最中に脱走できないようにした。

 この作戦は効果が高かった。お役目帰りで寝不足の男どもが、寝かしつけている時に熟睡し、ユウトが脱走を試みようとし

ても、泥のように眠る男共が重しになるので逃げられない。

 そして御庭番達が集団で大工仕事に精を出し、縁側を始めとするユウトが落下しそうな高さの段差に、分厚いスポンジを接

着した板を設置した。スポンジの土台となる板は二枚が蝶番で繋がれて開くようになっており、客が来た時には縁側の下にス

ポンジ側を倒す事で、縁の下を隠す低い板塀に早変わりする。しかも開いて客に向ける面には土蔵によく見られる格子模様…

生子壁の柄に塗られていてなかなかお洒落。工作兵としての技能の高さがふんだんに無駄遣いされている。

 そんな、皆の世話と思い遣りに包まれて過ごすユウトは…。

「お前は幸せなんじゃぞユウト?皆に好かれて大事にされる、これは幸せな事じゃ」

 縁側に面した座敷の中央、夜を徹した御役目から戻り、腰紐で互いを繋いだ熊親父の胡坐の上で、金色の熊はクリクリした

目をパチパチさせる。腋に手を入れられて抱き上げられ、キャッキャと喜ぶユウトに、ユウキは顔を崩しておどけて見せ、笑

い声を上げさせた。

 触りたそうに手を伸ばすユウトを顔に近付け、鼻やら瞼やら乱暴に掴まれて「いてて!」と笑って声を上げる。頬ずりして

やり、耳を掴まれ、喉を撫でてやり、腕にしがみ付かれる。クルンと空中で俯せの格好にし、空を飛ばせるように、浮かせて

揺すって喜ばせて…。

「そうさなぁ…、もっと幸せにならんとな」

 猫可愛がりする娘をあやし、両脇に手を入れて高く差し上げながら、ユウキはゴロンと仰向けになった。

「お前は、「良い相手」を捕まえにゃならんぞ?父ちゃんみてぇなのはダメじゃからな?見る目を養わんとな」

「ぺ?」

 ユウトは疑問形の鳴き声だが、勿論意味など解っていない。

「うむ。父ちゃんっぽいのはダメな。ダメじゃ。ダメ」

 神代家をユウトに継がせるつもりはない。ユウキもユウヒもそこは同じ意見である。だから、いつかはここを出て暮らすよ

うになる。

「しかしなぁ…。もしお前がいつか、「彼氏だど!」って誰か連れて来たらなぁ…。父ちゃん、とりあえずソイツに殴りかか

るかもなぁ…」

「ぷ」

「うむ。たぶん殴る。そんな予感と自信があるわい」

 腹立たしくて殴りたいというのも当然あるが、自分の拳を防御も回避もできないような輩に娘をやる事はできないと、理不

尽過ぎるハードルの課題を用意する奥羽の鬼神。少なくともフレイアに話が行っていない段階では、自分が娘の相手を品定め

しなければならない、という使命感も燃えている。

 仰向けの状態でユウトを高い高いしながらあやすユウキは、ふわ…、と欠伸を漏らし…。



(あらら…)

 御庭番の婦人協議から戻ったトナミは、畳の上で大の字になっているユウキと、その上で寝ているユウトを見て、顔を綻ば

せた。

 軽い鼾をかいて眠り、上下するユウキの腹の上、厚みもありザラついている作務衣の生地をしっかり握っているユウトは、

大きな左手を添えて支えられ、父の鳩尾の辺りをヨダレで盛大に染め上げている。

 やはり歳なのか、それとも疲れのせいか、あるいはユウトの気配が傍にあるからか、妻が部屋の襖を開けても熊親父キは転

寝したまま。ユウキは昔から眠っていても気配に敏感で、近付く者に反応していたのだが、衰えたのか丸くなったのか、娘を

抱いて転寝する姿は牧歌的ですらあり、鬼神と称される男の気配は微塵も窺えない。

 起こさないようそっと立ち去りながら、トナミはクスクスと笑いを漏らす。

 写真を撮ってフレイアに見せたい。足を忍ばせて御庭番に声をかけにゆくトナミは、あと数分で良いから起きませんように

と祈った。




 藤の節の挨拶回りは、神代家の婦人の季節行事の一つ。ウグイスに見立てた手製のキナコオハギを持って、河祖中、河祖上

の御庭番頭を訪問して回る。

 トナミは共を二人連れ、ユウトを抱いて、まずは河祖中から訪ねた。

「ユウトとシバユキは本当に仲が良くて…」

 目を細めるトナミの視線の先では、畳の上で縫い包みの魚を積み上げたり振ったりしている子供二頭の姿。

 河祖中村を預かる御庭番頭邸宅の、広めに取られた和室で戯れているのは、片方は丸々とした金色の熊で、もう片方は薄茶

色の毛並みの柴犬。

 先代が歳で隠居し、河祖中の責任者となったシバイにも息子が生まれていた。名は犬沢柴之(いぬさわしばゆき)。ユウト

と生まれが近く、共に一歳児である。

「いずれは私共同様に主家を支えて盛り立ててゆく身。お嬢様と仲が良いのは喜ばしい事です」

 シバイが幸せ顔で我が子を見遣る。

 体格が違い過ぎるのだが、熊と犬の子は圧し合いへし合いムックリムックリくっついて遊んでいる。キャッキャッと笑い声

を上げる楽しそうな子供らを見ていると、大人達も誘われて笑顔になる。

 しかし、笑っていられないのがこの場にひとり…。

「………」

 部屋の端に控えるヤクモの隣で、ムッツリ黙りこんでいるのは、母に同行してきたユウヒ。赤銅色の巨熊は赤子達を抱っこ

したいのだが、シバユキに怖がられて泣かれてしまうので、目立たないように部屋の隅で小さくなっていた。

 ユウトを抱くのはだいぶ上手になったのだが、ヤクモと違って何故か寝てはくれない。抱かれている間は顔をガン見してい

るというのがヤクモの弁だが、どうやら泣かなくなっても、かつて経験した雑な揺さぶりを警戒しているらしい。

 ユウトの存在は、真相を知る者を一部に留めたまま、フレイアが身を隠していた事もあり、疑われる事もなく神代家の娘と

して定着した。愛くるしい金色の熊は何処に行っても可愛がられている。父からも兄からも溺愛されているが、どうにも構い

方がお気に召さないのか、トナミとヤクモの方に良く懐いているのは変わらぬままである。



 玄関先で、「ぷゃ」「まぁ」と、親に抱かれたまま別れの挨拶をするユウトとシバユキ。河祖中の御庭番に見送られたトナ

ミ、ヤクモ、ユウヒの三人が次に向かうのは、山の稜線沿いの道をぐるりと回りこんだ先にある河祖上村である。

 河祖郡の下、中、上の三村は、麓まで続く河の水源である大きな池…河祖池がある山の窪地を三方から囲む位置にある。舗

装された登り道の終わり、最も高い位置にあるのが河祖上で、下界から最も近い位置にあるのが河祖下。徒歩で移動するには

それなりの距離な上にきつい登りなのだが、ユウヒは勿論、健脚なトナミも苦にしない。一番辛そうなのはヤクモである。

 歌の練習に勤しむウグイスの、まだたどたどしい声を聞きつつ、ユウトに景色を見せながら、急勾配の山道を散歩感覚で登

り、辿り着いた河祖上村は、三村の中で最も小さい。公共の物は村役場と集会場、消防団のポンプ小屋がある程度で、郵便局

も無く、ポストが一つあるばかり。ただし、住民の九割が神代の御庭番である。

 河祖上村を預かる御庭番頭の邸宅は集落に入ってすぐにある。鬱蒼と木々が茂った擂鉢状の斜面と、その下の盆地を望む平

屋の広い家屋は、昔ながらの武家屋敷風で、近代改築もあまり進んでいない。

 立派な門構えの正面から玄関に近付くと、詰めていたお庭番が左右に整列して一行を迎えた。

「ようこそいらっしゃいました奥方!坊にお嬢!ヤクモも!」

 玄関口から降りて出迎えたのは、「縞竹雲示郎(しまたけうんじろう)」という老虎。六十目前というそろそろ隠居を考え

始めている歳なので、だいぶ体も緩んできているが、若い時分から現役を貫いている体躯は肩幅も厚みもあり、背筋も伸びて

いて逞しい。何せ若い頃はユウキと相撲をとっても負けなかったほどの豪の者、歳をとっても力強さが残る巌のような大男で

ある。

 主家の婦人と子供らを破顔して迎える表情は好々爺そのものだが、神代の御庭番の中でも山羊爺に次ぐ古兵で、神代直轄の

御庭番でも屈指の腕前を誇る猛者。訳あって危険生物が招き寄せられやすいこの区域全体を常時巡回防衛するのがこの組の主

な任務となっている。ユウキに率いられて他の御庭番が御役目で出払う時も、この河祖上の御庭番は守護として残され、最後

の要になる。

 奥座敷に上げられた一行が菓子を出されてもてなされる間、ユウトはウンジロウに高い高いされてキャッキャとはしゃいで

いた。孫の代まで世話した老虎がユウトをあやす熟練の手並みに、赤銅色の若熊は食い入るように目を向けている。

「そが…!「たかいたかい」…!」

「加減を」

 何かに気付いた様子で呟いた瞬間にヤクモから釘を刺されるユウヒ。勢い余って妹を天井に埋め込みそうな兄なので、秋田

犬は気が気でない。

「おおそうだ。ヤギ殿宛てに文をしたためるつもりだったが、丁度よく来てくれた。済まないがヤクモ、「小刀」何本かの調

子が悪いらしい。前の手入れから十年は経っているだろうし、折を見て具合を見て貰えないものかな?」

 老虎からそう声をかけられたヤクモは、「どのような術式でしょう?」と、気持ち背筋を伸ばして応じる。

「刃の光を抑える物だな。術の効力が落ちて来たのか、どうも刃が多少ギラギラし始めたらしい。近頃は月明かりで目立って

しまう、と…」

「…あ。それならたぶんすぐに直ります。茎に刻んだ術式が、錆か何かで埋まるか浅くなるかしたのかと…」

「何と!手入れの不備か!…ああ、そういえば返り血に塗れた後に術が消えて、手入れをして貰った事もあったが…」

「はい。汚れなどで目詰まりして式が消えてしまっても、術が崩れて効果が出なくなってしまいますので…」

 ヤクモは老虎にそう説明すると、蔵番担当を数名呼んで貰い、断りを入れて席を立った。

 武具などに刻み入れてある術式は、刀工の仕上げに合わせて術士が仕込んだ物で、さほど大きな効果は付与できないものの

基本的に永続性がある。汚れや錆などで埋まったとしても、式が見えるように錆や汚れを落としさえすれば元に戻る。具合を

見て、掃除するだけで済みそうなら方法を教えれば良いし、本格的な式の修復が必要なら預かってゆくつもりだった。

「…ヤクモは最近、だいぶ落ち着いてきましたな?」

 秋田犬が席を立った後で、ウンジロウは顎を撫でながら目を細める。

「ええ。ユウトの面倒も見てくれますし、術具造りや手入れの仕事も随分増えました。あの子はああいった、物造りの質が強

いのでしょう。いっそ術具職人にするのはどうだろうかと、ユウキ様も言い始めました」

 言外に、前線に出さず裏方で働ければ…という思いが見え隠れする発言でした。と鋭い婦人が付け加えると、老虎は「なる

ほどなるほど…」と口の端を上げた。

「戦で失ってしまえば兵士の「一」。しかし後ろで武具を作らせるのであれば、失わぬまま多くの兵に「一」を加えられる…。

戦術として理に適っておりますし、贔屓だ何だと言われるような話でもない。賛成しますぞ?」

「あらあら、ありがとうございます」

 そんな話を聞きながら、赤銅色の若熊は視線を畳に落とした。

 そうだ。そういう選択もある。元々ヤクモは荒事に向いていない性格、危険な目に合う配置に無理やり就けなくとも、技能

にあった配置がある。

 自分達の戦の準備をして、自分達を送り出し、自分達の帰りを待つ…。御役目から戻る自分達を、ヤクモが母やユウトと共

に労って迎える様を想像して、若熊は小さく顎を引いた。

 個人的な未来予想図。ささやかな望み。幼馴染と母と妹を屋敷に残して支えて貰う、たったそれだけの小さな願いは、しか

しユウヒの胸にはポッと暖かく灯った。



 整備を終えたヤクモが戻ると、一行は座敷を立った。

「今年の夏は暑くなるそうです。奥方もお気をつけ下さい、暑い年の山は川が荒れる」

 玄関先まで出て、皆と共に見送るウンジロウは、幼過ぎるので沢遊びはさせないと思うがと、前置きしながらも注意を促し、

トナミは忠言を有り難く受け取った。

 …後年、ユウトが本当に水難に見舞われてトラウマから金槌になってしまう事など、この時は誰も想像していなかったので、

軽いやり取りに留まったが…。

 土産の水羊羹を持たされて帰路についた一行は、河祖上村を出て、下りの山道をのんびりと歩きながら、暮れてゆく山の景

色を楽しんだ。

 赤子の無邪気な笑い声。母と妹と幼馴染と歩く山道。穏やかに揺れる草木。高く澄んだ空。

 こんな時がずっと続けば良いと、赤銅色の熊は思う。そして、自分が見てきた、歩いて来た、御役目の現場を想う。

 ユウトにはこの道を歩かせたくない。できればシバユキにも経験させたくない。幼子達には、許されるなら平和な生を謳歌

して欲しい。父の口癖では無いが、自分の代で終わらせられるならばと思う。幼子達が成長しても御役目に駆り出す必要が無

い世が来れば…。

 ユウヒはこのように考えるほど変化しつつあった。物心がついた頃から、御役目に身を捧げるのが使命だと考え、そのまま

心を固め、改めて考える事などして来なかった赤銅の若熊は、この頃からだいぶ変わって来ていた。

 御役目を担うのは他者に背負わせないため、誰かに危険が及ばないようにするため、か弱くも尊い命を護るため…。

 自分の体はそのために。自分の力はそのために。自分の命はそのために…。

 与えられた使命ではなく、個人としての考えをもって、ユウヒは御役目を果たす意味を、務める理由を見つけ始めた。



「…遅くないか?遅いじゃろ?まだかのぉ…」

 その頃、神代家の玄関前では、門構えをチラチラ見遣りながら、熊親父がウロウロしていた。

 玄関前をのっそのっそと何百往復もしているが、トナミ達の帰りは特に遅くはない。帰って来る予定の時刻までまだしばら

くある。

 立ち止まり、門を眺めながら作務衣の胸元に手を突っ込んでモソモソ掻いている熊へ、竹箒を動かしながら近づいてきた雌

兎の御庭番が「ユウキ様、そこ掃きますから少し軒の方に」と邪魔そうに訴えた。娘が外へ出されるとだいたい十分後には外

に出て待ち始めるので、屋敷の者も慣れたものである。

「まだか…。迎えにゆくか…。そろそろ行った方が…」

 玄関前で、出入りする御庭番達にはちょっと邪魔なオブジェになりながら、すっかり子煩悩になった親父熊はいつまでも娘

の帰りを待っていた。