第二十九話 「板前八雲」
奥羽の山々が日毎鮮やかに色付いてゆく紅葉の季節、十月。
下界よりも色付きがやや遅れる河祖下では、十一月頭が見頃となるのだが、神代の屋敷では庭のタカネナナカマドが真っ赤
な実を晒し、近付く冷え込みに備えよと早めの注意を促していた。
その赤い実を、金色のパヤパヤした毛に覆われた、ぷっくりした小さな手が指差す。
「たべれゆ?」
金色の仔熊が振り返り、尋ねた相手は、ゴム鞠を両手で持ち、屈み込んで目線を近くしているふっくらした秋田犬の少年。
「それは食べられません」
「めっ?」
「はい。にが~い、です」
「ふー…」
色濃くなってゆく様を見て食べごろを窺っていたのだろうユウトは、残念そうに口を尖らせた。実際には毒抜きなどをすれ
ば食べられない事もないのだが、説明しても混乱するだろうからと、ヤクモは黙っておく。色付いたナナカマドは木材として
も墨の材料としても使用するので、ヤクモにとっては馴染みの植物だった。
「餡子の方が美味しいですよ」
微笑んだヤクモは、「これは「ナナカマド」です」と説明する。
「な、な、か、ま、ど」
「なななかど?」
惜しい、と微苦笑するヤクモ。ろれつが回らないものの、ユウトはだいぶ言葉を理解するようになってきた。
活発で好奇心旺盛、食欲も旺盛なので、目を離している隙に危ないものを口にしないよう、食べられるかどうかまず誰かに
訊くように教育された。
主にトナミとヤクモが教えるケースが多い。一方、ユウキとユウヒは気を引こうとしてやたらと間食を与えるので、ユウト
が食べて良いか駄目かを訊く状況にならない。
食べられないと判っても日に日に深まってくる赤が気になるようで、ユウトはしばらく興味深そうにナナカマドの実を見つ
めていた。
やがて、ボール遊びを再開する気になったようで、ヤクモから一抱えほどもあるゴム鞠を受け取ると、てててっと小走りに
距離を取る。
ヤクモに鞠を投げて、転がして返して貰って、また投げる。これを繰り返して遊ぶのがユウトは好きだった。
両手でボールを顔の前まで上げ、いざ投げようとした金色の仔熊は…。
「ふぁ!」
門の方を見て突然声を上げた。
門を潜って戻った御庭番数名と、エスコートされる格好で現れた客に気付いたユウトは、持ち上げていたボールを思わず手
放した。
手から落ち、テン、テン、テン…、と転がるボールの先へ向いたヤクモの目に映ったのは、金髪碧眼の女性。
「やぁ…!」
気恥ずかしそうに軽く手を上げたフレイアに、ヤクモは笑顔でお辞儀する。
「お待ちしておりました!遠路遥々…、あ!」
ヤクモの傍からテテテッと駆け出した金色の熊は、まっしぐらにフレイア目指して走る。嬉しそうな笑顔で、オーバーオー
ルの尻から覗く短い尾をピコピコ振って。
「フェイヤひゃ!」
飛びついたユウトを抱き上げて、二歳半とは思えないずっしりしたその重さを噛み締め、フレイアは我が子に挨拶する。
「「こんにちは」。久しぶりユウト。お姉さんの事覚えてたんだ?」
嬉しそうな、そして切なそうなその笑顔に、御庭番達は喜びながらも複雑な感情を抱いた。
すくすくと育つユウトのおかげで笑顔が増えた神代家。何もかもが上手く回っている中へ、フレイアは最低でも年に一度か
二度は土産を持って現れる。
「ほぼ定期で長期休暇があるハンターチームってのも珍しいけど」
とは、客間に通されて当主と婦人に面会したフレイアの弁。正座したその足には、後ろから抱っこされているユウトが満面
の笑みで座っている。
たまにしか会わないフレイアに、ユウトは非常に良く懐いていた。日に日に物覚えが良くなるユウトに勘付かれてはいけな
いので、誰も口にはしなかったが、やはり実の母は好きなのだろう。
フレイアが滞在するのは一度に一週間程度だが、その間、ユウトはだいたいフレイアの近くに居た。トナミと親交を温め、
ユウキと寄り添って過ごす、それぞれ水入らずの時間を除けば、フレイアは可能な限りの愛情を娘に注いだ。
「そういえば、北原のベースにも勧誘があったんだけど…、この国にも募集来てるかな?」
これまでと同じく大量の土産を持ち込んで屋敷を訪れたフレイアは、ユウキ、トナミ、ユウヒ、ユウト、ヤクモが揃った奥
座敷で、一通り近況報告をしてからその話を切り出した。
高名な術士が門下生を広く募集している。術士の総本山ともされる研究都市に居を構える術の大家で、今回は十数年後の隠
居を見越して、自身の知識と技術を次世代に継承すると共に、後継者候補を探すのが目的らしい。
「世界最高峰のメイガスのひとり、「アグリッパ」。この国ではあまり有名じゃない?」
「流石に名は知っとる。京の陰陽学術院とも繋がりがある御仁じゃしなぁ」
顎を引く熊親父。「面識もないし、詳しくもないんじゃが…」と付け加えたユウキに、会った事があるフレイアは見た目の
印象から説明する。
「サンタクロースみたいな印象の、ふっくらした優しそうなお爺さん。研究と実践を本分にする一門のトップだけあって、良
識的で理知的、温厚だよ」
「…さんた、くろす、とはのう…。天狗か山伏みてぇなのを想像しとったわい…」
意外そうに感想を漏らした熊親父は、秋田犬をチラリと見遣った。
「ふむ…」
「うん、そういう事。秘術やら奥義やら学ばせて貰えるみたいだし、短期留学みたいな感じでヤクモ君どうかなって」
術士アグリッパ。世界的な知名度を誇る術士。
太古から脈々と技術継承されてきた真祖の術士が集う研究都市の中でも、なお由緒ある一門の一つで、最も優れた術士の称
号がアグリッパ。
襲名制で「アグリッパ」の名を受け継いでいるこの一門は、知識や理論が凝り固まらないようにと、門下生を総本山以外か
らも受け入れ、出自も流派も関係なく、優れた者を当代の長に据えるのが特徴。後継者の選から漏れたとしても、代々のアグ
リッパに師事した者は概ね自国に戻って成果を上げ、名を馳せる。各国の秘匿事項対策組織が顧問として迎える事も多い。
そもそも、部外者が術士達の総本山…存在座標軸が現世と異なるとも言われる研究都市に入り、しかも滞在して学べる機会
はそう多くはない。そもそもまともな手段では辿り着けないので、滅多にないチャンスと言える。
そんな、フレイアが持ち込んだ門下生募集の求人情報を聞き、秋田犬は首をブンブン振った。
「私は…、術具造りは褒めて貰えますが、術の実践はあまり…」
ヤクモはそう言うが、ユウキもユウヒも知っている。ヤクモは戦闘になると取り乱し気味になって精彩を欠くだけで、術の
行使については精密で正確。先達に師事できた期間が短くて自前習得が主になっていた事を考えれば、術士として並以上の研
鑽と実績を重ねてきている。
「ここを離れる訳にも行きませんし…」
ここで術具の製作や補修の依頼を受け、御役目に勤しみ、ユウヒの世話をして、ユウトの面倒を見て、ヘチマを育てて…。
そんな生活が自分にはあっていると、ヤクモは思う。
「そう?勉強のチャンスだと思ったけど…」
他国他流派の知識や技術、設計思想を学べば、術具造りの腕も上がるかもしれないと思ったフレイアだったが、本人が望ま
ないならまぁいいかと、話を終えた。
だが、ユウキはこの話を心に留めておいた。
神代の御庭番に、術士はもうヤクモひとりしか居ない。増やそうにも、新人を受け入れて指導するにはヤクモは経験不足。
ユウキも何年も前から術士を活かす形で組み込んだ戦術を取らず、ヤクモの配置はユウヒの援護という、言ってしまえば術士
でなくとも務まるポジションである。
戦力として術士の人員を増やそうという考えは、当座は無い。集団戦闘を旨とする神代の御庭番は、戦闘技能も能力も白兵
戦寄りの者が多い上にエナジーコート能力者の割合が高く、術士による後方支援をあまり必要としない。これから術士を運用
するなら新たな部隊構築と兵員の練磨が必要となり、未熟な者を実戦でどれだけ失うか判った物ではない。
加えてもう一つ、ユウキがかつて用いていた術士隊の再編にあまり乗り気でないのには、ヤクモには説明できない理由があ
るのだが…。
とにかく。ヤクモは戦力としては、今の神代の御庭番部隊編成に不可欠な人材ではなかった。家族として、信頼できる使用
人として、ユウヒの傍仕えとして必要と見込んでいる人材なのである。
トナミが土産のフランス石鹸を箱から出してみて、菓子かと思ったユウトが物欲しそうに手を伸ばして、フレイアが慌てて
「めっ!」して…、そんな朗らかな団欒の中にあって、ユウキは考える。
もしも、ヤクモがアグリッパに師事して、戻って来て戦闘以外の事…例えば磨きをかけた術具造りなどで、当代屈指の得難
い逸材だと周囲に認められるようになれれば、もう御役目にも前線にも出さずに済むな、と…。
秋の河祖郡は冷える。日没後は特に。
夕食後に工房へ入ったヤクモはどんぶくを引っ掛けて卓に向かい、術具になる紙に筆を走らせている。とはいえ、本格的な
物ではない。ユウトがシャボン玉を吹いて遊ぶ際に、強風に吹き散らされないよう、空気の流れをコントロールして微風の渦
を展開するための品。出力を求めない簡易な術具で、ヤクモが昔から練習で作ってきた規模の物である。
手早く拵えて、墨が乾くのを待つだけとなった所で、ヤクモはゴロリとその場で仰向けになった。
「…研究都市、OZ(オズ)…」
ポツリと呟く。名前だけは知っているし、あれこれ想像もしたが、どんな所なのかは判らない。
太古から存在する術士の研究都市、その名がOZ。そのOZゆかりの術士は、非合法組織の兵士としての術士とは一線を画
す存在である。
非合法組織に身を置く兵士の術士、その大半は術具…特にグリモアを単純に武器の一種として扱う。しかし彼らはOZから
流出した知識や術具の断片、あるいは追放された異端の術士などが外界に齎した二次的な物を得ているに過ぎず、研究都市の
「本物の術士」達から見れば「かろうじて術具を使えている」程度。
自分達のような日本の術士は、OZとは由来が異なる技術大系に基く一派なのだが、それでも畏怖と興味、あるいは憧れを
感じもする。「オズの魔法使い」と称される、研究都市の術士に…。
(いや、私には関係のない場所なんだ…)
あるいは、とヤクモは思う。自分の兄弟子だった男になら、研究都市に向かう権利も力もあっただろう、と。
ああこれは夢だな。
目の前の光景を眺めながら、ヤクモはぼんやりと考えた。
小さな池がある。オタマジャクシが泳ぐ池の上を、爪先立ちでツイツイと歩く影が横切ってゆく。
「簡単だ。誰でもできる。ヤクモもすぐに出来るようになる」
黒味が強い毛並みの秋田犬は、池を渡り切ったところでヤクモに顔を向け、笑いかけた。
板前霧雲(いたまえきりぐも)。ヤクモから見れば従兄弟にあたる秋田犬。黒虎毛の勇ましい見た目に見合う、若いながら
も腕利きの御庭番。
両親が御役目で命を落とした後、元服直前だったキリグモは、ヤクモの家に引き取られた。
物心付いた頃には傍に居た彼を、ヤクモは兄のように慕っていた。この時七つだったヤクモから見て、二十歳のキリグモは
とても立派に見えた。
実際にキリグモは腕利きの術士だった。ヤクモの両親から見ても、若い彼は優れた術士だった。術具造りでも、それを用い
た実戦でも。
ヤクモの前で屈み、巻物を手渡すと、「やってみようか」とキリグモは微笑んだ。
巻物を広げて手を添え、緊張しながら術式を起動するヤクモの後ろに、キリグモはぴったりとくっついていた。そして、巻
物に触れるヤクモの手に、上から手を重ねている。
術の起動を任せ、コントロールに介入し、安定させたキリグモに支えられて、ヤクモは恐々と水面に足を乗せる。
波紋が立ったそこに、磁石が反発するような斥力を感じて…。
「いいぞ、上手だ」
耳元でキリグモが囁いた。集中を乱さないように小声で。
嬉しくて、良い所を見せたくて、もっと褒められたくて、失敗しないように頑張るヤクモ。その力み過ぎている肩に、キリ
グモはそっと手を乗せた。
キリグモはヤクモにとって兄のような存在であると同時に、師でもあった。両親が亡くなって、神代の屋敷に住み込みで暮
らすようになるまでは、両親とキリグモと四人で生活した。ヤクモの術については、親から教わるよりもキリグモから学んだ
部分が大きいほどだった。
ヤクモの両親が亡くなると、キリグモは独立した。優秀な御庭番として信頼されるようになった。他の術士が不幸にも命を
落としてゆく中で、キリグモは生き残り続けた。
だが…。
「…おにいちゃん」
幼いヤクモが口を開く。
「何だいヤクモ?」
後ろについているキリグモが応じる。
「どうして…、死んじゃったんですか…?」
途端に、足元の斥力が消失した。
膝丈ほどしか深さが無いはずの池にドボンと沈み、底が無い水の中へ沈んでゆきながら、子供の姿ではなくなったヤクモは、
手足もそのままに脱力しながら明るい水面を見上げる。
無数の泡が昇って行く先、波紋だらけの水面の向こうで、キリグモは哀しそうな顔をしていた。
泡と一緒に、ヤクモの目から零れた涙も昇って行った。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れた天井の梁。漂う墨の匂い。
キリグモは、ヤクモが元服を迎える少し前に亡くなったので、共に御役目に出る事は叶わなかった。
死体は見ていない。御役目に関われる年齢ではなかったので詳しい話は聞かせて貰えなかったが、出先で命を落とした訳で
はない。里の近くで何かと交戦し、亡くなったのだという話だけは知っている。
巡回警備中に危険な何かと遭遇し、河祖郡を護って殉職した。それがキリグモの最期…。
最期まで立派だったのだと思う一方で、怖いとも感じる。立派に殉職する事は、臆病者の自分には無理だと…。
むっくりと身を起こして、目尻の名残涙を指で拭い、ヤクモは卓上の紙を確認する。
まどろみは短時間だったようで、墨は殆ど乾いていなかった。
(疲れているのかな…)
気付かない間に眠りに落ちた自分の体調を確認し、フレイアが訪れた事で少し高揚して気疲れしていたのかもしれないと考
えたヤクモは、ミスがあってはいけないので今夜の作業は終わりにした。
道具を片付け、工房の戸締りを一通り確認する。造り自体は古民家と倉庫の中間のような古めかしい物だが、無防備ではな
い。神代の屋敷の敷地という安全圏内の立地に加え、不許可での立ち入りに際しては備えがしてある。何者かが戸を破るなど
の侵入行為を試みた場合、ヤクモとユウキ、そして御庭番頭のヤギが持つ小さな木札に反応が出る他、屋敷内に警告笛が響く
仕組みになっている。常駐している御庭番がゼロになる事は無いので、例え泥棒が入っても何かを盗み出される前に包囲され
てしまう。とはいえ、工房にある品々は術士でもなければ無意味な物や、用途不明な材料だったりするのだが。
(明日はユウト様はフレイア様にくっついているはず。落ち着いて外遊びするのは明後日以降でしょうし、明日中にでも完成
させればいいでしょう)
母屋に戻り、自室に向かったヤクモは、ユウトの嬌声を遠く聞いて耳を動かす。思わず顔が綻んだ。実の母だと知らなくて
も、特別感じる物はあると見える。やはりフレイアが好きなのだなと。
廊下の角を曲がったところで、ヤクモは眉を上げた。丁度自室の前からこちらに歩いて来るところだった熊の少年と顔を合
わせて。
「丁度いがった」
足を止めたユウヒは「作業終わりが?」と尋ねつつ、小脇に抱えていたバスタオルと手拭、着替えを軽く揺すって見せる。
それでヤクモは入浴の誘いだと気付いた。
「はい。今夜は切り上げました」
「んで風呂あべ」
「はい、ちょっとお待ち下さい…」
道を譲って壁際に寄ったユウヒの前を通り抜け、ヤクモは部屋に着替えを取りに入る。
ヤクモの私室は押入れと床の間つきの八畳間。整頓されている部屋には少年らしい品が全く無い。生家から運び込んだ仙大
箪笥と樫のテーブル。座布団が二つ。書棚には辞典の類と村史、地図類と、植物や野草の百科事典や見易い写真入りの図解集。
ただそれだけの部屋だった。
箪笥から畳まれた褌と手拭を取り出し、引き返そうとした秋田犬は、床の間の掛け軸に目を向ける。
「八雲立つ」。力強く書かれたそれは、ヤクモが生まれた時、名前が決まったと聞いたユウキが手ずから書いて彼に贈った
物。生家から持って来る際、限られた品の中に含めるほど大切な物。
あの掛け軸に見合う立派な男にはなれそうにないが、せめて神代家から貰った恩に報いられる男にはなりたいと、ヤクモは
常々思ってきた。叶ったかと自問すれば、やるせない気持ちになるのだが…。
屋敷の浴場、天然温泉を引いた露天風呂。天井が無く、一部に葦を編んだ日除け兼雨除けがかけられているだけなので開放
感があるそこで、広い洗い場のシャワー前に座した赤銅色の熊の背を、秋田犬が流す。
自分が育てたヘチマで作った自家製スポンジで、ヤクモは広い背中を丁寧に洗う。同い年で、ヤクモもだいぶ大柄な部類に
入るのだが、ユウヒはさらに大きい。
ユウヒが口に出す事は無いが、ヤクモに背中を流して貰うのは心地良く、気に入っている。終始耳を伏せ気味で、静かな呼
吸の合間に深く息をついている。
肉付きの良い背中は、豊かな被毛と皮下脂肪に覆われているが、高密度の筋肉と骨太な骨格を内蔵して逞しい。大きく厚く
重々しい、どこもかしこも造りが大きい巨体は、それ自体が兵器とも言える武力を有する。そんな印象がある故か、ヤクモは
ユウヒに触れる際に刀剣に触れるような緊張を無意識に覚える。
背中を流して貰い、位置を交代してヤクモの後ろについたユウヒは、脂肪過多な背中を素手で洗い始めた。指を立ててマッ
サージするように、被毛の下の皮膚までしっかりと。
ふたりが使うボディーソープは同じ物。拘りは無いので、無くなる度に適当に見繕っている。スポンジを使って丁寧に泡立
てるヤクモとは対照的に、ユウヒは背中に直接塗り込むようにボディーソープを付けて、掻くように泡立てる。粗雑だが、そ
れがこのひとらしいとも感じて、ヤクモは文句を言わない。
ふたりとも身を清め終えたら、一緒に湯船に浸かる。縁の岩に背中を預けたユウヒはしばらく無言だったが、「なぁヤクモ」
と、口を開いた。
「はい?」
岩に腰掛ける格好で足を湯に漬けていたヤクモは、若い主君に目を向ける。天を仰ぐユウヒは、何を考えているのか難しい
顔をしていた。
「フレイア殿の話、どう思った?」
アグリッパの弟子募集の話と察して、ヤクモは「ああ…」と顎を引く。
「凄い話だとは思いました。けれど、私には分不相応です」
きっと門弟に加えられるのは、世界中の凄い術者ばかりなのだろう。自分が行ってもついていけないどころか、笑い物にな
るだけだと、ヤクモは言った。
「そうが」
ユウヒは短く応じる。自身を卑下するヤクモの物言いは少々気にくわなかったが、ホッとしたのも確かだった。
「行がねぇな?どごさも」
秋田犬は若い主君を見遣る。夜空を見上げたまま、ユウヒは言葉を続けない。
「…はい。何処にも行きません。約束です」
当たり前の事だった。それ以外の生き方など考えていなかった。だからヤクモは夢にも思わなかった。
当然のように口にしたこの約束を、自分が破る事になろうとは…。
そしてユウヒもまたすっかり忘れていた。
ユウトが生まれ、心境に変化が生じ、人並みの穏やかさと寛容さが備わりつつある若熊は、この時完全に失念していた。
自分の精神状態は、一般人に近いヤクモのそれとは一線を画している。自分達の間に横たわる溝は、長く、深く、簡単には
埋まらないのだという、かつての思いを…。
帝の近衛が河祖下を訪ねてきたのは、フレイアが訪れた二日後の事だった。
監視する御庭番が床下や屋根裏に潜む応接用の和室で、屋敷の主と面会するのは、ひとりの中年。
勤め人風のスーツ姿ではあるが、痩せぎすで軍人然とした佇まいの、剃り跡も青々しく剃髪した男である。帝の近衛の中で
も、調査や偵察、現場視察や伝令を担う部門に属する責任者のひとりで、名を「種島柾和(たねじままさかず)」と言った。
ユウキとも昔からの顔馴染み。かつて彼が屠った隠神の眷属の多くは、このマサカズ達が追跡、捕捉した相手。その実績が
腕の確かさを証明しているが、世渡りの腕はそちらと反比例しており、近衛の幹部達からは良い心証を持たれておらず、出世
コースからは外れている。もっとも、マサカズに限らず、かつての華族にして軍人の家系である種島家の血筋は、現場で成果
を出しながらも組織内で登り詰める事は殆どないのだが。
帝からの言伝を読み上げたマサカズは、座したユウキに深く頭を下げ、「以上でございます」と話を締め括った。
「うむ、御役目賜った。しっかと果たして御覧に入れようぞ」
当主の顔で応じたユウキを、顔を上げた中年が見返す。
「では、慌しくて申し訳ございませんが、本官はこれにて失礼を」
「何じゃ?一息入れて行けば良いだろうに、別件でもあったか?」
「いえ、お恥ずかしながら…」
用件がある訳ではないと答えつつ、マサカズは自分の右目を指差した。
よく見れば右に限らず両目とも白目が充血しており、目も落ち窪んでいる。心なしか肌の潤いも無く、痩せたように見える。
「「九頭鳥」の毒気か…?」
ユウキが唸る。数年前から首都に入り込んでいる外国の組織、マサカズはこれを調査していた。かねてから存在自体は知ら
れていた大規模組織だが、国内での活動活発化が著しいので警戒を強めた矢先の事、調査中の隊は組織側からの待ち伏せと襲
撃により甚大な被害を受けた。
この時にマサカズ達に使用されたのが「九頭鳥の毒」。直接浴びた者は即死だったが、霧状になった飛沫を僅かに浴びただ
けのマサカズも体を蝕まれてしまっていた。
神将随一の治癒の技法を誇る薬師神でも、完全な治癒まではできず、マサカズの体は後遺症により衰弱していた。
「はい。どうも、そう簡単には抜けて貰えないようで…。体力もすっかり落ち、御役目に応えるのもこれ以上は難しいかと…。
今年いっぱいで身を引かせて頂く予定でおります」
あな情けなや。そう言って嘆く素振りと苦笑いを見せたマサカズに、ユウキは眉尻を下げて応じる。
「情けなくはなかろうて。いかに丈夫な儂らとて毒には勝てん。…身を引いた後はどうするつもりじゃ?」
「兄が多忙で息子をほったらかしにしているようなので、甥っ子の様子でも見ながらのんびり過ごそうかと」
そうかと頷いたユウキは、少し寂しそうな顔で微笑む。
「御役目御苦労!ゆっくり、体を労わるんじゃぞ?」
「痛み入ります…」
一度平伏したマサカズは、晴れ晴れとした表情で顔を上げる。
皆が皆、生きたまま引退できる仕事ではない。殉職する者も少なくない。そんな中で、体を壊したとはいえ勇退し、甥の面
倒を見られる自分は幸せだろう、と…。
十数分後、地酒と菓子を土産に持たせられ、古めかしいセダンに乗り込んで去る近衛を、ユウキは御庭番達とともに屋敷の
門で見送った。
そして、御庭番達とその頭に短く告げる。
「二十分したら奥の間じゃ」
それだけで、全員が当主の意図を理解した。
「済まんのぉ。来て貰って早々じゃが…」
折悪く、フレイア滞在中に遠出の御役目が入ったユウキは、揃っている妻達に顔を顰めながらそう切り出した。
「なるべく早う済ませられるよう頑張ってみるが、帰りを待とうとはせん方が良いじゃろう」
済まなそうな熊親父に、フレイアは笑いながら「気にしないでよ」とパタパタ手を振った。トナミも「そうですよ」と笑顔
である。
「最悪、ユウトさえ居れば良いんですから」
正妻が悪気無く口にする真実。確かに真実ではあるのがちょっと寂しいユウキ。
「それに、物は考えようです。ユウトのお守りからヤクモが外れる間、フレイアさんが居てくれるのは心強いですからね」
「む…。それはあるかもしれん…」
ユウトはトナミと同じくらいヤクモに懐いているので、秋田犬は世話役として重宝されている。そんな彼が居ない間でも、
フレイアが屋敷に滞在している間はユウトのお守りが分担される。
「元々の目的がユウトの様子を見る事だからね、何でもさせて貰うわよ。それはそうとして…」
第二婦人は姉と慕う正妻と視線を交わすと、揃って熊親父に会釈した。
『御武運を』
「うむ!」
見送りが二倍になるとやる気も倍になるなと、ユウキは太い笑みを浮かべて頷いた。
「御役目さ出で…、いや、御役目に出て来る」
妹を背中におぶり、鈴虫の声が響く庭先を歩きながら、赤銅色の巨熊は標準語で言い直した。郷訛りには特に思う所などな
いユウヒだが、いずれ当主になる事を考えて矯正せねばと思うのが一つ、フレイアに気を遣って標準語を使用したいのが一つ、
ユウトもゆくゆくは標準語で話せた方が良いだろうというのが一つ…、と複数の理由で標準語の体得に勤しみ、自然に口から
出るよう習慣付けようとしている。
「俺は、しばらく、居ない。寂しいか?」
ゆっくりと、区切りを多めにして、ユウヒはユウトに話しかける。
「さぴち…」
うなじにかかる幼い声。可哀相にとも感じるが、寂しいと言われてまんざらでもないユウヒは、幼い熊を揺するように、上
下にやや大きく揺れる歩調でゆっくり歩く。
「母上も、フレイア殿も、居る。きちんと、言う事を、聞くのだぞ?」
「んー…」
「良い子に、していたら、土産に、美味い菓子を、持ってくる」
「んー!」
少し元気が増した妹の声で、ユウヒは耳を倒した。
御役目に出て、その帰りを待つ。それがずっと続くのだから、ユウトも慣れて欲しい。
そうユウヒは思っている。ずっと続くと、疑いもせずに。
工房の金庫を開けたヤクモは、その中から一巻ずつ巻物を手に取り、開いて具合を確かめる。
巻いた状態でも込められた術が判るよう、外側に記してあるのだが、持ち出す直前に不具合が無いか確認するのがヤクモの
良い癖だった。特殊な品とはいえ紙と墨なので、湿気や虫食いは大敵。汚損があれば発動された術が変調をきたしてしまうた
め、持ち出す際にチェックする癖は万が一の事故を防止してくれる。
先に聞いた御役目の概要から目的地と風土は判っているので、ヤクモは御役目の内容と環境と季節を考慮して、術具を四巻
選び出し、それらを竹を刳り貫いて作った巻物携帯用の筒に収めた。
いつもの事だが、慣れない。戦支度をしていると手が震えて、背筋が寒くなり、嫌な汗が腋を湿らせる。
御役目に赴いた神代の御庭番は、だいたい無事に帰って来る。
誰もが腕利きだから…ではない。永きに及んだ裏帝、逆神、…ひいては神壊との戦いの歴史の中、弱い者が淘汰されて強い
者や優れた者が残されたから、神代の御庭番には腕利きしか居ないのである。だから比較的犠牲者が少ない。
だがいつか、誰かが、必ず、帰って来る面子から欠ける。いつまでも誰も絶対に欠けないなどという事はない。今回の御役
目か、次の御役目か、その先の御役目かは判らないが、いつか必ずどの顔かが無くなる。自分の両親や、キリグモのように、
いつか居なくなるのだとヤクモは感じている。
だが、皆にはそんな事を考えたり気にしたりする様子はない。いつだって平気な顔をして御役目に出てゆく。それが当たり
前という環境に生まれ、育って、適応している。
けれどもヤクモは怖い。
死ぬのは当たり前に怖いし、誰かに死なれるのも怖い。
御役目を果たすべき家に生まれて、そういう環境で育ち、使命を履行するべき力を持っているのだから、皆と同じように生
きねばならないと思うのに、心は考えに従ってくれない。
(しっかりしなくちゃ…)
ユウキには目をかけられている。ユウトの世話役としても役に立てている。そして、ユウヒとは約束したのだから…。
(しっかり、生き残らなくちゃ…)
明朝の出立に備え、ヤクモは選んだ巻物を筒ごと籠に入れて、上から戦装束を被せた。
これが、自分が赴く最後の御役目になるとは、考えもせずに。