第三話 「神ン野悪五郎日影」
幻術結界の軸となる注連縄を望める、守備隊から少し離れた所から位置で、てぽてぽと周囲を歩き回って状態を確認するア
クゴロウ。
愛嬌のある下膨れの顔には緊張が一切見られず、足元や周囲の木々を見遣りつつ、進んでは下がってを繰り返しているその
様子からは、まるで課外授業で野山の草を調べに来た学生のような長閑さと純朴さが感じられた。
注連縄を守備する裏帝勢の者達も、挑みかかるにはやや距離がある上に、アクゴロウが無防備で無警戒なので、手を出すべ
きか迷っている。そもそも彼らは肥えた狸が幻術を看破していると思っていないため、強引に攻め出るのは逆効果だろうと考
えてもいた。
だが、実際には既に幻術を見破っているアクゴロウの頭の中では、術の特性の解析が進められている。
ただ破るだけではない。どうすればより有利に事が運ぶかを模索している。
アクゴロウは弱い。
経験も不足しており、肉弾戦であれば間違いなく現神将中最弱。術を用い、神卸しを行わなければ、腕利きの御庭番と力比
べをしても負けてしまう可能性が高い。
だが、彼はある一点で他の神将達から高く評価されている。
すなわち、極めて図太いという点で。
この場においてものんびりおっとりしている普段どおりの言動は、状況を把握できていないからでも、自覚が薄いからでも
ない。アクゴロウは重々承知の上で自然体なのである。
当主として最初の仕事がこの大一番でも、急いて焦ってしくじる事は決してない。父からそう判断されて新当主の座に据え
られた跡継ぎなのだ。
「わかった」
足を止めたアクゴロウの口から声が漏れたのは、唐突だった。
視線を注連縄に向け、しかし焦点はそのやや手前、何もない宙に据えられている。
隠れ里を囲む複数の注連縄が為す結界は、全体を把握すれば六角形。上空100メートルにまで及び、航空機やヘリで真上
から見下ろしてもなお幻像を見せられるそれは、背の低い六角柱型となっている。
その境界線が注連縄のやや手前側にある事を見抜いたアクゴロウは、注連縄そのものではなく、術の外殻を力の作用点とし
て利用する事を思い付いた。
方針が定まるなり、アクゴロウは、すぅ〜っと大きく息を吸い込み、布袋腹を膨らませ始めた。
同時に両手足にはめた専用術具…八百八珠が激しく明滅し、日ごろから溜め込んでいた思念波をアクゴロウに注ぎ込む。
限界まで息を吸って腹を膨らませたアクゴロウは、いささか苦しげな顔を作ると、数珠からの思念波供給が十分な量に及ぶ
のを見計らい、張った腹を左手で叩いた。
ぽぉん…と響く腹鼓。
その独特の発動様式により、腹鼓の音に乗って拡散された思念波が幻の外殻に浸透し、幻術破りの土台を拵える。
アクゴロウが「ぶふーっ!」と一気に息を吐き出したその時には、周囲は彼が拡散した濃密な思念波で満たされ、破幻の瞳
がより感光を強め、赤々と輝いている。
他者の能力発動に影響を与えかねない程の思念波濃度。アクゴロウにとっても数珠に貯蓄していた力を四割方使用してしま
う大出費だが、こうまでしなければ目的の達成は難しかったのである。ギョウブらが拵えた幻の陣が、あまりにも強固過ぎて。
幻の石垣の向こう側で、異常を感じ取った守備隊達が騒ぎ出すが、この時点で何もかもが手遅れだった。
アクゴロウは小槌を両手で胸の前に捧げ持ち、その場で恭しく二礼する事で魔王槌とリンク、思念波を注ぎ込むと、
「よいしょぉ〜っ!」
聞いた者の気が抜けるような、それでも本人にとっては気合の声を発し、右手に持ち替えた小槌を振りかぶる。
そして、頭上から大きく弧を描き、眼前…一見すれば何もない空間へ振り下ろした。
かくして魔王槌は、数年ぶりにその力を発揮する。
石垣の幻が、角砂糖がコーヒーに溶けるように輪郭を崩して地面に沈み、帝側の兵達の目から消え去る。
同時に、裏帝の守り手達の眼前には…、
「な、何事だこれは!?」
「おっ、鬼っ!?幻か!?」
虎縞模様の腰巻を着用し、金棒を手にした、昔話でおなじみの格好をした赤鬼がずらりと整列している。今回アクゴロウが
生み出した鬼の幻自体には、実際に傷を負わせる力は無いのだが、裏帝勢の一角である隠神一派が致傷幻術の使い手であるた
め、幻だと判っていながら、注連縄の防衛隊はこれを無視できない。
アクゴロウが思念波干渉で敵対勢力にのみ幻覚を見せているため、帝勢には鬼達の姿は見えていない。が、注連縄の守り手
達が見えない何かに襲われているかのように陣形を崩し出すと、即座に確信した。
彼らが、アクゴロウの術に囚われたのだという事を。
アクゴロウが散布した思念波を導火線に、魔王槌は注連縄を軸に展開された幻術陣に干渉した。同時にそれをアクゴロウの
意図した幻術で上書きし、術返しを行なったのである。
そしてその変化は、六角形の幻術外殻を撫でるように伝播してゆく。程無く隠れ里を覆う大規模幻覚は、全てが無効化され
るだけでなく、塗り替えによってアクゴロウの支配下に置かれるだろう。
幻術を破り、変質させる力…、それが魔王槌の能力。
この小槌を手にした者は、いかなる幻術もたちどころに無効化する上に、自分が意図した形に書き換えてしまう。
無論、幻術を扱う者でなければ使いこなせず、必要となる膨大な思念波が提供されなければうんともすんとも言わないが。
「あはは!容易いわ!おぶけたおぶけた!」(意訳:あはは!容易いな!驚いた驚いた!)
予想以上に簡単に幻術が破れ、自身の力量以上の効果に驚きながらも大喜びしたアクゴロウは、小槌を持ち上げてぷっくり
した顔を寄せ、頬擦りする。
「流石は伝説の魔王槌さんや!サンモトさんトコにどっさりお礼とお土産持ってかんといけんなぁ!」
こうして、隠れ里を守る幻術の壁は二箇所で破られ、連鎖的に不具合を起こして消滅して行く事となり、帝勢は一気に攻勢
に出た。
一方その頃、最も早く幻術の壁が解けた、対角に当たる位置では…。
「蒼火天槌!(そうかてんつい)」
揃えて突き出したユウキの双掌から閃光が迸る。
放たれたのは一抱え程も太さがある光の柱。水平に迸った破壊の光槌は、ギョウブの上半身を飲み込むが、
「またじゃ…!」
舌打ちしたユウキは即座に腕を引き、仰け反るように身を反らす。その眼前で、左手側から振り下ろされた刃が弧を描いた。
左に出現した大狸は、振り下ろした刃を今度はユウキの顔面めがけて跳ね上げた。
ユウキは後ろに倒れ込む格好でこれを避け、同時に左足を素早く蹴り上げる。しかしギョウブは身を捻ってこれをかわす。
ユウキとギョウブの戦闘は神将家当主同士の激突に等しい。このレベルの戦闘に介入できる者などそうは居ない。御庭番達
も守備隊を相手取って奮戦しつつ主君を遠目に見遣るが、両者とも速過ぎて援護など到底不可能だった。
トンボを切る格好で後ろに身を投げ出したユウキは、右腕一本でその巨体を支え、左手を振るった。
飛んだのは大徳利、黒金威し。腰を狙い、目で見る事も無く感覚のみで投げられている。
しかしギョウブは徳利の腹を平手で叩く形で軌道を逸らし、ギリギリで回避しつつ、バック転の最中にあるユウキに斬りか
かった。が、
「くっ!」
呻き、真横へ側転して逃れる。徳利につながる索が即座に縮み、引き戻しにかかったので。
どしっと地面を踏み締め、右手と両脚を踏ん張ったユウキが、戻って来た徳利を左手で受け止めた。
その時には既にギョウブが姿を消し、そして二人に増え、前方左右から切り込んで来ている。
身を起こしつつ右足を軽く跳ね、左のギョウブに石つぶてをぶつけるが、こちらは幻だったようですり抜ける。では右が本
体かと言うと…、
「雷音破!」
牽制で放った密度の薄い光弾が、こちらも突き抜けて行った。しかし、幻は双方共にユウキ目指して突進を続ける。
左のギョウブが肩口目がけて刀を振り下ろす。念のために回避したユウキは、もう一方を見遣った。
続いて右のギョウブが水平に刀を振る。確かに幻だが、
「ぬ…!」
半歩退いたユウキは、太鼓腹を皮膚一枚の浅さで斬られ、顔を顰めた。
戦装束に裂け目はない。肉体にのみ傷が生じている。
「また致傷幻覚か、厄介じゃ」
ギョウブの幻術は、その全てがそうという訳ではないが、一部は攻撃されれば実際に傷を負わされる、強烈な幻覚となって
いる。
さらに幻術抜きの本体も手強い。
狸とは思えないほどごつい太り肉の重そうな体躯からすれば、驚異的な速度と身軽さを披露するギョウブ。身のこなしなら
ば自信があったユウキだが、敵も然る者、なかなか捕らえられない。
しかも、高度な幻術を用いるギョウブの戦闘法は極めて厄介だった。
本人が消えたり、幻になりすましたりするため、いつの間にすり替わったのかが判らない。しかも幻に斬り付けられても傷
を負う事があるので、看破したからといって無視はできない。
だが、ユウキは徐々に慣れて来ていた。そして、ギョウブの幻術についていくつかの考察もできていた。
二つの幻影から間を取りつつ、大熊は視線を素早く動かす。
「そこじゃ!」
咆えたユウキの右手が上がり、びしっと木の一本を指四本で示したその直後、
「大山貫爪!(たいざんかんそう!)」
人差し指から小指の先に高密度のエネルギー発光が生じ、即座に放たれる。
四本の指先から一直線に伸びた四条の光の爪は、さながら眩い槍のよう。四条の光線が木の幹を高温と衝撃と斥力で貫いて
串刺しにし、その脇へ素早く逃れた大狸が空間から染み出すように姿を現す。同時に、ユウキに詰め寄っていた幻のギョウブ
が消え失せた。
すかさず徳利を投擲する大熊。しかしその狙いはギョウブから僅かに逸れている。
そして、何もないはずの空間で、徳利が何かに当たった。そこに、じわりと大狸の姿が滲み出る。右腕と右足を上げて、側
面から叩き付けられた黒金威しをガードしている姿で。
光の爪であぶり出されたように見えたギョウブすらも幻。本体は、さらにその横に居た。
「ぐうっ!」
呻いたギョウブが威力に押されて横倒しになり、その横に黒金威しがドスッと落ちると、ユウキは徳利の紐を放し、開いた
その掌を狸に向け、ぐっと握り込んだ。
「引っ捕らえぃ不動索!」
咆えた熊の声と手導指示に応じ、徳利の口へするるっと縮んだ索が、まるで蛇のように勝手に動き、倒れているギョウブに
絡みつく。
「ぬ!?これは…!」
呻いたギョウブが慌てて身を起こそうとしたが、即座に縛り上げられ、再びどうと横倒しになる。
「そいつは遺物じゃ。そう簡単にゃ切れねぇぜぇ」
そう告げるユウキは、既にギョウブに向かって歩み寄っていた。「亀甲縛りの方が好みじゃったか?」と、軽口を付け加え
ながら。
ギョウブの眼前に迫ったユウキは、縛り上げられた狸を睥睨し、口の端を獰猛に吊り上げる。
「本当に斬られちまう幻は、流石のおめぇもそうそういくつも作れるもんじゃあねぇんじゃろ?せいぜい一度に一体、二体出
れば片方はただの幻じゃ。しかも、一度出たら消えるまで性質は変わらねぇ。つまり、やばい幻はやばい幻で、ただの幻はた
だの幻で、出たときから消えるまで一環しとる。さらに言うと、やばい幻は出しっぱなしにしておける時間がそう長くねぇ。
違うか?」
全部が全部致傷幻覚にできるなら、本人が切り込んでくる必要は無い。だが実際には、ギョウブといえども致傷幻覚を無制
限に生み出せる訳ではなかった。
処理能力の限界故に出現させておける数も時間も限られるため、ただの幻と致障幻覚と本人とで撹乱する戦法を取っていた
のである。
短時間ながらも密度の濃いせめぎ合いの最中、ギョウブの癖と幻術の性質を分析したユウキは、本人がどう姿を消してどの
辺りに潜むかまで見切り、攻撃をしかけた。その結果がこれだった。
ユウキの言葉に、しかしギョウブは答えない。それでも自分の予想が正しいだろう事を大熊は確信していた。
「さて、裏帝の元まで案内して貰うか」
「…ふん…」
ユウキは眉をピクリと動かした。縛られて地に伏すギョウブが、それでも鼻で笑ったので。
「まさか…?」
「そのまさかだ」
「いつの間に…」
「縛られる前に決まっておるわ」
端から見れば奇妙なやりとり、舌打ちしたユウキの前で、ギョウブの姿がすぅっと薄れ、何重にも絡み合った索だけが残さ
れた。
顔を上げれば、注連縄の向こうへ駆け込んで行くギョウブの後ろ姿と、撤退して行く逆神勢達が見えた。
徳利が直撃した右腕を痛めたのか、ギョウブは駆けながらも左手で押さえていた。
その周囲で、御庭番達と戦闘していた逆神勢がすぅっと空気に溶けるようにして消え去る。
「どこまでが本当で、どこまでが嘘やら…、信じられねぇ絡め手を使って来よる」
顔を顰めて呟いたユウキは、少し考えてから「あんびりいばぶる…?じゃ」と付け加えた。
ユウキが望む物を勝手に見る…。縛られる前、倒れ込む前、徳利を受けたあの瞬間に、ギョウブはそんな幻術をかけ、離脱
していた。
縛り上げたように見えたが、実際には索が何もない空間を締め上げただけだったのである。
きょとんとしている御庭番達。それも無理のない事。一体いつ各々の相手が幻覚とすり替わっていたのか、全く判らなかっ
た上に、倒したと思った者達の数割まで幻だったのだから。
倒されて地に伏した敵の数はそれなりで、半数は仕留めたが…。
「他と一緒になってかかって来られては、骨が折れる…」
ヤギは小太刀の刃を見遣り、嘆息した。
先程までべったりと赤に染まっていた刃の汚れは、幻術が解ければさほどでもなかった。
「追うぞ爺。ただし罠に注意しつつ、急いで慎重に…、じゃ」
いつの間にか傍らに立った主君を見上げ、ヤギは頷く。
ユウキですら取り逃がす相手…。直系の逆神とはこれほどの物かと、改めて恐れを抱きながら。
「イヌガミの大将!腕を!?」
腕を庇いながら駆けるギョウブの横で、二十歳になったかならないかという年頃のキジトラ猫が声を上げる。
「しくじった。が、深手ではない、案ずるなトライチ。それより、ヌシの方こそ痛々しいぞ?」
痛みを顔に出さず、ニヤリと不敵に笑ったギョウブの目には、頬が斬られてそこから首元までが真っ赤に染まった猫の顔が
映っている。
「かすり傷です!」
「ふん。勇ましい事だ。戦はここからだ。ヤツらを退けるまでその調子で頼むぞ?」
「はい!」
若手の返事を頼もしく感じながら、ギョウブは前を向いた。
(侮ったつもりは無かったのだが、よもやあれほどとは…!)
ギョウブは静かに歯を噛み締める。いかにも愚鈍そうに見えたユウキの洞察力で、あと一歩という所まで追い詰められてし
まった。
神卸しを使用できれば他に手はいくらでもあったが、「その気」になってしまうと彼を核とする守りの結界が綻ぶ。隠れ里
へ一斉に踏み入られる事だけは避けたいので、戦闘を放棄し、注連縄の陣を一つ捨ててまで撤退を選択したのだ。が…、
ギョウブの足が止まる。同時に他の狸達も止まり、やや遅れて他の者も立ち止まった。
「どうなさいました?イヌガミの大将…」
「守りの…術が…」
傍にいた年配の犬に問われ、ギョウブが呟く。信じられないと、その顔が物語っていた。
普段は存在を知られないよう、注連縄の周囲から折り返すようにし向けていた幻術。
存在を悟った者に石壁を見せ、中に潜んだ兵が不意打ちで迎撃に出る為の幻術。
さらに、注連縄を越した位置で方向感覚を狂わせて、堂々巡りさせる幻術。
その全てが、たった今一角で破られ、連鎖するように破壊が伝播し、さらに別の何かに書き換えられて行く。
ギョウブは、そして彼の類縁に当たる神ン野の始祖の血に連なる狸達は、その異常を敏感に感じ取っていた。
こんな術者が存在するはずはない。いかに濃く血を引こうと、同じ神ン野の始祖を持つ本家とですら、自分の幻術を一方的
に塗り替えるほどの力量差があるはずはない。奢りではなく、事実としてギョウブはそう考える。
だが、実際に起きているこの現象は…。
「魔王槌…!あれが持ち込まれたのか!?」
ギョウブが唸る。幻術使いの天敵と呼べる神具の存在を思い出して。
三百年前、彼の祖先を志国から追い出した神ン野の長が、盟友から借り受けて振るった小槌…。隠神家からすれば、山ン本
衆も、魔王槌も、本家同様に憎らしい存在である。
「おのれ山ン本衆!またしても神ン野に力添えしたか!」
憎悪の声を上げ、大狸は駆け出した。
「すぐにも無礼者共が雪崩れ込んで来る!急ぎ戻るぞ!」
「始まったようですねぇ?」
ソバージュがかかった灰色の髪を額からそっと払い、スコープを覗く女は呟いた。
「少し驚きましたよ。あの高度な幻術がこうも易々と破られるとはね…。よほど腕の良い幻術使いと、何らかの手段によるサ
ポートが無ければ不可能でしょう」
女の横に立つ灰色の髪の男の子が、同じくスコープを覗きながら、顎下に指を這わせて頷く。その仕草は子供には少々不似
合いだが、一世紀近く前に生まれ落ち、数十年この姿のままで過ごして来た彼には馴染みの動作だった。
二人が立っているのは大きな杉の木、その頂点付近の枝の上。スコープ越しに歴史的暗闘の結末を見届けている両者は、帝、
裏帝、どちらの側でもない。
強いて言うならば、既存の世界と政府連合を相手取る者達…、世界の敵、ラグナロクという名の組織に属する者達である。
男の子に見える方の名はロキ。女の方はヘル。師弟である術師二人は組織の最高幹部…中枢メンバーなのだが、傍には護衛
や部下の姿はない。
この状況においては、二人と同程度かそれ以上の高みに立たない者は足手まといにしかならない。
観察している相手は神将と逆神、万が一見付かった場合、この二人でも他者に気を配りながら離脱する余裕は無い。滅多な
事では死なないこの二人でも、手を知らない神将相手には、どんな危険があるか判らないのだから。
「良い死体がどっさり出るんですけどねぇ。ダメかしら先生?」
「欲張ってはいけませんよヘル」
そう弟子に応じたロキは、「賢い盗人は欲張りません」と付け加え、スコープを巡らせ狭まった視界で何かを探す。
「「彼」の姿が消えました。どうやら早くも動き出したようですね」
「あらあら、珍しくせっかちねぇ?」
確認したヘルが微笑む。
帝勢と裏帝勢の激突。これは彼らラグナロクにとっても見過ごせない物だった。
どうしても欲しい物がある。それ故に危険を冒してまで、彼ら二名と別働のもう一人はこの場に赴いた。
「手に入りますかねぇ?」
「手に入れますよ、必ず」
応じたロキは、口の端をほんの少し吊り上げた。
「バベルの鍵は…」
ぼてっと肥えた若狸と、その周囲を固める御庭番、そして帝が派遣した近衛達は、木々の間を抜けて真っ直ぐ隠れ里に向かっ
ていた。
注連縄を守っていた兵は全て倒された。幻の鬼に襲われて浮き足だった所へ現実の兵に雪崩れ込まれたのだから、一溜まり
も無い。
だが、初戦を圧勝で飾った一行を、木々の陰に隠れて待ち伏せている者達がある。
(思いの外少数…。やれる!)
自分達の方が数の上で有利と踏んだ黒熊は、呼吸を整え、右拳に意識を集中した。
神ン野家は近距離戦闘に向かない神将だと聞いている。しかしその幻術は厄介、幻を見せられる前に懐に飛び込み、けりを
つけたい所だった。
距離を測り、飛び出すタイミングを指と手のサインで伝達して揃え、充分に引き付けた後、
「かかれ!」
黒熊の号令で総員30名が一気に駆け出す。
右拳には燐光。操光術の一撃をねじ込むべく、驚いて立ち竦んだ人間の兵に肉薄した黒熊は、
「滅頭!(めっとう)」
高密度に圧縮した力場の掌打で、その頭部を薙いだ。しかし、
「!?」
手応えが無く、腕を振り抜いたまま目を丸くする。
超高温で相手の体を分解するその技は、確かに手応えが無い。だが、「まるで無い」訳ではない。今の手応えの無さは空振
りのそれだった。
熊の前で兵が消える。さらに、同時に攻撃に入った仲間の前でも、斬られるなり、突かれるなり、次々と兵が消える。
「幻だ!本物は別にいるぞ!」
黒熊が叫び、皆が周囲を見回したその瞬間、無防備な背中を晒した数名が、幻と思われた御庭番達に襲いかかられた。
「な!?」
黒熊が振り向く。幻だったはずの兵だが、実際にはその内のいくらかが本物だった。幻を見せられた事で別方向からの攻撃
に備えようとした裏帝勢が、後ろから襲われる。奇襲した側が不意打ちで迎え撃たれるという奇妙な図がそこにあった。
「目で見た物だけ信じん方がええよぉ」
黒熊の視線が動く。その瞳が、でっぷり肥えた狸を映して嚇怒に染まった。
「おのれ!騙したな!?」
「隠れて奇襲かけよんのも、騙し討ちの親戚やないのぉ?」
のんびりとした狸の口調と言葉が、黒熊の怒りに油を注いだ。
言葉にならず、怒りの声を上げる黒熊。幻だろうと実体だろうと構わない。人体を瞬時に焼き散らす右手を上げ、アクゴロ
ウ目がけて突進する。
「ダメダメ!危ない危ない!ソイツに手ぇ出したらダメやでぇ!」
割って入ろうと動きを見せた近衛兵を制止するアクゴロウ。
こと肉弾戦に限れば、アクゴロウ自身の腕前は決して褒められた物ではない。だが周囲の腕利き達を常々見てきたので、相
手の力量を見定める目は確かである。
アクゴロウの見立てでは、この黒熊は自身の御庭番頭ですら危うい程の強敵だった。
(この熊、たっすい輩やないじょ。神代の血縁やわ…)
当然、まともにぶつかったら自分もただでは済まない。それでも周りを制止させたのには訳がある。
仲間の被害を抑えるため…、それは確かにある。
では、自分を犠牲に…、それは間違っても無い。
若狸には作戦があった。自分も味方も被害を受けずに強敵との戦闘を乗り切るその策は、アクゴロウがこの場に姿を見せる
前から既に準備が終わっている。
アクゴロウまであと5メートルと迫った黒熊は、ブォン…、という微かな音を聞いたかと思った次の瞬間、左右から皮膚を
思い切り張られたような衝撃を浴び、その場でガクンと静止し、膝を折る。
前のめりに崩れ落ちながら黒熊は見る。自分の左右に立つ、若い二人のトドの巨体を。
一瞬前までは確かに居なかった。そうか、幻で見えなくなっていたのか。そう悟った黒熊の耳元に、「目で見た物だけ信じ
ん方がええよぉ」と、アクゴロウの声が蘇った。
どざっと地に伏した黒熊は、しかしすぐさまぐぐっと身を起こしにかかる。そしてアクゴロウを睨み付けようとしたが、そ
の姿は見えなかった。
アクゴロウと自分の間に、羽織袴を纏った狐が立っていたせいで。
三十代半ばと思われる狐は、立ち上がろうとする黒熊を見下ろしながら口を開いた。
「藤堂(とうどう)。東海(とうかい)。加減したのですか?」
「いや、俺は全力っすよ。渚(なぎさ)が手抜きしたんじゃねぇっすか?」
「馬鹿言ってんじゃないよ湊(みなと)。あんたがサボったんだろ?」
「あん!?俺は真面目にやったっつぅの!」
「はん!どうだかね!」
二十代前半と思われる男と女のトド達がギャイギャイ言いあい始めると、狐は眉間を揉む。
「静かになさい。そんな様で本当に契りを結べるんですか?」
「取り下げますかね!」
「おう!望むとこだっつぅのデカ女!」
「…二人とも、頼むから静かに…」
ため息をついた狐は、体中あちこちから出血している満身創痍の黒熊の姿を、改めて子細に観察し始める。
その眼差しは黒熊を突き抜けて遥か遠くを見ているようでもあり、どこか茫洋としていて捉えどころが無かった。
敵意も、悪意も、殺意も無く、ただ静かに相手を見定めるその時、この狐は、勝敗の際に足を置いている。
もっとも、彼の稀有な能力の正体を知らない者からすれば、ただぼんやりと見つめられているようにしか思えないが。
やがて狐は瞬きして、焦点を手前に戻した目でアクゴロウを振り返った。
「定まりました。アクゴロウ君は、少し下がっていて下さいね」
頷いたアクゴロウは散歩退き、その前方左右を彼の御庭番が固める。
「さて…」
呟いた狐は黒熊に視線を戻し、
「わたくしが、お相手しましょう」
そう静かに告げて相手を誘う。
だが、黒熊はまだ気付いていなかった。
既に勝敗が決している事には…。