第三十話 「ヤノシュ・バルファー」

 嫌な匂いがする。

 赤銅色の巨熊が抱いた、任務地となる港に立っての第一印象は、おおよそそのような物であった。

 潮釜港。時代の流れと周囲の条件で衰退と繁栄を幾度も繰り返してきた汐の汀。古くは奈良時代より、鎮守府における海の

上がり口として活用された。江戸時代には花街として栄えた。漁港や物資運搬という、通常の港としての栄え方とは別の発展

を見せた事もあるのが、この港の特徴。

 整備されたコンクリートの岸壁には大小様々な漁船が接舷されている。市場も近い磯の風には、魚介の匂いが濃く混じる。

 とはいえ、ユウヒが感じている匂いは磯風でも水揚げされた魚の匂いでもない。実際に嗅覚で感知した物ではなく、「虫の

知らせ」と言われる物に近い。ユウヒは軽く顔を顰め、岸壁から太平洋を見渡した。

 自分達の祖、荒蝦夷と戦をした鎮守府と関わり深い海だから感じる物があるのか?それとも…。

「ユウヒ様」

 声に耳を立て、振り返る。オーバーオール姿の秋田犬が、紙袋を右手で胸に抱えて歩み寄っていた。

「たいやき屋がありました!」

 嬉しそうに目を細めて尾を振っているヤクモに、ユウヒは微妙な顔をした。

 私服…ではなく変装なのだが、ヤクモの垢抜けない田舎者っぽい恰好は、何と言うか、妙に…。

(…似合ってっとなぁ…?)

 なお、ユウヒは特大ジーンズにポロシャツ姿。ブランド物ではあるのだが、こういった洋服は着慣れていないのでどうにも

落ち着かない。中学卒業までは制服も着ていたが、あれも慣れるまでしばらくかかった。物心ついた時から作務衣に浴衣に甚

平に袢纏、着用する品が和装ばかりだった弊害である。ユウトにはトナミが気を配って、幼い内から洋服中心に着せて慣れさ

せているが、ユウヒは今更だった。

 特にジッパー。ズボンの股間のジッパー。これはよりによって何故陰茎の包皮をちょくちょく襲うこの危険な位置について

いるのかとユウヒは常々理解に苦しんでいる。

 一方、ヤクモの方はそうでもない。特に動き易くて洗い易いジャージの類は室内着として愛用しており、洋服も苦ではない。

 まだ熱いタイヤキから、匂いでチョコレートが入っている物を判別して受け取り、齧りながら、ユウヒは視線を何気なく岸

壁沿いに走らせた。

「まだだいぶ時間あんな」

「はい。日暮れ前に一度、宿に引き上げましょう」

 ユウキと御庭番達は御役目に備えて宿を用意したが、今回は明神家の息がかかった宿泊施設が近場に無かったので、隊を小

分けにして部屋を取っている。ユウヒとヤクモはユウキと同じ宿に部屋を用意された。時間になればそこから出撃するのだが、

日没までは随分と時間がある。

 しかし、遊んで時間を潰すにも、少年達は何も知らない。故郷の山中ならいくらでも時間を潰す手段があるのだが、山菜も

生えていない整備された街ではする事を思いつけない。

 タイヤキを食べながらブラブラと散策する以外に思いつかず、ユウヒとヤクモは岸壁沿いに歩き出す。近くにコンビニエン

スストアがあったので、ちょっと中を覗いてみようかと、ユウヒにはその程度の提案しかできなかった。

「中秋の満月が近い時期は、月見になぞらえた甘味や饂飩が店に並ぶそうです」

「んで、見でみんのも悪ぐねぇが」

 そんな事を言い交わしながら、赤銅色の羆は遠目に、運搬船が停泊する辺りを一瞥する。

 今回の御役目は、ここに入港する船が持ち込むはずの、舶来物の危険物資を押さえる事だった。



 日が暮れて、夜が来る。

 作務衣にも似た仕事着を着用したユウヒとヤクモは、熊親父に率いられて宿の窓からこっそりと抜け出した。

 各々が人目につかないよう集合したのは岸壁近くの倉庫裏。明るい内に位置関係などを把握しているので、夕刻に入港した

船舶へ接近するのは簡単だった。

 展開して船舶を遠巻きに包囲する布陣を整え、待つ事しばし。巨躯でありながら闇に溶け込み、虫達にすらそこに居る事を

全く悟らせないレベルで気配を消していた熊親父は…、

(お出でなすったようじゃ…)

 大型の貨物船舶からさほど離れていない位置に、数台の車が寄せられ始めた事を確認すると、表情を引き締めて軽く手を上

げた。

 注視していたヤギが無言の伝令を手信号で送り、すぐさま各員は行動に移る。

 数台の、バラバラに現れた車から降りるのは、一見すれば私服姿の中年から若者。竿やクーラーボックスなどの釣り道具を

出しており、夜釣りに来たようにしか見えないが、それらはカモフラージュ。高度な演技で釣りを始めるも、その内幾人かは

動き回っている間に姿を消す。そして、消えた数だけの人数が、同じ格好で車からいつの間にか降りている。

 包囲を狭めつつ監視する御庭番達は、消えた数名が岸壁下の海中に潜った事を把握した。船底に設けられた、秘密の出入り

ゲートを利用するためである。

 ダイビングスーツも無しに通常の着衣で潜水し、底から船に入る。

 そして「品物」を海中から運び出して、釣り人に扮している者達に預ける。

 品を預かった者達は釣りを続けた後、しばらくして何事も無かったように立ち去る。

 海中に潜って受け渡しを実行する者達は、目に付かない所へ移動して回収されるのだろう。

 御役目を伝えられると同時にマサカズから手口の情報を齎されていたが、よく考えたものだとユウキも唸らされる。何の情

報もなければ疑いもしないだろう、見事な擬態だった。

(さて、配置はどうじゃ?)

 ユウキが闇に目を凝らせば、息子は倉庫の屋根の上。ヤクモを伴い大型貨物を睥睨している。岸壁の船まで30メートルは

ある位置だが、アレはアレで問題ない。
他の御庭番も物陰を使用して距離を詰めているが、気配を察知されてはいない。手錬

の上を軽々とゆくのが神代の御庭番である。

「良いが、ヤクモ?」

「はい」

 倉庫上の巨熊が低く抑えた声を発するなり、秋田犬は既に抜いていた巻物を掴んだ右手を、左から大きく外へ振った。

 紐解かれた巻物が腕の軌道に沿って広がり、そのままヤクモを基準点にして空中で静止する。秋田犬を囲むように展開され

た巻物の、ヤクモから見て正面の位置には、術の起動紋…手形がある。そこに自らの手を重ね、少年は低く術式を唱した。

「補動、風道蔓編み」

 術の発動により、倉庫の屋根から船の上空まで、空気が紐状に固体化しながら伸びると同時に、編み上げられて帯状に張ら

れた。ナイロンロープほどの強度があるそれはほぼ透明で、煙の中などでは形状が見えてしまうが、通常の状態であれば屈折

率の差でおぼろげに輪郭が判る程度。夜ともなればよほど注意深く見てもそうそう存在に気付けない。

「敷設完了です。形状維持は30秒ほど」

「行ぐど」

 巻物を丸めて収納するヤクモから報告を受けるや否や、ユウヒは空気の網の上へ躊躇なく足を踏み出し、即座に疾走に入る。

 道は見えなくとも夜空を駆けて接近する姿は見られる。一手目にこそ迅速さが必要なここで、赤銅色の巨体は瞬時に船の上

まで駆け抜ける。

 迅速で鮮やかな侵攻。しかし、後を追いながらヤクモは理解している。ユウヒには本来この術は必要ではないと。脳が肉体

に課したリミッター…すなわち禁圧を解く術を完璧に体得している赤銅色の熊は、助走をつけて跳べばその巨躯を30メート

ル向こうの貨物船に到達させられる。つまるところ、ユウヒはヤクモと一緒に行動しようとするから術が必要になっている。

 ゴンと甲板が震えた。同時に船上を見回っていた数名が素早く音の出所に向き直った。その手には、懐から抜き出した拳銃。

(外人ど…、日本人も居んな?勧告は日本語で良いべ…)

 普通に銃刀法違反。申し開きを訊く必要は無くなり、面倒が省けたユウヒはその身を淡い燐光で覆う。

 平らな甲板は貨物コンテナを積み下ろしするために広く取られている。遮蔽物がないここで、銃器で武装する複数名に素手

で囲まれた状況。普通ならば降り立つ事そのものが自殺行為だが…。

「何者だ!?」

「動くな!」

 包囲に回る男達の中から上がった、誰何の声に応じるのは、

「武器捨てて投降しろ。この船は帝直轄奥羽領守護頭、神代家の名で接収する」

 ユウヒの一方的な降伏勧告。その発言に含まれた言葉で、男達は事態を悟った。ウォーマイスターの介入だと。

 男達の判断は早かった。排除し、離岸する。何も言い交わさずにその結論に至り、ひとりは船内へ身を翻し、残りは一斉に

ユウヒへ発砲した。

 が、拳銃から飛翔した銃弾は、一発たりともユウヒを傷付けられない。近くて8メートル、遠くて14メートル、五名各々

がひとりも、一発たりとも、外す事なく赤銅色の巨体へ銃弾を打ち込むも、纏う燐光に接触するなり弾等がひしゃげ、弾き返

される。

 世界的にはエナジーコートと称される、比較的能力者数が多い力。一般的なそれは、「コート」と称されるように防御的な

コーティング能力と認識される。しかし神代家など、古くからこの能力を発展させ、技術大系として確立、維持してきた派閥

は、これを単なる防御手段に留めない。

 ユウヒは、自分が銃撃に倒れない事を連中が訝る前に、軽く開いた右手に力を収束させる。

 掌の中心に灯った、全身を覆う燐光よりも一際明るい光の粒。それが一瞬でソフトボールサイズまで膨張し、チリチリと光

の粒子を拡散させる。

「雷音破…!」

 それは、無造作な投擲モーション。小石でも投げつけるような一投から、飛翔したのは光球…ではなく、傍から見れば光の

線。ユウヒの手先から離れた光球は、着弾するまで刹那であったが故に、閃光が奔ったように感じられた。

 銃撃する男のひとりに、それは命中した。そして、着弾点であった顔の中心から、半径20センチほどの範囲で丸ごと、抉

り取るように蒸発させた。かつてそこに物質があった名残として、潮風に散る塵だけが男の後方に漂っている。

 だが、同僚の一人が首の付け根から上を失った事に男達が気付くまで数秒を要した。あまりにも一瞬の殺害だったため、気

付かせられなかった。

「防盾!音迅波牡丹!」

 二投目も必要かと、ユウヒが左手に力を集約させようとしたその時、頭上からヤクモの声が響いた。

 途端にユウヒを中心にして大気が揺らぎ、オオンッ…と銅鑼の残響のような音が周囲を満たす。同時に、発砲中だった拳銃

からの弾丸は、その全てが直進しなくなる。

 巻物を展開したまま上から落ちて来たヤクモは、ユウヒの背後に着地し、そのままバランスを崩してドデンと尻もちをつい

た。が、その程度で済むほどに落下速度は緩和されている。

 ヤクモが用いた術は防御用の物で、自身を中心として周辺の大気に幾層もの音波障壁を巡らせる物である。

 展開された音波障壁は、歩いて通過できるほど人体に影響がない代物だが、高速で飛び込んでくる銃弾に対してはその限り

ではない。銃弾に限らず、高速飛翔体は些細な干渉でも軌道を変えられ易い。無数の、様々な角度の音波の壁は、その全てが

異層の界面。言うなれば多種多様な角度で水面が重なり合っているような物なので、弾丸がこの中を直進するのは難しい。ま

た、落下してきたヤクモもこの面の影響を受けて運動エネルギーを散らされていたので、着地に失敗したものの普通に転ぶ程

度のダメージで済んでいる。

 その異様な現象に戸惑った瞬間、男達は気付いた。先の閃光で、同僚が一人頭を吹き飛ばされた事に。

 銃撃が止む。ユウヒに注意が集中する。恐れと警戒が一点に…。

 直後、船の縁まで這い上っていた御庭番達が8名、好機と見て同時に躍り出た。

 あるいは鉤付きのロープで、あるいは痺れ毒つきの棒手裏剣で、あるいは砂が詰まった革袋の投擲で、それぞれ一瞬で無力

化せしめた御庭番達は、続く仲間達を船上に招き入れる指笛を鳴らした。

「ヤクモ。助かった」

 燐光を消し、低い声で労うユウヒ。

「い、いいえ…」

 小さく応じるヤクモ。

 必要なかった。あの援護も。秋田犬はそう思っている。

 放っておいてもユウヒは単独で連中を殲滅できた。無傷で、短時間で、滞りなく。何もしないよりはマシだから、邪魔にな

らないなら問題ないはずだから、術を発動した。現場を怖がる感情と同時に、虚しさも覚えながら。

 それに比べて、ユウヒは相変わらずの手際だった。

 ひとり葬れば牽制になり警告にもなる。赤銅色の少年の思考と判断は、合理的だが苛烈で容赦がない。少数の犠牲で事が収

まるならば、その少ない犠牲を出す事を躊躇しない。その、徹底していながらある意味で余裕のないユウヒの在り方が、ヤク

モは時々怖くなる。自分には真似できない迷いの無さが。

 だから、ヤクモは理解していない。

 ユウヒは一見相変わらずのようでも、自身のそういった「余裕がない部分」を、「手心が不足する部分」を、自覚し、問題

視もし始めている。今も、ヤクモが思う通り殲滅は難しくなかったが、彼の介入で連中が動揺し、自分の危険性に気付いて注

意を向け、後方に隙を作る事へ流れるように繋がった事で少々ホッとした。おかげで見せしめの殺しを二つせずに済んだ、と。

「船尾側は三番隊が抑えます」

「突入を…」

 御庭番達が無力化した男共を転がして、ユウヒを先頭に立てて船内へのハッチへ駆け出したその瞬間…。

「雷障陣!」

 吼えたユウヒの前面に力場の障壁が展開され、船内から飛び出してきた男達による一斉銃撃を防ぎ止める。

 ダークグリーンの迷彩服にゴーグル、ヘルメット。得物はウージーサブマシンガン。特殊部隊のような出で立ちの男達は、

先に無力化した甲板の見張りとは違い、即時応戦用に常時武装している専門の戦闘員である。

 大組織の息がかかっているという事前情報は本当だったと、ヤクモは唾を飲み込んだ。出てきた連中はクルーと戦闘員の併

任ではない。専門の戦闘部隊を抱えて船旅を行なうという力の余裕と大胆さは、本物である。

 力場の盾を掲げたユウヒの後方から、蜥蜴の御庭番が竹筒を投擲した。放物線を描いた竹筒の先端では、今にも無くなりそ

うな導火線が火花を上げている。

 ボシュッと、竹筒の前後から煙が噴出した。瞬く間に船上を覆う白い煙。散開する御庭番。互いの視界を制限しながらも、

こうなれば彼らに分があった。


「派手に始めたな」

 ブリッジで指示を出す船長の後ろから、フードを被った男が声をかけた。

 灯りが強く及ばない暗がりに立つ男を、船長が鋭い目で振り返る。

「最悪に備えて「荷」は脱出させた。お前にも迎え撃って貰うぞ」

「契約外だが、異論はない。乗りかかった船…もとい、乗ってきた船だ」

 踵を返してブリッジを出た男は、フードを背中側に落とす。その下から現れたのは、明るく燃える火のような、赤味がかっ

た金髪。

 逆立った髪を軽く後ろに撫でつけた男は、左脇に抱えた石版の縁を、軽く右手の指先で撫でた。

(民間船舶もあるこの港で仕掛けてくる…。相手は、後ろ盾に「法」がある輩か)


 乱戦に持ち込み、各自対象の無力化を試みる中、ユウヒは背後に庇う格好になっているヤクモの無事を確認し、他の御庭番

も劣勢になっておらず、船尾側でも急襲成功の狼煙が上がった事を確認すると、

(乗り込んで構わねぇべ)

 ユウキが手配していた通り、絶妙なタイミングでパトカーのサイレンが聞こえ始めたのを受け、船内に突入して大暴れして

よいだろうと判断した。

 先に規制線などを敷けば勘付かれるため、事が始まった直後に警察が動く。一般市民の安全と対象の確保をギリギリのライ

ンで両立させる策。速やかに抑えなければ、何も知らずに夜釣りに来ていた釣り人や、他の一般船舶の乗組員達にも危険が及

ぶ可能性がある。

 ブリッジは外部からでも、軽業自慢の御庭番が制圧できる。ユウヒがなすべきは航行機能の停止…動力部の制圧である。

 事故が起こりやすい場所でもあるので、だいたいの場合は甲板まで直通のルート。船内に入れば後は下へ下へと潜るだけ。

 飛び交う銃弾の中、扉に迫ったユウヒは…。

「!?」

 目を見開き、急停止して身構えた。

 船内に続く入り口。開かれた分厚い扉。その向こうから姿を見せたのは…。

(あのおどごは…!)

 ユウヒが首周りの毛をブワリと逆立てる。

 童話に登場する魔法使いが着ているような、フードつきのローブを纏う男。

 三十路前半といった頃だろうか、黒目が極端に小さい四白眼。フードは背中側に落としており、燃えるように逆立った赤味

の強い金髪をあらわにしている。短く切り揃えた顎鬚は三角形を描き、頂点が唇の下に達していた。

 男の左脇には国語辞書ほどもある石版が抱えられている。

 グリモア。術士が用いる西洋式の術具。ただし、標準的なサイズよりだいぶ大きい。

 知っていた。忘れもしない顔だった。ユウヒはその男を一度だけ見た事があった。

 そして、それは男の方も同様だった。

 赤銅色の被毛を纏う巨大な若い熊。以前見た時よりも大きく逞しく成長しているが、その顔立ちと毛色は忘れもしない。

「お前は…、まさか…?」

 瞠目した男の口元が苦々しく歪む。

「「キリグモ」の時の小僧か…!」

(え?)

 ヤクモの頭の隅に、蝋燭の火が灯るように疑問が浮かんだ。

 キリグモ。あの術士は今そう言った。何故キリグモの事を知っているのか。キリグモの時とは何なのか。ヤクモはしかし、

そうゆっくり訝ってはいられなかった。

 体がブルッと震えた。急に激しい悪寒を覚え、同時に息が詰まるような圧を感じた。

 ヤクモのみならず、他の御庭番達すらも身が竦むプレッシャーの出所は…。

「「ヤノシュ」…!」

 赤銅色の巨熊が、全身の被毛を逆立てていた。

 ユウヒは鼻面に細かな皺を寄せ、男を獰猛に睨む。唸るように低く、男の名を口にしたその声は、憎悪と嚇怒で震えている。

 ヤノシュ。ユウヒがそう呼んだ男の右手が上がる。翳すように顔より少し上の高さで掲げられた人差し指が、サソリの尾を

思わせる形でユウヒを指差した。

 直後、その指先に橙色の光が灯る。

 ジュッ。焼けるような音を立てて、闇夜に橙の線が引かれた。男の指先からユウヒまでを結ぶその線は、しかしそこで折れ

曲がる。

 ギィンッと鋼鉄の塊を金槌で叩いたような音が響き、ユウヒが振り払った左拳…その光度を高めた眩い力場が、熱線を弾い

て強引に軌道を曲げた。

 熱線は90度の角度で折れ曲がり、甲板を融解させて船腹へ抜け、海面に達するなり水蒸気爆発を起こす。

 船体が揺れ、水蒸気が瞬く間に周辺を覆うその間に、ユウヒは術士に向かって突進している。

 握り固めた左拳は、輝くほどに強まった力場を纏う。一瞬で肉薄された男の眼前を、軌道上にあれば肉でも骨でも鉄でも砕

いて焼いて塵にする高エネルギーの塊が通過した。…そう。「通過」してた。

(以前より速い…!当然か!)

 映像のコマ落としのように一瞬で接近し、風音すら追い抜く速度で振り抜かれたユウヒの拳を、男は半歩後退しながら上体

を後ろに傾けて避けていた。そしてその右腕は体の後方に伸びており…。

「!」

 ユウヒは咄嗟に両腕を引き付けて胸の前で交差し、防御姿勢を取った。纏う力場が厚みと光量を増した次の瞬間、ヤノシュ

が後方に伸ばして広げた右手から、行使者を避けて四方へ稲妻が伸び、折れ曲がりながら赤銅色の熊に迫る。

 自身を目隠しにして発動の瞬間を視界から隠した電撃。これをまともに浴びたユウヒの周囲で、纏った力場が削られるよう

に厚みを失う。

 バリバリと大気を引き裂く雷の轟音。これが船上と言う至近距離で響くのだから堪らない。御庭番達は加勢するどころか、

突如始まったユウヒと術士の戦闘の余波でまともに動く事もできない有り様だった。

 空気も床も焼ける強烈な電撃を防ぎ切ったユウヒの前から、ヤノシュは床を蹴って大きく跳躍して、夜空に踊る。身を支え

て持ち上げるのは強力な、しかし安定している気流。飛翔する術士は右手を眼下に向けて広げ、掌に赤々と燃える火の玉を作

り出した。

 見上げるユウヒは半身に構え、左腕を大きく引いた姿勢。そして右手はヤノシュに向け、掴みかかるように五指を広げて力

場の光球を作る。

 ヤノシュの手から火球が落とされた。ヤクモは完成した術の、炎の色を見た瞬間に気付いて目を剥く。

 ヤクモはその炎を知っていた。あれはナパーム弾と同じ、着弾後に爆裂し、燃焼し続ける焼却術だと。

「あれは触れただけで助かりません!海に飛び込んで下さい!」

 全員に避難を呼びかけるヤクモだったが、理解していた。位置が悪い。自分は間に合わない、と。しかし…。

「おおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 船を揺るがしたのはユウヒの咆哮。

 その身に纏う力場が明滅していた。光の色と、明度を落とした色の間で。

 鬩ぎあうように激しく明滅した力場は、やがて暗く沈んだ色調で落ち着き、色を変える。赤々とした、どこか禍々しさもあ

る赤銅色に。

 右手に生み出した光球も色を変え、重々しい赤に染まって輪郭を整える。固体の、物質であるかのようにくっきりと。そこ

へ、大きく引いていた左拳が、引き付けられる右腕と入れ替わりに繰り出される。

 赤銅色の力場を纏った左拳が、光球を殴りつけた瞬間、接触して爆ぜた力場が粒子となって僅かに散ると共に、赤銅色の閃

光が夜空へ突き抜ける。

 ナパームと化すはずの火球を貫いて爆散させ、延焼すらままならない火の粉に変えて、もはや火線にしか見えない高速で飛

翔した赤銅色の光球がヤノシュに迫り…。

「ちっ!」

 その時、術士の右手は既に、反撃を見越して次の術を発動させていた。幾重にも重ねられた高質化した空気の層、それを盾

として展開している。

 赤銅色の閃光はシールドに達すると、バギンと音を立ててこれを食い破る。

 バギン、バギン、ギン、ギン、ギ、ギ、ギ、ギギギギギッ…。

 多重構造のシールドを食い破りながら、しかし光球はその軌道を曲げられていた。展開されたそれは一種の反応装甲。砕け

ながらも外側に向かって爆ぜる。しかもヤノシュはシールドを真正面に構えるのではなく、破られる事も計算に入れ、自分の

左側へ斜めに傾ける形で展開していた。

 バギャンッ。激しい音を立ててシールドの層を突破した光球は、しかしヤノシュに触れる事無く、その左側を抜けて夜空へ

消える。そして…。

「るるるるるるるるっ!」

 光球を追うようにして、獰猛に唸るユウヒは跳躍して術士に迫っていた。

 これも見越していたヤノシュはシールドを再発動し、ユウヒは構わずこれを殴り潰しながら迫る。

 彼我の距離は瞬きの間にゼロとなり、ヤノシュの右手は金色のプラズマを放射する。これを至近距離で、広げた右掌で受け

るユウヒ。

 唇を捲り上げ、牙を剥き出しにするユウヒの目からは、理性の光が消え去っている。

 それを近距離で睨み付けるヤノシュは、忌々しげに顔を歪めている。

 拮抗する両者の戦闘を、御庭番達も愕然として凝視していた。

 ユウヒが押し切れない。近接格闘においては既に神代家の当主にも勝る若熊を、術士は迎え撃っている。

(あの術士、逆神級の危険な輩か!?)

(助勢するどころか介入が邪魔になる!)

(ユウキ様でなければ、もはや手に負えん!)

 そして、ユウヒの様子がおかしい事に、ヤクモだけは気付いていた。

 力場の色が妙だった。加えて、咆哮は怖気を誘う禍々しさ。

 神卸し。神将達が用いる奥義。異国ではオーバードライブと呼ばれる絶技。ユウヒはまだそれを正式には体得していないが、

本能的に存在を知覚してはいる。

 己の獣性、その先からさらなる力を引っ張って来られる…。

 天才と称する他はない、教えられずともソレを引っ張り出す才覚。しかしそれは落とし穴でもあった。

「るおあああああああああっ!!!」

 禍々しい咆哮を上げるユウヒの拳が、左右交互に唸りを上げる。またも生み出された多重シールドを、マシンガンのような

勢いで破砕してゆく。

 神卸しの暴走。ユウヒは制御に失敗し、力だけを引き出して理性を失い、獣性に呑まれていた。父親のユウキが独自に用い

る神卸しの変則版は、制御状態のまま暴走による短期限定の高出力を引っ張り出す物だが、ユウヒのこれは完全な、単純な、

制御から逸脱した暴走である。

 冷静さと思考を欠いたユウヒは、反応装甲の性質を把握できておらず、放出によって距離を離され、落下に移る。

 この機を逃さず、ヤノシュは右手を抱えた石版に当てた。居合いの構えにも似たその姿勢から、掌を外側に向けて左から右

へ振り抜く。

 発するのはプラズマの閃光。射程20メートル。直径5センチ。細く長いプラズマの線が、瞬時に空間を薙ぎ払う。

 赤銅色の熊は全身を覆う力場をより高密度にし、これを防いだ。

 が、そこまでだった。内なる獣に取って代わられたユウヒは、自身の防御しか頭にない。薙ぎ払われる直線状に居る御庭番

や、後方に居たはずのヤクモの事など、念頭から完全に消え失せていた。

 薙ぎ払った閃光の先で、御庭番の馬が鳩尾の高さで溶断された。栗鼠が肩から上で斬り飛ばされた。蜥蜴が膝上を撫で斬ら

れた。
そしてユウヒの力場と接触して散った分は、高エネルギーを保ったまま、プラズマの破片となって、雨のように船上に

振り注いだ。

「ユウヒ様!」

 悲鳴のような声を上げるヤクモに、しかし赤銅色の熊は一瞥も向けはしない。飛び散ったプラズマで甲板があちこち融解し、

貨物船は穴だらけになったが、周囲を顧みる事もない。単純に、執拗に、敵を殺し尽くす事に集中している。

 そこには、もう居ない。

 ヤクモを気遣う普段のユウヒは、そこには居ない。

 赤銅色の巨熊は甲板にドンと降り立つと、「るるるるっ…」と唸りながら上空のヤノシュを睨み上げる。

 その禍々しい視線を真っ直ぐに受け止め、怯みもせず、ヤノシュは舌打ちをした。

「おのれ…。キリグモを殺した時より腕を上げているか…!」

(……え?)

 その、さほど大きくなかったヤノシュの声を、ヤクモは確かに聞いていた。

(どう…いう………?)

 ユウヒの背を見る。別人のような禍々しい後姿を。

 そして突然、海上で火柱が上がった。

 爆発音と共に暗い海面がオレンジに染まったのは、貨物船から200メートルほど離れた、堤防を迂回して外海に出る、航

路上にあたる位置。

(勘付かれたか…。いや、最初から包囲の隙を突く事を想定していたのか)

 ヤノシュが顔を顰めて上がった火に目を遣る。

 手入れが入ったと察知した時、船長の判断によって、品を押収されないよう小型潜水艇で持ち出させる事が決まった。ヤノ

シュの役目は目を引き付ける事と、時間稼ぎだったのだが…。

「まるで鋼鉄のフグじゃな。外付けの「毒」を抱えとる所までそっくりじゃ」

 真っ二つになって海面に上部を晒した潜水艇の上、炎上する動力側を、比較的無事なまま浮いている前部側に立って見遣る

のは、最初から貨物船へ突入していなかった熊親父。その左手は気絶したパイロットの後ろ襟を掴んでぶら下げ、右腕は20

センチ四方の正方形の箱を抱えている。

 ほぼ無音で進行できる虎の子の小型潜水艇の存在に、最初から品の持ち出しを警戒していたユウキは気付いた。ヤギと手分

けして外海へ出られるルートを押さえていた熊親父は、海中を進む潜水艇の存在を、小魚の群れが逃れようとする気配で感知

したのである。

 素潜りで接近して取り付き、深海の水圧にも耐える潜水艇を力任せに引き裂いて、パイロットと品物を確保するという、デ

タラメだが鮮やかな襲撃。

「「タマ」ぁ取った!あとは鎮圧じゃ!…が」

 ユウキは貨物船を見遣る。高熱で炙られて所々が赤熱化した船体の上、よく見えないが嫌な気配を感じる。そして、船の少

し上には、空中に浮遊している術士と思しき者の姿…。

(手錬…なんてもんじゃねぇなぁ…。ユウヒが居て仕留められとらんとは…)

 ユウキの頭の隅を、フレイアが持ち込んだ術士の弟子募集の話が掠めた。OZ由来の、兵隊としての術士とは力の次元が異

なる術士。アグリッパなどはそう称されるが、もしかしたらあの、ユウヒが仕留め切れていない相手も…。

(「真祖の術士」、と言うんじゃったか…)

 一方、ヤノシュは状況を見て、これ以上の戦闘は無意味だと判断した。

 誰かを救出する…などという考えはない。不名誉な事だが、報告のためにも離脱する必要がある。逃走に失敗する可能性を

僅かにでも高めたくはない。

(二度も、アレのせいで失敗するとは…)

 苦々しい思いだったが、眼下の巨熊を睥睨するヤノシュは、風の障壁を纏い直すと、右腕を高く差し上げる。

 そこから、青白い電撃が走った。

 網のように広がりながら駆け下る、貨物船全体を覆うほどの電撃には、しかし殺傷能力はない。スタンガン同様に非致死性

である一方、短時間の行動阻害性能と、作用範囲と展開速度に主眼をおいた術だった。

「!!!」

 声も上げられず電撃に倒れる御庭番達。しかしその中でも動ける者があった。力場に護られたユウヒと…。

「散逸、流れ柳!」

 ヤクモは咄嗟に巻物を、右上から左下へ、斜めに傾ける格好で展開させていた。起動した術は、思念波による干渉を受けて

いる現象を、自身を起点にした周辺でだけ緩和、あるいは屈折させる守りの術。出力が高い物には無力だが、火の粉は払える

として展開準備を済ませていた物。比較的低出力にあたる青い電撃は、ヤクモの周辺で四方に散るように軌道を曲げていた。

そして…。

「補動、風道蔓編み!」

 もう一本、展開中の巻物に交差させて、別の巻物を展開する。船に踏み込む際に使った物…、紐状に固体化した空気の綱を

伸ばし、編み上げる術である。

 だが、厳密には先と同じではない。手形を交差させて展開した巻物を、同時起動する「重ね打ち」という技法。これによっ

て、伸ばされた空気の網は質が変わり、守りの術の干渉を帯びて、思念波によって起こされている現象への阻害効果を持つ。

(キリグモ兄さんを殺した!?どういう事だ!?)

 脅えるヤクモを突き動かしたのは、ヤノシュの発言だった。

 これには術士も意表を突かれる。ユウヒに意識を向けていたのもあったが、竦んでいるように見えていた秋田犬が唐突に動

いたため、一瞬だけ対応が遅れた。

(良い工夫がされた術だ)

 今度は足場としてではなく、捕らえようと広がって伸びる網が、青白い電撃を追い散らして迫る。さほど干渉力が強くない

ジャマーを帯びさせた大気操作、と術の構成を見切ったヤノシュは、単純な火力や効果の強さではなく、組み合わせによる高

効率の術士対策を素直に認める。費用対効果的な意味でも、使用する思念波量に対して有用性は高い。

(しかし脆弱)

 ヤノシュは放電を中止した右手を石版に当て、再びプラズマの線で薙ぎ払おうとしたが…。

(…秋田犬…。少年の術士…)

 居合いのように術を放つ直前に、

(あまり似てはいない。だが、あの赤銅色の熊が居るという事は、相手は神代家と御庭番。であれば…)

 思い出し、思い直し、舌打ちする。

(キリグモが言っていたのがアレか)

 ヤノシュが抜刀術のように放った術は、先のプラズマとは規模が違った。掌全体から杭のように発現させたのは全長2メー

トル程の射程。薙ぎ払ったのは迫ってきた空気の網だけ。そして…。

「くっ!」

 飛来した光弾を迎え撃って破壊すると、プラズマ刃は相殺するように弾けて霧散する。

「良い勘をしとるわい…!」

 不意を突いて雷音破での狙撃を仕掛けたユウキは、ヤノシュの反応に舌を巻く。

 ユウキが御役目で相対する術士は、基本的に術頼みの者が多い。非合法組織内で武器としてグリモアの扱いを習得しただけ

に過ぎず、言うなれば多少応用力がある能力者というレベルの術士ばかりだったが…。

(「あんびりいばぶる」じゃ。噂をすればというヤツか、「真祖の術士」が相手とは!)

 一方、これ以上留まるのは危険と考えたヤノシュは、風の足場を炸裂させ、自らを暴風で吹き飛ばす。その傍らを…、

「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉっ!」

 咆哮と共にユウヒが放った赤銅色の光弾が、閃光となって駆け抜ける。一瞬でも遅れれば射抜かれて爆散する所だったが、

ヤノシュは冷静に見極めて回避した上で、気流操作による飛翔で離脱する。

 あっという間に夜空に消える術士。忸怩たる思いで見上げるヤクモ。

(キリグモ兄さんと、どんな関係が…)

 口ぶりからすると、ユウヒの事も前から知っていた様子だった。秋田犬は若き主君の背に目を戻す。

「ユウヒ様。今の男…」

 声をかけ、そしてヤクモは凍りついた。

 振り向いた赤銅色の巨熊が、秋田犬に目を向ける。ヤノシュに向けていた物と変わらない目を。

 風が唸った。首の骨が鳴った。同時に、ヤクモの喉が「げぅ」と漏らした。

 一瞬で飛びついたユウヒの右手が、ヤクモの首を捉えて締め上げ、腕一本で吊り上げる。そして軽く開いた左手には、赤銅

色の光が収束してゆく。

 暴走の末、既にユウヒは理性を完全に塗り潰されていた。護りたいと思っていた者が判らなくなるほどに。

 吊るし上げた相手の頭部に光球を叩き付けて殺す。単純で確実な殺害を試みる赤銅色の熊は…。

「何やってんだこのほでなすがぁっ!」

 怒声が響き、横合いから突っ込んだ巨体が赤銅色の熊を蹴り飛ばした。

 砲弾のような勢いで吹き飛んだ赤銅色の熊が壁に激突する。同時に、開放されたヤクモが落下する前に抱き止めたのは、ヤ

ギに潜水艇のパイロットと荷物を預けるなり、文字通り飛んで来たユウキ。

「無事かヤクモ!」

 怒鳴るように問うユウキに、しかしヤクモは答えられない。

「げふっ!えげっ!げひゅっ!げふほっ!」

 咳き込むヤクモは、喉輪を食らった瞬間に、圧だけで喉仏が潰れていた。呼吸困難になっているヤクモの顔を、顎を掴んで

上げさせたユウキは、「誰ぞ!気道確保じゃ!」と御庭番に呼びかける。そこへ…。

「るるるるるるっ!」

 蹴り飛ばされたダメージも無いのか、赤銅色の巨熊は殺意を湛えた目をユウキに向ける。

 それが自分の父である事も、獣にはもう判らなくなっていた。

「…いや、やはり儂には誰も近付くな。ユウヒを刺激せんようにして、隙を見て、ヤクモを連れて船から離れるんじゃ」

 思い直したユウキは、ヤクモをその場に寝かせると、背後に庇って仁王立ちする。

(さぁて…、獣に飲まれた倅とやり合う羽目になるとは…)

 逆神が絶え、血族との戦いは終わったと思っていたのに、今度は自らの息子と…。

(因果応報、というヤツかのぉ…)

 拳を固めたユウキが、大きく一歩踏み出す。

「るおあああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 獣の咆哮が、貨物船全体をビリビリ震わせた。