第三十一話 「黒伏法総」

 夜八時前、首都のとある神社前。

 盛況だった縁日が夜祭に変わり、家族連れが引き上げ始めているため、徐々に人影が減っているものの、それでもまだ賑わっ

ていた。

 そんな沿道に並ぶ露店の一つに、その男は居た。

「へいおまちどう!」

 筋肉質で、ゴリラのような体躯の人間の大男。祭りの一文字を真っ赤に背負う藍染の法被に半股引姿で、鼻の下と顎に黒々

と髭を整えており、顎が広く眉骨が出っ張った厳つい顔。だがしかし、子供にたこ焼きを渡す時は表情が緩んで柔和になる。

 射的や輪投げ、紐籤が店を畳む中で、晩飯代わりにたこ焼きを求める客を、大男は気風の良い声を上げて相手取る。板につ

いた振る舞いはまさに天職というべきか。外見は三寸というよりは古い時代の任侠その物だが、男は楽しげに声を張っている。

 しかし、たこ焼きを買い求める客も、他の露店商も知らない事だが、男は本来、こういった場に居て良い立場ではなかった。

「すみません」

「へいらっしゃい!…?」

 馴れた手つきでたこ焼きを返していた大男は、かけられた声で顔を上げる。そして客を見た途端、驚いた様子で眉を上げた。

 大男の前に立ったのは、サラリーマンのようなスーツ姿の若い男と、その後ろに控える若い女性。どちらも人間である。

「ご無沙汰しています。コウイチさん」

 スーツを纏った若い男は整った顔立ちで、雰囲気も物腰も容姿も、ハンサムという表現がぴったり来る。切れ長で、しかし

優しい眼は、穏やかな夜の空を連想させる、夜闇を呑んだような深い黒瞳だった。

 無言で微笑み丁寧に会釈した女性は十代後半に見える。混血なのか、アジア系の顔立ちながらエキゾチックな美しさがあり、

スタイルも良い。夜空のような、紺色に寄った瞳の色が印象的だった。

「いつ帰国したんだノリフサ!?エミちゃんもよぉ!」

 コウイチと呼ばれた男は驚いている表情を、次第に柔らかく変えて笑顔になる。

「今日の昼前に。叔父さん達には先に挨拶してきました」

「へっ!慌しいなぁ、戻る前に連絡よこしやがれってんだ!」

「なるべく「可能性」を低くしておきたかったんです。それでも…」

 ノリフサというらしい若い男は首を巡らせ、斜め後ろに立っていた若い女性に目配せする。視線を受けた女性が軽く顎を引

いた瞬間、雑踏の音が遠退いた。

「…ぼくが戻った事は、今夜中にも父の知るところになるでしょう」

 若い男の言葉を聞くなり、コウイチが目付きを鋭くする。

「…ノリフサ。何を突き止めた?」

 御付きの女性の能力により、自分達の会話に注意を向けられない状態になった事を悟り、大男が問うと…。

「三年前、父が運ばせていた術具類の事は憶えていますね?」

「ああ。大事だったな、ありゃあ…」

 思い出したくも無い、といった様子で広い肩を竦めた大男に、

「あれらの出所が掴めました」

 若い男は、端正な顔を冷厳な無表情に変えて告げる。

「奥羽山脈の帝直轄領です」

「…おい」

 コウイチの顔が険しくなる。さらりと口にされた言葉の重さが、男には判っていた。

「つまり…、「あの術士」は神将家預かり品か、御庭番か何かの道具類を盗み出してきたって事か?」

 とんでもない厄ネタに手を出すものだと、コウイチは呆れ混じりに唸ったが…。

「盗み出した、とも言い切れないとぼくは思います」

「うん?」

「いえ。推測に過ぎません。それに危急の件にはあまり関係が無い事です」

 ノリフサは本題に入る。「お願いがあります」と。

「しばらくヤノシュの動向を探ってきましたが、彼は今夜にでも国内に入るようです。すぐにでも首都に来るでしょう。力を

貸して下さい」

「………」

 コウイチは理解した。従兄弟が帰国した理由を。

 その顔をじっと見つめた後、コウイチは「あの術士は、まだ「伯父貴」と繋がってるんだな?」と、確認するように低く声

を発した。

 黒伏浩一(くろぶしこういち)と黒伏法総(くろぶしのりふさ)。従兄弟の関係にあたるふたりは国内最大規模の古い非合

法組織…黒武士会総帥の甥にあたる。表向きはそんな素振りも見せないが、ふたりとも立場でいえば若手幹部という事になる。

 彼らにとって国内に入ったヤノシュは、黒武士会の「汚点」にして「宿敵」まで、数年ぶりに辿り着くための貴重な手掛か

りだった。




 目をあけたユウヒは、数度瞬きした。

 夜空が見える。そして、体が冷たい。

 びしょ濡れの状態であると察した直後、少年は自分が縛られている事にも気付いた。

「…ユウヒか?」

 酷い耳鳴りの中で辛うじて聞こえた声に視線を動かせば、仰向けで転がされた自分の傍らに膝をつき、覗き込んでくる父の

顔が見えた。

「…親父殿?」

 ユウヒか、とはどういう事か?疑問と同時に、感覚が戻ってきつつある全身に激痛を覚える。

 筋肉痛や関節痛の酷い物と、全身打撲と肌の鬱血を併せたような、体の内外の痛み。思わず顔を顰めて息を止めたユウヒは、

影になってよく見えなかった父の手元がどうなっているか気付いた。

 ユウキの手から伸びている不動索は、赤銅色の熊にビッシリと巻きついて縛り上げている。

「…?」

 一瞬の困惑の後、ユウヒはハッと目を見開いた。

 ブツ切れになった記憶。その最後は、「あの男」と相対し、交戦に入る時まで…。

 その後はどうなった?仕留めたのか?それとも…。

 そんな疑問に、ユウキの押し殺した声が答えを与える。

「お前は、神卸しの暴走に呑まれとった」

 良く見れば、ユウキの戦装束は上半身部分が見る影もなく吹き飛んでいる。ボロボロになった名残の布が、腰帯の位置から

下がっていた。

 縛られたユウヒが転がされているのは岸壁「だった場所」の端。

 コンクリートの岸壁…貨物船が停泊していた場所は、まるで隕石でも落ちたように倉庫側までへこんで抉れ、海面までなだ

らかな傾斜になっている。

 爆破でもされたように弾け飛んだコンクリートの塊があちこちにめり込み、周辺の倉庫や船は穴だらけ。

 一帯が封鎖され、警察車両や救急車両が乗り入れた中、慌しく事後処理が行なわれている。

 貨物船は沈没し、生き残った乗組員は連行されてゆくが、死体になっている者も多い。

 だが、この程度で済んだのは僥倖と言えた。

「…俺が…やったのが…」

「そうじゃ」

 我が子の震える声に、ユウキは即答した。

 運が良かった。加減を知らないが故に、無駄に力を発散させていた暴走状態のユウヒは、熊親父と打ち合っている間にガス

欠に陥った。出力の低下に気付いたユウキは、赤銅色の熊から攻撃を引き出して力を枯渇させ、疲弊させてから不動索で捕縛

し、海中に鎮めて溺れさせ無力化した。この辺りは戦上手の面目躍如だが、獣性に呑まれたユウヒに冷静な思考ができなかっ

たのも付け込む材料になっている。

 だが、それでも。男盛りも過ぎたユウキには荷が重い相手だった。単純に出力では軍配が向こうに上がり、至近距離で浴び

せられた拡散するような変形の雷音破で、纏っていた多重の力場も容易に破壊され、いわば最終防壁である被毛に直接纏った

力場の最終層でぎりぎり留められた有様。赤銅色の熊が攻め手を持続できていたならば、敗北は免れなかっただろう。

 恐ろしい事に、ユウヒは成人前の段階で既に、攻撃性能や出力の面でユウキの全盛期を上回っている。今回は搦め手と技術

と経験で何とか捻じ伏せられはしたが…。

「神卸しは、いつ覚えたんじゃ?」

「………」

 父の質問に対して、息子は即答できなかった。明確に「いつ」という意識は無い。「その域」が存在する事を感知したのは

幼い頃。できそうだと思い始めたのは十代に入ってすぐの頃。ただし、今でも使えているという意識はなく、半端に用いる事

ならできるという印象。故に平時は使わず、これまでは「必要になった」二回しか神卸しを試みた事はない。

「親父殿」

 しばらくの沈黙を経てユウヒが声を発し、熊親父が視線を下げる。

「あの術士が、「ヤノシュ」だ」

「…!」

 ユウキの眉が上がった。

「あれが…、キリグモの時の…」

 かつて、遭遇したユウヒから報告だけは受けていた。が、目撃証言は息子の物だけ。故に、警戒が必要な正体不明の術士と

だけ心に留めておいた存在…。

 どうりで、と納得するユウキ。息子が不安定な神卸しを用いなければならず、自分の奇襲も防がれた事実から、報告通りの

危険な相手と認識せざるをえない。正に逆神レベルの脅威と言える。

 息子が正気に戻った事も確認できたので、ユウキはおもむろに不動索を解いた。

 上体を起こしたユウキは、全身を襲う鋭い痛みにも表情一つ変えない。神卸しの副作用で、無理な負荷がかかった筋肉も関

節も悲鳴を上げているが、自身の苦痛よりも周囲の被害に胸が痛んだ。

「…犠牲者は…?」

 息子の沈んだ声に、熊親父は肩を竦めた。

「物的被害はまぁ見ての通りじゃが、出た犠牲は御役目の内に留まっとる。一般人の死者もおらん。が…」

 ユウキが言葉を切る。御庭番がふたり、担架を前後で持ちながら傍にやって来た。

「当主。搬送させます」

「うむ。頼むぞ」

 頷く熊親父の横で、担架の上を見たユウヒは愕然としていた。

 担架に乗せられているのは秋田犬。意識が無いようだが、顎を上げる格好で頭を反らせた少年の口には、気道確保用の器具

と簡易呼吸器のチューブが突っ込まれていた。

「ヤクモ…!?」

 運ばれてゆく秋田犬に追うように、ユウヒは腰を上げる。

「ヤクモ!?無事がヤクモ!?」

「安心せい。喉笛が潰れただけじゃ」

 立ち上がろうとしてバランスを崩した息子を支えたユウキは、ガッと胸倉を掴まれた。

「何があった!?誰にやられた!?」

 ユウヒの脳裏にあるのは、あの炎のような髪の術士の顔。しかし…。

「………」

 父は口を噤む。伝えるべきだとは思うが、今この場で言うべきかどうか思案した。

「親父殿!」

 ヤクモをあんな目に遭わせた相手はまんまと逃げおおせたのか?そんな怒りと焦りから、詰問の口調になったユウヒは…。

「…少し頭を冷やせ」

 胸倉を掴んだ息子の手を解き、熊親父は諭すような口調で告げる。

「ヤクモは大事無いわい。あとでゆっくり説明を…」

「誰がやったって聞いでんだ!」

 怒りが収まらない若熊の剣幕で、ユウキは溜息をつく。

「…ユウヒ。気をしっかり持って、よく聞け…。ヤクモに手傷を負わせたのは…」

 怒りで吊り上がっていたユウヒの双眸は、やがて困惑気味に眉根を寄せ、次第に見開かれて…。

「…俺が…」

 わなわなと手が震えた。

 何も覚えていないのに、掌には、何かを潰したような感触がまだ残っていた。




 早朝の人ごみの中を、男は行く。

 首都の、とある駅。駅前に吐き出された人々の中で、逆立った赤い髪も、纏ったローブも目立ちそうな物だが、しかしヤノ

シュにこれといって目を向ける者は居ない。

 コツコツとタイルを踏んで進む術士は、げんなりとした表情だった。

 「品物」の護衛は、今回ヤノシュの契約には入っていない。移動の足としてたまたまあの船をあてがわれただけで、防衛へ

の協力は物のついでに過ぎない。だが、船が沈められた事や積荷が奪われた事、神将の介入があった事は、見たまま雇い主に

報告しなければならない。不快な顛末ではあるが。

 雇い主への接触は、少しばかり面倒な手順を踏まなければならない。この首都の公的な防衛機構を欺くためでもあるが、雇

い主が居所を知られたくない「非合法な相手」に嗅ぎつけられないようにでもある。

 首都に入ってまずしなければならない手順…、尾行者の確認を行なうため、ヤノシュは監視カメラ類に注意しながら、自分

を追う者の有無を確認する。しかし…。

(…運が無い)

 ヤノシュの顔がますます不機嫌そうに歪む。

 角を曲がる。人通りの多い道を避ける。密集地から遠ざかる。

 その手順を踏む中で、術士は確信に至った。付かず離れず、自分を追う者が居る、と。

 ヤノシュはおもむろに角を曲がり、そこにたまたま見えた雑居ビルの階段を昇る。夜の店だけが入っているそこは、いずれ

も店のドアが閉まっているが、委細構わずどんどん昇り、施錠された非常階段のノブを一瞬のプラズマで融解させると、押し

開けて屋上に出る。

 左右を高いビルに挟まれたそこは、前後が二車線道路を見下ろせる立地。道を挟んだ向かい側のビルは会社所有らしく、オ

フィスフロアの人影は出社時間前なので殆どない。

 手すりに向かって歩き、やがて足を止めたヤノシュは、隠すつもりもない足音を聞いて、ゆっくりと振り返った。

 そこに、スーツ姿の若い男と、真っ黒いジャージに身を包んだ髭面の大男が立っていた。

「…「クロブシ」か」

 ヤノシュの呟きに、ノリフサが無表情で返す。

「単刀直入に訊こう。父は…、「法越」は何処に居る?」

 ノリフサの右手が懐に入る。同時に、コウイチはジャージのポケットに突っ込んでいた両手を抜く。

 若い男の右手が抜いたのは拳銃。コルト社製の軍用モデル、M1911A1

 髭の大男が両拳に嵌めているのは、ゴツい指輪を四つ連結したようなメリケンサック。

「そもそも答えると思っていないらしい。…正しいが」

 ヤノシュは抱えた石版に右手を伸ばす。チリチリと空気が肌を刺す、緊張の一瞬…。

 刹那、響いたのは銃声。

 ノリフサが構えた拳銃が、ろくに狙いをつけた様子もなく火を吹いた。

 咄嗟に体を傾けたヤノシュの、引き気味に反らした左肩付近を、風の障壁で軌道を逸らされた銃弾が通過する。

 とはいえ、術の発動への余裕はある。ヤノシュの右手が再びグリモアに伸び…、

「ちっ!」

 足元を弾丸が抉り、僅かにバランスを崩す。

 命中はしない。にも関わらず、ノリフサの射撃は「的確」と言えた。ほんの少し回避に注力させる…、ほんの少しバランス

を崩させる…、その牽制が、術士相手に間合いを詰める事を可能にした。

「おぅらぁっ!」

 雄叫びを上げてヤノシュに肉薄するコウイチ。その手に装着したメリケンサックが薄紅く発光し、周囲から粒子を引き寄せ

るように紅光の三角を形成しつつ、それを前方へ伸ばす。

 それは、インドの刀剣ジャマダハルにも似た形状を成す、思念波をエネルギー刃に形成するレリックウェポン。要求される

思念波出力のレベルから、現行人類とは規格が合わないとされるそれを、コウイチは本人曰く「気合い」で御している。

 ヤノシュが大きく後方へ跳ぶ。その目前で、コウイチの拳と刃に接触した大気の障壁が融解消失した。術の壁を容易く破壊

するそのエネルギー刃は、鉄骨すら溶断できる凶悪な武器ではあるのだが、その最大の機能的特長は単純な破壊力という点に

はない。

 コウイチが用いているのは術士特効とも言われる類のレリック。思念波を取り込んで刃にするその鉄拳は、思念波を媒介に

する能力の類と接触した瞬間、介入して掻き乱すのみならず、その思念波を自らの力に変換する。つまり、障壁の強固さや種

類に関わらず、術で作られている以上は問答無用で破壊できる。

 希少である上に使用できる者が少ないので、研究もろくに進んでいないこの手のレリックについて、しかしヤノシュは熟知

している。故に、知らないまま遭遇して屠られる術士のような愚は犯さない。強引に反撃せず、距離を取る事に専念する。何

せ、術士相手に肉弾戦を挑むコウイチの後方から、この戦況に持ち込ませた男が自分に狙いを定めたままなのだから。

 ノリフサが発砲する。冷たい無表情で、鋭くヤノシュを見つめて。弾丸の軌道はコウイチが振るった豪快なフックの後ろ、

拳が抜けた後から追撃となる。

 障壁を乱された所へ飛び込むただの鉛玉は、肉体的には常人と変わらない術士にとって脅威となる。直接的な脅威であるコ

ウイチのジャマダハルと同レベルで、ノリフサの射撃は厄介だった。

 黒伏直系の血が濃い者は、低確率だがある特殊な異能を持って生まれる。ノリフサは正にその能力の持ち主だった。

 その能力は、「近未来の並行観測」。具体的には、ノリフサはこれから自分が実行しようとする事柄が、一瞬後にどんな結

果になるかを知る事ができる。

 ただし、ノリフサのソレは実際に完全な未来を観測できる訳ではなく、正しくは「高精度の未来予測」に過ぎない。かつて

の黒伏には本当に未来を知覚できた者もあったようだが、彼自身の観測は材料となる情報が必要な上に、認識外の要素が混入

する事で予測が狂う。既に旧式世代の拳銃をあえて使用するのは、癖が無く信頼性が高い点を買っての事。下手に多機能にな

ると把握できない不確定要素が増えるため、ストイックな軍用拳銃こそノリフサの能力と相性が良い。

 だが、そんな制約や限界を加味してもなお、思考も計算も必要なく、直感的に「結果のヴィジョン」を感覚で捉えられるノ

リフサの能力は極めて強力である。意識を能力の制御に割かれず、五感の延長として未来を感じるこの力は、特にこういった

修羅場で真価を発揮する。

 ノリフサが一度に観測できるのは六通り、最長で1.2秒後の未来。拳銃での射撃に限って例を挙げるなら、六ヶ所それぞ

れを狙った場合の1.2秒後の結末を感覚で把握できる。

 故にヤノシュは、ノリフサが六手観測した中から選んだ最前の手を、常に突き付けられ続ける。

(相変わらず面倒な…!)

 ヤノシュの眼前で風の壁が殴り砕かれ、術の基礎構造とも言える思念波の回路が断ち切られる。

 ボクシングスタイルで追い込んでくるコウイチはただの人間のはずだが、第三種程度の危険生物とステゴロで互角の勝負が

できるレベルの腕。戦士でも兵士でもない、天性の勘と才覚に恵まれた「希代の喧嘩屋」である。そんな男を相手に、反射神

経と機敏さで回避に専念しながら、ヤノシュは忸怩たる思いを噛み締めた。

 三年前もそうだった。確保できた品を依頼主に届ける途中でこのふたりと出くわした。荷物は諦めなければならなくなった

が、あの時は容易に隙を突ける相手が居た。

 コウイチと似た顔のふたり。明らかに足手纏いにしかなっていない、有象無象を束ねて無能な指示を出すだけの二名。あれ

らに任された包囲点を突破するのは容易かったが、今度は最初からふたりだけで、隙が無い。しかし…。

(…よし。このビルはほぼ無人だな)

 数秒の防戦を経て、ヤノシュは確認を済ませた。

 前面に展開された術は砕かれるが、密かに後方へ術を展開していた。それは、触手のように伸びた空気の蔓。これが換気口

などからビル内に侵入し、内部にひとが居ないかどうかの探索を終えている。

 直後、コウイチは踏み締めた床の振動を感知し、「ノリフサ!」と叫んで警告する。同時にノリフサも気付き、何かを悟っ

た様子で、端正な顔を悔しさに歪ませる。

 コウイチが後方に素早くバックステップした瞬間、床にビシリと長い亀裂が走った。ヤノシュはビル内に伸ばした空気の触

手の成分を変え、支柱となる箇所で連続爆破させていた。

 トントンッと、大柄な体躯に見合わない敏捷性で跳び退くコウイチ。ひび割れは見る間に広がって、床が崩落し始めるもの

の、ノリフサが並行観測によって崩れない場所を確認し、「こっちへ!」とコウイチを誘導する。

 屋上の半分以上が崩落して轟音が響いたが、しかし道行く人々は誰も慌てない。ビルの前に立った若い女性の能力により音

が遮断されているため、騒ぎになっていない。

 穴だらけになった屋上の、ノリフサが見抜いた安全な箇所へコウイチが避難するなり、ヤノシュは宙を踏んで浮遊しながら

ふたりを見下ろした。

「…やられたかよ」

「ええ…」

 言い交わすふたりを尻目に、実を翻したヤノシュは隣の高いビルの上へ飛翔し、姿を消した。

 ヤノシュは必要でない限り巻き添えを出さない。だからこそふたりは日中に、民間人がそこそこ多い場所を選んで仕掛けた。

実際のところ、ヤノシュは広域を巻き込む爆発を伴うような術を撃てず、火力で押し返すという選択ができなかった。

 だが、このビルを選んだのもヤノシュである。おそらく、ビル内にはひとが居ないか少ないと計算しての事だったのだろう

と、ノリフサは考える。

(ひとが居なくて助かるのは、ぼくらも同じだが…)

 巻き添えで犠牲を出す覚悟があれば、ヤノシュを捕らえる事もできたかもしれない。そう自分を責めるノリフサに、

「ま、次があらぁな」

 ポンと肩を叩いて、コウイチは従兄弟を励ます。

「エミちゃんも待たせてる。今日のところは引き上げるとしようや」

「…はい…」

 崩れた屋上を後に、ふたりは連れ立って階段に戻る。

 ふたりが…特にノリフサがヤノシュを足掛かりにして居場所を突き止めようとしている相手は、かつて黒武士会の最高幹部

のひとりだった男。そして、黒武士会を抜けて他の組織に入った男。

 現総帥の兄であり、コウイチにとっては伯父であり、ノリフサにとっては実の父…。

 非合法組織でありながら、裏の社会を管理し、カタギとの住み分けと秩序の維持を守る黒武士会。そこから離脱したその男

は、黒武士会から見ても非常に危険な組織…エルダーバスティオンに幹部待遇で迎えられた。黒武士会から持ち出した、様々

な品や技術、知識を手土産にして。

 その男を、自らの父を、自分の手で始末する…。それが、優男に見えるノリフサが観測したい結末。

 父が離反したにも関わらず自分を重用してくれて、世話をしてくれた現総帥には、例え腐った男だとしても、「兄殺し」な

どさせたくない…。そんな思いから自らの手を汚す事を決めたノリフサに、コウイチは協力を惜しまない。苦労人の従兄弟に

「父殺し」などさせたくない、と…。

「とりあえず、あの術士が動いてるって事は間違いなく伯父貴繋がりなんだろう?このまま首都から出て行かねぇ限り、チャ

ンスはあるんじゃねぇのかい」

「そうですね。可能な限り追ってみましょう」

 無事だった階段を駆け下り、ビルの外に出たふたりは、そこでピタリと足を止める。

「ノリフサ様…」

 若い女性の困りきったような顔と声。その後ろには、コウイチよりもなお大柄な男が立っている。

「よう。朝から精が出るじゃねぇか」

 腕組みしている大男がニヤリと笑った。

 筋肉の塊のような体躯。身を覆う被毛は白く、そこに黒い縞模様が走っている。

 その大男は、白虎の獣人だった。

「何か用かよダウド」

 露骨に面倒臭そうな表情になるコウイチ。ノリフサは少し困った様子で眉を顰めている。

「なぁに、居候ってのも肩身が狭くてな。たまには役に立つってトコも見せなきゃならねぇ訳だ。…あの婆さんに」

「そりゃあ大変だな。だが他所でやってくれや」

「つれねぇ事言うなって。俺とお前の仲だろ?」

「仲は良くねぇなぁ。俺の気のせいでなけりゃ」

「それはきっとたぶん気のせいだろコウイチ?」

「よし!帰るかノリフサ!どっかで朝飯だ朝飯」

「で、妖怪爺の手がかりは見つかったのかよ?」

 無視して帰ろうとしたコウイチは、白虎の発言で目付きを鋭くした。

「…やっぱりかよ…」

 白虎が唸る。

「…何でそう思った?」

 コウイチの問いに、白虎は頭をガシガシ掻きながら応じた。

「婆さんが思念波を感知した。ヤノシュって、あの術士の思念波をな。すぐに潜伏されちまったが、首都に入った事だけは間

違いねぇ」

「良いかダウド?」

 コウイチは厳しい顔つきで白虎を睨んだ。

「こいつは身内がカタぁつけなきゃならねぇ問題だ。しゃしゃり出て来んじゃねぇ」

 白虎は真面目な顔になってコウイチを睨み返す。

「カタがつくならそうするがな。野放しのままってのはこっちも気が気じゃねぇって言ってんだよ」

「ああ?何だと?居候のドラ猫が他所の家の心配だと?笑わせんじゃねぇやい」

 空気がピリピリと緊張する中、次に口を開いたのは…。

「とりあえず、場所を変えましょう」

 掴み合いになりそうな形相の大男ふたりの間に、恐れる様子もなくノリフサが割って入る。

「ここで言い合っては目立ちます。それに、朝食にするんでしょうコウイチさん?」

「む…」

「ダウドさん、朝食はまだですか?」

「ん?ああ、まだだが…?」

「それなら丁度いい」

 ノリフサが目を細めて微笑する。

「情報交換がてら、食事を御一緒しましょう」

 煙に巻かれた面相で、大男ふたりが視線を交わす。が、結局のところノリフサの建設的な意見には、中身の無い感情論でし

か反対できそうになかったので、双方大人しく矛を収めた。

「エミリ、個室が取れる店を調べてくれるかな?」

「はい、ただちに」

 御付きの女性に指示しながら、ノリフサは先に立って歩き出し、コウイチも白虎も不承不承これに従う。

 傍目からはどうにもコミカルに見えるが、この場で主導権を握っているのは、声が大きい大男ふたりではなく、穏やかな優

男だった。




「報告は受けた。乗った船がまずかったと言わざるをえない所だな」

 分厚い扉を背に頭を下げていたヤノシュは、挨拶も抜きにかけられた第一声で微苦笑する。

 追跡者が無い事を確認した上で、都内のビジネスビルに入った術士は、ボディチェックを受けて簡易報告を済ませた上で、

この部屋に通されている。検問を設けているとはいえ、護衛も抜きに一対一で直接会うのは、ヤノシュへの信用を雇用者が態

度で示した物。

 積荷の運搬は船側の仕事。足として利用する格好でたまたま同乗していたヤノシュには、積荷を奪われた責はない。声の主

はそう言外に告げている。

 顔を上げたヤノシュの目に入ったのは、一般人が気後れしそうなほど豪奢に整えられた応接間の内装と調度類、そして黒革

張りのソファーセット。その応接セットにはひとりの老人がついている。

 理知的な、しかし冷たい光を宿した、冷厳な瞳の老人だった。六十前後と見えるが、老いを印象付けるのは肌に刻まれた皺

や白くなった毛髪と髭など、外見のみ。声にも眼光にも生気が満ち、背筋も伸びて姿勢は若々しい。

 テーブルの上にはミネラルウォーターの瓶が二つ。どちらを取っても良いように同じ物で、封がされたまま。これは水以外

の物をひと前で殆ど口にしないヤノシュの性質を酌んでの物であり、毒を盛っていないという意思表示でもある。

 老人と向き合ってソファーに腰を下ろしたヤノシュは、瓶を片方取る。老人は残った方を取り、先に封を開けて口をつけて

見せた。

 その間にヤノシュは、瓶の他にテーブルにあった品物を見遣った。

 箱に収められ、敷き詰められた柔らかい布の上に置かれているそれは仮面である。それも、日本の祭りなどで見る狐の面。

表面には細かな傷がいくらか見られ、右の耳先が僅かに削れている。使用感はあるが、壊れているとは感じない。

(見事な造りだ。半永久的な耐精神汚染防御が、紋様で付与されているのか。ニーベルンゲンが用いると噂に聞いた、ルーン

文字の術式にも通じる物がある…)

 それはただの装飾品ではなく、最先端技術と秘匿事項該当技術が融合した、擬似レリックとも呼べる代物。紋様による術的

防御機能と、各種センサー類による着用者の感覚補助、他にも様々な機能が搭載してあるだろうとヤノシュは看破した。

 術士があつらえた物にしては近代的。しかし現代の技術者では、秘匿技術をここまで溶かし込んだ完成度に漕ぎ付けるのは

難しい。一体どんな素性の者が作ったのかと、興味をそそられた。

「かつてフィンブルヴェトで開発された、試作品の一つだ」

 老人の発言で品の由来を知り、単純に感心するヤノシュ。

「…よく手に入るものですね」

「当然、苦労はしたとも」

 ヤノシュは敬語で話してはいるが老人との関係は主従ではない。契約における雇用主である。つまり契約が切れれば他人な

のだが、老人とは既に五年以上継続して契約を更新しているので、他の仕事のような一時の商売相手という関係ではなくなっ

てきている。そんな微妙な距離感がふたりの間にはあった。

 かつて存在し、そして公的には存在が抹消された国際機関、フィンブルヴェト。これが先進国政府連合軍によって武力解体

されるにあたり、保有していた人員、物品、技術、知識、そしてあらゆるデータは、先進国政府連合管轄下で封印、あるいは

処分されたはずである。その残存物は簡単に流出する物ではない。

「とはいえ、この面は「ある目的」に特化している。扱う者が居なければただの仮装用品だ」

 老人の説明を、ヤノシュはすんなり受け入れた。この品は術具と同じように扱うには適正が求められる。適合して使用でき

る専門家が居なければ、役に立たないと理解できた。

「その面の完成版…正規量産品を所持する一派についての情報も得られた」

 老人が僅かに目を細める。日程を再確認する面持ちで。

「今週末からしばらく、中東旅行に付き合って貰いたいのだが、頼めるかな?」

 ヤノシュが仮面に向ける視線を確認しながら、老人は口を開く。

「また急な話ですが、理由は?」

「「中東の虫使い」…知っているかね?」

「記憶が確かなら、レリックヒューマンの類でしたか」

 頷きながら返答したヤノシュに、「いかにも」と老人は続ける。

「フィンブルヴェトの技術開発に協力していた一派が、先進国政府連合軍の隠滅作戦対象となっている。いかに勇壮な一族と

て多勢に無勢、土地を汚され水も飲めず物も食えずでは、滅ぶ以外に道は無いが…」

「抱き込む、とおっしゃる」

「そういう事だ」

 老人は結論を先取りしたヤノシュに応じ、卓上の仮面を見遣った。

「境遇につけこみ恩を売るのは、人心掌握の手管でも基本中の基本。麾下に加えるに相応しい面子となれば、出資を惜しむべ

きではない。金も、ひともだ」

 支援の為の物資類は出し惜しみしない…それが金。そして、同じく惜しまない「ひと」とはつまり、老人が自ら出向くとい

う事を意味している。危険は当然ある。そのための護衛として老人はヤノシュを招請していた。

(とはいえ、だ)

 老人が口にするのは事実。そこには善意ではなく打算がある。これまでの所業やこれからの目的を考えても、間違いなく悪

党と言うべき人物。

 しかし、老人は決して契約を破らない。計算と利害の上で成り立った関係であろうと、交わした約束は必ず守る。おそらく

は、そういったスタンスも含めて人心掌握の手段なのだろうが、それでもその姿勢は美点と見える。

 だから、老人に忠誠を誓う者は多い。この「要塞」と渾名される歴史ある組織において新参でありながら、老人の勢力は拡

大を続け、発言権は増している。そう遠くない内に最高幹部にもなれるだろうと、ヤノシュは直感している。

 黒伏法越(くろぶしほうえつ)。それが老人の名。

 影より濃い、闇より濃い、黒の真奥に潜む者。

 黒武士会現総帥の兄にして、黒武士を見限り、要塞に与した男。

「報告をもう一つ。来る途中でまた貴方の息子に追われました。傷一つ付けていません」

 ヤノシュの言葉で、老人の目が微かにギラついた。

「元気そうだったかね?」

「それはもう」

 老人の発言が、言葉通りに息子を案じている訳ではない事を、ヤノシュは知っていた。

 今はまだ使用できない有用な素材として、老人は自分の息子に目をつけている。この素材を活用できる手段を見つけ出すた

めに、この老人は様々な流派の術士や術具を調べている。その望みが叶う時が来たならば、老人は、「老人」ではなくなるの

だろう。




 目をあけたヤクモは、数度瞬きした。

 天井が見える。そして、首が熱い。

「起きたのヤクモ?私が判りますか?」

 神代の屋敷、ヤクモの自室。顔を覗きこんだのは神代婦人。

 ヤクモは目の焦点をトナミの顔に合わせ、声を発しようとして…。

「あ!声は出さないように!」

 激痛で顔を顰めるヤクモ。トナミは少年の首からずれた氷嚢を元の位置に直す。

 喉仏を損傷したヤクモは首全体が腫れ上がって、マフラーを巻いたように太くなっている。ほんの少し頭の角度を変えるだ

けでも耳の後ろまで痛む有様だった。

 痛み止めの錠剤だと、婦人が薬を口に含ませて、水差しの口を咥えさせる。

「痛むでしょうけど、ゆっくり飲み下して…」

 言われるがまま、喉の痛みに耐えながら薬と水を飲み下す。

「今ユウキ様を呼びますから、そのままじっとしているように…。首を起こしてはいけませんよ?」

 素直に言葉に従ったヤクモは、部屋にひとり残されてしばらく待った。

 御役目から丸一昼夜。手当てを受け、薬が効いている間は気を失うように眠っていたが、鎮痛剤の効果が弱まってきたのか、

首の鈍痛と苦しさで目が覚めたらしい。

 やがて…。

「ヤクモ…」

 襖を開け、のっそりと姿を見せた神代の当主は、傷に響いてはいけないと声を抑えていた。

「具合はどうじゃ?痛むか?いや、答えんでいいからな。じっとしとるんじゃぞ」

 熊親父の手は、労わるように少年の頭に添えられる。

 ユウキにとってのヤクモは、配下である御庭番のひとりであると同時に、家に引き取って息子と一緒に育てた子…縁組こそ

していないが半分養子のような物である。

 加えて、我を失った息子がその手で傷付けた事もあり、悔やむ気持ちと申し訳なさが胸を締め付けている。

「喉が癒えるまで普通ならしばらくかかるそうじゃが、幸い薬師神が仙大まで来る予定じゃった。もう少しの辛抱じゃからな」

 労わるユウキだったが、これは嘘だった。薬師神の出向予定などなく、来てくれるよう当主に頼み込んで約束を取り付けて

いる。自分のためにユウキが薬師神の当主を動かしたと知ればヤクモが気にするのは目に見えていた。それに、自然回復を待

つには、ヤクモの喉の損傷は酷過ぎた。医師の見立てでは声を出せなくなる可能性もあるため、無理を言って呼ぶ事を決めた。

「済まんなぁ、ヤクモ…」

 ユウキは耳を倒して首を縮め、叱られた子供のような表情で秋田犬に詫びた。

「ユウヒは悪気があってやった訳じゃあなかったんじゃ。勿論未熟さは否めんが、あれは神卸しを御し切れなかった暴走じゃ」

 やはり、とヤクモは納得する。秘術中の秘術である神卸しは、制御が困難であるという話は知っていた。失敗すれば獣性に

飲まれて暴走に至るとも…。あの時ユウヒから感じた悪寒や恐怖は、暴走状態に陥って「危険なモノ」になった事を、自分の

生物としての本能が感知したのだろうと理解した。

 これについて、確かに怖い思いはしたし、今も苦しくて辛いが、ユウヒを恨む気にはならなかった。むしろ、若き主君が今

度の件で落ち込んでいるのではないかと心配になる。ユウキだけが会いに来たのも、自分が顔を見せると傷に障るのではない

かとユウヒが気を使ったのだろうと察せられた。

 気になるのは、ユウヒが完全体得に至っていない神卸しを使用するほどだった、あの火のような髪の術士の事。

 因縁浅からぬ様子だったが、御役目には常々一緒に出ていたヤクモはあの男の事を知らない。しかもあの術士は、ヤクモと

親しかった者の名を口にしていた。

「………」

 声を出せないまま、ヤクモはユウキに目を向け、何かを訴えるように口を動かした。

「何じゃ?何か言いたい事があるのか?今は無理せん方が…」

 キ・リ・グ・モ。

 ヤクモの口の動きから察したユウキは、目を軽く見開いて口を閉じる。

「…キリグモの…、あ奴の事か…」

 苦労して頷いたヤクモに、ユウキは軽く首を振って応じた。

「そうじゃな。あの術士の事もある、そろそろヤクモにも事の子細を話すべきじゃろう」

 ヤノシュという術士が再び現れた。彼がキリグモの件に関係していた事をヤクモも知ったのだろう。ならばあの件の説明を

しなければならないだろうと、熊親父は腹を決める。正直な所、ずっと黙っておいても良いとは思っていたのだが…。

 ユウキは秋田犬の首から外れた氷嚢を乗せ直すと、「しかし、今は怪我を直すのが先決じゃ」と諭した。

「喉が治って喋れるようになったら話そう。それまでに儂の方でも、ユウヒから聞いて話を纏めておく。それでよいか?」

 ヤクモは少し苦労しながら顎を引き、ユウキはその頭を軽く撫でてやる。

「首はなるたけ動かさん方がええ。寝苦しかろうが今夜は我慢じゃ。ここに呼び鈴を置いていくからの?何かあったら遠慮せ

んで呼ぶんじゃぞ」

 当主が席を外すと、独りになったヤクモは天井を眺めながら考えた。

 ヤノシュという名の術士。彼が口にしたキリグモの名。

 以前何があったのか?ユウヒは知っているらしい事を何故自分は知らないのか?鎮痛剤の効きが悪くて、喉の痛みで眠れな

かったヤクモは、やがて落ち着かなくなって身を起こす。尿意はさほど無いのだが、厠に行ってスッキリしようと。

 気を遣わせては悪いからと、物音を立てないよう静かに部屋を出て、廊下を行く。足を忍ばせているのだが、その僅かな振

動だけでも喉に鈍痛が走る。

 苦労して用を足したヤクモは、喉の渇きを覚え、その帰り足で水を飲みに向かった。先程水差しから飲んだ時も痛みはあっ

たが、冷たい水の誘惑は耐え難かった。

 ふと、雨音に気が付く。喉が腫れ上がって鼓動が耳元で聞こえていたせいで、蒸しているのは雨のせいだと気付けなかった。

 体全体が熱をもっているのだろう、涼みたくて水が欲しいヤクモは、しばし雨音に向けていた意識を、別の音に向け直す。

 ボソボソと低く言い交わす声。片方はユウキで、もう片方は…。

(ユウヒ様だ…)

 部屋に顔を出しに来なかった若い主君。きっと自分を負傷させた事を気にしているだろうと、ヤクモは耳を伏せる。

(大丈夫ですって、平気ですって、言ってあげなくては…)

 父親に反省の弁を述べているのだろうかと、悪いと思いながらもヤクモは声の元へ足を向ける。

 居間でも客間でもない、普段は襖を開け放ってユウトを話している座敷から、当主と息子の声は聞こえてくる。

 耳をそばだてたヤクモが聞いたのは…。

「…ヤノシュはそん時、キリグモさんの傍さ居だ」

 ユウヒの声が襖越しに少年の耳に届く。

(やっぱり、キリグモ兄さんが死んだのは…、あの術士の…)

 郷の防衛で死んだというキリグモ。詳細は伏せられていたが、その最期はあの正体不明の術士によって殺されたという物…。

自分の予想は正しかったと、痛む喉で唾を飲んだヤクモの耳に届いた、ユウヒの次の言葉は…。

「「俺がキリグモさんを殺した」時…、ヤノシュは姿をくらました後だった」