第三十二話 「板前霧雲」
雨が降っている。強く。強く。
秋田犬の少年は走る。息を切らせて。
何処へ行こうともしていない。ただ、逃げたかった。ここに居たくなかった。
山を駆け下る。途中で何度も転げて方向感覚が狂い、もう村がどっちにあったのかも判らない。
失望。恐怖。混乱。信じていた物が全て足元から崩れ落ち、開いた穴に落ちて行くような失意。
木の根に足を取られ、ヤクモは激しく転倒した。
藪の中を転げ落ち、ぬかるんだ斜面を滑落するが…、
「っ!」
声帯が潰れているので声も出ない。天地も判らなくなるほど激しく回転し、肘や膝を何度も強く打つ。
それでも何とか踏ん張ろうと手足を突っ張ったのが災いした。滑落中に眼前に現れた太い枝で、庇い手も出せずに額を強打
したヤクモは、平衡感覚を失って斜面を何処までも転げ落ちてゆく。
水と泥と落ち葉にまみれ、長い滑落がやっと止まった所で…。
「う…」
雨が降り注ぐ真っ黒な夜空へ、朦朧としながら手を伸ばすヤクモ。
斜面を下った雨水が溜まる中に、ベシャリと腕が落ちた。
(ユウヒ様が…、キリグモ兄さんを…、殺した…)
意識を失ったヤクモに、止まない雨が降り注ぐ。枝にぶつけて割れた額から、雨水で薄まった血が筋を引いて顔を伝った。
「村中にはおらんか!くそっ!何処に行ったんじゃ!?」
屋敷の玄関で、自らも慌しく着替えながら、青筋を立ててユウヒが怒鳴る。トナミは心配顔で、フレイアに抱かれたユウト
はワンワンと大声を上げて泣いていた。
「姿は何処にも。下山する方向と、念のため河祖池や沢沿いにも皆を向かわせております」
跪いた山羊爺が手早く報告すると、ユウキは「頼む!」と返すなり、大股に雨の中へ出て行った。
ヤクモに真実を伏せてきたのには理由がある。だが、それを理解して貰うには一から話さなければならない。結論だけを、
真実の一部だけを知ったなら、ショックを受けるだけでは済まないだろう。
(不信を覚えるのも無理はないが…。ええい、間が悪い!)
「済みませんねフレイアさん。ちょっとユウトをお願いします」
襷を巻いて袖をたくし上げているトナミに、フレイアが頷く。
「勿論構わないけど…」
屋敷のただならない雰囲気を感じ取って泣いているユウトを抱いてあやしながら、フレイアは形の良い眉を八の字にした。
手伝いを申し出ようかとも思ったのだが、周辺の地理に明るい訳でもない。野外活動に慣れているとはいえ、夜中雨中のひと
探しで御庭番達の助けにはなれないだろう、と。
フレイアにユウトを託すと、トナミは和傘をさして玄関を出る。御庭番達とは違うアプローチで、よくヤクモも同行してい
た散歩道を中心に探してみるつもりである。
ヤクモが姿を消している事に気付いたのは、様子を見に行ったトナミだった。
布団はもぬけの空、作業用の工房にもおらず、屋敷の何処にも姿が無い。
思い当たる節があったのはユウキとユウヒ。もしやあの話を聞いていたのではないかと顔を見合わせ、息子の方はすぐさま
屋敷を飛び出している。
(滑り跡…!)
逞しい片腕で斜面から顔を覗かせる岩を掴み、傾斜90度はあろうかという斜面を見下ろした赤銅色の熊は、雨が滝のよう
に流れ落ちる中に抉れ跡を見つけた。
踏み締めたそこが崩れて削れた、そんな痕跡…。
(ヤクモ!何処だ!?)
滑った跡を辿り、ユウヒは崖に近い斜面を滑り降りる。曇天の暗黒、木々の緑も黒く見える土砂降りの真夜中、赤銅色の熊
は必死になって痕跡を辿る。
うかつだったと、己の言動を悔いながら。
激しい雨のせいで匂いもろくに無い。真っ暗な中で地面の痕跡を頼りにヤクモを探す。ユウヒの常人場離れした視力があっ
て可能になる追跡だが、悪天候のせいで普段通りには行かない。
馴染んだ山が行く手を阻む探索行の最中、ユウヒはおもむろに足を止めた。
行く手で木々が唐突に消え、開けた場所になっている。50メートル四方に渡って高い木が一本も生えておらず、草が生い
茂ったなだらかな斜面。よく見ればその周辺でも木の密度が低く、半ばから折れた木や、太い枝が無くなっている木も散見さ
れる。
かつて何があった場所なのか、ユウヒはすぐに思い出した。
…三年前。
虎縞を帯びる秋田犬の若者は、当主達と共に御役目から戻ったその足で工房に入った。
「お帰りなさい!キリグモ兄さん!」
戸を開ける音で気付いていたヤクモは、作業用の和室の入り口で待っていた。
「ただいま。続けていたんだな?」
目を細めて微笑んだキリグモは、少年の頭を撫でてやりながら作業卓を見る。丁寧に文字を書き込んだ、完成すれば巻物に
なる帯のような紙は、まだ墨が乾いていない。見れば数本、似たような状態で乾かしてある紙が床に広げてある。
「はい!頑張っていました!」
「結構。…そろそろ休憩を入れても良いんじゃないか?俺も一息つきたいところだし…」
「はい!お茶を用意します!お菓子も!」
尻尾を振りながら出てゆくヤクモの背を見送る。そのキリグモの、寂しそうで哀しげな暗い目を、誰も見てはいなかった。
そしてこれが、ヤクモとキリグモが顔をあわせる最後の機会となった。
「ヤクモ。皆けって来たど」
ジャージ姿の赤銅色の熊が、庭を横切る秋田犬を見つけて声をかけた。修練を切り上げた所なのだろう、首にかけたタオル
で汗だくの顔を拭いながら。
「誰も欠げねぇで揃ってる」
「良かったです!キリグモ兄さんも元気そうでした」
そうか、もう会ったのか、と耳を立てるユウヒ。
「巻物の仕上げの前に出来を見て貰えます」
「いがったな。…茶が?」
ヤクモが持つお盆に目を向けたユウヒは、「ご一緒にどうですか?」と訊かれて顎を引く。御役目の土産話を聞きながら休
憩するのも良いだろう、と。
連れ立って工房に向かった少年達だったが…。
「あれ?ここでお茶をする訳じゃなかったのかな…」
無人の工房で、ヤクモは首を傾げた。
戸は開け放たれたまま施錠もされていない。戻る事を見越していたようなので、少し席を外しただけだと思ったヤクモは茶
の支度を進める。ユウヒはキリグモがその辺りに居るのだろうと考え、あまり入らない工房の中をうろつく。
間取りは理解している。作業する部屋に休憩にも使う部屋、そして様々な品が納められた奥の…。
「!」
ユウヒはその部屋で耳を立てる。
様々な術具や貴重な材料、そして資料が収められた金庫。その扉が開いている。
少年が無言で見つめる金庫の中からは、巻物が数本と、板前家が代々継いできた研究資料、そして管理を任されていた「重
要資料」が消えていた。
葛籠を背負い、秋田犬の青年は坂道を下る。道と言っても目で見えるような物ではなく、茂った草の葉の下で、僅かに土が
顔を覗かせているに過ぎない獣道。
術具や資料を収めた籠を揺らし、山を下るキリグモの足は速い。にも関わらず、足音も草擦れの音もさせていない。
隠密の術で気配を消し、急ぐキリグモは、やがて河祖下村から徒歩一時間ほどの位置…傾斜がなだらかになった山の斜面で
足を止めた。
「ヤノシュ。居るか?」
低く抑えた声。無人に思えるが…。
「早かったな。深夜まで待つかと思っていた」
そこに、声を発するまで全く目を引かなかった、存在感が希薄だった何かが居た。
視線除けを解いて存在を明らかにしたのは、フードを目深に被ったローブ姿の男。フードの奥に見える毛髪は火のような赤
さだった。
「帰還した直後の方が、気が緩んでいて遣り易い。何より…、御当主は我々の事を信頼している」
自嘲するようなキリグモの言葉で、ローブの男は軽く眉を上げたものの、結局何も言わなかった。
「殉職者が出ない限り、労いの宴が開かれる夜までは帰還した御庭番をゆっくり休ませるのが常だ。狙い易い隙はその間だっ
たという事さ」
虎縞模様の秋田犬は背負っていた籠を足元に下ろし、蓋を開ける。中には巻物や和綴じの書物が詰め込まれているが、術具
ではない書物も特別な品。それらは、この帝直轄奥羽領の守備体制や協力者情報、そして神代家と御庭番が対処してきた数百
年分に及ぶ御役目の詳細などが、圧縮されて収められている。
「ご注文の、板前家伝来の固有術関連書、神代家御庭番の情報を網羅した書物、及び直轄領内の要注意地点を記した図面だ。
術関連書があれば問題ないだろうから、術具の実物は珍しい物だけ持ち出した。…こういった品だけな」
ヤクモが巻物を一本差し出すと、受け取って開いたヤノシュは興味深そうに目を細める。自分と相性が良い形式の術、燃焼
と延焼を主眼に置いた、ナパームのような作用が見込める術を記した巻物だった。
「そしてこれが図面…」
丸めた紙の筒をヤノシュに手渡したキリグモは、言葉を切って耳を立てる。ヤノシュも何かを感じたようで、素早く首を巡
らせる。そのフードが背中側に落ちた瞬間、ザッ…、と、頭上の木が枝葉を鳴らした。
上空22メートル。杉の古木の天辺付近を足場に、反射する球のような軌道で宙を駆けてきたソレは、ふたりの姿を認める
なり降下軌道に入った。
ズシン。地面を震わせ、しかし体勢を崩す事も無く着地したのは、2メートルを軽く越える巨躯の若い熊。
嫌な予感がしたので、ヤクモには何も告げずに村を出て来たユウヒは、その異常なほど鋭い五感を駆使してキリグモの痕跡
を追ってきた。
だが、追い付いたところで困惑し、緊張を強いられる。
素性は判らない。だが、キリグモと一緒に居るのは…。
(術士!それも…)
ユウヒの瞳には色濃い警戒と緊張。視線はヤノシュと、彼が抱える石版に向いている。
海外で普及している石版型の術具…一般的にグリモアと呼ばれるタイプ。しかし通常は手帳サイズから文庫本サイズの石版
のはずが、男が所持しているグリモアは国語辞書ほどもある。
術士が扱えるグリモアのサイズは技量に比例するというのが通説。ならばこの男は…。
「エナジーコートを使う大熊。さては…、ウォーマイスターの血族か」
まずい相手に見つかったと、ヤノシュは顔を顰める。キリグモから受け取った品を籠に戻す動作すら隙になるため、そのま
まローブの中にたくし込みつつ臨戦態勢に入っている。
場数を踏んでいる。経験が豊富、術の腕が良い、そういった範疇に留まらず、赤い髪の術士が「優れた戦士」である事を、
ユウヒは肌身で感じ取っている。御庭番の腕利き達と同類…否、おそらく山羊爺や虎爺、犬沢の家長よりも上の手練…。
「キリグモさん…。何してだ?ソイヅは誰だ?」
ヤノシュから目を離さないまま、ユウヒは問う。その声音を聞いて、赤髪の術士は目の前の巨熊がまだ少年である事に気付
いた。が…。
(いや、子供だろうとウォーマイスターの血族だ。戦う者と見なす)
「ヤノシュ…」
何か言いかけたキリグモだったが、術士に見つめ返されて口を閉じる。
「手を出さないという契約は、「秋田犬の子供」だけだったな?」
ヤノシュの確認は、排除しても文句はないなという確認でもあった。
キリグモはユウヒを見やるが、そのまま黙して答えなかった。その逡巡が感じられる沈黙を、ヤノシュは肯定と受け取る。
ヤノシュの手がグリモアに触れる。即座に開放された術は、足元を這う雷撃だった。即死するほどの電圧ではないが、細か
な範囲指定が利く雷撃。ヤノシュを中心に扇状に広がったソレは、しかしキリグモは勿論、感電して焦げれば目立ってしまう
立木も避けて地を這う。動けなくして止めを刺す、確実性を求めた一手。
問答無用の口封じに、しかしユウヒは驚く事も慌てる事もない。全身を燐光が覆う。
実戦経験が無いはずの少年は、先天的に戦士だった。始祖の血が色濃く出た先祖返り。兵器に近しい古種の獣人。エナジー
コート能力者としても破格の高出力が形成する力場は、足元を襲った雷撃に反応し、薪が火の中で爆ぜるような音を立ててこ
れを打ち消す。
(敵だ)
ユウヒの思考を占めたのは、たったそれだけ。キリグモの状況も思惑も判らないが、素性の知れないヤノシュが敵である事
だけは察した。
即座に両拳が燐光を厚くする。軽く腰と膝を屈めるや否や、ユウヒの巨体は爆発的な加速で前へ。纏った力場と、足元に発
生させた力場の反発を活用した跳躍。角度を間違えればあらぬ方向に吹き飛んでしまうソレを、ユウヒは完璧にコントロール
する。
瞬き一つの間に2メートルを優々越える巨熊が眼前に迫っても、ヤノシュは動じない。突撃を仕掛けたユウヒが掴みかかる
ように伸ばした手は、鐘が鳴るような重々しい音を立てて宙で止まり、次いで巨体は硬い不可視の壁に激突する。
雷撃を防がれた瞬間に、ヤノシュは次の術に移り、大気を圧縮したシールドを前面に展開していた。全方位ではなく前だけ
に集中した障壁は強固で、ユウヒは自ら硬い壁に突っ込む格好になっている。
が、その衝撃も何のその、弾かれたそこですぐさま踏ん張ったユウヒは、左拳を大きく引く。
「散華衝!」
拳が纏うのは多重構造の力場。命中と同時に連続崩壊したその衝撃と熱量を持って、ユウヒの腕は障壁の7割近くを一撃で
掘り抉る。
二撃目は右。同じく多重の力場を纏った右拳が命中すれば、今度こそ障壁を貫通して、余剰エネルギーがヤノシュを襲う所
だが…。
「遅い!おいそれと付け込む隙があると思うな!」
指導者のような叱責を発したヤノシュの前で、損壊しかかった障壁が、外周側から折り畳まれるように変形する。その縁は
刃物のように鋭い。腕を捕らえて食い千切る形状へのシフト、柔硬自在の盾であり罠。
ユウヒは素早く反応して腕を引き、多重展開させた力場を即座に開放した。
至近距離での爆発がユウヒを後方に弾き飛ばすが、ヤノシュのシールドはそれを囲い込む格好になって内側から爆砕される。
術士は爆発にも怯まず、纏った風のヴェールで熱と衝撃を受け流す。厚で後方に飛ばされるも、無傷である。
小型爆弾が破裂したに等しいその威力を、それぞれ術と力場で受け流した両者は、熱で揺らぐ空気を挟んで同時に接近した。
(子供とはいえウォーマイスターの血か、侮らなくて正解だった!)
ヤノシュの右腕には、ランスの如く尖らせて生成した2メートルほどの光柱。プラズマの槍。
(真祖の術士…、これ程のモンが!)
ユウヒの左腕を覆うのは眩いほど発光する力場。当たれば蒸散を免れない高密度エネルギー塊。
瞬き一つの間に距離を詰め、ユウキの拳とヤノシュの槍が接触した。
フードが捲れたヤノシュの瞳に、弾き散らされるプラズマの光が映る。
穂先に拳を合わせたユウヒの瞳に、崩壊してゆく力場の輝きが反射する。
拮抗しながら対消滅してゆく光から、やがて両者は同時に手を引き、跳び下がった。
(プラズマピラーが突き抜けられないだと…!)
ヤノシュの頬を冷や汗が伝う。
(全力の散華衝でも押し切れねぇ…!)
ユウヒの全身で被毛が逆立つ。
お互いを手加減できない強敵と認識し、改めて睨み合う両者。だが、双方が再び激突する前に…。
「荷物を」
静観していたキリグモが口を開いた。
「君の雇い主との契約は、品物を確保する事…」
葛篭を地面に下ろしたままの秋田犬は、目線を寄越したヤノシュに繰り返す。
「荷物を。君が届ける契約だったろう?」
「………」
納得はしていないのだろうヤノシュは、しかし反論せずに押し黙ると、ユウヒを意識しながらも秋田犬に歩み寄り、足元に
降ろされた籠に視線を下ろす。
「…迎えの時間は忘れていないな?」
「勿論だとも」
短いやりとりを挟み、ヤノシュが籠に手を伸ばす。同時にユウヒが拳を引き、力場を展開、圧縮する。
「雷音破!」
ユウヒが正拳突きの動作で放った光弾は、独自に改良した力場の三重構造。高密度の強靭な外殻が接触物へ食い込み、その
後に内側の二層が衝撃に反応して起爆する、いわばミサイルのような一発。
障壁を意識したその一撃は、しかしヤノシュに到達できない。術士から10メートル以上も手前で炸裂し、その崩壊熱と衝
撃は天を衝くように垂直に駆け抜ける。
柱状の吹き抜け構造になった強固な障壁。自分の技を防いだ者が誰なのか、この時点でユウヒは理解した。
白光が天へ駆け抜け、眩く周囲を照らし終えたその時、ヤノシュは既に身を翻しつつ。立ち塞がるようにユウヒの前に立っ
たのは…。
「キリグモさん…、何でだ…!」
唸るユウヒ。気流操作による物だろう、木々の隙間を縫って高速移動するヤノシュの姿があっという間に遠ざかる。
キリグモは無言。ドスッと荒々しく一歩踏み出し、ユウヒは怒鳴った。
「金庫がらねぐなってだ三村の図面!あいづにゃ「河祖の御柱」の位置も書いであったな!?」
「………」
答えない秋田犬。河祖郡の、そして帝直轄奥羽領最大の秘密を外に持ち出したキリグモに、「答えろ!」と怒りをあらわに
する赤銅色の熊。
「何でこいな真似したんだ!?」
やがて、キリグモは静かに口を開いた。
「貴方には判らないだろう」
キリグモはユウヒを真っ直ぐに見つめ返す。面倒な事になったとは感じているが、主家の息子を見る目に憎悪は無い。むし
ろ、声にも眼差しにも哀れみすら宿っている。
「望まない役目を賜り、望まない戦いに身を投じる。そうする事が生まれながら定められている…。それがどれほど歪な事か、
貴方には判らないのだろう」
御庭番の家に生まれ、御役目を果たせる能力を持っていた者は、その生涯を御庭番として主家と帝、そして御役目に捧げる。
遥か昔から何十代にも渡り、そういう慣わしが続いてきた。
「我々は生まれながらの生贄だ。私も、貴方も、ヤクモも、御当主も、全ての御庭番も神将も、帝ですらも。…そしてきっと、
裏帝と逆神達すらも…。我々の仕組みは歪んでいる。自由も選択も無い先細りの未来に、子々孫々まで強制的に向かわせるこ
の仕組みは」
キリグモの言葉にも眉一つ動かさないユウヒだったが…、
「忘れてはいないだろう?ムラクモさんとタエさんの事は」
ヤクモの父母の名を出され、虚を突かれた様子で鼻白む。
「ああして死ぬ事が役目だったのか?子を残したのも、自分達と同じようにいつか死なせる役目を負わせるためだったのか?
我々はそうして役目を帯びて死ぬ命を後世に繋げ続けるのか?国という、全貌すら定かでない仕組みのために?国民という、
顔も知らない赤の他人のために?」
キリグモは、分別の無い子供相手に話してはいない。ユウヒが既に、家と役目については成人と変わらない精神性で向き合っ
ている事を理解した上で話している。主家にして未来を阻む者…神代の者として話している。
「我々神代の御庭番は、他家に仕える御庭番よりも質が高いと言われる。それは、神壊という「貴方がたの敵」が居るからだ。
天敵の存在で淘汰され、そういう者しか生き残れなかったからだ。神代に仕え続ける限り、私達には他家に仕える御庭番の数
倍の危険が付き纏う…」
生まれながらに生き方を定められるのは歪だ。最初から基本的な権利が制限されているような物だ。
「貴方には、判らないだろう。ただ生きたいと、死にたくないと、自由になりたいと願う者の気持ちなどは」
そんなキリグモの主張はしかし…、
「ああ、わがんねぇ」
ユウヒには「正しい事」とは思えなかった。
力を持って生まれたのは、果たすべき役目があるから。その役目を放棄する事は、自己という存在の否定に等しい。
己が身は、御役目を果たすための牙であり爪である。
父がそう教えたからではない。母がそう育てたからではない。生まれ育つその過程で、ユウヒは自らをそのように定義した。
御役目を、果たして果たして、いつか死ぬ。その在り方にも生き方にも疑問は一切無い。
父が言う、牙を持たない人々のためという言葉の意味は、正直まだ判らない。顔も知らない国民に尽くせないというキリグ
モの主張に、何も感じない訳ではない。だが…。
神将家の跡取りとして、御役目を担う者として、完璧と言えるユウヒはしかし、間違いなく「異常者」だった。
それは、自己洗脳に等しいレベルで醸成された観念。寛容さが一切無い、一つの結論に依存する価値観。生真面目さと料簡
の狭さで、かくあるべしと己を固めきった存在…。
「俺にわがんのは、あんだがもう敵だってごどだげだ」
理由は聞いた。もはや語る事はない。話を切り上げたユウヒの巨躯が、被毛を静かに逆立てる。
「判り合えないとは、思っていた」
憐憫すらこめてキリグモは巻物を広げる。彼の目には、ユウヒこそがこの歪みの最大の犠牲者に見える。ひとが本来生まれ
持つはずの無限の選択肢と可能性を放棄し、それを良しとする価値観で凝り固まった少年は、自由な生き方を知る機会が無い
まま歪みに縛られた存在だ、と…。
「では」
キリグモが巻物を取り出し、展開に備え…。
「さらば」
ユウヒはハッと目を見開いた。
キリグモが行なおうとしているのは、彼ら一門の正式な術の起動。しかし、先の障壁は巻物を展開していなかった。では、
どうやって?そして、今度は何故巻物を展開しようと…。
疑問と困惑から一瞬だけ、ユウヒの反応が遅れた。直後、周囲の大気が強固な壁に変じ、赤銅色の熊を閉じ込めた。
キリグモの左手の中には小さな石版…西洋式の術具、グリモアが握られていた。これが先の術を発動させた術具。自身の得
意技を封入し直した品。そして秋田犬は、遅れて展開させた巻物に石版を掴む手を重ねる。
起動する巻物に秘められた術。閉じ込められたユウヒの真下から土砂が吹き上がる。
重ね打ちにより発動したのは、地盤の崩壊を垂直に伝播させる、「真上へ吹き上がる土石流」。火山弾もかくやという勢い
で岩や石に真下から襲われたユウヒの巨体は、逃げ場の無い柱状の障壁の中で滅多打ちにされながら天高く巻き上げられた。
キリグモは実戦に慣れている。そして、操光術についての深い知識も持っている。鉄壁の装甲であり破壊の鎚でもあるエナ
ジーコートを攻略するには、発動前に叩くのが一番良い。何せ生命力をエネルギーに変換するその仕組み上、念の為という理
由で常々力場を纏っていては消耗も馬鹿にならなくなる。自分が発動する術に備え、見てから適した展開を行なうと踏んだキ
リグモの不意打ちは、ユウヒの隙を突いて致命的なダメージを与えていた。
上空50メートルまで吹き上がった土石流の柱。その頂点から吹き出されたユウヒは、全身をズタズタにされて落下する。
先手を打たれ、能力発動のための集中もできないまま、戦闘不能に追い込まれたかに見えたユウヒだったが…。
「る…」
喉を震わせ、「兆し」が漏れる。
「るるるぉっ…」
落下するユウヒの肉体を、金の燐光が覆い、そして変色した。
禍々しいほど色濃く赤い、赤銅色の力場に。
頭から落下するユウヒの顔で、双眸がギロリと、キリグモを見遣った。
「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
継続戦闘不可能なダメージを負った現状から、立て直すために何が必要か?それを、本能が見定めて引っ張り出した。
力と共に獣性が引き出されたユウヒを、キリグモは二本目と三本目の巻物を引き出しながら見据える。そしてすかさず試み
た、術二つの重ね打ちは…。
湯気が上がる地面。辺り一帯で草木が諸共に薙ぎ倒され、焼き尽くされ、焦げた大地の上に、キリグモは横たわっていた。
左腕が肩の付け根から無い。両脚も太腿上部から焼失している。右の脇腹から鳩尾辺りまで、肉は勿論、内臓も背骨もゴッ
ソリ抉れている。どこからも血が出ていないのは、瞬時に炭化するほどの熱量を持つ手で掴み取られたせい。
乱れた焦げ臭い息を抑えて、キリグモは見上げる。自分の傍に立って見下ろす、若い巨漢の顔を。
「………!」
ユウヒは歯を噛み締めていた。引っ張り出した力を維持できず、消耗した挙句に正気を取り戻したが、我に返って目にした
光景がこれだった。
ゼイゼイと息をしながら自分を見下ろすボロボロの少年に、死相が濃く出たキリグモは静かに話しかけた。
「望む結末ではなかったと、そんな顔に見える…」
キリグモの言葉通り、彼を見下ろすユウヒの表情には後悔の色すら滲んでいる。
視界が滲む。焦点が合わなくなる。暗くて、寒い。自由を望んでも叶わない、そんな運命だったのかと、諦観すら覚える。
望んだ自由の先にあった結末に身を委ねて、キリグモは弱々しい声音で、しかしはっきりと言い残した。
「しかし、「それが貴方だ」。命じられずとも、望まずとも、御役目を遂行する機構…。それが貴方だ、ユウヒ様…」
それは、呪詛ではなかった。恨みでも憎しみでもなかった。
「深遠を覗けば深遠に見返される…。努々忘れるな…。それその物になってしまわないように…」
年長者としてのキリグモが、警告として残す言葉。完璧で、故に危うい。そんな次期当主への最後の助言。
秋田犬はゆっくり目を閉じる。
自由の身になる事。自分の為に生きる事。世の多くの人々がそうであるように。それだけがキリグモの望みだった。
少なくとも、ヤクモの両親のような死に方はよくないと、キリグモは感じていた。だから自由が欲しかった。生きられる自
由が欲しかった。死なずに済む自由が欲しかった。
晴れて自由になったら、自分が生きられる場所を見つける。そうして折を見てヤクモを河祖下から連れ出し、自由に生きら
れる環境を与える。
そうして、自分を慕ってくれた少年にも知って欲しかった。生きて欲しかった。自由な人生を…。
(それを望むことも許されないというなら、世界は、酷く…)
歪んでいる。そういう事なのだろう。
(ああ…。死にたく、ないな…)
長く、細く、肺に残った空気を吐き出して、キリグモは息を引き取った。
少年はそのまま立ち尽くしていた。
巡回の御庭番達に発見されるまで、呆然と、キリグモの死体を見下ろしながら…。
ユウヒがその生涯において最初に殺めた相手は、外敵ではなく、幼い頃から見知った、親しい相手だった。
ヤクモはひとり、工房で待っていた。
卓の上には菓子。茶はすっかり温くなってしまった。
キリグモも、突然出て行ったユウヒも、屋敷中探しても見つからなかった。
(何処に行ったのかなぁ…)
待ちくたびれて、耳を倒して、ヤクモはそれでもふたりが来るのを待っていた。ずっと独りで。
その二日後、ヤノシュは首都に居た。
キリグモは約束の時間になっても姿を見せなかったので、それ以上は待たずに帰還した。そういう契約だった。
「ご子息の妨害に遭いました」
豪奢な一室で、赤い髪の術士から不満が滲んだ声と顔で報告された老人は、「では仕方ない」とあっさり顎を引いた。
極力傷付けるなと言ったのは老人自身なので、ヤノシュが妨害に対して本気で交戦行動を取れなかった結果の運搬失敗は、
そもそも責める訳にはいかない。
何処で情報が漏れたのか、それとも監視の成果だったのか、コウイチとノリフサが頭数を揃えて、ヤノシュと護衛、荷運び
のための人員を襲撃したのは昨夜の事。キリグモが持ち出したあの葛篭は丸ごと奪われ、ヤノシュが持ち帰れた品は、キリグ
モから例として渡された巻物一本と、図面だけだった。
巻物に関しては老人が求める術とは無関係な物だったので、好きにすれば良いと、そのまま預けられた。
図面に関しては…。
「欲しがる者もあるだろう。興味のある幹部に渡しても良いが…」
老人は一考した。重要な情報ではあるが、神代家が護るソレに手を出せば組織の被害も大きい。下手をすれば得る物も無い
一方的な消耗にもなる。よって、誰にも言わずに「外へ出す」事にした。
「御柱に興味がある組織などゴマンとある。適当に放出して、あとはなるようになれば良い」
弱小組織がより強大な組織に売る。その末に、直轄領を何処かが攻めれば面白い。失敗すればそれまでだが、被害があれば
帝を中心とした神将家絡みなど、この国の防御網に乱れが生じる事も期待できる。
「他所へ高く売りつけられる毒ガスでも手に入れたものと考えよう。何も危険を冒して自らの手で撒く必要などない。…そう
思うが、どうかな?」
「良いようになされるがよろしいでしょう。個人の物に留まらない謀略や駆け引き、政争や権力闘争の類には、なるべく頭を
割かない事にしています」
意見を求められたヤノシュは、私見を一切口にしなかった。老人が自分の組織内でどう振舞おうと、何をしようと、意見な
どない。契約通りに報酬を受け取れて、「大切なもの」を「あそこ」に預ける準備が整うまでの間は、例え異論があっても命
じられれば従うと決めている。
(キリグモが言った秋田犬の子…、ジョバンニと同じ年頃だったはずだな…。あの赤銅色の熊も同様か…)
キリグモの望みは叶わなかった。自分の仕事は失敗した。契約は完遂できなかった。
だからヤノシュにとって、この件でキリグモと交わしていた契約は、継続していた。
三年後にヤクモを見て、キリグモが言っていた子供だと気付いて見逃したのは、永久に満了する事のない、この死者との契
約に従っての事だった。
キリグモがいつから、どのような経緯でヤノシュと繋がりを持っていたのかは、ユウヒにもユウキにも判らない。ヤノシュ
が何者だったのかも判らない。
確かなのは、河祖群の三村最大の秘密が記された写しの図面、及び術により圧縮記録された様々な機密が、キリグモの裏切
りで流出し、何処かへ渡ったかもしれないという事。
顛末を知ったユウキは、この一大事を帝へ報告しながらも、皆には口外しないよう命じた上で、ヤクモには嘘を教えた。
里の近くで不審な物が目撃され、キリグモはその確認に赴いた。そして、巡回警備中にソレと交戦して殉職した…。板前家
の名誉を護るため、また、幼いヤクモに酷な真実を知らせないため、表向きにはそういう事で処理された。
キリグモが裏切ったなどと、熊親父はヤクモにどうしても言えなかった。いつか本当の事を伝えるべきだとしても、それは
大人になってからでよいはずだ、と…。
ユウヒは水疱瘡にかかったという事にされ、傷が癒えるまで隔離された。事が事だったので、帝の正式な任命が無いまま離
反者を粛清した点については表向き伏せて、帝とユウキとトナミ、そして現場処理にあたった一部の御庭番のみが真実を胸に
仕舞った。
それが、キリグモの離反を巡る事件の顛末…。
秋田犬が、斜面を流れる水のたまり場で、ぬかるみの中、仰向けに倒れている。
容赦なく叩き付ける雨粒が、ふと遮られて顔を叩くのをやめた。
「…ヤクモ?」
激しい雨音に、聞き馴染んだ声が混じった。
まどろみから意識が浮上する。寒い。体が痛い。そんな感覚と共に。
手も足も冷たいのに、顔だけは雨に叩かれていない。その違和感を把握する前に、ぬかるみに倒れ伏していたヤクモは目を
開ける。
「ヤクモ…!」
ホッとした様子で漏らしたユウヒは、横から覆いかぶさるようにして雨を遮り、ヤクモの顔を覗き込んでいた。
駆けずり回ってようやく見つけた。朝までこの状態だったら危なかったと、安堵するユウヒだったが…。
「………!!!」
見上げるヤクモの目は、大きく見開かれた。
暗い、冷たい、雨中の夜闇。その中に浮かんだ表情の見えないユウヒの顔に、あの船上で見た、自分の喉を握り潰した獣の
顔が重なる。
声にならない悲鳴。だが、その怯えと恐怖を感じ取ったユウヒは、困惑しながらヤクモの顔と口元を窺い…。
「し」「に」「た」「く」「な」「い」。
「!!!」
ユウヒの目が見開かれる。ヤクモの口の動きを読んで。
ユウヒの優れた視覚は、不幸にも、恐怖で引き攣るヤクモの顔を、自分に向けられた脅えの目を、闇の中でもはっきり捉え
ていた。