第三十三話 「    」

 簡素なライトスタンドが四方に置かれ、中心に向けられた和室。持ち込まれた施術用の寝台に横たえられた秋田犬の、肉付

きが良い喉には、黒い手が埋まっている。

 脂肪に埋没しているのではない。その手は文字通り、被毛と皮膚を透過して中に埋まっていた。

 眠らされたヤクモの喉に手を潜りこませているのは、真っ白い施術用の衣に身を包んだ黒毛の猿。被毛に白い物がだいぶ目

立つ、それなりの歳になった男である。

 秋の夕暮れに鳴く虫の声も届かない、神代邸の奥座敷。ここで秘術を奮うのは神将のひとり、薬師神家の当主ゲンナイ。ユ

ウキの頼みで招かれた彼は、ヤクモの声帯と気道を治療している。

 薬師神家の者は、その能力によって自分の両腕を生物の体に透過させる事ができる。さらに、自身の細胞を患者の細胞へと

複製する事で、損傷や欠損を補う事が可能。身を削る能力ではあるが、復元不可能な部位という制約さえ除けば、常識では考

えられないスピードで傷の縫合や傷の修復ができる、究極の医療術の一つである。

 薬師神家の者が能力を行使して治療する際は、患者の肉体の元の状態を、思念波の影として見ながら行なう。ただしこの肉

体の記憶とでも言うべき影は、数日で現状にあわせて変質してしまうため、参考にできる期間が短い。ユウキが急いで呼んだ

のは、時間をおくとヤクモの声帯の完全再現ができなくなってしまうからである。

「…よし。声帯は元通りになった」

 ゲンナイはヤクモの喉から手を抜くと、傍らの若い猿に顎をしゃくる。

「玄医(げんい)。あとは任せる。気道の修復と炎症の治療だけだ。できるな?」

「はい、父上」

 次期当主となるはずの若者は、場所を譲った父に代わってヤクモの喉に手を潜らせる。

 薬師神玄医(やくしじげんい)、当年とって二十五歳。

 父と似た中肉中背で、そっくりな黒い被毛だが、鋭い目などに威厳を感じさせるゲンナイとは異なり、母親似の若者は円ら

な目と優しげな顔立ちが印象的。実際のところ性質は穏やかで、「怖いお医者さん」の印象がある父とは対照的な「優しいお

医者さん」である。

 息子に後を任せたゲンナイは、和室の襖を開けて廊下に出た。

 そこには熊親父が、床に胡坐をかいて腕を組み、じっと待っていた。

「終わった。明日の朝にもなれば、声は出るようになるだろう」

「恩に着る…」

 見下ろすゲンナイに頭を下げたユウキは、立ち上がって休憩室へ先導する。当主自ら案内した茶室には、施術の疲労を癒す

べく菓子や飲み物、身を横たえる布団も用意されていた。

「流石に歳か…」

 座布団に腰を下ろしたゲンナイが溜息をつく。

「お互いにのぉ」

 向き合ってユウキも尻を据える。

「後の処置は倅に任せたが、もう心配ない。声は元通りに出るだろう。ただし、三日ほどはあまりお喋りさせないように。喉

は痛むし治りも遅くなる」

「心しておくわい。アヤツが喋れんようになったらユウトが泣く」

 ホッとした様子のユウキは、ふたり分の茶を淹れた。

 互いに更けた物だと、神将達は茶を啜って息をつく。

 体力は落ちても見た目はさほど変わらないユウキだが、ゲンナイの方はここ数年の内に、目に見えて痩せていた。能力によ

る「支出」に自己回復が追いつかなくなって来ているせいである。

 薬師神の能力は便利だが、自分の体を切り売りするような物なので消耗が激しい。物理的に体細胞を失うので、歳を取れば

取るほど施術者側は体の回復が追いつかず、蓄積疲労がきつくなる。そのため、薬師神の当主は早くに代を譲って補佐に回る

ケースが多かった。ゲンナイはそんな中で随分と長く当主を務めては来たが、そろそろ息子に託す頃合いだと自覚していた。

 何せもう、裏帝及び逆神との戦争は無い。死ぬほどの負傷を肩代わりしなければいけない事は、息子の代ではもう無い。気

がかりと言えば、記憶を失ったあの神壊の眷属の事はあるのだが、これ以上ない適任のお目付け役がついている。何かあった

としても滅多な事にはならないだろうと信じている。

「儂もそろそろ隠居を視野に入れて行かねばならん。…そう考えとった所じゃったがなぁ…」

 湯飲みを覗き込むように目を伏せているユウキに、ゲンナイは尋ねた。「ユウヒは駄目か」と。

「武力。…その一点で言えば問題無いんじゃがのぉ」

 御役目に殉じる心。それが行き過ぎているが故の危うさと、他者への無理解は、この数年で随分緩和されたと父であるユウ

キも認めている。妹ができた事が、護られねば消えてしまうか弱い命の存在を肌身で知った事が、ユウヒの人格成長に繋がっ

たと思う。だが…。

「…アレの中には獣がおる。儂や親父、爺さん達と同じじゃ。しかし…、「アレがアレである事」が問題じゃ」

 ユウヒである事。それが最大の問題だと熊親父は語る。

 おそらくは、歴代の神代の中でも最高の才能と力を持って生まれた我が子。それ故に、神卸しの暴走に際して彼を止められ

る者は…。

 数年の内に自分では手に負えなくなるとユウキは感じている。ひょっとしたら、鳴神雷電ですらも。だから、早急に何とか

しなければならない。

「惜しい事じゃが、場合によっては当主を一代飛ばさにゃいかん」

「相変わらず息子に厳しい事だ。ヤクモ君にはこの通りだというのに」

 少し疲れが取れた様子で茶化したゲンナイに、「そうでもない」とユウキは無表情で応えた。

「ヤクモが姿を消した折に、確かに心配はしたが…。儂はまずヤギ爺に蔵と工房と金庫を確認させた」

 ヤクモがキリグモと同じ事をしたのではないか?そんな疑念は確かにあった。家族同然に扱いながら、しかし彼が姿を消し

た際に考えた事は…。

「…当主として当然の対応だ」

 自嘲を交え、ヤクモに対しても優しくはないと反論したユウキに、ゲンナイは低く応じる。

 情や綺麗事だけでは御庭番や関係者を取り纏める事は叶わない。従者の善性と良心、そして忠誠心を信じると言えば聞こえ

は良いが、それに依存して思考停止してしまっては、穴も取り零しも出て来る。

 秋田犬の少年ひとりだけになっても術士を補充せず部隊を再編しないのは、キリグモの離反によって「術士ならば可能」と

実証された機密の圧縮持ち出しを防ぐため。ヤクモに対してではなく、術士そのものの技術に対する警戒の表れである。

 配下を信用しながらも、常に最悪を考えなければならないのが、今までのユウキの生き方だった。ユウヒから先の世代には、

そんな事をする必要の無い家長になって欲しかったが…。

「…それで、ユウヒ君はどうしている?」

「垢離取って来る、と出て行ったきりじゃ」

 顔を見せない長男の事を気にしたゲンナイに、ユウキは軽くかぶりを振って応じる。


 鉛色の雲が低く垂れ込め、空と山の境も曖昧な山景。村からほど近い、沢が大きな段差を下って出来る滝の下に、褌一丁の

巨熊が座っていた。

 長雨で水量を増した滝の下、時折流れてくる枝などにも体を打ち据えられながら、ユウヒは微動だにせず手を合わせている。

 水垢離は既に十時間を越えていた。奥羽の山奥、標高も高い山中の滝の水は冷たい。秋にもなれば下界の河より遥かに。既

に指先まで感覚が失せ、逞しい体は冷え切っている。

 自分がヤクモを追い詰めた。その自覚がユウヒに滝行を命じた。

 己を痛めつけねば気が済まない。だが己が苦しんだ所でヤクモが楽になる訳ではない。

 手を合わせて思い返すのは、ヤクモに話を聞かれただろうキリグモの事。

 彼の行動が正しかったとは思わないが、今ならば言い分が多少は理解できる。

 妹を…ユウトを御役目のために差し出せと言われたならば、了承できるだろうか?

 確実に命を落とすだろう役目にヤクモを送り出すとなったら、受け入れられるだろうか?

 自らの身は御役目のため。その気持ちは変わらない。だが、「それだけでいい」と思う。御役目に殉じるのは自分だけでい

い。自分が他者の分も引き受けるから…。

 あるいは、今の自分だったらキリグモと話し合う事もできたのだろうか?少なくとも、未熟でさえなければ殺して終わらせ

る以外の結末も選べたのではないだろうか?もしもキリグモの意見をきちんと聞いて、話し合えていたならば…、咎は咎とし

て、他の結末に至る道もあったのだろうか?

 少なくとも、自分がキリグモを殺しさえしなければ、ヤクモにきちんと話せる結末に至っていたなら、彼を追い詰める事は

なかったはず…。

 深遠を覗けば深遠に見返される。努々忘れるな。それその物になってしまわないように…。

 キリグモの言葉を思い出す。ああそうだと納得する。自分はきっと深遠になりかけていた。ひとではない何かに、話を聞か

ず心を持たず温もりのない何かに、あるいはなり果てる事もあり得たのだ。

 おそらくだが、そうならなかったのは傍らにヤクモが居たおかげ。共に闘う者として、護るべき対象が常に傍に居たおかげ。

ユウトが生まれて無垢な命の愛らしさを知ったせいで、その事が自覚できた。

 なのに、この手は…。

 キリグモを殺したこの手は、ヤクモの喉まで潰した。そのまま殺しかねなかった。

 自分は何なのだ?

 自問に伴い怒りすら湧き上がる。

 他の誰でもない、ヤクモの命を脅かしたのは自分だった。彼を追い詰めたのも、親しい兄貴分を奪ったのも自分だった。ヤ

クモが大切なのに、自分が今こうしてヤクモを傷つけ、追い詰めた。

 すっかり冷え切った瞼を上げ、下流を見遣る。

 滝つぼ周辺の広い淵は、遊びに入ったら大人に怒られる神聖な修行の場なのだが、大人の目が無い時を見計らって、ヤクモ

と一緒に連れて来て貰って水遊びした。他でもない、キリグモに…。

 キリグモは根っからの悪人などではなかった。自分達をずっと欺いてきた訳ではないのだ。里が憎くて裏切ったのではない。

死にたくなかったのだ。死んで欲しくなかったのだ。当たり前の事を求めただけだったのだ。手段は間違えたとしても、その

願いはきっと真っ当な命のもので…。

 彼の願いそのものは、もう責める事はできない。今のユウヒには。


「…目が覚めた?」

 薄く開いた瞼の間から、滲んだ景色をぼんやり眺めていると、横合いから声がかけられた。

 目を動かしたヤクモが見たのは、黒毛の若い猿。膝を抱えるような格好で椅子に座ったゲンイは、湯気立つコーヒーカップ

を両手で包んで、秋田犬の顔を見つめていた。

「鎮痛剤が切れる頃だけど、もう痛くはないだろ?」

 気さくな調子で話しかけるゲンイに、ぼんやりしているヤクモは「私は…」と掠れ声を返した。

 何をしていたんだっけ?と記憶を手繰るが、思い出す前に「結構結構」と黒猿が応じる。

「声が戻った事が確認できればそれで結構。まだ負担がかかるから、あまり喋らない方がいい」

 この時点でヤクモは相手が誰なのか気付いた。

(ゲンイ様?ヤクシジ家の?)

「あの…、えふっ!」

 まず礼を言おう。それからどういう状況なのか聞いてみよう。と思ったヤクモだったが、二度目の声を発した途端に喉が痙

攣してむせ返った。

「ああほら、喋らない喋らない!治療は済んだけれど、ここから先は君自身の体力と自然治癒に任せる段階だ。大事にしてあ

げなくちゃいけないよ?息も、声も、ね」

 咳込むヤクモを宥めながら立ち上がったゲンイは、「ユウキ様をお呼びするから、そのまま少し待っているように」と言い

残すと、コーヒーカップを置いて席を立ち、廊下に出る。

 そうして独りになると、ヤクモは記憶を手繰り、自分がどうしたのか思い出しはじめた。

 御役目で喉を痛めて、床に伏せ、それから…。

(そうだ…。屋敷を飛び出して…)

 天井を見つめ、ヤクモは雨中に飛び出した事と、途中で滑落して気を失った事を思い出す。

(連れ戻されたんだ…)

 当たり前だと、少年は思う。だいたい、耐え切れなくなって飛び出しはしたが、目的も行き場もなかった。すぐに見つかる

のは当然の事。

 自分の感情が判らない。心身ともに疲れ切って、何も感じない。ぼんやりしているヤクモが再び目を動かすと、襖が開いて

熊親父とゲンナイ、そしてゲンイが顔を覗かせた。

「ヤクモ…」

 気遣わしげに目を細め、ユウキは少年の顔を見下ろす。

「もう無理はしてくれるな…。約束したじゃろう?気になっとる事は全部、正直に話す」

 小さく顎を引いて応じながら、ヤクモは考えていた。

 立派に戦って死んだと聞かされていたキリグモは、ユウヒに殺されていた。

 では、立派に御役目に殉じたと聞かされてきた、自分の両親は?と…。


 冷え切った体に濡れそぼった被毛。日が暮れてしばらくしてから帰って来たユウヒの姿を玄関口で見て、御庭番達は大慌て

になった。まさか何時間もずっと水垢離していたのかと。しかしユウヒは問題無いと応じて…。

「薬師神の皆様は?」

「先刻お帰りになられました」

「…ヤクモは…」

「無事に治療も済んで、目を覚まし…、あ!ユウヒ様!?」

 蜥蜴の御庭番が上げる声を背中で聞きながら、ユウヒは猛然と廊下を駆け抜ける。目当ての部屋、屋敷の奥の奥、ただ一点

目指して風のように駆けた巨熊は、襖の前で止まると呼吸を整える。

 二度、三度、深呼吸して佇み、意を決して襖に手をかけたユウヒは、ソロソロと引き開けた。

 そこに、寝台に寝かされた秋田犬が居た。

 喉の氷嚢は取り除かれているので、首周りが随分すっきりして見える。枝にぶつけて割れた額も治して貰えたようで、被毛

が薄い斜めの線がほんの少し覗くだけになっている。

「ヤクモ…」

 眠っているのだろうか、静かな秋田犬の顔を覗きこんで声を発したユウヒは、その目が静かに開くのを見て安堵した。本当

に意識が戻っていたのだと。

 安堵と罪悪感が滲む表情。残った鎮痛剤で意識が鈍磨しているヤクモは、その顔を見て、誰だか気付くなりハッと目を見開

いた。そして…。

「…ヤクモ?」

 困惑するユウヒ。ヤクモは熊から目を逸らして天井を見た。視線を露骨に逃がして。

 正視できなかった。怖かった。疑念があった。

 自分を連れ戻したこのひとは、あのひとを殺したと言っていた。

 もしかしたら、同じように「立派に殉じた」という父は、母は…。

 一方ユウヒは、一度戸惑いはしたものの、この態度も無理はないと思い直した。

 正気を失った自分は、危うくヤクモを殺しかけた。怖がられて当然。疎まれて当然。顔を見たくなくなって当然だと。

「…体、休めでけろ…」

 沈んだ声で余所余所しい響きの言葉を残し、ユウヒは踵を返す。

 静まり返った部屋に独り残ったヤクモは、じっと天井を見つめていた。

 木目を映す瞳は、震えるように小刻みに揺れていた。




 月が一度沈み、もう一度昇った頃、抱かれたまま眠ったユウトの頭を撫でながら、フレイアは時計を見遣った。

「長いね…」

 羊羹を切りながらトナミが「そうですね…」と頷く。

 夕餉も済んで居る時刻。今日も朝から水垢離に出ているユウヒはまだ帰らない。

 昨夜、水垢離を終えて屋敷に戻り、治療が終わった事とヤクモが目覚めた事を聞いたユウヒは、すぐさま顔を見に行ったら

しいが、短時間で引き上げて来た。何があったのかは判らないが、硬い顔をしていた。

 ユウキは昼ごろからずっと、自室に移したヤクモと話をしている。キリグモの件を最初から最後まで、把握出来ている全て

を子細に語っているはずだった。

「…ヤクモは」

 トナミが皿に乗せた羊羹をフレイアの前に置きながら、静かに口を開く。

「もう、ここに置いておくべきではないのかもしれません」

「え?」

 目を見返したフレイアに、第一婦人は尋ねた。

「フレイアさんが持って来た「あのお話」は…、何時ごろまでの募集でしたっけ?」

 トナミは理解していた。ユウヒがどんなに望もうと、ヤクモにはもう、その傍らに立つ存在であり続ける事はできないのだ

ろう、と…。


「…これが、儂が知る全てじゃ」

 長い長い話を終えて、ユウキは口を閉じる。

 布団に寝かされたヤクモは、天井をじっと見つめていた。

 瞳が揺れていた。尊敬していた、慕っていた、兄同然のキリグモ。彼が犯した罪の詳細とその結末を知り、秋田犬の少年は

激しく動揺していた。

(けれど…、それじゃあ…!?)

 確かに、ユウヒはキリグモを殺していた。それは事実だが、必要に迫られて交戦に及び、結果として命を奪った。御役目を

賜る歳になる前だった事は問題だろうが、その行動と選択は神将家の嫡子として至極当然の事。御庭番の生まれだったとして

も、その状況で取るべき行動は同様だと思える。

(では、ユウヒ様は何も間違っていなくて…。キリグモ兄さんに咎があって…)

 ヤクモの心が乱れる。昨夜、部屋を訪れたユウヒに、自分は…。キリグモには討たれるべき正当な理由があった。ユウヒに

責められるべき所はない。

 だとしたら、両親はどうなのだろうか?キリグモの場合、無下に命が奪われたのではないのなら、同じく「立派に殉じた」

と聞いていた自分の両親は?そう考えてヤクモはこれまでと違う意味の怖れを抱く。

 自分の両親もまた、キリグモのように何らかの大罪を犯したのか?と…。

「両親…は…?」

 怖くなりながらも耐えられずに訊いたヤクモだったが…。

「ふたりは立派に勤めを果たして逝った。如何なる不義も働いてはおらんし、如何なる過ちも犯してはおらん。気持ちは判る

が己の両親を疑ってはならんぞ?」

 諌めるような口調になったユウキの答えをもって、ヤクモは確信した。

 嘘は無い。誤魔化しは無い。そうであるが故の、かつての配下の名誉を護り、その息子を嗜める発言だった。

(ああ…!私は…、私は何て事を…!)

 ヤクモは自覚し、嘆く。「自分が働いてしまった不義」に、少年は気付いてしまった。




 そして、一月が経った。

「…まぁ、無理じゃろうな」

 屋敷の縁側。夕と宵の境界線を空に探しながら、ユウキは呟いた。

「そうですか」

 熱い茶が入った湯飲みと饅頭を乗せた皿を脇にあてがいながら、トナミが顎を引く。

 婦人におぶられたユウトはうとうとしており、珍しく静かだった。

 平和な、穏やかな、夕暮れの長閑さ。しかしそれも続かない事を、神代夫妻は理解していた。

 ヤクモは、喉が完治して以降も工房にこもりがちな生活を続けている。頼めばユウトの面倒も見てくれるのだが…。

 ユウヒは、日中は修練場と山中に身を置いている事が多い。飯の時刻には戻るが、屋敷内をうろつく事は殆どない。

 十一月。日に日に冷える山の風。仲が良かった少年達は、顔を合わせる頻度も減り、言葉も必要最小限しか交わさなくなっ

ていた。同じ屋敷で寝起きするふたりにとって、これがどれほど異常な事かは言うまでもない。

「月末、お嬢ちゃんの狩人組は一週間の休暇を取るそうじゃ」

「そろそろ決めるべきでしょうね」

「うむ…」

 茶にも菓子にも手をつけず、ユウキは空を遠い目に映す。

「…「こっち」も、早めに手を打たんといかんしなぁ…」


 卓に向かい、墨が乾いた筆を握り、ヤクモはぼんやりと書きかけの巻物を眺めている。

 筆が進まない。取って作業を始めても、すぐに考え事で頭が一杯になり、手が止まってしまう。

 ユウヒの事を思う。

 いずれ当主になるひとだと、自分の主君だと、ずっと思ってきた。

 なのに、自分は疑った。疑い、恐れた。だからもう自分には、あのひとに仕える資格がないと思った。

 涙が落ちて、袖を濡らす。

 呆けたような、疲れたような、そんな顔のまま、ヤクモはハラハラと涙を流していた。


 小鳥の声すらしない木立の中で、ユウヒは苔むした岩の上で座禅を組んでいる。

 集中できない。没入できない。瞑想の修練はいつも、別の事で頭が埋まって止まってしまう。

 ヤクモの事を思う。

 いつまでも変わらず自分の傍に居るのだと、ずっと思ってきた。

 なのに、自分は傷付けた。恐れの眼差しを、表情を、させてしまった。どうすれば赦されるのか判らなかった。

 牙がきつく噛み締められる。

 身じろぎもせず、岩のように座したまま、ユウヒは険しい表情で目を閉じていた。




「うん。うん。オッケーだよ、手配しておく」

 北原に建つドーム状のベース。フレイアは窓越しに常冬の大地を眺めながら、義姉の電話に応じていた。

 巨大なベース内の通信室。国家間の機密情報の送受信にも使われるセキュリティ万全の部屋には、一般電話通信用の小分け

されたブースも備えている。フレイアが居る椅子付き公衆電話ボックスにも似た通話ブースからは、再来年度の開校を目指す

ハンター養成校用の資材を運搬する車列が良く見える。

「私が迎えに行くよ。うん。タイミングが良いって言うか何て言うか…」

 フレイアは言葉を選んだ。タイミングは確かに良いが、「幸い」とは言い難い。神代家の皆の気持ちを考えればなおの事…。

「丁度、案内して行けると思うから…」




「そうか。もうこっちでも日程を決めんといかんな」

 トナミの報告を受け、私室の壁にかけられたカレンダーを眺めながら、ユウヒは月末一週間の日付を確認した。

 屋敷中で使われている、毎月の絵に成長するユウトの写真を用いたオリジナルカレンダーは、フレイアのためにトナミが考

えてオーダーした品。11月の写真は丁度一年前、昨年の11月に撮った物。ヤクモに抱かれたユウトが、チーズ煎餅で気を

引こうとしたユウヒの指に噛み付いて、少年二人が慌てている一幕…。

 ヤクモとユウヒはいつも一緒に映っていた。舞い落ちる桜の花びらに手を伸ばす春も、ビニールプールでユウトを遊ばせる

夏も、ふたりでユウトをあやしていた。

 ずっとずっと一緒だった。幼い頃からずっと。滅多に笑わないユウヒも、ヤクモの隣では時折笑みを見せた。友人を作ろう

としないヤクモにとって、ユウヒは主君であると同時にたった独りの歳が近い話し相手だった。互いに相手が必要だった。

 だが、あんなに近しかったふたりの距離が、今ではこんなにも遠くなってしまった。何が悪かったのか、誰が悪かったのか、

そんな事を話し合う段階はとうに過ぎた。

 ユウキの顔は厳しい。

 神代の当主である以上、私情に優先して行なうべき事が、彼にはある。


「説明は以上じゃ。日の出の刻には発つ。心しておけ」

 父に呼び出されたユウヒは、無言で頷き御役目を賜る。

 屋敷の和室、父と息子の他、同席しているのは御庭番頭のヤギだけである。

「親父殿ど俺、ふたりだげが」

 当たる人員を確認する息子に熊親父が「そうじゃ」と応じる。少数で事に当たらねばならない御役目も、時にはあてがわれ

る。今回もそうなのだろうと解釈し、ユウヒは納得した。

 年配の山羊は留守中の差配を任せられ、指示を受ける間なにも言わなかったが、今回の「御役目」がどういう物なのかは、

事前に当主から教えられている。

 ユウヒがまだ知らないその事を、ヤギは黙って胸に秘める。必要なのだと自分に言い聞かせて…。


 同時刻、ヤクモは工房でトナミと向き合っていた。

「………」

 無言の秋田犬の前で、婦人は穏やかに、しかし寂しそうに笑っている。

「もう準備はできましたか?ヤクモ…」

「はい。必要な物は、あまりありませんから…」

 工房を見回して、ヤクモは卓上に目を止める。そこには封筒が一つと、書きかけの手紙が広げられていた。何通も何通も、

書いては丸めて、書いては破って、繰り返し書き直した手紙の残骸が、卓の端に寄せられている。

「ユウキ様が、資産についてはこちらで手配すると言っていました。それで良いんですね?」

「はい…」

 しばし両者は無言になる。

「もしも…」

 やがて口を開いたトナミは、しかし言葉を続けずに飲み込む。

 秋田犬の少年は黙り込んだ夫人の顔を見て、少し寂しそうに微笑んで、深々と頭を下げた。


 翌日早朝、ユウキに伴われて村を出たユウヒは、一度だけ振り返った。

 まだ低い太陽が、山の影を空に向かって伸ばす中、夜の名残に取り残された山間の里。

 何とも表現できない、理由が思いつかない、落ち着きのない胸のざわめき…。気の迷いと断じて、父の後ろに続いた少年は、

村から送り出す車に乗り込む。

 それから二時間後。奥羽山中の、ある山間の盆地で…。

「…何だこご?」

 ユウヒは連れて来られた場所を見回し、眉根を寄せていた。

 父と共に車で送られた山中から、獣道のような草木の割れ目を徒歩で登ること30分。鬱蒼と茂った草木が途中から密度を

薄め、木々が減って視線が通るようになり、繁茂する下生えから地面が覗くようになり、やがて歪な円形に拓けた広場に出た。

 ユウヒはそこの「土」の異様さに気付く。周辺の土とは違う。その円の範囲だけ質が違い、溶岩が固まって出来た大地のよ

うにザラついている。少年は見た事が無いが、そこは奇しくも、裏帝の隠れ里があった樹海の地面にも似ていた。

「「ちょいと特別な」修練場のようなモンじゃのぉ」

 先に広場へ踏み入ったユウキが振り返る。予め言われていたユウヒ同様、熊親父も戦装束を纏っている。

「修練…?御役目は?」

「此度の御役目は帝が発した物ではなく、「神代家当主」の命による物じゃ」

「………」

 無言で父を見つめるユウヒ。ユウキは鋭く目を細める。

「ユウヒ。お前に当主を継がせられるか否か、今日ここで見極める。儂と全力で立ち合い、器を示せ」

 これは、かつてユウキも若い頃に課せられた試練。忌み字として禁じられた文字にあえて因み、「ユウゼン」の読みを名に

与えられた先代の神代家当主、神代熊禅(くましろゆうぜん)…つまり父と、ユウキもこの場所で立ち合った。

「心せよユウヒ。ここは、今の神代家が始まった地…。「神代ではなくなった方」が、儂らの先祖に神代家を預けた場所じゃ」

「!」

 ハッとした表情で、ユウヒは周囲を改めて見回す。幼い頃から幾度も聞いてきた場所がここなのだと、驚きをもって。

(こごが…、「禪り場(ゆずりば)」…!)

 ここは、代々の神代が使った場。時に当主候補の見定めとして、時に子別れの儀式として、時に永遠の決別として、彼らは

この場所で向き合ってきた。

 この修練場の独特な土は、ユウヒが最初に感じたように溶岩の地層にも似ている。だが、地下深くから昇って来たマグマが

冷えてできた訳ではない。神代家の操光術、その高度な技のぶつかり合いで生じた熱により、繰り返し焼かれて吹かれて溶か

されて、火山岩の大地にも似た土質に変化した結果だった。


 事の始まりは三百年ほど前。帝と裏帝に、神将と逆神に、神代と神壊に、分裂するに至った戦があった頃まで遡る。

 意見の違いからふたりの帝が立ったその頃、神代家には三人の男子が居た。

 長男は賛同した御庭番を連れて出奔し、急進派…後の世で裏帝と称される側についたが、当時の神代家当主及び次男三男、

そして御庭番本隊は保守派…現在の帝の側についた。

 その当時に神代家は帝直轄奥羽領の鎮台を命じられ、父から当主の座を継いだ次男は河祖郡に里を拓いた。三村による拠点

防衛の基礎や現在まで続く分担制を築いた、河祖郡の開祖とも言えるその男は、しかし全ての準備を整えるなり当主の座を降

りると宣言した。

 村から離れた場所で末弟と立ち合い、当主の座を譲り、神代の名を捨てて、男は山を下った。

 ただひとり、己の身と命一つで、二派に分かれた帝と神将達の戦争へ、どちらにも肩入れせず介入するために。ふたりの帝

のためではなく、受け継いできた家名のためではなく、戦乱で命を落とす無辜の民をひとりでも減らすために。彼はどちらの

帝にでもなく、無辜の民に帰依した。

 当時、どちらの帝にも与しないというその選択は、それだけでどちらの帝に対しても反逆と取れる振る舞いだった。そして

実際のところ、野に下った「神代ではなくなった男」は両軍に牙を剥いた。無辜の民の命を奪わせないために、無辜の民が生

きる場を奪わせないために。

 しかし「神代ではなくなった男」は、両軍を相手取るたった独りでの戦において、一度も、一つも、命を奪う事は無かった。

両軍の、兄も、弟も、かつての同僚同胞も、友人知人顔見知りも、そしてその関係者や部下、末端の兵士に至るまで、たった

のひとりも殺める事なく、双方の軍を退け続けた。

 村を挟んで睨み合う両軍があれば双方退かせ、陣地や橋頭保を奪い合う一団があればこれを占拠して双方下がらせ、既に戦

端が開かれていても割って入って双方撃退し、無辜の民に犠牲を強いるような戦を潰して回った。そうして、歴史に語られる

大飢饉の数倍の規模で失われるはずだった民の命と血を、「神代ではなくなった男」は己の身一つで戦火から庇い通した。

 今や民話や伝承、御伽噺の断片などにしか痕跡が残っていないその行為が、どれほどの偉業だったのかは想像に難くない。

ユウキが経験した逆神やその眷属達との暗闘や、裏帝の隠れ里での戦とは、投入された兵の数も比べ物にならない規模の戦…。

何せ、当時の帝達と彼らに連なる者の総力戦だったのだから。

 だが、「神代ではなくなった男」についての記録は、ほぼ現存していない。

 戦後、敗れた軍が「裏帝と逆神」と呼称される事が決まった際に、彼らとはまた違う、しかし同列の朝敵として扱われ、表

の歴史と記録から存在を抹消された。

 尋常ならざるその成果と力は何に記される事も無く、家系図からも、史記からも、偲んで刻まれた石碑からも、その名は徹

底的に削られ、全ての神将家は彼の名に使われていた「禪」という文字の使用を禁じられた。

 あらゆる記録が抹消され、あらゆる場所から席を除かれた彼は、故に「歴代最強」とは呼ばれない。あるいは鳴神雷電をも

超えていたのかもしれないと、噂はされても大っぴらに話題に出す者は居ない。

 しかしそれでもなお、後の神代と神壊は彼の名を口伝で語り継いだ。立場上許される事ではない「神代ではなくなった男」

の生き様を、尊き物と、気高き物と、誇りある物と受け止めて。

 遥か昔、今では「禪り場(ゆずりば)」と呼ばれるようになった此処で、彼が弟と立ち合った際も、双方本気だった。

 弟は全力で挑んだ。兄を引き止めるために。当主に相応しいのは自分でも長兄でもなく、この地に里を築いた次兄であると

確信していた。

 彼もまた全力で応じた。神代を、当主を、押し付ける形になった弟への餞別を込めて。そして、どうしても禪れない決意を

込めて。

 結果として、弟は兄に敗れ、男は神代ではなくなった。

 此処はそういう場所だった。禪る場所であり、託す場所であり、退けない意思をぶつけ合う場所でもあった。

 そして、今日もまたこの禪り場には、神代がふたり…。


「ユウヒ。加減無し、全力で挑め。儂もまた全力でかかる」

 厳しい顔つきでユウキは言い放つ。

「「神卸し」を使って、じゃ」

 ユウヒは息を飲んだ。それは…、と激しく動揺した。

 厳密に言えば、ユウヒはまだ神卸しを「使えて」いない。力を振り絞れば、力を汲み上げれば、その延長線上に「あの獣」

が眠っている。全力の先に居るそれに近付いてしまった結果が、神卸しの暴走状態が直接発露したような状態…。つまりあの

暴走は、全力を出そうとすると勝手に発現する症状と言えた。

 制御できるとは思えない。ヤクモの事があったばかりなのに、何も向上していないのに、また使うのは躊躇われた。

 深淵。

 キリグモが遺した言葉が耳元で蘇る。あの時の自分は、確実にソレに近付いていた。ヤクモを傷付けた時は、ほぼソレに成

り代わられていた。キリグモの警告通り、いつか「そのもの」になってしまいそうな気がした。

 しかし…。

「一つ、伝えておく事がある」

 熊親父は動揺が見える息子に告げた。

「ヤクモは他所に出す事に決めた。当主の裁量での決定じゃ。今日中に迎えが来て、村から連れてゆく事になっとる」

「何だど!?」

 即座に、驚きをこめた大声で聞き返したユウヒに、父は続ける。

「ヤクモはもう使えん。意味は判るな?」

 ユウキの歯が噛み締められてギチッと鳴った。判っている。ヤクモはもう自分の補佐につけない。傍に居られない。御庭番

としての配置場所もない。だが、それでも了承しかねたユウヒは声を上げる。

「んだどって、ほっぽり出すのは間違ってっと!御役目でねくたって、ヤクモにでぎる仕事は他になんぼでも…」

「それは非戦闘員にできる事じゃ。むしろ専門職の方が良い仕事をする。「御役目で役に立たん術士など手間までかけて飼う

価値はない」わい」

「………!」

 ユウヒの耳が立ち、たちまち表情が剣呑な物に変わる。

(役に立だねぇ…?飼う価値がねぇ…!?)

 今のヤクモについての発言は、とても聞き流せない物だった。

「…見下げ果でだど、「親父」…!」

 ユウヒの唇が捲れ返り、獰猛に牙が光る。憤激で目が血走り、猛獣そのものの形相になっていた。

 しかしユウキは猛烈な怒気と圧を浴びせられながら、顔色一つ変えずに息子への挑発を続ける。

「この決定を覆したくば、儂を降して当主になって、正式に撤回するんじゃな」

 引っかかるかどうかは半々と見ていた熊親父だったが、予想以上に上手く乗ってきたと、内心安堵していた。

 芝居とはいえヤクモをこき下ろすのは心が痛む。しかしこうでもしなければ、いくら本気でかかって来いと言ったところで、

ユウヒが「神卸し」までは行なわないだろうと確信していた。

 だが、どうあってもユウヒの中の「獣」に対処しなければならない。神卸しを御せるようになって貰わねばならない。それ

も、なるべく近い内に。

 息子は日々力をつけて、自分は日に日に衰えてゆく。そう遠くない内に、ユウヒが暴走した折にも止められなくなる。

 だからユウキは心を鬼にして今日に臨んだ。当主の引継ぎはまだ先だとしても、子供として扱うのは今日これきりとして。

老いた自分が従うに足る、次期当主としてのユウヒと出会うために。

 これは、別れの儀式。

 ユウキにとっては子別れの儀式であり、ユウヒにとっては…。