第三十四話 「アグリッパ」

 ユウヒがユウキに連れられて村を出てから、約二時間後。水平線を完全に離れた太陽が山々と河祖下を照らす時刻になると、

黒塗りのバンが村に入り、屋敷の門を抜けた。

 まだ早朝という時刻、運転者は数日前から屋敷を離れていた御庭番の蜥蜴。助手席に乗っているのは金髪碧眼の若い女性で、

後部座席には…。

「やあ、エキゾチックな御家ですね!素晴らしい!これがニホンカオクですか!」

 黒髪の若い男が窓越しに屋敷を見て感想を口にする。アジア系に見えるが日本人ではないらしく、英語で話していた。スラ

リとした均整が取れた体型に甘いマスク。スーツ姿だが、陽気な口調と表情、軽い雰囲気のせいで、勤め人というよりは遊び

人に見える。

「立派な御宅だ。名家…いや、ウォーマイスターの住まいにして詰め所という事であれば納得もゆく」

 続いて口を開いたのは、若い男の隣に座っている、長い白髭を蓄えた初老の男。丸々太った恰幅の良い体型で、どことなく

サンタクロースを連想させるのは、緩くウェーブがついた長い白髪白髭と穏やかで優しげな細い目、そして体型の印象と、ブ

ラウンに白いファーで縁取りされたのローブの、地色に入った赤味がだいぶ強いせいだろう。

「大先生、幻影(げんえい)さん。先に話した通り当主は不在ですけど、婦人が代理で対応してくれますから」

 助手席のフレイアが後部座席のふたりを振り返る。恰幅が良い老人は手にした杖を立てながら「結構」と応じた。

「なにぶんワタシらもグレーゾーンをウロウロしている身、会えばウォーマイスターの立場上よろしくない事もあるやもしれ

ないし、君を通した伝聞とはいえ、礼を尽くした要請は応えるに充分だった。なによりも…」

「ウォーマイスターが直々に売り込みをかけるクラフトマン。配下でありながら手放すと決めて、しかし期待はしているとい

うその子に興味津々です」

 老人の言葉を引き取るように続けた若い男は、「ですよね先生?」と師の横顔を見る。

「うんむ。ヤクモ・イタマエ君。大和の術具を手掛ける少年。ワタシらの門派に巻物使いは数人居るが、日本古来の術式を扱

う者は居なかった。新発見と技術交流による発展に期待したくなる」

 どんな子だろうか、と停まった車の中で顎鬚をしごき、目を細めた老人に、ドアに手をかけながらフレイアは応じた。

「良い子ですよ。良く気が付くし、親切だし、穏やかで気は優しいし…」

「なるほど!」

 若い男が車から先に降りて、どっこいしょ、と腰を上げた師のためにドアを押さえる。

(だからこそ、ウォーマイスターには不要というわけだ!戦争職人の仕事には足手纏いだと!なるほどなるほど!)

 ゲンエイと呼ばれた若者は、フレイアの人物評でひとり納得する。

「有り難うゲンエイ。さて…」

 太った体を窮屈そうに折り曲げて車から降りた老人は、曲げっぱなしだった腰を伸ばして、拳でトントン軽く叩く。そして

小さく息をつくと、赤茶のローブを山間の風になぶらせ、肩ほどの高さがある杖を立てた。

 しばし屋敷の外観を眺めた後で、老人はおもむろに首を巡らせ、次いでゆったりと歩き出す。まるで、予定していた何かが

そこにあるように、決められた場所がそちらにあるように、迷い無く自然に屋敷横手側…裏庭に続く方向へ。

「大先生?」

 フレイアは訝りながらも、運転手のお庭番を伴って後に続く。

「ああ。そっちかな、うんうん」

 ゲンエイも何か感じた様子で頷き、師の背中を追った。

 最後に続いた蜥蜴の御庭番は、止めようかどうか迷った末に、結局黙ってついてゆく。術士の大家となれば判る物なのだろ

うかと、不思議そうな顔をしながら。

 老人が向かったそちらは、工房がある方向だった。




 ゴォン…。そんな低い振動音で、大気が鳴動した。

 右拳と右拳、力場に覆われた大木槌のような拳骨が正面から激突し、対消滅した力場の熱量と粒子が弾けて拡散する。

 拳をぶつけあったユウキとユウヒの足元で、それぞれの力場に護られた範囲の外側から、爆風を浴びた土が焼けながら捲れ

て吹き飛び、両者を囲んで大きな円状に地表が抉れた。

 開戦から七分と少し。既に飛び立つ鳥もおらず、周辺一帯の大気が熱でゆらめき、修練場に生えていた草は根こそぎ焼失し

ている。延焼して山火事にならないのは、発火した傍から爆風圧で消えるせい。

 既にひとが無装備で呼吸できる環境ではなくなっているが、力場の内側は一種の別世界であり結界、展開者に害を成す物と

して高熱はシャットアウトされている。二頭の熊は焦熱の中心で、その過酷な環境を物ともせずに拳を交える。

 相殺した拳に次いで繰り出す互いの左拳。逆神…神壊の当主との決戦において深手を負った後遺症により、ユウキは本来の

利き手である左腕の筋力が落ちている。今度は五分にはならず、正面から突き合わせた拳に弾かれるように肘が曲がった。

 好機と見たユウヒが左拳を引きつつ繰り出したのは、右の回し蹴り。打ち負けて痺れが走った左腕を咄嗟に下げてガードし

た熊親父だったが、丸太のような脚が猛烈な蹴り込みで叩きつけられると、防げはしても体勢を大きく崩し、踏ん張った足が

横滑りした。

(取った!)

 防がれた蹴り足を降ろし、それを踏み込みとしてユウヒが追撃をかける。が…。

(む!?)

 眩い光の力場に覆われた若熊の右拳を、熊親父の両手が押し包むようにして受け止めていた。踏ん張ったユウキの足が土を

抉り返しながら後退し、勢いのまま押し込むユウヒの左拳が後方へ大きく引かれる。

 追撃の左が繰り出される前に、ユウキは取った息子の右拳を捻りながら、左足で出足を蹴り飛ばした。

 燐光に覆われた太い脚同士が交錯し、力場が軋み音を立てて接触部から光の粒子を散らす。防御膜が無ければ足が丸ごと消

失するような蹴りを受けて、ユウキの体は取られた拳を支点に横回転、さらに、左の蹴り足に続いて地を離れた熊親父の右足

が、スピンする息子のどてっぱらを蹴り上げた。力場の上からでも激突による衝撃波が体を抜けてゆく、強烈な蹴り。ユウヒ

の巨体が高々と宙に舞う。

 大陸の拳法で言う二起脚に近いコンビネーション。体重を考えれば異常な身の軽さと機敏さでユウヒを蹴り上げた熊親父は、

フォローモーションで宙に浮いたその状態で、息子の拳を離した両手を、平手を並べる形にする。たちまちの内に双掌に光が

集中し…。

「蒼火天槌!」

 揃えて突き出された双掌から、一抱え程も太さがある光の柱閃が迸った。地対空の仰角で放たれた破壊の光槌が、キリモミ

回転しながら打ち上げられたユウヒを飲み込むが…。

「雷障陣!」

 左拳に集約していたまま放てなかった力場を、ユウヒは即座に防御用の放出術に切り替えた。無防備な人体が消し炭になる

ほどのエネルギーの奔流から、力場の障壁で身を護りつつ、若熊は唸る。

 先ほどから、おおまかにはこんな流れが繰り返されている。初手、二手、三手と、単純な力押しでユウヒが優勢に攻めるも、

そこから先で必ず切り返されてユウキの大技を貰う。

 強い。それはユウヒも知っていたつもりだったが、「奥羽の鬼神」は想像していたよりも、把握していたよりも、遥かに強

かった。身体能力でも、力場の出力でも、既にユウヒは父を抜いた。だがそれでも、実戦となれば敵わない部分が出て来る。

 それは、戦運びそのものの差。

 ユウヒもユウキも、力場の防御力と放出による火力が目を引く戦力である。言わば、その圧倒的攻撃力と鉄壁の防御力でゴ

リ押しし、それだけで相手を破壊できるが故に、能力と操光術にばかり注目が向けられる。だが、神代の闘法…特に神壊と袂

を別って以降の戦闘技術は、本分が別にある。すなわち、「同じ操光術使いとの戦闘」に主眼を置いて変化を遂げた部分…、

同等の力場を展開する相手との組み打ちが。ユウヒはこの技能において父に大きく水をあけられている。

 しかも、逆神とその眷属を相手に幾度も死地を乗り越えてきたユウキは、実戦がとにかく「巧い」。「試合」をして強いの

はユウヒだが、「何でもありの潰し合い」で強いのはユウキである。徳利と策から成る愛用の遺物は持ち込んでいない。徒手

空拳、五体のみでの対戦で、ユウヒは父に圧倒されている。

 光柱の勢いに押し遣られる格好で飛ばされた若熊は、体勢を立て直しながらも焦っていた。

 本気で仕掛けているのに自分の力は父に及ばない。このままでは勝てない。このままでは…。

(力を…。もっと、力を…!)

 このままでは、負けてしまう。

(もっと…!)

 ヤクモが連れて行かれてしまう。

(もっと力が…欲しい!)

 焦りから、ユウヒは「その線」を踏み越えた。

(…さて、随分出し惜しみされたが…)

 地面にしっかり両脚をつき、踏み締めて腰を落とした熊親父は、落着する息子を見据える。

(ようやっと、「出た」か)

 ズン…。そんな重々しい足音に続き、四つん這いに近い低姿勢で着地したユウヒが、丸めた背中を震わせる。

 息子を見つめるユウキの目に緊張の光が強まった。空気が変わった。肌がひりつく。背筋を寒気が這い登る。

 若熊が纏う燐光の表面に、細かな放電にも似た赤銅色の線が不規則に走り、明滅する。鬩ぎあうように激しく明滅した力場

が暗く沈んだ色調に変わった。どこか禍々しさもある赤銅色に。

「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 一転して伸び上がるように身を逸らした赤銅色の熊が、天を仰いで咆哮する。

 神卸しの暴走。発露した獣性…厳密には野生のソレとも異なる「歪な本能」が、人格と思考を塗り潰して表出した状態。

 自衛の為の排除でも、喰らう為の狩猟でもない。獣の目的は、生きる為の殺しではなく、殺すための殺し。

 敵性存在を破壊するだけの、ただただ純粋な攻撃衝動の発露。その咆哮は魂が底冷えしそうなほど禍々しい。

(さぁて、こっからが勝負じゃ…)

 深呼吸したユウキは、両拳をゴツンと胸の前で打ち合わせ、全身に力を漲らせた。

「狂熊覚醒(きょうゆうかくせい)…!」

 それは、神代式の神卸。纏う燐光が輝度と容積を増して拡大し、血流が増進されて筋肉が莫大な出力を得たユウキの肉体は、
十歳は若返ったような瑞々しい感覚を取り戻した。

 消耗が数倍に膨れ上がる一方で、力場も身体性能も同率で倍増する。生命力そのものを転化し、肉体に威を纏う秘術。それ

が、完全制御された狂熊覚醒。

 直後、獣と化した赤銅色の巨熊が動いた。

 大きく左足を引いて半身になり、右手に光球を生み出し、左腕を大きく引く。さながら弓を引き矢を番えるように。力場の

光は赤々と燃えるような赤銅色に変色し、ギシギシと古い木が風に鳴くような音を立てている。あまりにも高密度になったエ

ネルギーにより、空間その物が軋んでいた。

 対するユウキは腰を沈めた半身で、右腕を脇につけて構え、力場を拳に集中させている。

「るおおおおおおおおおおおおおっ!」

 物質であるかのようにくっきりと形を整えた赤銅色の光球へ、獣が左拳を叩き付ける。はじき出された力場の球は、虚空に

赤銅色の線を残して飛翔する。それと同時に…。

「るあおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 ユウキが獣のソレすら掻き消すほどの咆哮を上げ、瞳が暗く濁った赤茶の光を灯す。たちまち力場が赤銅色に変色し、エネ

ルギー密度が高まる。

 完全制御された神卸し、「その先」を、ユウキは意識して引っ張り出す。

「雷音烈破(らいおんれっぱ)!」

 脇腹につけていた右腕で正拳突き。その勢いで光弾が打ち出されるも、即座に左拳がそれに倣う。続けて飛ぶ光弾は、先の

光弾に追いつき、接触し、しかし爆ぜさせる事なくさらなる加速を与えて弾き飛ばす。

 ユウキの二連射が巨熊が放った閃光と正面からぶつかり、一瞬の拮抗を経て爆散、諸共に消滅した。

 爛々と双眸を光らせてユウキが唸る。鬼のような形相で、唇を捲れ上がらせ、鼻面に無数の小皺を刻み、しかしその頭は…、

(こっちも「引っ張り出せば」まぁ何とかなるようじゃ…)

 極めて冷静だった。

 神卸を意図的に暴走状態に持ち込み、身を焦がす破壊衝動を抑え込みつつ、その先の力を引き出す…。ユウキが使用してい

るのはそんな荒技。狂熊覚醒を完全制御した上で、神卸しの何たるかを突き詰めた末に編み出した、ユウキ固有の秘術。

 その名は、「荒神卸し、狂熊覚醒(あらがみおろし、きょうゆうかくせい)」。現存する他の神将家にも、この現象を理解

し、その領域に辿り着いた者は居ない。

 消耗は通常の狂熊覚醒の倍にも及び、発露する獣性に意識を侵食されないよう集中を持続させなければならないが、出力向

上は大きなリスクに見合うだけの物。これならば絡め手無しで暴走状態のユウヒを押し留められる。

(そう、真っ向勝負で捻じ伏せにゃならん、というのがミソじゃな…)

 暴走する獣。しかしそれを調伏する策が、ユウヒが神卸しの制御に至れる算段が、ユウキにはあった。

(さぁて、踏ん張りどころじゃ!)

 逆神や眷属達と闘っていた頃のような力は無い。若かりし頃の全盛期にはもはや遠く及ばない。

 それでも、老いた体に鞭を入れ、奥羽の鬼神は拳を固める。

 神卸しの持続と、要所で引き出す荒神卸し。ガタが来る程度で済めば僥倖だと、ユウキは口の端を不敵に吊り上げた。



 行水を終えた秋田犬の若者は、工房の前に佇んでいた。清めた身には風が一層冷たく感じられ、見上げた空は余所余所しい。

 見納めになる故郷の空を見上げるヤクモは…。

「キミがヤクモ・イタマエ君じゃな?」

「!?」

 すぐ傍、1メートルと離れていない距離で発せられた声に驚き、弾かれたように首を巡らせる。

 そこに老人がいた。丸いフォルム…という第一印象の、ローブを纏って杖をつく、童話の魔法使いのような、サンタクロー

スのような、白髪白髭の老人が。

 ヤクモに全く気付かれないまま隣に並んで、空を見上げていた老人は、ゆっくりと顔を傾けてヤクモに視線を向けると、悪

戯っぽく頬肉を上げて笑い、ウインクする。

「ハッタリというモンはなかなか重要じゃ。見せ過ぎると飽きられるしうんざりもされるから、適度にという条件はあるがの。

つまりおどかすつもりでやった事なんじゃが…、いや、久方ぶりに相当良いリアクションじゃった。嬉しくなるわい」

 体型のせいか、種は違うのに傍目からは少し似ているようにも見える少年と老人を、少し和らいだ風が撫でて去る。からか

うような風に耳をくすぐられたヤクモは、瞬きも出来ずに老人を見つめていた。

(間違いない…!このひとが…、当代の…!)

 少年は一目で理解した。クラフトマンとしての目が、老人本人どころか、所持している品一つ一つが相当非常識だと理解さ

せた。

 足元まですっぽりと覆うフードつきのローブに、素材の木目と捻れがそのまま残された杖をつく白髭の老人…。その姿は、

まさしく物語から抜け出てきた魔法使いそのもの。

 そして実際に、この老人は世界中の術士をして「まるで魔法使いのよう」と評される。

 樹齢九千年の古木、その生きた枝を分けて貰って作られた杖は、先端が丸みを帯びて太くなっている。そこに、ゴルフボー

ル大の真っ赤な宝玉が埋め込まれ、深い色の光を湛えていた。これが老人愛用の品にして、世界最高峰の術具の一つ。

 纏うローブは、魔猪の毛織物に術式を施した品。内側を別世界に書き換えるレベルで望む環境を作り出すと同時に、外部か

らの通常手段による干渉を大幅に軽減する一種の小結界であり、これも世界最高峰の個人防衛装置。

 そして老人本人は、研究都市OZに居を構える真祖の術士。世界で最も高名な術士のひとりであり、研究都市内でも大派閥

となっている一門の長。「OZの魔法使い」と呼ばれる研究都市の術士の中でも代表格、生ける伝説「アグリッパ」。

 一見して好々爺にしか見えないが、頭の天辺から杖の先、脳細胞の一つ一つまでもが世界の財産とも言える老人である。

「一つ種を明かすと、ワタシら一門は思念波とその付随及び派生現象について探求を進めておる。残留思念波についてはそれ

なりに詳しく、そして敏感な門派なのじゃ。ワタシは今、キミが日々移動して残したこの場所の思念波に溶け込みながら歩い

て来た訳じゃが…。つまり、自分の心音や呼吸音を常に意識はせんじゃろう?思念波もそれらと同様、自分の物と同質に繕わ

れると…、ま、結果は御覧のとおりじゃ」

 アグリッパ達の探求は、単に術や品の研究に留まらない。術は行使形態の一つであり、術具はツール、いわばソフトウケア

とハードウェアというのが彼らの認識。そしてその探求が最重要と定めているのは、術の根源であり術具の起動要素でもある

のみならず、あらゆる能力の礎である「思念波そのもの」。

 この思念波の研究における一つの頂点…残留思念波恒久化技術により、代々のアグリッパはその経験と知識を次代の弟子へ

残す。映像でも文章でも絵画でもなく、術具などの品に思念波で情報を転写し、それを受け入れて貰う事で継承してゆく。そ

うやって知識と経験をまるごと伝授できるからこそ、一門の技術は劣化する事無く進歩を続ける。

「思念波の同質化…?そ、それって…」

 驚愕しながらもヤクモは思わず呟いていた。

「使い慣れた術具が体に馴染んで感じられる現象と…」

 少年が思わず得意分野の現象と照らし合わせながら言葉を漏らすと、老人は興味深そうに瞼を上げながら「いかにも!」と

口元を緩めた。

「キミの視点は面白い。もう少し意見と感想をザックリで構わんから聞かせて欲し…」

「先生、自己紹介とか挨拶とかいろいろおかしな手順になってますよ。あとそろそろ声かけていいですか?いやもうかけまし

たけどね!はっはっはっはっ!」

 アグリッパの言葉を遮って発せられた声が、そのまま一息に喋って笑いに繋がり、ヤクモはギョッとして振り向く。いつの

間にかふたりの背後に黒髪の若者が立っていた。

「やあやあはじめまして!ゲンエイですどうぞよろしく!」

 男は笑いながらヤクモの手を取ると、握手して上下に揺する。強引な挨拶と距離の詰め方に面食らいながら、ヤクモは唾を

飲み込んだ。

 これがアグリッパ一門。

 嫌でも判ってしまった。知っている術士とは立っている場所から違う、真祖の術士達の実力の片鱗が。




「散華衝!」

 ユウキが突き出した拳の先には、腕を交差してガードする狂い熊。力場の厚みを前面で増し、防ぎ止める。

「るるるるるるるるっ…!」

 唸る赤銅色の熊の足が、地面を抉りながら下がる。

 激しい応酬を経て先に出力が下がったのは赤銅色の巨熊の方だった。

 無駄な力みを排して緩急をつけ、呼吸を整えて長丁場に対応する、奥羽の鬼神の真骨頂。戦上手ぶりを遺憾なく発揮する熊

親父が、ペース握って巨熊を攻め立てる。しかし…。

(さぁて、上手く事は運んだが…!)

 ユウキの心臓が暴れ回る。神卸しを持続させ、荒神卸しを繰り返し使用するその負荷は、もう若くはない肉体には酷だった。

力場は気合で保たせても先に体が動かなくなる。精神論ではどうにもならない現象としての消耗が足を止めさせるだろう。

「ぬぅんっ!」

 多重展開した力場を、気合一閃赤銅色に染め上げるユウキ。荒神卸しを発動させて巨熊を防御膜ごと弾き飛ばすが、力場そ

のものは健在で、追い詰めるには至らない。

(粘りよるわい!我慢比べは得意な方じゃったが…、えぇい!歳かのぉ!)

 追撃に移る前に一度荒神卸しを切る。牽制にまで出力は必要ないし、そこまで贅沢する余裕は無い。光の色に戻った雷音破

を放ち、それを追って跳ぶ。防いだ巨熊へ追撃をかけて追い込む算段である。

 着弾。轟音。防御姿勢は確認した。弾けて散って迸った光を突っ切るように、間合いを詰めたユウキは…。

(しくじった…)

 光を裂いて眼前にヌゥッと現れたもの…赤銅色の破壊を纏う右手を、諦観をもって受け入れる。

 ガッと音がして、顔半分を持っていかれたような衝撃がユウキを襲った。

 顔の左半分を鷲掴みにするような一撃で、力場が軋み、一瞬で割られた。追撃のために拳へ力を傾けていたのが仇となった。

 完全には破壊されていないが、赤銅色の親指が押し割った力場を抜けて…。

 ブヂュッ。

 キリリと歯を食いしばる。右側から迫る左手が見える。追撃を貰えば墜ちると判っている。

「連っ…壊っ…!」

 この一瞬が勝負の分かれ目…。

「散華衝!」

 繰り出したのは、鳩尾を狙う超至近距離での右拳。多重展開した力場を反応、連鎖崩壊させて生み出す爆発に、飛び込んだ

のは左の拳。閃光爆ぜる一瞬に、破壊の二撃目をくべて火力を上げる絶技が、赤銅色の巨体を吹き飛ばす。さらに…。

「蒼火天衝(そうかてんしょう)!」

 ユウキはその場で大地に右拳を打ち付ける。巨熊が吹き飛んで行った先で地面が発光し、光の柱が噴き上がり、巨体を飲み

込み上空へ打ち上げる。そして…。

「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 咆哮を上げ、最後の荒神卸しを発動しながらユウキは跳んでいた。高々と打ち上げられた巨熊のさらに上方から、連壊散華

衝でも蒼火天衝でも削り切れなかった巨熊の力場に、至近距離から両手を向ける。

「蒼火…、天槌っ!」

 赤銅色の光が天から地へ駆け下った。光柱に飲まれた巨熊はそのまま地面に打ち付けられて、照射に晒されて力場を削り取

られる。

 赤々と輝く光芒が、次第に細くなってやがて消えた時、ユウキは地に降り立って巨熊を見据えていた。

 無傷だった。

 巨熊は健在。力場を削るだけ削り、破る寸前まで行きながら、あと一押し足りなかった。しかし…。

(足りた…かのぉ?)

 ユウキは油断無く目を細める。警戒しているのか、動かなくなった巨熊を睨みながら。

 巨熊は考えていた。 勝てぬ。ならばどうすればよいか?と。

 思考する。それ自体が暴走の綻び、獣性の薄れ。

 戦闘の最中、力で押し切る事ができない獣の中で、疑問が生じ、それが思考の階となる。

 自滅も顧みず対象の破壊を望む獣が、それを成せないが故に生じさせた疑問…「どうすれば勝てるか?」。全ては、それが

生じるか否かの勝負だった。

 膨大な出力を得ようとも、それが垂れ流しでは非効率的。代々の神代が研鑽して編み上げた古式闘法に及ぶべくもない。な

らばどうする?

 動きが止まっていた獣の、周囲に発散されていた圧が、少しずつ減少し始めた。

 燃え立つ炎のように揺らぐ力場が、その身にあわせて形を整え、やがてそれは神卸し本来の物に近い、膨大ではあるが洗練

された制御下で範囲を保つ物へと変じてゆく。

 そして、獣の目には理解の光が灯る。澄んだ、理性的な光が。

 構えが変わる。半身になって片足を引き逆の腕を前に出した、神代の古式闘法における正調の姿勢…。それはユウヒが好ん

で用いる構え。

 眼差しに宿るのは真剣な光と、難敵への緊張、そして思考。獣性に理性を塗り潰されたその状態から、武人として育てられ、

磨かれてきたその「質」が、神代勇羆の光明となった。

 神卸しによる膨大な力を纏い直しながら、そこに居るのは破壊衝動に身を任せる獣ではなく、神代家長男のユウヒだった。

「………」

 構えたまま、ユウヒの瞳に胡乱げな色がちらつく。疲弊している父親の姿に違和感がある。闘っていた感覚はあるが、戦闘

を思い出せない。

「…親父殿?」

 口を開いた少年が発したのは、戸惑うような声。

「やれやれ…。どうにか辿り着きよったか…」

 安堵の息をついた途端に、熊親父の体から力場の燐光が霧散した。

 堪らず膝を折ったユウキは、激しく息をついて背中を上下させた。全身が軋み、頭痛が酷く、胸が苦しい。神卸しその物が

維持ギリギリ、肉体への負荷は既に限界を超え、体のあちこちで骨と筋肉、内臓や神経が悲鳴を上げている。

「かろうじて、じゃな…。何とか…命までは、獲られんで…済んだわい…!」

 父が上げたその顔を見て、ユウヒは息を止めた。

 ユウキの左目は潰れていた。先の一瞬、顔面を捕らえられた際に割られた力場を通し、巨熊の親指が眼窩に突き刺さって眼

球を抉っていた。

 慌てて駆け寄ったユウヒは、ダラダラと流れる血に染まった父の左半面を見ながら、触れて良いものかどうか迷うように両

手を宙に彷徨わせる。

「や、薬師神に連絡をっ…!」

「落ち着け。他はともかく流石に目ん玉は無理じゃ。今から呼んでも間に合わんわい」

 取り乱しそうになる息子とは対照的に、疲労困憊の父は落ち着き払っている。

「次期当主の神卸し会得と神代家御庭番の安全、そいつに対して目ん玉一つ…。対価としては安いモンじゃ」

 ユウキに後悔はない。下手をすれば命を落とすか再起不能、そんな覚悟で望んだ逃げ場の無い勝負だった。成功し、自分も

生きている。大勝と言っていい戦果だと感じている。

「俺は…。俺が…!」

 少年は両手を顔の前に上げて見つめ、わなわなと震えた。ヤクモに続き、今度は実の父を殺しかけた。奥羽の鬼神から片目

を奪った。その重さが背に圧し掛かる。しかし…。

「良いかユウヒ。儂の目ん玉はのぉ、ただ潰れて無くなった訳じゃねぇ」

 熊親父はボタボタと、流血で胸元を染めながらも笑っていた。すっきりしたような、重荷から開放されたような、満足した

ような、そんな表情で。

「未来のおめぇを一足先に見に行ったんじゃ。不甲斐無ぇ当主ぶりだったら叱り飛ばすためにのぉ」

「っ!」

 口を引き結ぶユウヒ。

 堪えた。懐深いその言葉が、拳よりも強く胸を突いた。

「良い当主になれるよう、ずっと見守っとる。思えばユウトほど面倒を見てやれとらんかったからのぉ。その分、先のおめぇ

を見ててやろう」

 ふ~…、と長く息を吐いて、ユウキは改めて我が子を見遣った。

「さて、どうするユウヒ?ヤクモの事じゃが…」

 熊親父は当初の話を持ち出す。父がどうしてこんな真似をしたのか察したユウヒは、開戦前の父の言葉は挑発に過ぎず、本

心からヤクモを詰っていたのではないと理解した。

「もう神卸しが暴走に至らんなら、離しておく必要もなくなる。これまで通りに傍に控えさせても良いじゃろう。今ならまだ

国内じゃ、呼び戻す事も…」

「…いや」

 父の言葉に、少年は首を横に振る事で応じた。

「いづが…」

 自分の未熟さを痛感した。力でも、技でもない。精神的な遊びのなさ…引いては余裕と許容の無さが脆さと危うさに直結し

ている事を理解した。

「いづが、俺が立派な当主んなって…」

 神卸しの感覚はある。忘れようもなく体が覚えている。父の助けがなければ辿り着けなかった、戻って来られなかった、そ

の自覚もある。

「親父殿の左眼に恥じねぇ当主んなって…」

 未来の安定は、自分が掴み取った物ではない。自分にはまだ、我儘を言える資格はない。

「そんで…、そんで…!ヤクモがけって来ても良いって言ったら…!」

 跪き、地面を見つめ、握り締めた拳を焼け焦げた大地に据えて、ユウヒは震える声を吐き出した。

「そん時は…!そん…時は…!」

 伏せた顔から落ちる声が、焼けた土に落ちて染み込む。

「…そうか…」

 頷いた熊親父は呟く。

「こいつは先代の受け売りじゃが…」

 かつて父親からこの場で聞いた言葉を、ユウキは息子に、次の当主になる若き神代に伝える。

「この世に「断って良い命」は一つも無い」

 どっこいしょ、とユウキは大儀そうに座り直す。疲労は回復していないが、血筋なのだろう、潰れた左目からの出血は早く

も収まりつつあった。

「「止むを得ず断たねばならぬ命」とは、役目上どうしても相対し、命を奪う事もある。じゃがのぉ、断たれて良い命など世

に一つとして無いんじゃ。御役目で仕留める犯罪者も、怪物の類も、そして…、裏帝や逆神達でさえそうじゃった…」

 顔を上げた息子の目を傍から見つめ、熊親父は続ける。

「儂が殺した逆神にも家族は居たじゃろう。命を奪った眷属にも親友があったじゃろう。儂らはのぉ、誰かのユウトを、誰か

のヤクモを、殺し続けてここにおる」

 ユウヒは頷く。今なら父が言う事が理解できる。

「儂らは殺める。この指はその都度、摘んだ命で染まってゆく。「許される殺し」などない。命を奪い未来を断つのは、許さ

れた特権などでは決してないのは勿論、当たり前の事などでも決してない。断つ命の向こうにいくつもの命がある。その事を、

努々忘れるでないぞ?」

「…はい…!」

 奥羽の鬼神と呼ばれる男が心の内に秘めていた物を受け止めて、その息子は深く頭を垂れた。

「結構。…さて、せっかくじゃ。「お詞(おことば)」を諳んじてみぃ?」

 ユウキに促され、ユウヒは父と正対し、居住まいを正して座す。

「屍山を築き血河を渡り、摘みし命に指を染め、この身殺して仁を成す…!憂き世の雨を晴らし候…、命一つを武に込めて、

矢尽き刃の折れるまで…!」

 それは誓願の詞。当主引継ぎの際にも述べる詞。「神代ではなくなった男」が遺した詞。

 命の重みを知るに至り、先代の言葉を聞かされた今、ユウヒはこの誓願の重さを、初めて真に理解した。

 御役目で殺した。敵を殺した。悪人を殺した。何人も殺した。キリグモも殺した。しかしそれは、その時必要に迫られての

事ではあっても、決して正しい事ではない。

 咎に塗れてなお生きる。命尽き果てるその時まで、憂き世の涙を晴らして回る。

「結構…!」

 疲れきった顔にニンマリと笑みを浮かべ、ユウキは大きく頷いた。

(これで、最大の心配事は片付いたわい。後はヤクモじゃが…)




 夕暮れの港に、その船の影は長く横たわっていた。

「長旅になりますからね!暇潰しの本は持ちましたか?酔い止め薬は大丈夫?そもそも船の長旅ははて、経験ありますか?」

「本はありませんが、時間があれば何か書いて過ごしますから…。酔い止めは無くても平気です。長旅の経験はありませんけ

ど、波が荒い所でも酔った事はないので、たぶん大丈夫かと…」

 並んで歩くゲンエイに話しかけられ続けるヤクモは、一つ一つ受け答えしながら船に近付いてゆく。

 向かう先は真祖の術士が集う研究都市、「OZ」。実感はまだ湧かないが、これからはそこで暮らす事になる。アグリッパ

の門下生として…。

「おや。独りで待つのは心細かったようじゃな…」

 フレイアと並んで先頭をゆく老人が歩きながら呟くと、「おっとそれはいけない」とゲンエイが前に顔を戻した。一行の行

く手、荷物の積み下ろし作業が行なわれている船の脇で、少年がひとり所在なく佇んでいた。

 人間の少年で、眼鏡をかけ、赤みの強いブロンドヘア。中背だが妙にホッソリしていて、気弱そうな顔も相まって頼りなく

見える。十代半ば過ぎ、ヤクモと同程度の歳に見えた。

 一瞬、秋田犬はデジャヴを覚える。間違いなく初対面のはずなのに、会った事があるような、見た事があるような、奇妙な

印象があった。

「戻りましたよジョバンニ!船室は落ち着きませんか?それとも暇でしたか?あるいは寂しかったんですか?何にしてももう

心配要りません!」

 ゲンエイがアグリッパとフレイアを追い抜き、一足先に少年に歩み寄って手を取り、シェイクハンドする。

「待たせたのぉジョバンニ」

「いえ…。あの、お疲れ様でした…」

 赤い髪の少年は、眼鏡の奥からヤクモを見遣る。

(このひとも新しい門下生?…大きい…。ちょっと怖い…)

 緊張している様子の少年は、アグリッパに促されてヤクモと向き合った。

「この子はヤクモ。今日からワタシの門下生じゃ。さあ、お互いに自己紹介を」

「は、はい。板前八雲です。よろしく…」

「ジョバンニ・バルファーです…」

 名前だけ名乗りあい、少年達は言葉を続けられなくなる。どちらも友人が殆ど居なかったので、話術はあまり上手くない。

沈黙を見かねたのか、両者の顔をしばらく見比べていたゲンエイが口を開く。

「今回の募集に応じたホンコンの風水組合からの被推薦者です。術士としての本格的な修練は積んでいないそうですが、肉親

から手解きされたのである程度の術は使えるそうです。それよりも、少年とは思えないほどの術の構造解析理論を持っていま

す。あ、ヤクモ君は知ってますか?風水組合」

「はい、簡単にですが両親から聞かされたので…。ということは、風水師なんですか?」

「いやいや、推薦元が風水組合というだけです。あそこの術の大系などを学んでいたそうですが、元々扱っていたのは西洋式

でしたねジョバンニ?」

「は、はいっ!…あ、でも、実際に使えるのはほんの少しで…」

 知識は与えられて理論は学んだが、兄はまだ早いからと言って術の実践指導はあまりしてくれなかったのだと、ジョバンニ

は言った。これを聞いたヤクモは共感と寂寥感を同時に抱く。

「お兄さんが先生だったんですか?」

「はい!少し怖いけど、でも優しい、自慢の兄です…!」

 兄をそう評しながらはにかんで笑う。そんなジョバンニが少し誇らしげにも見えて、ヤクモは思う。何となくだが仲良くで

きそうな気がすると。

 そしてジョバンニも感じる。体が大きかったので少し怖そうに感じたが、この秋田犬は理性的で礼儀正しい。体格に見合わ

ず少し気弱そうだが、そこに親近感を覚える。

「キミらは同期生という事になる。仲良くするんじゃぞ?」

 ふたりともすぐに打ち解けられそうだと感じたアグリッパは、顎鬚をしごきながら満足げに頷く。ゲンエイも同じく頷いて、

両手を広げながら述べた。

「同期生であると同時に、同じ後継者候補なのでライバルでもありますね!勿論私も含めてです。切磋琢磨し、力を合わせて、

術の進歩に貢献しましょう!誰が後継者になっても恨みっこなし!智のために皆で邁進しようじゃありませんか!」

 その様子を、すぐ傍で眺めながら…。

(参ったな…)

 自然体で佇むフレイアは、その青い瞳にのみ、状況を子細に分析する注意力の断片を覗かせている。

(「被認迷彩」って言うんだっけ?こんなに堂々と内緒話ができるなんて…)

 傍に居るのに、フレイアは術士達の言葉を認知できない。話していると認識しているのに、声は聞こえてくるのに、会話の

内容が理解できない。しかもそれを異常な事と感じるには注意力が要る。気に留めなければ、雑踏の中で聞こえた会話を意識

せず聞き流すように意識が向かない。さらには…。

(「コレ」、私にしか見えてないんだよね?たぶん…)

 フレイアの眼前には、「内輪の話じゃからちょっと待っとってね♪」と、丸みを帯びたポップな書体で、ネオンのように派

手に光るカラフルなメッセージが浮かんでいる。

(う~ん…、真祖の術士ってやっぱりいろいろ理解の外だわ。ユウキさん風に言うと「あんびりいばぶるじゃ」。この人達と

一緒だったら、ヤクモ君に私の護衛いらなくない?)

 神代家からの正式な依頼として、OZに入るまでのヤクモの身辺警護を担うフレイアだが、必要性が甚だ疑わしくなって来

たぞと、形の良い眉を寄せた。もっとも、必要とされているのは戦力だけでなく、道中の話し相手や相談相手としての役回り

も求められているので、全く無意味というわけでもないが。

 ほどなく、フレイアの眼前から文字がパッと消えて、「お待たせしたのぉ」と老人が首を巡らせる。

 かくして一行は海運業者の船に乗り込む。足場を踏み越えるその寸前に、ヤクモは一度だけ振り返った。ここからでは見え

るはずもない故郷の山々の方角を。

 別れの挨拶は交わせなかった。頭を下げる事もできなかった。

 今の少年が主となるはずだった少年に望むのは、よい当主になる事。そして、より良い傍仕えに恵まれる事…。

(おさらばです。ユウヒ様…)

 突き刺すような痛みを胸に抱えて、少年は旅立つ。未だ見ぬ新天地へ。運命が待つ都市へ。