第三十五話 「神代熊禅」

「んっふっふっふっ、久方ぶりの水入らずじゃ…!ほーれユウト、こっち来い!」

 秋の訪れで庭木も色付いた、神代邸の裏庭。作務衣姿で眼帯を着けた大柄な熊親父は、屈んで腕を広げ、金色の幼い熊を懐

に招き入れる。

 娘をサッと抱き上げて、屋敷裏手から外へ出たユウキは、そのまま山の色を楽しむ散歩に出かけた。

 ヤクモが村を出てからというもの、ユウヒは彼の分まで面倒を見ようとするように、積極的にユウトの世話を焼いていた。

しかしユウヒは今日からしばらく不在になり、トナミも河祖中、河祖上へ挨拶周りに出て夜まで戻らない。
出番を奪われる事

が多くなっていた父親は、妻と息子が不在の好機を逃さず、存分に娘を甘やかす心積もりである。

「ユウヒはまぁ心配要らんじゃろう。勉強ついでに羽を伸ばして来ればええんじゃ」

「はねー?」

「うんむ。まぁ、遊びともちょいと違うがのぉ、気分転換のような…」

「むずかしー」

 顔を顰めて考え込む金熊に、熊親父は笑って言った。

「まぁ、楽しい事じゃな!しかしこっちも負けんと楽しむぞ?オヤツはシュークリームじゃ!」

「すーくりーむ!」

 顔をパァッと輝かせるユウト。

「しかも十個ある!」

「じゅ…」

 金熊は両手を広げ、指を全部立てて、それと父の顔を見比べた。

「じゅう!」

「そうじゃ!で、ユウトは八つまで食っていい!」

「やっ…」

 手に視線を戻したユウトは、右手の指を二本折って…。

「やっつ!」

「そうじゃ八つ!う~ん、我が娘は賢いのぉ!では九つ食っていい!」

 これが、トナミが夫に娘を任せきりにできない理由である。

 ユウキは溺愛する娘に際限なく菓子を与える。しかも甘いものに目が無いユウトは与えられた分だけペロリと平らげる。

 婦人の目を盗んだこの餌付けにより、ユウトはすくすくと育ちながらも、プクプクと膨れてきていた…。




 栃樹県。平家の落武者伝承などが残る深山幽谷。

 山深い紅葉の道で、停車したバスからのっそりと、目を見張るような巨漢が下車した。トレーナーにジーンズと、格好だけ

は歳相応だが、いずれも特注サイズである。

 背中に担ぐのは大荷物。これから数日かけて登山でもするような、大きなザックである。

 長時間バスに揺られ、ようやく降り立った揺れない地面を踏み締めて、赤銅色の巨熊は胸いっぱいに空気を吸い込む。

(やっと…着いだ…!)

 腕捲りしたトレーナーにジーンズ、スニーカー姿のユウヒは、窮屈な服装に辟易しながら山の稜線を見回した。川祖下とは

違う風の色と匂いだが、豊かな山だと空気で判る。

 天気は良く日差しは暖かく、秋の空は何処までも高い。清々しい気分になる景色と天候である。

 上体を回して腰をほぐし、走り去るバスを見送った巨熊は、念のために手帳を取り出して簡素な手書き地図を確認すると、

近場の案内板と見比べ、のっしのっしと歩き出した。

 そしてユウヒは、五分も歩かないうちに急峻な斜面に刻まれた石段の下で足を止めた。

 坂を何度も折り返しながら登ってゆく長い長い石段を一度見上げ、瓦屋根つきの山門を確認してから目を戻したユウヒは、

傍らの看板を見遣る。

 一枚板の看板には、縦書きで禪示庵(ぜんじあん)と彫られていた。

(忌み字…)

 胸の内で呟いてから、巨熊は二百段を超える石段を登り始める。巨躯でありながら足取りは軽快で、太い両足はその重量を

苦も無く運んでゆく。

 距離はあったのだが、歩みが速いので山門まではすぐだった。門構えから中を眺めるユウヒは、平屋造りの立派な屋敷を両

目に映した。

(こごさ来んのも久しぶりだな…)


 暖かな日差しが注ぐ縁側で、老齢の熊は番茶を啜る。

 紺色の作務衣を纏う体は毛色がだいぶ褪せ、白い物が混じった蜂蜜色。歳のせいで肉が弛んだ体はでっぷりとしている。老

いてなお四肢に逞しさが残る巨体は、立ち上がれば2メートルを大きく超えるほど。胡坐をかいているが、作務衣の下穿きか

らは左足しか出ていない。組んで上にしてある右足は、膝のすぐ下から一本の太い棒になっていた。

 隻脚の老熊は、名を神代熊禅(くましろゆうぜん)という。先代の神代家…神将に返り咲く前の家長であり、ユウキの父。

ユウヒとユウトから見れば父方の祖父となる。

 座した熊の太い脚には、小太りで丸っこい白黒ブチ猫が、外側から縋るようにして頭を乗せて寝転がり、スゥスゥと寝息を

立てている。
そして熊が日向ぼっこと茶を楽しんでいるすぐ後ろでは…。

「アタック。トランプルね」

「マジでー!?」

 背が高い白馬の子が畳の上のカードの向きを変え、狐の子が頭を抱えて仰け反った。

 トレーディングカードゲームで対戦している子供らの声を聞きながら、老熊は傍らの皿に手を伸ばし、楊枝を刺した羊羹を

口元に運び、ゆっくり味わい、再び茶を口に含む。色付いた庭木を愛でながら楽しむ長閑な昼下がり。聞こえてくるのは小鳥

の囀りと秋虫の歌。

「また負けた…!」

「勝負を急ぎ過ぎるからだよ。じゃ、デッキ替えよう」

 悔しがって耳を倒す狐を促して、白馬が再戦しようとすると…。

「ん?」

 老熊が耳を立てて首を巡らせる。狐と白馬はユウゼンの様子に気付いて顔を上げたが、特に何も聞こえない。しかし…。

「来客のようだ」

 老熊がそう言うと、狐も白馬も揃って立ち上がった。

 先端に布を巻いた義足をゴツンと立て、ブチ猫を片腕で軽々と抱き上げたユウゼンは、寝ぼけている猫の子を軽く揺すりな

がら立ち上がり、玄関へ向かう。その途中で、ピンポンとチャイムの音が聞こえた。

「ソウタロウ、ハイメ、アキタカ。客はおそらく某の孫だ。昨夜も言ったが、某の身内とはいえ「その筋の者」である事に変

わりはない。決まり通りに名前は「番号」で呼び合うように」

「はい。気をつけます」

 ソウタロウと呼ばれた白馬が背筋を伸ばして返事をし、ハイメと呼ばれた狐も頷き、アキタカと呼ばれたブチ猫も寝ぼけ眼

を擦りながら「わかったぁ…」と応じる。

 そうして一緒に玄関まで出た老熊と子供らは、開けられた引き戸の空間を埋めるような巨漢と顔をあわせた。

「でっけぇ~!」

 2メートル50センチはあるだろう、ユウゼンよりも大きな若い熊の姿を見て、狐の子が感心して声を上げる。白馬も目を

見張っている。ブチ猫は眠気が吹っ飛んだ様子で目をパチパチしている。

「ご無沙汰です、御爺殿(おんじいどの)」

 深々と頭を下げるユウヒ。

「うむ、久方ぶりだ。立派になったなユウヒ」

 目を細めて微笑するユウゼン。

 顔を上げたユウヒは、数年ぶりに会った祖父の顔をじっと見つめた。

 白いものが多い被毛に、だいぶ緩んだ肉、しかし逞しさが残る体は七十を超えた実年齢からすればまだ若々しいと言える。

「御爺殿も、お元気そうで何よりです」

 肉親とはいえ、ユウヒはユウゼンと一緒に暮らした記憶がない。物心ついた時には祖父は家を出ており、祖母も亡くなって

いた。数度しか会っていないので、どんな態度で接するのが適切なのか判らず、やや他人行儀な挨拶になってしまう。

「なに、老体に鞭打っておるだけのこと」

 老熊はそう言って、ブチ猫を抱いているのとは逆の手で自らの脇腹に触れ、ムニッと贅肉を掴んで笑ってみせる。

「はっはっはっ!これこの通り、体の端々まですっかり緩んでしまった。そういう事で、立ち話も少々堪える。遠慮も挨拶も

程ほどに、上がって貰えると助かる」

「…!」

 ユウヒの眉が少し上がった。

 畏まった挨拶は抜きにして、リラックスして家に上がれ。長旅で疲れただろうと孫を労わり、ユウゼンは自分の老いをダシ

にしながら言外にそう含ませた。その柔らかな気配りを察して、ユウヒは顎を引くような会釈で応じる。

 そしてユウゼンは白馬の子に、「「17」、すまないが「15」と「16」を呼んできてくれるかな?」と声をかけた。

「はい。応接間の方ですか?」

「いや、囲炉裏の間にしよう。応接間には確か、「15」が作っているプラモデルの城が、まだ途中で置いてあったはず…」

 白馬の子が一礼して廊下の奥に引っ込むと、ユウゼンはすっかり目が覚めたブチ猫を降ろし、一同を先導して囲炉裏のある

部屋に向かった。


 数分後、真ん中に昔ながらの囲炉裏があり、鉤でぶら下げられた鉄瓶が目を引く、畳敷きの広間に七名が集合した。

 囲炉裏を挟んでユウヒと向き合うユウゼン。その左右にはホッソリした雌鹿の少女と、だいぶ太り気味な虎の少年。白馬と

ブチ猫と狐は向き合う祖父と孫を横から見る格好で並んでいる。

(全員「そう」が…)

 若熊は気付いていた。子供ら全員の手首につけられているリストバンドの存在に。

 それは「タグ」。能力を使用すると信号を発して監査官へ知らせる、能力者への枷。

 ユウゼンがこの屋敷に引き取って育てているのは、政府や関係機関の手に余ったり、分類不能で扱いに困るなどの、特異な

能力を持つ子供達ばかりである。

「孫のユウヒだ。「15」、「16」は、話した事は無いだろうが、元服の挨拶に来た時に顔だけは見たはずだな?「17」

「18」「19」は見るのも初めてか」

 ユウゼンはユウヒを子供らに紹介すると、孫に対しては子供らを番号で紹介した。

 太り気味で体が大きい中学生の虎は「15」。

 同じく中学生のほっそりした薄栗色の鹿の少女は「16」。

 小学生の白馬は「17」。

 小学生の黒いブチがある猫は「18」。

 ブチ猫と同い年の狐は「19」。

 他にももうひとり、最年長の子が居たそうだが、ユウヒと同い年のその子は学生寮に入っているので、長期の休み以外は屋

敷に居ないらしい。

 素性を明かしたくない、またはあまり接触すべきではない相手に対しては、子供らは名前ではなく呼称番号で紹介する。こ

れは、特異な能力を持つ子供らの個人情報を伏せるためである。

 いつか独り立ちした後で、名前からその出自などを探られないように。子供の内に目をつけた何者かに利用されないように。

普通に社会生活ができるように。そんな想いを込めて、ユウゼンはこの仕組みを子供らに課した。

 身内である神代家…実の孫であるユウヒに対してもこの振る舞いを崩さないのは、才能を見い出された子供が、大きくなっ

てから所在を追跡されて、お庭番に採用される事を防ぐためだった。

 この中には戦闘に使える能力を持つ子供も居る。だが、ユウゼンは能力の制御訓練を施しはしても、彼らが戦場に立つ事を

望まない。幸福とは言えない家庭環境や生い立ちから救い上げた子供らだからこそ、せめてここから巣立った後は人並みの幸

せと穏やかな暮らしを得て欲しいと願っている。

「ユウヒはこれから三週間ほど屋敷に滞在する。某と色々な…そう、皆と行なっておる能力の制御練習のような事をする。食

事はいつもどおり皆で一緒に摂るが、日中は皆の相手をできない事も出て来るだろう。済まぬが、宿題はちゃんと「15」と

「16」に見て貰う事。よいな?」

『はーい』

 小学生組が返事をすると、ユウゼンは左に座る鹿の少女に目を向けて尋ねた。

「鳥肉がだいぶ残っていたから今夜は鍋にしたいが、長葱はあったかな?昨日の豆腐と納豆に使われた微塵切りの分を思うと、

随分刻んでしまったように思うが…」

「納戸に二本あるだけです。それに、たぶん他の具だって足りなくなります。ちょっと買い出しに出てきますね、お爺ちゃん」

 鹿の娘はユウヒに目を向けて柔和に微笑んだ。

「その大きな体格ですもの、ユウヒさんもお爺ちゃんみたいにたくさん食べる方なんでしょう?「17」、買い物多くなるか

ら手伝ってくれる?」

 白馬が「はい、一緒します」と快く頷くと、ユウゼンは「では頼む」と顎を引き、目尻に皺を寄せる。

「爺さん、客間の掃除は終わってるよ。干してた布団入れるだけだ」

 「15」と呼ばれていた虎が朴訥に告げると、「そうか、有り難う」と老熊は目を細めた。

「じゃあフトンはオレがいれる!」

「あ!ボクも!」

 狐が挙手してブチ猫もそれに倣うと、虎は「ダメだよ」と困り顔になって却下した。

「お前達だと引き摺る大きさだろう?布団は俺が運ぶから、かわりに枕カバーとシーツを手伝ってくれよ」

『はーい!』

 太り気味の虎はのっそり腰を上げると、ユウヒに軽く会釈して、狐と猫を連れて部屋を出て行った。

「それじゃあ私達も。お爺ちゃん、ユウヒさんとお話する事もたくさんあるでしょうから、お茶菓子出しておきますね。お湯

も沸いてますから…」

 鹿の少女は卓袱台から急須と湯飲みを取り出し、戸棚から海苔煎餅を出して皿にあけ、茶飲み話用の席を手早く整えると、

「ごゆっくり」と言い残して白馬を伴い部屋を出る。

「あれは、某が教えたのではない」

 湯飲みを取りながらユウゼンは孫に言う。

「あの娘が自発的にしている事だ。「普通の家庭では母親などがやってあげるのだろう」と思う事を、あの娘はテレビ番組な

どから汲み取って行なっている。子供らにとっては姉であり半分母といったところか、利発な娘だ。「15」も皆の兄として

よく尽くしてくれる。他の小さい子らも、手間を惜しむ事無く何でも手伝おうとしてくれる」

 自慢の子供達だと、老熊は口元を綻ばせた。その穏やかで柔らかな声と態度からは、一線を退くまで五十年以上に渡り御庭

番を率いて帝直轄奥羽領を守護し、逆神達と暗闘を繰り広げた益荒男の面は窺えない。

「御爺殿がなさってるごどは、親父殿がら聞かさいでます。せめで土産ど、両親がら荷物預がりました」

 ユウヒは部屋の隅に置いた大きなザックに目を遣る。土産と一言で括ってはいるが中身で普通の土産と言えるのは地酒のみ。

大半は現金である。

 子供達ひとりひとりには補助金が出ているが、それらはかなり小額。生活費と就学の分しか賄えない補助金だけでは不自由

をさせてしまうため、ユウゼンは自身の蓄えを切り崩して節約しながら子供達を養っている。

 ユウキが援助したくとも、ユウゼンはある事情から神代家と縁を切った身となっており、帝の配下ではなくなっているため、

表立った支援はできない。銀行などを利用しては足がつき、神代家からの直接的な支援の記録が残ってしまうため、熊親父は

こうして現金をユウヒに運ばせた。

「…あの粗忽者も気を使うようになったものだ…。孫の手前、遠慮する見栄程度は張りたい所だが…、子供らの事を思えばつ

まらぬ意地など大事にできぬ。有り難く頂戴しよう」

 ユウゼンは微苦笑を浮かべて軽く顎を引く。

「ユウキからの手紙で事情は理解した。某から学ばせると、あ奴は言っておるが…」

 老熊は少し視線を上に向け、考える素振りを見せて顎下を撫でると、「おそらくは」と目を孫に向け直す。

「某の、戯れ事の類でも見せて学ばせろという事であろうな」

「戯れ事?」

 鸚鵡返しに尋ねるユウヒに頷いたユウゼンは、茶碗でも持つようにして掌を上に向け、左手を突き出す。

 その五本の指先に、小指から順にポッ…、ポッ…、と一定間隔で光が灯された。

「!?」

 ユウヒが目を見開く。老いた熊が翳した手。その開かれた五指の先から数ミリ上に、丁度蝋燭の火のような見た目と明るさ

で揺らめく光は…。

「力場の…、崩壊…!?」

「うむ」

 事も無く頷くユウゼンだったが、それは異常な現象だった。ユウキやユウヒが拳に灯し、目標に叩き付ける力場、その閃光

と熱、衝撃を伴う崩壊現象が、ゆっくりと、少量ずつ、時間をかけて起きている。それも五本の指先の上に固定されて。

 それは例えるなら、瞬時に気化して大爆発を起こすような性質の液体火薬を、気化量を手動で調節しながらアルコールラン

プのように使うような物である。

 単純に五つ別々の力場を展開して維持。それを少しずつ崩壊させ、火が燃えるように発光させる。これだけのコントロール

を特に集中している様子も見せずにこなす老いた熊を、ユウヒはまじまじと見つめた。

(戯れ事なんてもんでねぇど…。どいな細ぇ制御術だ…!?)

 ユウゼンは現役時代でも、総合戦闘力で言えば現在のユウキほど強くはなかった。だが、ある事柄においてユウキは今でも

この老熊に遠く及ばない。

 力場のコントロール技能。その一点において、ユウゼンは神代の長い歴史上でも、例を見ない天才的技巧を持つ。

 驚いている孫を見ながら、ユウゼンは「ふむ…」と顎を引くと、おもむろに手をふわりと振る。放られる格好で指先から離

れた五つの灯火は、ゆっくりと放物線を描いてユウヒに近付き、老熊がクッと拳を握った瞬間にサッと集まった。

「こいづは…!」

 さらに驚愕するユウヒ。手導操作で集まった力場の灯火は滑らかなピンポン玉サイズの球体に成型し直され、煌々と輝く電

球のようになって宙に静止している。

「威力としては癇癪玉程度のもの、闘う手段にはなり得ぬ」

 ユウゼンはそう言ってゆっくりと拳を開く。それに呼応し、光球は外周から光の粒子になって分解を始め、見る間に体積を

減らして無害な熱と微風に変わってゆき、数秒で完全に消え去った。

 正直、ユウヒは少し引いていた。「凄い」を通り越して「気色悪い」レベルのコントロールである。

「火遊びのような物で、褒められた技ではないが…」

 老熊は目を細めて、昔を思い出しているような表情で顎下を撫でた。

「子供受けは良かった。ユウキを含めてな」

 ニィッと好々爺の顔で笑ったユウゼンは続ける。

「ユウトもまぁ、面白がるやもしれぬ」

「ユウトも!?」

 効果覿面。ユウヒは俄然やる気になった。


 こうして、ユウキが手を回して整えた、ユウヒの出稽古生活が幕を開けた。

 熊親父は考えた。始祖の血が濃く出て出力が異常に高いユウヒが、ユウゼンの元でその常軌を逸した技術に触れ、制御能力

を引き上げる事ができたなら…、恐らく「名を消された歴代最強」にも比肩する神代になるだろう、と…。

 同時に、その技術の礎となるのは平常心。精神鍛錬の副次的な効果で神卸のさらなる安定化も見込める。

 一応制御が可能になったとはいえ、父親の心境としてはユウヒの神卸にまだ不安がある。その時々に暴走を止められたとし

ても、獣性に主導権を握られる状態を繰り返し経た場合、いずれ精神に変調をきたす。そうなればもはや「獣人」ではなく、

ただの「獣」となってしまう。

 もう熊親父でも敵わなくなりつつあるユウヒは、万が一にも神卸を暴走させてはならない。止められる者が居なくなってし

まえば大惨事を免れないのだから。そんな理由もあって、
今回の出稽古はユウヒの力を高めると同時に、事故が起こらないよ

うにするための物でもある。

 が、実は理由はもう一つ。

 熊親父は倅について、先代の元で多くの事を学ぶべきだとも考えた。

 「この世に「断って良い命」は一つも無い」。ユウゼンのその言葉を、彼の元でなら身と心で学べるはずだと…。




 稽古やら指導やらの話はまた改めてという事になり、まず一服させられたユウヒは、ユウゼンに案内されて庭と屋敷内を見

て回った。

 来た事はあったが滞在は初めてなので、三週間の滞在中に不自由しないよう、間取り含めて覚える必要がある。

 屋敷自体は戦前からある物を修繕及び改修した物だが、子供達用に個人の部屋が増築されている。元々そういう造りではな

かった和風建築に、箱型の洋室がポコポコと生えている様子はなかなかシュールだが、外観を損なう事より子供達に不便させ

ない事を優先した結果と考えれば、ユウヒの目には趣きと温かみのある屋敷と映った。

「使う事はまず無いだろうが、そこの納屋に雪掻き道具一式と融雪剤が入っている」

 説明を交えつつ案内する老熊が歩くたび、ゴン、と義足が音を立てる。膝のすぐ下から棒になった右足に後ろから目を向け

るユウヒは、しかしその足取りに不安定さを感じない。体がすっかり義足の生活に馴染んでいるからだろう、足の形を模して

もいない太い棒は、砂利の上でもずれず滑らない。

「ワゴン車はあるが、ここまでは登って来られぬ故、下に車庫と駐車場を設けて停めてある。子供らの自転車なども一緒だ」

「御爺殿が運転なさんのが?」

 意外そうに眉を上げたユウヒを振り返り、ユウゼンは懐に手を入れた。そして取り出したのは、黒革のケースに収められた

運転免許証。

(ゴールド免許!?)

 澄まし顔のユウゼンの顔写真とゴールド帯を認めて絶句するユウキに、老熊は少し誇らしげに胸を張って見せる。

「こう見えて趣味はドライブ…。実は、五十三年間無事故無違反継続中でな」

 なお、交通栄誉金賞も受けている。

「そうだな。孫への初自慢にもなる事だ、せっかく近場に温泉地もあるのだから、滞在中に皆で旅館など行ってみるとしよう。

その折に常識的な範囲内でのドライビングテクニックと、安全運転の何たるかを見せてやろう」

 遊びに来た訳ではないから、と遠慮して返しそうになったユウヒだったが、思い直して言葉を飲み下した。

 余裕の無さは張り詰めた心を生み、常態化した緊張は寛容さを失わせる。ヤクモが居なくなってから幾度も思い返し、痛感

した事…。不要と断じて遠ざけるばかりでなく、心に遊びを持たせなければならない。

「んで、機会があったら是非…」

 孫の返事を聞き、ユウゼンは口の端を少し上げた。


 元が純日本家屋なので、屋敷内は判り易い間取りになっていた。廊下の一部から子供用の部屋が増築されて洋風になってい

る箇所があるだけで、基本的には襖と障子戸、柱と畳の屋敷である。

 子供達の部屋は最も多かった時に増築したので七部屋あるが、ユウヒが使うのはそこの空き部屋ではなく、屋敷に元々あっ

た客間。床の間と押入れつきの六畳間で、文机もテレビもある。

 風呂場は広く、わざわざ自然岩を運び込んで設えた岩風呂風の大浴場になっていた。まるで温泉旅館の内風呂のようだが、

祖父があえて河祖下の屋敷を思い起こさせるデザインにした事を、ユウヒは察していた。

 囲炉裏のある居間に戻ると、腰を下ろしたユウゼンは、

「さて、夕餉までまだ時間がある。気にかかる事などあれば遠慮せず訊くといい」

 と、ユウヒに促した。

「屋敷の間取りはもう大丈夫だ。案内、有り難うございました」

 若熊はそう応じてから、訊きたい事はかなり多いなと考え込んだ。

 ユウゼンがユウキに家長を譲るまでの在位期間はかなり長かった。その間の話はユウヒも熊親父から聞いている。特に気に

なるのは…。

(やっぱ、「あの事」だべな…)

 巨熊が見遣ったのは老熊の失われた右脚。祖父が闘士としての人生を終える傷を負った経緯についても、一応父から聞いて

いるが…。

「牛鬼(ぎゅうき)の討伐…」

 その一言を声にするまでしばらく逡巡したのは、祖父にとって話したくない、忌まわしい記憶だったなら、話をせびるべき

ではないのではないか?と自問したせい。結局の所、神代家の者として当人の口からできるだけ詳しく知っておくべきだとい

う使命感がユウヒの背を押した。

「アヤツの話か…」

 ユウゼンは肉付きの良い右の太腿に手を乗せ、棒で代替えした膝下から先を見遣る。

「うむ。アレについては知識を得ておいた方が良いだろう。また出ぬとも限らぬ」

 深く顎を引いたユウゼンは、「しかし」と顔を上げた。

「なるべく子細に伝えたいが、それ故に時間もかかろう。話は後日、子供らが居らぬ時としよう」

「有り難うございます」

 場を改めるべきなのはユウヒにも理解できた。子共らを「まっとうな社会」に巣立たせるのがユウゼンの望みなのだから、

実家の家業に関わる話は盗み聞きの怖れが無い所でするに限る。

(生の体験談、本人の口がら聞けんのは有り難ぇ…)

 父親から顛末を聞いてはいるが、ケリをつけたのはユウゼン。どう闘いどう仕留めたのかは本人の口から聞いた方が学び取

り易い。

(牛鬼に限らず、御爺殿が対応したモノノケの類の話…、なるべぐ多ぐ学びてぇモンだ)

 父の命で出稽古に来たユウヒだが、個人的には戦技よりも経験談を聞いて学びたい事が多かった。

 伝説級の危険生物との遭遇経験は、ユウヒも数えるほどしか無い。とはいえ、出会った場合高確率で命を落としかねない存

在なので、そもそも何度も出会う者はそう多くないのだが…。

 当時の家長が引退を余儀なくされるほどの傷を負わされた怪物であれば、自分がこれまでに出会った存在達よりも危険だっ

たはずだとユウヒは考えた。

 それだけではない。ユウゼンが家長だった期間は現在までのユウキの任期より長い。その豊富な経験談を聞ければきっと役

立つと確信している。

(力をつけるだげでは足んねぇ。知る、学ぶ、覚える。俺が神代家の当主になるまでに、やれっ事はなんぼでもやんねげねぇ)

 ユウヒは変わった。

 御役目に対し、「そのように生まれた以上は責務として臨まなければならない」という意識を持ち、御役目に殉じるのは生

まれた理由であり存在する理由であるという観念に支えられ、ある種の異常性を抱えていた少年は、今では明確な目的意識を

持つに至った。

 今のユウヒは自身の判断と価値観により、御役目に対する責任感の質を変化させた。「護るべき物があり、そのために果た

すべき役目である」。御役目をそのように捉え直した。

(親父殿の目も潰しちまった。俺がより多ぐ、良ぐ、働げるようになんねげねぇ…)


 夕食まで休むように言われ、あてがわれた部屋で休息を取る事にしたユウヒは、肌触りも心地良い天日で干された布団に寝

転がっていた。

 不慣れな洋装から持参した甚平に衣装替えし、天井を眺めるユウヒは祖父について考える。どういうひとなのか?という問

いに対して、熊親父は「まぁ善人じゃ」と応じた。それ故に神代家の家長として御役目に向き合っていた間は、葛藤もさぞ多

かった事だろう、とも。

 物腰は柔らかく、落ち着きがあり、雰囲気は穏やか。その顔を最も多く彩る表情は好々爺の笑み。子供達に囲まれた今の生

活の方が、御役目に就くより似合っていると素直に感じた。

 だが、戦場に不適格だったとは思えない。

 一種の性なので観察してしまったが、老いて隻脚、にも関わらずユウゼンには隙が無い。ユウキほどの力は無かったと聞い

ているが、それでも何十年間も直轄領を護り続ける事ができたのは、単純な戦闘能力以外に秀でた物を持つからこそ。

(学ぶってのは…、「そっちの方」もって事だべな…)

 そこでユウヒはふと気付く。休めと言われたのに考えてばかりではいけないと。

 ゴロリと寝返りを打って横向きになり、廊下側に顔を向けて片耳を起こしたまま、ユウヒは目を閉じる。

 取るべき時にすぐ休みを取れるよう訓練されている若熊に、まどろみはすぐにやって来て、気配を窺いながらも呼吸は規則

正しい寝息に変わる。

 空の太陽はゆっくりと位置を変える。庭で遊んでいるのだろう子供達の声が遠く聞こえる。風の音、家屋の微かな軋み。不

思議と落ち着き、居心地が良い客室で、ユウヒは浅い眠りをじっくり味わって…。

「ユウヒ。そろそろ夕餉にするぞ」

「!」

 夕刻になり、傾いた日が山の向こうへ姿を隠してすぐの頃。声をかけられて驚いた巨熊は、音も立てずに跳ね起き、布団の

上で中腰になって身構えた。

 熟睡はしていない。気配は捉え続けていたのだが、襖の向こうに経ったユウゼンの存在を、声をかけられるまで捉えられな

かった。

「…?」

 気配を殺すのが上手い。と感じたが、本当にそれだけだろうかとユウヒは自分の考えを疑った。何せ今はユウゼンの気配を

襖越しに感じている。息遣いも、床が受け止める質量も、確かにそこにある。

「…御爺殿?」

「うむ。…ん?折が悪かったか?では少ししてからでも良い。囲炉裏の間へ来なさい」

 声をかけるタイミングが悪かったのだろうかと気を回すユウゼンに、ユウヒは「んでねくて」と眉根を寄せながら応じ、襖

越しに尋ねた。

「今、何した?…気配がねぇ…んではねぇ。なのに気付げねがった」

「む?…ふむ、また悪い癖が出たか…」

 襖の向こうからは少し困ったような声。立ち上がったユウヒは襖に歩み寄り、そっと開けて祖父の顔を覗く。悪い事をした、

というような困り顔で耳を倒している老熊は、「時折昔の癖が出てしまう」と顎下を擦った。

「無意識に、呼吸を読んで「やってしまう」のだ。済まぬ」

「特殊な歩法が?…いや違う、歩みだげでねぐ存在に気付げねぇ。ありゃ何だ?」

 ユウゼンは孫の問いに一度口を噤むと、一言、短く口にする。

「「無拍子」と言う」

「…!」

 ユウヒの目に理解の色が浮かんだ。

 熊親父から聞いた事があった。真正面から堂々と、相手の間合いを無視して必殺の距離に踏み入る技術がある、と…。

 若熊の好奇心が垣間見える目を見返して、ユウゼンは「ああ」と眉を上げて目を丸くした。

(ユウキめ、「これ」も学ばせるつもりだったか?しかしアヤツには向かなんだが、ユウヒはさて、どうだろうな…)


 炭が赤々と燃える囲炉裏の上で、鉤にかけられた鍋がクツクツと煮えていた。

 部屋に立ち込める濃い臭いを嗅ぐなり、ユウヒの口内にじわっと唾液が湧き出す。

 鍋の番をしていたのは太り気味の虎。煮えている鍋の中から白菜を一枚取って皿に除けてから、オタマで汁を掬い、小皿に

取って吹いて冷まし、味見して頷く。

「もう大丈夫だよ」

「ごめんねー?濃くなっちゃって…」

 鹿の少女がしょぼんとして耳を倒すと、虎は少しだけ目尻を下げて微苦笑した。

「いいよ。そんな手間でもないし、焦げた訳でもないから俺が「何とか」できる」

 全員が揃うと、囲炉裏を囲んで車座になって夕餉が始まった。 

 上座にユウゼンを据え、時計回りにユウヒ、虎、ブチ猫、白馬、狐、鹿という席順。

 右足が不自由で腰を浮かせ難いユウゼンには、右隣に座った鹿の娘が鍋をよそってやる。ブチ猫と狐は少し年上の白馬が面

倒を見て、ユウヒには太り気味の虎が飯を盛る。

 具は白菜と長葱、エノキと鶏肉、軟骨入りの鶏つくねと、各種青菜類。白菜は火の通りが絶妙で、蕩けるような柔らかさ。

長葱は綺麗にカットされて斜めの切り口が美しい。エノキはプリプリしていて瑞々しい。鶏肉は豪快なブツ切りで食い応えが

ある。青菜類は長葱と同じく投入タイミングを見計らってサッと湯に通されるので、シャキシャキと心地良い食感の歯応えが

残っている。3:1の比率で麦が入った飯は、鍋の味付けによく合っていた。

 美味い。しかしそれ以上に口に合うとユウヒは感じた。ガラで取られた出汁と塩気のバランスは、川祖下の味付けに近い。

 味も食感もよい鍋で飯を掻き込むユウヒの食いっぷりを見て、鹿の少女がホッとしたような表情を見せる。

「お口に合いますか?お爺ちゃんに習った味付けなんですが…」

「あ…。ああ、なるほど…」

 思わず納得して大きく頷くユウヒ。どうりで馴染みのある味な訳だ、と。

「とはいっても、ちょっと失敗しちゃったんですが…」

「気にしなくていいよ。だいたい成功じゃないか」

 フォローを入れたのは虎。ふたりを交互に見遣ったユウゼンは、軽く苦笑いした。

「ははは。またしょっぱくしてしまったのか?」

「うっかりでした…。量を多くしようって気をつけていたら、塩の分量を間違えてしまって…」

「白菜に移したから、後で漬け物に使うよ」

 太り気味の虎は先に一枚だけ鍋から除けていた、小皿に乗る白菜を示す。

 老熊と雌鹿と太い虎のやり取りを聞いたユウヒは、気になったものの訊いてよいかどうか迷った。しかし祖父は問題ないと

考えたようで、太り気味の虎に目を向けながら口を開く。

「「15」は、対象に取った液体内で特定の成分を操作できる」

「…「成分調整」の能力…?」

 ユウヒが横目を向けると、虎は目で頷いた。「ただし塩だけ」と。

「実は、出力が低くてタグも反応しない。近年「ステルスタイプ」と呼ばれるようになった類の能力とも違うのだがな」

 ユウゼンが口にした言葉でユウヒは理解する。腕につけた検知器が反応しないほど、能力使用に伴う反応が微弱な…つまり

それだけ「弱い」能力なのだと。

 「15」という虎の能力は「成分調整」と呼ばれる、元素操作能力の一種。発現するケースは稀な能力なのだが、しかしこ

の虎に限っては有用とは判定されなかった。

 この虎にできることは、対象内でのナトリウム生成、あるいは中和、もしくは成分そのものの移動による分離。あくまでも

「塩分」に関わる事の一部だけと、非常に狭い範囲に限定された元素操作能力である。そして有効範囲は自分の体から15セ

ンチ以内で、対象に取れるのは自分の目で直接視認できる液体だけ。

 あるいは、ナトリウムの分離や操作によって副次的に酸などを発生させる事ができたり、直接視認という発動条件の制約な

どが無かったならば、非常に殺傷能力の高い能力になっていただろう。だが、有効射程距離の異常な短さと、少量の塩分を操

作するだけという応用力の乏しさもあって、一度は身柄を預かった政府の研究機関からも無価値と断じられた。加えて、悪用

するとしても、せいぜい触れられるほどの距離にある飲み物をしょっぱくできる程度なので、害も無いと見なされた。

 だが、誰も必要としなかった、無害で影響力も低いこの能力のせいで、「15」は一般人にもなれなかった。いかに弱い能

力でも、持っている以上はタグ付きになる道は避けられないのである。

 四つの時に親から機関に差し出され、五つになった時に研究対象にもならないと判定され、六つになる前に監視つきの施設

に送られた少年は、しかしそこで七ヶ月も過ごさない内に迎えに来られた。会った事もない、身元引受人を名乗る老熊に…。

 以来十五歳となった今年まで九年以上、ユウゼンに育てられた時間は産みの親と過ごした時間よりも長くなった。「15」

にとってもうユウゼンは養父や引き取り手などではなく、「本当の肉親」である。

 鹿の少女も同様。経緯は異なるが自分を捨てた実の親より、ユウゼンを「本当の祖父」として慕っている。

「気味悪いかな?能力で塩気を調整した鍋なんて」

 太り気味の虎が漏らした呟きに対し、ユウヒは黙して応えず、代わりに空になったお椀を差し出した。

「お代わり、貰えっか?」

 虎は瞬きして巨熊を見つめる。

「真心篭った持で成しだ。そいづが美味ぐねぇ訳がねぇ」

 その言葉で、子供達は一度きょとんとした後、一様に笑顔を見せる。

 無骨で迫力があるユウヒの事を、老熊とは随分違う印象だと思っていたが、いま改めて感じた。

 やはりこのひとは、ユウゼンの孫なのだなぁ、と…。