第三十六話 「19」

(食った…)

 夕餉も済んで部屋に戻ったユウヒは、布団に寝転がり、膨れた腹を擦る。

 量も充分だったが味も良かった。満腹感が心地良く、表情は満足げに緩んでいる。

 歳を取ったとはいえ、ユウゼンも神代の例に漏れず大食漢。元々食事は量を多めに用意されているようで、子供らも作り慣

れているらしい。

 食事をしながらの話で知ったが、普段台所に立つのはユウゼンと「15」「16」の三人。中学生のふたりは小学生の子供

らにも炊事を教えているらしい。この家ではそうやって、大人になって出てゆく前に子供らが年下へ家事を教え、受け継いで

いる。

(こいな感じだったのが…)

 ユウヒは一日を振り返る。祖父がやっている事を聞かされてはいても、自分の目で見て知るとまた違った。幸福とは言えな

い身の上の子供達ばかりのはずだが、しかしこの屋敷で暮らしている彼らは、確かに幸せそうに見えた。

 ユウヒは考える。河祖郡三村の事、神将の事、御庭番の事、御役目の事、帝直轄領の事…。

 神将家に生まれた者や御庭番の家に生まれた者は、出生の時点でいずれ御役目に従事する事が決まる。体が弱いなどの理由

で特別に不適格だと判断されない限りは。

 能力を持って生まれた者は、検査で判明すればタグをつけられ、定期面談を義務付けられ、不定期に抜き打ちで身辺調査を

される。監査官や調停者など特定の立場にならない限り、これらの厳しい義務は消えない。言い換えれば、自由になるには特

定の職に就くしかないのだが、職が限定される時点で真の自由など無いとも言える。

 ユウヒ自身はこの定められた生き方に不満を持っていないが、ではここの子供達はどうなのかと言うと、正直な所…。

(家の義務なんてねぇんだ…。たまたまそう生まれだだげ…)

 屋敷の子供達に対してはユウゼンが監査官代わりの監督者になっているが、外部の監視の目は無くとも手首のリングを外す

事は許していない。将来普通の仕事に就くなら、タグ無しで過ごす事はできない。だからタグを外した生活を子供の間に覚え

させてはならないのである。

 子供ら自身に原因は無い。なのに選択の余地も無い。ユウゼンの元で幸せに暮らしているのは彼らにとって救いだろう。

 真っ直ぐに御役目と自分達の責務だけを見つめてきたユウヒは、傍らからヤクモが去って以降、物思いに耽る事が多くなっ

た。様々な考え方や、価値観の違いがある事を知り、思索の幅が広がった。

 黙して考え、感じた事を整理する。その作業に没頭していたユウヒの耳が、ピクリと物音に反応する。

 廊下を歩いて来る足音。数は二人分。片方は重さからユウゼンと判る。もう片方はいささか軽いので年少三名か鹿の少女。

 そう予測したユウヒの耳に、襖の向こうで止まった気配がポソポソと小声で何事か言い交わすのが聞こえて…。

「ユウヒさん、お風呂空いていますから、どうぞ」

 ユウゼンに促されたのだろう、入浴を促したのは「17」…白馬の子の声だった。

「ああ。有り難ぐ頂いどぐ」

 身を起こしたユウヒは、布団の上に座した格好で軽く左右に状態を捻り、腹もこなれてきたので頃合いだろうと腰を上げた。



 湯煙漂う広い浴室。温泉ではないがユウヒにとっては馴染みがある岩風呂。開放感も雰囲気もある。

 手拭一枚を共にして向かうのは、壁際に二つ並んでいる洗い場。木の椅子は使わない…というよりも尻がはみ出て使えない

ので脇に除け、いつものように床へ直接腰を下ろす。まずは身を清めてからじっくり湯に浸かろうと、シャワーヘッドを取っ

てコックを捻ったユウヒは…。

「!」

 立てた耳を脱衣場側に向ける。声が聞こえた。「あ!やっぱいた!」と。

 擦りガラスの向こうで脱衣しているらしく、小さな影が小刻みにウネウネする。忙しない衣擦れの音を鋭敏な聴覚で捉えた

ユウヒは、最終防衛線たる手拭を股の上に広げて股間を隠した。その十秒後、ガララっと引き戸を開けて姿を現わしたのは、

「19」と呼ばれていた狐の子だった。

「兄ちゃんセナカあらいにきたぞ!」

 自分達の本名や素性は話さないようにとユウゼンから言われてはいるものの、接触を禁じられてはいない。むしろ退屈しな

いように構うように、困っているような事があったら手伝うように、と言われている。

 背中洗いを元気に宣言する狐の子は、興味がある客に笑顔を向け、尻尾を振っていた。が…。

「ひとりで大丈夫だ」

 即座に断るユウヒ。遠慮以上に思うところがあった。

 子供とはいえ背中を流させる気にはなれない。無防備な状態で背中を任せていたのは、親を除けばたったひとりだけ。

 その残り香にも似た背中の感触を、誰かに洗い流されたくはないという想いがある。

「えー?でも、オキャクサンはオモテナシするものだって…」

「充分に持で成さいでっから気にしねって良い。自分の体だげ洗わい」

 なるべくやんわりした言い方を心掛けるユウヒからそう促されると、狐の子は不満げではあったが隣のシャワーにつく。そ

して発した言葉は…。

「兄ちゃんのコトバ、ワカリヅライな?」

「そうが?」

 もう少し簡単な言葉と言い回しをするべきかと、巨熊が発言内容を振り返っていると…。

「うん。ナマリ、きついよな」

「!…キツいのが…!?」

 正直な生物であるところの子供から率直に忌憚の無い意見を伝えられ、流石のユウヒも郷言葉が少し気になった。

「…キツい…が…」

「うん。キツイ」

「…そうが…」

「ジイちゃんのマゴなのになんでちがうんだろな?」

「ん、んんっ…!離れて暮らしてだ…暮らしていた期間が長ぇがら…長い、せいだろうな」

 訂正しながら気をつけて喋るユウヒだったが、口から出てくるのは相当ギクシャクした標準語である。

「兄ちゃんオカシ何すき?オレはトンガリホーン。あとジャイアントガブリンチョ」

 尻尾を体の前に回してシャワーをかけ、独特な順番で洗い始める狐の子は、ユウヒにアレコレと質問した。

「クマってみんなでっかいんだな!学校のクマの先生も他の先生よりでっかいんだ。でも兄ちゃんが一番でっかいな!」

 子供ならではの他愛ない問いかけや話題に、巨熊はできるだけ丁寧に、可能な限り標準語で応答するよう心掛ける。

「ジイちゃんのコドモってどんなヒト?兄ちゃんと似てるヒト?」

 答えられないような質問もあるかもしれないと考えたユウヒだったが、知識が無い「19」が訊くのは普通に当たり障りの

無い事ばかりだった。

 ユウゼンの息子はどんなヒトなのか?似ているのか似ていないのか?顔はどんな感じで性格はどうなのか?実家がある村は

どういう所なのか?…と、ユウゼンが語らない実家や家族の話ばかり聞きたがる。

 問題ない質問ばかりなので、ユウヒは一つ一つ丁寧に教えてやりながら、シャワーを頭から被った。

「しゃべりかたとかちがうし、サイショはにてないって思ったけど」

 水音の向こうから聞こえる「19」の声は…、

「やっぱにてるんだよな、いろんなトコ」

「!?」

 妙に近くから聞こえた。

 シャワーヘッドを遠ざけて、顔も拭わず目を開けたユウヒが見たのは、椅子を離れてすぐ脇に来て、自分の股間を覗き込ん

でいる狐の子の姿。

「ジイちゃんとおんなじだ!」

 ユウヒが両足にかける格好で渡していた手拭いは、シャワーの流れでずれており、イチモツが露わになっている。ソレを見

て「19」が発した感想は…。

「大人になるとこういうふうになるんだな!「15」もこういう感じだ!チンチンにギューッてかわが集まってんの!」

「………」

 返答と反応に困るユウヒだったが、子供相手にムキになって追い払うのも大人げないと考え、逆立てていた被毛を下ろした。

「へー、へー、毛の色とかちがうけど、ここのかんじにてるなー」

 子供らしい好奇心と遠慮の無さと距離の近さで、「19」はユウヒの太い足をテーブルのようにして腕を乗せながら、ソコ

をマジマジと見つめる。でっぷり張り出した腹に窪みが深いヘソ、段がついた下っ腹と、ムチッと肉がついて逆三角形に寄っ

た股座、そして大玉と埋没気味な陰茎…。

「いいなー!オレのも早く大人のリッパなヤツにならないかなー!」

 無邪気なる勘違い。狐の子はユウゼンやユウヒのようなモノのフォルムを「大人のモノ」と認識している。なお、年上の太

り気味の虎も、もうすぐ大人だから「ああいうふう」と勘違いしていた。

「………」

 ユウヒは無言で困った。違うのだ、と言えない。これは大人だからという訳ではなくて…と説明するのは自分へのダメージ

が大き過ぎる。またそれとは別に無邪気な感想がいちいち深く心を抉って来る。巨熊のそんな心境など知らず、「19」はユ

ウヒの鳩尾に手を伸ばし、腹の曲面を撫でて感触を確かめた。「ジイちゃんはもっとやわらかいけどなぁ…」と。

 やめさせようかどうか悩んだユウヒだったが、子供のする事だからと咎めない事にして、ペタペタと触れて来る狐の子の好

きなようにさせてやりながら、手足の先を洗い始めた。

 そして、体を洗い終えて腰を上げ、湯船に移るユウヒに、

「兄ちゃんはジイちゃんのミカタだよな?」

 シャワーを止めた狐の子もテトテトとついてゆく。

「味方…。そりゃあ御爺様ど孫だ、敵なわげね…敵のはずがない」

 岩風呂の縁を跨ぐその間も、ユウヒの手拭はしっかりと股間をガード。湯に沈む直前まで鉄壁の防御である。

「よかったミカタで!」

 無邪気に笑う「19」の言葉を、手拭を畳みながら聞いていたユウヒは…、

「マゴまでミカタじゃなかったらジイちゃんカワイソウだもんな!」

 続く幼い声にピタリと動きを止めた。

「知ってるよ」

 真意を窺うように目を向けた巨熊へ、狐の子は口を尖らせて言う。

「ジイちゃん、タチバがよくないんだろ?」

 ユウヒは沈黙。しかし、子供の「19」も理解しているのかと、胸の内では動揺していた。

「オレタチをそだてて、まもって、エライヒトからほしいって言われてもわたさないからだ。そうなんだろ?」

 事情を聞いているユウヒは、しかし狐の子に何と答えれば良いか判らない。

 ユウゼンが育てている子供達は全員が一度は政府側に保護されており、そこから引き取られて来た。当然「そういった機関」

には一度身柄を預かって調査した子供の能力と、それが制御できるようになった場合の有用性が知られている。だからこそ、

一度は手放した子供が有用に成長したならば、駒として欲する事もあった。

 だがユウゼンはそれらの打診をことごとく断った。これまでに育て、巣立たせた子は、全員が一般人として生活し、普通の

人生を幸せに歩んでいる。

 それ故に、困窮すれば引渡しに応じるようになるだろうと、援助額を減らされるなどの締め付けに遭わされているのだが…。

「いじわるな電話とかきてるんだ。知ってる」

 育ての親として強く慕うユウゼンに、風当たりが強くなっている事は子供ながらに察しているので、狐の子は不満だった。

 だから考えた。子供なりに、彼なりに、どうしたら「よくなるか」と…。

「オレ、大きくなったらチョーテーシャになるんだ」

 目を輝かせて「19」は言った。

 巨熊は言葉も出なくなる。良いアイディアだろうと言いたげに、自信満々に胸を張っている狐の子に、どう言えばいいか判

らなかった。

「そしたらさ、ジイちゃんのタチバよくなるよな?ミンナのやくにたったら、ジイちゃんのタチバよくなるよな?エライヒト

たちがジイちゃんにやさしくするなら、オレはミンナのためにがんばる。わるいヤツをやっつける!あ、ジイちゃんにはまだ

ナイショな!?ゼッタイに「そうか。ならばたくさんベンキョウしなければならぬな」って言うに決まってるモン!それに、

コドモがシンパイするコトじゃないとかナンとか言うモン!」

 立派な心がけだ。そう、言いたい所だった。だがユウヒはその言葉を口にできない。

 知っている。一たび戦場に出れば、ひとは殺すし殺される。屈託なく笑うこの狐の子はテレビで見るヒーロー像を想像して

いるのだろうが、現実はもっと凄惨な物…。

(深淵を…)

 ユウヒは思い出す。自分達を裏切って逃げようとした、生き延びたかった、キリグモの事を。

 自分にも、キリグモにも、ヤクモにも選択肢は無かった。自分自身はこの生まれを恨んではいない。だが他者は、この子達

などは違うのだと、選ぶべき道が他にあるのだと、キリグモとヤクモの顔を思い出しながらユウヒは考える。

 未来が選択できるなら、血に塗れない道を選ばせてやりたい。そんな祖父の想いも、今のユウヒならば理解できる。

 そんな仕事よりも他の事を選んだ方がいい。ユウヒはそう言おうとして、

「オレは、パパやママたちみたいにはならない。セイギノミカタになるんだ!そうしたら、ジイちゃんもよろこぶよな!?」

 口にし掛けた言葉が声になる前に息を飲み、ゾワリと背中の毛を逆立てる。

 狐の子は真面目な顔だった。その幼い瞳にユウヒが見たのは、玉鋼のような決意の光。

 ユウヒは子供達の身の上については聞かされていない。能力を気味悪がられて放り出された子や、犯罪を犯していた能力者

の息子など、詳細な情報は伏せたまま、おおまかな経緯しか教えられておらず、誰がどういう身の上なのかは特定できない。

 この狐の子についても知らなかったが、想像はできた。

 パパやママたちみたいにはならない。セイギノミカタになる。そう述べる以上、狐の子の両親は正義の味方ではなかったは

ず。つまり…。

(犯罪者だった能力者の、子供…)



 ユウヒの直感は当たっていた。

 かつて、オーストラリアからの移民…を装って入国した暗殺者集団があった。親族で構成されるその殺し屋集団は、国内に

潜む何らかの組織の依頼と手引きで入国した物と思われるが、今も詳細は定かではない。

 その存在が確認されたのは、当時成長中だった建設業界を狙い撃ちするように、相次いで社長や取締役等のトップが殺害さ

れた事件がきっかけだった。そして暗殺の対象者は民間に留まらず、政府の建設関連部署に関わる人物達にまで伸び出した。

 この一連の犯行を企てた組織の正体も狙いも経緯も不明だが、暗殺者集団の手にかかった犠牲者の内訳や顔ぶれの偏りから、

首都圏のインフラ計画を遅らせる意図があったのではないかと、後になって推測されている。

 政府も傍観していた訳ではないのだが、体術と近接戦闘に長けたその集団は、正規訓練を受けて銃火器で武装した兵士でも

手に余る実力を持っていた。

 首都に居ついている調停者チームは多数存在するものの、半端な戦力しか持たない調停者チームなどにはうかつに下請けを

依頼できない。そもそも所在を掴むのも困難で、出くわしても少人数では返り討ち。数人で一個大隊の殺傷力を持つ彼らを止

める事ができないまま、被害は時と共に広がる一方。

 最終的には、神将筆頭たる神埼家の者達で広域捜査網を二週間以上張り続け、所在を掴んだ好機を逃さず、最も近い位置に

居た明神家当主が直々に出張って殲滅した。対象は十名足らずにも関わらず、対軍隊規模の戦力投入となった。

 端的に言えば、彼ら一族が確実に発現させる能力は「自動迎撃」とも呼べる代物。能力保持者に「物理的な威力を伴う攻撃」

が迫った時、肉体が自動的に反応して迎撃するという能力である。
この反応は本人が反応できない速度の物や、認識できてい

ない角度から迫った物に対してですら起きる。そのため、暗殺者一族はサブマシンガンの連射に対してですらも、その弾丸に

得物で迎撃を行い、完全に弾ききっていた。

 だが、その能力も明神の当主に対しては相性が悪かった。彼らが扱う炎の業は、それを手持ちの武器で迎撃したところで無

効化はできない。接触した際に爆発延焼を起こす術もあるため、迎撃行動の全てが無意味になった。全戦闘員を一方的に殲滅

する戦果ではあったが、裏を返せば、神将家の当主が直々に手を下すまでの十ヶ月以上、投入されたあらゆる戦力がたった独

りも殺せなかったという事でもある。

 そのファミリーが殲滅された際、狐の子だけが独り残った。

 僅か三歳の幼い子供。明神の当主は、何も知らず判っていないその子に罪は一切ないとして助命を訴え、これが認められた。

 しかし、狐の子も生来持っている、この血族特有の物なのだろうその能力は、範囲こそ極めて狭いが危険さはあった。

 その能力は、接近する運動エネルギーや熱エネルギー等に対して反応し、それが肉体に命中する軌道の場合は、本人の意図

に関係なく自動迎撃を行なうもの、と仮説が立てられたが、原理に迫れたのはそこまでだった。

 その仮説が立ったのは、狐の子を被験者として繰り返した実験での事。ピンポン玉などを放っての反応を観察するその実験

は、次第にエスカレートしていった。

 この自動迎撃が本人の肉体の耐久性や筋力を無視して、強制的に運動させる物だという事が判ってきた頃には、非致死性の

ゴム弾やガスなど、様々な「攻撃」への迎撃反応を探られ続けた狐の子はボロボロの体になっていた。無理な運動と実験によ

る負傷、癒えてくればまた繰り返される観察、それがいつまでも続く毎日…。

 そんな日々の中で、前触れもなく狐の子の隔離房を訪れたのがユウゼンだった。

 保護を上申した明神の当主が、その後に行なわれていた狐の子への実験行為を伝え聞いて心を痛め、堪らず頭を下げた相手

が神代の先代家長だったのである。

 まず様子を見に赴いたユウゼンは、その日の内に強引に狐の子を連れて帰った。このままでは死ぬまで実験を繰り返すだろ

うと確信し、研究の成果も無駄にし兼ねない本末転倒な真似が横行しているという、他の被験者達の待遇改善の上告も含めた

告訴状まで送りつけて。

 感情すら枯れ果てたように表情も変わらない、あちこちの毛が擦り切れて禿げ、ボロボロの四肢も満足に動かなくなった幼

い狐は、逞しく暖かい腕で老熊の胸の前で抱えられながら、ぼんやりと考えた。

 このひとはちがう、と…。

 屋敷に連れ帰られ、他の子供達に紹介され、暖かい服と部屋と食べ物を与えられ、困惑する狐の子に老熊は言った。

「今日からここがお主の家で、某達がお主の家族だ」

 そう、穏やかに微笑みながら。

 そういう経緯で迎えられたからこそ、狐の子はユウゼンを特別視している。

 後に学んだ概念…「ヒーロー」とはこういうひとの事なのだと、今では思っている。



 普通の子供が目に宿すものではない意思の光を見据えながら、ユウヒは軽く首を振った。

 調停者は過酷な職業である。かといって、戦後に軍部や警察機構が縮小されたこの国では、必要な「犠牲」でもある。だが

ユウヒはもう、この子供の言葉に対して首を縦に振る事はできない。

(…御爺殿は、望まねぇ…)

 例え素質があったとしても、ユウゼンが引き取った子供らをそこに当てるべきではないとユウヒは考える。自分で選ぶべき

生きる道…ではあるが、幼い時分に何も知らないまま決めるのは早計に過ぎる、と。

 だから、考え直すように言い、何かしら他にやりたい事は無いのかと、問おうとして口を開きかけたその時…。

「オレはミンナのヤクに立つ!そうしたらユルサレルって言ってたし…」

 唐突に、湯舟の水面が揺れた。飛沫が飛び散って縁から湯が零れた。

 腰を浮かせて膝立ちになったユウヒの手は、狐の子の腕を握っていた。

「いたっ!な、何だよぉ!」

 ユウヒが掴む手には力が少し入り過ぎて「19」は怒られたと思って声を大きくする。

「誰がらだ…?」

 狐の子の顔を、目を大きく見開いて覗き込むユウヒの声は、震えていた。

「誰がら、「そうしたら赦される」なんて言わいだ…!?」

「昔、オレでいろいろジッケンしてた人たち…」

 若熊の頭の中で、何かが生じて蠢いた。

 政府の機関が?国を護る機関が?自分達と同じ、帝に尽くし国民を護るために存在する者達が?

「オレはハンザイシャのムスコだろ?だからユルサレルために何でもしなきゃいけないだろ?オレがチョーテーシャになった

らミンナにユルサれて、ジイちゃんはイジワルされなくなる、スゴイ良い事だろ!?何でオコってるんだよ!」

「違う!」

 思わず出たのは吠えるような声。ユウヒは「19」の目をじっと見つめ、締め付けるような胸の痛みを感じながら、ゆっく

りと言の葉を紡いだ。

「赦さいっとが、赦されねぇどがでねぇ…。オメェは何も…、何も悪ぐねぇ…。いいが?御爺様のどごに居る子供に悪ぃ子は

居ねぇ。こごに居るってごどはな、それだげで「良い子」ってごどなんだ」

 狐の子は驚いている様子でユウヒの顔を見つめ返す。

「…オレ、ワルい子じゃないのか?ワルいチスジのコドモじゃないのか?」

 きょとんとしていた。無邪気に、何も知らず、率直に聞き返していた。「当たり前」を「違う」と否定された驚きが、その

目には見られる。

 こんな年端もいかない子に、犯罪者の子であるという出自を「当たり前」の事と認識させた者達に怒りを覚えたユウヒは、

牙を噛み締めたくなるのをグッと堪えた。

 この子にそんな事まで言ったのかと、発言者に対する強烈な怒りを感じてはいるが、その口から出たのは怒りや嫌悪の言葉

でも声でもなかった。

「…御爺様は、オメェのごど「悪ぃ子」って言うが?」

 巨熊の声は穏やかで、目尻は少し下がって、口元は微かに緩んでいる。

「…言わない…」

 少し考えてから答えた「19」に、ユウヒは大きく頷いた。

「んで、御爺様ど、昔話したそのひとど、どっちの方が信じらいる?」

「ジイちゃん!」

 即答した狐の子に、ユウヒは深く頷きかけた。その顔を彩る笑みに、「19」は親近感を覚える。

「んだ。オメェは良い子だ。間違いねぇ」

 この時のユウヒに自覚は無かった。本人は全く気付いていなかった。浮かべて見せたその笑みが、祖父の微笑とよく似てい

るという事に。

 だが、その笑みを向けられた「19」は改めて思った。

 このひとはやっぱりユウゼンの孫なのだと、かけられた言葉の温かさを感じながら…。






 数時間後、ユウヒは再び布団の上から天井を見上げ、考え込んでいた。

 清いばかりではない、濁った部分もある。生れ落ちてたったの十八年、その間に自分の目で見て、知ってきた世界の何と狭

い事か…。

 あるいは、キリグモは「こういった部分」まで知っていたのかもしれない。だからこそ、命をかける事に疑問を覚えたのか

もしれない。

 自分はどうだ?そうユウヒは自問した。

 汚れを、澱みを、濁りを、歪みを、見て知って感じてなお、「そちら」に立ち続けられるのか?

 単純さと潔白を好む気質は、それらに反発を覚える。

 だが、これをして命をかけるに当たらないと断じてしまったなら、あの子らのような無辜の命を護る牙が一つ減る。

(御爺様も親父殿も、こいなごどど向ぎあって来たのが…)

 片や鬼神と称される牙となった。

 片や零れた者を拾う網となった。

 自分はどうだ?自分はどんな家長になる?

 答えは出ないまま、やがてユウヒの思考はまどろみに飲まれて、規則正しい寝息が部屋を満たし…。



 囲炉裏の火を見下ろして、浴衣に着替えた老熊は酒盃を口元に運ぶ。

 音を立てずに酒を含み、飲み下す。舌に触れた瞬間は濃かった甘味が、舌にピリリと残る刺激に変わられ、鼻に抜ける香り

を残しながらスッと引いて薄れる。東北の地酒によく見られる特徴を備えたそれは、ユウヒが土産に持たされた故郷の地酒。

 代が変わって、より辛口の度合いが強まった。長年仕込みを繰り返し、また一つ理想に近付いたのだなと、老熊は口元を緩

める。多少味が変わっても、香る懐かしさは変わらなかった。

 子供らが寝た後で一日を振り返りながら酒を楽しむ…、囲炉裏に向かっての晩酌はユウゼンの日課である。

 共をするのは愛用の酒器。朱塗りの平たい盃は底に金と黒で松が描かれた雅な品。それなりに大きいのだが、ユウゼンの太

い指の上に乗ると小さく見えてしまう。

 黒漆塗りの片口とはつがいの一組で、ユウゼンが若かった頃にアイヅの名士から贈られた品。若い時分には酒器の蒐集が唯

一の趣味だったが、今ではこれらと少数を手元に残すのみ。大半は処分して子供らを養育するための金に替えた。

 穏やかに何事も無く終わる一日に感謝し、訪れる明日が良い日であるよう願う、穏やかな一時。

 だが、今日ユウゼンが考えるのは、訪れた孫の事ばかり。

 頃合いと見た、というような事を息子は言っていたが、確かにユウヒは以前と雰囲気が違う。

(善い事ばかりではあるまい。辛い思いは、したであろうな…)

 劇的な出来事はひとを変える。妹がすくすくと育っていると聞いた。幼馴染が村を去ったという話も聞いた。変わらずには

いられなかった体験を経て、今のユウヒがあるのだろう。

 成長した孫を見てユウゼンが思うのは、「良い面構えになった」という事。必要な事にのみ心を向ける、堅苦しさや生真面

目さを通り越して一種の危うさすら香った少年が、思慮深くも悩める「ひとの子」となっていた。その点に関しては好ましい

変化と思える。

(「ひと」でなければ「ひとの側」には立てず、「ひとの側」に心を寄せられぬ故な…)

 囲炉裏に刺していた竹ベラを取り、擦り付けておいた鳥のツミレと味噌の練り物に火が通っている事を確認してから、箸で

皿に削ぎ落とす。

 焦げが多い味噌ツミレとスルメを肴に、ユウゼンは手酌で酒を進めながら思う。

(生来の武才に、某の手遊びを習わせるか…)

 孫を寄越した倅の思惑は理解した。

 夕陽の色だった幼い頃よりも、深く濃く色を変じた被毛は、間違いなく稀に生まれる先祖返りのそれ。

 大墓公「阿弖流為(あてるい)」。

 神代家の成立よりも昔、初代当主よりもさらに前、可能な限り血筋にまつわる記録を遡った先に、その名はある。

 現在は東北、古くは奥州と呼ばれた、日高見の地に根差した蝦夷の各部族。それらを纏め上げて、時の朝廷に抗った荒蝦夷

(あらえみし)頭目のひとりにして、征夷大将軍坂上田村麻呂と互角の闘いを演じた猛者。その男が神代家の先祖である。

 その始祖とも呼べる男は赤銅色の被毛だったと伝わっている。各神将家の関係者や帝が赤銅色の被毛を「アテルイの毛並み」

と称するのはここに因んでの事。

 …そして、名を消された「神代だった男」もまた、始祖と同じ毛色だった。

 ユウキの考えに反対する気はない。ユウヒは良い若者に育った。得た力を誤った使い方には用いまいと、ユウゼンも自分の

目で直に見て感じ取った。

(この老骨が何をどれだけ教えてやれるかは判らぬが、なせるだけの事はなすとしよう)

 ユウゼンの手が止まる。

 丸い耳が立ち、遠くから近付く足音を聞き取る。

「ジイちゃん。ねる前のアイサツにきたぞ」

 程なく姿を見せたのは狐の子。寝る時間が近いパジャマ姿の幼子に目を細めたユウゼンは、歩み寄って来た「19」のため

に腕を開き、かいた胡坐の上に座るに任せた。

 スルメを一切れ取ってガジガジと咬み、「床に入る前にもう一度歯を磨くように」と老熊から言いつけられ、囲炉裏の柔ら

かな光を見つめながら、「19」は口を開く。

「…あの兄ちゃんさ、やっぱりジイちゃんのマゴだよな」

 目を細めて笑う狐の子を抱き、頭に手を置いて撫でながら、ユウゼンは「ふむ…。何故そのように思う?ハイメ」と微笑ん

で問う。

「へへーっ!ナイショ!」

 風呂での会話は黙っておく事にして、「19」は屈託なく笑った。

「でも、「ヒーロー」だとおもう!ジイちゃんとイッショで!」

 老熊は目を細くしたまま、狐の子の頭を撫でつつ、

「左様か。…某もユウヒも、変身も合体もできぬ身だが…、それで尚ヒーローでよいのかな?」

 と、茶目っ気のある問いを「19」に投げかけた。

「いいんじゃない?アメコミのヒーローとか、ヘンシンしないのもいるし。ヒーローならヒーローだもん」

 大真面目に返した狐の子は、不意に体が揺れて耳を立てる。

 「19」の背を預けられたユウゼンの布袋腹が、朗らかな笑声を伴って大きく揺れていた。