第三十七話 「16」

 翌朝の起床は六時だった。

 基本的に、年中通して神代家の家人も御庭番もこの時間には活動を始めているので、ユウヒにとっては馴染みの生活リズム

と言える。

 布団を畳んで部屋の端に寄せたユウヒは、物音に反応して丸耳を立て、そっと襖を開ける。朝の冷えた空気が寝起きの身を

包むが、肌寒さも感じない。冷え切った廊下を素足で踏みながら、巨熊は低く鼻を鳴らした。

(味噌汁の匂い…。なめこ汁が)

 音と香りに誘われて囲炉裏の間の方へ向かう。まな板の音がトントンとリズミカルに聞こえる。台所を覗けば、そこには作

務衣の上に腰エプロンを巻いた老熊の姿。

「お早う」

 意外そうな顔をしているユウヒを見遣ったユウゼンは、小皿になめこ汁を少量取り、吹いて冷まして味見する。

「うむ、上々」

 味噌味の加減を確かめて満足げに頷いた祖父に、「お早うごぜぇます」と挨拶を返したユウヒは、トレーナーの袖を捲くっ

て手伝う事はないかと尋ねた。

「手の込んだごどはでぎねぇが、多少の事なら手伝えっから」

「そうか。では、リンゴを剥いて貰おう。…ウサギ耳になれば子供らも喜ぶが…」

「承知」

 頷いたユウヒは手を洗うなり出刃包丁を預かった。野営中は山中で糧を求めるので、刃物仕事は慣れている。

 小山のような巨体がふたつ並ぶと、台所は妙に狭苦しく見えた。

 朝餉の支度は毎日ユウゼンの担当。学校へゆく子供らは七時に起こして飯を食わせ、身支度させて送り出す。

(板に付いでんな…)

 老熊の慣れた手つきで母の台所仕事を思い出した若熊は、リンゴの皮剥きを始めながらユウゼンの作業を窺った。その操光

術と同様に手付きは流麗で繊細、バナナの房のような手は実に器用な動作で調理器具を操る。

「子供らが学校へ行ったら…」

 ユウゼンがそう切り出し、修練の予定だと思って耳を立てたユウヒだったが…。

「畑仕事を少し手伝って貰う」

「…畑?」

 拍子抜けしながら祖父に顔を向けた。

 手伝いは良い。労働に不満は無い。単に祖父が畑仕事をしているという点で意表を突かれていた。

「ジャガイモ、トマト、タマネギ、ショウガにミョウガにシソ、ホウレンソウ…まぁ季節によって顔ぶれは変わるが、色々と

育てておる。趣味と実益を兼ねた畑と言えようか」

 孫の反応を面白がっている様子で尻尾をピコピコさせながら、老熊はアジの開きを焼き始めた。

 やがて出来上がったのは、焼き鮭と出汁巻き卵、なめこと豆腐と刻み葱の味噌汁。牛肉のそぼろと納豆を添えて、囲炉裏の

間に朝食が支度された頃、鹿の少女が制服姿に身支度を整えて、小学生年少組のふたりを連れてくる。
逆に、朝が弱いらしい

年長の虎は、白馬に起こされて寝ぼけ眼を擦りながら、パジャマのまま起きて来た。

 ユウヒが手伝った事を老熊が告げると、小学生達は驚きながら感心した。やっぱり大人は何でもできるのだ、と。

 手伝った分にも入らない程度の仕事だと、面映い思いをしながら応じたユウヒは、囲炉裏を囲む朝食を新鮮な気持ちで楽し

む。
見慣れない顔で囲む、子供らが賑やかな食卓…。こんな食事も悪くはないな、と。


 登校の時間になり、ユウゼンと一緒に山門まで出て、石段を下って行く子供らの姿が見えなくなるまで見送ってから、ユウ

ヒは畑まで案内された。

 開墾した家庭菜園は屋敷裏手の斜面の上。獣道のような細い上り坂はかなり急なのだが、ユウゼンは高齢と義足にも関わら

ず健脚。のっしのっしと危なげなく登ってゆく老熊の尻を、ユウヒは感心しながら追いかける。現役のお庭番と変わらない足

腰の強さなのではないか?と。

 50メートルほど登った先にあった畑はかなり広く、獣除けにフェンスが巡らされていた。秋の作物はいずれも素人菜園の

物とは思えない実り具合で、ユウゼンのこまめな手入れを窺わせる。

「では、水遣りを手伝って貰おう」

 沢水を引いて溜めている石桶は、石の板を組み合わせてある長方形の物で、ユウヒが浸かれそうな大きさ。そこから桶と柄

杓で水を酌み、手作業で広い畑に撒いてゆく。

 ユウゼンはその間に草むしりや間引き、収穫を進めていたが、ユウヒは祖父が度々手を止めてじっと作物を見つめ、何かを

窺う様子を見せてから実や葉を摘んでいる事に気付く。

(何見でんだべ?)

 時折頷くような仕草も見られ、まるで何かを聞いているようにも感じられる、奇妙な収穫の様子。これを不思議に感じなが

らも、ユウヒは収穫の邪魔をしないよう声はかけずに作業を進めた。

 約一時間半ほどで畑の手入れは終わり、笊に収穫物を盛ったユウゼンは、孫に労いの言葉をかけつつこう尋ねた。

「水をやる時に、葉と根の声は聞こえたかな?」

「?」

 かけられた祖父の言葉でユウヒは眉根を寄せる。

「声?」

「うむ。毎日手伝うて貰う事になるが、この作業中、作物の声…「反応」に気を配ってみると良い。それが無拍子への手掛か

りになろう」

 ユウヒは畑を振り返る。水滴がキラキラと光る作物の姿は、陽射しの下で眩いほど活き活きとしていて…。

(畑の世話が、無拍子の…?)

 今はまだ判らず、何も掴めず、ユウヒは戸惑いだけ覚えていた。


「さて、某が教えてやれる事と言えば、だ」

 畑仕事を終え、囲炉裏の間で一服してから裏庭に移動したユウゼンは、連れてきた孫と向き合う。

 双方共に作務衣に似た仕事装束。ユウゼンの装束はユウヒの物と比べるとだいぶ褪色が進んでおり、古いジーンズのような

色合いになっていた。

「「制御」、という事になろう」

 ユウゼンが平手を上に向ける。御椀でも持つように広げた指先五箇所に、ポッと小さな光が浮かんだ。

 蝋燭の火にも似ながら、しかし横風に揺らがないそれは、力場の崩壊現象である証拠。爆ぜるでも拡散するでもなく、ゆっ

くりと燃焼するように崩壊して熱と光に変わってゆく力場の制御は、何度見ても不思議な物だった。

「一つで良い。指に灯して真似てみよ」

 頷いたユウヒは人差し指を立て、意識を集中させる。指に纏うのでも、指を覆うのでもなく、指先の少し上の空間に力場を

発生させ、維持するよう心掛けるが…。

「いや、それはいかん」

 ユウゼンに言われるまでもなくユウヒにも判った。小さく小さくと心掛けて作り出した光球はピンポン玉サイズだが、ユウ

ゼンが灯す光とは性質自体が似ても似つかない。それは、通常の雷音破をそのまま圧縮した高密度エネルギー塊…つまり濃縮

液体火薬のような危険物である。

「ふむ…。出力向上の基本でもある圧縮の観点から申せば、大きく作って小さく縮めるという発想には当然至ろうな。しかし

「その方向」ではない。一度消すのが良かろうな」

 ユウゼンは指の灯火をそのままにユウヒに歩み寄ると、蝋燭の火にも似たそれをそっと近付けた。

「???」

 若熊は目を見張る。接触したように見えたユウゼンの力場は、ユウヒが作った光球と反発現象はおろか接触崩壊…対消滅も

起こさず、溶け込むように姿を消した。

 だが、実際には消えた訳ではない。溶けるように形状を変えて、ピンポン玉サイズの雷音破をコーティングするように包み

込んでいる。

「これはそう特殊な芸当でもない。我等が身に纏うように、力場に纏わせただけの事」

 説明しながらユウゼンは平手を軽く握り込む。と、包み込まれた光球はジュウジュウと音を立てて氷が溶けるように小さく

なってゆき、やがて完全に消失する。外部には熱も崩壊衝撃も漏らさず、内に向けてのみ作用する、指向性を持つ力場の膜…。

ユウヒの圧縮光球と比較して十分の一にも満たないエネルギー、微弱な出力しか持たないその膜は、しかし内側の光球を消し

て見せた。これはユウヒが知らない現象である。

「威力による力場の相殺とはまた異なる、中和とでもいうべき物だ。まぁ、実戦では斯様に時を要する芸当など命取り。使う

機会はまずなかろうが…」

 祖父の言葉を聞きながら、巨熊は我知らず唾を飲み込んだ。

 確かに、実戦においては出力で押し勝つべき。そもそも相手の防御が力場ではない場合の方が多いのだから、高出力、破壊

力、威力で圧倒するのが戦闘の前提。だが、こんな芸当もできるのだという可能性の提示は非常に興味深い。

(コイヅがでぎれば、力場の膜で技の反動を殺さねくてもいい…。反動の分を中和で相殺でぎんなら、纏う枚数減らして、放

つ方さ力を集中させられんでねぇが…?)

 強力な技ほど反動は大きく、生じる熱と衝撃から身を護るために防護膜を何重にも纏ったり、高密度の力場で抑え込んだり

する必要がある。だが、その反動となる威力を、いま祖父が見せた低出力の膜で中和できるなら、従来の反動相殺用に割いて

いた力を技そのものの出力増大に傾けることが可能になる。

 例えば、力場を纏わせた拳での一撃、散華衝。多重展開した力場を対象に直接叩き付けると同時に、連鎖崩壊によるエネル

ギー放出と衝撃を浴びせる物だが、その威力の分だけ自身の身を護る防御膜も厚くし、数を増やす必要がある。しかし、ユウ

ゼンが見せた、出力で大きく劣る力場でエネルギーを蒸散させる技術を織り込めれば、防御膜を減らした分だけ威力向上に出

力を割けるようになる。

 熊親父がユウヒを修行に出した狙いはこれだった。

 ユウゼンが示す技術はユウヒが知る常識の枠を塗り替える。御役目の都合上、実戦で活用できる技にばかり目を向けがちな

ユウヒだったが、操光術の底は彼が思っていたよりずっと深い。剛柔強弱一体の極み…。それこそが力と技の先にある。

 それ単独では役立て難い、そして自分には真似すらできなかったユウゼンの妙技を、武の神の寵愛を受けたような息子であ

れば、これを取り込み神代の古式闘法を「再度」完成させられるのではないかと熊親父は考え、この出稽古を用意した。

 奥義「百花繚乱」。その先にある、裏の奥義「千花斉萌」。さらにその先にある、終(つい)の奥義にして極みの手…。

 その奥義最後の使い手は「神代ではなくなった男」。再現はユウゼンにも叶わず、ユウキもまたその手前となる「千花斉萌」

に辿り着くのが限界だった。

 しかしユウヒならば、自分達歴代の家長にもできなかった事を成し遂げられるかもしれない。そう、熊親父は期待をかけて

いた。

「では、小さく作る所から始めようぞ。何、そう難しい事ではない」

 ユウゼンは人差し指を立て、小さな光を一つ灯す。

「まずは湯飲みに入る玉。次いで輪ゴムを通せる玉。これを念頭に少しずつ小さくしてゆけばよい」

 小さく作る。弱く作る。本来強靭に展開する事が求められる力場を、あえて繊細で脆い状態に置きながら安定させる。それ

を少しずつ詰めてゆけば自分と同じ事ができる。そう、ユウゼンは孫に笑いかけた。

「…心得だ。まず、湯飲みが…」

 素直に頷いたユウヒは知らない。ユウゼンが至極簡単にできそうな口ぶりで語ったこれを、ユウキは二十年挑んで諦めたと

いう事実を。

 神代熊禅。その独自の探求アプローチにより磨かれた技法は、本来「仙人」と呼ばれる存在が行使する領域の業。ひとが扱

う技能の領分を超えつつある代物である。

 これを学ぶことは、いかなユウヒといえども簡単ではなく…。




 子供らが学校へ行っている間に畑仕事と修練に勤しむ…。

 夕刻になってまず小学生組が、次いで中学生組が帰宅すると、夕餉の支度をする…。

 それらが規則正しく繰り返される毎日が始まった。

 風が強い山中の、毎日抜けるように青い空。

 肌に馴染み始めた他所の山の空気を、そして子供達が居る賑やかな生活を、ユウヒはすぐに気に入った。

 ユウヒが祖父のもとへ修行に来てから、最初の一週間があっという間に過ぎ、ここでの生活にもだいぶ馴染んで、巨熊が居

る生活に子供達もすっかり慣れてゆき…。




「ジイちゃんフロ行こうフロ!今日はオレとイッショの日!」

 狐の子に袖を掴まれた老熊は、湯飲みから茶が零れないように上手くバランスを取りつつ、「まずは腹の中が落ち着くまで

待つのだ」と笑いかける。

 夕餉が済んだ囲炉裏の間、食休みもそこそこにユウゼンを風呂に誘う「19」に、「食べ終わったら百数える。…今日やっ

てないだろ?」と、虎の少年が下げるために食器を纏めながら釘を刺す。

「12345678…!」

「ちゃんと秒で数えるの」

 勢い良く早口で数え始めた狐の子に、鹿の少女が呆れ笑いしながら注意。微笑ましいやりとりを眺めながら食後の茶を啜る

ユウヒは、部屋に香るカレーの匂いを改めて吸い込む。

 今夜の料理担当は虎の「15」だった。カレーの具に家庭菜園で作っているシシトウやダイコンが入っているなど、やや風

変わりではあったが、これが意外にも絶妙なバランスで美味い。

 虎のみならず、老熊の料理レパートリーもまた和食だけではない。長年の育児生活の賜物なのだろう、シチューやカレー、

ハンバーグなど、子供が喜ぶ物もちょくちょく作る。屋敷の献立はだいたい和洋半々で、時にマーボー豆腐など馴染み深い中

華が混じる塩梅だった。

 年長ふたりとユウゼンが交代で食事の用意と片付けをするのが屋敷の常だったが、ユウヒは滞在中その当番制に自分も加え

て貰う事にした。最初は不慣れさが目立ったが、元より真面目で何でも熱心にこなすのがこの巨熊。猟師鍋程度しかなかった

料理のレパートリーは、滞在中に洋食数品を増やしている。

 その一方、肝心な修練の成果はというと…、実はあまり順調ではない。ユウヒは莫大な量のエネルギーを巡回、放出させる

事は得意だが、その出力の高さが災いし、ユウゼンが示す手芸の極致のような細やかな妙技を再現するのが難しい。それでも、

「湯飲みとピンポン玉」は何とか形にできつつある。

 食休みを挟んで食器を下げた後、台所に残ったのは「16」という鹿の少女とユウヒのふたり。今夜の食器洗い当番はこの

二名である。

 ブチ猫と白馬と虎が引き上げて、ユウゼンと狐の子が風呂に向かい、隣接する囲炉裏の間が静かになった頃…、

「言えない事だったら、答えて貰わなくてもいいんですけど…」

 丁寧に皿を擦り洗いする「16」が口を開き、乾いた布巾で皿を拭っていたユウヒが横目を向ける。

「何だべ?」

「お爺様、実家と不仲なんですか?」

「いや?」

 意外な質問だったので、思わずユウヒは眉を上げていた。何故そう思ったのか?という疑問もあったので、声は少し大きく

て、不自然に取り繕ったようにも取れる物になってしまった。

「…あ。嘘でねぇ。本当に不仲でねぇ。…コホン!本当に不仲ではない」

 少し慌てて付け加え、ついでに標準語で言い直したユウヒに、鹿の少女は「ええ」と短く応じた。

「本当みたいですね。…そう…。それならいいんです…」

 小さく零した少女の声には、ホッとしたような響きが僅かにある。

「私達を引き取って育ててる事、実家に反対されて、ひとりで出てきたんじゃないかなって、ずっと気になってたんです…。

それで上手く行っていないとかだったら嫌だなぁって…。あ、お爺様には言わないで下さいね?気にしてたなんて言ったら気

にしちゃいますから」

「ああ。黙っておこう」

 頷いたユウヒは、「家業や役目という見方で言うならば、まぁ、無関係という事になっておるらしい」と、やや複雑なユウ

ゼンと神代家の関係性を説明した。肝心な所はぼかして語らねばならないので、これが少々大変だったが…。

 ユウゼンは負傷による引退とは別の理由…つまり子供らを保護するこの立場に就くにあたって、帝の家臣の立場を辞してい

る。厳密にはもはや神将家の者でも帝直轄領の関係者でもない。そういう意味では「帝の臣下たる神代家」とは離別している。

 しかし私人としての神代家と絶縁している訳ではなく、ユウヒやユウキから見て親族である事に変わりはない。現在の家長

という立場上ユウキも表向き疎遠にせざるを得ないが、心情的に蟠りがあったり摩擦が生じていたりする訳でもない。帝の近

衛側からの不興を被らないために親しく接する事や頻繁なやり取りを避け、育児の邪魔にならないよう相談事も控えているだ

けである。

 その辺りを自分が知る範囲で、なるべく判り易いよう掻い摘んで説明したユウヒに、「16」は「ありがとうございます」

と礼を言った。少し気が楽になった、と。

「お爺様を信じてますし、ウソを言ってないのは判るんですけど、ご家族はどう思ってるのかなぁって気になってたもので…」

「どう思っておるのか、と問われると…」

 自分は死んだものとして考えていい、と当人が言うほど実家と距離をあけていた祖父なので、正直どう思えば良いのか、改

めて考えても困ってしまう。ただ、一週間共に過ごして、飯を食い、手解きを受けながら接し、ひととなりについては多少理

解できてきた。

 人格者と言えるだろう。子供らに敬愛を抱かれるに値する人物だと、今のユウヒは祖父を尊敬している。優し過ぎて神代の

家長に向かなかったという話も聞いていたし、周囲にはあまり居ないタイプだったが、個人的に言うならば好感を持っている。

「………まぁ、いい御爺様だべ…」

 しばし考えた後でユウヒがしみじみと漏らすと、「16」はクスッと小さく笑った。

「ユウヒさん、私ね…」

 老熊のゴツくて分厚い湯飲みを漱ぎながら、鹿の少女は声を潜めた。

「「読心術」って呼ばれる能力を持ってるそうです」

 巨熊の丸耳がピクリと動く。

 「16」が宿した異能はテレパシーの一種…その中でも受信専門の物である。

 彼女のソレは、自分でもコントロールできず、対象も指定できず、近くに居る者の思念を自動的に感知する。とはいえ、こ

れは感情の揺れや反射的に抱いた感覚の切れ端を、音叉の音にも似た波長として感知し、それを受け手側で解釈するという物。

読み違えもあるし、考えを丸々読み取れる訳ではない。

「その中で私が一番聞き分けられるのが「ウソ」の反応なんです」

 最も正確に読み取れるのは「ウソ」の反応。人々の様々な感情や思考が音叉のような澄んだ音を立てる中で、彼女は虚偽の

発言や隠し事をしようとする相手の思念波からだけ、電波が受信できていないテレビのようなノイズを感じ取るのだと語った。

「私のこれ、受信を制御する装置でもあるんです」

 「16」はリストバンドを嵌めた左手首をユウヒに見せた。一見すれば他の能力者達にも付けられているタグと同じだが、

彼女の物は受信力を制限するための細工がしてある。

「…でも、私がつく「ウソ」は、誰に見破れるんでしょうね…」

 その言葉でピンと来たユウヒは、声を極力絞って訊いた。

「…その枷、効いてはおらぬのか?」

「はい。完全には」

 ユウヒが確認すると、「16」は困ったような顔で寂しそうに微笑んだ。

「御爺様は、その事を…」

「私が読めた事を言わなければ、それと、相手が気付かなければ「無いのと一緒だ」と…」

 能力が抑えられていない事が知れれば、彼女は厳重な隔離という確実性の高い手段で封じられてしまう。だから誰にも言わ

ずに黙っているようにとユウゼンからは言われていた。

「全く効果が無いわけじゃないから、救いにはなったんですよ、これ」

 バンドを揺らして鹿は微笑む。

 「16」は物心がついた時から、周囲の者が垂れ流す思念波や、その残響を浴びせ続けられてきた。ひとの感情は心地良い

物や綺麗な物ばかりではない。頭がおかしくなりそうな悪口雑言悪意欲望を、耳を閉ざす事もできずに聞かされ続けて来た。

 だから、完全ではないとはいえ受信を制限するこの腕のタグは、彼女にとって救いになった。

「欲張りを言うと、本当は全然聞こえなくなるのが良いんですけど、今はこれが最新鋭だとかで…」

「…それを俺に言って構わぬのか?」

「皆には秘密にしておいて下さい。「15」は気にしないと言いそうですけど、小学生の子供達は絶対に気になってしまいま

すから」

 それで良いのか?と鼻白んだユウヒだったが、どうして彼女は自分にこの秘密を打ち明けたのかと、理由について考える。

その疑問の波長を受け取った「16」は、「ユウヒさんにはもう言っておくべきだと思ったんです」と告げた。

「「無拍子」…と言うんでしたか?お爺様の、ひとの気持ちを把握するという物…。ユウヒさんが同じように身につけるなら、

私が黙っていても見抜かれるだろうなぁって」

 ユウヒは違和感を覚えた。

 無拍子。この一週間で祖父に何度か実演して貰ったソレを、若熊は「呼吸を読み、一瞬の虚をつき、攻め入る技法」と解釈

していたのだが…。

(違う…のが?)

 鹿の少女が口にした表現と、巨熊の認識には乖離がある。

 畑仕事と無拍子という、未だに自分の中で結び付かない祖父の助言と、少女の言葉…。ユウヒははたと、ここにこそ無拍子

の秘密があるのではないかと気付いた。

「…あの、どうかしましたか?急に気持ちの音が変わって…。私、何かいけない事を言いましたか?」

 木琴を叩いたような甲高い異音としてユウヒの気付きを察知した「16」が、少し不安げに問うと、巨熊は「いや、勘違い

に気付がさいだ。どうもな」と礼を言って…。

「コホン!…勘違いに気付かされた。礼を言う。それで…」

 言い直しながら、気になった点を確認すべく鹿に尋ねた。

「御爺様は、その腕飾りで能力が封じられておらぬ事に、無拍子で気付いたのであろうか?」

「そうみたいです。ソワソワ、落ち着きがない、気忙しい感じがするとか何とかで…」

 そして「16」は言った。「ユウヒさんはたぶん、お爺様と同じ事ができるようになります」と。

「何故そのように思う?」

「それはですね…」

 鹿の娘は照れているように耳を倒して笑った。

 「あの日」、自分を迎えに来てくれた、不快な音が一つもしない老熊…。自分を気味悪がった両親よりも落ち着ける、穏や

かで優しい音…。

 いま隣に居る若熊は、一見似ていないようでも、やはりユウゼンと何処か似ているのだと「16」は感じている。

「…「19」から聞いたんですけど、ユウヒさんは、あの子が調停者になる事に反対してくれたんですね?」

「む?そうだが…」

 思い出して頷く巨熊。狐の子はあれっきり言わなくなったが、思い直してくれたのかどうかは確信が持てない。

「お爺様は私達みんなに、普通に生きて欲しいって思ってます。私はその気持ちに応えたい。「15」もそう思ってます。け

ど「19」は…」

 溜息をつく鹿。「子供だし、結構頑固なトコがあって…」と。

「ああ、あいづはそいなドゴあっとな」

 しみじみと本音を言って深く顎を引いたユウヒは、「16」と一緒に小さく笑い合う。

 巨熊には判らない。だが、鹿の娘が本当の事を言おうと決心したのは、ユウヒの発言をきょうだい達から聞き、心根が真っ

直ぐで信用できる人柄だと判断できたからに他ならない。

「「15」は、進路って言うか…、自分が就く仕事をもう決めてるみたいです。恩返ししたい、っていつも言ってますから。

下の子達は将来を急いで決めなきゃいけない歳でもないですけど、私達はもうすぐ高校生ですからね。進路もちゃんと考えて

かないと…」

 鹿の少女がこうまで自分の事を話す理由に、ユウヒは気付いていた。

 自分は気持ちの音を勝手に聞いている。だから自分の事もなるべく話そう。きっとそんな心境なのだろうと。それだけで、

ユウゼンがいかに「真っ当に」子供達を育てて来たのかが窺える。

「君は、もう決めておるのか?」

 巨熊の問いに、鹿の娘は「はい!」と、はつらつとした笑顔で応じた。

「お医者さんです!」

「医者…」

 流石に予想外だったユウヒが眉を上げる。驚きはしたが良い夢だと感じたので、眉と目が笑みの形になっていた。

「理由やきっかけのような物が何かあるのか?」

「単純なところだと、お爺様の体調が心配というのもありますけど…」

「御爺様どっか悪ぃのが!?」

「いえ、それが…」

 鹿の娘は困惑しているような顔になる。

「お歳で、あんなに太ってて、お酒もしょっぱい物も好きで…、なのに何もないんです」

 訝るユウヒが「何も?」と眉根を寄せる。逆におかしくはないか、と。

「はい。血圧もコレステロールも肝機能も健康な若いひとと変わらない数字で…。あの通り、足腰も丈夫ですしビックリする

ほど健康体過ぎです」

 唸るユウヒ。父親は血圧がおかしいとかなり前から言っている。脂肪肝という話も聞いた。にもかかわらず、老いて緩んで

脂肪過多な体型になっているユウゼンが健康体なのは…。

「おがしぐねぇべが?」

「でしょう?だから逆に不気味じゃないですか?崩れ始めたら一気にいっちゃいそうで…」

 それから「16」は少し間をあけて…。

「私の祖母、BLVDを発症して亡くなったんです」

 打ち明けられたユウヒは、「それは…、お悔やみ申す…」と耳を倒す。

 「神の呪い」。ユウヒはBLVDという不治の病についてそう聞いている。

 遺伝し、発症する病。発病したら打つ手が無く、生きたまま枯れてゆく死の病。神将家では神座の血統がこの遺伝病を持っ

ており、歴代当主が実に三人にひとりの割合でBLVDにより死去している。

「祖母は可愛がってくれたけど、私が隔離されてる間に亡くなってたそうです。…死因もお墓も、お爺様が調べてくれたから

判りました。…両親はもう私と縁を切っていて、何も連絡をくれなかったので…」

 この方向でこのまま身の上を語られても困るだろうと思い、鹿の少女は一度言葉を切った。

「発症はしてないけど、私も他人事じゃないんですよね。予想発症率は10%未満らしいですけど。でも、自分に体調不良が

あったらすぐ判るようになっておくのって、メリットだと思うんです」

 自衛と自己判断のためでもあるのだと、医師を目指す動機について語った「16」は、「知ってますか?」とユウヒの顔を

見上げた。

「今、首都圏って獣人の医療関係者がとても少ない上に、年々減ってるんです。待遇の悪さとか、差別的なものもあるから…。

獣人が安心してかかれる病院って、必要だと思うんです。獣人の医者に、気がねなくかかれるような環境が…」

 鹿の少女の言葉に、ユウヒは感じ入っていた。納得できる身近な理由と崇高な動機…、若い身で志が高い。立派な物だと心

底思う。

 こういった表現は適切ではないのだろうと自分でも思ったが、ユウヒにはこの少女が「闘う者」に思えた。手段も挑む対象

も異なるが、自分達と同じく、挑み闘う者なのだと…。

「そんな風に色んな理由があるけど、お医者さんになる事が私の夢です。お爺ちゃんに引き取って貰えた私が安心できたよう

に、心細い患者さんに安心をあげられたら素敵だなって…」

「「好い」理由だと感じる。その夢は叶うだろうな。君なればこそ、きっと」

 心のままに応援する気持ちを告げる巨熊から、心地良い音を聞いて少女は笑った。「ありがとうございます!」と。

「ユウヒさんの夢も叶うといいですね!…っていうか、さっきも同じようなこと言いましたけど、お稽古に来てる目的はたぶ

ん達成できるんじゃないかなって、私は思うんです」

 「16」はそう言って、「ええとですね…」と言葉を探した。

「ユウヒさんから聞こえる音、お爺様と時々少し似てるんです。どう言えばいいのかな…?お爺様は、山の中にどっしり生え

てる大木みたいな感じで、サヤサヤッて葉っぱが鳴るような、穏やかで静かな澄んだ音がするんです。ユウヒさんはそれより

だいぶ強い音。風がごうごう言ってる大きな岩山みたいな印象で…。でも最近は、荒いだけじゃなくて時々穏やかだったり静

かだったり…、お爺様と近い音になっている時が増えてる気がするんです」

 それは、ユウヒの精神状態が、ユウゼンの凪の気配に近くなっている事が多いという意味である。自分が受信するイメージ

を抽象的な物から比喩に変換して説明しようとする鹿の娘は、「だから」と巨熊の目を真っ直ぐに見上げた。

「きっと大丈夫です。お爺様みたいになれます!」

「…ああ。そうなるよう頑張ろう」

 正直、思ったほど進展が見られない現在までの成果に、ユウヒは内心焦りを覚えていた。しかしそれを見透かすようなフォ

ローを年下の娘からされ、これは諦めてはいられないぞと気を入れ直す。

 たった三週間の滞在中に完全な形で修得するのは難しい。あらかじめ祖父からはそう言われていた。村に戻っても習った事

を続け、いずれ体得に至れればそれでいい。

 そもそも、こちらに滞在させて貰うのは今回限りではない。暇を見て通うようになるのだから、焦慮に駆られて集中を欠い

てはいけない。

 ゆったりと、心に余裕をもって…。

(…ん?つまり、御爺様みでぐ…ってごどが?)

 焦らず、慌てず、悠然と、泰然と…、と考えた若熊は、祖父の姿を思い描いた。

 あのように「在る」事が、あるいは修得の近道になるのではないか、と…。

(あ。またお爺様みたいな音になってる…)

 手を止めてぼんやりと考えるユウヒの横顔を見上げながら、「16」は老熊と同じ音を巨熊から感じ取った。


 それからしばらくして、甚平を着用して首にタオルをかけたユウヒは、風呂を終えて部屋に戻る途中、嬌声を耳にして首を

巡らせた。

 戸が開いているのだろう、居間の騒がしさが廊下を走ってくる。

 おもむろに向きを変えて行ってみれば、大型テレビにゲーム機を繋いだ白馬とブチ猫と狐の子と老熊が、コントローラーを

回しながら双六のようなパーティーゲームに興じていた。

 この屋敷には玩具が豊富にある。トレーディングカードに各種テーブルゲーム、テレビゲームにキャラクター商品など、子

供らの個人用玩具から全員で共有の品まで、年頃の子が欲しがりそうな物はだいたい揃っている。何でも、ユウゼンの馴染み

から融通して貰えるので、玩具にだけは困らないという話だったが…。

「またジイちゃんか!」

 トップでゴールしたのはユウゼン。悔しがる狐の子に力瘤を作って見せ、「んふ…!」とガッツポーズ。

 二位のブチ猫は老熊とハイタッチし、三位の狐の子は「もう一回!もう一回!」と再戦を要求。

「ユウヒさんも遊びませんか?」

 白馬から誘われたが、「いや、見ておるだけで楽しそうだ」とユウヒは辞退した。何せこの手の物は苦手で、操作に詰まっ

てしまうので遊びのテンポを崩してしまう。

 テレビゲームが苦手な虎が、ソファーで観戦しながらキャラメル味のポップコーンを摘んでいたので、ユウヒはその隣に腰

掛けてしばらく遊戯を眺めて行く事にした。

「うるさいの、そろそろ慣れましたか?」

 ゲームを続行する四人の後姿を眺めながら、ポップコーン山盛りの皿を差し出して、太り気味の虎が尋ねる。

「まぁ、随分馴染んだとは思うが…」

「馴染まないなら皆を注意しなきゃって、「16」と今日も話してました」

「そこまではして貰わずとも…。俺の方が屋敷に邪魔している側なのだから」

「馴染んだっていえば、「18」もだいぶ慣れてきたみたいですね」

 ゲームに熱中する年下達を見ながら「15」は声を低めた。幼いブチ猫はやや人見知りの気があったのだが、やっとユウヒ

に懐き始めた。一週間の間に、ユウヒはもう子供らにとって「お客さん」ではなく、「親戚の兄ちゃん」程度の近しく気安い

存在に変わっている。

 ユウヒは祖父が大事に育てている子供らひとりひとりの事を思った。

 「15」は思慮深く、面倒見がよく、家事をはじめとしてユウゼンを支える。

 同じく年長の「16」は、皆のお姉さんとして、年下の世話をこまめに焼く。

 物静かな「17」は年少組を纏めながら見守り、歳上のふたりをよく手伝う。

 甘えん坊の「18」は、しかし皆に好かれており、居るだけで場を和ませる。

 元気な「19」は手がかかる一方で、その賑やかさで屋敷を明るくしている。

 幸福とは言えない生い立ちで、本当の家族と共に暮らす事はできなかった子供達。しかし今は、その全員が幸せに生活して

いる。

 ユウヒは思う。

 御役目、使命、義務…。国のため、民のため、捧げるべき我が人生…。そこに疑問を抱くことは無かったが、今になって理

解できた事がある。

 「民」という概念。自分たちが護るべき対象でありながら、しかし顔を知らない誰か。その姿を、ユウヒはこの屋敷に来て

はっきりと見た。

 顔の無い誰かではない。本名も知らないまま寝食を共にした子供らこそが、自分達が護るべき「民」の姿。こんな風に国中

で暮らす民のため、自分達は御役目に就いていたのだとユウヒは学んだ。

 汚れを、澱みを、濁りを、歪みを、見て知って感じてなお、「そちら」に立ち続けられるのか?

 その疑問への答えは、もう固まりつつある。

 「断ってよい命など無い」。かつて祖父が父に告げたという言葉の価値が、より重くなった。

 子供らがユウゼンを囲んで笑っている。それはこの国の何処にでもあるのだろう家族の穏やかな生活として若熊の目に映る。

 その何でもない営みには、護るだけの価値があると思える。

 その価値観と心境の変化が意味する物を、しかしユウヒ自身はまだ理解していない。

 それは、静謐で厳かで、しかし穏やかで和やかな、祖父のものにも似た澄んだ心根と精神への変化。雄々しく猛々しく、し

かし刺々しくザラついた溶岩塊のような質は、風雨に晒され丸みを帯び、苔生して鎮座する磐座のような質へと変わってゆく。

 後のユウヒを知る者が口を揃えて人格者と評する、「奥羽の闘神」としての在り方に、少年は徐々に近付いていた。