第三十八話 「15」
「玩具屋?」
囲炉裏に向かって並ぶ虎の言葉で、ユウヒは素っ頓狂な声を上げた。
ユウゼンは白馬と狐と入浴中で、鹿の娘とブチ猫は居間でゲーム中。囲炉裏の間にはユウヒと「15」のふたりだけ。座布
団を並べて座るふたりの手には、香り立つココア入りのマグカップ。囲炉裏では串に刺したマシュマロが火で炙られている。
子供達の悪習になってはいけないので、夜の菓子タイムは中学生組とユウゼン、ユウヒだけの秘密事である。ただし「16」
は年頃の少女らしく、体型維持のために夜間の菓子は避けているが…。
「何か意外そうですけど?」
マシュマロの串を抜いて向きを変え、反対側を炙りながら言った「15」に、ユウヒは頭を掻きながら耳を倒す。
「正直に申さば…意外だ。俺はまたてっきり、料理人か菓子職人にでもなるつもりでおるのだろうと…」
太り気味の虎は料理上手である。子供達が喜ぶメニューのツボを押さえているとも言えるが。
当番制の夕食が彼の番になると低学年組のテンションが明らかに違う。先ほどの夕食でも、竹をそのまま飯盒にして炊き上
げた鳥五目飯の竹蒸しに、ジャガイモと大根とキノコたっぷりの和風ポトフ、焼き茄子の田楽味噌和えなど、冴え渡った創作
料理の腕を披露して貰ったばかりだった。
「趣味だから。本格的にやる気はイマイチないです」
今の出来で充分だと思うし、それ以上になろうという情熱も向上心もないと虎は語った。
どうせ作るなら美味い飯を、喜ばれる料理を、…そう考えて工夫を続けてはいるが、それはあくまでも家族を喜ばせるため。
しかし、これを商売にするとなれば対象は「知らない誰か達」…。そんな対象のために料理の腕を磨き続ける事は、自分には
無理なのだと虎は語った。
家族が美味いと言うならそれで満足。だから、ここが終着で自分は構わないのだと…。
「それに、そもそも塩加減はズルして整えてるからなぁ…」
太り気味の虎はぽってりした手をひらひら振って見せた。
「15」の能力は「成分調整」。塩分に関する一部の事でのみ操作できる能力。具体的には、生成や中和や分離などを、肉
体から15センチという射程距離内でのみ行なえる力。
太り気味の虎はこの能力で味噌汁や鍋などの塩加減を調整する。副次的な効果なのだろう、能力の対象に取った物は、舌で
味見しなくともどの程度のしょっぱさなのかを感覚で正確に把握できるので、味付けは完璧に近い。常に理想的な塩加減にす
る事が可能となっている。しかし…。
「こんなんでプロを目指すなんて、本物の料理人に対して失礼だ」
焼けたマシュマロ串に手を伸ばす虎。ユウヒは目尻を少し下げた。真っ直ぐな、淀みも穢れもない反骨精神…。そのような
物を察知して。
「15」にはこういう所がある。筋を通して堂々と振舞う事に拘る気質は、ユウヒから見ても共感し易く、好感も持てる。
加えて、歳が三つしか違わない男同士なので、太り気味の虎はユウヒにとって話し易い相手。歳から言っても性格から言って
も気が合う。
「どうぞ」
焼けたマシュマロを皿に乗せ、ココアパウダーを軽く振って香り付けした「15」はユウヒに差し出した。こういう手間を
かけて振舞ってくれる辺り、「15」にとっての自分は「知らない誰か達」に含まれないのだろうと巨熊は感じる。
虎もマシュマロ串を取り、新たなマシュマロを刺して囲炉裏にかけ直すと、自分のマシュマロにもココアパウダーで香り付
けする。火を通したマシュマロを一緒に口にしながら、ユウヒはしみじみと思う。洋菓子も良い物だ、と。
これまではどちらかと言えば餡の素朴な甘味の方が好きだったが、子供らの嗜好に合わせた生活を送るうちに、洋菓子をだ
いぶ口にした。砂糖、クリーム、チョコレートなどの舌にガツンと来る甘味は、エネルギーと神経、そして頭を使う修練の疲
労回復に丁度良い。ここでの生活で初めて気がついた事だったが、操光術での体力消耗に対しての短期的な回復には非常に効
果的だった。
「それで、どうして玩具屋になろうと…」
「15」が作ってくれた濃厚なミルクココアを啜りつつ尋ねようとした巨熊は…、
「…「19」と「17」が風呂出だ…風呂から上がったな。御爺様も一緒だろう」
話を変えて、耳を立てて首を巡らせた。修練の成果が多少出ているようで、ユウヒは以前よりも気配察知…特に振動や大気
の揺らぎに対して鋭敏になっていた。
「グワルグワルグワル(笑い声)。この幼稚園バスは我々ワルイガー株式会社が預かった。園児達を返して欲しくば言う事を
大人しく聞くがよい」
「オノレ!ヒキョーだぞワルイガーのカイジン!」
やがて「15」の耳にも、ヒーローごっこに興じる「19」とユウゼンの声が聞こえてきて、「また裸のままで風呂の延長
戦やってるな…」と苦笑い。
「入りましょう。話の続きは風呂でいいですか?」
「うむ」
虎も熊もココアの残りを啜る。火が通ったマシュマロを取ってそれぞれ片付けたふたりは、マグカップを台所に下げつつ入
浴の支度に移った。
与えられている部屋に向かうユウヒは、歩調が前より少し遅い。大股なことに変わりは無いが、ゆったりした足運びになっ
ている。
年少組から「わかりづらい」「ききづらい」などとちょくちょく指摘されるので、標準語で話す事を心がけ、言葉遣いも、
立ち振る舞いも、そうと意識して祖父の物に倣った結果、若熊は日に日にユウゼンと似てきていた。
同時に、若々しさが凄まじい勢いで失われているのだが、本人はまったく気付いていない…。
「あ。これ「19」だな?また出しっ放しにして…」
湿った浴室の床に放り出された、ライフルをデフォルメした水鉄砲を見下ろして「15」がぼやく。
帰りに片付けるのを忘れないよう、入り口傍の壁に立てかけようとした虎は、ふと思い出して背後のユウヒを振り仰いだ。
流石にユウヒやユウゼンのような度を越した巨漢と並べば小さく見えるが、「15」は虎としては中背ながら骨太で身幅も
厚みもあり、体格がいい。同年代の人間の少年などと比べれば体積が1.5倍はある。
肉付きがよくムチムチしており、頬は張って顎は丸く、胸は出ていてヘソの窪みも深く、太腿の内側が触れあっている。し
かし単なる脂肪太りではない。部活こそしていないが、エネルギッシュな年下との遊びに根気良くつきあい、祖父の農作業も
手伝っているので、それなりに筋肉がついた逞しい肥り方をしていた。
「何で玩具屋に?って、話の途中でしたね」
「15」は手にぶら下げた水鉄砲を揺すって見せ、顎を引いたユウヒは眉を軽く上げる。
「こいづも…、オホン!…その品もそうだが、この屋敷には玩具が多い気がしておる。俺の家にそういった品が少ないせいで
そう見えるのやもしれぬが…」
「いや、実際多いです。子供の人数分っていうのを別にしても」
水鉄砲を壁に立てかけた虎は流し場に向かい、その揺れる尻尾を目で追いながらユウヒも歩き出す。
「爺さんの知り合いがでっかい玩具屋の偉いひとなんです。そのひとが時々持って来てくれるんですよ。遊んだ感想とか書く
約束で、全部タダでくれるんです。新商品なんかもポーンって…」
「そいづぁまだ太っ腹な…コホン…。それはまた気前の良い御仁だな」
並んでシャワーヘッドを掴みながらふたりの会話は続く。
「玩具貰うとみんな喜んで、嬉しそうに笑うんです。遊んでみたら楽しそうに笑うんです」
ユウヒは無言で頷く。思慮深い眼差しを正面の鏡に向ける「15」は、そこに映った自分の顔に、他の子供らの笑顔を重ね
ていた。
「…タグ付きだって…、ひと扱いされなくたって…、家族に捨てられたって…、親に売られたって…、孤児になったって…」
低く囁くように虎は言う。悲観も卑下もその声にはない。むしろ、へこんでなどやるものか、という反骨の精神がその目と
声に宿る。
「悲しくて悔しくて憎くて辛くても、それで嬉しいとか楽しいとかまで、失う事なんかないんです。「子供は喜んでいい」、
「楽しんでいい」、「笑っていい」…。そのひとは俺達にそう言ってくれたんです…」
ユウヒは再び無言で頷く。
「感謝してます。もう、すごくね…。だから…」
虎は首を巡らせてユウヒを見遣り、少し恥かしそうに耳を寝せた。
「俺も、玩具で子供を笑顔にしたいなって…。塩分操作とか関係ないからズルじゃないでしょ?」
「そうだな、良い目標だ。俺も応援する」
目を細めて頷いたユウヒは、照れて目を前に逃がした虎の横顔から視線を外し、タライに湯を注ぐ。
きっと、それは特別でも何でもない将来の夢。
しかし、ユウゼンが子供らに望んだ将来の道。
ユウヒは「15」から素性を聞いている。だからこそ、彼が玩具屋という夢を持った事の重要さを理解している。
彼は幼い頃に親から機関へ差し出された。僅かばかりの礼金と引き換えに。
そして研究対象にもならないと判断され、監視付きの施設に放り込まれた。
捨てられてばかりの人生だった。要らないと言われてばかりの子供だった。
そんな彼が、他者の幸福を妬まず、辛い目に遭う事を望まず、他の子供の幸せを願う…。
だからこそユウヒは思う。「15」の夢を、貴い理想だと。
祖父は育て方を間違えていない。そして子供達は育ち方を間違えていない。それが嬉しく、喜ばしい。
(こいな連中が居っから…。んだな、俺は…)
考え続けたユウヒの中で、答えはもう固まっていた。
汚れを、澱みを、濁りを、歪みを、見て知って感じてなお、「そちら」に立ち続けられるのか?
そんな迷いはもう吹っ切れた。
「そちら」に立つのではない。政府に味方するのではない。
「こちら」に立つ。幸せに暮らして欲しい人々に味方する。
それが、ユウヒが出した答え。
生きるべき人々が居る。好感が持てる人々が居る。護るべき営みがある。
好ましい生き方をする人々が暮らす国。ここを護るため自分はこの拳を握ろう。
命一つを、武に込めて…。
「ユウヒさん」
「ん?」
「さっきからずっと、タライからお湯溢れてますけど」
「おおう…」
滞在予定は残り三日。しかし未だユウヒはユウゼンの技術の一割も会得できず、無拍子体得の目処も立っていない。
だが、もはや焦りはない。ユウゼンを見ながら過ごす日々はそのまま見取り稽古。これが精神修行の一環となり、ユウヒに
泰然とした落ち着きをもたらした。
今後は、村に戻って宿題としての修練を続け、また御役目に余裕ができそうな折を見計らって稽古をつけて貰いに来る。そ
うしていつかモノにすればよい。焦りから半端な修得になってしまえば元も子もないのだから、じっくり練り上げて祖父に応
えるべきだと、ユウヒは落ち着いて考えている。
少年期の終わりに、巨熊は得難い経験をした。
この屋敷で送る皆との生活が、自分の今後の生き方を、そして在り方を、決定付ける物になったという事を、ユウヒは自覚
しつつある。
三週間の滞在最後となる夜。
ユウヒは祖父と向き合って座し、片手を前に突き出した。
分厚い掌を上に向け、その上に野球のボールほどの光球を浮かべる。
暗がりに浮かんだそれは完全な球体から、燃焼する炎のように形状を変えた。
板の床に胡坐をかいたユウヒは、制御に集中しながらも体は力んでいない。安定した状態でゆっくりと崩壊する光の玉は、
ほんのりと暖かな熱と、柔らかな光を放出している。
「見事。さて、そのまま続けられようか?」
向き合って座した祖父の問いに頷き、ユウヒは太腿に乗せていた左手を前へ出し、掌を上に向けた。たちどころに小さな光
の玉が生じ、ビー玉サイズから野球ボール大に膨らむと、形状を整えて炎を模す。
両手に一つずつ、熱源と光源として崩壊を制御した力場を維持するユウヒの周囲では、変化こそ目に見えないものの気温が
少し下がっている。
力場の緻密な制御に加え、維持するエネルギーを自分の生命力の変換のみに頼らず、周囲からもエネルギーを取り込み、そ
の循環で賄う…。この技術により、単純な放出消耗というサイクルから一歩進んだ持久力が身につく。
実は、これは神代の古式闘法には元々存在していない技法。奥義、轟雷砲で使用する周囲からのエネルギー収集を応用した
技術だが、これを基本技能に落とし込めたなら既に「ひとの域」にない。ユウゼン自身もそれを目指した訳ではなく、そうな
るつもりも無いのだが、その技術は「仙人」の領域に足を突っ込んでいる。
歴代の家長の中でも操光術の威力が低かったユウゼンだが、現役の頃はこの工夫で出力と持久力を確保し、戦力の底上げに
活用していた。
ユウキの場合は、緻密なコントロールと集中力を要するこれを戦闘行動中にまで持続させる事はできず、他の手段で戦力を
確保できると結論付けて、体得は諦めた。
ユウヒもまた、こうして心静かに座した状態で行なえば可能だが、歩きながらなどのちょっとした行動と同時進行にするだ
けで制御は乱れてしまう。
しかし、この技術をユウゼンと同じように、何かの片手間ですら行なえるようになったならば…。
「…片手に一つずつ…。これが今の限界です」
集中と制御を乱さないまま、あえて声に出して喋ったユウヒに、ユウゼンは目尻に皺を寄せながら微笑みかけた。
「焦る事はない。両手でできた事を二本の指で、それができたら片手にもう一つ…、そうして徐々に増やせばよい」
老熊は孫が灯した光を見つめながら感じ入る。
筋が良い。これほど武の神に愛された男は、長らくこの国を眺めてきたユウゼンでも他にふたりしか知らない。しかも元々
の出力がユウキを上回っている孫が、自分の技術を取り込んで実戦レベルで活用できるようになれたなら、全盛期の「鳴神の
兄弟」を超える可能性もある。
(否。あるいは「名を消されたあの方」にも冗談抜きで比肩し得る…。ユウキめは本人に言っておらぬのであろうな。息子と
いう事を抜きに見ても、この力に惚れ込んでおるはず…)
ユウヒが後を継げば神代家は、そして帝直轄奥羽領は、在位中の絶対の安全を保証される。きっとユウキはそう考えている
だろうと、老熊は想いを馳せる。
乱暴な武力解決を旨にしているようで、その実アレは若い頃から未来を見つめていた。しかしユウキもそろそろいい歳。数
年もすれば、息子に譲って一歩下がるのがよい年齢になる。夢として語った神将への復権は成った。そろそろ歩みを緩めても、
誰も文句は言わないだろう、と…。
(もっとも、引退後のアレの姿を想像できぬ。畑を耕す性分でもなし、娘のお守りも上手くできる物かどうか…。世話を焼い
たら焼いたでトナミさんが気疲れしそうな気もする…)
なお、このユウゼンの心配は割と的中しており、ユウヒが留守にしている間に都合四度、甘やかし過ぎだとして熊親父は婦
人から叱責されていた。
二十分ほどかけ、力場をゆっくり燃焼させるように熱と光に変えた後で、ユウヒは小さく息をついた。
「良く続けられた。今宵はこの辺りにしておこう」
老熊は労いの言葉をかけると、義足を立てて腰を上げた。
最初の頃は手を貸そうとしていたユウヒだったが、不要と断られ、今では本当に助けが要らない事を理解している。
高齢であり、一線を退いてだいぶ経つ。が、おそらく祖父は今この瞬間に戦場に立ったとしても、おそらく十全の戦働きを
するのだろう。ユウヒはそう確信していた。
高齢ではあるし肉も緩んだ体つきだが、その動作に不安は無い。身ごなしは重々しいが、ゆったりとした動きは不安定さと
は無縁だった。片足になって随分経つので慣れているという事もあるのだろう。棒一本の義足は絶妙な重心のかけ方をされて
おり、見た目に反して常にしっかりと足場を捉えている。
こういった所も含めて、父とは随分違うのだとユウヒは思う。
嵐のように荒々しく力強く、あらゆる手段で事を成すユウキ。
巡る薫風のように穏やかで、万事が洗練されているユウゼン。
親子であり直弟子でもあるはずだが、父と祖父はこうも違うのかと、時々感じ入る。
そして若かりし日のユウキの努力を思う。祖父を真似できないからこそ独自の完成形を模索し、似ても似つかない今の在り
方に至ったのだろう、と。
自分はどんな当主になるのだろう?立ち上がりながら自問するユウヒは、口の端に微苦笑を浮かべる。
(…恥じねぇ当主に、なりでぇな…)
四歩程の間をあけて正対した老熊と若熊は、軽く礼を交わして稽古を締め括る。
「最後の修練、御苦労であった。村に戻っても忘れる事なく研鑚に励むよう」
「欠かさず、怠けず、モノになるよう励みます」
背筋を伸ばして応じたユウヒに、好々爺の笑みを向けてユウゼンは「さて」と首を軽く傾げる。
「此度の滞在は今夜が最後。特別変わったネタも無いが…」
牛鬼に始まり、二日に一度程度で現役だった頃の話をしてきた老熊は…。
「そうさな、某とユウキが三陸方面へ出向いた時の話をしよう。ユウキが海に落ちてジンベイサマに拾って頂いた話は…、ア
ヤツからは?」
「聞いでません!たぶんおしょすぃ失敗談はオラさおっせ(教え)ねぇ!」
孫が耳を立てて興味を示したと見ると、顎を引いて「では風呂の後で」と目を細めた。
子供達に昔話などを聞かせ慣れているからだろう、ユウゼンの話は面白い。当主として為になるという実益を抜きにして、
ユウヒは祖父の話…、若かりし頃の父を連れたユウゼンの様々な冒険譚を、毎回楽しんで聞いている。
(正直、最後になんのが惜しいげっとな…)
明日以降はしばらく聞けないのだと、少し残念に思うユウヒは、祖父に連れられて囲炉裏の間に向かう。茶を飲みながら、
昔話を楽しむために。
夜も更けて、明日の出立に備えて荷物を纏め終えた若熊は、部屋を見回して感慨深くなる。
三週間の滞在ですっかり慣れた部屋。最初から肌に馴染んだが、今では居心地良く感じている。次に来た時もこの部屋をあ
てがうと、ユウゼンは言ってくれた。
寝るには早いが先に布団を敷いておこうと、部屋の隅に足を向けたユウヒは、ピクリと耳を立てる。
忍ばせた足音が近付いて来るのに気づいた。そろりそろりと廊下を進んで来るそれは、軽さから言って年少三名の誰か。た
だし歩調が遅いので狐の子ではない。
襖を透かして見ているように音の元を視線で追ったユウヒが襖の合わせに目を止めると、トントンと、控え目に音が鳴った。
「どうぞ」
ユウヒは声をかけながら、相手が誰なのか悟った。ノックの位置が低い以上、白馬ではない。
「おきてた…?」
襖をソロソロと開けて、拳一つ程度だけ作った隙間から中を覗いたのは、年少組のブチ猫だった。
「ああ、まだ寝ぬ。なじょす…コホン!如何した「18」?」
なるべく威圧的にならないよう気をつけた声音と表情で応じたユウヒは、遠慮がちなブチ猫に配慮して自ら歩み寄り、襖の
隙間を広げてやる。
パジャマ姿のブチ猫は、枕より少し小さいサイズの熊の縫い包みを胸に抱いている。
「あの…、あのね?」
ユウヒを見上げるブチ猫は、恥かしがっている様子で襖に寄り添い、半分隠れながら言う。
「きょう、いっしょにねていい?」
おや?とユウヒは眉を上げた。確かこの甘えん坊は、毎晩ユウゼンか太り気味の虎か鹿の娘に添い寝して貰っていたはずだ
が…、と。
「おジイちゃんはね、おニイちゃんとおはなししててね、おネエちゃんはね、ベンキョーしてるの、だから…」
一瞬迷ったユウヒだったが、断るのも忍びなくて首を縦に振った。途端にパッと顔を輝かせた「18」は、ピンと立てた尾
を嬉しそうにプルプル震わせて、ユウヒにボフンと抱きついた。体の大きさが違い過ぎて太腿に抱きつく格好になってしまっ
たブチ猫の頭を、巨熊はゆっくり撫でてやる。
「寝るにはまだ早かろうな…。少し、テレビを観るか?」
「うん!みる!」
縋り付くブチ猫は、ユウヒがヒョイッと抱き上げてやると、ますます喜んで嬉しそうに笑った。
祖父に甘えるのと同じように、胡座をかいたユウヒの股座にすっぽり収まったブチ猫は、巨熊を座椅子にしてバラエティ番
組を一緒に観ながら、芸人のギャグで笑い声を上げる。
この人見知りなブチ猫に、甘えられるほど懐かれた。その事は、この滞在でユウヒが上げた確かな成果の一つと言える。
以前の張り詰めた雰囲気と排他的な態度であれば、「18」は決して気を許さなかっただろう。怖がらず接してくるのは、
穏やかに落ち着いた気持ちの在り様のおかげである。
やがて猫の子が眠そうに目を擦り始めると、ユウヒは布団を敷いて横にならせた。
テレビを消し、せがむ声に応えて手を握り、添い寝してやった巨熊は、まどろむ幼子を寝かしつけながらその顔を見つめる。
幼く、小さく、愛くるしい。護るべき民の、断たれてはならない命の象徴であるような子供…。容易く摘まれてしまいそう
にか弱い、しかしこんなにも温かい命の、何と愛おしい事か…。
静かに寝息を立てるブチ猫を見守りながら、ユウヒは確かに、以前とは違っている自分の内面を覗く。
護るべき物に価値を見い出した今は、かつての自分とは心の在り様が大きく異なっている。
祖父の下に来た甲斐は、確かにあった。
皆との暮らしに価値は、確かにあった。
翌朝、学校へ行く子供らを、ユウヒは祖父と一緒に見送る。毎朝と同じように。
「じゃあ、また」
虎の「15」は名残惜しそうに眉尻を下げながら笑いかけた。
「料理のレパートリー増やしておきますから、来てくださいね」
鹿の「16」はそう言って巨熊の手を取り、握手する。
「今度はユウヒさんも一緒に遊べるような物、考えておきます」
白馬の「17」が丁寧に会釈する。
「また来てね。ぜったい…!」
ブチ猫の「18」が寂しそうにしながら涙を堪える。
「次いつ!?何月!?早く来てくれるよな!」
狐の「15」が眼を輝かせて次に期待する。
ユウヒは祖父と共に山門の下に留まり、子供達が見えなくなるまで、振られる手に大きく手を振り返していた。そして…。
「そうだな、今度来る時は…」
ユウゼンが考え込む様子で顎下に手を這わせた。
「日程を取り、約束通り皆で温泉巡りにでもゆこうぞ」
時間が惜しい。…とはユウヒは言わなかった。もはやゆとりのない少年はそこに居らず、目を細めてゆったりと頷く寛容な
若熊が居るだけ。
「楽しみにしとぎます」
目を細めて温和に微笑むユウヒは、秋空のように晴れ晴れとした顔をしていた。
そして、その日の夜…。
「帰ったか」
熊親父は非常に残念そうな顔で息子を迎えた。
居間で向き合うユウキと帰宅したユウヒ、その姿を横手から眺めるのは、ユウトを抱いたトナミ。
「…なして不満顔だ親父殿?」
げせないユウヒに対し、父熊はこめかみをそうするように眼帯をコツコツと指先で軽く叩きながら応じる。
「ユウトがのぉ…」
溜息をつくユウキには目もくれず、トナミに抱かれたユウトは兄の帰宅が嬉しいのか、キャッキャと笑いながらユウヒの方
ばかり見ていた。
「見よ。帰って来た途端にこっちを完全無視じゃ…!しかも、遊んでやっても最近はいま一つ喜び方が…」
(構い過ぎて飽きたんでしょうねぇ…)
(構い過ぎで飽ぎらいだんだべな…)
妻と息子が客観的に正解に辿り着く中、トナミの腕から零れ出るように逃れた金熊は、畳の上を四足で軽快に駆けて兄に飛
びついた。
「あにちゃ!あにちゃ!」
憤懣やるかたない父熊の前で、笑顔の妹を抱き上げたユウヒは、笑い返しながら口を開く。
「うむ。ただいまユウト」
その穏やかな笑みと優しい声音を聞き、トナミは軽く眉を上げ、ユウキはニヤリと口元を緩めた。
(どうやら、成果は上々のようじゃ)
口に出して問うまでもなく、その顔を見るだけで判る。祖父の下で、倅がどれだけ成長して来たのかという事は…。
技術面よりも、精神的な成長と価値観の拡大は大きな成果。期待通りの土産と言える。
「そうじゃ。土産になんぞ貰って来とらんのか?」
思い出して尋ねたユウキに、若熊は誇らしげに胸を張る。
「長葱ど春菊どほうれん草。俺も世話した。あど柿。焼酎で渋抜ぎして甘っけぐしてある」
「………まさかの野菜果物類…」
酒などを期待していたユウキは露骨にガッカリした顔になった。
川祖下の夜が更ける。
穏やかに、静かに、ユウヒの心根と同じように落ち着いた、凪の夜が。
冬が来る。
いつか花咲く若木は未だ、やがて来るその時のために、静かに力を蓄えてゆく。
同時刻。所変わってユウゼンの屋敷。
子供らも寝静まった深夜、囲炉裏の間では二つの影が向き合っていた。
「ふぅむ。いやはやタイミングが悪い!ユウゼン様のお孫さんなら、是非会ってみたいもんでしたなぁ」
「ちょくちょく参る予定故、いずれはまみえる機会もござろう」
囲炉裏の火にかけた鍋に手を伸ばした老熊は、煮立った湯の中に手を突っ込み、くべてあった竹筒を掴み出す。素手に見え
るが薄い力場の膜が手袋になっており、ユウゼンの手は火傷もしない。
この竹筒は徳利代わり。ユウゼンは客に竹筒の小さな穴を向けて、差し出されたぐい飲みに竹の香りがついた熱燗を注ぐ。
「おっとっと…!これはどうも」
目を細める客は初老の人間だった。白い鬚をたっぷり蓄えた恰幅の良い男性で、十人中十人が「見覚えのある顔」と評する
だろう面相である。
赤いセーターも相まって、その老人は見た者が「サンタクロースのようだ」と感想を抱くだろう姿。座したその右手側には、
それぞれ異なるデザインの封筒が五つ重ねて置いてある。
手酌で酒をぐい飲みに注いだユウゼンは、鍋に竹筒を戻して酒器を軽く上げる。
「では…」
「頂きます」
軽く上げた酒器を乾杯するように翳し合って、老人達は熱燗を口に含んだ。
「はらわたに染みますのぉ」
「安酒で恐縮だが、飲める味なら結構」
「美味い不味いは判りますが、値段を味わう舌は持っとりませんからのぉ。ほっほっほぉう!」
目を細めあった老熊と老人は、しばし熱い酒をチビチビと啜る。
ユウゼンと老人はそれなりに親しい間柄である。ユウゼンがここに居を構え、最初の子供達を引き取った年からの付き合い
だった。
その出会いは和やかな物とは言い難い…むしろドタバタした物だったが、それが縁になって、老人はここに引き取られた子
供達へ玩具の提供という形の支援を続けている。
ふたりはしばし近況報告などの話を交わしていたが…。
「では手紙を拝見…。まず「19」君のを見せて貰いますかの」
サンタのような老人はユウゼンから渡されていた五通の封書の内、一つを取り上げ、ペーパーナイフで丁寧に開封した。
出てきたのは幼い文字で綴られた手紙。そこには去年のプレゼントについての感謝と、プレゼントの希望が綴られている。
それは、年末のクリスマスに向けて子供達が記した、サンタクロースへの手紙だった。
「ほっほっほぉう!丁寧なもんですのぉ!ユウゼン様の育て方は手紙にも滲み出ますなぁ」
顔を綻ばせた老人に、
「無理難題ならば遠慮なくお断りを。違う品を希望するよう言い聞かせますので」
ユウゼンはそう述べてから、「して、どのような品の希望が?」と問う。
「ひぃろぉ変身、なりきり玩具!いつの時代も人気商品ですな!」
「高い品ですかな?」
即座に訊くユウゼン。心持ち身を乗り出している。隠者染みた生活はしていても金銭感覚は一般人。節約生活を心掛けてい
るので、まず値段が気にかかってしまうのがこの老熊。
「値段はそれなりですが、昨今の価格帯上昇に鑑みれば高級品でもありませんのぉ」
狐の子の手紙に続き、「なんと粘土工作!」とブチ猫、「地球儀とは…、むむ…」と白馬、「ほっほっほぉう!手袋とはこ
れまた!」と雌鹿の要望をそれぞれ確認した老人は、最後の手紙をあけ読むなり苦笑いした。
「どうかなさったか?」
しっかり者の「15」に限って無理を言う事はないだろうと思っていたユウゼンは…、
「「自分は間に合っているので、その分を他の子に届けて下さい」…との事ですな」
老人が読み上げた虎の希望を聞いて絶句する。
(…フミヒコ…。お主は、本当に…)
面倒見がいい、譲る事が多い、そんな気質が年々強くなってきたと思ってはいたが、年に一度の我儘の機会にまでこんな事
を要望するとは考えてもいなかった。
「いやはや、サンタクロースにこんな手紙とは…」
白い顎鬚をしごきながら老人は目を細くして微笑み、ユウゼンを見遣った。
「どうですかな?前々から思っておりましたがのぉ、彼には「資質」がある!」
「………」
腕を組んで考え込むユウゼン。白髭の老人は少し身を乗り出して続ける。
「「聖夜の魔法」に適合できるか否かは調べん事には判りませんが…、あの気質、それに性格…」
キラーンと、老人の目が光った。
「そして何より!いめぇじ戦略的にも大事な体型っ!あの丸さは一つの才能っ!」
どうやら重要な所であるらしく、老人の声に力がこもる。
「………」
ユウゼンは黙したまま客の顔を見つめ返した。
問うような光がその双眸には宿っている。大切な子供をその道に歩ませるのは正しいか否か、そんな自問と相手への問いか
けが、思慮深い瞳に浮かんでいた。
「子供らに夢を配る道は、悪いモンではありますまいて」
そんな老人の言葉を受け、ユウゼンは静かに息を吐く。
「…実は数年前から…、将来、玩具屋に勤めたいと本人が申しておりましたが…」
「ほ!」
老人の目が丸くなる。何やらそういう道筋がもう出来上がっているような気がして、ユウゼンは感慨深くなりながら虎の顔
を思い浮かべた。
「存外、それがあの子の歩むべき道なのやもしれぬ…。であれば、後押しするが養父の務めか…」
老熊はしみじみと呟いて、白髭の丸い老人に問いかけた。
「なれますかな?あの子も、クロス殿のような「サンタクロース」に」
これを聞いて、五大財閥「黒須」の総帥…「本物のサンタクロース」は、「ほっほっほぉう!」と愉快そうに笑った。