第三十九話 「ダウド」
サーチライトが広範囲を照らし続ける、軍事仮設基地と思しき施設のフェンス向こう。幾重にも設けられたゲートを抜けた
先で、幌付きのトラックが倉庫の中へ乗り入れられる。
何台もが同じ動きを規則正しく繰り返し、その都度武装した兵士がチェックし、ゲートのバーが開閉する。
フェンス内を警邏する兵士達はアサルトライフルを携え、迷彩柄のコンバットスーツにヘルメット、インカムを装備し、巡
回しながらこまめに状況報告を行なっている。
行進するように規則正しく巡回する兵達の間隔は20メートル程。多数の競技場を内包した運動公園にも匹敵する面積の敷
地をカバーしているため、24時間体勢で動員されている人数も相当なものである。
そこへ、ぶらりと大きな影が近付いた。
最も外側のフェンスの向こう、無造作な足取りで大股に歩み寄るその男を、しかし歩哨も見張り台の兵士も、カメラ越しに
監視するモニタールームの係員も、視認できていない。
やがて、大きな影は歩調を早めた。
早歩きからジョギングの速さ、そして疾走に至り、フルスロットルで駆けるバイクにも匹敵するスピードに至ると、2メー
トルのフェンスと上の電流有刺鉄線を軽々と跳び越えた。
そして、その体重とは裏腹に、土煙も音も立てずに敷地内に侵入を果たす。
(厳戒態勢っスね…。さぁて、大概の事じゃたまげねぇっスから、な~に隠してんだかオレにもちょこっと見せてみるっスよ。
もしかして、もしかしたら、目当ての品があったりしねぇっスかね~)
その巨漢は、金色の瞳の北極熊だった。
身の丈は2メートル半近くあり、肥り肉でごつい体格をしている。
体を覆う被毛は真珠色で、着用しているのは宵闇のような濃紺のジャケットとズボン。ジャケットは鳩尾までジッパーを下
ろし、袖を肘まで捲り上げてあり、真珠色の分厚い胸と逞しい腕が夜気に晒されている。両手にはジャケットと同色の指出し
グローブがはめられ、膝下から足先は底まで頑丈なブーツで固められていた。
右手が掴むのは白い大きな剣。全長2メートルはあるだろうか、幅もあり刀身も厚いが、切っ先は尖っておらず、半円を描
いて丸まっていた。刃が無いのか、それとも潰れているのか、形状的には諸刃のそれを、北極熊の巨漢は肩に担いでいる。
愛剣の機能による擬似ノンオブザーブ現象により、ジークは視認されないまま厳重な警備を易々と突破し、先進国政府連合
軍の仮設駐屯基地へ侵入した。
強行突破は容易いが、間違いなく犠牲が大量に出てしまう。なるべく人死にが少ない方向で事を済ませたいので、今回は穏
便な手段を選んだ。
(はいはい御苦労さんっス~。ちょっとソコ通るっスよ~)
などと、巡回する兵士達に胸の内で軽口混じりに挨拶しつつ、助走と跳躍を繰り返して設備の深部へ向かう。そして、大量
の銃火器類が保管されてるいくつかの倉庫を見て回った後で…。
(あ~…、こりゃアレっスか)
電子機器が収められた箱や、何らかの薬品入り試験管が詰まったジュラルミンケースを将校が確認している状況に出くわし、
顔を顰めた。
(内紛中のトコの平定部隊に送る品っスね?反応兵器とか手加減なしっス。手間かければやりようがある鎮圧作戦で何万人殺
す気っスかバカチン共め…)
北極熊は倉庫内をキョロキョロと見回すと、詰まれた木箱の中にある物を見つけた。
(お?あったっスね。それじゃあチョチョイのチョイと細工しとくっスか)
誰にも気付かれずに倉庫内を堂々と徘徊して工具を拝借し、ジークは作業に取り掛かる。
(さて、ソケットをちょこっと弄って…)
荷物とひとが忙しなく出入りする倉庫の片隅で、床に胡坐をかいた北極熊は、抱えた金属塊の向きを変え続けながら、ドラ
イバーやペンチを駆使し…。
(…これでよし。見た目じゃ判んねぇっスけど、役立たずになったっス)
ミサイルとして使われるだろう反応兵器を、目標高度寸前で空中分解するよう、ジークはソケット部分を弄くった。こうな
ると本体では安全装置が働き、即座に不発処理されて落下する。
本体部分は厳重に扱われ、発射までに繰り返し確認されるので細工しても無意味だが、そのまま組み上げる単純な完成部品
は、出荷前の強度テストが最終チェックとなる。ジークは先進国政府連合軍の内情にも詳しいので、この辺りの事には明るい
し、かつてジャイアントパンダの悪友からこの手の手法をいくつか教えられている。
物のついでで大量殺戮を阻止したジークは、その後もしばらく、くまなく、基地内を探索し…。
(ここでもねぇっスか。物々しさが紛らわしいっスね…。ってか反応兵器のせいっスか、この大袈裟な警備は)
基地内のコーヒーセルフに腰を据え、失敬したレーション…チョコ味のカロリーバーをボリボリ齧りながら、北極熊はげん
なりした顔を見せる。
周囲では交代で休憩に入った兵士達が談笑しているが、お構いなしである。もはや肝っ玉が太いだの腹が据わっているだの
というレベルではなく、落ち着きっぷりがおかしい。
(何処のヤツが残ってんスかねぇ、「ビフレスト」…。先進国連合には渡したくねぇっスけど…)
「北米基地に駆り出された連中、しばらくこっちに帰って来ないそうだ」
「へぇ、初耳だな。学者連中の警備って話だったろうに…。何かトラブルでもあったのか?」
北極熊の耳がピンと立つ。
(その話もうちょい詳しくぷりーズ)
のそりと身を乗り出した北極熊の存在には気付かないまま、兵士達は続けた。
「護送なんだ、滅多な事は無いだろうがなぁ」
「珍しい物でも見つかったんじゃないか?現地でしか調査できないような…」
「ああ、そうなると現地で引き続き警護って事にもなるか」
(北米…。くせぇっスね。あの辺には確か一基だけ「直通」のが設置されてたはず…。確かめに行く必要があるっス)
のっそりと腰を上げたジークは、足早にその場を立ち去る。
そして、入って来た時と同様に、誰にも気付かれず基地を後にした。
「不可侵条約、なぁ…」
天麩羅が名物の老舗小料理屋。奥まった個室で時折思い出したように箸を動かしながら、考え込みがちな白虎は幾度目かの
セリフを繰り返す。
「そもそも向こうと直接話ができる…つまり、オブシダンクロウの本拠地とかトップとか押さえてんのが既に怖ぇぞ?」
白虎が金の瞳を向けたのは、掘り炬燵とテーブルを挟んだ向かい側の席。並んで座っているふたりの男である。
片方は黒髪が美しい、目鼻立ちが整った、中肉中背の優男。
もう片方は、筋肉質で大柄で、体つきも顔つきもゴツい髭面の大男。
黒武士会幹部であり、総帥の親族でもあるふたりは、国際的にも非常に微妙な立場に置かれている虎と密会していた。
なお、隣の個室には優男の秘書であり護衛である女性が控えており、部屋の中で交わされる会話の内容が外に漏れないよう、
能力で閉じ込めている。
「ですが、向こうもこちらの事はご存知です」
さらりと応じたノリフサの言葉で白虎が顔を顰める。それはつまり、国内大手の非合法組織が、お互いの首を狙える状態に
あるという事を意味する。
もしも抗争などが勃発すれば、単純な勝った負けたの話では済まない。大小問わず国内のあらゆる組織が無反応ではいない。
どちらかに加勢する組織、漁夫の利を狙う組織、どさくさに紛れて活発化する組織…、国内のあらゆる地域に影響が飛び火し、
組織という組織が活発に動く。
「あちらとは利害が対立しませんから。それに、こちらの総帥とあちらの総帥はスタンスも似ています。無下に殺めず、無為
に奪わず、無駄に壊さず…。堅気相手には堅気の商売。無法者相手でも無法者なりの秩序を良しとする。叔父と価値観や判断
基準が部分的に似通っている所もある、と…。非合法組織の幹部が何を言っているんだと思うでしょうが」
「まぁ、言ってる事無茶苦茶なようで、お前を見てると納得もできるんだが…。黒武士は下手なグレー企業よりよっぽど人道
的だしな。やってる事は結局非合法だが…」
法に背いてはいるが、無秩序を好む輩ではない。だからこそ折り合いをつける事も視野に入れられるのだがと、白虎は半眼
になった。
白虎がふたりから聞いたのは、黒武士会がオブシダンクロウ…「鴉」と呼ばれる組織と不可侵条約を交わす準備をしている
という事。唐突にも思えるが、しかしそこには納得せざるを得ない理由もある。
「そうまでしねぇとダメってこった。「要塞」に目ぇ向けてる間に後ろからバン!じゃ笑えねぇ。仲良くしようってんじゃな
くとも、背中に向くハジキの数は減らしておきてぇって話だ」
髭の大男…コウイチがテーブル越しに白虎へ徳利を向ける。「お前なら判るだろ?ダウド」と。
「まぁな。何も手を組んで挟み撃ちされるってんじゃなくとも、後ろがコソコソしてんのはいい気がしねぇ。不安は兵隊の士
気にも関わる。打てるなら妥当な手だ」
不可侵条約を持ちかけるのは、相手方同士で密約などを結ぶ事への牽制でもある。そんな側面も察して答えた白虎は、向け
られるままお猪口に酒を貰う。
「交渉には俺とノリフサで行く。流石に総帥の親族となれば無下に追い払われる事もねぇだろう」
そうコウイチは言うが、片眉を上げたダウドには判っている。幹部二人が直接交渉に臨む…、その少なからず危険を伴う行
為は、自らの姿勢を見せる事で本気の度合いを向こうに告げる効果も考えてのもの。その交渉には、危険をおして実行するだ
けの価値があるという事であり、裏を返せば、そうしなければならない状況になっている事を意味してもいる。
「トップ会談か…。重要性を訴えるんだったら最善の手だろうな。リスクを背負ってるのを見せれば、向こうも本気だって判
るだろう」
「話が早ぇな。俺の弟共も、お前ぐれぇ頭の回転が早ぇともうちょい頼れるんだが…」
「持ち上げたって何も出ねぇぜ?」
「手が出ねぇならそれだけで御の字だ」
徳利をそのまま受け取って口を向け直し、ダウドは髭の男に酒を注ぎ返す。
(お酒が入ると仲が良くなるよな、このふたり…)
しらふの時は優男が間に入って宥めなければならないほど不仲なダウドとコウイチだが、アルコールが入るとやりとりが滑
らかになる。何とも不思議だが優男としては助かっている。
「ま、出すに出せねぇがな。ダインスレイヴがまだ返って来ねぇ」
「まだですか?」
「あ!?」
ノリフサが眉根を寄せ、コウイチが声を大きくする。
「おいおい!政府め、そのままパクる気じゃねぇのかぁ!?調査中に壊れたとか言ってよぉ!」
「カンザキの婆ちゃんが睨み利かせてんだ、流石にそんな屁理屈は出ねぇと思うが…」
「判るもんかよ!ありゃ本物の「神滅兵装(じんめつへいそう)」の一つ…」
「コウイチさん…!」
ノリフサが低く警告し、コウイチはハッとして口を閉じ、反射的に出入り口を見遣る。外に漏れる事はないはずだが、用心
に越した事はない。
「そこまでは解ってねぇだろうよ。せいぜいが「物凄く高性能なレリック」って認識だ」
ダウドは肩を竦めて酒を啜った。
「何せフィンブルヴェトの腕利き共でも判別に一年、解析して運用状態に設定するまでさらに三年掛かったんだ。まして起
動状態でなけりゃ解析だって難しい。俺が握ってなきゃロックがかかってるようなモンだが…、研究者共も目の前で触られる
のは怖ぇらしい」
もっとも、と白虎は付け加える。
「貴重かどうかとは別に、あれは個人的に大切なモンだからな。どうあっても返さねぇ気なら、実力行使だ。その点について
は婆ちゃんも賛成だとよ。もしも事に及んだ時は、海外に逃がしてくれるってな」
ノリフサとコウイチは顔を見合わせる。
現在この白虎は非常に微妙な立ち位置にあり、建前上は神崎の監視下にある事になっている。この通り比較的自由に振舞え
ているが、それも思念波探知網による監視が24時間働いているからという方便があっての物。本当かどうかは問題ではなく、
神崎家からのそういった触れ込みは必要だった。
でなければ、「フィンブルヴェトの生き残り」が堂々と太陽の下を歩ける訳もない。
「ああそうだ、それとコイツをやる」
コウイチは思い出したように傍らのバッグに手を入れ、ロックミュージックのアルバムに偽装したディスクを取り出し、ダ
ウドに手渡した。
「黒武士会が「交渉の余地がねぇ」と判断した、堅物監査官共のリストだ」
「なるほど。信用できる面々ってこったな」
ダウドがこれからやろうとしている事には、係わり合いを持つ監査官の質が大きく影響して来る。非合法組織が買収不可能
と判断した人物名簿は、非常に役立つデータだった。とはいえ、実際に買収済みの面々は明かせない。これが黒武士会側の最
大限の譲歩であり、コウイチに許される範囲内で可能な土産である。
「で、俺は何をすればいい?」
「見返りとしては、当面の間静かにしていて頂くだけで結構です。なるべく迷惑がかからないよう、要塞との決着をつけます。
…が、できれば意見を聞きたい案件が一つ出ていまして…」
「何だ?判る事なら何でも答えるぜ」
不介入というだけでは釣りが出る土産だったので、ダウドは遠慮するなという顔でノリフサに先を促す。
「実は、この国の御柱…そのどれかの所在地と警備状況の資料が、国外に流出していたらしいんです」
「バベルの!?」
思わず声を大きくしたダウドは、すぐにトーンを落とす。防音されているとはいえ、これも大声で話すべき事ではない。
「流出経路は?…いや、そっちで捉えたってんならエルダーバスティオン絡みか」
「そうだ。要塞が他の組織に売り付けたのが発端らしい。ただ…、その内容がたぶん、神将家の警備がどうのとか…」
「…ああ。そんな内容なら手に入った所で諦めるな、普通は。で、売られて売られて、点々としてるって事か?」
コウイチが肩を竦め、流れを察したダウドだったが…、
「途中まではそうでした」
ノリフサのそんな言葉で半眼になる。
「こちらで辿れた、資料の最後の入手組織ですが、既に壊滅していました。現地の政府側が落としたわけではありません。他
組織からの攻撃による物と思われますが…、詳細不明です」
「なるほど」
白虎は理解する。自分の意見を聞きたがる、その理由を。
「勘だが、ラグナロクって可能性は高い」
「やっぱりかよ…」
コウイチが顔を顰める。正直、神将家や帝直轄領がどうなろうと別に構わないのだが、そこに封じられている物が開放され
るのはまずい。この国が無くなって困るのは彼らも同じである。
「あちこちキナ臭ぇ…。堪ったモンじゃねぇな」
ボソリと呟き、ダウドはお猪口を煽る。
(こっちは大人しくしてるが…、そっちはどうなんだジーク?しばらく連絡がねぇのが気になるな…)
「マジスか」
陽射しを浴びて輝く、美しい山脈の中に建つドライブインの、ウッドデッキ調オープンテラス。山々が連なる雄大な景色を
望み、絶景が楽しめる席で、ワイルドな木製テーブルについている巨大な北極熊は、出てきた皿を前にして唸った。
「マジでヤベェっスね」
テーブル中員にデンと乗った皿には、頂点からバーベキューの鉄串を突き刺す事で崩れを防がれている総重量2キロ、全高
30センチのハンバーガーと、その周囲を埋めるポテトフライの山。
肉汁を滴らせて無数に重なり合う分厚いハンバーグは100パーセントビーフ。特製バーベキューソースとチーズがカラフ
ルな滝のように、目玉焼きとレタスとベーコンとハンバーガーがデタラメな地層のように重なっている側面を這う。熱が舞い
上げるのは焼きたての肉と特製ソースの香ばしい匂い。
塔状のオブジェとも何かの記念モニュメントとも取れるバーガーを、皿ごと持ち上げて雄大な山脈に重ねて「発見、太めの
バベル」などと暢気に呟いてみる、世界で一番物騒な男。
「見た目は勿論、匂いまで背徳的じゃねぇっスか?絶対体に良くねぇっス!わっはっはっはっ!いや~、現行人類の危機意識
の薄さとチャレンジ精神には時々たまげるっスねぇ。しかもこれで50ドルって、もう価格破壊なんてもんじゃねぇっス。し
かもカロリーの暴力っス。ここまで来やがるとむしろ清々しいっスね!」
北極熊は大きな手でむんずとバーガー上部を掴む。ソース類で手が汚れるのもお構いなしで。
「こんなバカを世界中で色んな連中がやってるから堪んねぇ、度し難ぇほど愛しいっス人類。味方する価値があるっス」
上から三分の一ほどを手掴みで取ったバーガーに、ガブリとかぶりついたジークが居るのは、北米の山岳地帯。伴侶の姿は
なく、ドライブインの駐車場には、荷台に長大な包みを立てて括り付けた大型バイクが停められている。
登山に来たのだろう団体客の姿が数名あるが、シーズンでもなく平日なので店はガラガラ。あえて寒い席につく理由もない
ので、ジーク以外はみな店内で食事している。
北極熊の尻の横には、油紙で包んだ上から黒いバンドでグルグル巻きにした四角い板状の物。雑に包装された百科事典のよ
うにも見えるそれは、ロキが樹海で使用していたグリモアである。
ロキからすれば必ず奪還しなければならないそれを、ジークは数年に渡って有効活用してきた。具体的には、ラグナロクの
大規模行動を牽制するように、世界中のあちこちで封印を解いて反応を垂れ流し、散々引っ掻き回してきた。こういうのは根
性悪くやれるヤツが有利っス、とはジークの弁。
元は取った。北極熊はそう考える。
だから、今度こそ手放す事になっても良いだろう、と。もしも北米で目当ての品が見つかったら、このグリモアを利用して
ロキをおびき寄せるのも有効。何せアレを使われたら困るのは向こうも同じなのだから、先進国政府連合軍と潰し合って貰え
る。上手く行けば自分はその間に他の懸念事項に対処できる。
カロリーの塊を腹に詰め込みながら、ジークはここから先の事を思う。
懸念事項の一つは、バベルに関する事。
嘘か真か判断できないものの、どうやらバベルの一基の所在に関する情報が、非合法組織の間で売り買いされていたらしい。
しかも、最後の買い手となった組織が壊滅した。
十中八九、ラグナロクが押さえたのだろうとジークは考えている。
二つ目の懸念事項は、フィンブルヴェトの遺産について。
かつて、フィンブルヴェトは世界中にいくつか、様々な用途の設備や装置を設置していた。それらは、先進国連合に裏切ら
れて壊滅する折に、遠隔起爆によって全て破却した。…はずだったのだが、どうも完璧には行かなかったようで、残っていて
は不都合な品の代表格が半壊状態で現存していた。これを、先進国連合が嗅ぎつけたらしい。
何処に設置していた品が残っていたのかまではジークには突き止めきれなかったため、虱潰しに当たってきたが、期待でき
る情報があるので大急ぎで北米まで飛んできた。
その装置が先進国連合の手に渡るのは非常にまずい。何とかして見つけ出して破壊しなければならない。
その設備の名は「双方向転移装置ビフレスト」。人類史上最高最悪の頭脳が作り出した、設定した地点間で装置内にある物
を丸ごと入れ替える…いわゆる瞬間移動装置である。
これを利用すると、現在は何人も立ち入れなくなっているかつてのフィンブルヴェトの拠点…「空中要塞ヴァルハラ」への
侵入が可能になってしまう。
それは、ジークにとって絶対に避けなければならない展開だった。何せヴァルハラの中には多数の「神滅兵装」が保管され
ている。今の人類が扱ってはならない品だとフィンブルヴェトの幹部達が判断し、先進国連合にも存在を秘していた、世界を
滅ぼしかねない様々な兵器が。
(体が二つ欲しいっス。二倍デケェ体でも二倍働けるわけじゃねぇっスから…)
などと、常人の二倍どころではないサイズの巨漢はポテトを鷲掴みにして口に押し込みながら思う。
三つ目の懸念は、パートナーの事。
ブリュンヒルデは動けない。元々、兵器としての運用期間が短い…若い内しか戦えない事は判っていたが、それだけが理由
ではない。
実は、身重の体になっていた事が判明した。他でもないジークとの間にできた命である。
純粋な古代の種であるジーク達は、フォーマットが異なる現行人類との間に子を作る事はできない。が、ブリュンヒルデは
真っ当な現行人類とは言えない。ヴァルキュリアは人工のレリックヒューマン…、つまり旧人類の因子を基に生まれた合成人
間であり、肉体的には旧人類にかなり近い。
フィンブルヴェトがまだ存在していた頃、ジークは友人であり同僚のジャイアントパンダから内密に教えられた。ブリュン
ヒルデとの間になら、低確率ながら子供ができる可能性がある、と。
この可能性を把握していながら、ジャイアントパンダは確認実験を行なわず、推測止まりの話すらもジークと最高責任者の
ふたりにしか教えなかった
そこには自分への配慮もあったのかもしれないが、明るみに出たらどうなるかが嫌と言うほど判っていたのだろうとも思う。
先進国連合が可能性に気付けば、「生きた子宮」の大量生産に踏み切っただろう。「神殺しの獣」ニーベルンゲンと現行人
類のハーフを、量産するために。
もしそうなったならば…。そして、それがジークの故郷に知れたならば…。
(親父と皆は、先進国政府連合を星を侵す脅威と判断して滅ぼしにかかるっスね…。巻き添えでどんだけのひとが死ぬか判っ
たもんじゃねぇっス)
もっとも、生まれてくる子供がどんな生物になるのかも心配だが、ブリュンヒルデ自身の体の事も心配である。
何せヴァルキュリアの妊娠もニーベルンゲンのハーフ誕生も前例が無いので、母体への負担がどの程度かも全く判らない。
妊娠している彼女を連れて回る事はできないため、大事をとって安全な場所に身を落ち着かせている。
正直なところそっちもかなり心配である。ついていてやりたいし、何より安全とは言っても確実ではない。
力が失われつつあるとはいえ、未だに大概の事でどうこうなるヤワな女性ではないが、腹に子が宿っているとなれば、その
武力を十全に発揮するのは難しい。面倒をさっさと片付けて迎えに行きたい。それがジークの本音である。
(最悪の場合は、カンザキにまた手紙出すしかねぇっスか…)
北極熊は、亡き友の家に預けた白虎の事を考える。
(ダウドも自由に動ける状況じゃねぇはずっス。恭順の姿勢を見せるように口酸っぱくして言い聞かせたっスけど、事態はそ
う単純じゃねぇっス。あのバカチンひとに頭下げたり機嫌取ったりすんのド下手糞っスからね…。誰に似たんスかアレ?ミー
ミル?ミーミルっスか。ミーミルっスね。ちっとも空気読まねぇトコとか間違いなくアイツの影響っス。よしミーミルのせい。
オレは悪くねース。それに、何をどう説明したってフィンブルヴェトの一員って認識されてりゃ、特級の危険人物認定は無理
もねぇっス。動くのがまずいのは承知してるっスけど…)
だが、ブリュンヒルデに安全を提供してくれるのは、あそこ以外にないとジークは考える。
(カンザキの婆ちゃんならヒルデを大事に扱ってくれるっス。生まれた子供の個人情報をでっち上げて、一般人に紛れ込ませ
る事もできるはず…。何とか話を通して、カンザキの屋敷に匿って貰えれば安心っス…。ダウドが動けねぇならオレが連れて
くしかねぇっスけど、妊娠中の船旅とかキツそうなんスよね…)
程なくして、ジークが巨大バーガーを食べ終えそうになった頃、地元警察のパトロールカーが、昼食を摂りにドライブイン
に入って来た。
駐車するのかと思いきや、途中で思い直したように減速し、ジークの大型バイクに接近。すぐ傍で停まる。
パトロールカーから降りた警官達は、大型バイクを胡乱げに眺め、歩み寄った。
大型バイクの後部には、布でグルグル巻きにしてある板状の何か。かなり雑に積載してあるそれはサーフボード…では勿論
なくて、ジークが故郷を飛び出す際に持ち出した神滅兵装である。
なお、グルグル巻きの中身が何であろうと、その積み方はバイクの積載ルールに当然違反している。
「マジでヤベェーっスね!?」
慌てて走って行ったジークは、顔を顰めている地元警官達に注意され、小さくなってペコペコ謝った。
月を見上げる白虎は、夜風吹き込む縁側で、湯気立つコーヒーを啜っている。
「寝ないの?」
かけられた声に、ダウドはゆっくりと首を巡らせた。気配で接近を察していたので、突然ではあっても驚きはしない。
「うん?」
応じた白虎の目が映すのは、赤に白の水玉柄パジャマを着た、灰色の毛並みの猫少女。
「夜更かしは体に良くない」
人差し指を立て、すまし顔で言った少女は…。
「…ってお婆様がよく言ってるわ」
悪戯っぽく笑ってウインクする。
「ははっ!まったくだ。ちゃんと言う事を聞いておかないとな。ネネも」
苦笑いして応じたダウドの横に来て、少女も「勿論!すぐ寝ます」と空の月を見た。
「ダウドさんは?もうちょっと夜更かし?」
「いや、寝る寝る。もうすぐな」
「今日もお月見?」
「まぁな」
「好きなの?月」
「月がか?う~ん…」
少女の問いで、ダウドは少し考えた。まぁ嫌いではないな、と。
ただ、好きだから見上げるというのは、理由の一部に過ぎない。一種の執着と郷愁が、月を見上げさせるのだろうと思う。
よく見上げた。出不精なジャイアントパンダをせっついて、月を見たいだの星を見たいだの夜風に当たりたいだのと理由を
つけて、雲より高い所から。いつも居るわけではなかったので時々だったが、北極熊も混ざって一緒に見上げる事もあった。
こうして熱い飲み物を片手に見上げるのも、あの頃の名残り…。
ヴァルハラ。
故郷と呼べる物があるとすれば、自分にとってはあそこがそうだろうとダウドは思う。
二度と帰る事はない故郷。
二度と揃う事はない顔ぶれ。
その郷愁が、飲み物を片手に月を見上げさせる。
いつか薄れるのだろう。この未練は。
いつか消えるのだろう。この迷いは。
「プロジェクト・ヴィジランテ」。
自分がなすべき事は、もう判っているのだから。
「月はな」
少し間をあけてからダウドは口を開いた。
「何処で見てもだいたい変わらないんだよな。飛行機の窓から見ても、地球の裏側から見ても、こうやって縁側から見ても…」
灰色の猫はそのしみじみとした声に耳を傾けながら、月を見つめ続ける。
ダウドは知らない。
この少女が、自分から漏れ出た悲しみと寂しさの思念波を拾いながら、気付かないふりをしている事は。
そして、自分が目的のために動き出した後、その傍らにこの少女が相棒として立つ事も…。